「あ、センセイ! 今日は遅かったんですね」

 昇降口を出たところで聞き慣れた声が響く。
 ヘラヘラと笑いながら近づいてくる下級生・鴻崎千紘(こうざきちひろ)を視認して、俺は小さく舌打ちをした。
 寝ぼけ顔だろうが、媚びを売ってくる顔だろうが、整っているヤツは元々のビジュアルが満点に近い。
 悔しいけれど数秒見惚れたなんて不覚だった。
 その反応が得られることなんて確信してたくせに、してやったりみたいな表情までトッピングしてくるからたちが悪い。

「センセイ呼びはやめろ。お前との年の差はふたつしかないのに、教師と生徒で親密にしてると知らないやつから誤解されるだろ」
古宵(こよい)センセイ、オレと親密にしてる自覚あるんですね」

 よかったですとニヤけても、崩れない顔は恐ろしい。
 レスバも強そうな下級生は、人の言動を自分の都合いいように解釈してしまう。
 甘え上手な年下の良さを最大限利用することをこいつは知っている。
 近づいてくる相手からの善意の贈り物は、貢いでいると気づかせぬままあざやかにもらい受ける。
 怪盗紳士なんて称されている顔の良すぎるクズ男は、この前まで中学生だったとは思えない太々しさを身につけていた。
 まともに見つめるとぐらつく容姿を直視はせず、俺は指定カバンから1枚の書面を取り出した。

「これは君に」
「センセイ自作の婚姻届ですか? 無記名ならプレミア価格で売れそうですけど、オレたちの婚姻届だけが特別っていうのロマンチックですね!」
「はあ? 何言ってんだよ。日本の法律知らないのか?」
「オレたちが成人するころには色々寛容になってそうですし、お互いの名前書いて保存してれば婚約成立ですよね」

 頬に手を添え、『感激』を伝えるスタンプに並びそうな表情を鴻崎がしてみせる。後輩のあざとさに屈することなく押しつけたのは、図書委員から渡された督促状だ。
 入学してすぐ後にあった図書館オリエンテーションで借りた本をこいつはまだ返却していないらしい。
 シリーズ本の途中だから、できるだけ早めに返させてよと委員長にキツめの口調で言われたが、俺はこの1年生の友人じゃないし恋人でもない。

「あぁ、これ督促状かぁ。そういや、なんか借りたような気がしてきた」
「君が図書館を初回しか利用していないのがよくわかる発言だな。学習スペースも広いし、県内の高校だと蔵書数も多い方だって以前の司書が……」
「それ、1年生の時に言われたの覚えてたんですか? 良いなぁ。他人にあんまり興味ない古宵センセイに覚えててもらえるんなんて」

 現役高校生作家をしている俺は、インプットする情報量が人よりも多い。
 大学まで何事もなければ進学できる私立高校なので、受験勉強にすべての熱をつぎ込む必要はないが、それでもまったく学習しなくて済むわけじゃない。
 ひととおりのことを経験するために俺はここにいる。
 人生経験を積むために、色んな職種のバイトもしてみたいし、他人との交流にだって世界を広げる意味があった。
 そうやって創作活動を基盤に物事を見ている俺にとって、相手への過ぎた関心は創作のノイズになることもある。

「考えることが多すぎて、細かいことを覚える気がないだけだ」
「創作者の悲哀ってやつですよね」

 わかったような口をきくくせに、こいつは自分を俺に売りこみたくて仕方ないらしい。
 同じ高校に通うNPCではなく、ネームドキャラになりたい、見せ場も欲しいと態度と言葉で示してくる。
 卒業まで1年もないから、オレは必死なんですが口癖で、それまでになんとかこちらの気持ちを獲得したいそうだ。

 性別やポジションに強いこだわりはないが、俺にはとにかく時間が足りない。
 恋愛経験もそれなりにあった方がいいのだろうが、何かを得ようとすれば何かが犠牲になる。
 学業と仕事だけで手一杯なので、誰かと交際する余裕はまったくなかった。
 恋愛の疑似体験として、面白そうな数名を観察していた時期もあったが年齢差のない一般学生の日常なんて、見ていてそれほど創作意欲につながることもなかった。

 その点、何故か俺になついてきたこいつは違う。
 どの角度から見ても編集した動画のように隙がなく、何をしていても絵になる稀有な人間だ。

 カラーを入れなくてもハニーブラウンに近い髪。
 目だって灰色みが強くて、キャラクリで作成した理想の男子みたいなところがある。
 大人びているくせにどこか甘い。絶妙なバランスが天才の所業だ。
 ルーツまでは知らないが、肌も白いしハーフかクォーターじゃないのかと入学当初は噂になっていた。
 付き合った相手に食事やイベントで大金を使わせて、ブランド品やパソコンなんかも巻き上げたという嘘みたいな話も耳に届いている。
 他より際立つ人間は何かと敵を作りやすい。
 すべてが作り話とまでは思わないが、アンチのくだらない妄想で組み上げた世界には粗が多かった。

「古宵センセイ、今日は何をおごってくれるんですか?」
「君がいつもそんな感じだから、誤解を招くんだろうな」
「え、あぁ、財布の紐もゆるめちゃう系男子ってやつですね」
「君ってタフだし、ポジティブだなぁ。実際の噂じゃそんな可愛いもんじゃないぜ? まぁ、自分でしっかり稼いだ金を俺がどう使おうが自由だし、良い飯食いたいお前のゴマすりを見てるのは飽きないから別にいいけど」

 食べ盛りで、映える食事をSNSで見ている10代男子が人の金で美味いものを食べたいと思うのは自然の流れだ。
 生活をひっ迫させるようなことは避けるべきだが、好きな人や親しい人を喜ばせたい一心で行う多少の浪費はモチベーション維持にもつながっている。
 
 取材がてら色々な店で食べて回りたい気持ちはあっても俺にはそれらが消化できない。
 祖父が孫にたくさん食べてほしいと望むような気持ちで、俺は鴻崎の胃を満たしているのだと思う。
 料理や内装、雰囲気なんかもネットの情報だけでは作品には落とし込めない。同じような理由で近場のテーマパークやイベント参加など、取材の一環としてこいつを借り出しているのだから、食事代やチケット代くらいこちらの負担で問題なかった。
 カモにされているとしても金の無心をされたことはないので許容範囲だった。