「……」
雨が降っていた。
気温が上がったのか、雪から雨に変わり、しかもその雨は強くアスファルトを打ち付ける。
僕は折りたたみ傘を差して昇降口を出た。
こういうことがあるから、傘を置いておくのは非常に有効だ。なんて考えながら、校門に向かって歩く。
その道中——シンボルとして植えられているイチョウの木の下で、傘も差さずに立ち尽くしている嶋本くんを見つけた。
彼は呆然と上を見ていた。
木の下とはいえ、葉はすでに散り、雨宿りにはならない。
髪からは水が滴り、制服は重たそうな色に変わっていた。
銀縁眼鏡は水滴に覆われて、視界は不鮮明なように思える。
「……し、嶋本くん」
僕が彼の名を呼ぶと、気だるそうだった瞳にほんのわずかな力がみなぎった。
「傘は? 風邪、引きます」
「……上條先輩」
僕の名前を呼んだ彼は、ふっと小さく笑顔を浮かべた。
そして僕の方に歩み寄ってきて——そのまま、僕を強く抱きしめた。
「し、嶋本くん!?」
「ごめんなさい、先輩。先輩が答えを出すまで、ずっと待つって言いましたけれど。どうしても、我慢できません。ごめんなさい、ごめんなさい、好き、大好きです先輩……うぅ……先輩、せんぱ——」
「待って、落ち着こう!?」
嶋本くんに抱きしめられたまま身動きが取れない。
できる限りの抵抗をし続けたけれど、その腕から抜け出すことはできなかった。
僕が手に持っていた折りたたみ傘は、地面に落ちて行く。
雨音だけが響く校庭。ふたりして雨に打たれた。
制服が張り付き、お互いの密着度が上がる。頭を下げた嶋本くんの顔が僕の真横に来て、かすかに荒い呼吸を間近に感じることになる。
体温がもどかしい。
距離感がもどかしい。
呼吸がもどかしい。
うるさい心臓の音は——どちらのものか。
「……嶋本くん、ほんとうに離れてください。風邪引きますし、どこに人の目があるかわかりません」
「風邪なら引いてもいいし、誰に見られたっていいです」
「よくないですって!」
「わかっている! わかっていますけど……それ以上に離れたくないんです」
あまりにも声が震えていた。
真っ直ぐすぎて拒否ができない。これ以上、抵抗を見せるのは困難だった。
「……だいたい、どうしてこんな場所に立っていたんですか?」
「……ほんとうは、帰ろうと思っていました。でも、先輩に会いたいって思ってしまいまして。ここなら、先輩が帰るとき、絶対に通るじゃないですか」
「そうですけど……」
嶋本くんの指先が、僕の制服をぎゅっと掴んだ。
僕よりも遥かに大きな彼が、今は僕よりも小さく見える。肩が勝手に震える。僕の視界が霞むのは、雨なのかなんなのか、それすらも判別がつかない。というか、理解したくない。
「ずっと待つって言いましたけれど、待てません。先輩のそばにいたくて、声を聞きたくて、顔を見たくて——」
雨音すらも、遠のいて行くような気がした。
ふたりだけの世界で、非現実が僕のすべてを攫って行く。
「……え、先輩、泣いているのですか?」
「な、泣いてないです……」
なんて強がってみたけれど、ほんとうは涙であることくらい、僕にはわかっていた。
嶋本くんはそっと手を動かし、人差し指で僕の涙を拭っていく。
雨と涙が混じり、どっちがどっちなのかわからないはずなのに。彼の動きは正確で、涙ひとつ取り残さない。
「泣かせてしまってごめんなさい。上條先輩、好きです。やっぱり、どうしようもないくらい、大好きです。ずっと、大好きです」
「……」
雨音よりも優しく、でも雨よりも深く響く声だった。
僕は何も言えず、ただ嶋本くんの腕の中で、静かに涙を零し続ける。
離れようとすればできたはずなのに、体はこれ以上動かなかった。
ひとりぼっちだったら、きっともっと泣いていた。
そんな自分を認めたくない。でも、胸の奥ではひどく安堵している自分がいた。



