いつまでも逃げられるとは思っていない。
気持ちに答えられないなら、潔く振ればいい。でも、それができないのはなぜか。その理由は、もう考えなくたってわかっていた。
名前を呼ばれるだけで、胸が跳ねる。
泣きながら抱きしめられた体温が、まだ腕に残っている。
昨日、雨の下でうるさく音を立てた心臓の音は、きっと全部——僕自身のもの。
だから、僕は——。
「……嶋本くん」
放課後、終礼が終わってすぐに2年生の教室に行ったけれど、僕は嶋本くんのこと、何も知らなかったのだと痛感した。
彼が何組なのか。それすらもわからなかった。
手前の5組から順番に教室を覗き、背高のっぽを探す。
青の中に混ざる赤は異様なほど目立つ。それでも、僕は探し続けた。
そして2組のところまで来たところで、教室から出ようとしていた背高のっぽを見つけることができた。
鞄を肩に掛け、驚いた表情をしていた嶋本くんは、一瞬で全身が真っ赤になった。
「……えっ、上條先輩……?」
「嶋本くん、会いたかった。すこし時間をください」
「……」
彼の周りにいた女子たちは「え、今日遊ぶんじゃないの!?」と叫ぶ。でも彼はそれに返事をしなかった。
僕の誘いに、小さく頷く。
それを肯定ととらえて、僕は彼を屋上へと導いた。
◇
ひらひらと雪が舞い落ちていた。
さすがに制服だけでは寒い。自分で屋上を提案しておきながら、さっそく後悔をする。
寒さで両手を擦りながら暖を取り、目の前で棒立ちしている嶋本くんを見つめる。彼はいつも通り、耳まで真っ赤になっていた。
「……嶋本くん、ごめんなさい。呼び止めてしまって」
口から心臓が出てきそうなくらい、うるさく音を立てていた。
僕はゆっくりと嶋本くんに近づき、距離を縮めていく。
嶋本くんは固まったように僕を見ていた。
雪の白が、彼の黒髪に落ちては溶けていく。それが幻想的に思えて、よりいっそう心臓がうるさくなる。
言いたいことは考えていた。
でも、それらはイメージ通りに口から出てきてくれない。
「嶋本くん……また、図書室に来て欲しいです。隣で、一緒に本を読みましょう」
精一杯の言葉。それを口にして、そっと彼の制服の袖を掴む。
僕の方が先輩なのに、なんてみっともないのか。出てきた言葉の稚拙さに嫌気が差しつつ、そっと彼を見つめる。
嶋本くんは瞬きひとつしないまま、一筋の涙を零していた。
それを機に、次々と涙が零れ落ちていく。
「先輩のこと、好きです。好きです。夢みたい……ほ、ほんとうに、隣にいてもいいんですか? ほんとうに、また図書室に行ってもいいんですか……?」
「……もちろんです。だってきっと、僕だって君のことが——」
好きだから。
それが声になる前に、途中で遮られた。
すこし屈んで目線を合わせてきた嶋本くんは、目にたくさんの涙を浮かべたまま、そっと唇を重ねてきた。
外気で冷たくなっていた唇が、わずかに温もりを取り戻す。
嶋本くんは泣いていた。
泣きながら、角度を変えながら、何度も唇を重ねた。
「……っ、嶋本、くん」
冷たいはずの雪が、どこか遠くに感じる。
唇に触れる温度だけが、世界の中心みたいだった。
僕は息継ぎの合間に名前を呼ぶ。それでも、彼は離れなかった。
泣きながら、震えながら、それでも真っ直ぐ僕を見つめて、僕を全力で求めてくる。
「嶋本、くん……」
ようやく彼が唇を離したとき、頬に残ったのは彼の涙だった。
「先輩……先輩。好きです。止まらなくて、ごめんなさい。キスして、ごめんなさい……」
「もう、泣かないでください。泣きすぎです」
明るくいつも通りの声色でそう言おうと思ったけれど、僕の声も引くほど震えていた。
ふたりして体を震わしながら、見つめ合いゆっくり微笑む。
「上條先輩……好きです。ずっと、ずっと、好きです……」
「……はい」
雪が舞い続ける。
冷たい空気の中で、僕の胸はずっと熱くて、痛いくらい騒ぎ続ける。
目の前の彼は、涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。止まることなく零れる涙、それを僕はそっと自分の袖で拭う。けれど「し、神聖すぎて……」と呟いた嶋本くんは、結局余計に涙を零す羽目になる。
「僕も、たぶん……いや、きっと、絶対、君のことを好きになっています」
「……先輩……」
「だから僕と、お付き合いしてくださ——」
言葉は、また途中で遮られる。
次の瞬間、嶋本くんはまた僕を抱きしめた。
強く震える手で、強く、強く抱きしめる。でも、壊れ物を扱うみたいに優しくもあった。
「先輩、先輩……っ」
「嶋本くん」
子どもみたいに、嗚咽を漏らしながら泣き続ける。
雪が降る屋上で、なんとなく僕たちは今日、同じ場所に立つことができた気がした。



