「彼女と別れた」
「……え?」
朝っぱらから、健吾は負のオーラを放つ。
爽やかさはどこへ行ったのか。イケメンとは程遠い鋭さ満点の三白眼で、猫背気味に歩いていた。
「急展開すぎるんだけど。どうしたの?」
「……が、見つかった」
「ん?」
聞き取れなかった。
健吾に顔を近づけて「聞こえない」って言うと、健吾はポロポロと涙を零し、大きな声を放った。
「エロ本が、見つかった!! 爆乳が好きで、本を見てたの、彼女に見つかった!! 彼女とは正反対だから、キレられたんだよ!!」
「うわあああああ!?」
僕は咄嗟に手を伸ばし、健吾の口を塞ぐ。
学校までの通学路。ここでエロだの爆乳だの言われても困る。
そこからずっと、健吾は「爆乳がァ……」と呟いていた。
落ち込んだ健吾の様子を見た近くの女子たちは、何を思ったか「可愛い!」って言っていたけれど、本人はそれどころではない。
「別れた彼女より……脳内は爆乳に支配されてんじゃん……」
「好きなものこそ、正義!! それを受け入れてくれない人とは、彼女と言えど許されない!!」
「イケメンなのに、もったいなさすぎる」
僕の呟きは、健吾に届かない。
溜息をついて、空を見上げる。
小さく息を吐くと、昨日言われた嶋本くんの「好きでいさせてください」が、繰り返し再生された。
◇
久しぶりに、図書室は静かだった。
業務が終わるまで、誰も来なかった。嶋本くんも来なかった。
図書室の角。
太陽の光が差し込む、僕の特等席。
この間、嶋本くんが持っていたキクラゲ祥平先生の文庫本を開き、軽く天井を仰ぐ。
すこし離れた位置でパチパチと音を立てるのは、昔ながらのストーブ。
静かだった。
今まではこれがあたりまえだったのに。
この静けさが、今は違和感に思えて仕方がなかった。
「……静かね」
「……佐倉先生」
図書準備室から出てきた佐倉先生は、カウンターの椅子に座って僕の方を向いた。
何か意味ありげな微笑みを浮かべたまま、そっと頬杖をつく。
「私、上條くんの〝青春〟を目の当たりにしている気がして。幸せなの」
「そんな単純なものではないです」
「わかっているわよ。でも、なんだろう。すごく幸せ。彼がいい子だと、わかっているからかしら」
「……」
僕は何も言えなかった。
微笑んだままの佐倉先生は、さらに口角を上げて頷く。そして椅子から立ち上がり、図書室を後にした。
「……」
寂しい、って思った。
素直で直球すぎる嶋本くんの行動は、正直理解しがたい。でも、それがなくなると、どこか寂しく思えてしまう。
唇に手をやると、指先に残る記憶が、余計な熱まで呼び起こした。
こんなふうに思い返している自分を認めたくない。だけど事実であることに変わりはないから、ひどく面倒だった。
手に持った文庫本に視線を落とす。
適当にページをめくっても、文字が目に入らない。
頭の中はキクラゲ先生の文章ではなく、嶋本くんの言葉でいっぱいになっていた。
『——好きでいさせてください』
呟くように、その言葉がまた蘇る。
思い返したくないのに、その意志とは相反して胸の奥がじんわり温かくなる。
この温もりはなんなのか——なんて、ほんとうは答えなどすでにわかっている。
怖い。認めたらもう戻れない気がするから、認めるのが怖いんだ。
「……」
窓の外では、今シーズン初の雪が舞っていた。
ストーブの音だけが響く図書室は、僕の感情を露わにする。
開いていた文庫本をそっと閉じる。
胸の奥が騒ぎ続けるまま、僕はゆっくりと目を伏せた。



