本が好き。だから、図書委員会に入っている。ただそれだけ。
 1年の頃から委員会で真面目に働き、今年で3年目。今は委員長を任されている。
 放課後と昼休みは、図書室にいる。本の貸出や返却業務をこなしながら、ほんのすこしの読書時間を楽しむ。
 とはいっても、本を借りにくる生徒なんてほとんどいないから、ただの読書時間といっても過言ではない。
 図書室の角。
 カウンターからすこし離れた位置に椅子を置き、窓にもたれるように天井を仰ぐ。そして手に持っていた本を持ち直して、視線を下に落とす。
 背後から感じる太陽の温もりが心地よい。
 読書にピッタリなこの場所が、ずっと僕の特等席だった。
「上條くん、お疲れさま」
佐倉(さくら)先生、お疲れさまです」
 顔を上げて軽く一礼をすれば、先生もまた一礼をする。
 ニコッと微笑んだ先生は図書準備室に入っていき、また部屋には静けさが訪れた。
 至福の読書時間。そう思いゆっくりと本に視線を落としたとき、ふいに昨日のことを思い出した。
 謎の後輩による、突然の頬へのキス。
 到底理解なんてできないし、許せるものでもない。でも、思い出してしまうたびに心臓がじわっと熱くなる。ほんとうに、意味がわからない。
「……はぁ」
 読もうとしていた本を閉じて、窓の外を見た。
 紅葉がひらひらと舞い落ちていた。



健吾(けんご)、見知らぬ人の頬にキスする心情って、なんだと思う?」
「……は?」
 親友の竹中(たけなか)健吾(けんご)は、ぽかんとしたまま僕を見つめた。
 図書委員の仕事がない日の昼休み、健吾と一緒に屋上でご飯を食べていた。
 夏の暑さは遠ざかり、冬に限りなく近い秋のこと。
 制服のジャケットだけだと、かすかに肌寒さを感じる。冷たい風がそっと吹けば、僕と健吾の赤いネクタイが優しく揺れた。
「それって……蒼汰(そうた)の〝好奇心〟から来る質問ってことでいいん?」
「あーいやぁ、好奇心というか……」
 なんとなく口にした言葉を、自分でもうまく説明できない。どうすればいいのかわからなくなって、僕は健吾から目を逸らした。そしてそのまま、つい下を向く。
 健吾は不思議そうに首を傾げていた。
「あ、じゃ、じゃあさ、健吾。見知らぬ人に突然キスしたいって思う?」
「……はぁ? ホンマにどうした、蒼汰」
「……」
 つい出てきた言葉に、自分で言っといて恥ずかしさを覚える。
 それを紛らわせるために、弁当に入っているおにぎりを箸で掴み、ひとくちかじった。
 やっぱり変だ。あの後輩のせいで、なんだか僕自身がおかしい。
 僕が別に気にすることではないのに、気になってつい口から出てきてしまう。
 健吾は今も不思議そうだった。
 手に持っていたクロワッサンを適当にかじり、「んー」と声を上げる。そして「あ」と声を漏らし、ニヤッとしながら僕を見た。
「蒼汰」
「ん?」
「蒼汰は恋愛経験がないから教えてあげるけど。キスって、人を好きになってするもんじゃないよ。両想いになって、初めてするんだから」
「……」
 すごいドヤ顔で言われたけれど、なんだこれ。
 残念だが、そのくらいは知っている。
「まぁわかるよ。キスしたくなる気持ち。でも、物事には順序ってのがあるから」
「……」
 肩、ぽんぽんと叩かれる。
 健吾は何を想像しているのかわからないけれど、なんとなく不満が募る。
「いや、だから健吾。これ、僕の話じゃなくてね」
「隠さなくていい。それより、俺は蒼汰と恋バナができると思うとワクワクするんだけど!!」
「だから、僕の話じゃないから」
「友よ、照れるな!」
「……」
 肩をしっかり抱かれて、思わず溜息が漏れた。
 健吾には同級生の彼女がいる。爽やかなイケメンということもあり、女子からの人気も高い。けれど、人の話を聞くという面ではすこし難あり。
「……」
 水筒を手に取り、人肌くらいの温度になっているお茶を飲む。
 あのとき、頬にキスしてきた後輩の顔を思い出そうとしても、銀縁眼鏡しか思い出せなかった。光を跳ね返した銀縁眼鏡だけが、妙に鮮明に焼きついていた。