冷たい石の廊下に、二つの足音が響いていた。ひとつは規則正しい硬質な音、もうひとつは怒気を含んだ荒い拍動。並んで歩く二人は、互いに視線を交わさない。
「また無謀な作戦を立てたそうだな、ゴールハボル」
氷を思わせる低い声。白い瞳が、横目で聖戦部隊長を捉える。
「無謀? 違う、これは信仰だ」
ゴールハボルは振り返りもせず言い放った。白銀の短髪が炎のように揺れる。
「お前には理解できまい、ガシャバ。心を凍らせた男には」
「理解する必要はない。必要なのは秩序だ。お前の激情は計画を乱す」
「秩序、秩序、秩序!」
ゴールハボルは石壁に拳を叩きつけ、こぶしに鈍い痛みを刻む。
「それがお前の全てか? 血の通った人間のように生きてみろ」
短い沈黙。冷気が呼吸の形を浮かび上がらせる。
ガシャバの表情は微動だにしない。だが、白い瞳の奥に、一瞬だけ波打つ影が走った。
「…感情は弱さだ。痛みは必要悪。僕も、お前も、それを知っている」
ゴールハボルの拳がわずかに震える。
「僕は知っている。だからこそ燃えるんだ。この炎が消えたら、僕には何も残らない」
二人の視線が初めてまともに交錯する。氷と炎。どちらも過去に焼かれ、凍え、いまもなおその傷を鎧として纏っている。
「お前の作戦、僕が監視する」
ガシャバが踵を返した。
「好きにしろ」
唇を強く結び、ゴールハボルも背を向ける。足音は別々の方向へと遠ざかり、やがて灰色の要塞の静けさに溶けた。
首都の中心に屹立する灰の要塞。その最奥、秘密警察本部の一室は、冬の水面のように冷たい光で満ちていた。窓は細く、外の世界を許さない。書類の紙肌だけが白く、鋭かった。
ガシャバは机の端に手を置き、報告書を無音で繰る。白い瞳が淡々と文字を追い、余白に短い印を刻む。
「報告せよ。反乱分子の掃討は完了したか」
扉の前に立つゴールハボルは、胸の奥で鼓動を焦がしながら一歩進み出る。肩に帯びた白い軍衣には煤の痕が残り、乾いた血がわずかに黒ずんでいた。
「焼き尽くしました、長官。信仰なき者どもは国家の炎に浄化されました。僕の部隊は命を賭し、勝利を掴みました」
声は熱く、言葉は刃のように直線的だ。ガシャバは目を細める。
「熱情は良い。だが、部下を三人失った。無駄が多い」
「無駄?」
ゴールハボルはテーブルの角に拳を落とした。乾いた音が室内の空気を裂く。
「彼らは英雄だ。効率の数字で片づけるな。国家のため捧げた血に、お前の冷たい言葉は似合わない」
ガシャバは静かに立ち上がる。背は高く、肩幅は厚い。直立した影が、机越しにゴールハボルへと延びる。
「秩序なくして国家なし。痛みは必要悪だ。…僕も、かつてはお前のように燃えた。炎に家族を奪われ、残ったものを守るために凍った。使命だけが残った」
その声には、わずかな揺らぎがあった。氷の下を流れる細い水脈のように。ゴールハボルは息を呑む。彼の中の炎が、一瞬だけ穏やかな橙へと転じる。
「長官……貴方にも、そんな過去が」
言葉はそこで途切れる。代わりに、ガシャバの手が彼の肩に置かれた。握力は強く、しかし押し潰すことなく、位置をただ確かめるようだった。
「お前の炎は有用だ。だが、制御しなければ自分と部下を焼く。次は僕が同行する。根を断つ。無駄な血は流さない」
ゴールハボルは頷いた。頷きの奥で、恐れに似た感情が舌の裏に苦く広がる。孤独の味だ。信仰は彼に熱を与えたが、夜の静けさはいつも冷たかった。
「わかりました。貴方の秩序と僕の炎で、国家を守る」
二人は視線を交わし、背を向け、同じ扉へ向かって歩き出す。今度は足音が、奇妙に歩幅を合わせていた。
作戦の前夜、要塞の廊下には再び冷気が満ちていた。外では風が街路の旗を引きちぎり、遠くで鐘が死んだように鳴っている。灯火は最小限で、壁に映る影は長く歪んだ。
ガシャバが立ち止まる。足音が消えると、沈黙の形がはっきりする。
「ガシャバ」
呼び止める声は低いが、熱を孕んでいた。ゴールハボルは壁にもたれ、拳を開いたり閉じたりしている。
「もし僕の炎が暴走したら、迷わず切れ。僕は、そういう役目を負っている」
ガシャバは短く首を振る。否定の意味でも肯定の意味でもない、重みだけを伴った動きだった。
「炎は道具だ。灯も、刃も。使い方を誤らせないのが僕の役目だ。切るのは最後だ」
白い瞳がわずかに柔らいだ。ゴールハボルは片方の口角を上げる。笑いとも、嘲りともつかない微笑。
「お前の冷たさも、たまには役に立つ」
「お前の暑苦しさも、たまには必要だ」
二人のやり取りは短く、乾いている。だが、その短さの裏に、互いの欠落を埋め合う理解があった。秩序は方向を与え、信仰は速度を与える。国家という名の巨大な機構は、その両輪がかみ合って初めて前へ進む。
「出るぞ」
ガシャバの合図に、ゴールハボルは背筋を伸ばす。扉が開くたび、夜の空気が刃のように肌を撫でた。廊下に二つの足音が重なり、同じリズムで遠ざかっていく。
翌朝、灰の雨が降った。瓦礫とすすの匂いを含んだ粒が、静かに街を覆う。反乱の巣は市の北端にある古い煉瓦の工場だ。かつては火が商売だった場所に、いまは別の火が潜んでいる。
突入の号令は短く、正確だった。ガシャバの手が示す線に沿って、部隊は無駄なく動いた。ゴールハボルは先陣を切り、炎のような勢いで扉を蹴破る。内部で待ち伏せる銃火を、彼の吼える声が一瞬だけ怯ませる。
「後退線を保て。挟撃は二十秒後だ」
ガシャバの無色の声が、混乱の中で奇妙に鮮明に響く。二十秒後、側面の壁が破られ、逃走路が塞がる。ゴールハボルは敵の刃を受け流し、味方の射線に合わせて一歩だけ退いた。炎は、方向を得ると爆ぜずに灯り続けた。
短いが激しい戦闘ののち、工場は沈黙を取り戻した。硝煙と油の匂いが、灰の雨と混じる。倒れた者はいる——だが、彼らは最小限だった。
「……やはり、お前のやり方は嫌いだ」
ゴールハボルが息を吐き、血の付いた手袋を外しながら言う。言葉とは裏腹に、その声には初めて安堵が混じっていた。
「僕もお前のやり方は好かん」
ガシャバは無表情のまま、彼の肩に手を置いた。以前よりもわずかに軽い掌。灰が、二人の肩に同じように降り積もる。
「だが、結果は悪くない」
ゴールハボルは空を仰ぐ。灰色の雲が低く垂れ込め、日輪は薄く滲んでいる。彼はゆっくりと目を閉じ、胸の奥に燃える光を確かめた。
「この炎が消えない限り、僕は前に進む。お前が方向を示せ。僕が押し切る」
「ならば、歩調を合わせろ」
二人は視線を交わす。そこに友情はない。救済もない。ただ、任務があり、国家があり、過去の傷がある。だが、それで十分だった。欠けた部分は、互いの中に埋まっている。
廊下に戻る頃には、足音は再び二つになっていた。今度は、同じ速度、同じ重さ。氷と炎は溶け合わない。だが、隣り合えば風を切る。灰の要塞の中で、その足音はやがて別れ、別の方向へ消える。次の任務のために。次の痛みのために。そして、消えない炎のために。
「また無謀な作戦を立てたそうだな、ゴールハボル」
氷を思わせる低い声。白い瞳が、横目で聖戦部隊長を捉える。
「無謀? 違う、これは信仰だ」
ゴールハボルは振り返りもせず言い放った。白銀の短髪が炎のように揺れる。
「お前には理解できまい、ガシャバ。心を凍らせた男には」
「理解する必要はない。必要なのは秩序だ。お前の激情は計画を乱す」
「秩序、秩序、秩序!」
ゴールハボルは石壁に拳を叩きつけ、こぶしに鈍い痛みを刻む。
「それがお前の全てか? 血の通った人間のように生きてみろ」
短い沈黙。冷気が呼吸の形を浮かび上がらせる。
ガシャバの表情は微動だにしない。だが、白い瞳の奥に、一瞬だけ波打つ影が走った。
「…感情は弱さだ。痛みは必要悪。僕も、お前も、それを知っている」
ゴールハボルの拳がわずかに震える。
「僕は知っている。だからこそ燃えるんだ。この炎が消えたら、僕には何も残らない」
二人の視線が初めてまともに交錯する。氷と炎。どちらも過去に焼かれ、凍え、いまもなおその傷を鎧として纏っている。
「お前の作戦、僕が監視する」
ガシャバが踵を返した。
「好きにしろ」
唇を強く結び、ゴールハボルも背を向ける。足音は別々の方向へと遠ざかり、やがて灰色の要塞の静けさに溶けた。
首都の中心に屹立する灰の要塞。その最奥、秘密警察本部の一室は、冬の水面のように冷たい光で満ちていた。窓は細く、外の世界を許さない。書類の紙肌だけが白く、鋭かった。
ガシャバは机の端に手を置き、報告書を無音で繰る。白い瞳が淡々と文字を追い、余白に短い印を刻む。
「報告せよ。反乱分子の掃討は完了したか」
扉の前に立つゴールハボルは、胸の奥で鼓動を焦がしながら一歩進み出る。肩に帯びた白い軍衣には煤の痕が残り、乾いた血がわずかに黒ずんでいた。
「焼き尽くしました、長官。信仰なき者どもは国家の炎に浄化されました。僕の部隊は命を賭し、勝利を掴みました」
声は熱く、言葉は刃のように直線的だ。ガシャバは目を細める。
「熱情は良い。だが、部下を三人失った。無駄が多い」
「無駄?」
ゴールハボルはテーブルの角に拳を落とした。乾いた音が室内の空気を裂く。
「彼らは英雄だ。効率の数字で片づけるな。国家のため捧げた血に、お前の冷たい言葉は似合わない」
ガシャバは静かに立ち上がる。背は高く、肩幅は厚い。直立した影が、机越しにゴールハボルへと延びる。
「秩序なくして国家なし。痛みは必要悪だ。…僕も、かつてはお前のように燃えた。炎に家族を奪われ、残ったものを守るために凍った。使命だけが残った」
その声には、わずかな揺らぎがあった。氷の下を流れる細い水脈のように。ゴールハボルは息を呑む。彼の中の炎が、一瞬だけ穏やかな橙へと転じる。
「長官……貴方にも、そんな過去が」
言葉はそこで途切れる。代わりに、ガシャバの手が彼の肩に置かれた。握力は強く、しかし押し潰すことなく、位置をただ確かめるようだった。
「お前の炎は有用だ。だが、制御しなければ自分と部下を焼く。次は僕が同行する。根を断つ。無駄な血は流さない」
ゴールハボルは頷いた。頷きの奥で、恐れに似た感情が舌の裏に苦く広がる。孤独の味だ。信仰は彼に熱を与えたが、夜の静けさはいつも冷たかった。
「わかりました。貴方の秩序と僕の炎で、国家を守る」
二人は視線を交わし、背を向け、同じ扉へ向かって歩き出す。今度は足音が、奇妙に歩幅を合わせていた。
作戦の前夜、要塞の廊下には再び冷気が満ちていた。外では風が街路の旗を引きちぎり、遠くで鐘が死んだように鳴っている。灯火は最小限で、壁に映る影は長く歪んだ。
ガシャバが立ち止まる。足音が消えると、沈黙の形がはっきりする。
「ガシャバ」
呼び止める声は低いが、熱を孕んでいた。ゴールハボルは壁にもたれ、拳を開いたり閉じたりしている。
「もし僕の炎が暴走したら、迷わず切れ。僕は、そういう役目を負っている」
ガシャバは短く首を振る。否定の意味でも肯定の意味でもない、重みだけを伴った動きだった。
「炎は道具だ。灯も、刃も。使い方を誤らせないのが僕の役目だ。切るのは最後だ」
白い瞳がわずかに柔らいだ。ゴールハボルは片方の口角を上げる。笑いとも、嘲りともつかない微笑。
「お前の冷たさも、たまには役に立つ」
「お前の暑苦しさも、たまには必要だ」
二人のやり取りは短く、乾いている。だが、その短さの裏に、互いの欠落を埋め合う理解があった。秩序は方向を与え、信仰は速度を与える。国家という名の巨大な機構は、その両輪がかみ合って初めて前へ進む。
「出るぞ」
ガシャバの合図に、ゴールハボルは背筋を伸ばす。扉が開くたび、夜の空気が刃のように肌を撫でた。廊下に二つの足音が重なり、同じリズムで遠ざかっていく。
翌朝、灰の雨が降った。瓦礫とすすの匂いを含んだ粒が、静かに街を覆う。反乱の巣は市の北端にある古い煉瓦の工場だ。かつては火が商売だった場所に、いまは別の火が潜んでいる。
突入の号令は短く、正確だった。ガシャバの手が示す線に沿って、部隊は無駄なく動いた。ゴールハボルは先陣を切り、炎のような勢いで扉を蹴破る。内部で待ち伏せる銃火を、彼の吼える声が一瞬だけ怯ませる。
「後退線を保て。挟撃は二十秒後だ」
ガシャバの無色の声が、混乱の中で奇妙に鮮明に響く。二十秒後、側面の壁が破られ、逃走路が塞がる。ゴールハボルは敵の刃を受け流し、味方の射線に合わせて一歩だけ退いた。炎は、方向を得ると爆ぜずに灯り続けた。
短いが激しい戦闘ののち、工場は沈黙を取り戻した。硝煙と油の匂いが、灰の雨と混じる。倒れた者はいる——だが、彼らは最小限だった。
「……やはり、お前のやり方は嫌いだ」
ゴールハボルが息を吐き、血の付いた手袋を外しながら言う。言葉とは裏腹に、その声には初めて安堵が混じっていた。
「僕もお前のやり方は好かん」
ガシャバは無表情のまま、彼の肩に手を置いた。以前よりもわずかに軽い掌。灰が、二人の肩に同じように降り積もる。
「だが、結果は悪くない」
ゴールハボルは空を仰ぐ。灰色の雲が低く垂れ込め、日輪は薄く滲んでいる。彼はゆっくりと目を閉じ、胸の奥に燃える光を確かめた。
「この炎が消えない限り、僕は前に進む。お前が方向を示せ。僕が押し切る」
「ならば、歩調を合わせろ」
二人は視線を交わす。そこに友情はない。救済もない。ただ、任務があり、国家があり、過去の傷がある。だが、それで十分だった。欠けた部分は、互いの中に埋まっている。
廊下に戻る頃には、足音は再び二つになっていた。今度は、同じ速度、同じ重さ。氷と炎は溶け合わない。だが、隣り合えば風を切る。灰の要塞の中で、その足音はやがて別れ、別の方向へ消える。次の任務のために。次の痛みのために。そして、消えない炎のために。



