夜の黒城では、風の音さえ整列していた。塔の頂から街を見下ろすと、歩哨の灯りは直線を描き、巡回の靴音は等間隔に刻まれる。息づくものすべてが「秩序」の名で縛られているように見えた。
ガシャバは手すりに片手を置いた。刈り上げた白髪が月光を返し、白い瞳は雪のように冷たい。彼は一言で隊列を止め、都市の心拍を落とすことすらできる男だ。
秘密警察長官、治安の番人。彼の信条は石碑のように揺るがない——秩序なくして国家なし。痛みは必要悪。
背後の扉が音もなく開く。黒薔薇のブレザーにプリーツのミニスカート。後ろ髪には血色のリボン、両腕には黒鉄の鎖のブレスレット。白い瞳に血色のカラコン、黒のアイラインとアイシャドウ。鉄鎖——黒城の警備隊長。彼は踵を止め、感情の色を塗りつぶした顔で立った。
「報告」
ガシャバの声は刃の背。命令の輪郭だけがある。
鉄鎖は頷く。
「地下回廊、反逆派の残滓を捕縛済み。鍵は破棄しました」
その「鍵」とは、望めば鎖に変じる身体。封印と拘束を司る異能だ。足元の影がわずかに揺らぎ、足首に沿って細い黒鎖が現れては消える。癖のような、呼吸のような変形。彼の支配欲は無音で、しかし確実に這う。自由を憎み、すべてを繋ぎ止めたい。鎖がなければ崩れる自分を知っているからだ。
「反逆は思想ではなく、形状だ」
ガシャバは街を見たまま言った。
「だらしなく広がるものは、切るか、縛る」
鉄鎖は無表情のまま、ほんの一瞬だけ喉仏が上下した。それは喜悦か、安堵か、渇望か——彼自身にも名づけられない。彼の世界は「依存」と「服従」の二語でできている。中心点がなければ蜘蛛の巣ごと崩れる。だから彼は中心だ。命令は鎖で、彼はそれに絡みつき、形を得る。
「地下へ行く」
ガシャバは踵を返す。
「遅れるな」
「はい」
二人は螺旋階段を降りた。壁は湿り、古い石は夜の冷たさを抱えている。踊り場で、鉄鎖のブレスレットが音もなくほどけ、細い黒鎖となって床を這い、鍵穴のない扉の隙間へ吸い込まれていった。次の瞬間、扉は内側から縫い止められたように歪み、鉄鎖が軽く手を払うと、鎖はそれを引き裂いた。
部屋の中には三人。目隠し、猿轡、手足の拘束。壁には乱暴な筆致の言葉——自由、解放、未来。呼吸するだけで真夜中の警報のように響く単語だ。
ガシャバは近づき、一人の前に屈む。白い瞳が、怯えた男の濁った虹彩を掴む。
「名前」
「……レイ、です」
「レイ。秩序は痛みを伴う。だが、痛みが秩序を産むこともある」
レイは唇を震わせた。
「あんたは、痛みしか見てない」
ガシャバは短く首を振る。彼自身、胸骨の裏に凍てついた傷跡を持っている。かつて都市が崩れた夜、彼は叫ばないことを選び、泣かないことを選んだ。その選択は今も身体の芯に鉄の棒のように通っている。秩序。彼はそれ以外の言葉を捨て、残った唯一の骨を磨き続けた。
「鉄鎖」
呼ばれて、彼の肩が微かに震えた。名を呼ぶだけで、世界が中心へ引き寄せられる。
「痛みを正しい形に」
「了解」
鉄鎖の指先が黒く滲み、細い鎖が指輪のように絡む。鎖は床のほこりを引き連れて滑り、反逆者の足首に触れた瞬間、冷たい輪が閉じた。封印。縛り。断ち切り。彼の能力は抵抗を形ごと奪う。男は呻いたが、骨は折れない。筋肉も傷まない。ただ、暴れる意志だけが鎖の環にひっそりと封じられていく。
「君の『自由』は、君を壊す」
鉄鎖が静かに言う。感情はない。だが、その空白は砂漠の夜のように深い。
「壊れるなら、鎖で形を与える」
ガシャバは息を吐くでも吸うでもなく、呼吸を秩序の一部として置き直す。
「連行。処理は規定三十二条」
「はい」
儀礼のような瞬きののち、鉄鎖はレイから視線を外し、ガシャバの後を追った。扉の残骸を跨ぐとき、彼のブーツが砕けた石片をやさしく押しのける。歩幅は彼の半歩後ろで揃い、影は一つの線になった。
廊下の曲がり角で、突然、天井から瓦礫が落ちた。遅れて響く爆裂音。遠くで火薬が使われたらしい。瞬間、ガシャバは鉄鎖の肩を掴み、壁に押しつける。破片が二人の間を低い風のように抜けた。白い瞳がわずかに揺れる。
「平気です」
鉄鎖の声は機械的だが、骨の一本一本が、触れられたことを記憶した。彼はその記憶を、首の後ろの赤いリボンにそっと結びつける。ほどけないよう、強く。
ガシャバは手を離した。
「続ける」
それだけ。だが、それで充分だった。鉄鎖にとっては、赦しの代わりに与えられる命令が、最も甘い鎖だ。
地上に戻ると、夜がわずかに薄まっていた。黒城の壁は灰色に染まりはじめ、塔の上では鳥の鳴き声が、規律を知らぬ音で試しに空を叩く。ガシャバは耳を澄まさない。乱れた音は世界の端に置けばいい。
「報告をまとめます」
鉄鎖が言う。
「三十二条に基づき封印の継続、再教育の申請。鍵は僕が保持」
「許可する」
二人の会話は最短距離の合図。甘言はない。だが鉄鎖は知っている。彼が自分にも無慈悲であること。その剣は内にも外にも突き立てられていること。だからこそ、彼に鎖を求める。彼が折れない限り、自分は崩れ落ちないと信じられるからだ。
城門を背に、ガシャバが足を止める。振り向かずに言った。
「鉄鎖」
「はい」
「お前の鎖は、美しい」
鉄鎖の心臓が一拍遅れた。表情は動かない。だが、両腕の黒鉄のブレスレットが微かに鳴る。彼は静かに膝を折り、片手を胸に添えた。誓いの姿勢。
「君のために在ります」
その言葉は夜明けの最初の光のように薄く、しかし確かだった。ガシャバは頷きもせず歩き出す。秩序は歩く。痛みは必要悪。彼の背に、鉄鎖は黙って繋がる。黒い鎖は影に混じり、街の朝に溶けていった。
この都市には二種類の鎖がある。目に見える鎖と、目に見えない鎖。前者は鉄鎖が扱い、後者はガシャバが張る。どちらも解けない。解こうとすればするほど、きつくなる。だが、その締めつけの中で、人は形を得ることもある。少なくとも、彼ら二人はそう信じている。
信条は信仰に似て、時に人を救い、時に人を壊す。黒城の朝は、破片と祈りの中間にあった。白い瞳の男は前を向き、黒い鎖の男はついてゆく。靴音は相変わらず等間隔だ。規律の音。あるいは静かな祈りの音。誰にも聞き分けられないが、確かに都市の心拍を刻む音だった。
ガシャバは手すりに片手を置いた。刈り上げた白髪が月光を返し、白い瞳は雪のように冷たい。彼は一言で隊列を止め、都市の心拍を落とすことすらできる男だ。
秘密警察長官、治安の番人。彼の信条は石碑のように揺るがない——秩序なくして国家なし。痛みは必要悪。
背後の扉が音もなく開く。黒薔薇のブレザーにプリーツのミニスカート。後ろ髪には血色のリボン、両腕には黒鉄の鎖のブレスレット。白い瞳に血色のカラコン、黒のアイラインとアイシャドウ。鉄鎖——黒城の警備隊長。彼は踵を止め、感情の色を塗りつぶした顔で立った。
「報告」
ガシャバの声は刃の背。命令の輪郭だけがある。
鉄鎖は頷く。
「地下回廊、反逆派の残滓を捕縛済み。鍵は破棄しました」
その「鍵」とは、望めば鎖に変じる身体。封印と拘束を司る異能だ。足元の影がわずかに揺らぎ、足首に沿って細い黒鎖が現れては消える。癖のような、呼吸のような変形。彼の支配欲は無音で、しかし確実に這う。自由を憎み、すべてを繋ぎ止めたい。鎖がなければ崩れる自分を知っているからだ。
「反逆は思想ではなく、形状だ」
ガシャバは街を見たまま言った。
「だらしなく広がるものは、切るか、縛る」
鉄鎖は無表情のまま、ほんの一瞬だけ喉仏が上下した。それは喜悦か、安堵か、渇望か——彼自身にも名づけられない。彼の世界は「依存」と「服従」の二語でできている。中心点がなければ蜘蛛の巣ごと崩れる。だから彼は中心だ。命令は鎖で、彼はそれに絡みつき、形を得る。
「地下へ行く」
ガシャバは踵を返す。
「遅れるな」
「はい」
二人は螺旋階段を降りた。壁は湿り、古い石は夜の冷たさを抱えている。踊り場で、鉄鎖のブレスレットが音もなくほどけ、細い黒鎖となって床を這い、鍵穴のない扉の隙間へ吸い込まれていった。次の瞬間、扉は内側から縫い止められたように歪み、鉄鎖が軽く手を払うと、鎖はそれを引き裂いた。
部屋の中には三人。目隠し、猿轡、手足の拘束。壁には乱暴な筆致の言葉——自由、解放、未来。呼吸するだけで真夜中の警報のように響く単語だ。
ガシャバは近づき、一人の前に屈む。白い瞳が、怯えた男の濁った虹彩を掴む。
「名前」
「……レイ、です」
「レイ。秩序は痛みを伴う。だが、痛みが秩序を産むこともある」
レイは唇を震わせた。
「あんたは、痛みしか見てない」
ガシャバは短く首を振る。彼自身、胸骨の裏に凍てついた傷跡を持っている。かつて都市が崩れた夜、彼は叫ばないことを選び、泣かないことを選んだ。その選択は今も身体の芯に鉄の棒のように通っている。秩序。彼はそれ以外の言葉を捨て、残った唯一の骨を磨き続けた。
「鉄鎖」
呼ばれて、彼の肩が微かに震えた。名を呼ぶだけで、世界が中心へ引き寄せられる。
「痛みを正しい形に」
「了解」
鉄鎖の指先が黒く滲み、細い鎖が指輪のように絡む。鎖は床のほこりを引き連れて滑り、反逆者の足首に触れた瞬間、冷たい輪が閉じた。封印。縛り。断ち切り。彼の能力は抵抗を形ごと奪う。男は呻いたが、骨は折れない。筋肉も傷まない。ただ、暴れる意志だけが鎖の環にひっそりと封じられていく。
「君の『自由』は、君を壊す」
鉄鎖が静かに言う。感情はない。だが、その空白は砂漠の夜のように深い。
「壊れるなら、鎖で形を与える」
ガシャバは息を吐くでも吸うでもなく、呼吸を秩序の一部として置き直す。
「連行。処理は規定三十二条」
「はい」
儀礼のような瞬きののち、鉄鎖はレイから視線を外し、ガシャバの後を追った。扉の残骸を跨ぐとき、彼のブーツが砕けた石片をやさしく押しのける。歩幅は彼の半歩後ろで揃い、影は一つの線になった。
廊下の曲がり角で、突然、天井から瓦礫が落ちた。遅れて響く爆裂音。遠くで火薬が使われたらしい。瞬間、ガシャバは鉄鎖の肩を掴み、壁に押しつける。破片が二人の間を低い風のように抜けた。白い瞳がわずかに揺れる。
「平気です」
鉄鎖の声は機械的だが、骨の一本一本が、触れられたことを記憶した。彼はその記憶を、首の後ろの赤いリボンにそっと結びつける。ほどけないよう、強く。
ガシャバは手を離した。
「続ける」
それだけ。だが、それで充分だった。鉄鎖にとっては、赦しの代わりに与えられる命令が、最も甘い鎖だ。
地上に戻ると、夜がわずかに薄まっていた。黒城の壁は灰色に染まりはじめ、塔の上では鳥の鳴き声が、規律を知らぬ音で試しに空を叩く。ガシャバは耳を澄まさない。乱れた音は世界の端に置けばいい。
「報告をまとめます」
鉄鎖が言う。
「三十二条に基づき封印の継続、再教育の申請。鍵は僕が保持」
「許可する」
二人の会話は最短距離の合図。甘言はない。だが鉄鎖は知っている。彼が自分にも無慈悲であること。その剣は内にも外にも突き立てられていること。だからこそ、彼に鎖を求める。彼が折れない限り、自分は崩れ落ちないと信じられるからだ。
城門を背に、ガシャバが足を止める。振り向かずに言った。
「鉄鎖」
「はい」
「お前の鎖は、美しい」
鉄鎖の心臓が一拍遅れた。表情は動かない。だが、両腕の黒鉄のブレスレットが微かに鳴る。彼は静かに膝を折り、片手を胸に添えた。誓いの姿勢。
「君のために在ります」
その言葉は夜明けの最初の光のように薄く、しかし確かだった。ガシャバは頷きもせず歩き出す。秩序は歩く。痛みは必要悪。彼の背に、鉄鎖は黙って繋がる。黒い鎖は影に混じり、街の朝に溶けていった。
この都市には二種類の鎖がある。目に見える鎖と、目に見えない鎖。前者は鉄鎖が扱い、後者はガシャバが張る。どちらも解けない。解こうとすればするほど、きつくなる。だが、その締めつけの中で、人は形を得ることもある。少なくとも、彼ら二人はそう信じている。
信条は信仰に似て、時に人を救い、時に人を壊す。黒城の朝は、破片と祈りの中間にあった。白い瞳の男は前を向き、黒い鎖の男はついてゆく。靴音は相変わらず等間隔だ。規律の音。あるいは静かな祈りの音。誰にも聞き分けられないが、確かに都市の心拍を刻む音だった。



