開校記念日の翌日、大河と宗次郎は久しぶりに登校した。


昨日の二人は、食事以外の時間はずっと部屋に引きこもっていたから、よっぽど疲れていたのだろう。いつも騒がしいだけに心配になってしまった。


 ホテルに滞在していた時に溜まってしまった洗濯物がようやく片付いた頃、そっと部屋に近付いてみる。部屋の中は静まり返っているから、もしかしたら寝ているのかもしれない。


「本当によく頑張りました」


 二人の部屋に向かってポツリと呟く。夏目が小学校の教員だったら花丸をあげたいくらいだ。そんな二人を誇らしく感じた。


 大河と宗次郎が登校した日、学校中が色めきだっている。彼らはまさに注目の的だった。


「見た見た? 久しぶりにモトヤガがいたよ!」
「マジで? 教室覗いてこようかな?」
 女子生徒が騒いでいるのを見かける度に、「どこにいても人気者なんだな」と感心してしまう。


「あ、モトヤガだ!」
 みんなが熱い視線を向ける先には、大河と宗次郎が渡り廊下を歩いている姿があった。


 久しぶりに見る二人の制服姿はとても凛々しい。それと同時に、まだ高校生なんだということに驚かされてしまうのだ。自分と違って若くてキラキラと輝いて見えた。


「今日も推しが輝いている……」


 惚れ惚れと推し達を眺めながら夏目は呟いた。


 その日の放課後、夏目は一人で図書室にいた。ずっと後回しにしていた本の整理をしようと思ったからだ。


 本棚は時々整理をしないときちんと分類されて置いてある本が、グチャグチャになってしまう。
 しかし、図書委員になったからと言って進んで本棚の整理をしよう、という生徒はなかなかいない。だから図書委員を担当している夏目が、放課後本棚の整理をしているのだ。


 元々夏目は読書が好きだったから、定期的に新刊を購入してもらったりもしていた。でも今の時代、紙の本を読む高校生なんて珍しいのかもしれない。


「相変わらずこの本棚高過ぎるだろう……低身長の俺には届かない……!」


 足をプルプルと震えさせながら頑張って背伸びをしてみるのだけど、本棚の一番上まではどうやっても届かない。
 仕方がないと、溜息をつきながら椅子を持ちにいこうとした時……。


「この本は一番上の棚で大丈夫ですか?」
「え? あ、ありがとう」
「いいえ。俺も図書委員なので手伝いにきました」


 そこには優しい笑顔を浮かべた宗次郎がいた。
 彼は背が高いから、夏目が届かない一番上の棚にも簡単に手が届いてしまう。その逞しい体つきに、同性である夏目もドキドキしてしまった。


「どうして俺がここにいることがわかったんですか?」
「同じクラスの図書委員の子から、職員会議がある日の放課後に、いつも夏目先生が本の整理をしていることを教えてもらったんです」
「そうですか……それでわざわざ手伝いにきてくれたのですか?」
「はい。すみません、いつもお手伝いできなくて」
「そんな! 今まで大変なお仕事していたんだから仕方ないじゃないですか? あんな大舞台をやりきったなんて、本当に立派ですよ! 本の整理くらい、俺一人でできますから」


 突然大声をあげた夏目に驚いたのか、宗次郎が目を見開いたあとニッコリと笑った。


「ふふっ。ありがとうございます」
「え? いえ……突然大きな声を出してすみません」
「夏目先生は本当に俺達のことが好きなんですね?」
「好きって……そんな……」
「俺達のファンだってバレバレですよ」
「ちょ、ちょっと……本宮君!」


 艶っぽい唇を吊り上げる宗次郎がスルッと指を絡ませてくる。それだけでどんどん鼓動が速くなってしまい、頬が火照り出した。


「先生」


 耳元に響く低い声。思わずギュッと目を閉じれば本棚に体を押し付けられて、動きを封じられてしまった。
 恐る恐る宗次郎を見上げれば、いつもの笑顔は影を潜め怖いくらいに真剣な顔をしていた。


 その艶めかしい表情にゾクゾクッと背中を寒気が走る。
 子供のように我儘で甘えん坊の大河とは全く違い、宗次郎は本当に高校生なのだろうか……と疑いたくなるほど色っぽい表情をすることがある。


 その視線に捕らえられてしまうと身動きがとれなくなって、逃げ出すこともできない。夏目は美しい獣に追い詰められた、ちっぽけな兎のようだ。


「先生、この前リビングで大河とキスしてたでしょ?」
「え? なんで、それを……」
「大丈夫。そのことを誰かに言いふらしたりなんてしません。ただ、嫉妬しているだけです」
「嫉妬……?」
「はい。二人がキスしているところを見て頭に血が上るほど嫉妬しています。俺だって……俺だって……」


 意を決したように宗次郎が顔を上げる。いつも冷静沈着な宗次郎が今にも泣き出しそうな顔をしているものだから、夏目の心がざわついた。


「俺だって先生が好きだから」
「……え?」
「俺も先生が好きです」


 その言葉を聞いた瞬間、夏目の頭が真っ白になる。今自分が目の前にいる男に言われた言葉が理解できなかった。


 ――宗次郎が俺のことを好き? 宗次郎が俺のことを……。


 思考回路は完全に停止してしまい、呆然と宗次郎を見つめた。


「急に驚かせてしまってすみません。でも、俺も先生を誰かに譲る気はないし、大河もきっと同じ思いでいると思います。だから……」
「……だから?」
「これから数カ月後に未発表の新しい舞台が始まります。うちの劇団の有名な脚本家が書いた名作なんです。その主役候補に、俺と大河の名前が上がっています。だから先生……」


 真剣な顔をした宗次郎に真正面から見つめられる。ギュッと掴まれた両腕が痛い。思わず視線を逸らしたい衝動を必死に堪えた。


「俺か大河、主役に抜擢されたほうと付き合ってください」
「主役に抜擢されたほうと付き合う……?」
「はい。絶対に付き合わなければいけない、というわけではありません。付き合うことを検討してほしいんです。逆に言えば、選ばれなかったほうが先生から身を引く……ということです。この前、大河と話し合ってそう決めました」


「そんなこと、勝手に決めないでください……」
「すみません、先生。こうでもしなければ、俺達は先生を諦めることができません。かと言って、大河と殴り合いの喧嘩をすることなんてできるはずがない。だから、許してください」
「本宮君……」
「それとも、先生は俺か大河、どちらかを選べますか? 本来なら、それが一番いいと俺は思います」


 その言葉に夏目は目を見開く。自分が大河か宗次郎のどちらかを選ぶ……そんなことができるはずがない。


 だいたい、自分がどちらを好きだなんて夏目は考えたことがなかった。彼らは夏目の『推し』であり、恋愛対象として見たことなどない。


 『推し』と『恋』は違う……二人と出会ってから、夏目はそれを感じていた。


「やっぱり選べないですよね。ならば、主役の座を射止めた方が先生へアプローチする権利を得て、射止められなかった方が先生から身を引く……これでいいですか?」
「…………」 
 納得などできるはずはなかったが、それ以上に苦痛に顔を歪める宗次郎を見ているのが辛かった。


 ――どうしてこんなことになってしまったんだろう……。


 段々目頭が熱くなってしまう。そっと鼻をすすりあげてから黙って頷いた。


「先生を困らせてしまいごめんなさい。でも俺達は真剣なんです」


 宗次郎が困惑する夏目を抱き寄せ、優しく背中を擦ってくれた。大きくて優しい手に少しずつ緊張の糸が溶けていくのを感じる。


「俺頑張りますから、応援してください」
「……はい……」
「先生、大好きです」


 耳元で宗次郎の優しい声が聞こえたあと、頬に温かな唇が触れて、離れていった。


 あの後、普段通りに接してくれた宗次郎と本棚の整理を終えた夏目。その後雑誌の取材があるからと、迎えに来たマネージャーの車に乗り出掛けて行った。


「行ってきます」
 そう寂しそうに笑う宗次郎を見送った夏目は、大きな溜息をつく。


「なんでこんなことに……」


 自分に告白をしてきたのは若くて容姿端麗な、将来有望のトップスター達。
 逆に夏目と言えば、何から何まで平凡な冴えない高校教師。今まで生きて、モテ期などというものとは無縁の生活を送ってきた。


「どうして俺なんだろう」


 ネットニュースを少し見るだけで、モトヤガの記事は嫌というほど目に付く。こんな人気者の周りには、きっと可愛らしいタレントが大勢いることだろう。
 もし同性がいいのだとしても、相手には困らないはずだ。


 それなのになぜ自分を選んだのか……考えれば考えるほど意味がわからなくなってしまう。


「こんなアラサーのおじさんの、どこがいいんだよ?」


 もしかしたらからかわれているのかもしれない……そう考えもしたけど、大河や宗次郎が自分に向ける視線に嘘偽りなんてない気がした。
 でも相手は俳優だ。お芝居なんて簡単なことなのかもしれない。


「あー! わかんねぇ!」


 夏目は大きく息を吐きながら、真っ赤に染まった空を眺める。放課後のチャイムが下校時間を知らせていた。


****


「ただいま」


 靴を脱ぎながら呟く。疲れた体は鉛のように重く、溜息しか出てこない。いくら考えないようにしても、夏目の脳は答えを導き出したいらしく色々思考を巡らせてしまう。


 今だって、一体どんな顔をして大河に会えばいいのかもわからない。このまま逃げ出してしまいたいとさえ思ってしまった。


 大河と宗次郎から逃げ出してまた何もなかった平凡な生活に戻りたい。推しを追いかける幸せな時間を取り戻したい。この世界には夏目には眩し過ぎた。


「おかえり、夏目」
「あ、八神君……」


 疲れた様子の夏目を見て心配してくれたのだろうか。「大丈夫か?」と駆け寄ってきてくれる。
 その気遣いは嬉しいけれど、君が大丈夫ではない原因なんだよ……と手放しで喜ぶことはできなかった。


「夏目、こっちにおいで」
「ありがとう。でもご飯作らなきゃ」
「そんなの後でいいよ。俺も大事な話があるし」
「……うん、わかった」


 本当は大事な話なんてしたくはないけれど、夏目は促されるようにソファーに腰を下ろす。照明がいつもより暗いせいだろうか? 夜景が際立って見える。
 でも悔しいけれど、そんな夜景より大河の方が綺麗だった。


「新しいお芝居の話、宗次郎から聞いた?」
「…………」
「その様子じゃ聞いたみたいだな?」


 なんて答えたらいいのかもわからず、夏目はコクンと頷く。それを見た大河が大きく息を吐いた。


「なら話は早いな。夏目、俺と宗次郎はずっと前から夏目のことが好きだった」
「え? ずっと前から?」
「そう、ずっと前から」


 そんなはずはない。
 夏目はもう何年も前から二人の存在を知っていた。


 勿論舞台は数えきれないほど見にいったし、ファンミーティングといったイベントにも参加した。だけどその時二人と特別な接点があったわけではなかったし、むしろ男のファンがいたら気持ちが悪いと思われるのではないか……と、目立たないよう気を付けていたのだ。


 ずっと遠くから大河と宗次郎を見守ってきた。ただ、それだけだった。


「俺達のファンはほとんどが女の子だから、男がいれば凄く目立つ」
「そんな……。俺、できるだけ目立たないようにしてたのに……」
「あははは。あれで? 超目立ってたよ?」


 大河がケラケラと声を出して笑うものだから、顔から火が出そうになってしまった。


「夏目はいつも黙って俺達を見ていてくれた。キラキラと宝石みたいに瞳を輝かせて……ぬいぐるみを大事そうに抱えて。はじめのうちは『また来ているな』くらいにしか思わなかったけど、しばらくしたら無意識に夏目のことを探すようになってた。会いに来てくれたときは凄く嬉しかったし、来てくれなかったときは寂しかった……」
「大河……」
「誰よりも熱い視線を送ってくれる夏目に、気付いた時には俺も宗次郎も夢中になってたんだ。夏目に喜んでもらいたくていい芝居がしたいって欲が出てきたし、少しずつ俳優っていう仕事も楽しく思えるようになってきた」


 まるで過去の出来事を懐かしむかのように目を細める大河。彼の思い出の中に、確かに自分がいることを感じることができた。


 ――気付かれていたんだ、俺が二人のファンだっていうことを……。


 上手に隠せていたと思っていただけに、一気に恥ずかしさが込み上げてくる。
 穴があったら入ってしまいたかった。


「今の俺があるのも、夏目のおかげだ。ありがとう」
「そんなことない! 八神君が頑張ってきたからだよ!」
「ふふっ。本当に夏目はお人好しだなぁ。そんなんだから俺や宗次郎に簡単にキスされちゃうんだよ? 隙だらけで見ていて危なっかしいし、何にでも一生懸命で……俺達のことばっかり心配してくれてて……」


 顔を上げた大河の目に大粒の涙が浮かんでいる。その涙さえ綺麗で吸い込まれそうになった。


「そんな夏目だから、俺も宗次郎も好きになったんだ。夏目、来て?」
「待って、何するんだよ?」
「いいから、来て? お願い……」


 ギュッと抱き締められたあと静かにソファーへと押し倒された。視界がグルッと回転して天井が目の前に広がる。
 突然の出来事に抵抗することさえできなかった。
 気が付いた時には大河が夏目に覆いかぶさっている。身動きさえできずに、ただ怯えた瞳で大河を見つめた。


「なぁ夏目。俺頑張って主役を勝ち取るから、俺を選んでよ?」


 抱き締める腕に段々力がこもっていき痛いくらいだ。触れ合う胸からお互いのドキドキという速い鼓動が伝わってくる。大河の荒い呼吸が耳元で響き、全身が熱くなった。


「俺、劇団に入ってから初めて本気で芝居に取り組もうって思えたんだ。だって宗次郎に負けたくない。夏目を誰にも渡したくない。だから夏目、俺を応援して? 宗次郎じゃなくて、俺だけを応援してて? なぁ夏目……」
「大河……」
「そう、俺は大河だよ。名前で呼んでもらえて嬉しい」


 まるで大きな子供だ。こんなにも真っ直ぐに自分にぶつかってくる大河が、はじめのうちは怖かった。
 でも今は可愛らしいとさえ感じる。自分の前だけで見せる素顔が愛おしい。


 その思いは、少しずつ『推し』というカテゴリーから姿を変えているように思う。


 憧れや羨望ではなく、もっと強くて切ない感情。
 どんなに自分を否定して正論を導き出そうとしても、日に日に強くなる思いは決して消えることなんてない。


「わかった。俺は大河を応援するよ」
「本当に? 宗次郎よりも?」
「それはどうかな? 宗次郎君にだって頑張ってもらいたいと思うもん」
「なんだよ、それ……」


 一瞬不貞腐れた顔をしたと思った瞬間、大河の目つきが変わる。夏目が「あ、ヤバイかも……」そう思った時にはもう遅かった。
 可愛かった大河が獣に姿を変えていくのを目の前にして、思わず夏目は身構える。


 ――あぁ、俺の推しも男だったんだ。


 そう頭の片隅で思っているうちに、額や頬、唇に首筋にキスの雨が降ってくる。強引に唇を奪われ、息もできないくらいに苦しい。
 慣れていないことがわかるぎこちないキス。それにも関わらず夏目の体はどんどん熱を帯びていった。


「やぁッ、駄目だって、大河……」


 腕を突っ張り弱々しく反抗するが、一向にやめる気配なんてない。押し当てられた唇の隙間から、無遠慮に大河の舌が侵入してきて夏目の口内を犯していく。
 あまりの執拗さに、頭の中がボーッとしてきて少しずつ快感を拾い始めてしまった。


「ねぇ夏目、俺は役者なんだ。夏目はどんな男に抱かれたい? どんなシチュエーションがいい? 夏目が望むように抱いてあげる」
「大河……」
「だから、夏目を独り占めさせて? 俺だけのものになって?」
「俺は、俺は……」
「何でも言って? 夏目が望む存在になるから。我儘な王子様に強引に抱かれたい? それとも優しくて頼りがいのある年上の男がいい? 何でも言って……その人物になりきるから……」


 泣きそうな顔で夏目を見つめる大河を見ていると胸が痛くなる。


 ――大河はきっと気付いている。俺は大河のことを役者としては好きだけど、彼に恋をしているわけではない。大河は『推し』であり『恋愛対象』ではないということを……。


 今にも溢れ出しそうな涙を指先で拭ってやる。大河の涙はとても温かい。夏目の心が張り裂けそうに痛んだ。


「大河、俺は……」
「なに? 夏目」
「俺はね……」


 大河に抱かれたい。


 シュークリームじゃなくて、本当は梅干しが好きな大河に抱かれたい……。
 あまりにも小さな声で囁いたその声は、大河に届いたのだろうか。