1. 坂本の独白
 

 遠い闇空に閃光が走り、タイの広大な水田地帯に稲光が沈む。

 銀色の雨粒が、流れ星のように窓を滑り落ちていく。

 増水した川の水は鉄橋のレールに迫り、列車は歯ぎしりのような軋みを上げながら、逃げるように通過した。

 ノートのページに、鉛筆で走り書きの数字が並んでいる。


 ―17時15分バンコク・フアランポーン駅 村瀬を見張る

 ―17時50分 村瀬、乗車確認

 ―18時10分 発車間際に乗車した黒いフードのレディボーイ?気になる

 ―19時00分 リサと食堂車へ リサの動画に黒いフードのレディボーイが横切る

 ―19時55分 アユタヤ着 山田長政で有名 村瀬の電話”午後10”きになる

              リサがレディボーイを追って降りる 赤いベンツ、発車寸前に目撃

 ―20時00分 アユタヤ発 ローティ・サイ・マイを食べ損ねた(笑)

              村瀬:異常なし

 ―20時38分 ロッブリー 猿の群れ、リサのおやつを奪う(どうでもいいか)

              村瀬:異常なし 個室から出る気配なし トイレは?

 ―22時00分 ナコンサワン(“天国の都”の意) 村瀬、遺体で発見

 ―01時15分 どこを走っているのだろう?雷雨が激しい。列車が揺れて眠れない。


 坂本はペン先を止め、車窓に映る自分の顔をじっと見つめた。

 ――この列車の中に、誰かが仕掛けた“意図”が潜んでいるのか?

 俺は村瀬をチェンマイまで追い詰めた。そこで終わるはずだった。

 しかし、村瀬はアユタヤで“消された”—まるで時間そのものが奪われたように。

 現場にいた三人の公安警察。

 奴らの視線は、協力者のそれではなかった。

 リサが言っていた――「やばい人たち」だと。

 その言葉が、今になって重く響く。

 タナチャイ警部に身分を明かすべきか。


 味方か、敵か。


 そして――あの香水の匂い。


 食堂車ですれ違った黒いフードのレディボーイがつけていた、男物の香水。

 10号室の前を通り過ぎたとき、同じ香りがした。

 村瀬の死も、公安の影も、すべてが――繋がっている。



2.馬車の街 ランパーン


 ピッサヌローク駅を出発したのは、時計の針が午前一時を少し回ったころだった。

 列車は深い闇を切り裂くように北西へ鉄路を向け、シラアット、デンチャイを過ぎ、終着のチェンマイを目指していた。

 事件を知らない乗客のほとんどは眠りに落ち、車内にはエアコンの唸りと、レールが軋む低い金属音だけが響いている。

 やがて、窓の外にナコン・ランパーン駅の薄闇が流れ始めた。

 車輪が分岐レールを跨ぐと、金属の擦れる乾いた音が短く弾け、ガタン、ガタン――と震えたのち、列車はゆっくりと本線を外れ、退避線へと滑り込んでいく。


 未明の停車――時計の針は午前五時を少し過ぎていた。


 ナコン・ランパーン駅。

 ランナー王朝の面影を残す、コロニアル様式の二階建ての駅舎。

 その前のロータリーには、第二次大戦中に日本から持ち込まれたC56型蒸気機関車が、今も静かに佇んでいる。 長年の風雨に晒されながらも、その姿は日本とタイを結ぶ鉄路の証として、どこか誇り高く見えた。

 駅構内には馬車のモニュメント―今もなお“馬車の街”として知られるランパーンでは、蹄の音が石畳を叩き、夜明け前の静けさを優しく揺らしていた。

―午前5時05分。

 坂本はふと目を覚ました。腕時計に目をやる。

 車内はまだ半ば眠りの中にあり、通路の照明も半分ほどが落とされている。

 運行調整のための停車だと、旅慣れた直感で理解した。

 次のクンターン駅までは山岳地帯の勾配が続く。

 単線区間のため、上りの貨物列車を先に通すのだ。

 遠くで車掌の無線がかすかに聞こえた。

「……十五分待機、出発は午前五時二十分……」

 短い車内放送のあと、再び静寂が戻った。


 カーテン越しの柔らかな明かりの向こうで、リサの寝息が聞こえる。

 坂本は彼女を起こさぬよう、静かに寝台を抜け出した。

 ホームに降り立つと、ひんやりと湿った空気が肌を撫でた。

 彼は両腕を広げて背伸びをし、軽く屈伸をする。

 肩の奥で血がゆっくりと流れ始めるのを感じながら、深く息を吐いた。


 駅舎の前では、いくつもの屋台がすでに明かりを灯していた。

 湯気の向こうから、米粥と香草の香りが鼻をくすぐる。

 さらに、豆乳を温める甘い匂いと、炙った豚肉の脂の香ばしさが入り混じって漂ってくる。


 坂本の腹が、ぐう、と小さく鳴った。

 「……腹、減ったな」

 思わず笑みがこぼれる。旅先で嗅ぐ匂いというのは、どうしてこうも食欲を煽るのか。

 もち米に豚肉のソテー……想像するだけで唾が溜まる。


 だが、腕時計を見れば、発車まで残り十分。

 買いに行くには中途半端すぎる。

 「もう少し我慢だな」と小さく呟き、ポケットに手を突っ込んだ。

 遠くで僧侶の読経が風に乗って流れてくる。

 駅前の馬車馬が短く嘶き、蹄音が石畳を叩く。


――馬車の街、ランパーン。


 坂本は、いつかロマン溢れるこの地を訪れ、ゆっくりと歩いてみたいと思った。

 束の間の空想を遮るように、坂本は顔を上げ、列車の方に目を向けた。

 そのとき、13号車の通路の窓から、一人の男の視線を感じた。

 ――誰だ? 13号車の個室の乗客か?

「あのサングラスの男……」 ―アユタヤから乗ってきた公安警察の一人か?

 その時、車掌のソムバットが乗降口のステップに足をかけながら、13号車の窓を見つめる坂本に声を掛けた。

「お客さま、早く! もう出発しますよ!」

 坂本は一瞬我に返り、車掌に軽く頭を下げた。

「あ、ああ、そうですね。ありがとうございます」

 窓の方に視線を戻したとき――その影は、もうどこにもなかった。


 謎を乗せた列車が再びゆっくりと動き出す―



3.兄妹の絆


―午前5時20分  

 東の空が茜に染まり始めたが、俄かに空は藍に沈み、まるで誰かが夜を引き戻したかのように、暗雲の隙間から車窓を叩く大粒の雨がゆっくりと流れだした。

 終着駅、チェンマイまではあと1時間と50分。

 ニーナは激しい雨音と興奮で眠れずにいた。

 個室の天井灯がぼんやりと滲んでいる。

 その時――扉を叩く音。

「開けろ、俺だ……」

「……」

 聞き慣れた低い声。

 ニーナはゆっくりと立ち上がり、鍵を外した。

 扉の向こうに立っていたのは、車掌の制服を着た男――兄のソムバットだった。

「兄さん……」

「ニーナ……これ以上、手を汚すな。次の駅で降りて、お前は逃げるんだ」

 その声は、鉄の車体を叩く雨音にかき消されそうだった。

 ニーナは栗毛色の髪をかき上げて、黙ったまま窓の外を見つめる。

 雷鳴が遅れて響き、車内に一瞬、青白い光が流れた。

「村瀬を殺ったこと……まだ取り返しはつく…」

「もう遅いのよ、兄さん。奴らは私たちの人生を奪ったの」

「復讐なんて……そんなことで父さんや母さんが喜ぶと思うのか!」

「父さんが死んだ夜を、兄さんは覚えてる? “事故”で片づけたのは誰? 全部、あのプラサート将軍よ…」

「……」

「母さんを撃ったのは、将軍に情報を流していたあのタナチャイ警部よ……」

 ニーナの瞳は、黒い憎悪に濡れていた。


 プラサート将軍――タイ軍・警察の頂点に君臨する男。


 だが裏では、少女人身売買と密輸を手がける組織《レッドバック》の支配者でもあり、国家事業を装い、政府高官さえ黙らせる闇のボス。

 兄はゆっくりと帽子を脱いで諭すように言った。

「ニーナ、兄さんはお前にこれ以上罪を犯してほしくない。それだけだ…」

「……」
 
 ソムバットがため息を一つついて部屋を出た。

 ニーナは拳を握りしめ、胸の奥で小さく呟いた。

 ――プラサート。必ず、あなたの血で終わらせてみせる。

 ソムバットが部屋を出ると、廊下の灯りが一瞬揺らいだ。
 

 そこに、サングラスの男――公安警察のディオが立っていた。


「よぉ、車掌さん。こんな時間にお仕事とは、勤勉なこった」

 皮肉を含んだ声。

「ご苦労様です……」 ―ソムバットは軽く会釈してすれ違う。

 だが、その瞬間。

 ディオの視線が兄の腰に止まった。

 個室の合鍵か……

 腰から下がる数本の鍵の束が、微かな金属音を立てて揺れる。

 ディオの口元に、薄く笑みが浮かんだ。


―午前5時29分

 12号室の扉がノックされた。

「兄さん?」

 ニーナは、何の疑いもなく鍵を外した。

 だが、扉の向こうに立っていたのは――ディオだった。

 彼は素早くドアを押し開け、ニーナを奥へ突き飛ばす。

「村瀬から奪ったUSBを出せ。さもないと――」

 ディオは腰のコンバットナイフに手を掛けた。

「お前が村瀬の情婦だってことは知っている。秘密を握って俺たちを強請ろうとは……大した度胸だな。黙ってりゃ、俺が代わりに可愛がってやるのによ」

 ディオが腕を掴み、ニーナの華奢なボディを引き寄せる。

「そういや、お前の母ちゃんも……いい女だったぜ」

 ディオの唇の端がゆがみ、冷たい笑みが滲む。

 ニーナの胸に、怒りが閃き、憎悪が静かに燃え上がった。

 だが彼女は紅い唇に微笑の影を灯し、銀の爪先がディオの首筋に触れる。  

 まるで、芳香の毒のように甘く、静かに艶やかに撫でていく。

「母さんのことなんて……もう忘れたわ。村瀬なんて、どうでもいい。私、自由とお金があればそれでいいの…」

 サングラスに映る、ニーナの偽りの微笑。

 女豹のような甘い香りが、ディオの警戒を静かに溶かしていく。


 ニーナはディオの胸元に身を預け、唇を寄せて囁いた。


「ねぇ……教えて。母さんは最後に、何て言ってたの?」

「さあな。泣きながら“娘を頼む”とか言ってたっけな」

 音のない稲妻が、室内を白く切り裂いた。  

 その閃光に、ニーナの顔が青白く浮かび上がる。

 ――氷の微笑。

 次の瞬間、彼女の手が閃き、ディオの腰からナイフを抜き取った。

 銀色に光る刃が喉を裂く。

 小さな呻き声を上げ、ディオは列車がカーブの揺れに合わせるように崩れ落ちた。

「……お母さん、忘れてなんかいないわ。けっして……」

 赤黒く濡れた、ナイフの柄を握るニーナの手は、冷たく、震えていなかった。



4. トンネルの幽霊



 ナコン・ランパーン駅を出た列車は、深い森を縫うように、轟音を闇に残しながら勾配を進んでいく。

 樹々に光る稲妻が窓の外を白く照らし出し、人の形を作っては消えていく。


―午前5時32分
  

 リサは、どうやら起きているらしい。

 激しい雷鳴と、窓を叩く雨音で目を覚ましたのだろう。

 カーテン越しに、シーツの上でもぞもぞと動く影が見える。

 坂本は手を止め、メモから目を上げた。

 やがて、リサがカーテンを開けて坂本にヒソヒソ声で話しかける。

「ねぇ、坂本さん……起きてますか?」

 その声が、いつになくどこか心細い。

「この先のトンネル、出るのよ……」

「何が…?」坂本はメモを見ながらめんどくさそうに訊いた。

「雨の夜明けに、トンネルの奥から青白い顔の女が現れて、寂しく泣きながら、殺された恋人を探しているんだって‥‥‥」

真顔で話すリサに、坂本は吹き出しそうになった。

「なんだよ、いきなり…。ほんと、タイ人ってそういう“お化け話”が好きだな。そういうの、日本じゃ“都市伝説(としでんせつ)”って言うんだよ、ただの作り話だろ?」

 しかし、リサの目は本気だ。

「都・市・伝・説…だって、ここは田舎だもん!」

 リサは口を尖らせて、たまらず坂本のベッドに飛び込み、カーテンを閉め、膝を抱えた。

「こんな雨の夜明けにね、青い光がトンネルの壁に浮かび上がるの……すると、乗客の誰かが消えるんだって…」

坂本は煩わしそうに、リサのベッドを指差して、

「つまらん、くだらん、いい加減にしろ、自分のベッドに戻れ」

 と、まったく相手にしない。

「本当よ!クンタントンネルの怪奇現象って、有名なんだから」


―午前5時39分 

 列車は土砂崩れの危険を避けるため、少し速度を落とし始めた。

 やがてクンターン・トンネルの闇が、列車を呑み込もうと待ち構えている。

 ラムパーンとラムプーンの県境を貫く、標高578メートル、全長1,362メートルのタイ国鉄の中で最長を誇るトンネルだ。

―午前5時45分

 デッキに立つ車掌ソムバットの声が無線に混じる。


《これよりクンタントンネル通過。トンネル内減速、十分に注意せよ》  

《こちら線路保守区。トンネル出口付近の斜面で、小規模な崩落を確認‥‥‥》

《――確認のため列車を停止させよ》


 まさにその瞬間を狙ったように、ソムバットは電源車のブレーカーを落とした。



5. 亡霊の正体


―午前5時47分


 その時、車輪が悲鳴を上げるような音を残して、停止した。

「停まった?」  

 ―その瞬間、車内灯が一斉に落ちた。

 通路のどこかで女性の悲鳴が上がる。

「……なんだ、停電か? 勘弁してくれよ…」 

 リサは短く悲鳴を上げ、坂本の腕を強く掴んだ。

 坂本はポケットの小型ライトを取り出し、窓の外を照らす。

 リサは窓に顔を寄せ、息を詰めたまま坂本のライトの先を見た。

 トンネルの壁が雨水に濡れて、鈍く光っている。

 そしてその奥、かすかに――青白い人影が浮かび上がった。  

 二人は息を呑んだ。

 コツ……コツ……と、ヒールの靴音が静まり返ったトンネルに響く。

 「……っ! 何よあの音…」

 リサが口を押さえて息を呑む。

 坂本も思わずライトを落とした。

「なんだあの青白い光は……」

 ――列車全体が、息を潜めたように静まり返った。


 ただ風の唸りだけがトンネルの奥から響いてくる。


―午前5時50分

 ニーナとソムバットは、ベッドシーツで包まれたディオの死体を、音を立てぬように床へずるりと引きずっていた。

「急ぐんだ……非常電源は切った。今のうちだ」

 ソムバットの懐中電灯が二人の足元を淡く照らし、13号車の最後尾の鉄扉を静かに開き、重いシーツの塊を線路へ降ろした。

 トンネルの中は、濃い湿気とカビ臭いに満ちている。

 ニーナが履いているブーツのヒールが線路脇のぬかるみに深く沈み、バランスを崩し死体を落としそうになる。冷たい感触が足首を這い上がる。

「ここでいいだろう…」

 ソムバットの合図に、ニーナは小さく息を呑み、ニーナは一瞬だけ目を閉じた。

 次の瞬間、シーツに包まれた塊を線路脇の深い溝へと死体を投げ込んだ。

 鈍い音がエコーとなってトンネル内に広がった。

 ―そのときだった。

 列車の窓に、かすかな光が差す。

 リサはカーテンの隙間からそれを見て、息を詰めた。

 雨で濡れたガラス越しに、懐中電灯の青白い光がぼやけて映る。

 「……出た……ほら、みて!白い顔が浮かんでる!」

 坂本には、それがただの光の反射なのか、本当に“何か”がいたのか分からなかった。

 しかし、窓の向こうに広がるのは、ただ黒く濡れたトンネルの壁だけだった。

「何もないじゃないか、ライトの反射だろ、さぁ、もういい加減俺の腕を放せ‥‥‥」

 坂本の声にまだ怯えているリサはしぶしぶ坂本の腕を放し、ふぅと息をついた。

 ガチャン――列車は息を吹き返したように、かすかなモーター音が唸りを上げた。


 ―車内に照明が戻り、列車は動き出した。


 機関車の低い重音が響き、車輪がゆっくりと鉄を噛む。

 トンネルの出口では保線員たちが線路上に崩れ落ちた土砂を取り除いたところだった。

 列車は、失われた時間を背負うように静かに闇のトンネルを抜けると、霧雨に煙るクンターン駅が姿を現した。 山あいの国立公園に抱かれたその駅には、早朝の冷気を含んだ空気が満ちていた。

 遅延に苛立ちながら、部屋を出てきたタナチャイ警部が、眠気といら立ちを隠せない表情で車掌室に現れ、ソムバットに尋ねた。

「まさに災難な夜だな。そう、一つ尋ねるが、私の部下の一人、ディオの姿が見えない。君は見かけなかったか?」

 ソムバットは無表情のまま首を振り、曖昧に返事をした。

「先ほど食堂車でお休みになられてたような…」

 タナチャイ警部は何度も頷き、レッドを連れて食堂車の方へと歩いて行った。

 ソムバットは二人の背中を見送りながら、ポケットの中のUSBをそっと握りしめた。

 12号車の個室では、ニーナは穏やかな寝息を立てていた……


(第4話に続く)