その日一日は上の空で時間だけが過ぎていった。
なんとか授業は卒なくこなしたが、ふと気が緩むと昨夜大河と過ごした時間が思い起こされる。
大河の唇はいつもグロスを塗っているかのように艶々と輝いている。それがとてもエロティックで視線を奪われてしまうのだ。
そんな神聖な唇に自分の唇が触れたのだろうか……答えなんて出るはずもないのに、考えずにはいられない。
「お先に失礼します」
「お疲れ様でした」
まだ職員室に残っている同僚に声をかけ、夏目は家路についた。
今日はきっと宗次郎が帰ってくるはずだ。彼より先に帰って親子丼を作ってあげたい。そう思いスーパーへ向かう。
普段の自分だったらコンビニ弁当やカップラーメンで済ませてしまうところだが、大河と宗次郎には手作りの料理を食べさせてやりたかった。だってあんなに頑張っているのだから。
パンパンに食材が入ったエコバッグを持って辺りをキョロキョロと見渡す。
マンションに帰ってくることには慣れたものの、ここに入る瞬間はやはり緊張してしまう。辺りに人影がないことを確認してからエレベーターに乗り込んだ。
『もうすぐ帰ります。遅くなってすみません』
『大丈夫です。気を付けて』
真面目で几帳面な性格の宗次郎からメールが届く。マネージャーの運転する車でこちらに向かっている途中らしい。
「よし、頑張って作るぞ」
夏目はワイシャツの袖をたくし上げてエプロンを着ける。
本当ならソファーに座り込んでビールを飲みたいところだが、そういうわけにもいかない。
今日はどんな仕事をしてきたのだろうか……そう考えるだけでワクワクしてくる。
きっと大河と宗次郎は誰よりもキラキラと輝いていたことだろう。「少しだけ聞いてみようかな」自然と口角が上がってしまった。
「ただいま」
「あ、帰ってきた。おかえり、本宮君」
「わぁ、いい匂い……もしかして?」
「そう、親子丼。この前美味しいって食べてくれたから、頑張って作ってみたよ。もうすぐ出来上がるから座って待っていてください」
「はい」
ニッコリ微笑んだあと、宗次郎が床に荷物を置く音がする。グツグツと鶏肉と玉ねぎを煮込む香ばしい香りがリビング中に漂った。
――よしよし、よくできたぞ。後は卵を流し込むだけだ。
予想以上の出来栄えに夏目は嬉しくなってしまう。
宗次郎は疲れた表情をしていた。だから、お腹いっぱいご飯を食べてもらったあと、ゆっくり休んでもらいたいと思う。
明日もきっと、朝早くから夜遅くまで舞台の稽古だろうから。ここにいるときくらい、ホッとしてもらいたいのだ。
「あ、本宮君。お箸並べてくれる? あ、あとこのデザートも……」
宗次郎に向かって話しかけているのに、何も反応がないことを不思議に感じた夏目はそっと振り返った。
宗次郎が人の話を聞いていないことなんて、今までなかったのだ。振り返った先には、真剣な表情で夏目を見つめる宗次郎がいた。
「どうしたの? そんな真剣な顔して……」
「先生……」
「本宮君、何かあった?」
宗次郎らしくない言動に心配になった夏目はその顔を覗き込む。その瞬間……。
「え? あ、あの……」
「先生、会いたかった」
夏目は宗次郎にギュッと抱き寄せられる。突然の出来事に言葉を失い、頭が真っ白になってしまった。
宗次郎から逃れようと無意識に両腕を突っ張ったが、そんな抵抗は空しく逞しい腕の中に囚われてしまった。
「会いたかった」
夏目にはその言葉に聞き覚えがあった。それは、昨夜の生配信の終わり際に宗次郎が言っていた言葉。
『早く先生に会いたいな』
宗次郎の言っていた先生とは、もしかして自分のことだったのだろうか……そんな淡い期待を抱いてしまう。
でもそんなはずなんてない。今目の前にいるのは、大人気の若手俳優なのだ。こんな何の取り柄もない高校教師に会いたいなんて思うはずなどない。
「先生、俺、見ちゃったんです」
「……見ちゃった?」
「はい。見ちゃいました」
宗次郎は一体何を見たというのだろうか? 宗次郎に抱き締められてあんなにドキドキしていたのに、体中の血液が一瞬で凍っていく感覚。
じっとりと嫌な汗が滲んで息が詰まりそうになる。なぜなら、夏目には宗次郎に見られたくないものや、知られたくないことがたくさんあるのだから。
抱き締められたままシンクに体を押し付けられる。これではもう逃げることすらできない。唇を噛み締めてギュッと目を閉じた。
「先生ってもしかして、俺達のファンですか?」
「…………!?」
艶っぽい声でそっと耳打ちされれば、全身の毛が逆立っていくような感覚に襲われる。
甘い雷に打たれたかのように全身を電流が駆け抜けていって、耳が焼けるように熱くなった。
「俺、知ってるんです。先生が俺たちのぬいぐるみを抱き締めて寝ていたのを……」
「……え? じゃあ、あの時俺の部屋に入ってきたのは……」
「俺です。勝手に入ってすみません」
――全てが終わった……。GAME OVER……。
目の前が真っ暗になる。一番知られたくなかった推しに、真実を知られてしまった。
きっと「キモイ」「ウザい」と失望されてしまう。アラサーの男がぬいぐるみを抱いて寝ていたなんて……白い目で見られても仕方がないだろう。わかっているからこそ、知られたくなかったのだ。
足が小刻みに震え出す。このまま宗次郎を突き飛ばして逃げ出してしまいたかった。そんな夏目に、宗次郎が更に追い打ちをかけてくる。
「先生は俺達のファンなんでしょう? 前にスーツのポケットに、ファンの間では入手困難って言われているボールペンがささっていましたし」
「あ、あれは……」
「あのレアグッズを持っていて、俺達のぬいぐるみを抱いて寝ていた。これって偶然なんですか?」
「…………」
夏目は何も言い返すことができず、宗次郎を見つめた。あまりの恐怖から今すぐにでも視線を逸らしたいのに、それができない。
まるで催眠術にでもかかってしまったかのようだ。目の前が涙でユラユラと揺れた。
「先生は俺と大河、どっちが好きなんですか?」
「は? 何言って……」
「両方好きっていう回答はなしです」
「え? ちょ、ちょっと意味がわからない……」
「先生、俺のほうが好きだって言ってください」
「ちょ、ちょっと、待って……あッ」
首筋に熱い唇を押し当てられた瞬間、ピクンと体が跳ね上げる。宗次郎が触れた部分がジンジンと熱を持っていった。
「先生は本当に優しいです。ご飯を作ってくれたり勉強を教えてくれたり。今日だって先生のほうが疲れた顔をしているのに、俺の為に料理まで作って待っていてくれた。俺、めちゃめちゃ嬉しかったです」
「本宮君……」
「もし俺のファンならば……」
微笑みながら夏目の髪をそっと撫でてくれる。その手つきは、まるで宝物に触れるかのように優しい。宗次郎の顔が少しずつ近付いてきて、温かな吐息が頬にかかる。
夏目はただ何もできず、肩で息をしながら宗次郎を見つめた。
「お礼は体で払います」
「何言って……るの……?」
「俺、男とエッチなことしたことないけど、先生は可愛いから大丈夫そう。ううん、むしろ先生とエッチなことしてみたい」
腰に腕を回されて骨が折れてしまうのではないか、というくらい強く抱き締められる。窒息しそうなくらいに苦しくて、心臓が張り裂けそうなほど痛い。動悸がして目の前が霞んで見えた。
「先生の体に触っていい?」
「あ、あ……ヒャッ!」
首筋をペロッと舐められただけで腰が抜けそうになる。その場に崩れ落ちそうになるのを宗次郎が支えてくれた。
「可愛い」
「あ、あぁッ。嫌だ、やめて」
「なんで? 先生気持ちよさそうですよ」
ゴツゴツした男らしい指が、夏目の体を探るかのように這い回る。こんなこと絶対に駄目なのに、許されるはずがないのに……体に力が入らず、されるがままになってしまう。
――なんでこんなに手慣れてるんだよ? 俺の推しはエロ過ぎるだろう……。
全身に力を込めてギュッと目を瞑った。
****
優しく這い回る宗次郎の指先が胸の突起に軽く触れた瞬間、無意識に体がビクンと跳ね上がる。
「あ、ぅッ……!」
いつの間にか硬く尖ったそこは少しの刺激にも関わらずジンジンと痺れていく。こんな風に体を求められてことなんて生まれて初めての経験で……どうしたらいいかわからずに、夢中で浅い呼吸を繰り返した。
ハフハフと肩で息をしていると、そっと背中を擦ってくれる。
「先生、俺は貴方に怖いことをしようとしているんじゃありません。先生が可愛いから、触れていたい……ただそれだけです」
「可愛くなんか……」
「いえ、先生は凄く可愛い。こうやって一緒にいるだけで癒される。今日一日先生不足で気が狂いそうでした。だから先生をチャージさせてください。少しだけでいいかから」
「本宮君……」
こんな風に甘えてくる宗次郎を見たのは初めてだった。
宗次郎はいつも涼しい顔をしているから、何を考えているかがいまいちわからない……。それはまるで淹れたてのコーヒーから立ち込める湯気のようだ。
目に見えるのに掴むことはできない。掴もうと手を伸ばしても、柔和な笑顔を浮かべてするりとかわされてしまう。
宗次郎は大河と違ってしっかり者だから大丈夫……いつしか夏目はそんな印象を宗次郎に抱いていた。
しかし、今目の前にいる宗次郎は夏目が見たことのない不安そうな表情を浮かべている。「どうしたの? 大丈夫?」そう手を差し伸べてやりたいのに、まるで金縛りにあったかのように力が入らない。
「先生に甘えたい」
低くて甘い声が耳元で聞こえてくる。それは夏目が大好きな声なのに、実際生で聞くのと機械と通して聞くのでは全然違っていて……更に呼吸が苦しくなっていく。小刻みに震えてしまう足に力を込めて体を支えた。
「先生……」
耳に宗次郎の唇が押し当てられてペロッと舐められる。その柔らかな唇は頬を通り首筋へと下りていって……チュッと鎖骨を強く吸われた。
ビクンッと体を震わせてその感触に耐える。何が何だかわからなくて、目頭が熱くなった。
――このまま宗次郎に全てを委ねてみたい。
頭の中がボーッとしてきて視点も定まらない。涙で目の前の景色が歪んで見えるけど、宗次郎の腕にしがみつきながら彼を見上げた。
「本宮君、俺は……」
「はぁ……貴方って人はなんて顔をしているんですか?」
「へ?」
「これじゃ、襲ってほしいって言っているようなもんですよ」
「ち、違う……! そんなんじゃ……」
「ふふっ。本当に違うんですか?」
悪戯っぽく笑いながら宗次郎が頬ずりをしてくる。それが気持ちよくて目を細めた。
さっきまではあんなに怖かったのに、少しずつ緊張の糸が解けていって……見も心も蕩けてしまいそうな恐怖さえ感じた。
「もっと気持ちよくしてあげましょうか?」
唇が触れ合いそうな距離で囁かれた。息が苦しくて、心臓が痛いくらい高鳴って……もう、どうしたいいのかさえわからなかった。
もう駄目だ、流される……そう思った時、リビングの扉の開く音がして誰かが入ってくるのを感じた。
弾む呼吸を整えながらその人物に視線を移す。涙で視界がぼやけているが、明らかに激昂した大河が立っていた。
「八神君……」
「何やってんの? 宗次郎」
顔を真っ赤にして目を吊り上げている。「ふーふー」と荒い呼吸を繰り返し、今にも殴り掛かってきそうな雰囲気だ。そんな大河を見て夏目は思わず息を呑む。
大河は我儘で口は悪いが、こんな風に感情を露わにすることはない。夏目は初めて大河のことを怖いと感じた。
「何をしているか聞いてるんだよ、宗次郎」
「なんだよ、もう帰ってきたのか」
「うるせぇよ。夏目に何してたか聞いてんだよ? 泣きそうな顔してんじゃん」
怒気をはらむ大河に宗次郎は全く動じる様子などない。大きく息を吐いてから名残惜しそうに夏目から体を離した。
「特に意味はない。ただの悪ふざけだよ」
「悪ふざけ?」
「そう悪ふざけ。今は、ね」
「はぁ? お前、殴られてぇのかよ?」
「そんなにイライラすることないだろう? 夏目先生はお前の恋人じゃないんだから。嫉妬深い男は嫌われるよ」
「うるせぇよ! さっさと夏目から離れろ!」
「はいはい、わかりましたよ」
クスクスと意味深な笑みを浮かべながら、宗次郎は夏目の傍を離れていく。
――怖かった……。
安堵した途端、体に力が入らなくなってしまう。深呼吸を繰り返して荒い呼吸を整えた。
――落ち着け、落ち着け、俺……。
ふと我に返るとグツグツと鍋が沸騰する音に、何かが焦げる臭いが鼻をつく。夏目は一気に現実に引き戻された。
「あ、親子丼忘れてた!」
慌ててクッキングヒーターのスイッチを止めたのだった。



