キーンコーンカーンコーン。
チャイムが授業の終わりを告げる。
「じゃあ、今日はここまでにします。明日、今日やった範囲の小テストをしますから、復習しておいてくださいね」
「えー!!」
夏目の言葉で生徒が一斉に悲鳴をあげた。そんな光景を見れば可笑しくなってきてしまう。子供は素直で可愛い。
素直で無邪気で我儘で……そんなことを考えているうちに二人の青年の顔が頭に浮かぶ。
――一体俺は何を考えているんだ……。
雑念を振り払うかのように慌てて頭を振る。一瞬でもその人物達のことを考えてしまったことが恥ずかしくて仕方がない。顔が真っ赤になって鼓動が速くなった。
「夏目ちゃん、顔が真っ赤だよ!」
「本当だぁ。可愛い」
「なんかエロイこと考えてんの?」
「コラ男子! 夏目ちゃんは妖精なんだからエロイことなんて考えないの!」
「じゃ、じゃあ、明日のテスト頑張ってくださいね」
自分を冷やかす生徒の声から逃げるように教室を後にした。
廊下を足早に歩き、人影のない所で立ち止まる。息が切れたから壁に寄りかかって息を整えた。
最近の自分はおかしい。
あの日から……大河に熱っぽい視線を向けられて「抱いてあげる」と迫られたあの夜から。
あれは予想もしなかった出来事で、夏目を動揺させるには十分のハプニングだった。
結局大河があれ以上夏目を求めてくることはなかったものの、明らかに二人の間を流れる空気が変わってしまったことを感じる。
無意識に大河を目で追ってしまうし、ふとした時に大河のことを考えてしまう。「今頃何の授業を受けているのだろうか」「今日は仕事で遅くなるのだろうか」気が付けば、大河のことで頭がいっぱいになっていた。
「大河! 体育館でバスケやろうぜ!」
「オッケー!」
突然聞こえてくる大河の声に渡り廊下を見下ろす。もしかしたら大河がいるかもしれない……そう考えるとまた胸がドキドキしてきてしまった。
「あ、大河だ」
視線の先には友人達に囲まれて楽しそうに笑う大河がいた。人前であんなに無邪気な顔もできるんだ……そう思えば今度はズキンと心が痛む。
あの笑顔は自分だけに向けられるものだと思っていたから。
いつも観客席から、こうやって大河のことを見守ってきた。キラキラ輝く彼と同じ空間に一緒にいられるだけで十分だったのだ。
でも、今自分が大河に向けている視線はあの頃とは全然違う。大河のことを『推し』だと思っていた頃はただ純粋に見つめることができるだけで幸せだった。
でも今はそんな純粋な思いの中に、嫉妬や願望……独占欲といったドロドロとした不純物が混ざってしまっている。
これはファンが推しに向ける感情ではない。きっとこの感情は……。
不器用で鈍感な夏目でもさすがに知っている。大河を見るだけで、声を聞くだけで、胸が痛い。――でも、こんなにも心が温かいのだ。
その瞬間大河が顔を上げる。
初夏の爽やかな風が大河の色素の薄い髪をサラサラと揺らし、眩しい日差しが彼をより一層健康的に見せた。その光景があまりにも綺麗で涙が出そうになる。
「大河……」
小さな声で呟けばその声が届いたかのように、夏目のほうに向かい大河がフワリと微笑む。ギュッと甘く胸が締め付けられて、優しい電流が体を駆け抜けていった。
――あぁ、これは、この気持ちは、もう推しに向ける感情ではない。
気付いてしまった。その感情の正体に。
――これは恋だ。俺は大河に恋をしているんだ。
夏目は推しから恋に変わる瞬間を感じていた。
放課後、突然大河からメールが届く。「なんで学校でメールなんて送ってくるんだ……」冷や冷しながら送られてきたメールをこっそりと読んで、更に度肝を抜かれてしまった。
『屋上に来て。来てくれないなら職員室まで迎えに行く』
あまりにも自分勝手な文章に思わず眉を顰める。なぜなら夏目はまだ勤務中なのだ。
それに学校でこっそり会っていることが誰かに見つかったら……血の気がスッと引いていく。今の夏目にはバレたらまずいことが多すぎる。
懲戒免職……最悪のシナリオが頭に浮かんだ。
『なぁ来ないの? 職員室に迎えに行こうか?』
夏目の気持ちを煽るかのように届くメール。
「迎えに来られてたまるかよ!」
小さく舌打ちをしながら屋上へと向かった。
もうすぐ下校時刻が近付いている校内は、昼間に比べて静まり返っている。生徒のいない学校っていうものはこんなにも静かなのか、と少しだけ寂しさを感じた。
空が少しずつ赤く染まり昼間はあんなに暑かったのに、今は風がひんやりと心地いい。
屋上の扉を開けた瞬間、強い風が吹いて夏目の癖毛をサラサラと揺らした。
「気持ちいい」
思わず目を細める。普段屋上にくる機会なんてほとんどない夏目にとって、そこはとても新鮮な場所に感じられた。
「夏目……」
「わっ!」
突然背後から抱き締められた夏目は思わず大声を上げた。
「ふふっ。本当に来てくれんだ。ありがとう」
耳元で大河の低い声がする。嬉しそうに笑いながらギュッと抱き締めてくる。「来いって言ったのは大河だろう?」そう言い返してやろうかと思ったが、その言葉を呑み込んだ。
振り返った視線の先には、幸せそうに微笑む大河がいたから。そんな顔を見てしまえば怒る気すら失せてしまった。
逆に見慣れない大河の制服姿を見てドキドキしてしまった。
「超嬉しい」
「こら大河、離れなさい。誰かに見られたらどうするんだよ?」
「嫌だ。離れない」
「大河……」
「絶対に離れない」
まるで子供のように駄々を捏ねる大河。夏目の首筋に顔を埋めて抱き締める腕に力を込めた。
仕方ない……夏目は諦めて溜息をつく。大河が一度甘えん坊モードに入ってしまえば、何を言っても無駄だ。まさに馬の耳に念仏……。
気が済むまで甘えさせてやるしかない。
「今日渡り廊下を歩いている時、夏目がずっと俺の方を見てた」
「み、見てないよ!」
「嘘だ。最近の夏目は、俺のことをずっと目で追っていることに気付いている? それとも無意識なの?」
気付かれていた……夏目の顔が一瞬で林檎のように真っ赤になる。大河の顔を見ることもできずに思わず俯いた。心臓がドキドキとうるさい。
「照れることないよ。俺だって夏目のことずっと目で追ってるもん。夏目のことが気になって仕方がないんだ」
「え?」
「夏目、可愛い」
優しい声色に誘われるかのように恐る恐る振り返れば、優しい顔をした大河と視線が絡み合う。
「夏目を独り占めできたらな……」
顎を囚われて強引に上を向かされる。大河の温かな吐息が頬にかかって、唇が押し当てられる。チュッと啄まれてから更に深く重なっていった。
大河のキスは気持ちよくて、頭の中がボーッとしてくる。膝がかくかくと震えて崩れ落ちそうだ。
大河のキスを夢中で受け止めながら、心の中のカップから大河への思いが溢れ出したのを感じた。
****
「ただいま」
そっと呟けばマンションの中は静まり返っている。
「まだ二人共帰ってきてないのか……」
夕飯の材料がたくさん入ったエコバッグを下げながらリビングに向かう。廊下を歩いていると宗次郎の部屋から明かりが漏れていたから、ドアの前で立ち止まった。
「本宮君?」
声をかけてみるが反応がない。「開けるよ」と声をかけてからドアを開けると、床に蹲り眠っている宗次郎を見つける。
その寝顔は子供のように幼くて可愛らしい。思わず口角が上がってしまった。
「こんなところで寝ていたら風邪ひきますよ」
遠慮がちに体を揺らせば「んんッ」と眉間に皺を寄せるものの起きる気配はない。大きく溜息をついて、床に視線を移せば一冊の本が無造作に置いてある。何度も読み返したのだろうか? かなりボロボロになっている。
何の本か気になった夏目は、触ろうとした手を勢いよく引っ込めた。
「あ、これ台本だ」
申し訳ないと思いながらも表紙だけ盗み見ると、夏目が知らないタイトルが書いてある。
大河と宗次郎が出演したお芝居は全部把握している夏目が知らないのだから、前に二人が話していた新しい舞台なのかもしれない。
「こんなにボロボロになるまで読んでくれてるんだね……」
台本にはたくさんの付箋も貼ってあるから、きっと何度も何度も読み返しているのだろう。自分の為に頑張ってくれているんだ……そう思ってしまうのは自惚れだろうか?
「ありがとう」
夏目の胸がギュッと締め付けられて熱いものが込み上げてくる。涙が出そうになったから、慌ててシャツの袖で目元を拭った。
『俺頑張りますから、応援してください』
頬を紅潮させながら言葉を紡ぐ宗次郎の顔を思い出す。
「ありがとう」
我慢せず溢れ出した涙が静かに頬を伝う。
夏目が部屋に入ってきたことに気付くことさえなく眠り続ける宗次郎の髪を優しく撫でる。普段髪をハーフアップにまとめているのに、今は結わえられていない。顔にかかる長い髪が、彼を普段より妖艶に見せた。
大河とは違った綺麗さをもつ宗次郎。あまりにも神々しくて触るのさえ躊躇われるほどだ。
「宗次郎……」
そっと呟いた瞬間グイッと腕を引かれ、床に押し倒される。「え?」と思った瞬間、つい先程まで寝ていた宗次郎が自分の上に覆い被さっていた。
両腕を顔の横に押し付けられ、組み敷かれてしまえば体を動かすことさえできない。あまりに至近距離に宗次郎の顔があり、思わず息を呑んだ。
「夏目先生、捕まえた」
まるで悪戯っ子のようにニヤニヤと笑う。宗次郎の髪が頬にかかりくすぐったい。
不安と期待とが入り交じり、心がグチャグチャになってしまった。夏目は思わず全身に力を込める。
「お、起きていたなんてズルい……」
「いやぁ、あんまりにも可愛いことをしてくれるから、起きるのが勿体なくて」
「そんな、ひどい……」
「でも、宗次郎って名前で呼んでくれたことが凄く嬉しくて。寝たふりもしてられなくなりましたけど」
クスリと意地の悪い笑みを浮かべ宗次郎が笑う。
「ねぇ、夏目お願い。俺のことも宗次郎って名前で呼んでください? 大河のことは名前で呼ぶでしょう?」
「そ、それは……」
「お願い、宗次郎って呼んで……お願い……」
不安そうに自分の顔を覗き込んでくる宗次郎の切れ長の瞳が、ユラユラと揺れていることに戸惑いを隠せない。いつも冷静沈着で、自分の我儘を夏目にぶつけてくることなんてなかった。
そんな宗次郎が見せた意外な一面に、夏目の胸は締め付けられる。こんな宗次郎を初めて見た。
「夏目……俺の話を聞いてくれますか?」
「話? え? あ、うん。勿論聞くよ」
こんなに改まって一体何の話だろうか? 胸がザワザワしてくる。
「俺の両親は大手企業に勤めています。幼い頃から二人の俺に対する態度は厳格で、我儘を言うことも甘えることも許されなかった。でも、逆に自分の気持ちを押し殺して、いつもいい子にしていれば両親から誉められたし認められた。だから俺は、我儘を言うことも我慢して、いつも大人の顔色を窺って生きてきたんです……」
「そんな……」
「でも中学生になったとき、ついに我慢の限界が来た。両親に黙って劇団のオーディションを受けて、合格した途端俺は家を飛び出した。あの家は息が詰まって仕方がなかったから……」
当時のことを思い出しているのだろう。宗次郎が寂しそうに顔を歪めた。
「俺は本当に俺になりたくて俳優になったのに、今もファンが理想としている本宮宗次郎を演じ続けている。それが悔しくて仕方がない。有名になればみんなが俺を認めてくれるはずだ……そう思っていたのに、理想と現実は全然違った」
ポタッと夏目の頬に温かい雫が落ちる。ハッと顔を上げれば涙を流す宗次郎がいた。恥ずかしげもなく涙を流すその姿に心が張り裂けそうになった。
いつも大人のような立ち振る舞いをしていた宗次郎が、こんなにも辛い思いをしていたことにどうして今まで気づいてあげることができなかったのだろう。
こんなにも近くにいたのに……ファンとして、大人として、教師として……自分の不甲斐なさに泣けてきた。
「俺はどこにいても、誰と居ても本当の自分にはなれないんです」
子供のように肩を揺らしながら泣く宗次郎の頭を、宥めるように撫でてやる。
胸が痛くて仕方がないのに、誰も知らない宗次郎の姿をとても愛しく感じてしまう。「ごめんね、こんな時なのに」、夏目は心の中でそっと謝罪をする。
「俺だって大河みたいに夏目が好きだって、夏目が欲しいって駄々を捏ねてみたい。だってこんなにも夏目が好きなんだから……」
「宗次郎……俺、俺……」
「ようやく名前で呼んでくれた」
目の前の宗次郎が目に涙をたくさん浮かべながら微笑む。
「ねぇ、夏目は大河とキスしたでしょう? 俺とはしてないのに……」
「え?」
「夏目にキスしたいのをずっと我慢していたから、嫉妬しちゃうな」
「んッ、んん……ふぁ……ッ」
宗次郎から笑顔が消えた瞬間、強引に唇を奪われた。あの優しい宗次郎からは想像もできないくらい激しい口付けに頭の中が真っ白になる。
「夏目、口を開いて?」
「…………」
「口、開いて?」
まるで言い聞かされるかのように見つめられる。その瞳はとても綺麗で吸い込まれてしまいそうだ。視線を逸らしたいのに、まるで魔法にかかってしまったかのように体を動かすことができない。
宗次郎に身も心も浸食されていく感覚に襲われた。
――駄目だ、捕まっちゃった……。
恐る恐る言われたとおりに口を開けば、「いい子だね」と満足そうに微笑んだ宗次郎に再び唇を奪われてしまう。唇の隙間から侵入してした熱い舌が、無遠慮に口内を這い回った。
「あ、あぁ……んん……ッ」
舌を絡み取られ上顎を擦られて……息が苦しくて必死に宗次郎にしがみつく。ようやく解放された唇で、大きく酸素を吸って乱れた呼吸を整えた。
――なんで高校生なのにこんなにキスが上手いんだよ……。
肩で呼吸をしながら宗次郎を見上げれば、今にも泣きそうな顔をしていた。まるで、甘えたいくせに人間に近付くことができず、茂みの中で息を潜めている野良猫のように見える。
本当は構ってほしいのに、とても臆病だし意地っ張り。でもそれさえも愛おしい……。
「おいで、宗次郎」
「……はい」
そっと体を抱き寄せれば恐る恐る夏目に体を預けてくる。筋肉質な宗次郎はとても重たいけど、夏目の胸に顔を埋める姿は子供みたいで可愛らしい。ギュッと抱き締めてやった。
「俺の前では無理しなくていいよ。こうやって甘えたっていいし、泣いてもいい。素の宗次郎でいていいんだよ」
「本当ですか?」
「うん、俺が全部受け止めるから」
「夏目、ありがとうございます」
宗次郎がスッと瞳を閉じたから夏目もそれに倣う。チュッと柔らかく唇と唇が重なりあい、甘く吸われる。先程とは違い触れるだけの優しいキス……。
体が少しずつ熱を帯び、血液が沸騰していった。
「キス、気持ちいい……」
「うん、俺も気持ちいい。夏目、大好きです」
目元を赤く染めながら一生懸命に思いを伝えてくれる宗次郎が愛おしい。愛おしくて愛おしくて……胸が張り裂けそうだ。
それと同時に、心が甘く震え出す。心臓がどんどん高鳴っていって心が掻き乱された。
素直に「あぁ、俺は宗次郎が好きだ」と思えてしまうことに強い戸惑いを感じる。
それなのに、宗次郎とのキスは蕩けてしまいそうなくらい気持ちがよくて……拒絶なんてできるはずがない。
拒絶どころか、離れていってしまった唇を無意識で目で追ってしまった。それに気付いたのか、宗次郎の目が細められる。
「宗次郎、もっとキスして?」
「可愛いなぁ。いいですよ、もっとしましょうね」
大河に惹かれながらも、宗次郎のキスに骨抜きにされてしまう自分が情けない。
「好きですよ、夏目」
耳元で宗次郎の低い声が聞こえてくる。「俺も好き」と答えられないまま、待ち望んだ甘くて優しいキスを頬張った。
――どちらかをなんて、選べるはずがない……。
その答えを導き出すには、心を引きちぎられるような痛みを伴った。



