別に、男性が好きなわけではなくて。むしろ、恋愛対象は女性で。
 高校生になって好きになった人がいたけれど、その人は別の男と付き合い始めて終わった。
 それから好きな人なんてできなくて。ただ健吾と適当に過ごしつつ、図書室で本を読む時間がほんとうに楽しくて。平凡な高校生活だったけれど、僕はそれで満足だった。

「……嶋本くん、落ち着きましたか?」
「……はい。ほんとうに、ごめんなさい」
 佐倉先生が図書室に《利用時間外》の札を掛けてくれた。
 図書委員の業務担当も帰宅させ、佐倉先生も職員室に戻った。静かな図書室には、僕と嶋本くんのふたりだけがいた。
 ふたりして床に座り込み、書棚にもたれかかる。
 淡く差し込む太陽の光が僕らを照らし、静かだけど、どこか居心地のいい空気感に包まれていた。
 嶋本くんは眼鏡を外したまま、呆然と遠くを見つめていた。
 全身だけではなく目まで真っ赤に染めて、すこしだけ僕に寄り添う。
「……上條先輩は、自分にキクラゲ祥平先生を教えてくださったんです。覚えてますか?」
「えっ?」
 突然放たれた一言に、僕は驚きを隠せない。
 嶋本くんは僕に目もくれず、マイペースに言葉を続けた。
「1年生の夏。読書感想文を書くのに、なんの本を読めばいいのか悩んでいたんです。そのとき、本を教えてくださったのが、貸出当番だった上條先輩でした」
「……」
 記憶を巡らせる。けれど、すぐには出てこない。
 何も言えずに固まっていると、嶋本くんはさらに続けた。
「教えていただいた本がほんとうに面白くて、それからもキクラゲ先生を中心に、図書室で借りては読んでいました。ずっと、先輩とお話をしたいと思っていました。でも、先輩が読書をしている光景が、あまりにも美しくて。邪魔してはいけないと思って遠くから姿を見ていました」
「……美しいって……」
 意図せず、言葉が漏れた。
 まさか僕が——そんなふうに見られていたなんて。嘘でしょう、と笑い飛ばしたいのに、喉の奥が熱くて言葉にならない。
「先輩は、こんな自分のこと、気持ち悪く感じますか?」
「……いや、そんなことはないですけど……」
 キスだって、別に嫌ではなかった——なんて、言えない。
 でも、彼の言う〝好き〟と、僕のこの感情がイコールかと言われると、まったく自信がない。
 僕は彼のことが好きなのか。
 それとも、好意を寄せられて気持ちがなびいているだけなのか。
 その判断は、今の僕にはできなかった。
「先輩……好きです。気持ち悪く感じないなら、お付き合いしてください」
「……で、でも……」
「お付き合いして、その上で自分のことが気持ち悪かったり、好きになれないなら、ここで潔く離れます。だから、お願いします」
 目は赤く腫れていたけれど、その眼差しは真剣だった。
 泣き虫の後輩は、僕に右手を差し出す。誰が見ても震えているとわかるその揺れに、僕は思わず唾を飲み込んだ。
「……」
 同じようにゆっくりと右手を差し出し、触れる手前で動きを止める。
 そして彼の手を握らず、軽く触れるだけに止めて、小さく息を吐き出した。
「ごめんなさい……中途半端に優しくする方が、よほど失礼です」
「……先輩……」
「でも、僕は君のことが嫌いなわけじゃない。それだけは、ご理解ください」
 精一杯の回答だった。
 嶋本くんは瞳を揺らし、そっと唇を噛む。そして小さく頷いて、無理やり口角を上げた。
「やっぱり、先輩は優しいです」
「……優しくなんかないです」
「自分……先輩に受け入れてもらうか、しっかり振られるか、どちらかされるまで、ずっと待っています」
「……」
「だから、これからも好きでいさせてください」
 彼は背筋を伸ばし、僕に向かって直角な一礼をする。
 そのまま扉に向かって猛ダッシュをして、勢いよく図書室から去って行った。
 中途半端が、いちばん良くない。
 そんなこと、わかっているのに。
 うるさく騒ぎ立てる心臓が痛い。
 胸の奥で暴れ続ける鼓動を落ち着かせたくて、ネクタイの結び目を指で掴んだ。小さく姿勢を丸めると、情けないほど深い溜息が漏れた。