それから数日、吾輩はカイトの家に転がり込んだ。居候というと聞こえが悪いが、まあ実際はその通りである。
カイトは吾輩を『ピエール』と名付けた。
なんでも、猫をよく描いた有名画家の名だとか。なるほど、アーティストというのは、名前ひとつ取っても物語を付けたがる生き物らしい。
しかし吾輩、あの絵の猫よりも艶があるのではないだろか。それにもっとこう、端正で凛々しく、それでいてしなやかで──まあいい。
「なぁん」
今日も吾輩は、あの絵の上でひと鳴きする。
「お前、そんなにその絵が好きなんだな」
そうだとも。吾輩は人間のプラスの感情──情熱、希望、喜び、そういうものを食べて生きている。そして、この絵にはまだそれが残っている。
だから、この部屋のどの場所よりも、この絵の上が心地よい。
吾輩には分かるのだ。これだけは、カイトの本音で描かれているのだと。
筆致ひとつ、色の滲みひとつ、宿った熱の残り方がまったく違う。
──さて、それをもう一度引き出す糸口を見つけなければ。
負の匂いの原因がわかったところで、吾輩が直接取り除けるわけではない。神とて、万能ではないのである。
結局は、人間──本人次第なのだ。ゆえに吾輩たち神は、ただその背中を撫でてやる程度の存在にすぎない。
「なぁん」
吾輩はコロンと絵の上に転がり、尻尾をふわりと揺らした。ついでに愛らしさを強調するべく、瞳を潤ませて見上げてやる。
こうすると人間の母性が喚起されて、感情の流れが分かりやすくなる。
案の定、カイトは苦笑しながら膝を折った。
「ピエールはさ、その絵の何がそんなに好きなんだよ」
「なぁん」
吾輩はもう一度、絵の上の特等席をぽふぽふと尻尾で叩いて見せた。
カイトはため息を落とし、それからぽつりと言葉をこぼす。
「この絵は……俺の原点なんだよ。初めて出したコンテストで優秀賞をもらったんた。あのときは、舞い上がったな。『俺、やれるんじゃね?』って、本気で思ったりしてさ」
ふむ。人間特有の、中毒のように甘くて一度味わってしまったらやめられない成功の味だ。
承認欲求も自己顕示欲も、満たされた瞬間に膨れあがり、止めどなく彼らを走らせる。
そうして息を切らしているうちに走る理由すら見失い、やがて立ち止まり離脱していく。そんな人間を、吾輩は何度となく見てきた。
愚かともいえるし、愛おしいともいえる。それが『人間』という生き物の証なのだ。
「だけど、それっきり。描いても描いても落選続き。前よりずっと上手くなってるはずなのに、誰も見てくれいんだ」
彼は自嘲しながら視線を落とす。その声はひどく弱く、擦り切れていた。
「いつしか、描くことが苦しくなった。あんなに描くのが好きだったのに……。気づけば、『認めてもらうために描く』って、そればっか考えてた。誰か俺を認めてくれよって、ずっと、ずっと願ってた」
なんとも人間らしい告白には、諦めと悔しさと、まだ消えきらない憧れが綯い交ぜになっていた。
吾輩は「よしよし」と心で呟きつつ、そばにあった筆を肉球で押し出した。それはコロコロとカイトに向かって転がっていく。
「……なんだよ?」
「なぁん、なぁん」
「お前を……描けって?」
静かに頷いてやる。
「なぁん」
カイトはしばらく黙り、吾輩と絵と筆を見比べた。
その沈黙の中で、彼の胸の奥で何かがじわりと動き出すのを、吾輩ははっきりと感じた。
「……そうだな。たまには、自由に描いてみるか」
その言葉には、久しく感じていなかった熱が宿っている。吾輩の尾は、自ずと満足げに揺れた。
混ざり合う油絵具の匂いが、空気を変えていく。
カイトは下書きもせず、キャンバスに向かって筆を走らせた。
きっと、行き当たりばったりな絵になるだろう。だが、吾輩はそれでいいと思えた。
見たままに、感情のままに、描きたいという思いのままに手を動かす。カイトがいつの間にか失っていたあの情熱の熱量が、確かに戻っていた。
やがて、カイトが筆を置く。
「……とりあえず、こんなもんか」
肩の力が抜けたような声音だった。ひと段落した、ということだろう。
──さて。待たせてもらった分、存分に見てやろうじゃないか。
モデルというのは、なかなかに骨が折れるものだな。
吾輩が背中を大きく伸ばしたとき、玄関の扉がガラリと開く音が響いた。



