「あー、面倒くさいな」
夏目は大きな溜息をつく。今日は週に一回、金曜日に実施されているパトロールの日。
パトロールといっても生徒が非行に走らないよう、夜間ゲームセンターやファミレスを巡回して歩くのだ。月に一回の当番制になっており、今日は夏目がその当番の日だ。
最近の高校生はバイトをしているからお金もあるし、SNSも盛んだから道を踏み外すリスクが昔より高いのかもしれない。
マッチングアプリやパパ活……そういった魔の手から生徒を守ることも大切な仕事なのだ。同じく当番になっている教師達と、手分けしてぐるりと一周街中を巡回する。
「あー、夏目ちゃんだ! パトロール乙!」
「もう夜遅いから早く帰りなさい」
「はーい。また来週ね」
「はいはい。また来週」
ゲームセンターにたまっていた男子生徒に声をかければ、素直に従ってくれる。見た目はもう大人だし反抗期だってあるけど、高校生はまだまだ子供だ。可愛いなと感じる。
自分に向かって無邪気に手を振る生徒を微笑ましく見送った。
ゲームセンターやファミレスが並ぶ賑やかな通りから数本奥の道に入ると、雰囲気が一変する。
そこはラブホテルや明らかに怪しい店が軒を連ねており、大人の世界といった感じだ。夏目が一人で歩いていると見知らぬ女性が近付いてきたり、外国人に声をかけられる。その度に断るのだが本当にキリがない。
恋愛経験が少なくラブホテルになんて入ったこともない夏目にしてみたら、この路地は苦手だった。
「さっさと済ませて帰ろう」
歩みを速めた瞬間、若者の集団を見つける。開けた広場になっているそこには、若い男女が集まり飲酒をしているようだ。「関わりたくない」心の中でそう思うが、一応自分の勤めている高校の生徒がいないか遠目で確認をする。
「あれ……」
次の瞬間、夏目は思わず息を呑む。その集団の中心に夏目が良く知る人物がいたのだ。
「勘違いか?」そう思い目を凝らすとやはり間違いないようだ。大体、あんなイケメン達を見間違うはずなんてないではないか。
「大河と宗次郎がどうしてここに……」
しばらくの間息を殺して様子を窺っていると、宗次郎の周りには女の子の輪ができており、楽しそうに話をしている。時々宗次郎が女の子を抱き寄せれば、耳をつんざくような歓声があがっていた。
そして大河の周りになぜか男の群れができている。しかしその周囲に漂う雰囲気が異様で、夏目は思わず眉を顰めた。
大河を取り囲んでいる男の目は明らかに欲を含んでおり、舐めるように彼を見つめている。それはまるで、大河のことを品定めしているようだ。
そんな獣のような男に囲まれていても、大河はいつも通り飄々としていた。
「なんだよ、あれ……」
ゾクッと背中に虫唾が走り寒気がする。それなのに一気に頭に血が上っていくのを感じた。「ふざけんなよ」グッと奥歯を噛み締め、意を決して大河と宗次郎に向かって歩き出す。
取り巻きの若者達に殴りかかれたらどうしよう、なんていう考えは頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。
――こんなところをスクープされたら、この子達の役者人生が終わってしまう。
夏目は無我夢中で歩を進めて若者を掻き分ける。「なんだよ、こいつ!?」「痛いなぁ!」口々に文句を言う奴等を跳ね除けて、大河と宗次郎の前に進み出た。
全身は燃えるほど熱いのに指先が異常に冷たい。興奮と緊張のせいか呼吸が浅くなってしまい息苦しい。いくら足を踏ん張っても体がカタカタと震えた。
――推しの未来と、オタクの希望は俺が守る。
その一心だった。
「八神君、本宮君、こんな時間まで何をやっているんだ! 帰るぞ」
夏目が声を張り上げれば若者達の視線が一気に自分へと向けられた。情けないことに体は震え、声も上擦ってしまっている。それでもここで引き下がるわけにはいかないのだ。
「言うことを聞いてくれないのならば、君達が飲酒をしていることを警察に通報する。さぁ、どうする? 八神君、本宮君」
覚悟を持って二人と向き合えば、周りから「超ウザい、なんだよこいつ」と野次が飛び始めた。
――頼む、このまま素直に言うことを聞いてくれ。お願いだ。
夏目がギュッと目を閉じて覚悟を決めた瞬間、グイッと力強く腕を引かれる。そのあまりの力強さに倒れそうになってしまった。「一体なんだ?」と恐る恐る目を開くと、そこには呆れた顔をした大河がいた。
「あんた何やってんの? マジでみんなからボコられるよ? ほら、行くからちゃんと歩いて」
「へ?」
「へ? じゃなくて、言うこと聞いて帰るって言ってんの。警察沙汰はさすがに勘弁。ほら行こう」
「あ、ちょっと……」
ぶっきらぼうにそう吐き捨てると、大河は夏目を抱えるように歩き出す。
「みんなごめん。またね」
背後からすまなそうに謝罪する宗次郎の声が聞こえた。
****
「あー、怖かったぁ」
少し離れた公園に連れてこられた夏目はその場に座り込む。全身が一気に脱力し、腰が抜けてしまった。近くにあったベンチに倒れ込むように座り込む。
「大丈夫ですか? 何か飲み物を買ってきますね」
「そんな、大丈夫ですから」
「気を遣わないでください。ちょっとだけ待っていてくださいね」
宗次郎が夏目の近くにしゃがみ込んで様子を窺ってくれる。「大河、夏目先生を頼む」と言い残し行ってしまった。
「なぁ、本当に大丈夫か?」
「あ、はい……だい、じょうぶです……」
「あんたさ、あいつら全員敵に回したら死んでたかもよ?」
「ははッ、そうだね……」
渇いた笑いが口をつく。大河と宗次郎にまで心配をかけてしまった自分が情けない。
それと同時に少しずつ落ち着きを取り戻してきた夏目は、ようやく自分がしでかしたことの重大さに気付いた。
――俺は一体何を……。
サーッという音をたてて全身から血の気が引いていくのを感じる。再び体がガタガタ震え出した。
「あのまま放っておいても大丈夫だったよ。問題が起きても、どうせマネージャーが全部揉み消してくれたから。マネージャーだってもう慣れっこだろうよ」
「え? 君達、いつもこんな夜遅くまで出歩いているのか?」
「あー、仕事がないときはね」
「じゃあ、さっきまで一緒にいた子たちは友達なの?」
「別に友達じゃないよ。今日たまたま知り合った人達」
「そ、そうなの?」
「そうだよ。あの中から適当に相手を選んで、一晩一緒に過ごそうとは思っていたけど」
「一晩、一緒に……」
「そうだよ。悪いかよ? 邪魔しやがって、いい迷惑だ」
淡々と話す大河の言葉を理解するのに大分時間がかかってしまった。
一晩一緒に、ということは……つまり……。段々と頬に熱が帯びていく。目を見開いて大河の顔を凝視してしまった。相変わらず人形のように整った顔立ちをしている。
まさか、推しのプラベートがこんなにも荒んでいたとは思いもしなかった。
宗次郎は女性関係の噂がちょくちょく週刊誌に取り出されていたが、まさか大河までとは……。その時、夏目の頭にひとつの疑問が浮かんだ。
「あ、あのさ、本宮君の周りは女の子でいっぱいだった。でも、八神君の周りは男だらけだったよね? どうして? 君は一晩過ごす相手を探していたわけじゃないとか?」
「はぁ?」
何でそんなことを聞くんだ? と言わんばかりに大河が不機嫌そうな顔をする。その迫力に圧倒されそうになってしまった。
「俺、ゲイだからさ」
「ゲイ?」
「そう、男が好きなんだよ。だからそういう匂いを感じた野郎どもが集まってきたんじゃん?」
「……そっか」
「そんなの別にどうでもいいだろう? 事務所や親にチクればいいよ。俺には関係ねえし」
まるで子供みたいに拗ねた顔をしながらその場に蹲る大河。クスンと鼻を鳴らしている。気まずい沈黙が二人の間を流れたから、夏目も何も言い出せずに黙って俯いた。
その時「ごめんなさい、お待たせしました」と宗次郎が息を切らせてこちらに向かって走ってきたからホッと胸を撫でおろす。
「お茶で大丈夫ですか?」
「ありがとうございます」
微笑みながら冷たいお茶を手渡してくれた。
目の前にいるのは大好きな推しなのに、今の彼らからは舞台の上にいるときのような華やかさは感じられない。どこか寂しそうな顔をしているように思えた。
「なんで二人は家に帰らないの?」
ふと口から零れた言葉に一番驚いたのは夏目自身だった。自分は大河と宗次郎のことをよく知っているが、彼らからしたら大して接点のない教師だ。あまりにも馴れ馴れしい質問を口にしてしまったことを強く後悔した。
再び訪れてしまった沈黙に耐えられず、肩を落としてがっくりと項垂れてしまう。そんな沈黙を破ったのは宗次郎だった。彼は夏目を責めるわけでもなく淡々と話し始める。静かな公園に、穏やかな声が響いて吸い込まれていった。
「俺達は複雑な家庭環境で育ったので、家族の温もりなんて知りません。両親と一緒に過ごした思い出なんて、ほとんどないかもしれない」
いつも柔和な笑みを浮かべる宗次郎の顔が、少しだけ悲痛に歪んだ。
「今回の転校もマネージャーが勝手に決めたことです。俺達は立派なマンションを与えられたけど、帰っても待っていてくれている人なんていないし、温かい食事が用意されているわけじゃない。そんな家に帰りたいなんて思わないでしょう?」
「俺達はずっと満たされることなんてなくて、いつも虚しさを感じて生きている。だからこうやって夜遊びしてんだよ、わかった?」
大河が立ち上がり「べーッ」と舌を出して見せる。こんな話を聞いてしまった今、それさえも強がりに思えてならなかった。
――知らなかった。推しがこんな思いをしているなんて……。
夏目が知っているモトヤガは、いつも舞台の中心に立ち、スポットライトを浴びてキラキラと輝いていた。誰もが彼らに魅了され、惜しみない声援を送っている。
二人はいつも楽しそうに笑っていて、「あぁ、お芝居が大好きなんだな」というのが伝わってきた。そんな彼らに、夏目はずっと癒され、元気をもらってきたのだ。
「俺は、推しのことを何も知らなかったんだ……」
ギュッと胸が締め付けられる。誰も自分を待ってくれる人のいない部屋に「帰りなさい」なんて言えるはずもない。それにここで彼らと別れたら、また夜の街に消えて行ってしまうだろう。
――俺が推しを幸せにできたらどんなに素敵だろうか。
頭ではそう思うものの、ただの高校教師であり、一ファンである自分に一体何ができるだろうか。きっと何もできないだろう。自分の無力さが悲しくなった。
「先生が、君達にしてあげられることってないんでしょうか?」
「はぁ?」
「だって俺は先生で、君達はまだ子供だ。何かしてあげたいって思って何が悪いんでしょうか? 君たちが寂しい思いをしている姿を見るのが辛いです」
夏目の言葉に大河が綺麗な顔を歪める。隣にいる宗次郎も驚いているらしく、切れ長の目を見開いていた。
「俺は君たちを守ってあげたい」
「なんだよ、それ……」
不満そうに唇を尖らす大河に、きちんとした返答ができるはずなどない。
「君たちが俺の推しだから放っておけないんです」そう喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。絶対に知られてはいけない秘密をうっかり、しかも本人たちの前で告白してしまうところだった。
「なら、夏目先生。俺達と一緒にマンションに帰ってもらえますか?」
「え?」
「俺と大河が心配なら一緒に帰りませんか? さいわい、使っていない部屋はありますから」
ずっと黙って夏目と大河のやり取りを見ていた宗次郎が口を開いた。その言葉が信じられなくてポカンと宗次郎を見つめていれば、にっこりと微笑んだ。
「夏目先生、俺たち寂しいから一緒にいてください」
「で、でも……」
そんなことができるはずなどない。
もし教師である夏目が、生徒の自宅にプライベートで行っていたことがバレてしまったら……教師を辞めざるを得ないことは当然だが、大河と宗次郎の今後にも関わってきてしまう。
「寂しいならマンションに一緒に帰ってあげるよ」なんて軽々しく言えるはずなどない。
推しを助けてあげたいという思いと、社会的な秩序や常識を守らなければならないという葛藤で、夏目の心が大きく揺れた。
「先生、来てくれんの?」
「や、八神君……」
「俺たちの家に一緒に帰ってくれるのかって聞いてんの」
先程まで反抗的な態度をとっていた大河が夏目の顔を覗き込んでくる。その表情は一見不安そうに見えるが期待を含んでいるようにも感じられた。
もしかしたら一緒に帰ってほしいのだろうか……そう思わずにはいられない。夏目は静かに大河に話しかけた。
「二人だけじゃ寂しいんですか?」
「寂しいしつまんないに決まってんだろう。だから行こう?」
「で、でも、俺は教師だから、そんなことできるわけがないでしょう?」
「そんなの関係ないし、問題もないよ」
グイッと大河に腕を引かれ強引にベンチから立ち上がらされてしまう。バランスを崩し倒れそうになった体を抱き留めてくれた。
「行こう、先生」
「ちょっと待ってよ……」
「ふふっ。大河が一度言い出したら意見を曲げることなんてありませんよ。大人しく俺たちのマンションに連行されてください」
「そんな……本宮君まで……」
宗次郎がクスクス笑いながら「ご愁傷様」と言わんばかりに夏目の肩を叩く。
――なんなんだ、この子たちは……。
嬉しそうな顔をする二人に、引き摺られるように夏目は歩き出した。



