「あー、昨日はやばかったー。鼻血が止まらんかった」
「鼻血?」
「うん。鼻血止まらんで休んだ」
 翌日の朝、健吾は鼻にティッシュを詰めたまま歩いていた。
 血はすでに止まっているけれど、ふとした瞬間に吹き出すとか。それで予防のために詰めているらしい。
 爽やかなイケメンがそれでいいのか。
 そんな僕の心配をよそに、健吾は堂々と新しいティッシュと交換をしていた。
 学校までの道のり。
 僕は健吾の話を聞きながら頷いていると、すこし先に背高のっぽを見つけた。
 かすかに見える青いネクタイ。
 それだけで、あれが嶋本くんだと判断できた。
 だからと言って、何かするわけではないけれど。
「——ということで蒼汰、俺が鼻血止まんなくなった原因のブツを持ってきたよ」
「……ブツ?」
「うん。エロ本、あとで貸す。兄貴から借りてきた」
「は、え、いや、いらないけど!?」
「バッカおめぇ……男のロマンだろうよ……読んで鼻血出せよ……」
 肩に腕を回され、健吾の方に引き寄せられる。
 耳元で囁くイケメン健吾。ティッシュを鼻に詰めた状態でも、女子から見れば『可愛い!』のだろう。
 僕は溜息をつきながら、されるがまま歩く。
 校門まで、あとすこし。
 まっすぐ進行方向に目を向けると、いつの間にか振り返っていた嶋本くんが、僕の方をじっと見つめていた。
 その視線に触れた胸の奥が、ほんのすこしだけざわついていた。



 今日の放課後は、図書委員会の当番の日だった。
 ひとりで図書室に行き、いつもの角に置かれた椅子に座る。
 お気に入りの本を開いて、物語の世界へ——行こうとするも、入り口に現れた人物に阻止される。
 嶋本くんだった。
「……せ、先輩」
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
 ぺこりと頭を下げて、図書室に入ってきた。
 大きな体に似合わず、大人しそうな雰囲気にギャップを感じる。
 銀縁眼鏡は相変わらず、光を跳ね返していた。
「先輩、隣、座ってもいいですか?」
「……いいですけど」
 ためらいなく許可を出すと、嶋本くんは嬉しそうな表情を浮かべた。
 断る理由も思いつかず、すこしだけ胸が落ち着かなくなる。
 今日も嶋本くんの肌は真っ赤になっていることに気づいた。でもそれには気づかったふりをして、瞬時に視線を逸らす。
 近くにあった椅子を引き寄せて、隣に並べた。そしてトントンと椅子を叩いて座るよう促すと、さらに嬉しそうな表情を見せる。
「……」
 人懐っこい大型犬みたい、なんて思ってしまった。
 本人には口が裂けても言えないけれど。
 嶋本くんはわかりやすく喜んだあと、制服のポケットから1冊の文庫本を取り出した。その本をパラパラとめくって、栞が差し込まれたページを開く。
「……嶋本くんも、本を読むんですね」
「は、はい。といっても、キクラゲ祥平(しょうへい)先生の作品が好きなだけですが。あの……作家読みというやつです」
「キクラゲ先生いいですよね。僕も好んで読みますよ」
「ほんとうですか!?」
 僕との共通点が見つかると、警戒していた心は簡単に解けていく。
 それは嶋本くんも同じだったようで、緊張感のあった表情がすこしだけ和らいだ。
 持っていた文庫本は、かつて僕も読んだことのある本だった。つい作品を語ってしまいそうになったが、ネタバレになるから必死に堪える。
 嶋本くんは、自身が生み出す感情に対して、大変素直な子だと思った。
「先輩は、どの作家さんが好きですか?」
「んー……僕は固定の作家さんに絞って読んだりはしないです。書棚を眺めて、読みたいって思った本を読むんです。だからライトノベルも、ブルーライト文芸も、一般文芸も純文学も、児童書も、なんでも読みます」
 嶋本くんは、目を輝かせながら僕の話を聞いていた。
 銀縁眼鏡の奥で、嬉しそうに瞳が揺れる。その純粋な感情が、また眩しく見える。
 今まで彼のことはまったく知らなかったけれど、話してみると真面目でいい子で、素直な子だということがよくわかった。
 ただ、なぜ僕のことが好きなのか、その理由だけはわからないままだった。