週の始まりの月曜日。
 夏目は寝ぼけ眼で起きてきた大河と宗次郎に朝食を食べさせてから、急いでマンションを後にする。


 もし教師である夏目が、同じ学校に通う生徒のアパートから出てきた瞬間を誰かに見られてしまったら……考えただけでもゾッとしてきた。推しとしてだけでなく、教師の人生も終わってしまうことだろう。


 先日、マンションに住まわせてもらっていることを、モトヤガのマネージャーに連絡したところ、「我儘でご迷惑をおかけすることでしょうが、何卒二人をお願い致します」とお願いされてしまった。
 勝手に居座ってしまったことを叱られるかもしれないと覚悟していただけに、拍子抜けしてしまう。


 それでも驚くほど推しとの生活は穏やかなものだった。一緒に食事をして勉強を教えてあげて……二人共素直でいい子だし、食事を作ってやれば残すことなく「美味しい」と食べてくれる。


 つい先程もお弁当を渡せば「え? いいの?」と瞳をキラキラ輝かせていた。


 こんな姿を見てしまうと世話好きの夏目は、もっと世話をしてあげたいと思ってしまうのだ。自分が推しの役にたてている。何よりも、そんな事実が嬉しかった。


「今週も頑張ろう」
 夏目は大きく伸びをする。いつも見ている世界が普段と違って見えて、夏目の心は高鳴った。


 週が明けた途端、あの穏やかな生活が嘘だったかのように、モトヤガのスケジュールは仕事で埋め尽くされてしまう。
 マネージャーが気を利かせて二人のスケジュールをメールで送ってくれたのだが、それを見た夏目は驚愕してしまった。


「なんだよ、これ。一体いつ休めるんだ」


 完全オフの日なんて一日もなく、この先の一カ月は終わっていきそうだ。登校する余裕もなさそうだし、そもそも家に帰ってきて寝る時間はあるのだろうか? そのハード過ぎるスケジュールに「体が壊れてしまうのではないか」と不安になってしまった。


 これから東京を拠点に、ある舞台のツアーが始まる。
 全国を巡るツアーでないとしても、彼等が出演する回数は半端ではない。もうすぐ迎える初日を皮切りに千秋楽を迎えるのは一カ月以上先だ。


「あ、これ。あの舞台だ……」


 今回二人が出演する舞台は、夏目が何度も劇場に足を運んだものだった。大河と宗次郎は主役ではないものの、悪役の魔王という重要な役を担っている。二人は交代でその役を演じているのだ。
 舞台の中央で眩しいほどのスポットライトを浴び、どんな役者よりもキラキラと輝くモトヤガを思い出すだけで胸が熱くなって目頭が熱くなってくる。


 同じ台本で、同じ役を演じているはずなのに、大河と宗次郎が演じると役が少し違って見えるから不思議だ。


 大河が演じれば美しい見た目に、冷酷な性格をした氷のような魔王に見える。
 しかし、宗次郎が演じれば妖艶な雰囲気を纏い、正義を嘲笑う炎の魔王に見えるのだ。


 どちらの魔王が好きかと聞かれた、それはその人の好みに分かれるだろう。夏目だって「こっちの魔王のほうが好きだ」なんて答えることはできないのだから。


『この世界が朽ち果てていくその瞬間、我がこの世の王となる』


 大河と宗次郎が叫んだ直後、舞台上のスポットライトが一瞬で消え爆音量の音楽が流れ始める。「一体何が起こるんだ……」と拳を握り締めて固唾を飲む。
 次に明かりが点いたときには二人は真の姿である魔王に、その姿を変えているのだ。


 明かりが一瞬消えている時間での衣装の早変わり。それは見事としか言いようがない。
 舞台にいる見目麗しい俳優に、心から拍手を送ったのを今でも忘れることはない。決して色褪せるこのとのない映像を思い起こすだけで、夏目の心は震えた。
 主人公を演じる役者より、よっぽど輝いて見える。もう何度も見た舞台だった。


 スケジュールには『顔合わせ』『本読み』『読み合わせ』『立ち稽古』など、夏目の知らない言葉がぎっしり書き込まれている。


 あの素晴らしい舞台を完成させるために、ファンの知らないところで血がにじむような努力をしている……そう思うと心がグッと締め付けられる。


 舞台の上にいる大河と宗次郎からはいつも眩いくらいに輝いていて、疲れた顔なんて全く見せなかった。それが、俳優としての根性やプライドなのかもしれない。


「俺達ファンのためにありがとう」


 夏目は鼻をすすりながらスマホを抱き締めた。


****


「ただいま」
「おかえり、八神君。今日も遅かったね。お疲れ様」
「疲れた……。宗次郎は、今日帰ってこないって」
「そっか。八神君、お腹は空いてる? それともお風呂に入る?」
「うーん……」


 リビングでもうすぐ行われる試験問題を作成していた夏目は、慌ててパソコンを閉じる。
 時計を見れば夜の11時過ぎ。もうすぐ日付が変わってしまう。
 夏目より先に出掛けていくのに、帰ってくるのは大体この時間だ。フラフラと歩きながらリビングに入ってくる大河が、崩れ落ちるように夏目に抱きついてきた。


「ちょ、ちょっと八神君……どうしたの?」
「超疲れた。もう動けない」
「で、でも、これはまずいんじゃないのかな……?」
「いいの。ちょっとだけ」
「よくないよ!? とりあえず離れて!」
「嫌だ、離れたくない」


 予測もしていなかった推しとの急接近に、心臓がバクバクと鼓動を打ち始める。それが大河に伝わってしまうのではないかとハラハラした。
 そんなことなどお構いなしに、大河は夏目の肩に顔を押し当てて甘えた声を出している。離れるどころか、更に力を込めてしがみついてきた。


 大河のフワフワした髪が顔にかかり擽ったい。たくさん汗をかいてきただろうにいい香りもする。温かな体温に逞しい体つき。耳元で聞こえる低い声にブルッと身震いをした。


 ――俺、今、推しに抱き締められてる……。


 嬉しいを通り越して戸惑いしかない。
 それなのに「離れて」と拒絶できないのはなぜなのだろうか? 今すぐ大河から体を離して逃げ出したい思いと、疲れ切った推しを癒してあげたいという思いが頭の中でせめぎ合う。でも、大河を拒絶できるはずなどなかった。


 夏目は恐る恐る両腕を伸ばして大河を抱き締める。それから子供をあやすかのように、そっと頭を撫でた。


 ――推しにこんなことをしてバチが当たらないだろうか。


 心臓が破裂しそうなほど拍動を打ち、全身の血液が熱くたぎる感覚。
 それと同時に大勢のファンを裏切ってしまっているという罪悪感に襲われた。


「先生、小さくて可愛い」
 ポツリと大河が呟く。


「疲れたから、少しこのままでいて」
「……わかった……でも、少しだけだよ?」
「うん」


 大河推しの同志達、本当にごめんなさい……夏目は心の中で手を合わせながらも、そっと大河を抱き締めた。



 寝ぼけ眼の大河にご飯を食べさせ、浴室に押し込む。そんなことをしているうちに、とっくに日付は変わってしまっていた。


「疲れた……」


 布団に倒れ込む。夏目も専属のお手伝いさんではなく、教師を続けながら二人の生活を支えているのだ。
 そんな生活に慣れてはきたものの、疲労は隠し切れない。睡眠時間が減ったせいで仕事中は眠いし、足元がフラフラするような気がする。


 それでも、ファンのために頑張ってくれている大河と宗次郎を見ていれば、支えてあげたいと思ってしまう。今まで自分が元気をもらった分だけ、恩返しがしたかった。


 スマホを手に取りいつも見ている動画サイトを開く。寝る前にモトヤガを見ることで夏目の一日は終わりを迎えるのだ。


「あ、宗次郎……こんな時間に……」


 深夜だというのに、宗次郎が宿泊先のホテルから生配信をしていた。疲れているだろうにファンのためを思ってなのだろう。そう思えば目頭が熱くなる。
 今まで何も考えずに生配信を見てきた自分が恥ずかしくなってきた。


「今日はね、舞台の稽古があったんだ。あの時差し入れてもらったお菓子、これなんだけどね……」


 いつも通りニコニコと笑いながら宗次郎がお菓子をカメラの前に差し出す。笑っているのにどこか疲れたような表情……昔の自分だったらきっと気付かなかっただろう。


 ファンサービスや営業と一言で終わらせてしまえばそれまでだけど、この生配信は宗次郎の優しさで溢れている。夏目はそう感じた。


「無理してるのがバレバレなんだよ」


 夏目の目から涙が溢れ出してきたから、慌ててパジャマの袖で拭う。
 今度宗次郎が帰ってきたときには、この前「美味しい」って食べてくれた親子丼を作ってあげよう。それも食べきれないくらい大盛りにして……。


「じゃあ、みんなこれで配信は終わり。ゆっくり休んでね」
 宗次郎が画面の向こうで微笑みながらヒラヒラと手を振っている。


「うん、おやすみ。宗次郎」
 夏目がポツリと呟いたとき、思わず自分の耳を疑ってしまった。


「おやすみ、先生」
「え?」
「早く先生に会いたいな」
「今、なんて……」


 これは聞き間違いだろうか。
 今「早く先生に会いたいな」って宗次郎が言った気がする。一瞬頭の中が真っ白になった。


 ――先生って誰だろう? 俺のこと? いやまさか、彼らの周りにはいろんな先生がいるはずだ……。


 そう自分に言い聞かせるのに、嬉しさがジワジワと心の中に広がっていくのを感じる。


 コメント欄を見れば『今宗次郎、先生って言った? 誰先生って?』『会いたいって……やだやだ、熱愛とかじゃないよね?』『今まで宗次郎、そんなこと言ったことなかったじゃん』とガチ恋勢が騒ぎ始めている。
 きっと昔の自分も、今頃不安で騒いでいたかもしれない。


「駄目だ、推しが心臓に悪い」


 布団に潜ってギュッと目を閉じる。心臓がうるさくて体が火照り出した。


****


「なぁ、先生、起きてる?」
「え? あ、うん。起きてるよ。どうしたの? 眠れない?」
 その時、寝室の扉がゆっくり開き大河がひょっこり顔を出す。


「入ってもいい?」
「……どうぞ……」


 突然どうしたのだろう……。夏目が大河のことを目で追うと、布団の近くにしゃがみ込む。それから何をするでもなく膝を抱えて黙り込んでしまった。


 心配になって顔を覗き込めば、拗ねたような寂しそうな表情をしている。まるで子供みたいな態度に最初の頃は戸惑ったけれど、今は愛おしく感じてしまう。


「八神君、どうしたんですか?」
「…………」
「八神君?」
 頭を撫でてやろうと手を伸ばせば、その手を勢いよく掴まれてしまう。あまりの力強さに思わず顔を顰めた。



「先生、眠れないからここで寝ていい?」
「え? ここで? でも布団一組しかないですよ?」
「別にいい。くっついて寝れば問題ないでしょう?」
「いや、問題しかないでしょう? 絶対に駄目です」
「なんでだよ?」
「当り前でしょう? 俺は教師で君が生徒だからだ」
「なにそれ、くだらない」


 大河に食ってかかっても気にする様子などなく、夏目の布団の中に入り込んでくる。「大河は一度言い出したことを絶対に曲げませんから」宗次郎がよく言っていた言葉を思い出す。
 まったくその通りだ。力任せに押し出そうとしてもびくともしない。


 ――はぁ……困ったな……。


「先生あったかい」


 大河は夏目に体を寄せて今にも眠ってしまいそうだ。今更何を言ってもこの部屋を出ていくことはないだろう……諦めた夏目が横になれば、大河がギュッと抱き着いてきた。


 ――ちょ、ちょっと待って! ヤバイ、これはヤバイ!


 男二人が一組の布団を使うのだから、寄り添って寝なければならないことはわかっている。
 それにしても、この距離は近すぎだ。薄いトレーナー越しに感じる大河の体温や、首筋に感じる吐息。


 それに、隙間なく寄り添えば夏目も男だ……下半身が熱くなるのを感じる。口から心臓が飛び出してきそうで泣きたくなってしまった。


 ドクンドクン……。


 静かな寝室に響き渡る鼓動が、どうにかバレませんようにと祈ることしかできない。ギュッと目を閉じて全身に力を込めた。


「先生……目、開けて? 俺のほうを見てよ?」
「でも……」
「夏目……こっち見て?」


 突然名前で呼ばれた夏目は、恐る恐る目を開く。「年上を呼び捨てにするなんて何事だ」そう指摘する余裕なんてない。


 視線の先には今にも泣きだしそうな顔をした大河がいた。絹のようにきめ細やかな肌に、長い睫毛……赤く色付いた唇が妙に艶めかしく感じられる。恥ずかしくて思わず視線を逸らした。


「俺さ、夏目といるとホッとするんだ。夏目は優しいし、可愛い」


 頬を大きな両手で包まれて強引に視線を合わせられる。色素の薄い綺麗な瞳に吸い込まれてしまいそうだ。


 ――なんて綺麗なんだろう。


 改めて惚れ惚れしてしまう。


「夏目……」


 ――あれ……なんだ、これ……。


 そう考える間もなく大河の顔が近付いてきて、チュッと唇を奪われてしまう。


「え?」


 一瞬の出来事に頭の中がショートしてしまった。今、夏目自身に起きている状況を把握することは難しいかもしれない。
 なぜなら、自分の身に何が起きたのかが全く理解できないのだから……。


 ――俺、今、大河と……。


「おやすみ、夏目」
「おやすみ、なさい……」


 自分の胸に顔を埋め眠りにつく大河を呆然と見つめる。
 つい先程までうるさくて仕方がなかった鼓動が、止まってしまったような気がする。このまま死んでしまうのでないか……夏目はそんな恐怖を感じていた。




 翌朝、夏目が目を覚ました時には大河はいなかった。
 室内に人の気配はないから、もう出かけてしまったのかもしれない。「朝食くらい食べさせてあげたかった」そう思いながら体を起こした瞬間……。


「あ、そう言えば……」


 ハッと我に返り両手で口を押えた。昨夜もしかしたら大河と……カァッと全身が熱くなる。


 夏目は同性とキスをするのなんて初めてだったけれど、全く抵抗なんて感じなかった。初めてキスをしたときのようにドキドキして、叫びたくなる衝動を必死に堪える。
 しばらくの間一人で盛り上がっていたが少しずつ冷静さを取り戻していった。


 ――もしかしたら寝ぼけていただけで、あれは夢だったのかもしれない。それか遊び慣れている大河にからかわれただけとか……。


 一瞬で心が冷めていくのを感じる。温かくて柔らかった唇も全部、推しを目の前に舞い上がっていた自分が見た、愚かな幻想。


「あぁ、きっとそうだ。大河が俺にキスなんてするはずがない」


 大きく息を吐いてから、重たい体を起こしリビングに向かう。やはり大河はすでに出かけてしまっているようだ。
 顔を合わすことに抵抗があった夏目はホッと胸を撫で下ろす。推しにくだらない妄想を抱いてしまったことで罪悪感に苛まれた。


 そもそも夏目はゲイではない。今までお付き合いしてきたのも女の子だけだ。そう考えれば、やはり『推し』と『恋愛』は別物なのかもしれない。
 それでも、あのキスが夢の中の出来事で終わってしまうことが寂しくもある。


 ――本当に大河は俺にキスしたのかな……。


 真実を知りたい自分と、このまま有耶無耶で終わらせたい自分がせめぎ合う。


「やっぱり苦しい」


 夏目は洋服の胸元をギュッと掴んで蹲った。