夜明け前、白い髪と白い瞳の狩人エルバートは、冷えた草原に薄く漂う朝露を蹴って歩いていた。夜の気配はまだ地面に残り、空は藍から薄金へとゆっくりグラデーションする。
彼は罠の見回りに向かっていた。弓は背に、民族風の衣の房飾りが微かに風を撫でる。朝から夕方までしか動けない己の制約を、何度も噛み締めてきた男の静かな足取りだった。
谷の縁に仕掛けた足罠の近くで、金属がきしむような、しかしどこか生物的な音がした。エルバートは身を低くし、草陰から覗き込む。
黒。光を吸い込むような黒の鎖が、一本の腕から無数にほどけ、罠の鋼に絡みついていた。鎖の先に、白い瞳。血色のアイラインに縁取られた虹彩は、不気味なほど感情を映さない。染めた漆黒の短髪。黒地に赤い薔薇柄のブレザーとプリーツミニスカート。それは場違いなほど艶めいて、草と泥と朝霧の世界から浮いていた。
「動くな」
エルバートは弓を抜かず、声だけを矢にして飛ばした。
「君が、鉄鎖か」
「……呼吸は自由にしていい?」
低い、乾いた声。皮肉とも虚無ともつかない抑揚。腕から伸びた鎖が罠を解体しようとしていたが、刃の返しと鎖の角度が悪い。完全には外れない。
「黒城の警備隊長が、他人の罠にかかるとは」
エルバートは近づく。白い瞳が白い瞳を測る。朝の冷気の中、二人の呼気だけが確かに温かい。
「罠は嫌いだ」
鉄鎖は短く答えた。
「自由を奪う。鎖で十分だ。他人の罠は趣味が悪い」
「鎖で繋ぐのは趣味がいいのか」
「少なくとも、愛がある」
鉄鎖の口角がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。だが目は笑わない。
エルバートはしゃがみ込み、罠のバネの力を指で殺しながら、鎖の角度を直す。
「動くな。傷が深くなる」
「従う理由は?」
「理由が必要なら、こう言う。ここで君が暴れたら草地が死ぬ。僕の狩場が荒れる」
鉄鎖は黙った。次の瞬間、鎖は柔らかくほどけ、罠は音もなく外れた。エルバートは罠を閉じ、後ろへ押しやる。二人の間に、朝霧が薄く流れた。
「ここに住み着くのはやめろ」
エルバートは直球を投げるように言った。
「毎日、痕跡がある。足場、結界、鎖の擦過痕。森が重くなる」
鉄鎖は空を一瞥する。昇りかけの太陽が、縁どるように彼の横顔を白く染めた。
「毎日、阻止に来るね。君は律儀だ」
「森が嫌がっている」
「森が、ね」
鉄鎖は草を踏む。赤いリボンが朝風に揺れ、黒鉄のブレスレットが微かに鳴る。
「君は昼しか動けない。日が沈めば、君は消える」
「消えない。動けないだけだ」
「同じことだよ。夜は僕のものだ。だから僕はここに居る。夜に、誰も居ないのは嫌だ」
鉄鎖はさらりと言った。まるで天気の話のように。
「家には帰らない。引きこもる場所は、僕の側。僕が僕を縛れる範囲」
エルバートはわずかに眉を上げた。
「黒城はどうした」
「命令は夜だけ必要だ」
鉄鎖の声が低くなる。
「僕は一緒に居てくれる人がいなければ、崩れる。だから夜は、ここで誰かの気配を待つ。森でも、罠でも、君でも。何かに繋がっていないと、僕は砂になる」
朝の光が強くなり、二人の影が短くなる。エルバートは数呼吸のあいだ、何も言わない。鳥が一羽、草を跳ねた。
「そんなに嫌なら傍にいて」
彼は淡々とした声で言った。自分でも意外なほど自然に出た言葉だった。
「住み着くな。傍にいろ。君の目の届くところで、夜をやり過ごせ」
鉄鎖の白い瞳に、遅れて波紋が広がる。感情は薄い膜の下で動き、そのまま沈んだ。
「命令か」
「提案だ」
エルバートは肩をすくめる。
「君は自由を憎む。僕は森を守る。互いの嫌悪を薄める折衷案だ」
「折衷案は嫌いだ」
鉄鎖はつぶやき「でも、君の『傍に』は、鎖の届く距離に聞こえた」
エルバートは笑った。朝の光が、その白い髪をさらに白くする。
「届く距離なら、なおいい。暴走したら引っ張れる」
「引っ張られるのは嫌いじゃない」
鉄鎖はあっさりと告白する。どこか危うい響きが混じるが、彼は続けない。代わりに一歩、近づいた。
「条件は?」
「森には手を出すな。仲間を鎖で繋ぐな。僕の許しがない限り、誰にも触れるな」
「多いね」
「当然だ」
鉄鎖は考える風を装いながら、実際にはもう答えを決めている顔だった。
「一つだけ、僕からも。夜、君が動けないとき、僕は君の家の外で鎖を張る。守るためだ。通る者がいれば、拘束する」
「必要以上に締めるな」
「締め加減は心得ている」
エルバートは息を吐き、弓の位置を直した。
「いいだろう。夜は君が守れ。朝は僕が整える」
鉄鎖は赤いリボンを指で撫で、ふっと視線を落とした。
「僕は君の敵を完全に支配する鎖だ。僕自身も、君の手で結べるなら、それでいい」
「結び目はほどけるためにある」
エルバートが応じる。
「締めすぎれば、布も心も裂ける」
「裂けるのは得意だよ」
「知ってる。だから言ってる」
短い沈黙。やがて鉄鎖は、鎖を腕に巻き戻す。黒いリンクが肌の下に沈み、ただの人間の肢体に戻る。彼の装いは相変わらず派手で、朝露の世界に似合わない。それでも、違和感は少しだけ和らいだ。
「帰る場所は、君の傍」
鉄鎖が確かめるように言う。
「森の端、小川のそば。日が落ちる前に来い。僕が灯りを点けておく」
鉄鎖はうなずく。白い瞳に、ほんの一瞬、熱が灯った気がした。
「了解。命令に従う」
「命令じゃない」
「じゃあ、依存」
「それも違う」
「じゃあ……習慣」
エルバートは笑い、空を仰ぐ。
「それでいい」
二人は並んで歩き出す。草が擦れ、朝の鳥が鳴く。森は少しだけ軽く息をする。鎖は鳴らず、弓も鳴らない。ただ、足音だけが、これから始まる奇妙な共同生活のリズムを刻んでいた。昼は狩人の整然、夜は鎖の警護。自由を憎む者と、自由のために縛りを設ける者。その矛盾は、まだ美しくはない。けれど、朝と夜の間の薄明かりのように、確かな境界と共存を予感させた。
夕方、太陽が森の端に引っかかるころ、エルバートは小川のほとりに灯りを点けた。振り向くと、黒と赤の薔薇が風に揺れ、鉄鎖が無言で立っていた。白い瞳が灯りを映し、彼は小さく頷く。
「そんなに嫌なら傍にいて」
エルバートは繰り返す。今度は、少しだけ柔らかく。
鉄鎖は答えない。代わりに、鎖が音もなく地面に伸び、家の周りにゆるやかな輪を描いた。締めすぎない輪。守るための輪。夜が降りる。二人の影が、やがて一つに重なった。
彼は罠の見回りに向かっていた。弓は背に、民族風の衣の房飾りが微かに風を撫でる。朝から夕方までしか動けない己の制約を、何度も噛み締めてきた男の静かな足取りだった。
谷の縁に仕掛けた足罠の近くで、金属がきしむような、しかしどこか生物的な音がした。エルバートは身を低くし、草陰から覗き込む。
黒。光を吸い込むような黒の鎖が、一本の腕から無数にほどけ、罠の鋼に絡みついていた。鎖の先に、白い瞳。血色のアイラインに縁取られた虹彩は、不気味なほど感情を映さない。染めた漆黒の短髪。黒地に赤い薔薇柄のブレザーとプリーツミニスカート。それは場違いなほど艶めいて、草と泥と朝霧の世界から浮いていた。
「動くな」
エルバートは弓を抜かず、声だけを矢にして飛ばした。
「君が、鉄鎖か」
「……呼吸は自由にしていい?」
低い、乾いた声。皮肉とも虚無ともつかない抑揚。腕から伸びた鎖が罠を解体しようとしていたが、刃の返しと鎖の角度が悪い。完全には外れない。
「黒城の警備隊長が、他人の罠にかかるとは」
エルバートは近づく。白い瞳が白い瞳を測る。朝の冷気の中、二人の呼気だけが確かに温かい。
「罠は嫌いだ」
鉄鎖は短く答えた。
「自由を奪う。鎖で十分だ。他人の罠は趣味が悪い」
「鎖で繋ぐのは趣味がいいのか」
「少なくとも、愛がある」
鉄鎖の口角がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。だが目は笑わない。
エルバートはしゃがみ込み、罠のバネの力を指で殺しながら、鎖の角度を直す。
「動くな。傷が深くなる」
「従う理由は?」
「理由が必要なら、こう言う。ここで君が暴れたら草地が死ぬ。僕の狩場が荒れる」
鉄鎖は黙った。次の瞬間、鎖は柔らかくほどけ、罠は音もなく外れた。エルバートは罠を閉じ、後ろへ押しやる。二人の間に、朝霧が薄く流れた。
「ここに住み着くのはやめろ」
エルバートは直球を投げるように言った。
「毎日、痕跡がある。足場、結界、鎖の擦過痕。森が重くなる」
鉄鎖は空を一瞥する。昇りかけの太陽が、縁どるように彼の横顔を白く染めた。
「毎日、阻止に来るね。君は律儀だ」
「森が嫌がっている」
「森が、ね」
鉄鎖は草を踏む。赤いリボンが朝風に揺れ、黒鉄のブレスレットが微かに鳴る。
「君は昼しか動けない。日が沈めば、君は消える」
「消えない。動けないだけだ」
「同じことだよ。夜は僕のものだ。だから僕はここに居る。夜に、誰も居ないのは嫌だ」
鉄鎖はさらりと言った。まるで天気の話のように。
「家には帰らない。引きこもる場所は、僕の側。僕が僕を縛れる範囲」
エルバートはわずかに眉を上げた。
「黒城はどうした」
「命令は夜だけ必要だ」
鉄鎖の声が低くなる。
「僕は一緒に居てくれる人がいなければ、崩れる。だから夜は、ここで誰かの気配を待つ。森でも、罠でも、君でも。何かに繋がっていないと、僕は砂になる」
朝の光が強くなり、二人の影が短くなる。エルバートは数呼吸のあいだ、何も言わない。鳥が一羽、草を跳ねた。
「そんなに嫌なら傍にいて」
彼は淡々とした声で言った。自分でも意外なほど自然に出た言葉だった。
「住み着くな。傍にいろ。君の目の届くところで、夜をやり過ごせ」
鉄鎖の白い瞳に、遅れて波紋が広がる。感情は薄い膜の下で動き、そのまま沈んだ。
「命令か」
「提案だ」
エルバートは肩をすくめる。
「君は自由を憎む。僕は森を守る。互いの嫌悪を薄める折衷案だ」
「折衷案は嫌いだ」
鉄鎖はつぶやき「でも、君の『傍に』は、鎖の届く距離に聞こえた」
エルバートは笑った。朝の光が、その白い髪をさらに白くする。
「届く距離なら、なおいい。暴走したら引っ張れる」
「引っ張られるのは嫌いじゃない」
鉄鎖はあっさりと告白する。どこか危うい響きが混じるが、彼は続けない。代わりに一歩、近づいた。
「条件は?」
「森には手を出すな。仲間を鎖で繋ぐな。僕の許しがない限り、誰にも触れるな」
「多いね」
「当然だ」
鉄鎖は考える風を装いながら、実際にはもう答えを決めている顔だった。
「一つだけ、僕からも。夜、君が動けないとき、僕は君の家の外で鎖を張る。守るためだ。通る者がいれば、拘束する」
「必要以上に締めるな」
「締め加減は心得ている」
エルバートは息を吐き、弓の位置を直した。
「いいだろう。夜は君が守れ。朝は僕が整える」
鉄鎖は赤いリボンを指で撫で、ふっと視線を落とした。
「僕は君の敵を完全に支配する鎖だ。僕自身も、君の手で結べるなら、それでいい」
「結び目はほどけるためにある」
エルバートが応じる。
「締めすぎれば、布も心も裂ける」
「裂けるのは得意だよ」
「知ってる。だから言ってる」
短い沈黙。やがて鉄鎖は、鎖を腕に巻き戻す。黒いリンクが肌の下に沈み、ただの人間の肢体に戻る。彼の装いは相変わらず派手で、朝露の世界に似合わない。それでも、違和感は少しだけ和らいだ。
「帰る場所は、君の傍」
鉄鎖が確かめるように言う。
「森の端、小川のそば。日が落ちる前に来い。僕が灯りを点けておく」
鉄鎖はうなずく。白い瞳に、ほんの一瞬、熱が灯った気がした。
「了解。命令に従う」
「命令じゃない」
「じゃあ、依存」
「それも違う」
「じゃあ……習慣」
エルバートは笑い、空を仰ぐ。
「それでいい」
二人は並んで歩き出す。草が擦れ、朝の鳥が鳴く。森は少しだけ軽く息をする。鎖は鳴らず、弓も鳴らない。ただ、足音だけが、これから始まる奇妙な共同生活のリズムを刻んでいた。昼は狩人の整然、夜は鎖の警護。自由を憎む者と、自由のために縛りを設ける者。その矛盾は、まだ美しくはない。けれど、朝と夜の間の薄明かりのように、確かな境界と共存を予感させた。
夕方、太陽が森の端に引っかかるころ、エルバートは小川のほとりに灯りを点けた。振り向くと、黒と赤の薔薇が風に揺れ、鉄鎖が無言で立っていた。白い瞳が灯りを映し、彼は小さく頷く。
「そんなに嫌なら傍にいて」
エルバートは繰り返す。今度は、少しだけ柔らかく。
鉄鎖は答えない。代わりに、鎖が音もなく地面に伸び、家の周りにゆるやかな輪を描いた。締めすぎない輪。守るための輪。夜が降りる。二人の影が、やがて一つに重なった。



