その日、吾輩はたいへん退屈していた。神とはいえ、暇は訪れる。むしろ神だからこそ、暇を持て余しているのかもしれない。
ふらりと街を歩けば、ツンと刺さる冬の匂い。冷えきった空気は、悩みを抱えた人間によく似合う。幸福よりもずっと強い匂いを発するからだ。
そんな折──吾輩の足は一軒の古いアパートの前でぴたりと止まった。
絵の具の匂い。キャンバスの繊維。そして、絶望の色をつけた大きなため息。
──ふむ、この部屋だな。
吾輩は窓をすり抜け、雑然としたアトリエへと忍び込んだ。
そこには、ひとりの青年画家が机に突っ伏していた。
筆は乾き、パレットは放置され、缶コーヒーだけが無惨に積み重ねられている。年齢は三十代半ばといったところだろうが──丸まっている背中からは、見た目以上の老いを感じた。
──カイト、という名か。
無造作に散りばめらるた書類の中から青年の名を知る。
「……もう無理だ。俺には才能なんてなかったんだ」
呟いた青年は、手にしていた書類をぐしゃりと握りつぶした。
──なるほど、なるほど。
だいたいの事情は、彼から放たれている負の匂いで察せられた。
壁にずらりと並べられた絵画。カイトが描いたものだろう。猫の吾輩から見ても、技術的には美しい。だが──惹かれるものがない。
大衆受けを狙っただけの作品ばかりで、描いた本人の生気は感じられなかった。むしろ焦燥や怒りなど、滲み出る負のエネルギーが、絵が増えるたびに濃くなっている。
そんな中で、ひとつだけ吾輩の目を捉えた絵があった。
床に置かれたキャンバス。埃はついていないから、決してゴミではないのだろう。
ひょいと覗き見れば──うむ。なんとも、粗だらけだ。構図はあと一歩、色の乗せ方も荒い。
だが、そこには確かに純粋な情熱が宿っていた。
おそらく、カイトが絵を描き始めた頃のものなのだろう。どうしようもなくまっすぐな心が、そのまま残っている。
夢を追い続けた者の香り。無垢でひたむきで、まさに生きている情熱だ。
──なるほど、なるほど。
吾輩はすべてを悟った。
最初は楽しく、無我夢中で描いていた。だが、いつになっても彼の個性が認められることはなかった。
絵が上手くなった反面、受けを狙うだけの作品しか描けなくなった。
それでも結果は出ない。コンテストの落選通知を握りつぶす手のシワだけが増えていく。
だから、背中が老けて見えたのだろう。失望と現実、そして諦めかけた夢の重さ──すべてが滲み出ていた。
吾輩は気に入った。
──よし。
一瞬の跳躍で、吾輩はキャンバスの縁に飛び乗る。古びたアトリエの床に散った夢の残骸が、跳ねた尻尾にまとわりついた。だが、そんなものは気にも留めない。
床に置かれたキャンバスには、油絵具の匂いがわずかに残っていた。
それは絶望と疲労が沈むアトリエの中で唯一、生きている匂いだった。
吾輩はその絵の中心にどっしりと香箱座りを決める。
吾輩は知っていた。人間は猫のこのポーズに弱いのだ、と。品の良さと可愛らしさを兼ね備えた、猫という生き物の最も強力な姿勢なのだ。
そして、ゆっくりと喉を震わせ、柔らかな音色を落とす。
「なぁん」
「……!? 猫!? なんで、いつの間に!?」
カイトは弾かれたように顔を上げた。
くしゃくしゃの髪に、目の下にはうっすらと影が刻まれている。目まぐるしい焦りと困惑が、その顔にいっぺんに浮かんだ。
ふむ。まあ、驚くのも無理はない。
外は冬の夜。窓は閉め切られ、扉には鍵までかけてある。
だが、猫とは『いつの間にかいる』生き物だ。
まして吾輩は猫神様である。現れ方なんて選び放題なのだ。
「お前! その絵の上で寝るなよ!」
カイトが慌てて駆け寄ってくる。
転がっていた筆を踏み、あやうく滑りかけながらも手を伸ばしてくるのが、なんとも人間らしい。
吾輩はちらりと彼に視線を送った。
この絵をゴミのように床へ放っておきながら、いざ吾輩が座ると慌てふためく。
つまり、彼にとってこれは捨てられない記憶なのだ。それを人間は──未練と呼ぶ。
「おい、どけよ」
カイトが吾輩を持ち上げようとしても、吾輩は動かない。
つつかれても、両腕で抱え込まれそうになっても、じっと絵を守るように背を丸め、身体の重みを預ける。
猫は気まぐれだが、退かぬと決めたときはテコでも動かない生き物なのだ。
「なんで……そこに座るんだよ。それ、汚したくないのに……」
汚したくないなら、片付けておけばいいものを。
だが片付けられないということは、まだ終わらせたくないということ。
この絵だけが、彼の中でまだ消えていない火種なのだ。



