推しが転校してきて数日がたった。
あれ以来学校全体がザワザワしていて落ち着かない。校長先生から教師達に何度も注意喚起があったし、職員会議の議題にもあがった。
それでも、年頃である高校生を宥めることは難しい。
何より夏目はわかるのだ。あの二人を見て落ち着くことなんてできない生徒達の気持ちが……。
なぜなら、自分だって生徒に交じって騒ぎたいくらいなのだから。
生徒の間で密かに回る隠し撮り写真が欲しいと思うし、彼らの担任の教師が羨ましくて仕方がない。
夏目は芸能コースの授業を担当することがないから、彼らが転校してきた初日に体育館の壇上で挨拶をした時以来、その姿を校内で見かけることはなかった。
全く姿を見ることがないから、実際に登校しているのかもわからない。
「手の届くところまで推しが近付いてきてくれたのに……」
小さく溜息をつく。
所詮大スターと凡人の距離なんて、そう簡単に埋まらないのだと痛感した。
しかし、運命の歯車が大きく回り出す。
いつも遠くから眺めていたモトヤガとついに会話をするチャンスが巡ってきたのだ。
それはあまりにも突然すぎて、心の準備なんて全くできていなかったものだから、夏目にとっては苦い経験となってしまった。
「あの先生、俺、図書委員になったんですけど……。先生が図書委員の担当ですか?」
「――は?」
この生徒は一体誰に話しかけているのだろうか。夏目は生徒を二度見してからキョロキョロと辺りを見渡した。
「いや、貴方が夏目先生ですよね? あれ? 夏目って名字? それとも名前?」
「あ、は、はひ……な、なんとでも好きに呼んでください……」
「よかった。俺、最近転校してきた本宮宗次郎です。よろしくお願いします」
「ど、どうも……」
放課後、廊下を歩いている夏目に突然声をかけてきたのは宗次郎だった。
その瞬間、夏目の心臓がバクンと大きく拍動を打ち一瞬止まったように感じる。周りの音が消えて、時間が異常にゆっくりと流れる。
それなのに再び動き出した自分の心臓の音だけが鼓膜に響いた。
――どうしよう、どうしよう……どうしたらいいんだよ!?
どんなに歯を食いしばっても体がブルブルと震え、緊張のせいか目の前が霞んで見えてきた。
ここは酸素が薄いのだろうか……呼吸が思うようにできない。「逃げてしまいたい」、衝動的にそう思った。
目の前にいる眉目秀麗な青年は、夏目が思わず見上げてしまうほど背が高い。
宗次郎のプロフィールには身長185センチと書かれているが、こんなにも大きいとは想像もしていなかった。
厳ついわけではないのに綺麗に筋肉がついた体は、同性の夏目が見ても惚れ惚れするほどだ。黒々と光る肩まで伸びた髪をハープアップでまとめ上げている。切れ長の目に、耳にはピアスが付いておりパッと見は不良だ。
「クラスメイトに聞いたら、ウォンバットみたいに可愛い先生が担当だって教えてくれたんですけど、夏目先生って本当に可愛らしい方ですね」
「か、か、可愛らしいなんてどんでもない! お、大人をからかわないでください!」
「ふふっ。そんなに怒らないで。ごめんなさい」
優しく微笑む姿はとても柔らかい印象を与える。それは夏目がよく知る宗次郎だった。
それに、この宗次郎という青年は女性関係で常に週刊誌を賑わせている。きっと今みたいにさらっと「可愛らしい」という誉め言葉が出てくるのだろう。
――危なかった……。モテ男 ってこんな感じなのか……。
うっかり、ぬかよろこびしてしまうところだった。こんなイケメンに「可愛い」などとお世辞を言われ絆されてしまったら、取り返しのつかないことになってしまう。
いくら推しが目の前にいるとしても、ここは学校だ。推しでタレントという関係の前に、教師と生徒だ。
ここで宗次郎達のおっかけをしているオタクだなんて、本人に知られるわけにはいかない。
しかし、いくら「冷静になれ」と自分に言い聞かせても、推しが目の前にいるという状況に夏目はパニックになってしまう。
いつも公演やイベントで遠くからしか見つめることができなかった存在……いつも大勢のファンに囲まれて神様みたいにキラキラ輝いていた。
平凡過ぎる自分がどんなに望んでも、一生接点などないと思っていた人が、今手を伸ばせば届くところにいる。
図書委員の担当をしていてよかった……心からそう思わずにはいられなかった。
「あ、でもわざわざ来てもらったのに、図書委員の仕事は特になくて……放課後に当番制で図書室にいてもらえればいいだけなんです。本の整理とかは僕がやるので」
「へぇ。じゃあ今すぐ何かをするわけじゃないんですね」
「あ、はい。何か用事を頼みたいときには、僕から連絡します」
「はい。お願いします」
宗次郎は丁寧に頭を下げてから夏目に背を向ける。それを見て全身の力が抜けていき、その場に崩れ落ちそうになってしまった。
舞い上がってしまった自分は、宗次郎の目にはさぞや滑稽に映ったことだろう。顔は茹蛸みたいに真っ赤だし、声も裏返っていた。
――今すぐ消えてしまいたい……。
念願の推しに会えたのに、夏目は悲しくなってしまう。
こんなことなら、急に出会ってしまったら、という場面を想定しシミュレーションをしておくべきだったと悔やまれてならなかった。
「あ、夏目先生」
「は、はい! 今度はなんでしょうか!?」
「その胸にささっているボールペン、モトヤガの限定グッズですよね? 確か入手困難で、なかなか手に入らなかったって聞いたけど……」
「あ、あ、こ……これは……」
宗次郎が意味深な笑みを浮かべながら振り返ったから、思わずワイシャツのポケットに入っているボールペンを手で掴む。
うっかりしていた。もっと早くに気が付いて目立たないポケットにしまうべきだった。こんなレアグッズを大事に持っていることを知られたら……額を嫌な汗が伝う。
ようやく静かになりつつあった心臓が、再びやかましい程に鳴り響きだした。
「いえ、なんでもありません。では失礼します」
宗次郎は謎の微笑を唇に漂わせると行ってしまう。
――もう気絶しそうだ……。
その場に取り残された夏目は壁に寄りかかりながら、呆然とその背中を見送る。
「はぁはぁはぁ……苦しい……」
呼吸がどんどん浅くなり目の前が真っ暗になる。意識が遠退いていくのを感じた。
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「んッ……ん? ここどこだ?」
寝苦しさに目を覚ます。消毒薬の匂いがするその部屋は、見慣れない場所だったためそっと辺りを見渡した。
「……ここ保健室だ」
それに気付くまでに少しだけ時間がかかった。額にじっとりと汗をかいているし体中が痺れている気がする。
ボーッとする頭で記憶を遡っていけば、宗次郎と別れた後の記憶がごっそりと抜け落ちていた。
「あ、起きたか?」
「…………」
「あんた突然ぶっ倒れたみたいだけど大丈夫?」
「あ、あ……あの……」
視線を移した先には宗次郎ではないイケメンがいた。
イケメンと言っても宗次郎とはまた違うタイプのイケメンだ。
色素の薄いまるで絹糸のような髪がサラサラと揺れる度に、高価そうなシャンプーの香りが漂う。
フランス人形のように整った目鼻立ちは、あまりの美しさに言葉を失ってしまう。蝋のように滑らかな肌に、スラッとした指先。髪と同じように色素の薄い瞳が夏目を見つめていた。
――や、八神大河だ……。
夏目の心臓が壊れてしまいそうなほどバクバク拍動を打ち始める。心臓がギュッと痛くなり呼吸ができなくなる。
こんな短時間に何度も心臓と肺を酷使したら、本当に死んでしまうのではないか……と不安になってきてしまった。
「宗次郎があんたを背負ってここまで来たんだけど、あいつ仕事があるからって俺にあんたを押し付けて帰っちまった。保健室の先生もいない、こういう場合どうしたらいいの?」
ぶっきらぼうに話し続ける大河を呆然と眺める。
大河は宗次郎と違って他人に愛想を振り巻くようなタイプではないらしい。
そもそも教師に向かい「あんた」というくらいなのだから、年上に対する態度もなっていない。それは夏目がよく知っている大河だった。
ファンに媚びることはしないし、気が回らないからファンサービスだって必要最低限。でもそんな武骨な態度は群れを作りたがらない一匹狼みたいでかっこいい。
人たらしな宗次郎に不愛想な大河……絶妙にバランスのとれている二人だった。
「なぁ、聞いてんの? あんた一応教師だろう?」
「ひゃッ! ご、ごめんなさい!」
更に近づいてきて顔を覗き込まれたものだから、変な声をあげてしまう。ベッドから勢いよく起き上がった。
大河は美形ということで有名だけれど、それは夏目の想像以上だった。
吸い込まれそうなほど綺麗な瞳に長い睫毛。唇はグロスを塗ったかのようにプルプルと輝いている。まだ高校生だというのにあまりにも完成された造形に、思考が停止してしまった。
「なぁってば!」
「は、はい……」
「そんなに体調悪いの? 熱はないみたいだけど」
「…………!?」
心配そうな顔をした大河が夏目の額にそっと手を当てる。大きくて骨ばった手が冷たくて気持ちいいだなんて実感する余裕などあるはずもなく、慌ててその手を振り払った。
――推しが、推しが俺の体に触れた……。
大河が触れた額がジンジンと熱を持っていく。全身に力を入れて蹲った。
次の瞬間、自分を心配してくれた相手になんて無礼を働いてしまったのだろう……と我に返り大河を見上げれば、不愉快そうな顔をした大河と目が合った。
謝りたい、そう思うのに唇が小刻みに震えて声が出ない。
――推しが怖い。あんなに会いたかったのに、触れてみたかったのに……。なんで? なんでだよ……。
目頭が熱くなって視界がユラッと滲んだ。涙が溢れ出すのを堪えるために拳を力いっぱい握り締めてみても、堪えきれず頬を涙が伝う。
大の大人が、しかも教師がなんて情けないのだろう……頭ではわかっているものの、感情が追い付いてきてくれない。
もしこれがイベントの握手会だったら、きっと笑顔で会うことができただろう。
こんな風に出会ってしまったことを悔やんでも悔やみきれるものではなかった。
「いいからさ」
「え?」
「泣くほど具合が悪いなら寝てろよ。保健室の先生が来るまで一緒にいてやるから」
大河の不貞腐れた声が聞こえた後、腕を引かれ強引にベッドに押し倒されてしまう。
予想もしていなかったシチュエーションに目を見開けば、丁寧に布団まで掛けてくれた。
「寒くねぇか? 寝ちゃってもいいぞ? ここにいるから」
「…………」
「おやすみ」
夏目は謝罪をすることもお礼の言葉を述べることもできないまま、布団を頭から被る。相変わらず心臓はバクバクとうるさいし、胸をギュッと鷲掴みにされたかのように苦しい。
――怖い、嬉しい、苦しい。
頭がグチャグチャになってしまい、声を押し殺して泣いた。



