「ただいま。今日も仕事疲れたよぉ」
リビングの扉を開き、夏目は大きく息を吐いた。
着ていたスーツも脱がずにベッドに倒れ込む。疲れ切った夏目を迎えてくれたのは、推し達のぬいぐるみだ。と言っても、お出かけ用のぬいぐるみではなく、自宅用の大きいサイズのものだ。
「あー、今日も推しが俺を出迎えてくれる……」
よしよしとぬいぐるみの頭を撫でた。
夏目はリアルの世界では高校で数学を教えている教師だ。高校教師なんて聞こえはいいが、ブラック企業以外の何ものでもない。朝早くから出勤し、夜遅くまで業務に追われる。働き方改善とは無縁の世界だ。
そして何より彼の人生は平平凡凡。特技も取り柄もない。
見た目は「可愛い」と女子生徒から言われることがあるものの、男が可愛いと言われたところでそれは誉め言葉なのだろうか?
癖の強い髪は自由気ままにピョンピョンと跳ね、身長だって172センチと高くもなく低くもない。成績はよかったかもしれないが、運動神経は普通。
中学、高校とバスケット部に所属していたが万年補欠。夏目は全てが普通。集団の中に不思議なほど溶け込んで目立つことはない。
そんな彼にとって推しは神様のような存在だった。
「癒される……」
近くにある推しの似顔絵が描かれたクッションに顔を埋め、最近発売された曲をスマホで流す。
推しと触れ合うことができなかった数時間が、どんなに辛く寂しいものだったか……。
『劇団、花鳥風月 』。
創立されて今年二十周年を迎える国内でも有名な劇団だ。
団員は三百人を超し、有能な役者が多数在籍している。その中から引き抜かれた者が、テレビで活躍している姿も見かける。全国各地を巡り、その活躍ぶりは留まることを知らない。
中学、高校と演劇部だった友人に連れられ、劇団 花鳥風月の公演を見にいったのは今から二年前のことだ。
それまでは演劇に興味などなかったのに、すっかりその劇団の虜になってしまった夏目は、それからというもの二人を見るために頻繁に足を運ぶようになる。
花鳥風月にとても魅力的な俳優を二人も見つけてしまったからだ。
最初の頃は「かっこいいな」と憧れを抱く程度だったのに、ある舞台をきっかけに、まるで雷に打たれたかのように運命的なものを感じてしまった。
この劇団には『花』『鳥』『風』『月』と呼ばれるトップスターが四人いる。トップスターは全劇団員の憧れの的であり、ファンのお目当ての存在でもある。
そんなトップスターが交代するにあたり、お披露目会が開催されることとなった。夏目は鼻息も荒く、胸を躍らせ劇場へと足を運んだのだった。
劇場は新しいトップスターを一目見ようと観客が押しかけて、今か今とその瞬間を待ち侘びている。その異様な雰囲気に呑み込まれそうになった。
きっとこのチケットを取れたことは本当に幸運だった。「早くトップスターに会いたい」、会場からひしひしと熱気が伝わってくるようだ。
「この度、トップスター『風』に就任しました本宮宗次郎でございます」
劇団の支配人が一人の青年を紹介すると、客席からは「わー!!」と割れんばかりの拍手が巻き起こる。
名前を呼ばれた一人の青年は、堂々とした足取りでステージ中央まで歩き、片膝をつき深々と頭を下げた。漆のように黒い髪が照明に照らされ光を放つ。
遠目にもわかる無駄のない鍛えられた体格が眩しい。
「もう一人ご紹介いたします。トップスター『月』に就任いたしました八神大河です」
その青年が舞台中央に歩き出した瞬間、一段と歓声が大きくなる。会場が揺れるのではないかと思うほどの震撼に、汗が流れ落ちるほどの熱気。
「すごい……」
宗次郎の横に並び、同じく片膝をつき深々と礼をする大河に視線だけでなく、心までも一気に奪われてしまう。
心と体に脳みそ。魂までもが興奮で震えるのを感じた。
「今後、二人をどうぞよろしくお願いいたします」
立ち上がり真正面を向く二人の顔を見て、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
綺麗とか、美しいとか……そういった言葉はこの二人のためにあるのかもしれない。そう感じるほどに整った外見をしていた。
生まれながらのスター。そんな才能を感じずにはいられない。それと同時に、自分と同じ生き物ではないと感じていた。
――彼らは神様だ。
「八神大河と本宮宗次郎」
そっと呟く。心の中で何度も何度も繰り返し呟く。
繰り返し呟く度に心が燃えて、体が昂っていく。
あの日、夏目には人生を大きく変えるほどの揺るぎない『推し』ができた。
近年、この『推し』というものに対する注目度は高く、心理学者が論文を発表するほどだ。推しがいる生活は、推しがいない人の生活に比べ満足度と幸福感が高いらしい。
全くその通りで壁一面に張られた推し達のポスターに、本棚に綺麗にディスプレイされた雑誌。勿論表紙は推し達だ。
そして所狭しと並べられているぬいぐるみとアクリルスタンド。どれをとっても夏目の宝物であり、彼を癒してくれるものなのだ。
室内のインテリアは宗次郎の『風』をイメージした青と、大河の『月』をイメージした黄色で統一されている。
耳をすませば大河と宗次郎の歌声が聞こえてくる。芝居が上手いのは当然だが、この二人は歌も上手いのだ。
優しくて色気のある声の宗次郎に、宗次郎より少しだけ低くて落ち着いた声の大河。目だけでなく、彼らは夏目の耳までも満足させてくれる。二人の声を聴いているだけで、脳みそが蕩けてしまいそうだ。
「癒されるなぁ」
教師から解放されオタクに戻れる瞬間。こうしてようやく自分自身を取り戻すことができる。全身の力が一気に抜けていくのを感じた。
「推しって本当にいいなぁ」
そんな幸せを、夏目は噛み締めた。
また明日も頑張れそうだ。
夏目が勤めているのは東京にある有名私立高校。しかし偏差値が高いとか、スポーツが盛んで有名なわけではない。
この高校には、進学コース、普通コース、体育コースに加えて、日本でもあまり見かけない芸能コースがあるのだ。
芸能コースは芸能界での活躍を目指す者や、すでに芸能活動をしており、全日制高校に通学するのが難しい者のためのコースだ。
仕事量、人気の有無に関わらず数十人の生徒が在籍している。
元々アイドルやYouTuberといったインフルエンサーが好きだった夏目は、今の職場で働けることを幸せに感じていた。
芸能コースにいる生徒と特別仲がいいわけではないが、キラキラと輝く生徒を見るだけで元気になれる。平凡な自分にはない、彼らだけが放つオーラが眩しかった。
****
「なんだろう……」
ある日、校内がザワザワしているのを感じる。生徒達がある噂話で持ち切りだった。
「知ってる? モトヤガが転校してくるらしいよ」
「モトヤガってあの有名な劇団の?」
「そうそう! 超イケメンだから見てみたいよね!」
申し訳ないと思いつつも女子生徒達の会話に耳を傾けた。そんなことに気付く様子もなく、興奮を隠しきれないといった様子でガールズトークはどんどん盛り上がりをみせていった。
「――モトヤガ? モトヤガ……え、嘘だろう……?」
夏目の頭が一瞬真っ白になる。
「ねぇモトヤガって、あのモトヤガ?」
「わ、びっくりした! 夏目ちゃんじゃん?」
「あのさ、今君達が話してたモトヤガって、もしかして……」
「そう、劇団 花鳥風月のモトヤガだよ」
普段なら生徒に「ちゃん」付で呼ばれたら指導するところだが、今はそれどころではない。
今の夏目にとって、モトヤガが転校してくるということのほうが大事件なのだ。
「これはヤバイことになった……」
一気に全身を血液が駆け巡り、アドレナリンがガンガン放出されていく。叫びたくなる衝動を必死に押し殺した。
情報を提供してくれた生徒に手短に礼を言ったあと、夏目は走り出す。階段を駆け上がり目指すは屋上。
しかし急ぎ過ぎたせいで息が上がる。
夏目は今年で二十六歳になるが、学生以降運動らしい運動はしていない。せいぜい徹夜でグッズを買うために並ぶ時くらいしか体力を使わない。喉から血の臭いがしてきたが、そんなことは気にならなかった。
屋上へと続く扉を開けると心地いい風が癖毛をサラサラと揺らす。目の間には雲一つない青空が広がっていて解放感に包まれた。
「やった! モトヤガが転校してくる、モトヤガが……!」
目を大きく見開いて、爽やかな初夏の空気を胸いっぱい吸い込んだ。
それから数日後、運命の時がやってきた。
多くの生徒達が窓の外を見て黄色い声援をあげている。芸能コースがあるせいで、芸能人を見慣れている彼らでも興奮を隠しきれていない。
見かねた教員が職員室を飛び出して指導にあたるが、一向に静まる様子などみられなかった。
「あ、見て! 来たよ!」
「本当だ! 超かっこいい!」
生徒達がより一層大きな歓声を上げる。
それも当然だ。今日はあの人気沸騰中のモトヤガが初登校する日なのだから。
夏目も朝から落ち着かず、何度も外の様子を確認してしまった。落ち着かなくていてもたってもいたられない。
この感覚は入り待ちや出待ちのときの高揚感によく似ている。その瞬間を今か今かと、胸を高鳴らせて待つのだ。
「待って、マジで来た!!」
女子生徒の悲鳴に近い声にハッと顔をあげた。
「大河君! 宗次郎君!」
「めっちゃかっこいい!! 泣きそうなんだけど!!」
女子生徒が窓から手を振れば、そちらを見てにこやかに手を振り返している。その手慣れた様子は見ていて心地よさを感じるほどだ。
それを見た女子生徒が両手で口を覆い、目元を潤ませている。
――モトヤガとは。
劇団 花鳥風月の本宮宗次郎と八神大河の最初の二文字をとった愛称。アイドルでない彼らは特にユニットを組んでいるわけではないが、二人で仕事をすることが多い。
そんな彼らにファンが付けた愛称が『モトヤガ』。
そう、モトヤガは夏目の推しだ。
まさか自分が勤めている高校にモトヤガが転校するなんて思いもしなかったが、どんどん人気になり仕事が増えていっている今、普通の高校には通いきれないのだろう。
これは神様から与えられたプレゼントだ。こんな幸運、もう一生起こらないかもしれない。それでもいい。推しに会えるのだから。
マネージャーと思われる人に連れられて校内に入っていく二人を見送る。
――近くに行きたい。もっと近くに……。
沸々と込み上げてくる思いに何とかブレーキをかける。
ここはリアルの世界であり、自分は高校教師だ。モトヤガの追っかけをしている自分は、たくさんのグッズと共に自宅へ置いてきた。ここでオタク魂を爆発させるわけにはいかない。
――我慢だ、我慢。
拳を握り締めながらそう自分に言い聞かせたのに、心臓がうるさいくらい高鳴っていた。



