佳奈恵が五歳になった誕生日の朝、居間のテーブルの上には、薄桃色の包装紙に包まれた箱が置かれていた。
母が淹れた麦茶の湯気が、春の柔らかな光の中で揺れている。
「かなえ、お誕生日おめでとう」
父が穏やかな声でそう言って、箱を差し出した。
佳奈恵は小さな手で包装紙を破り、箱を開けた。
中には、灰色と白の縞模様をした猫のぬいぐるみが入っていた。
ふわふわとした手触りで、黒いビーズの目がきらきらと光を反射している。
「わあ! うれしい!」
佳奈恵は歓声を上げて、ぬいぐるみを抱きしめた。
母は優しく微笑み、父は満足そうに頷いた。
「気に入った?」
「うん、かわいい!」
佳奈恵はぬいぐるみの頭を撫でた。
柔らかい感触が、手のひらに心地よく伝わってきた。
「名前、つけてあげなさい」
母の言葉に、佳奈恵はしばらく考え込んだ。
そして、ぬいぐるみの顔をじっと見つめながら、小さな声で言った。
「ニャム」
「ニャム?」
「うん、ニャム」
それ以来、佳奈恵はニャムを片時も離さなくなった。
朝起きるとニャムに「おはよう」と声をかけ、ご飯を食べるときもニャムを隣に座らせ、夜寝るときはニャムを抱いて眠った。
母は最初、その様子を微笑ましく眺めていた。
子どもが想像の世界で遊ぶことは、成長の過程で自然なことだと思っていたからだ。
佳奈恵が一人でニャムに話しかけながら遊んでいる姿は、母の心を和ませた。
しかし、ある日の午後、母の心に小さな違和感が芽生えた。
「ママ、ニャムがしゃべらなくなったんだけど」
佳奈恵は困ったような顔でそう言った。
母は洗濯物を畳む手を止めて、娘を見た。
「そうね、ニャムもしゃべれたらいいね」
母は穏やかにそう返した。
だが、佳奈恵は眉をひそめた。
「違うの。さっきまで、ニャムはしゃべっていたもん」
佳奈恵の声には、妙な力が込められていた。
母は胸の中で小さな不安を感じた。
ぬいぐるみがしゃべるはずがない。当たり前のことだ。
けれども、娘は本気でそう信じているように見えた。
「かなえ、ニャムはぬいぐるみだから、しゃべらないのよ」
「でも、しゃべってたもん!」
佳奈恵は頑なにそう繰り返した。
母はどう対応すべきか分からず、困惑した。
もしかしたら、娘は現実と空想の区別がつかなくなっているのではないか。そんな不安が、母の心を覆い始めた。
その日から、母は佳奈恵の様子を注意深く観察するようになった。
だが、佳奈恵は次第にニャムの話を母にしなくなった。
娘なりに、母の反応を察したのだろう。
母はそのことに安堵したが、同時に、娘との間に小さな壁ができた気もした。
真実は母の知らないところにあった。
ニャムは、本当にしゃべることができたのだ。
ただし、佳奈恵と二人きりのときだけ──
「かなえ、今日は何して遊ぶ?」
夜、寝室で二人きりになると、ニャムは小さな声でそう尋ねた。
その声は、風鈴の音のように澄んでいて優しかった。
「ママには、ニャムがしゃべること、内緒にしなきゃいけないの?」
佳奈恵は不思議そうにニャムを見つめた。
ニャムは黒いビーズの目を瞬かせた。
「そう。大人には聞こえないんだ、ぼくの声は」
「どうして?」
「分からない。でも、きっと、かなえは特別なんだよ」
その言葉に、佳奈恵は誇らしい気持ちになった。
自分だけの秘密。自分だけの友達。
それは、五歳の少女にとって、何よりも大切な宝物だった。
桜の花びらが舞い散る四月、佳奈恵は小学校に入学した。
新しいランドセルを背負い、母に手を引かれて校門をくぐった日のことを、佳奈恵は今でも鮮明に覚えている。
教室は明るく、たくさんの子どもたちの声で賑わっていた。
佳奈恵は緊張しながらも、新しい環境に少しずつ慣れていった。
友達もできた。隣の席の女の子、美咲とは特に仲良くなった。
学校は楽しかった。けれども、時々、つらいこともあった。
給食が苦手で残してしまい、先生に叱られたこと。
体育の時間に転んで膝を擦りむいたこと。
友達と些細なことで喧嘩してしまったこと。
そんなとき、佳奈恵には打ち明ける相手がいた。
「ニャム、今日ね、美咲と喧嘩しちゃった」
夜、布団の中でニャムに話しかけると、ニャムは優しい声で答えた。
「どうして喧嘩したの?」
「美咲が、わたしの消しゴム勝手に使ったの。それで、怒ったら、美咲も怒っちゃって」
「そっか。かなえは、消しゴム大事にしてたもんね」
「うん。でも、明日、美咲に謝ろうと思う」
「それがいいよ。きっと、美咲も謝ってくれるよ」
ニャムの言葉は、いつも佳奈恵の心を落ち着かせた。
翌日、佳奈恵が美咲に「ごめんね」と言うと、美咲も「わたしもごめん」と笑顔で答えてくれた。
佳奈恵にとって、ニャムは最高の相談相手だった。
誰にも言えない悩みも、ニャムには話すことができた。
ニャムはいつも佳奈恵の味方だった。
二年生になると、佳奈恵の世界は少しずつ広がっていった。
友達が増え、遊びの種類も増えた。
放課後は公園で鬼ごっこをしたり、友達の家に遊びに行ったりするようになった。
そして、気がつくと、佳奈恵はニャムと過ごす時間が減っていった。
「ニャム、ごめんね。最近、あんまり遊べなくて」
ある夜、久しぶりにニャムを抱きしめながら、佳奈恵はそう言った。
ニャムは静かに答えた。
「いいんだよ。かなえが楽しそうで、ぼくも嬉しいから」
「本当?」
「うん。友達と遊ぶの、楽しいでしょう?」
「うん、楽しい」
佳奈恵は正直にそう答えた。
ニャムは小さく笑った。
「それでいいんだよ」
三年生になると、佳奈恵はますます友達との時間を大切にするようになった。
ニャムは押入れの奥に片付けられ、ほこりをかぶるようになった。
たまに掃除のときに見つけては、「あ、ニャムだ」と懐かしく思うものの、すぐにまた押入れの奥に戻された。
佳奈恵は、もうニャムが話せることを忘れていた。
いや、正確には、自分がそう思い込んでいただけだと、心のどこかで思うようになっていた。
子どもの頃の想像の産物。そんな風に、佳奈恵は記憶を整理していた。
佳奈恵が五年生になった春、教室の空気が変わった。
いつの間にか複雑な人間関係に変わっていた。
誰が誰と仲良しで、誰が誰を嫌っているか。
そんな目に見えない関係図が、教室を支配するようになった。
佳奈恵には、親友と呼べる友達が二人いた。美咲と、もう一人、麻衣だ。
三人はいつも一緒だった。休み時間も、放課後も、三人で過ごした。
けれども、六年生の初夏、その関係が崩れた。
きっかけは些細なことだった。修学旅行のグループ分けで、佳奈恵は別の友達とも仲良くなりたいと思い、違うグループに入ることを提案した。それだけのことだった。
だが、美咲と麻衣は、佳奈恵が自分たちを裏切ったと受け取った。
「佳奈恵、裏切ったよね」
教室で、美咲が他の友達にそう言っているのを、佳奈恵は偶然聞いてしまった。胸が凍りついた。
「わたしたちのこと、もういらないんだ」
麻衣の声も聞こえた。
佳奈恵は声をかけることができなかった。
その日から、美咲と麻衣は佳奈恵を避けるようになった。 それだけではなく、クラスの他の女子たちも、次第に佳奈恵から距離を置くようになった。美咲と麻衣の影響力は大きかったのだ。
休み時間、佳奈恵が話しかけても、みんな素っ気ない返事をするか、無視をした。
体育で二人組みを作るときもも、誰も佳奈恵と組もうとしなかった。
「おはよう」
朝、教室に入って挨拶をしても、誰も返事をしてくれなかった。
佳奈恵は自分の席に座り、俯いた。
なぜこんなことになったのか。佳奈恵には分からなかった。
ただ、違うグループに入りたいと言っただけなのに。それが、こんなに大きな亀裂を生むなんて。
佳奈恵は孤独だった。
教室にいても、誰とも話さない。昼休みは図書室で本を読んで過ごした。
放課後は誰よりも早く家に帰った。
家に帰っても、母には何も言えなかった。心配をかけたくなかった。それに、この状況をどう説明すればいいのか、佳奈恵自身も分からなかった。
「学校、楽しい?」
母がそう尋ねると、佳奈恵は「うん」と嘘をついた。
母は疑わしそうに佳奈恵を見たが、それ以上は何も聞かなかった。
夜、布団の中で、佳奈恵は涙を流していた。声を殺して泣いた。誰にも聞かれないように。
やがて、佳奈恵は学校に行けなくなった。
朝、着替えることができない。
玄関まで行っても、足が動かない。
母は困惑し、心配した。
「どうしたの? 体調が悪いの?」
母の問いに、佳奈恵は首を横に振った。言葉にならなかった。
学校から連絡が来た。
担任の先生が家庭訪問に来た。
けれども、佳奈恵は先生に会いたくなかった。
部屋に閉じこもったまま、出てこなかった。
日々は、灰色だった。朝が来て、昼が来て、夜が来る。ただそれだけの繰り返し。
佳奈恵は部屋の中で、ぼんやりと過ごした。
本を読むこともできない。テレビを見る気にもなれない。ただ、窓の外を眺めるだけ。
ある日の午後、佳奈恵は何気なく押入れを開けた。
特に理由はなかった。ただ、何かをしたかった。
押入れの奥に、古いダンボール箱が積まれていた。
佳奈恵はそれを引っ張り出した。
箱の中には、昔使っていた玩具や絵本が入っていた。
そして、その中に、灰色と白の縞模様をした猫のぬいぐるみがあった。
ニャム。
佳奈恵は、懐かしさとともに、複雑な気持ちになった。
小さい頃、このぬいぐるみと話していた。いや、話していたと思い込んでいた。
今になって思えば、ニャムはイマジナリーフレンドだったのだ。実際には話していなくて、自分が勝手に想像していただけ。
ニャムの声も、自分の声だった。そうやって、孤独を紛らわせていたのだろう。
佳奈恵は苦笑した。
子どもの頃の自分が、少し滑稽に思えた。
ニャムを手に取った。ほこりをかぶっていたが、その手触りは昔と変わらなかった。
「久しぶり、ニャム」
佳奈恵は独り言のように呟いた。
もちろん、ニャムが答えるはずはない。
ぬいぐるみは、ただのぬいぐるみ。
「──かなえ、久しぶり」
その声を聞いて、佳奈恵の体が硬直した。
心臓が激しく鼓動した。
佳奈恵はニャムを見つめた。
「今、しゃべった?」
「うん。しゃべったよ」
ニャムの声は、昔と変わらなかった。
風鈴のように澄んでいて、優しい声。
「なんで......」
佳奈恵の声は震えていた。
信じられなかった。ぬいぐるみがしゃべるはずがない。そんなことは、ありえない。
「かなえ、泣いているの?」
ニャムの問いに、佳奈恵は自分の頬が濡れていることに気づいた。
いつの間にか、涙が流れていた。
「どうして......どうして、今まで黙ってたの?」
「ぼくは黙ってなかったよ。ずっとここにいたよ。でも、かなえが呼んでくれなかったから」
「呼ばなかったって......」
「かなえは、ぼくのことを忘れてしまったでしょう? ぼくは、かなえが必要としてくれたときだけ、しゃべることができるんだ」
佳奈恵は、ニャムをぎゅっと抱きしめた。
温かかった。柔らかかった。そして、その温もりが、凍りついていた佳奈恵の心を少しずつ溶かしていった。
「かなえ、つらかったね」
ニャムの声が、優しく響いた。
「うん......」
佳奈恵は声を上げて泣いた。
子どものように、わんわんと泣いた。
もう我慢する必要はなかった。
ニャムの前では、何もかもさらけ出すことができた。
「みんなが、わたしを無視するの。どうしてこんなことになったのか、わからないの」
「つらいね」
「学校に行けないの。怖いの」
「怖いよね」
ニャムは、ただ佳奈恵の気持ちを受け止めてくれた。
否定も、肯定もしなかった。ただ、そばにいてくれた。
どれくらい泣いたろう。
やがて、佳奈恵の涙は止まった。
「少し、楽になった?」
ニャムが尋ねた。
佳奈恵は頷いた。
「うん」
「かなえは、悪くないよ」
「でも、わたしが......」
「かなえは、ただ、新しい友達も作りたかっただけでしょう? それは悪いことじゃない」
「でも、美咲と麻衣は怒ったの」
「それは、二人が寂しかったからだよ。かなえが離れていくと思って、不安だったんだ」
佳奈恵は、はっとした。
そんなこと、考えたこともなかった。
「でも、それなら、そう言ってくれればよかったのに」
「人の気持ちって、そんなに簡単に言葉にできないんだよ。かなえだって、今まで誰にも言えなかったでしょう?」
その通りだった。
佳奈恵は、自分のつらさを誰にも言えなかった。母にも、父にも、先生にも。
「かなえは、どうしたい?」
ニャムが尋ねた。
佳奈恵は考えた。
「わからない。でも......このままじゃ、嫌だ」
「そっか」
「学校に、行きたい。でも、怖い」
「怖いね」
ニャムは、佳奈恵の気持ちを否定しなかった。
「でもね、かなえは強いよ」
「強くなんかないよ」
「強いよ。だって、こうしてぼくに話してくれたでしょう? 泣くことができたでしょう? それは、強いってことだよ」
佳奈恵には、その意味がよく分からなかった。
けれども、ニャムの言葉は温かく、佳奈恵の心に染み込んでいった。
その日から、佳奈恵は毎日ニャムと話をした。これまでのこと、すべてをニャムに話した。
ニャムはいつも、静かに聞いてくれた。
「明日、学校に行ってみようと思う」
一週間後、佳奈恵はそう言った。
「行けそう?」
「わからない。でも、行ってみる」
「かなえなら、大丈夫だよ」
「ニャムが、一緒に来てくれたら」
「ぼくはいつも、かなえと一緒だよ。見えなくても、ちゃんとそばにいるから」
その言葉に、佳奈恵は勇気をもらった。
次の日の朝、佳奈恵の手は震えていた。
心臓はうるさいくらいに鼓動していた。
母は驚いた顔をしたが、何も言わずに朝食を用意してくれた。
「行ってきます」
玄関で、佳奈恵は小さな声でそう言った。
「行ってらっしゃい」
母の声もまた、震えていた。
学校への道のりは、遠く感じた。
いつもなら十五分で着くのに、今日は倍の時間がかかった。 何度も立ち止まった。引き返そうかと思った。
でも、その度にニャムの言葉を思い出した。
「ぼくはいつも、かなえと一緒だよ」
佳奈恵は前に進んだ。
教室に入ると、みんなの視線が一斉に佳奈恵に向けられた。
佳奈恵は俯いて、自分の席に向かった。
「おはよう」
隣の席の子が、小さな声で言った。
佳奈恵は驚いて顔を上げた。
その子は、美咲でも麻衣でもない、あまり話したことのない子だった。
「おはよう」
佳奈恵は、声を絞り出すようにして答えた。
その日、美咲と麻衣は佳奈恵を無視していた。
他の何人かも、佳奈恵を避けていた。
けれども、全員がそうではなかった。何人かは、普通に接してくれた。
昼休み、佳奈恵が一人で過ごしていると、先ほど挨拶してくれた子が近づいてきた。
「久しぶりだね」
その子の名前は、結衣だった。
結衣はいつも静かで、目立たない子だった。
「うん」
佳奈恵は答えた。
「わたしね、佳奈恵ちゃんのこと、すごいと思ってたんだ」
「え?」
「だって、いろんな子と仲良くしようとしてたでしょう? わたしには、それができなくて」
佳奈恵は、何も言えなかった。
「わたしも、本当はいろんな子と話したいけど、勇気が出なくて」
結衣の言葉は、佳奈恵の心に響いた。
みんな、それぞれに悩みを抱えているのだと、初めて気づいた。
放課後、佳奈恵が靴箱で靴を履き替えていると、美咲が近づいてきた。佳奈恵は身構えた。
「佳奈恵」
美咲は、複雑な表情をしていた。
「なに?」
佳奈恵は、なるべく平静を装って答えた。
「あのね......」
美咲は小さな声で言った。
「ごめん」
佳奈恵は耳を疑った。
「え?」
「わたし、ひどいことしたと思う。佳奈恵が悪いんじゃなかった」
美咲の目には涙が浮かんでいた。
「わたし、佳奈恵が離れていくのが怖かった。だから、怒っちゃって」
佳奈恵は、何と言えばいいのか分からなかった。
心の中で、様々な感情が渦巻いていた。怒り、悲しみ、そして、安堵。
「わたしも……ごめん。美咲の気持ち、ちゃんと考えてなかった」
佳奈恵がそう言うと、美咲は泣き出した。
二人は、しばらくそのまま立っていた。
それからすぐに、すべてが元通りになったわけではなかった。
美咲との関係は、まだぎこちなかった。
麻衣の方は、依然として佳奈恵を避けていた。
けれども、佳奈恵には結衣という新しい友達ができた。
そして、他にも、佳奈恵に優しくしてくれる子が何人か現れた。
いじめは、完全には終わらなかった。
麻衣とその友達の何人かは、依然として佳奈恵に冷たかった。
廊下ですれ違っても、わざと目を逸らされた。
グループ活動でも、佳奈恵は最後まで選ばれなかった。
けれども、佳奈恵は耐えた。
なぜなら、自分には味方がいたから。
結衣がいる。美咲も、少しずつだが、また話してくれるようになった。そして、何より──ニャムがいる。
夜、家に帰ると、佳奈恵はニャムに報告した。
「今日ね、結衣ちゃんと一緒に遊んだんだ」
「よかったね」
「美咲がね、謝ってくれたの」
「へえ、そうなんだ」
「まだ、つらいこともあるけど。でも、大丈夫」
「かなえは強くなったね」
ニャムの言葉に、佳奈恵は微笑んだ。
日々は、少しずつ明るさを取り戻していった。
佳奈恵は学校に行けるようになり、友達との関係も、ゆっくりと改善していった。
麻衣とは、結局、元の関係には戻れなかった。
けれども、それでもいいと佳奈恵は思えるようになった。
すべての人と仲良くすることは、できない。それは悲しいことだけれど、仕方のないことだ。
大切なのは、自分を大切にしてくれる人を、大切にすること。
そして、自分自身を、大切にすること。
冬が来て、雪が降った。
卒業式が近づいてきた。
ある日の放課後、佳奈恵は結衣と一緒に帰った。
「中学校、違うところになっちゃうね」
結衣が寂しそうに言った。
「うん。でも、また会えるよ」
「本当?」
「うん。絶対」
二人は笑顔で別れた。
家に帰って、佳奈恵はニャムに報告しようと、押入れからニャムを取り出した。
「ニャム、聞いて。今日ね——」
佳奈恵は、ニャムを抱きしめた。でも、ニャムは何も答えなかった。
「ニャム?」
佳奈恵は、ニャムを見つめた。
けれども、ニャムはただのぬいぐるみだった。
「ニャム......」
佳奈恵は、静かにニャムを膝の上に置いた。
もう一度、呼びかけてみた。
「ニャム、どうして黙ってるの?」
沈黙──
佳奈恵の胸に、じわりと寂しさが広がった。
けれども、同時に、不思議な納得もあった。
ニャムは、自分が必要なときだけ、声を聞かせてくれた。
そして今、佳奈恵はもう、ニャムの声がなくても大丈夫になっていた。
寂しい。とても寂しい。でも、これでいいのだと、佳奈恵は思った。
「ニャム、ありがとう」
佳奈恵は、ニャムに向かって、心を込めて言った。
「わたしね、もう大丈夫だよ。ニャムが、たくさん助けてくれたから」
ニャムは答えなかった。けれども、佳奈恵には分かった。
ニャムは聞いてくれている。ずっと、聞いてくれている。
「これまで、一緒にいてくれてありがとう。そして、これからも一緒にいてね。声が聞こえなくても、ニャムはわたしの大切な友達だから」
佳奈恵は、ニャムをそっと抱きしめた。
柔らかい感触が、手のひらに伝わってきた。
窓の外では、雪が静かに降り続けていた。
卒業式の日、体育館は華やかだった。
保護者席には母の姿があり、佳奈恵を見つけると、小さく手を振った。佳奈恵も、控えめに手を振り返した。
式が終わり、教室で最後のホームルームが行われた。
担任の先生が、一人一人に言葉をかけた。
「佳奈恵さん」
先生は佳奈恵の前に立った。
「つらい時期もあったと思います。でも、よく乗り越えました」
佳奈恵は、涙をこらえて頷いた。
教室を出るとき、美咲が声をかけてきた。
「佳奈恵、中学校でも頑張ってね」
「うん。美咲も」
二人は、ぎこちなくも笑顔を交わした。
完全に元通りにはならなかったけれど、それでもいい。
そう思えるようになった自分が、佳奈恵には誇らしかった。
結衣とは、校門の前で名残を惜しんだ。
「絶対、連絡するね!」
「うん。待ってる!」
二人は抱き合った。
家に帰ると、母がケーキを用意してくれていた。
「卒業おめでとう、佳奈恵」
「ありがとう、お母さん」
父も仕事から早く帰ってきてくれた。
三人で、ささやかな卒業祝いをした。
夜、一人になると、佳奈恵はニャムを手に取った。
「ニャム、わたし、小学校を卒業したよ」
ニャムは答えない。当たり前だ。
でも、佳奈恵は話し続けた。
「中学校、ちょっと不安だけど、きっと大丈夫。だって、ニャムが教えてくれたもん。つらいときは、誰かに助けを求めていいんだって。一人じゃないんだって」
佳奈恵は、ニャムを優しく抱きしめた。
「ずっと一緒だよ」
春が来た。桜の花が咲いていた。
中学校の入学式の日、佳奈恵は新しい制服に袖を通した。
鏡の中の自分は、少し大人びて見えた。
「行ってきます」
玄関で、佳奈恵は元気よく言った。
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
母が笑顔で見送ってくれた。
通学路は、小学校とは違う方向だった。
知らない道を歩くのは、少し怖かったけれど、同時にわくわくもした。
校門の前で、佳奈恵は深呼吸をした。そして、一歩を踏み出した。
教室に入ると、知らない顔ばかりだった。けれども、佳奈恵は怖くなかった。
「おはよう」
隣の席の子に、自分から話しかけた。
その子は驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「おはよう。わたし、咲希っていうの」
「わたしは佳奈恵。よろしくね」
「よろしく」
新しい友達。新しい教室。新しい先生。
すべてが新鮮で、少し緊張するけれど、悪くなかった。
昼休み、佳奈恵は弁当を食べながら、窓の外を眺めた。
青い空。白い雲。穏やかな春の日。
ふと、小学校のときのことを思い出した。
孤独だった日々。つらかった日々。
でも、あの経験があったから、今の自分がある。
そして、ニャムがいたから、乗り越えることができた。
佳奈恵は、心の中でニャムに語りかけた。
「ニャム、ありがとう。わたし、頑張るね」
ニャムは、いつも佳奈恵の心の中にいる。
声が聞こえなくても、ずっとそばにいてくれる。
「佳奈恵ちゃん、一緒に帰らない?」
咲希が声をかけてきた。
「うん、一緒に帰ろう」
佳奈恵は笑顔で答えた。
放課後、二人は並んで校門を出た。
「ねえ、佳奈恵ちゃんって、どこに住んでるの?」
「駅の近く。咲希ちゃんは?」
「わたしも。じゃあ、途中まで一緒だね」
二人は話しながら歩いた。
佳奈恵の心は、明るかった。
もちろん、これから先も、つらいことはあるだろう。悲しいこともあるだろう。
でも、大丈夫。自分は、一人じゃない。
友達がいる。家族がいる。そして、心の中に、ニャムがいる。それだけで、十分だった。
家に帰ると、母が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。中学校、どうだった?」
「楽しかったよ。友達もできた」
「よかったわね」
母は安心した顔を見せた。
佳奈恵は部屋に入り、制服を脱いで、部屋着に着替えた。 そして、本棚の上に飾ってあるニャムを見た。
ニャムは、いつものように、静かにそこにいた。
灰色と白の縞模様。黒いビーズの目。柔らかそうな体。
「ニャム、ただいま」
佳奈恵は、ニャムに向かって言った。
ニャムは何も答えなかった。
これからも、ニャムは何も言ってくれないだろう。
でも、つらいとき、ニャムが何と言ってくれるか、佳奈恵にはわかっていた。
悲しいとき、ニャムがどう励ましてくれるか、佳奈恵には想像できた。
ニャムの声は、もう佳奈恵自身の声になっていた。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
オレンジ色の光が、部屋を優しく照らしていた。
佳奈恵は、机に向かって、宿題を始めた。
新しい教科書。新しいノート。すべてが真っ白で、これから埋めていく。
未来は、まだ何も決まっていない。どんなことが起こるかわからない。
でも、佳奈恵はもう怖くなかった。
* * *
それから何年もの月日が流れた。
佳奈恵は高校生になり、大学生になり、そして社会人になった。
様々なことがあった。楽しいこと、つらいこと、悲しいこと、嬉しいこと。
すべてを経験しながら、佳奈恵は成長していった。
友達との別れもあった。新しい出会いもあった。恋をして、失恋もした。
けれども、どんなときも、佳奈恵の部屋には、ニャムがいた。
本棚の上で、ニャムはいつも静かに佳奈恵を見守っていた。
二十五歳の誕生日、佳奈恵は自分のアパートでケーキを食べながら、部屋に持ち込んでいたニャムを見た。
「ニャム、わたし、二十五歳になったよ」
佳奈恵は、ニャムに向かって言った。
「二十年も経ったんだね。早いね」
もちろん、ニャムは答えない。でも、佳奈恵は話し続けた。
「わたしね、最近、仕事で悩んでるの。上司とうまくいかなくて」
佳奈恵は、ニャムを手に取った。少し汚れていて、縫い目もほつれかけている。でも、佳奈恵にとっては、何よりも大切な宝物だった。
「ニャムなら、何て言ってくれるかな」
佳奈恵は目を閉じて、想像した。
「かなえは、頑張ってるよ。大丈夫」
ニャムの声が、心の中で響いた。もちろん、それは佳奈恵自身の声だ。でも、それでいい。
「ありがとう、ニャム」
佳奈恵は、ニャムを抱きしめた。
ある日、佳奈恵は幼馴染の結衣と久しぶりに会った。
「佳奈恵、元気だった?」
「うん、元気。結衣は?」
「わたしも元気。来月、結婚するの」
「えっ、本当? おめでとう!」
二人は、カフェで何時間も話した。小学校のこと、中学校のこと、それからのこと。
「ねえ、覚えてる? 小学校のとき、佳奈恵、すごくつらそうだったよね」
結衣が言った。
「うん、覚えてる」
「でも、佳奈恵、すごく強かったよ。わたし、あのとき佳奈恵に助けられたの」
「え?」
「だって、佳奈恵が頑張ってる姿を見て、わたしも頑張ろうって思えたから」
佳奈恵は、初めて知った事実に驚いた。
「わたし、結衣に助けられたんだよ。あのとき、結衣が声をかけてくれなかったら、わたし、どうなってたかわからない」
「そっか。じゃあ、お互い様だね」
二人は笑い合った。
人は、誰かに支えられて生きている。そして、自分も、誰かを支えている。そのことに気づいたとき、佳奈恵は温かい気持ちになった。
結衣の結婚式の日、佳奈恵は心から祝福した。
帰り道、佳奈恵は夜空を見上げた。星が輝いていた。
「ニャム、見て。きれいだね」
佳奈恵は、心の中でニャムに語りかけた。
そして、ふと思った。もしかしたら、あの頃、ニャムが本当に話していたのかもしれない。あるいは、佳奈恵の想像だったのかもしれない。
でも、どちらでもいい。
大切なのは、ニャムが佳奈恵にとって、かけがえのない存在だったということ。そして、今も、これからも、ずっとそうであり続けるということ。
佳奈恵は、静かに微笑んだ。
三十歳の誕生日、佳奈恵は結婚した。相手は、職場で知り合った優しい人だった。
新しい家に引っ越すとき、佳奈恵はニャムを大切に梱包した。
「ニャム、新しい家でも、一緒だよ」
新居のリビングの棚に、佳奈恵はニャムを飾った。夫は、不思議そうに尋ねた。
「それ、大切なものなの?」
「うん。子どもの頃からの友達なの」
「そっか」
夫は、それ以上何も聞かなかった。ただ、優しく微笑んだ。
やがて、佳奈恵には子どもが生まれた。女の子だった。
娘が五歳になった誕生日、佳奈恵は娘にニャムを見せた。
「これはね、ママが小さい頃からずっと大切にしているぬいぐるみなの」
娘は、興味深そうにニャムを見た。
「かわいい」
「名前は、ニャムっていうの」
「ニャム」
娘は、ニャムを優しく撫でた。
「このニャムがね、ママをずっと助けてくれたんだよ」
「どうやって?」
「それはね......」
佳奈恵は、娘に話して聞かせた。小学校のこと、つらかったこと、そしてニャムが励ましてくれたこと。
もちろん、ニャムが本当に話していたかどうかは言わなかった。娘が大きくなったら、自分で判断すればいい。
「ママ、すごいね」
娘は、尊敬の眼差しで佳奈恵を見た。
「すごくないよ。ママもね、たくさん助けてもらったから、今ここにいるんだよ」
佳奈恵は、娘を抱きしめた。
その夜、娘が眠った後、佳奈恵はリビングに戻った。ニャムは、いつもの場所にいた。
「ニャム、ありがとう」
佳奈恵は、心の中でニャムに語りかけた。
「わたし、幸せだよ。すべて、ニャムのおかげ」
静寂。
でも、佳奈恵には聞こえた気がした。
「よかったね、かなえ」
それは、ニャムの声だったかもしれないし、佳奈恵自身の声だったかもしれない。あるいは、風の音だったかもしれない。
でも、どちらでもいい。
佳奈恵は、静かに微笑んだ。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
そして、佳奈恵の人生は、これからも続いていく。
ニャムと共に。
いつまでも。
< 了 >
母が淹れた麦茶の湯気が、春の柔らかな光の中で揺れている。
「かなえ、お誕生日おめでとう」
父が穏やかな声でそう言って、箱を差し出した。
佳奈恵は小さな手で包装紙を破り、箱を開けた。
中には、灰色と白の縞模様をした猫のぬいぐるみが入っていた。
ふわふわとした手触りで、黒いビーズの目がきらきらと光を反射している。
「わあ! うれしい!」
佳奈恵は歓声を上げて、ぬいぐるみを抱きしめた。
母は優しく微笑み、父は満足そうに頷いた。
「気に入った?」
「うん、かわいい!」
佳奈恵はぬいぐるみの頭を撫でた。
柔らかい感触が、手のひらに心地よく伝わってきた。
「名前、つけてあげなさい」
母の言葉に、佳奈恵はしばらく考え込んだ。
そして、ぬいぐるみの顔をじっと見つめながら、小さな声で言った。
「ニャム」
「ニャム?」
「うん、ニャム」
それ以来、佳奈恵はニャムを片時も離さなくなった。
朝起きるとニャムに「おはよう」と声をかけ、ご飯を食べるときもニャムを隣に座らせ、夜寝るときはニャムを抱いて眠った。
母は最初、その様子を微笑ましく眺めていた。
子どもが想像の世界で遊ぶことは、成長の過程で自然なことだと思っていたからだ。
佳奈恵が一人でニャムに話しかけながら遊んでいる姿は、母の心を和ませた。
しかし、ある日の午後、母の心に小さな違和感が芽生えた。
「ママ、ニャムがしゃべらなくなったんだけど」
佳奈恵は困ったような顔でそう言った。
母は洗濯物を畳む手を止めて、娘を見た。
「そうね、ニャムもしゃべれたらいいね」
母は穏やかにそう返した。
だが、佳奈恵は眉をひそめた。
「違うの。さっきまで、ニャムはしゃべっていたもん」
佳奈恵の声には、妙な力が込められていた。
母は胸の中で小さな不安を感じた。
ぬいぐるみがしゃべるはずがない。当たり前のことだ。
けれども、娘は本気でそう信じているように見えた。
「かなえ、ニャムはぬいぐるみだから、しゃべらないのよ」
「でも、しゃべってたもん!」
佳奈恵は頑なにそう繰り返した。
母はどう対応すべきか分からず、困惑した。
もしかしたら、娘は現実と空想の区別がつかなくなっているのではないか。そんな不安が、母の心を覆い始めた。
その日から、母は佳奈恵の様子を注意深く観察するようになった。
だが、佳奈恵は次第にニャムの話を母にしなくなった。
娘なりに、母の反応を察したのだろう。
母はそのことに安堵したが、同時に、娘との間に小さな壁ができた気もした。
真実は母の知らないところにあった。
ニャムは、本当にしゃべることができたのだ。
ただし、佳奈恵と二人きりのときだけ──
「かなえ、今日は何して遊ぶ?」
夜、寝室で二人きりになると、ニャムは小さな声でそう尋ねた。
その声は、風鈴の音のように澄んでいて優しかった。
「ママには、ニャムがしゃべること、内緒にしなきゃいけないの?」
佳奈恵は不思議そうにニャムを見つめた。
ニャムは黒いビーズの目を瞬かせた。
「そう。大人には聞こえないんだ、ぼくの声は」
「どうして?」
「分からない。でも、きっと、かなえは特別なんだよ」
その言葉に、佳奈恵は誇らしい気持ちになった。
自分だけの秘密。自分だけの友達。
それは、五歳の少女にとって、何よりも大切な宝物だった。
桜の花びらが舞い散る四月、佳奈恵は小学校に入学した。
新しいランドセルを背負い、母に手を引かれて校門をくぐった日のことを、佳奈恵は今でも鮮明に覚えている。
教室は明るく、たくさんの子どもたちの声で賑わっていた。
佳奈恵は緊張しながらも、新しい環境に少しずつ慣れていった。
友達もできた。隣の席の女の子、美咲とは特に仲良くなった。
学校は楽しかった。けれども、時々、つらいこともあった。
給食が苦手で残してしまい、先生に叱られたこと。
体育の時間に転んで膝を擦りむいたこと。
友達と些細なことで喧嘩してしまったこと。
そんなとき、佳奈恵には打ち明ける相手がいた。
「ニャム、今日ね、美咲と喧嘩しちゃった」
夜、布団の中でニャムに話しかけると、ニャムは優しい声で答えた。
「どうして喧嘩したの?」
「美咲が、わたしの消しゴム勝手に使ったの。それで、怒ったら、美咲も怒っちゃって」
「そっか。かなえは、消しゴム大事にしてたもんね」
「うん。でも、明日、美咲に謝ろうと思う」
「それがいいよ。きっと、美咲も謝ってくれるよ」
ニャムの言葉は、いつも佳奈恵の心を落ち着かせた。
翌日、佳奈恵が美咲に「ごめんね」と言うと、美咲も「わたしもごめん」と笑顔で答えてくれた。
佳奈恵にとって、ニャムは最高の相談相手だった。
誰にも言えない悩みも、ニャムには話すことができた。
ニャムはいつも佳奈恵の味方だった。
二年生になると、佳奈恵の世界は少しずつ広がっていった。
友達が増え、遊びの種類も増えた。
放課後は公園で鬼ごっこをしたり、友達の家に遊びに行ったりするようになった。
そして、気がつくと、佳奈恵はニャムと過ごす時間が減っていった。
「ニャム、ごめんね。最近、あんまり遊べなくて」
ある夜、久しぶりにニャムを抱きしめながら、佳奈恵はそう言った。
ニャムは静かに答えた。
「いいんだよ。かなえが楽しそうで、ぼくも嬉しいから」
「本当?」
「うん。友達と遊ぶの、楽しいでしょう?」
「うん、楽しい」
佳奈恵は正直にそう答えた。
ニャムは小さく笑った。
「それでいいんだよ」
三年生になると、佳奈恵はますます友達との時間を大切にするようになった。
ニャムは押入れの奥に片付けられ、ほこりをかぶるようになった。
たまに掃除のときに見つけては、「あ、ニャムだ」と懐かしく思うものの、すぐにまた押入れの奥に戻された。
佳奈恵は、もうニャムが話せることを忘れていた。
いや、正確には、自分がそう思い込んでいただけだと、心のどこかで思うようになっていた。
子どもの頃の想像の産物。そんな風に、佳奈恵は記憶を整理していた。
佳奈恵が五年生になった春、教室の空気が変わった。
いつの間にか複雑な人間関係に変わっていた。
誰が誰と仲良しで、誰が誰を嫌っているか。
そんな目に見えない関係図が、教室を支配するようになった。
佳奈恵には、親友と呼べる友達が二人いた。美咲と、もう一人、麻衣だ。
三人はいつも一緒だった。休み時間も、放課後も、三人で過ごした。
けれども、六年生の初夏、その関係が崩れた。
きっかけは些細なことだった。修学旅行のグループ分けで、佳奈恵は別の友達とも仲良くなりたいと思い、違うグループに入ることを提案した。それだけのことだった。
だが、美咲と麻衣は、佳奈恵が自分たちを裏切ったと受け取った。
「佳奈恵、裏切ったよね」
教室で、美咲が他の友達にそう言っているのを、佳奈恵は偶然聞いてしまった。胸が凍りついた。
「わたしたちのこと、もういらないんだ」
麻衣の声も聞こえた。
佳奈恵は声をかけることができなかった。
その日から、美咲と麻衣は佳奈恵を避けるようになった。 それだけではなく、クラスの他の女子たちも、次第に佳奈恵から距離を置くようになった。美咲と麻衣の影響力は大きかったのだ。
休み時間、佳奈恵が話しかけても、みんな素っ気ない返事をするか、無視をした。
体育で二人組みを作るときもも、誰も佳奈恵と組もうとしなかった。
「おはよう」
朝、教室に入って挨拶をしても、誰も返事をしてくれなかった。
佳奈恵は自分の席に座り、俯いた。
なぜこんなことになったのか。佳奈恵には分からなかった。
ただ、違うグループに入りたいと言っただけなのに。それが、こんなに大きな亀裂を生むなんて。
佳奈恵は孤独だった。
教室にいても、誰とも話さない。昼休みは図書室で本を読んで過ごした。
放課後は誰よりも早く家に帰った。
家に帰っても、母には何も言えなかった。心配をかけたくなかった。それに、この状況をどう説明すればいいのか、佳奈恵自身も分からなかった。
「学校、楽しい?」
母がそう尋ねると、佳奈恵は「うん」と嘘をついた。
母は疑わしそうに佳奈恵を見たが、それ以上は何も聞かなかった。
夜、布団の中で、佳奈恵は涙を流していた。声を殺して泣いた。誰にも聞かれないように。
やがて、佳奈恵は学校に行けなくなった。
朝、着替えることができない。
玄関まで行っても、足が動かない。
母は困惑し、心配した。
「どうしたの? 体調が悪いの?」
母の問いに、佳奈恵は首を横に振った。言葉にならなかった。
学校から連絡が来た。
担任の先生が家庭訪問に来た。
けれども、佳奈恵は先生に会いたくなかった。
部屋に閉じこもったまま、出てこなかった。
日々は、灰色だった。朝が来て、昼が来て、夜が来る。ただそれだけの繰り返し。
佳奈恵は部屋の中で、ぼんやりと過ごした。
本を読むこともできない。テレビを見る気にもなれない。ただ、窓の外を眺めるだけ。
ある日の午後、佳奈恵は何気なく押入れを開けた。
特に理由はなかった。ただ、何かをしたかった。
押入れの奥に、古いダンボール箱が積まれていた。
佳奈恵はそれを引っ張り出した。
箱の中には、昔使っていた玩具や絵本が入っていた。
そして、その中に、灰色と白の縞模様をした猫のぬいぐるみがあった。
ニャム。
佳奈恵は、懐かしさとともに、複雑な気持ちになった。
小さい頃、このぬいぐるみと話していた。いや、話していたと思い込んでいた。
今になって思えば、ニャムはイマジナリーフレンドだったのだ。実際には話していなくて、自分が勝手に想像していただけ。
ニャムの声も、自分の声だった。そうやって、孤独を紛らわせていたのだろう。
佳奈恵は苦笑した。
子どもの頃の自分が、少し滑稽に思えた。
ニャムを手に取った。ほこりをかぶっていたが、その手触りは昔と変わらなかった。
「久しぶり、ニャム」
佳奈恵は独り言のように呟いた。
もちろん、ニャムが答えるはずはない。
ぬいぐるみは、ただのぬいぐるみ。
「──かなえ、久しぶり」
その声を聞いて、佳奈恵の体が硬直した。
心臓が激しく鼓動した。
佳奈恵はニャムを見つめた。
「今、しゃべった?」
「うん。しゃべったよ」
ニャムの声は、昔と変わらなかった。
風鈴のように澄んでいて、優しい声。
「なんで......」
佳奈恵の声は震えていた。
信じられなかった。ぬいぐるみがしゃべるはずがない。そんなことは、ありえない。
「かなえ、泣いているの?」
ニャムの問いに、佳奈恵は自分の頬が濡れていることに気づいた。
いつの間にか、涙が流れていた。
「どうして......どうして、今まで黙ってたの?」
「ぼくは黙ってなかったよ。ずっとここにいたよ。でも、かなえが呼んでくれなかったから」
「呼ばなかったって......」
「かなえは、ぼくのことを忘れてしまったでしょう? ぼくは、かなえが必要としてくれたときだけ、しゃべることができるんだ」
佳奈恵は、ニャムをぎゅっと抱きしめた。
温かかった。柔らかかった。そして、その温もりが、凍りついていた佳奈恵の心を少しずつ溶かしていった。
「かなえ、つらかったね」
ニャムの声が、優しく響いた。
「うん......」
佳奈恵は声を上げて泣いた。
子どものように、わんわんと泣いた。
もう我慢する必要はなかった。
ニャムの前では、何もかもさらけ出すことができた。
「みんなが、わたしを無視するの。どうしてこんなことになったのか、わからないの」
「つらいね」
「学校に行けないの。怖いの」
「怖いよね」
ニャムは、ただ佳奈恵の気持ちを受け止めてくれた。
否定も、肯定もしなかった。ただ、そばにいてくれた。
どれくらい泣いたろう。
やがて、佳奈恵の涙は止まった。
「少し、楽になった?」
ニャムが尋ねた。
佳奈恵は頷いた。
「うん」
「かなえは、悪くないよ」
「でも、わたしが......」
「かなえは、ただ、新しい友達も作りたかっただけでしょう? それは悪いことじゃない」
「でも、美咲と麻衣は怒ったの」
「それは、二人が寂しかったからだよ。かなえが離れていくと思って、不安だったんだ」
佳奈恵は、はっとした。
そんなこと、考えたこともなかった。
「でも、それなら、そう言ってくれればよかったのに」
「人の気持ちって、そんなに簡単に言葉にできないんだよ。かなえだって、今まで誰にも言えなかったでしょう?」
その通りだった。
佳奈恵は、自分のつらさを誰にも言えなかった。母にも、父にも、先生にも。
「かなえは、どうしたい?」
ニャムが尋ねた。
佳奈恵は考えた。
「わからない。でも......このままじゃ、嫌だ」
「そっか」
「学校に、行きたい。でも、怖い」
「怖いね」
ニャムは、佳奈恵の気持ちを否定しなかった。
「でもね、かなえは強いよ」
「強くなんかないよ」
「強いよ。だって、こうしてぼくに話してくれたでしょう? 泣くことができたでしょう? それは、強いってことだよ」
佳奈恵には、その意味がよく分からなかった。
けれども、ニャムの言葉は温かく、佳奈恵の心に染み込んでいった。
その日から、佳奈恵は毎日ニャムと話をした。これまでのこと、すべてをニャムに話した。
ニャムはいつも、静かに聞いてくれた。
「明日、学校に行ってみようと思う」
一週間後、佳奈恵はそう言った。
「行けそう?」
「わからない。でも、行ってみる」
「かなえなら、大丈夫だよ」
「ニャムが、一緒に来てくれたら」
「ぼくはいつも、かなえと一緒だよ。見えなくても、ちゃんとそばにいるから」
その言葉に、佳奈恵は勇気をもらった。
次の日の朝、佳奈恵の手は震えていた。
心臓はうるさいくらいに鼓動していた。
母は驚いた顔をしたが、何も言わずに朝食を用意してくれた。
「行ってきます」
玄関で、佳奈恵は小さな声でそう言った。
「行ってらっしゃい」
母の声もまた、震えていた。
学校への道のりは、遠く感じた。
いつもなら十五分で着くのに、今日は倍の時間がかかった。 何度も立ち止まった。引き返そうかと思った。
でも、その度にニャムの言葉を思い出した。
「ぼくはいつも、かなえと一緒だよ」
佳奈恵は前に進んだ。
教室に入ると、みんなの視線が一斉に佳奈恵に向けられた。
佳奈恵は俯いて、自分の席に向かった。
「おはよう」
隣の席の子が、小さな声で言った。
佳奈恵は驚いて顔を上げた。
その子は、美咲でも麻衣でもない、あまり話したことのない子だった。
「おはよう」
佳奈恵は、声を絞り出すようにして答えた。
その日、美咲と麻衣は佳奈恵を無視していた。
他の何人かも、佳奈恵を避けていた。
けれども、全員がそうではなかった。何人かは、普通に接してくれた。
昼休み、佳奈恵が一人で過ごしていると、先ほど挨拶してくれた子が近づいてきた。
「久しぶりだね」
その子の名前は、結衣だった。
結衣はいつも静かで、目立たない子だった。
「うん」
佳奈恵は答えた。
「わたしね、佳奈恵ちゃんのこと、すごいと思ってたんだ」
「え?」
「だって、いろんな子と仲良くしようとしてたでしょう? わたしには、それができなくて」
佳奈恵は、何も言えなかった。
「わたしも、本当はいろんな子と話したいけど、勇気が出なくて」
結衣の言葉は、佳奈恵の心に響いた。
みんな、それぞれに悩みを抱えているのだと、初めて気づいた。
放課後、佳奈恵が靴箱で靴を履き替えていると、美咲が近づいてきた。佳奈恵は身構えた。
「佳奈恵」
美咲は、複雑な表情をしていた。
「なに?」
佳奈恵は、なるべく平静を装って答えた。
「あのね......」
美咲は小さな声で言った。
「ごめん」
佳奈恵は耳を疑った。
「え?」
「わたし、ひどいことしたと思う。佳奈恵が悪いんじゃなかった」
美咲の目には涙が浮かんでいた。
「わたし、佳奈恵が離れていくのが怖かった。だから、怒っちゃって」
佳奈恵は、何と言えばいいのか分からなかった。
心の中で、様々な感情が渦巻いていた。怒り、悲しみ、そして、安堵。
「わたしも……ごめん。美咲の気持ち、ちゃんと考えてなかった」
佳奈恵がそう言うと、美咲は泣き出した。
二人は、しばらくそのまま立っていた。
それからすぐに、すべてが元通りになったわけではなかった。
美咲との関係は、まだぎこちなかった。
麻衣の方は、依然として佳奈恵を避けていた。
けれども、佳奈恵には結衣という新しい友達ができた。
そして、他にも、佳奈恵に優しくしてくれる子が何人か現れた。
いじめは、完全には終わらなかった。
麻衣とその友達の何人かは、依然として佳奈恵に冷たかった。
廊下ですれ違っても、わざと目を逸らされた。
グループ活動でも、佳奈恵は最後まで選ばれなかった。
けれども、佳奈恵は耐えた。
なぜなら、自分には味方がいたから。
結衣がいる。美咲も、少しずつだが、また話してくれるようになった。そして、何より──ニャムがいる。
夜、家に帰ると、佳奈恵はニャムに報告した。
「今日ね、結衣ちゃんと一緒に遊んだんだ」
「よかったね」
「美咲がね、謝ってくれたの」
「へえ、そうなんだ」
「まだ、つらいこともあるけど。でも、大丈夫」
「かなえは強くなったね」
ニャムの言葉に、佳奈恵は微笑んだ。
日々は、少しずつ明るさを取り戻していった。
佳奈恵は学校に行けるようになり、友達との関係も、ゆっくりと改善していった。
麻衣とは、結局、元の関係には戻れなかった。
けれども、それでもいいと佳奈恵は思えるようになった。
すべての人と仲良くすることは、できない。それは悲しいことだけれど、仕方のないことだ。
大切なのは、自分を大切にしてくれる人を、大切にすること。
そして、自分自身を、大切にすること。
冬が来て、雪が降った。
卒業式が近づいてきた。
ある日の放課後、佳奈恵は結衣と一緒に帰った。
「中学校、違うところになっちゃうね」
結衣が寂しそうに言った。
「うん。でも、また会えるよ」
「本当?」
「うん。絶対」
二人は笑顔で別れた。
家に帰って、佳奈恵はニャムに報告しようと、押入れからニャムを取り出した。
「ニャム、聞いて。今日ね——」
佳奈恵は、ニャムを抱きしめた。でも、ニャムは何も答えなかった。
「ニャム?」
佳奈恵は、ニャムを見つめた。
けれども、ニャムはただのぬいぐるみだった。
「ニャム......」
佳奈恵は、静かにニャムを膝の上に置いた。
もう一度、呼びかけてみた。
「ニャム、どうして黙ってるの?」
沈黙──
佳奈恵の胸に、じわりと寂しさが広がった。
けれども、同時に、不思議な納得もあった。
ニャムは、自分が必要なときだけ、声を聞かせてくれた。
そして今、佳奈恵はもう、ニャムの声がなくても大丈夫になっていた。
寂しい。とても寂しい。でも、これでいいのだと、佳奈恵は思った。
「ニャム、ありがとう」
佳奈恵は、ニャムに向かって、心を込めて言った。
「わたしね、もう大丈夫だよ。ニャムが、たくさん助けてくれたから」
ニャムは答えなかった。けれども、佳奈恵には分かった。
ニャムは聞いてくれている。ずっと、聞いてくれている。
「これまで、一緒にいてくれてありがとう。そして、これからも一緒にいてね。声が聞こえなくても、ニャムはわたしの大切な友達だから」
佳奈恵は、ニャムをそっと抱きしめた。
柔らかい感触が、手のひらに伝わってきた。
窓の外では、雪が静かに降り続けていた。
卒業式の日、体育館は華やかだった。
保護者席には母の姿があり、佳奈恵を見つけると、小さく手を振った。佳奈恵も、控えめに手を振り返した。
式が終わり、教室で最後のホームルームが行われた。
担任の先生が、一人一人に言葉をかけた。
「佳奈恵さん」
先生は佳奈恵の前に立った。
「つらい時期もあったと思います。でも、よく乗り越えました」
佳奈恵は、涙をこらえて頷いた。
教室を出るとき、美咲が声をかけてきた。
「佳奈恵、中学校でも頑張ってね」
「うん。美咲も」
二人は、ぎこちなくも笑顔を交わした。
完全に元通りにはならなかったけれど、それでもいい。
そう思えるようになった自分が、佳奈恵には誇らしかった。
結衣とは、校門の前で名残を惜しんだ。
「絶対、連絡するね!」
「うん。待ってる!」
二人は抱き合った。
家に帰ると、母がケーキを用意してくれていた。
「卒業おめでとう、佳奈恵」
「ありがとう、お母さん」
父も仕事から早く帰ってきてくれた。
三人で、ささやかな卒業祝いをした。
夜、一人になると、佳奈恵はニャムを手に取った。
「ニャム、わたし、小学校を卒業したよ」
ニャムは答えない。当たり前だ。
でも、佳奈恵は話し続けた。
「中学校、ちょっと不安だけど、きっと大丈夫。だって、ニャムが教えてくれたもん。つらいときは、誰かに助けを求めていいんだって。一人じゃないんだって」
佳奈恵は、ニャムを優しく抱きしめた。
「ずっと一緒だよ」
春が来た。桜の花が咲いていた。
中学校の入学式の日、佳奈恵は新しい制服に袖を通した。
鏡の中の自分は、少し大人びて見えた。
「行ってきます」
玄関で、佳奈恵は元気よく言った。
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
母が笑顔で見送ってくれた。
通学路は、小学校とは違う方向だった。
知らない道を歩くのは、少し怖かったけれど、同時にわくわくもした。
校門の前で、佳奈恵は深呼吸をした。そして、一歩を踏み出した。
教室に入ると、知らない顔ばかりだった。けれども、佳奈恵は怖くなかった。
「おはよう」
隣の席の子に、自分から話しかけた。
その子は驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「おはよう。わたし、咲希っていうの」
「わたしは佳奈恵。よろしくね」
「よろしく」
新しい友達。新しい教室。新しい先生。
すべてが新鮮で、少し緊張するけれど、悪くなかった。
昼休み、佳奈恵は弁当を食べながら、窓の外を眺めた。
青い空。白い雲。穏やかな春の日。
ふと、小学校のときのことを思い出した。
孤独だった日々。つらかった日々。
でも、あの経験があったから、今の自分がある。
そして、ニャムがいたから、乗り越えることができた。
佳奈恵は、心の中でニャムに語りかけた。
「ニャム、ありがとう。わたし、頑張るね」
ニャムは、いつも佳奈恵の心の中にいる。
声が聞こえなくても、ずっとそばにいてくれる。
「佳奈恵ちゃん、一緒に帰らない?」
咲希が声をかけてきた。
「うん、一緒に帰ろう」
佳奈恵は笑顔で答えた。
放課後、二人は並んで校門を出た。
「ねえ、佳奈恵ちゃんって、どこに住んでるの?」
「駅の近く。咲希ちゃんは?」
「わたしも。じゃあ、途中まで一緒だね」
二人は話しながら歩いた。
佳奈恵の心は、明るかった。
もちろん、これから先も、つらいことはあるだろう。悲しいこともあるだろう。
でも、大丈夫。自分は、一人じゃない。
友達がいる。家族がいる。そして、心の中に、ニャムがいる。それだけで、十分だった。
家に帰ると、母が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。中学校、どうだった?」
「楽しかったよ。友達もできた」
「よかったわね」
母は安心した顔を見せた。
佳奈恵は部屋に入り、制服を脱いで、部屋着に着替えた。 そして、本棚の上に飾ってあるニャムを見た。
ニャムは、いつものように、静かにそこにいた。
灰色と白の縞模様。黒いビーズの目。柔らかそうな体。
「ニャム、ただいま」
佳奈恵は、ニャムに向かって言った。
ニャムは何も答えなかった。
これからも、ニャムは何も言ってくれないだろう。
でも、つらいとき、ニャムが何と言ってくれるか、佳奈恵にはわかっていた。
悲しいとき、ニャムがどう励ましてくれるか、佳奈恵には想像できた。
ニャムの声は、もう佳奈恵自身の声になっていた。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
オレンジ色の光が、部屋を優しく照らしていた。
佳奈恵は、机に向かって、宿題を始めた。
新しい教科書。新しいノート。すべてが真っ白で、これから埋めていく。
未来は、まだ何も決まっていない。どんなことが起こるかわからない。
でも、佳奈恵はもう怖くなかった。
* * *
それから何年もの月日が流れた。
佳奈恵は高校生になり、大学生になり、そして社会人になった。
様々なことがあった。楽しいこと、つらいこと、悲しいこと、嬉しいこと。
すべてを経験しながら、佳奈恵は成長していった。
友達との別れもあった。新しい出会いもあった。恋をして、失恋もした。
けれども、どんなときも、佳奈恵の部屋には、ニャムがいた。
本棚の上で、ニャムはいつも静かに佳奈恵を見守っていた。
二十五歳の誕生日、佳奈恵は自分のアパートでケーキを食べながら、部屋に持ち込んでいたニャムを見た。
「ニャム、わたし、二十五歳になったよ」
佳奈恵は、ニャムに向かって言った。
「二十年も経ったんだね。早いね」
もちろん、ニャムは答えない。でも、佳奈恵は話し続けた。
「わたしね、最近、仕事で悩んでるの。上司とうまくいかなくて」
佳奈恵は、ニャムを手に取った。少し汚れていて、縫い目もほつれかけている。でも、佳奈恵にとっては、何よりも大切な宝物だった。
「ニャムなら、何て言ってくれるかな」
佳奈恵は目を閉じて、想像した。
「かなえは、頑張ってるよ。大丈夫」
ニャムの声が、心の中で響いた。もちろん、それは佳奈恵自身の声だ。でも、それでいい。
「ありがとう、ニャム」
佳奈恵は、ニャムを抱きしめた。
ある日、佳奈恵は幼馴染の結衣と久しぶりに会った。
「佳奈恵、元気だった?」
「うん、元気。結衣は?」
「わたしも元気。来月、結婚するの」
「えっ、本当? おめでとう!」
二人は、カフェで何時間も話した。小学校のこと、中学校のこと、それからのこと。
「ねえ、覚えてる? 小学校のとき、佳奈恵、すごくつらそうだったよね」
結衣が言った。
「うん、覚えてる」
「でも、佳奈恵、すごく強かったよ。わたし、あのとき佳奈恵に助けられたの」
「え?」
「だって、佳奈恵が頑張ってる姿を見て、わたしも頑張ろうって思えたから」
佳奈恵は、初めて知った事実に驚いた。
「わたし、結衣に助けられたんだよ。あのとき、結衣が声をかけてくれなかったら、わたし、どうなってたかわからない」
「そっか。じゃあ、お互い様だね」
二人は笑い合った。
人は、誰かに支えられて生きている。そして、自分も、誰かを支えている。そのことに気づいたとき、佳奈恵は温かい気持ちになった。
結衣の結婚式の日、佳奈恵は心から祝福した。
帰り道、佳奈恵は夜空を見上げた。星が輝いていた。
「ニャム、見て。きれいだね」
佳奈恵は、心の中でニャムに語りかけた。
そして、ふと思った。もしかしたら、あの頃、ニャムが本当に話していたのかもしれない。あるいは、佳奈恵の想像だったのかもしれない。
でも、どちらでもいい。
大切なのは、ニャムが佳奈恵にとって、かけがえのない存在だったということ。そして、今も、これからも、ずっとそうであり続けるということ。
佳奈恵は、静かに微笑んだ。
三十歳の誕生日、佳奈恵は結婚した。相手は、職場で知り合った優しい人だった。
新しい家に引っ越すとき、佳奈恵はニャムを大切に梱包した。
「ニャム、新しい家でも、一緒だよ」
新居のリビングの棚に、佳奈恵はニャムを飾った。夫は、不思議そうに尋ねた。
「それ、大切なものなの?」
「うん。子どもの頃からの友達なの」
「そっか」
夫は、それ以上何も聞かなかった。ただ、優しく微笑んだ。
やがて、佳奈恵には子どもが生まれた。女の子だった。
娘が五歳になった誕生日、佳奈恵は娘にニャムを見せた。
「これはね、ママが小さい頃からずっと大切にしているぬいぐるみなの」
娘は、興味深そうにニャムを見た。
「かわいい」
「名前は、ニャムっていうの」
「ニャム」
娘は、ニャムを優しく撫でた。
「このニャムがね、ママをずっと助けてくれたんだよ」
「どうやって?」
「それはね......」
佳奈恵は、娘に話して聞かせた。小学校のこと、つらかったこと、そしてニャムが励ましてくれたこと。
もちろん、ニャムが本当に話していたかどうかは言わなかった。娘が大きくなったら、自分で判断すればいい。
「ママ、すごいね」
娘は、尊敬の眼差しで佳奈恵を見た。
「すごくないよ。ママもね、たくさん助けてもらったから、今ここにいるんだよ」
佳奈恵は、娘を抱きしめた。
その夜、娘が眠った後、佳奈恵はリビングに戻った。ニャムは、いつもの場所にいた。
「ニャム、ありがとう」
佳奈恵は、心の中でニャムに語りかけた。
「わたし、幸せだよ。すべて、ニャムのおかげ」
静寂。
でも、佳奈恵には聞こえた気がした。
「よかったね、かなえ」
それは、ニャムの声だったかもしれないし、佳奈恵自身の声だったかもしれない。あるいは、風の音だったかもしれない。
でも、どちらでもいい。
佳奈恵は、静かに微笑んだ。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
そして、佳奈恵の人生は、これからも続いていく。
ニャムと共に。
いつまでも。
< 了 >


