黒城の高塔は、嵐の夜にだけ低く唸る。鉄と石が擦れ合う音が、遠雷の間に忍び込むたび、足元から城全体が呼吸をしているように感じられた。

その塔の最上部、冷えきった回廊に、黒い鎖が一本、静かに転がっていた。鎖は生き物のように微細に震え、やがて人の腕へ、肩へ、喉元へと形を取り戻す。鉄鎖が目を開いた。

瞳は白く、縁には血色のカラコン。染め抜いた漆黒の短髪が湿り気を帯び、後ろ髪の赤いリボンだけが、夜の闇の中で華やかに浮かぶ。黒城の警備隊長は立ち上がってスカートの裾を払うと、無言で両腕のブレスレットに触れた。黒鉄の鎖が軽く鳴り、城と彼の脈拍が一瞬、同じリズムになる。

「……遅いな」

彼の声は感情を拒んだ平板な響きだった。上層部の命で、今夜は“聖戦部隊長”と会見する。この城に客として迎えるべきか、敵として封じるべきか。その判断を鉄鎖は一人で下さない。下せない。彼は鎖で繋がれなければ崩れる。だから、命令という鎖に身を委ねる。

塔の扉が、内側から薙ぎ払うように開いた。炎の匂いと熱が流れ込む。

「道は開けられたか!」

先に言葉が飛び込んできた。ゴールハボル──炎のような白短髪、熱に浮かされたような白い眼差し、強靭な体躯。彼は足を踏み入れるなり、回廊の風に胸を開いた。灯火のない廊下さえ、彼の体温で明るむのではないかと思える。

「聖戦部隊長、ゴールハボルだ。黒城の鉄鎖よ──」

「……上層部の客だな。通す」

鉄鎖は一礼も笑みもない。ゴールハボルは構わず一歩近づいた。視線はまっすぐ、まるで祈りの矢のようだ。

「客ではない。“同志”になりに来た。炎のごとく燃え盛る者は、孤立してはならない。命は捧げるものだからだ」

「命は、鎖で繋ぐものだ。自由は、内乱だ」

二人の言葉は噛み合わない。それでも、どこか響き合う。理想は異なるのに、依存と献身という同じ重力に引かれていた。

塔からの眺めは、黒い雲の海だった。遠く、稲光が荒野の骨格を露わにする。ゴールハボルは欄干に手を置き、荒野へと叫んだ。

「聞け、黒城! 我らは聖戦の鐘を鳴らす! 闇は束縛され、炎により浄められる!」

鉄鎖の睫毛が微かに動いた。感情は外へ漏れない。だが、胸骨の奥で何かがきしむ。

「……騒がしい」

「鼓舞だ。血潮を沸かせる言葉は、心の鎖を断つ炎になる」

「鎖は断たれない。断てば、落ちる」

ゴールハボルは目を細めた。鉄鎖の声には、熱も冷笑もない。空白だ。だが、その空白を埋めるものがあると知っている者の声でもあった。

「上層部か」

鉄鎖は応えない。だが両腕の黒鉄が、微かにきしむ音を立てた。

「お前の忠誠は硬い。美しい。盲目的なほどに。僕も同じだ。炎への信仰、仲間への愛、勝利への渇望。僕はそれらに燃える。だから、時に焼け残るものが何もない。自己を食むほどに熱くなる」

熱に浮かされた目が、嵐よりも危うい。鉄鎖は一瞬、視線を逸らした。炎は縛れない。だが、炎を囲う炉は作れる。

「……任務だ。君を“通す”。ただし、黒城の規律に従え。勝手は許さない」

「従おう。約束しよう。だが、聖戦の叫びを殺せとは言うな」

「声量を半分に」

ゴールハボルは、素直に笑った。熱はそのままに、音だけが少し静まる。

二人は回廊を進んだ。壁には緋の薔薇の織物、床には雨に濡れた足跡。鉄鎖のブレザーの薔薇柄が、壁の織物と一瞬、重なって見えた。彼の服装は、戦場の甲冑よりも私的で、戦場の甲冑よりも矛盾に満ちている。装いは自由の宣言でありながら、彼自身は自由を憎む。だからこそ、装いは彼の牢獄の鍵でもある。

「鉄鎖」

背後から呼ばれ、振り返る間もなく、ゴールハボルは近づいてきた。手は伸びない。距離は適切に保たれる。ただ、声だけが強く、真っ直ぐだ。

「お前は、何を守る?」

「黒城の秩序」

「誰を守る?」

「上層部」

「それで、自分は?」

鉄鎖は止まった。回廊の窓から、稲光が二人の影を銀に切り抜く。鉄鎖の顔は無表情だ。だが、答える前に喉仏が上下した。

「……鎖がある。守る必要はない」

「鎖は守らない。繋ぐだけだ。守るのは、意志だ」

押し付けがましい熱さ。それでも、鉄鎖はその熱を嫌わなかった。炎は不安定で危険だが、凍えた鉄には必要な温度がある。

「なら、証明しろ。お前の炎で、黒城に巣食う“鍵穴獣”を焼け」

黒城の地下に、古い儀式の失敗が穴を開けている。意識を持たない鍵穴の怪物は、触れたものから“自由”を吸い上げ、空虚だけを残す。鉄鎖はそれを何度も縛り、封じ、裂いた。だが、鍵穴は形を変えて蘇る。鎖は繋げるが、穴は埋められない。

「行こう」

ゴールハボルの声は、先ほどより低かった。嵐の中の灯明のように、無理のない熱だ。

地下の大広間は、石のアーチが延々と続く、冷たく湿った空洞だ。床には黒い孔がぽっかりと開き、孔の縁は鍵穴の形に脈打っていた。周囲に縫い付けられた護符はちぎれ、鎖は引き延ばされ、息絶えた蛇のように床に散っている。

「自由は、空洞だ」

鉄鎖は囁き、両腕のブレスレットを鳴らした。彼の指先がほどけ、黒い鎖に変わる。鎖は地面を這い、孔の縁へと伸び、輪を作り始めた。封印の文様が鎖の節に走り、鍵の歯が噛み合う音が、石の天井に反響する。

「僕は自由を怖れない。炎は形を与える。空虚に光を満たす」

ゴールハボルは胸に刻印のような古い祈りを描き、息を吸い込む。彼の白い目は、炎に照らされる前の灰の色をしていた。

「炎のごとく燃え盛れ。命は捧げるもの」

孔が震えた。音にならない叫びが、骨に触れる。鎖が一瞬、弾けた。鉄鎖の肩から血が滲む。彼は眉を動かさない。感情は、繋がれた先でしか燃えない。

「まだだ。締めろ」

鉄鎖の声が低く鋭い。鎖がさらに深く孔に食い込み、鍵の歯が噛み合う。そこへ、ゴールハボルの熱が注がれた。炎は激しくなく、一定だ。炉の火のように持続し、孔の縁を焼き締める。

「もっと。お前は、叫ぶべきだ」

「叫びは刃だ。いまは炉だ」

自分の言葉に自分が驚いたのか、ゴールハボルは小さく笑った。鉄鎖はその笑いを横目に、最後の封鍵を押し込む。鎖の輪が閉じ、鍵穴獣の鼓動は石の底へと押し戻される。静けさ。雨音だけが戻ってくる。

しばらくして、鉄鎖は力を抜いた。鎖は再び指先となり、手の甲の血が冷たく広がる。ゴールハボルは彼の傷に手を伸ばしかけ、寸前で止めた。彼は酷薄な優しさを知っている。触れれば、溢れるものがある。触れないことも保護だ。

「よくやった、鉄鎖」

「命令どおりだ」

「命令だけでは、炉の温度は保てない。君の内に、芯がある」

「芯は不要だ。芯は折れる」

ゴールハボルは、否定しなかった。彼は理想が折れる音を何度も聞いてきた。折れるたびに炎は燃え上がり、彼自身を焦がした。だから今回は、燃え上がらない火を選んだ。

「礼を言え、と上層部は言うか?」

鉄鎖が唐突に問うた。感情のない声のまま、彼は僅かに顔を上げる。白い瞳の奥には、微かな渇きがあった。

「上層部は、結果を見て判断する。礼は不要だと言うだろう」

「では、僕は言う。ありがとう」

ゴールハボルは一瞬、言葉を無くした。彼は多くの戦場で、歓声と悲鳴を聞き分けた。だが、感情のない声が告げる礼は初めてだった。そこに縛られた渇望が、彼の胸の熱に触れる。

「……こちらこそ」

彼らは地上へ戻る。嵐は去り始め、城の高塔には薄い朝の光が差し込んでいた。雨雲が裂け、空の向こうで太陽が鎖の輪のように滲む。

「黒城の規律に従う。約束は守る」

ゴールハボルが言うと、鉄鎖は頷いた。彼の頷きは、鎖の環のように確かだ。

「ただし、次は僕の番だ」

鉄鎖の言葉に、ゴールハボルは首を傾げる。

「番?」

「君の炎を、鎖で囲う。暴走を封じるために。必要なら、鍵をかける」

「……信頼されていない?」

「信頼は、拘束だ。拘束のない信頼は、裏切りだ」

奇妙な論理。だが、彼の骨格にとっては真実だった。ゴールハボルは笑い、両手を広げた。

「いいだろう。僕の炎を囲え。囲われた炉の火は、より強く燃える」

鉄鎖は、彼の周りを一周するように歩いた。目に見えない線が床に描かれていく。彼の両手がわずかに動くたび、細い黒い鎖の糸が、空気にきらめきもせず張り渡される。

「動くな」

「命ずる声だ。安心する」

「安心とは、拘束だ」

「お前にとっては、そうだろう。僕にとっては、寄る辺だ」

言葉の端が、互いの孤独を撫でていく。鎖が閉じた。炉の囲いが整う。ゴールハボルは深く息を吐き、その吐息に満ち足りた温度が混じる。

「これで、君は倒れない」

鉄鎖の声は、わずかに柔らいだ。彼は自分の両腕のブレスレットを確かめる。鎖の重みは、彼を地に繋ぎ止める。彼は自由を憎む。自由は落下だ。だから、彼は鎖を愛する。

「お前は?」

ゴールハボルが問う。鉄鎖は朝の薄光の中で、白い瞳を細めた。

「倒れるときは、一緒に」

ゴールハボルは笑った。熱はそのままに、音だけが静かだ。

「ならば、立つときも一緒に」

二人は高塔に並んで立ち、黒城の城壁を見下ろした。新しい日が、鎖の輪を光で縁取り、炎の芯を露わにしていく。彼らの信条は異なる。燃え盛ること、繋ぎ止めること。だが、その異なる信条が作り上げた炉と鎖は、互いの欠落を囲い、温め、守った。

そして、遠くで鐘が鳴る。戦いの合図ではない。修復の合図。黒城の城門が開き、聖戦部隊の旗と黒城の紋が、同じ風にたなびいた。

炎は囲われ、鎖は温められた。倒れるときも、立つときも、二人は一緒だ。孤独に手綱をかけ、理想に重りをつけ、依存という名の重力を、共同の軌道へと変えながら。