ゴールデンウィークを過ぎた、高校二年の五月。
 新緑を初夏の風が優しく撫でる。新しい季節に浮き浮きと心躍る季節だが。
 終業のチャイムと共に俺、植野遥は必死な気持ちで席を立った。
 
「遥、今日も追いかけっこ? 一カ月くらい続いてね? 後輩君、諦めねぇなぁ」

 クラスの男子が揶揄い半分でニヤケている。
 今はそんなの、どうでもいい。急がないと、奴が来る。

「マジで諦めねぇし、見付かったら逃げきれねぇんだよ。もしアイツが来たら、帰ったって言って!」

 返事なんか聞かずに教室を飛び出した。

「頑張れ~」

 軽い応援を背中に聞いて、下駄箱に走る。
 これでも中学時代は陸上部で、そこそこ速かったんだ。捕まってなるものか。

 廊下にはまだ生徒がほとんど出てきていない。
 今日は会わずに済みそうだ。
 コソコソと身を隠しながら、上履きを下駄箱に静かに仕舞う。

「今日こそ、俺の勝ちだ」

 スニーカーに足を突っ込んで、走り出そうとしたら。

「あれ、遥先輩、早いですね。お疲れ様です」
「ひぃ! 出た!」

 のっそり現れた遠藤圭吾の姿に、思わず悲鳴が漏れた。
 お前に会いたくないから走ったのに、なんでいるんだよ。

「お前、何してんの? 一年だって授業、あるよな? サボって待ち伏せなの?」

 もはや狂気を感じて、思わず後退った。

「授業終わりに普通に待ってました。でも今日は、ちょっと走ったかも」
「お前が走ったら、足の長さ的にさ、色々無理じゃん」

 一年の教室は一階だから、普通に間に合ったのか。
 しかも圭吾とは、身長差が二十二センチもある。リーチ的に勝てない。
 圭吾に迫られると、圧迫感があり過ぎて怖い。

(だから、寄るなよ。その顔で、やめてくれよぉ)

 デカい身長ってだけじゃない。俺的には、圭吾に必要以上に近付かれたくない理由がある。
 なのにコイツは、一ミリも覚えていない。それもまた、ムカつくポイントなわけだが。

 俺の気持ちなんか意に介さず、圭吾が無遠慮に寄ってくる。
 一歩近づかれて後ろに下がり、また一歩近付かれて後ろに下がる。
 不毛な追いかけっこは、圭吾が俺の腕を無理やり掴んで、あっけなく終了した。

「何回言われても、写真部には入らねぇぞ! 俺は自宅の機材で足りてんの! 一人でやんのが好きなの!」

 中学の頃、陸上部と掛け持ちで入部していた写真部で、圭吾は後輩だった。
 写真部には苦い思い出しかない。だから高校では、部活ではなく一人で活動すると決めているのに。
 圭吾は入学以来、毎日のように勧誘に来る。

 本気で鬱陶しい。

「入部して欲しい気持ちは、変わらないんですが。今日は、別のお願いがあって待ってました」
「別の、お願い……?」

 お願いをするには、些か高圧的な態度じゃないだろうか。
 掴んだ腕を、そろそろ離してほしい。
 振り解こうとブンブンしても、全く離す気配がない。

「実は写真部の部室で、謎のレイヤーを見付けたんです」
「謎の、レイヤー? 一枚だけ?」

 思わず問い掛けたら、圭吾が嬉しそうな顔をした。
 しまった。食い付いたと思われた。
 そうじゃない。思わず聞いちゃっただけだ。別に興味とかない。

「いいえ。何枚か。背景のレイヤーだと思うんですが、重ねると一枚のシネマトグラフになりそうなんです。でも、ピースが足りなそうで。俺じゃ、何が足りないのか、わからないから。遥先輩に、一緒に探してほしいんです」

 俺の中の好奇心が、ウズウズした。
 そんなの、ちょっと見てみたいって思うだろ。
 圭吾は俺の興味の引き方を、よく知っている。

(でも、ここで付いていったら、俺の負けだ。まんまと写真部に連れて行かれて、いつの間にか入部させられるパターンだ)

 俺は思い切って圭吾の腕を振り払った。

「知らん。俺には関係ない。写真部にはもう一人、先輩がいるだろ? その人と探せばいいじゃん」

 確か、翔陽高校の写真部は三年生が一人、在籍しているはずだ。
 今は、一年生の遠藤圭吾と二人しか部員がいないので、実質は同好会(仮)だ。去年までは全国大会でグランプリを収めた程に隆盛していたのに、カリスマが辞めた途端に廃れた。
 廃部にするには勿体ないという教員の意向もあって、部員勧誘中らしい。
 三人以上いないと同好会にすらなれないので、圭吾は毎日のように俺を引っ張りに来ている訳だ。

「その……、浅沼先輩には、頼れないといいますか。頼りになる先輩だし、協力もしてもらっているんですが、ダメな部分もあって。つまり、遥先輩じゃないとダメなんです」

 一度、離れた手で俺のジャケットの裾を掴む。圭吾の顔が捨てられた子犬に見えた。
 やめろ。その顔に弱いんだよ、俺は。

「つまりの意味が解らねぇ。部内で解決できないなら、やめれば? ゴリ押ししても、いいことねーぞ」
「諦めちゃダメな気がするんです! 先輩も、あのレイヤーを見てくれれば、わかります!」

 圭吾の顔が、ぐっと近づく。
 油断した俺も悪いけど、そのイケメンフェイスで近付くな。俺はまだ、お前の顔面にときめくんだよ。
 とか絶対に言えないので、深呼吸をして、すぃと後ろに下がった。

「あの3Dシネマトグラフに、もし、何かのメッセージが残っていたとしたら。ここで諦めたら、俺はきっと後悔します。だからちゃんと、完成させたいんです」
「完成させたいって……」

 言いかけた言葉を、飲み込んだ。
 完璧に作り上げたシネマトグラフを見ても、俺の気持ちに気が付かなかったお前が、他人の真意に気付けるのか。
 そんな台詞、今更、言えるはずもない。

(後悔なら、違う後悔してくれよ。やっぱり俺のことなんか、本気で何とも思ってねぇのか)

 多分、圭吾はストレートだ。だから、同性の好意に疎いのは当然で。
 自分の気持ちを直接、伝える勇気がなかったから、シネマトグラフに込めた。そのやり方が遠回しなのも、わかっている。
 
(だから必要以上に近付かないで、不毛な恋心を忘れようとしてんのに)

 そういう俺の気持ちには、一切気が付かない圭吾が憎い。
 とはいえ、このままでは掴んだジャケットの裾を離してくれそうにない。

「……いいよ。わかった。見てやるよ」
「え? 本当ですか!」

 圭吾の顔が、ぱっと明るくなった。
 悔しいけど、圭吾が笑う顔が好きだ。マジで悔しいくらい、イケメンスマイルだ。

「マジで見るだけ、だからな。入部はしねぇからな」
「はい、とりあえず、見てもらえるだけでも。部室に来てくれるだけでも、嬉しいです」

 圭吾が抱き付く勢いで両腕を掴んだ。
 逃げる間もなく拘束された。
 久しぶりに間近で、圭吾の匂いを感じる。ちょっと嬉しいだなんて、俺は本当にチョロい。そんな自分が、嫌になった。