夜のバス停、しとしと雨。ネオンの反射がアスファルトに滲んで、世界が少しだけ柔らかく見える時刻だった。鉄鎖は傘を差さない。濡れた黒髪は染料の艶をさらに深くし、白い瞳に血色のカラコンが灯を宿す。黒地に赤い薔薇柄のブレザーとプリーツミニスカート、膝上で揺れる裾。後ろ髪の赤いリボンが雨粒をはじくたび、金属のような音が指先の錯覚で鳴る。両腕の黒鉄の鎖ブレスレットは、今日も彼の呼吸と同じリズムで微かに震えていた。
そこに、スニーカーの軽い足音。ショートカットの髪が雨に濡れても、彼女は気にしない。白いシャツに薄手のブルゾン、少年のような輪郭に、淑女の凛とした気品。あの出会い系の小さな画面の向こうで笑っていた“リルケ”が、現実に輪郭を取り戻して、鉄鎖の目の前で立ち止まる。
「……リルケ」
鉄鎖の声は、張られた弦のように低く、細い。リルケは彼の足元から頭のてっぺんまで一瞬で視線を走らせ、眉をひそめた。怒りというより、驚きと、呆れと、困惑が渦を巻く。
「なんであの時、言わないの!?」
あの時——初めて会った日。鉄鎖はノーメイクで、ジーンズにジャケット、タンクトップ。性別の輪郭を最小限にして、ただ“会うこと”だけを確かめた。女に恋したいという夢。依存の影。鎖の手。何も、言わなかった。
鉄鎖は唇を噛む。血色のアイラインの下で、白い瞳が揺れた。
「怖かった。君が、僕の趣味も、弱さも、鎖も、軽蔑するのが。僕は……自由を憎む。だから、君まで縛りそうで」
リルケは一歩、近づく。雨音がふたりの間で急に大きくなった気がした。
「私、軽蔑なんてしてない。怒ってるのは、隠したこと。正直でいてくれたら、私は走るの、得意なんだから。問題は山ほどあっても、一緒に走れた」
鉄鎖の喉が鳴る。彼は息を飲み、目を伏せた。
「じゃあ、今言う。僕は、重度に偏ってる。依存相手がいないと崩れる。君を、鎖で繋いでおきたいって、心の底で思ってる。僕の能力は、封印と拘束に特化してる。君は、そんな僕を……」
「受け止められるか、って?」
リルケの声は風上から来るみたいに真っ直ぐだった。けれど次の瞬間、鉄鎖の頬を涙が伝って落ちる。彼は自分でも驚くほど早く身を翻し、雨の路地へ駆け出した。
逃げたのは、拒絶される未来から。あるいは、受け入れられる未来から。
細い路地の出口に、革靴の男たちが立っていた。目つきは悪く、笑いはさらに悪い。ジャラ、と本物の鎖が地面をひっかく音。言葉より先に、手が伸びた。肩を掴まれ、壁に押し付けられ、鉄鎖の背にざらついた感触が走る。
「おいおい、派手な目だな、兄ちゃん……いや、お嬢ちゃんか?」
触れられた瞬間、鉄鎖の皮膚がぞわりと逆立つ。恐怖と嫌悪、そして本能的な拒絶が一気に火柱を上げ、次の瞬間には落ちていた涙が蒸発した。両腕のブレスレットが金属音を立て、黒く艶めく鎖にほどける。掌から肘、肘から肩へ、身体が静かに変形していく。黒い蛇のような鎖が空気を裂き、男の手首を絡め取った。
「触るな」
低い声が、雨音を一瞬で静めた。男が叫び、仲間が動く。刃物の光。その刹那、風を切る足音がもうひとつ。
「離れろ!」
リルケの膝蹴りが刃物を持った手首に正確に入る。刃が落ち、鉄鎖の鎖がそれを拾うように弾き、地面に固定した。もうひとりが背後から回り込む。リルケは躊躇なく回し蹴りで側頭部を捉え、倒れ込んだ体から力が抜ける。彼女の動きは、さっぱりとした性格そのままに無駄がない。爽やかな風のように見えて、実際は雷だ。
「鉄鎖! 前!」
リルケの声に、鉄鎖は反射で左腕を鎖にして突き出した。細い鎖が瞬時に太く編まれ、盾のように展開。突進してきた不良の胸を受け止め、逆に絡め取る。鍵の感覚が掌に宿る。封印、縛り、引き裂き——彼の特性が正確に、冷たく働く。倒れた男たちの呼吸はある。必要以上はやらない。破壊の鎖は、いまはただ守るために締まる。
最後のひとりが背を見せた瞬間、リルケが鉄鎖の肩にそっと触れた。
「追わない。ここまで」
その一言で、鎖は静かに萎み、ブレスレットという日常の形に収まった。雨音が戻る。リルケは胸で息を整えながら、鉄鎖の顔を覗き込んだ。
「泣くなら、逃げる前に私の前で泣け。ずるいよ」
鉄鎖は唇を震わせる。白い瞳に、今度は違う光が灯る。崩れてしまいそうな依存を、正直に晒す怖さ。けれど、いま肩に置かれた手の温度が、それをひとつずつ紐解いていく。
「僕は、君を繋ぎたい。鎖で。僕と世界を、君で繋ぎ止めたい」
「繋ぐのも、ほどくのも、合図を決めよう。鍵は私にも持たせて」
鉄鎖は一瞬、理解できずに瞬く。リルケは微笑んだ。男装でも女装でもない、その人自身の笑み。
「私は淑女だよ。丁寧に話して、丁寧に触れて、丁寧に走る。支配じゃなくて、信頼で。あなたの鎖が暴れそうになったら、私が止める。あなたが崩れそうになったら、私が抱える。代わりに、隠し事はなし。今度は走る方向、一緒に決める」
雨が小降りになる。街灯の下、鉄鎖の赤いリボンが小さく揺れた。彼は膝から力を抜いて、地面に座り込みそうになるのを、リルケの腕が支える。
「……君は、強い」
「うん。あなたも強い。だから、お互いの強さを無駄にしない」
鉄鎖は、彼女の手の中に自分の手を差し入れた。鎖の冷たさと、掌の温かさが同時に走る。彼はゆっくりと頷いた。
「鍵は、半分君に預ける。僕の“破壊の鎖”は、君の“合図”で動く」
リルケは満足げに目を細めた。
「よろしい。じゃ、まずは温かいもの飲もう。震え止まるまで、走らない」
ふたりは並んで歩き出す。雨の匂いが薄れ、夜風が軽くなる。バス停のネオンはもう濡れた路面に滲まず、はっきりとした輪郭で、ふたりの影を先へ先へと伸ばした。
再会は偶然だった。けれど、よりを戻すのは偶然ではない。隠された言葉が、戦いの中でほどけ、鍵がふたりの間で分かち合われたからだ。鉄鎖の鎖は、いまも腕に巻かれている。けれどその先端は、リルケの指先へと、柔らかく続いている。自由を憎む彼の世界に、生まれて初めて、自分で選んだ“結び目”ができた夜だった。
そこに、スニーカーの軽い足音。ショートカットの髪が雨に濡れても、彼女は気にしない。白いシャツに薄手のブルゾン、少年のような輪郭に、淑女の凛とした気品。あの出会い系の小さな画面の向こうで笑っていた“リルケ”が、現実に輪郭を取り戻して、鉄鎖の目の前で立ち止まる。
「……リルケ」
鉄鎖の声は、張られた弦のように低く、細い。リルケは彼の足元から頭のてっぺんまで一瞬で視線を走らせ、眉をひそめた。怒りというより、驚きと、呆れと、困惑が渦を巻く。
「なんであの時、言わないの!?」
あの時——初めて会った日。鉄鎖はノーメイクで、ジーンズにジャケット、タンクトップ。性別の輪郭を最小限にして、ただ“会うこと”だけを確かめた。女に恋したいという夢。依存の影。鎖の手。何も、言わなかった。
鉄鎖は唇を噛む。血色のアイラインの下で、白い瞳が揺れた。
「怖かった。君が、僕の趣味も、弱さも、鎖も、軽蔑するのが。僕は……自由を憎む。だから、君まで縛りそうで」
リルケは一歩、近づく。雨音がふたりの間で急に大きくなった気がした。
「私、軽蔑なんてしてない。怒ってるのは、隠したこと。正直でいてくれたら、私は走るの、得意なんだから。問題は山ほどあっても、一緒に走れた」
鉄鎖の喉が鳴る。彼は息を飲み、目を伏せた。
「じゃあ、今言う。僕は、重度に偏ってる。依存相手がいないと崩れる。君を、鎖で繋いでおきたいって、心の底で思ってる。僕の能力は、封印と拘束に特化してる。君は、そんな僕を……」
「受け止められるか、って?」
リルケの声は風上から来るみたいに真っ直ぐだった。けれど次の瞬間、鉄鎖の頬を涙が伝って落ちる。彼は自分でも驚くほど早く身を翻し、雨の路地へ駆け出した。
逃げたのは、拒絶される未来から。あるいは、受け入れられる未来から。
細い路地の出口に、革靴の男たちが立っていた。目つきは悪く、笑いはさらに悪い。ジャラ、と本物の鎖が地面をひっかく音。言葉より先に、手が伸びた。肩を掴まれ、壁に押し付けられ、鉄鎖の背にざらついた感触が走る。
「おいおい、派手な目だな、兄ちゃん……いや、お嬢ちゃんか?」
触れられた瞬間、鉄鎖の皮膚がぞわりと逆立つ。恐怖と嫌悪、そして本能的な拒絶が一気に火柱を上げ、次の瞬間には落ちていた涙が蒸発した。両腕のブレスレットが金属音を立て、黒く艶めく鎖にほどける。掌から肘、肘から肩へ、身体が静かに変形していく。黒い蛇のような鎖が空気を裂き、男の手首を絡め取った。
「触るな」
低い声が、雨音を一瞬で静めた。男が叫び、仲間が動く。刃物の光。その刹那、風を切る足音がもうひとつ。
「離れろ!」
リルケの膝蹴りが刃物を持った手首に正確に入る。刃が落ち、鉄鎖の鎖がそれを拾うように弾き、地面に固定した。もうひとりが背後から回り込む。リルケは躊躇なく回し蹴りで側頭部を捉え、倒れ込んだ体から力が抜ける。彼女の動きは、さっぱりとした性格そのままに無駄がない。爽やかな風のように見えて、実際は雷だ。
「鉄鎖! 前!」
リルケの声に、鉄鎖は反射で左腕を鎖にして突き出した。細い鎖が瞬時に太く編まれ、盾のように展開。突進してきた不良の胸を受け止め、逆に絡め取る。鍵の感覚が掌に宿る。封印、縛り、引き裂き——彼の特性が正確に、冷たく働く。倒れた男たちの呼吸はある。必要以上はやらない。破壊の鎖は、いまはただ守るために締まる。
最後のひとりが背を見せた瞬間、リルケが鉄鎖の肩にそっと触れた。
「追わない。ここまで」
その一言で、鎖は静かに萎み、ブレスレットという日常の形に収まった。雨音が戻る。リルケは胸で息を整えながら、鉄鎖の顔を覗き込んだ。
「泣くなら、逃げる前に私の前で泣け。ずるいよ」
鉄鎖は唇を震わせる。白い瞳に、今度は違う光が灯る。崩れてしまいそうな依存を、正直に晒す怖さ。けれど、いま肩に置かれた手の温度が、それをひとつずつ紐解いていく。
「僕は、君を繋ぎたい。鎖で。僕と世界を、君で繋ぎ止めたい」
「繋ぐのも、ほどくのも、合図を決めよう。鍵は私にも持たせて」
鉄鎖は一瞬、理解できずに瞬く。リルケは微笑んだ。男装でも女装でもない、その人自身の笑み。
「私は淑女だよ。丁寧に話して、丁寧に触れて、丁寧に走る。支配じゃなくて、信頼で。あなたの鎖が暴れそうになったら、私が止める。あなたが崩れそうになったら、私が抱える。代わりに、隠し事はなし。今度は走る方向、一緒に決める」
雨が小降りになる。街灯の下、鉄鎖の赤いリボンが小さく揺れた。彼は膝から力を抜いて、地面に座り込みそうになるのを、リルケの腕が支える。
「……君は、強い」
「うん。あなたも強い。だから、お互いの強さを無駄にしない」
鉄鎖は、彼女の手の中に自分の手を差し入れた。鎖の冷たさと、掌の温かさが同時に走る。彼はゆっくりと頷いた。
「鍵は、半分君に預ける。僕の“破壊の鎖”は、君の“合図”で動く」
リルケは満足げに目を細めた。
「よろしい。じゃ、まずは温かいもの飲もう。震え止まるまで、走らない」
ふたりは並んで歩き出す。雨の匂いが薄れ、夜風が軽くなる。バス停のネオンはもう濡れた路面に滲まず、はっきりとした輪郭で、ふたりの影を先へ先へと伸ばした。
再会は偶然だった。けれど、よりを戻すのは偶然ではない。隠された言葉が、戦いの中でほどけ、鍵がふたりの間で分かち合われたからだ。鉄鎖の鎖は、いまも腕に巻かれている。けれどその先端は、リルケの指先へと、柔らかく続いている。自由を憎む彼の世界に、生まれて初めて、自分で選んだ“結び目”ができた夜だった。



