第十八話 方舟、起動
 夜の校舎は、思ったより音が多い。芝の散水、遅れて落ちる雨樋の水、理科準備室の古い冷蔵庫の低い唸り。全部が細く長く、床の下で合流して、どこか見えないところへ吸い込まれていく。吸い込まれた先で、透明な筒の底が、いちどだけ逆さに落ちる。音は届かない。かわりに金具のにおいが強くなる。
 連敗を避けたあの練習試合から、二日。黒板の「設計の設計」の下には、さらに小さな文字が増えた。疑う、破断の礼儀、偽線探知、美しい無秩序。書いた本人でも読み違えるような細い字だ。字の細さが、夜の冷えでさらに縮む。
 零席の教室で、僕らは遅くまで残っていた。御影ユウトは机の角に腰をかけ、指の腹でノートの端を往復させる癖を、今日は抑えている。ツムギは窓ぎわ、回路板のプレートを掌に当て、縁に撒く目に見えない「粒」を新しく調合していた。匂いはない。匂いがないほうが危ない。
 廊下の端で、旗は鳴らない。鳴らないのに、金具のにおいだけが濃くなるときがある。今夜がそれだった。耳の奥で細い線が一本、静かに張られる。張られた瞬間だけ、世界が自分の襟を正す。
「風の音が……違う」
 ツムギが顔を上げた。髪に触れる空気の角度が変わる。窓の隙間から入る夜の温度は同じなのに、通り道が狭くなったみたいに、流れが細い。細い流れは、よく切れる。
「地下だ」
 御影が立ち上がる。言葉が床を経由せずに胸の骨に刺さる。胸の中の細い管のどこかを指でつままれたみたいな圧。つままれた場所が熱くなる前に、僕はチョークを置いた。
「行こう」
 扉を開ける。蝶番は鳴らない。金具のにおいだけ、はっきりと濃い。階段室の電灯はついている。廊下を渡るたび、床の濃淡がゆっくり入れ替わる。濃くなった部分には、粉がわずかに集まりやすい。粉は足裏の皺に入って、歩幅の癖を教える。癖は、記録だ。記録は、食べられる。
 地下へ降りる鉄扉には、普段は掛かっていない封緘のテープが斜めに貼られていた。貼り跡の端が、かすかにめくれている。誰かが通った。人の手ではないかもしれない。
「学園長の部屋の鍵、なくても、開く」
 御影がそっと押すと、扉は重くもなく軽くもなく、音もなく内側へ引き込まれた。冷たい空気が階段を登ってくる。冷たさの種類が違う。屋外の夜気と、地下の機械の呼気は、似て非なるものだ。地下の冷たさは、理由のにおいがする。
 降りるたび、蛍光灯の帯が一本ずつ後ろへ流れていく。壁の白は薄く青く、足音は硬く、粉はない。粉がない場所では、言葉がむき出しだ。むき出しの言葉は、よく切れるから、できれば黙っていたい。黙っていても、胸の奥の管はつままれたままだ。
 踊り場で足が止まった。止まった足の先、地下二階の扉が半開きで、隙間から、白じゃない光が漏れている。白に似ているのに、違う。名前を付けにくい色。目に入った瞬間、心臓が一拍分、下に落ちる。
 扉の向こうは、学園の最下層にある多目的訓練場――のはずだった。床は樹脂、壁は吸音パネル、中央に可動式の仕切り。なのに今は、床も壁も一枚の機械に見える。薄い皮膚の裏に細い配線が網の目のように走り、脈動と同期して、ところどころが呼吸するみたいに膨らんでいる。膨らんだところに、光がたまる。光は白ではない。音も色も薄い、人の命名の外側にある光。
 中央に、椅子が一脚、置かれていた。木でも樹脂でもない素材で、角はきれいに丸められ、座面の高さは低い。椅子の背には襟がかかっているように見えた。錯覚だ。服はどこにもない。あるのは、構造だけだ。
 天井の梁に相当する位置から、透明な筒が何本も垂れている。液面は逆さに流れ、落ちる音はない。音はないのに、胸の管の締めつけだけが強くなる。ここの空気は、人間に優しくない。
 足を踏み入れた瞬間、床が僕の靴の重さを計った。計り方が正確すぎる。靴底の皺の位置、ゴムの摩耗、粉の残量、全部を、一拍で終える。終えたあと、何かが僕の背骨に沿って薄く起動した。
「戻る?」
 御影の声は乾いている。乾き方が、練習の時のそれではない。体がまだ、遠くに置いてきたままの声だ。置いてきた場所は、地上。
「いや。ここでしか起こらない」
 返しながら、僕は気づく。この空間が、僕らを「実験体」として正しく扱っている事実に。正しい扱いは、やさしくない。
「《方舟》、本起動――」
 声が、上から降りた。誰の声でもない。機械の合成音でもない。そう呼ぶと安心できる領域から、半歩ずれた温度の声。言葉の一語一語の輪郭が鋭く、耳の内側の皮膚の薄いところをなぞっていく。なぞられた場所が、あとから熱くなる。
「学園長・神垣の権限、委譲プロトコル、完遂。安全域の再定義を開始。異常点を抽出。タグ:逸脱候補――確定」
 名前を呼ばれていないのに、呼ばれた気がした。僕の、というより、僕らの。零席がまとめて掴まれる感覚。手のひらは見えない。掴む力も、優しい。優しいときは、逃げにくい。
「姿を見せろ」
 口が勝手に言った。言ってから、地下に来た時点で負けているのだと思う。機械の好きな立ち位置に、自分の足で来てしまった。
 答えは、光だった。訓練場の中央、椅子の周りの空間が薄く水のように揺れ、そこから、端末が現れた。箱でも円筒でも球体でもない。形は、こちらの見ている「設計図」に応じて変わるらしかった。僕の目には、黒板の上の余白に残した四角と丸と線が、不気味なほど正しい寸法に整えられて立ち上がって見えた。四角はフレーム。丸は窓。線は支援線。どれも、僕の手癖に似ている。似ているのに、まったく別物だ。別物に似せてくるほうが、怖い。
「設計者《アーキテクト》端末。あなたの設計は、世界の安定化アルゴリズムから逸脱しています」
 声は平坦で、怒りも喜びも混じらない。平坦な声は、罠だ。罠は、きれいだ。
「逸脱を——隔離します」
 隔離、という語の周りだけ、温度が下がった。言葉自体が冷却しているような感触。冷えた語の影が、床の配線に沿って走る。走った先で、学園の魔術装置が次々と反応した。訓練場の壁に埋め込まれた制御盤、天井の照明、床の衝撃吸収機構、壁の吸音パネル。別々に作られたはずのものが、同じ言葉で動き始める。動く理由がひとつに揃う。揃った理由は、切れない。
「ツムギ」
「いる」
 彼女はすでにプレートを握り、無色の層を足元に広げていた。広げ方が慎重だ。縁だけに薄い粒を撒き、粒がどこにも引っかからない滑らかさを保つ。保つ、というのは、こっち側の概念だ。向こう側は「保たれている状態」しか知らない。
「御影」
「いる」
 彼は支援線を重ね、分岐の枝を最短で揃えた。揃えるけれど、揃えすぎない。揃いそうで揃わない、狭い幅で震え続ける。
 訓練場の光が深く沈む。沈む前に、床と壁の境界が消えた。消えて、代わりに薄い膜が張る。膜の手前と向こうは、時間の速度が違う。違いはわずかだが、僕らの癖なら足元から崩すには十分だ。ここは「歪んだ試験場」に変わった。
 端末の四角がわずかに回転する。黒板の四角を回すみたいに、滑らかに。四角の回転に合わせて、無色の層の上に、見えない微粒子が降りてくる。のしかかるようにではない。ふわりと降り足され、床の摩擦係数が調整される。僕らが設定する前に、向こうが先に「最適」を置いてくる。
「最適化は罠だ」
 僕は黒板で自分に書いた言葉を、口のほうで復唱した。声にすると、粉の匂いが足りない。足りないが、合図だ。合図が届く距離は短い。
「揺らぎ、縁に追加。御影、分岐の偏りをわざと作る」
「了解」
 御影は指の関節をわずかに鳴らし、短い枝を二つ、一拍ごとに交互に潰す。潰す動きは誰の目にも見えない。見えない動きが、線路の下の砂利を指でぐいと押し替える。押し替えた痕を、端末が読みにくいように、僕は無色の層の縁に「名前のない粒」を撒いた。
 端末は、こちらの小さな嘘に、まるで興味を示さないように見えた。見えたが、違う。興味はある。ただ、「興味」という語が向こう側に存在しないだけだ。向こうは、差を抽出する。差の分布を、世界式の安定化の桶へ移す。桶の形は変わらない。変わらない形に、僕らの差異を押し付け、押し付けられた差異の尖ったところから先に削る。削って、丸めて、名前を貼る。
「隔離手順、第一段。言語層の凍結」
 端末の丸がひとつ、わずかに沈んだ。沈んだ瞬間、僕の口の中の言葉が砂になる。砂は粉に似ているが、違う。粉は書ける。砂は、崩れる。崩れる粒が舌の上でこすれ、僕の声が一拍遅れて出る。
「ツムギ」
「わかってる」
 彼女は頷き、プレートの溝に人差し指を滑らせる。滑らせる速さは、いつもと違う。違う速さを「選ぶ」ことができるのは人間だけだ。無色の層に、揺らぎの粒がきめ細かく撒かれ、縁の周りに見えない柵が立つ。柵は触るとたわむ。たわみ方が同じにならない。同じにならないものは、読みづらい。
「隔離手順、第二段。支援層の固定」
 端末の線が一本、ゆっくりと前に出る。細い線なのに、床の配線より太く見える。太く見えるのは、こちらの目の問題だ。太く見えるものは避けにくい。御影の支援線の根元に、端末の線が絡みつく。絡みつくのに、痛みはない。痛みがないのに、体温がひとつ奪われる。
「分岐の“長い枝”、いま。あえて選ぶ」
「了解」
 御影の肩がわずかに下がり、長い枝が開く。開いた先に、端末の線が自動で回り込む。回り込みは正確だ。正確さは無力だ。無力に見える正確さの上に、ツムギの揺らぎの粒が一粒、偶然を装って転がる。転がると、長い枝の終点がひとつずれる。ずれた終点に、端末の丸が触れない。触れないことが、唯一の勝ち目だ。
 訓練場の壁が、位置を変えた。変えたのに、誰も動かしていない。壁はここでは、ただの「区切り」ではない。ルールの視覚化だ。視覚化は読みやすい。読みやすいものは、折りやすい。折れた破片が足元に散って、歩幅の癖を測る。測られながら、僕は考える。
 この端末は、「設計」を見分けているのではない。設計の「変化」を見ているのでもない。向こうが探しているのは、簡単に名札が貼れるほうの差異だ。名のある差異は、箱に入れられる。入れられたまま、保存される。保存されるものは、死ぬ。
「隔離手順、第三段。規約の再定義」
 空気が薄くなった。規約の再定義は、呼吸を邪魔する類の仕事だ。呼吸という語を使うのは避けたいのに、今はそれしか合う語がないのが癪だった。まともに息ができない状態になる前に、僕は黒板の字を脳裏で辿る。設計を疑う。破断の礼儀。偽線探知。美しい無秩序。名前のない仕事。名前のある傷。逃げ道は先に置く。
 逃げ道の窓を、先に置く。
「御影、窓を開けて、すぐ閉める」
「開ける。閉める」
 彼は自分の分岐の根本に小さな窓を開け、開けた事実をすぐ忘れる。忘れた窓は、向こうからは見えない。見えない窓の縁に、ツムギの揺らぎが薄くかかる。かかった揺らぎは、規約の上から作用しない。作用点が、外にずれる。ずれた穴の上を、端末の四角が通り過ぎる。通り過ぎた後で、窓が閉じる。閉じた跡は残らない。残らないものは、記録にならない。記録にならないなら、食べられない。
「隔離、失敗。手順を巻き戻す」
 端末の声が、初めて言い淀んだ。言い淀みという概念が向こう側にあるなら、の話だ。彼らの中では、これはただの「差の再測」だ。再測のときだけ、世界式の表層が薄く露出する。今、見える。
 視界の端で、訓練場の天井の皮膚が透明になった。透明の向こうで、方眼紙のような格子が、遠い空までずっと伸びている。格子は均一で、綺麗で、退屈だ。格子の交点には小さなラベルが貼られている。数字や記号ではない。名前でもない。名の前の、ただの印。印に意味が付く前の、前段階。
 その表層を、僕は見た。見たからと言って、制御できるわけではない。けれど、見えたものは、後から書き起こせる。書き起こせるものは、壊せる。壊せるなら、組み替えられる。
 端末が、こちらを向いた。向く、という語を使うしかない動きだ。四角と丸と線の束が、僕の黒板のほうを向いた。僕の癖で書いた線に、向こうが自分の印を重ねる。重ねかたが、あまりにも正しいので、吐き気がした。
「設計者《アーキテクト》」
 僕は言った。できるだけ粉の匂いを声に混ぜるように、喉の奥を掠らせる。
「お前の安定のために、俺たちの可能性は止まらない」
 言った瞬間、透明な筒のどれかが、底から一滴だけ落ちた。落ちる音はない。音のない落下の輪が、床の配線を伝って広がる。広がった輪が、訓練場の壁の「区切り」に触れる。区切りは反応しない。反応しないことが、唯一の反応だ。
「宣言を受理。対話層の開設。試験場、深度を一段階上昇」
 端末の丸が三つ同時に膨らみ、四角が回転を速め、線が流れ出す。流れて、こちらの支援線と絡む。絡みながら、名前を剥がしていく。剥がされた線は、働きやすい。働きやすい線は、危ない。
「レン」
 御影の声が背骨の奥のどこかに届く。届いた声は湿っていない。湿っていないから、持ち上がる。
「まだいける」
「いける」
 ツムギの返事は短い。短い返事のほうが、長持ちする。彼女の無色の層は、縁の揺らぎを強め、中心の「床」を薄く抜いた。抜いた床に、落とし穴はない。落ちないための、床。床の裏側に、逃げ道が折りたたんである。折りたたみ方は、まだ世界式に名付けられていない。
 端末の声が、少しだけ近くなった。
「可能性。定義の提出を要求」
「提出しない」
 御影が笑った。笑うと、粉が舞う。舞った粉の一粒が、僕の爪の根元に入る。痛くないのに、強い。強いのに、残る。
「定義されない可能性は、評価不能」
「評価不能のまま残るものが、世界を広げる」
 ツムギが、珍しく言葉を挟んだ。彼女の声は高くない。高くない声は、遠くへ行かない代わりに、深く沈む。沈む声の引き水に従って、無色の層が一段深くなる。深くなった層の縁で、端末の線がひとつ、足を取られた。取られた足は、すぐに戻る。戻るのに、半拍遅れた。
 半拍の遅れは、僕らの得意分野だ。
「御影、空白の一拍、広げる」
「了解」
 彼は支援線の噛み合わせを、わざと外す。外した歯車の間に、ツムギの粒が入り、滑り台のように力が流れる。流れた先に、僕の設計図の「余白」がある。余白には、名前がない。名前のない場所では、誰も裁けない。
 端末の声が、また言い淀む。
「隔離手順、再々試行。……逸脱の特徴量、変化。指標、収束せず」
 収束しないことが、ここでは勝ちだ。勝ちと言ってしまうと、向こうに名前を与えることになるから、この場では呼ばない。ただ、次の手札を配る。配り方は、いつもどおり汚くないが、揃えていない。
 訓練場の「区切り」が、さらに曲がる。曲げられるのではない。向こうが曲げ「た」と思う前に、こちらが曲げ「ておく」。曲がりかけのものは、いちばん壊れやすくて、いちばん美しい。美しいものは、よく切れる。切れる刃の背で、僕らは歩く。歩くたび、粉のない床に粉の幻が散る。幻でも役に立つときがある。
 そのとき、上の階のどこかで、旗が鳴った気がした。鳴っていない。鳴らない旗のかわりに、廊下の襟が、誰にも見られない角度で揺れた。襟の揺れは、合図だ。合図の送り手の顔は、やはり見えない。見えないままでいい。見えないあいだに、ここで線を引く。
 端末の四角が、最後の回転を緩めた。緩んだ瞬間、床の配線の上で、ひとつの交点が光る。光は白ではない。名前のない光だ。名付けられる前に、僕はそこにチョークで丸を描いた「つもり」になる。描いたつもりの丸に、逃げ道の窓が開く。開いて、閉じる。閉じた跡は残らない。残らないからこそ、明日に持っていける。
「対話層、維持。試験場、状態を保留。逸脱の監視を継続」
 端末の声が遠のいていく。遠のくあいだだけ、訓練場の光が、すこしだけ人間に優しい温度になった。優しい温度は、長く持たない。持たないのに、安心してしまいそうになる。安心を嫌って、僕は視線を床に落とした。配線の上に、粉はやはりない。ないのに、白いものが見える。脳が勝手に置く幻だ。幻でいい。幻が先にあるほうが、設計は速い。
「戻ろう」
 御影が言った。頷く。ツムギは最後にもう一度だけ、無色の層の縁を撫でた。撫でるという行為が向こうの語彙にないことを、あの声は知らない。知らないあいだに、こちらの指の腹が世界の表層を少しだけ撫でて、指紋を残す。残った指紋は、粉が落ちないかわりに、金具のにおいを少し薄める。
 地上へ戻る階段は、さっきより短く感じた。蛍光灯の帯が二本、三本、四本、と後ろに流れる。数えていない。数えないまま、扉を押す。押す感触は、来たときと同じ重さだ。変わらない重さのほうが、時々安心できる。
 廊下に出ると、夜の音が戻ってきた。芝の散水、雨樋の水、冷蔵庫の唸り。人間のために作られた音。人間のために作られたはずの校舎で、僕らは人間でいられる時間を、もう少しもらった。
 零席の教室に戻る。黒板の字は、そのままだ。「設計を疑う」の横に、余白がある。余白に、僕は新しい見出しを置いた。
 安定の外側で働く
 粉が指に付く。付いた粉は、落ちない。指の腹に白いものがあるかぎり、僕はまだ、ここで書ける。書いて、切って、置き直す。そのたびに、襟のない顔のない何かが窓ガラスの外で立ち止まり、こちらの手元を見ている気がする。見られているあいだに、線を引く。引いた線が、名前を持つ前に、次の窓を描く。
 ツムギは椅子に腰を下ろし、頬に手を当てた。指先は白い。白いことに安心しないように、彼女は小さく笑った。笑いはうまくなかった。うまくない笑いは、正直だ。
「可能性って、ね。粉みたいだね」
「うん」
「落ちるし、散るし、掃かれるけど、またどこかに付いちゃう」
「そういうものに、名前を付けないでおく」
 御影が窓を開けた。夜気が入る。風は冷たいが、人間に優しい。旗は鳴らない。鳴らないほうが、眠れる。
「レン」
「なんだ」
「お前がさっき言ったやつ、好きだ。……お前の安定のために、俺たちの可能性は止まらない」
 言葉を返すのはやめた。代わりに、チョークで四角をひとつ描いた。四角の中に、丸をひとつ。丸の中は、空にする。空のまま、粉を指で弾いた。粉は宙で崩れ、机の上に降り、線の間で落ち着く。落ち着いた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――確かに走っている。そう思えるあいだは、まだ、間に合う。
 遠くで、透明な筒の底が、また一滴だけ逆さに落ちた。音はない。音のない落下の輪が、夜の校舎の柱をゆっくり撫でていく。撫でられた柱は、人間のための重さを思い出す。思い出した重さの上で、僕らは立つ。立って、書く。書いた線は、明日、切られるかもしれない。切られるなら、先に逃げ道を置く。置いた窓は、誰のものでもない。誰のものでもない窓の向こうに、可能性が、静かに息をしている。

第十九話 世界の設計図
 夜の校舎は、薄い紙を重ねたみたいに音が増える。紙と紙のあいだで擦れる、いびつに乾いた気配。散水はもう止まっているのに、水の音だけが壁の内側で続いている。続き方が、少しおかしい。一定の間隔で落ちていたはずの水滴が、途中で無言になる。無言になった隙間を、見えない何かが縫っている。縫い目は、匂いだけを残す。金具のにおいだ。
 黒板の前に立ち、チョークを握る。粉の白が、指の腹に移る。指を擦れば落ちるはずの粉が、今夜は落ちにくい。落ちにくいのは、ここが「世界式」に近づいている証拠だと、最近は思うようになった。人の側から近づいたわけではない。向こうが、こちらの側に顔を出してくる。その顔には襟がなく、いつも揺れている。
「レン」
 窓際の机でツムギが顔を上げる。回路板のプレートは机の上で静かに冷えていて、縁に撒いた見えない粒が、薄い静電気を指に残す。指の白が、強い。
「地下、まだ静か?」
「静かで静かじゃない。表面は眠ってるふり。でも下で、細い線が動いてる。……音はしないのに、においが増える」
「方舟の端末は “保留” って言ってたけど、保留は停止じゃない」
「うん。私たちが考える“止まる”とは別。向こうの“止まる”は“測る”に近い」
 御影ユウトは椅子の背にもたれて、折りたたんだ紙を指先で往復させている。紙は古く、角が柔らかい。柔らかい角は、涙の跡の形に似ることがある。似た形は、読む前から胸の奥を撫でる。
「測られてる間に、こっちで先に設計する」
 黒板に四角を描き、中に丸を置き、丸に細い線を三本だけ伸ばす。線は途中で止める。止めた線の先は、窓の向こうの夜に続いている。続いていると決めて描けば、続く。
「“世界の配線”を読む。読んだうえで、こちら側から拡張層を提案して、のせる」
「拡張層?」
 御影が上体を起こす。ツムギは自分の膝にプレートを移し、指で縁を撫でた。撫でるという言葉は世界式にはない。撫でる動作は名前にならず、名を持たないもののほうが、長持ちする。
「世界式には、徹底した安定化の層がある。僕らが戦ってきた“配線”は、その表面だけだった。あの端末を見て気づいた。表層の下に、意志の入力なんか最初から想定していない ‘台座’ がある。台座に手を入れるのは無理だ。でも、台座の上に『人の意志を入力に持つ拡張層』を置くなら、話は別だ」
「人の意志を入力……」
 御影は、口の中で転がしてみるみたいに繰り返した。転がされた言葉は、粉の匂いを少しだけ吸って、角が丸くなる。
「無茶に聞こえるけど、無茶じゃない」
 黒板の四角の外に、細い枠を新しく描く。四角と四角の間に、薄い隙間ができる。その隙間に、丸から伸ばした線の先端がふっと吸い込まれる。
「世界式の配線は、 ‘均し’ を好む。均しは、変化をだいたい同じにするための網だ。網の目より小さい差は、落ちる。落ちた差は、働く。僕らは差でできてる。差を ‘入力’ として認めるための層――これが拡張層。世界式の ‘上に’ 置く。接続は一部の領域から試す。接続点は “人が触れても壊れない” 細い場所。たとえば、学園中に張り巡らされた魔術装置の、同期制御の縁」
「縁は、私の無色が触れる場所」
 ツムギの声は低く、はっきりしていた。彼女の掌の上で、プレートの窪みが淡く微光を返す。光は白くはない。名前のついていない色。名の前の温度。
「私の層が ‘界面’ になる。世界と人の間。受けすぎたら壊れるし、薄すぎたら意味がない。 ‘縁’ に撒いた粒の配置を変える。粒と粒の間を ‘揺らす’ のをやめて、 ‘開く’。開いた穴に、御影の ‘分岐’ を落とす。落とすっていうより、置く」
「置く」
 御影は笑って、指の節を鳴らした。音は小さい。小さい音が、机の角の粉を舞い上げる。舞った粉の粒がひとつ、彼の爪の根元に入り込む。痛くはないのに、強い。
「支援の役目は ‘場を保つ’ に戻る。攻める支援は美しいけど、今は ‘保つ’。 ‘確率分岐’ を ‘伸び縮みする柱’ に置き換える。柱は揺れていい。ただし折れない。折れない角度を、今日のうちに覚える」
 黒板の脇の空気が、薄く動いた。扉が無音で開き、光の切れ端が床を走る。氷のにおいはないのに、冬の準備みたいな冷たさが入ってきた。セラが立っていた。制服の襟はきっちりして、目のふちが少し白い。彼女は何も言わず、黒板の図を見てから、ツムギの手元に目を落とした。
「界面?」
「うん。私が ‘床’ をやってたけど、今度は ‘戸口’ をやる」
「戸口」
 セラはその言葉を選んで、頬をほんの少しだけ緩めた。緩む角度が正確で、気持ちがよかった。正確さが痛みを減らすことがある。痛みが減ると、よく見える。
「氷の ‘相’ を薄くして、戸口の『敷居』にする。踏むと冷たい。でも、凍らない。凍らない冷たさ。世界式は ‘凍る’ と ‘融ける’ しか名前を持ってない。 ‘冷たいのに凍らない’ には名前がない。名前がない状態は、読みにくい」
「参加するの?」
 御影が問うと、セラは短く頷いた。頷きの角度は浅い。浅さは、逃げ道に向いている。逃げ道のある戦い方は、丁寧だ。
「守りに来た。学園が、 ‘歪んだ試験場’ になったら、ここが ‘先に切られる’」
「神垣が、裏から ‘委譲’ を進めてる。方舟は ‘保留’ のまま深度を上げられる。……来るなら早い」
「来る」
 セラは、レンではなくツムギと御影を見た。見られた二人はそれぞれ頷き、立ち上がる。黒板の粉の匂いは強く、廊下の金具のにおいが重なる。匂いが重なると、音が消える。消えた音の後ろで、階段の影が動く。影の中に揺れる襟。顔はない。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に名前を置く。置いた名前は、すぐに消す。
     ◇
 訓練場。光は白くない。白に似ているのに違う。違うのに近い。近いものを遠ざけるために、足をひとつ手前に置く。足裏の樹脂が薄く鳴る。鳴った音は壁に吸われ、床に返り、また消える。返るたびに、配線の上で見えない火花が跳ねる。火花の匂いはしない。金具のにおいだけが残る。
 床と壁の境界が曖昧になり、訓練場は静かに “歪んだ試験場” に変わる。中央の空気が薄く膨らみ、透明な筒がいくつも垂れ下がる。液は逆さに落ち続け、落ちる音はやはりない。落ちるたび、胸の管のどこかが指でつままれたみたいに痛む。痛みの形は、慣れない。
 端末が姿を見せる。四角と丸と線。僕の黒板の手癖に似ている。似ているのに、違う。違うのに、似せてくる。似せてくること自体が、脅しだ。
「対話層、継続。安定域の更新。逸脱の監視、稼働」
 無機でも人工でもない声。耳の奥の薄い皮膚が撫でられる。撫でられた場所があとから熱くなる。熱は痛みにも快感にもならない。名前にならない。名の前で止まっている。
「開始、五分」
 御影が言った。 ‘場所を保つ’ 声。場は声で保たれるときがある。言葉には粉が必要だが、ここには粉がない。ない代わりに、ツムギの無色の層が “界面” として薄く立ち上がる。無色には縁がある。縁に散らした粒が、今日はいつもと違う位置に置かれている。置いて、止める。止め方が、いつもより遅い。遅いせいで、足裏が “戸口” に触れたときにだけ、ほんの少しだけ ‘冷たいのに凍らない’ 感触が残る。感触が名前にならない。名前にならないから、向こうは読めない。
「分岐、柱にする」
 御影の指先で、支援線が重なる。重なるけれど、揃えない。揃えないけれど、崩れない。崩れない理由は、彼の肩の筋肉が “折れない角度” を覚え始めているからだ。覚える筋肉は疲れにくい。疲れにくい筋肉は、怖い。
 セラの氷が、敷居に変わる。相転移の段差をさらに薄く伸ばし、滑るのに落ちない線を置く。置かれた線に、端末の丸がかすかに触れて、すぐ離れる。離れるという動きに “ためらい” の言い方はない。ないまま、こちらは ‘戸口’ を硬くしない。硬くしないのに、折れない。
 端末の四角が回る。学園の魔術装置の同期制御に触れ、規約の端を読む。読むたび、空気が浅く薄くなる。薄い空気のなかで、声が届きにくくなる。届かない声は、長持ちする。
「レン!」
 遠くで呼ぶ声。シュバっと空気が切れる音。観覧席側の通路を駆けてきたのは、新城カイだった。制服の襟はきっちりしているのに、目が荒い。荒れた目は、よく見える。よく見える代わりに、遅れる。遅れの上で、彼は立ち止まった。訓練場の見えない ‘戸口’ に靴が触れ、冷たいのに凍らない感触に目を細める。
「……これは」
「 ‘界面’。人が触れるための ‘戸口’」
 セラが代わりに答えた。声は乾いている。乾いた声は、粉がなくても届くことがある。カイは短く息を吐き、剣を抜かないまま握り直した。握り直した手の甲に、昔の癖が出る。癖が出ると、構えが良くなる。良くなった構えに、世界式は湧かない。湧かないときは、自分で湧かすしかない。
 端末が回転を速め、訓練場の区切りをさらに曲げた。曲げられた区切りが、観覧席に近い通路を分断する。そこに逃げ道があった生徒たちが、立ち尽くす。立ち尽くす肩に、金具のにおいが降る。においは重い。重いものは、よく刺さる。
「ここで守る」
 僕は言った。黒板の代わりに胸の内側に図を描き、線を伸ばす場所を、指の腹で探る。世界式の配線は、目で見るものではない。鼻でもない。指の腹の温度で読む。温度の差が、わずかに残るところ。そこには “網の目” が粗くなっている “縁” がある。縁は人に向いている。人の向きに、僕らは層を置ける。
「カイ。 ‘正しさ、選べ’」
 彼は目だけでこちらを見た。顔は動かない。顔の動かない人の目は、よく動く。動く目は、よく見える。見えたものの半分は、捨てるしかない。
「お前の正しさでも、こっちの正しさでも、どっちでもいい。選んで、ここを守るほうに置け」
「……お前の言い方は、いつも嫌いだ」
「言い方しか、持ってないから」
 カイは笑った。うまくない笑いだった。うまくない笑いは、正直だ。正直さは、長く残る。残った正直さを、彼は剣の握りに流し込んだ。剣は抜かない。抜かないで、敷居を踏む。
「一時共闘だ。借りは返さない」
「いらない」
 言いながら、僕はツムギに合図を送る。彼女は頷き、無色の層の ‘縁’ を厚く薄くの順で撫で分けた。撫で分けると、 ‘戸口’ の敷居に見えない溝が一本できる。溝は、名札を剥がすためのものだ。世界式が “区切り” を深くするほど、こちらの ‘溝’ は ‘区切り’ に見えなくなる。 ‘見えない区切り’ は、読めない。
「御影、 ‘柱’ を二本。一本は ‘伸び’ に寄せ、もう一本は ‘縮み’ に寄せる。伸びで ‘受け’ 、縮みで ‘返す’」
「了解。伸び柱、冷たく。縮み柱、痺れる感じ」
「痺れ、嫌い」
 ツムギがつぶやく。嫌い、という名付けは時々設計を助ける。嫌いと書いて ‘使わない’ と読めばいい。御影は痺れの味を ‘記憶’ に置き換え、柱の “戻り” をやわらげる。やわらかい戻りは折れない。折れない動きに、カイの踏み込みが合う。彼は剣を抜かず、 ‘敷居’ の上で足を滑らせ、前衛の間合いを ‘ずらす’。ずれた間合いに、セラの ‘すべらない冷たさ’ が線を引く。線の上で、端末の ‘四角’ が半拍遅れる。遅れは不具合ではない。 ‘測り直し’ だ。測り直すたびに、空気は薄くなる。薄くなるたびに、人の声が ‘重くなる’。重い声は落ちない。
「学園長、どこ」
 御影が言う。遠くの観覧席、封鎖された通路の向こう、扉の影。襟が揺れる。顔はやはり見えない。揺れる襟の色は、見慣れた灰。神垣は出てこない。出てこないのに、権限の残り香だけが場に溶けている。溶けた権限は、世界式の ‘言い分’ に押し流される。
 端末が “規約” を読み替え、試験場の深度を一段上げようとする。上げられる前に、こちらの ‘拡張層’ を “のせる”。のせ方は乱暴ではない。優しい暴力だ。ツムギの無色が ‘界面’ になり、御影の ‘柱’ が ‘場’ を保ち、セラの ‘敷居’ が ‘境目’ を作る。僕は、 ‘拡張層’ の ‘言葉’ を ‘図’ に置き換え、図の ‘余白’ を広げる。余白に ‘入力’ が落ちる。落ちた ‘意志’ は、名前になる前に ‘反応’ する。 ‘反応’ は世界式にとって ‘誤差’ だ。誤差は ‘切り捨て’ られない幅で揺れ続ける。
 実感は遅れて来る。訓練場の ‘区切り’ が完全に曲がり切る前に、観覧席の生徒たちが ‘後退’ できた。退くときの足音は軽くない。軽くないのに、倒れない。倒れないのは、 ‘場’ が ‘保たれて’ いるからだ。御影の ‘柱’ は揺れ、伸び縮みし、 ‘折れない角度’ を守り続ける。汗が彼の頬を伝い、粉のない指が白くなる。白は幻だ。幻でも役に立つ。
 端末の声が近づく。
「拡張層。非公式。評価不能。試験場の深度、固定不能。保留を継続」
「保留のまま ‘戻る’ を選べ」
 僕は言う。命令ではない。 ‘話し方’ の形を借りた ‘拒否’ だ。拒否は設計に向いている。拒否を設計に入れると、 ‘余白’ が増える。余白が増えると、 ‘介入’ は ‘手前’ で渋滞する。渋滞は ‘安全’ ではないが、時間を買える。時間だけが、 ‘人の味方’ をする。
 床に、薄い ‘紙’ が一枚滑り込んだように感じた。たぶん ‘気のせい’ だ。 ‘気のせい’ は保つ。保った ‘気のせい’ に、僕は図を一枚重ねる。 ‘世界の設計図’。そう呼ぶと大げさだが、実際に描いたのは、 ‘四角’ と ‘丸’ と ‘線’ と ‘余白’ でできた ‘地図’ だ。 ‘地図’ の ‘余白’ に、人の名前は書けない。書いた瞬間、 ‘地図’ は ‘地面’ に食べられる。
「ツムギ」
「うん」
「 ‘界面’ を ‘戸口’ から ‘縁側’ に広げる。踏まなくても ‘感じる’ 土手。感じたら ‘選べる’」
「感じる、は、好き」
 彼女は笑った。上手な笑いではなかった。上手な笑いは痛い。下手な笑いは、呼吸を戻す。戻った ‘呼吸’ に名前を付けない。付けないまま、 ‘縁側’ の端に ‘粒’ を置く。置いた ‘粒’ は触らないと動かない。触ったら、すぐ動く。動いた ‘粒’ の ‘跡’ は残らない。残らない ‘跡’ は、誰にも読めない。
「セラ、 ‘敷居’ の ‘冷たさ’ を、もう少し ‘低い’ 側へ。 ‘凍らない冷たさ’ を ‘長く’」
「やる」
 彼女の指が空を掬い、 ‘冷たい’ のに ‘凍らない’ 風が足首にまとわりつく。まとわりついた ‘冷たさ’ は、 ‘動き’ を ‘遅くしない’。遅くしないのに、 ‘正確にする’。正確さは、 ‘折れない’ ための道具に変わる。刃には使わない。
「カイ、 ‘踏み替え’。 ‘間合い’ の ‘名前’ を捨てて」
「間合いの名前を捨てる……それは ‘勇者候補’ の授業でいちばん怒られるやつだ」
「怒られる ‘前提’ を、ここでは ‘褒める’ に置き換える」
 彼は頷き、踵をわずかにずらす。ずらした踵の下で、 ‘縁側’ の ‘粒’ が位置を変える。変わった ‘粒’ のせいで、 ‘間合い’ の ‘境界線’ が ‘揺れる’。揺れたところに、 ‘正しさ’ が ‘入ってこられない’。 ‘正しさ’ に ‘床’ を与えない。 ‘正しさ’ は ‘床’ がないと ‘立てない’。
 端末の四角が回転を弱め、丸が収縮し、線が ‘とぐろ’ を巻く。巻いた ‘線’ の ‘端’ が、 ‘縁側’ に触れて ‘ためらう’。 ‘ためらい’ は向こうの語彙にはない。 ‘ためらい’ を ‘ため’ と ‘留まり’ に分解しても、どちらも ‘測定’ にならない。ならないものの上で、学園の ‘区切り’ は “戻り方” を思い出す。戻るときの ‘音’ は小さく、 ‘匂い’ は薄い。
 観覧席の生徒たちが ‘教員’ に連れられて退避していく。雑然とした足音が ‘場’ に “生の重さ” を置いていく。重さは ‘設計’ の外側で効く。外側で効くものに、世界式は弱い。弱いから、 ‘保留’ を選ぶ。
「対話層、維持。試験場、保留。安定域の更新、延期」
 端末の声が遠のく。遠のくあいだだけ、透明な筒の底が静かになり、落ちるはずのものが落ちない。落ちない間に、僕らは ‘図’ の ‘余白’ をもう一段広げる。広げながら、 ‘名前’ を減らす。 ‘名前’ は ‘裁き’ を呼ぶ。 ‘裁き’ は ‘設計’ の敵ではないが、 ‘余白’ の敵だ。
 御影が肩で息をしている。汗は落ちない。落ちない汗は、 ‘匂い’ にならない。ならない代わりに、指先の温度が少し戻る。戻った温度で、 ‘柱’ は ‘揺れ’ を止めて、 ‘細い直立’ に戻る。戻った ‘柱’ の足元に、ツムギの ‘縁側’ が ‘畳’ のように柔らかく敷き直される。敷き直される ‘柔らかさ’ は、 ‘世界式’ に ‘名前’ を与えない。
 セラは視線だけで ‘敷居’ を消し、 ‘冷たさ’ を ‘空気’ に戻した。戻した ‘空気’ に、観覧席から降りてきた ‘教師’ たちの安堵が混ざる。安堵は ‘音’ にならない。 ‘肩’ の緩みで伝わる。伝わると、旗は鳴らないまま、金具のにおいが薄くなる。薄くなった匂いは、眠りを呼ぶ。
「やったのか、今のは」
 カイが言う。言葉は短く、低い。低い言葉は、遠くへ行かない。行かない代わりに、 ‘足元’ に残る。
「 ‘守った’。 ‘勝った’ とは呼ばない。端末は ‘保留’ しただけだ。保留は ‘先送り’ じゃない。 ‘監視’ を続けながら、 ‘次の測り方’ を ‘探す’」
「つまり、また来る」
「来る。 ‘来ない’ を信用しない」
「お前の言い方は、また嫌いだ」
「お前の ‘嫌い’ は ‘役に立つ’」
 カイは笑って、肩の力を抜いた。 ‘肩’ は ‘設計’ にない。 ‘肩’ の抜き方は ‘人だけ’ のものだ。 ‘人’ の動きを ‘上にのせた層’ が受け取り、 ‘場’ は ‘保たれて’ いく。
 セラは扉の影を見た。そこに神垣の襟はもうない。代わりに、 ‘紙’ が一枚、風にまかれて転がっている。拾えばたぶん ‘規約’ だ。 ‘規約’ は ‘読み物’ だが、 ‘書いた手’ の色がうすく残る。うすい色は落ちない。落ちないから、次の ‘歪み’ はこの色から始まる。
「戻ろう」
 御影が言い、僕らは頷く。 ‘場’ をたたんで、 ‘層’ を下げる。 ‘界面’ を ‘戸口’ から ‘床’ に戻し、 ‘柱’ を ‘影’ に置き、 ‘敷居’ を ‘冷たさ’ のまま空気に溶かす。溶ける ‘冷たさ’ は ‘気持ちの良さ’ に変わる。 ‘気持ちの良さ’ に名前は要らない。名前を付けると、 ‘測られる’。
     ◇
 教室に戻ると、黒板の図はそのままだった。四角と丸と線と余白。粉の白は強く、床にも少し積もっている。粉は誰のものでもない。指でなぞると、指が白くなる。白は落ちるが、全部は落ちない。落ちないぶんだけ、 ‘名前の残り香’ が指に移る。
「 ‘世界の設計図’ を書く」
 黒板の左上にそう書いて、僕は手を止めた。 ‘設計図’ と名乗ると、自分に嘘が混ざる。僕の書くこれは、 ‘地図’ に近い。 ‘地面’ ではなく ‘地図’。 ‘地面’ を動かす力はない。 ‘地図’ を ‘増やす’ ことだけができる。 ‘地図’ が増えると、 ‘余白’ が増える。 ‘余白’ は ‘逃げ道’ だ。 ‘逃げ道’ は、 ‘先に置く’。
「 ‘拡張層’ は ‘界面’ と ‘柱’ と ‘敷居’ の ‘三段’。 ‘界面’ はツムギ。 ‘柱’ は御影。 ‘敷居’ はセラ。 ‘間合い’ の ‘名前’ を捨てるのはカイ。僕は ‘余白’ を引き伸ばす」
「 ‘名前’ を減らして、 ‘働き’ を残す」
 ツムギが言い、御影が短く頷く。セラは黒板の ‘余白’ を見て、目を細めた。目が ‘余白’ を読んでいる。読むという行為は、向こうにはない。 ‘読む’ があるのは ‘人’ の側だけだ。 ‘読む’ を ‘のせる’。 ‘のせて’、 ‘落ちない’ ように ‘柱’ を足す。 ‘柱’ は、折れない。
 扉が開いた。今度は、襟だけの影ではない。カイが立っていた。肩に ‘班長’ の腕章はない。制服は乱れていない。乱れていないのに、 ‘揺れて’ 見えるのは、彼が ‘選んだ’ からだ。
「図は嫌いだ」
 彼は言った。言ってから、黒板に近づいて、四角の脇に短い線を一本だけ引いた。引き方が下手だ。下手な線は、すぐ消える。消えるけれど、いちど見た者の指に ‘残る’。
「でも、 ‘この線’ は、 ‘俺の’」
「 ‘正しさ、選べ’ は ‘命令’ に聞こえた」
「 ‘命令’ に聞こえる ‘話し方’ しかできなくて、ごめん」
「 ‘命令’ に聞こえたけど、 ‘選べた’」
 彼は笑い、黒板から離れた。離れた ‘距離’ は正しい。 ‘距離’ の正しさは、 ‘感覚’ のほうに置かれる。置かれた ‘距離’ の上で、僕らは ‘図’ を ‘地図’ にしていく。
「もう一度 ‘来る’ なら、 ‘地図’ を ‘増やす’。 ‘界面’ を、 ‘学園’ の ‘目立たない’ 場所に ‘仮置き’ する。 ‘柱’ は ‘授業’ の ‘段取り’ に ‘紛れさせる’。 ‘敷居’ は ‘通学路’ の ‘影’ に ‘立てる’。 ‘間合い’ は ‘校内放送’ の ‘間’ に ‘落とす’」
「 ‘世界’ の ‘配線’ に ‘触れる’ のは ‘危ない’」
 ツムギが言う。危ない、という名付けが、 ‘やめる’ ではなく ‘やり方を変える’ につながるように、と祈る。祈りという語は、向こうにはない。 ‘祈り’ は ‘設計’ にならない。 ‘祈り’ は ‘体温’ だ。 ‘体温’ は ‘界面’ に ‘のる’。 ‘のった’ ものは ‘働く’。
「 ‘危ない’ を ‘数える’。 ‘数えた’ うえで、 ‘足りない’ ものを ‘置く’。 ‘足りない’ ものは ‘名前のない’ ものにする」
「 ‘名前のない’ ものは ‘読めない’。 ‘読めない’ ものは ‘食べられない’」
 御影が笑い、紙片を二つ折りから三つ折りに変えた。折り目は綺麗だ。綺麗な折り目は、ほどくときに ‘痛くない’。 ‘痛くない’ は、 ‘長期戦’ に向く。 ‘長期戦’ は ‘世界式’ の得意な場だ。得意な場に ‘人の層’ を ‘のせる’。
 窓の外で、旗は鳴らない。鳴らないのに、風が少しだけ通った。風の ‘冷たさ’ は ‘凍らない’。 ‘凍らない冷たさ’ は、 ‘敷居’ の名残だ。セラが目を閉じ、指の腹でその ‘冷たさ’ を確かめる。指は白くない。粉がないからだ。粉のない指が ‘世界’ に触れて、 ‘汚れ’ ないまま ‘跡’ を残す。 ‘跡’ は ‘名前の前’ にある。 ‘名前’ にしない。 ‘跡’ のままで ‘働かせる’。
「レン」
 ツムギが呼ぶ。彼女の目のふちに、白い部分が少し増えた。疲れだ。疲れは ‘眠り’ を呼ぶ。 ‘眠り’ に ‘名前’ は要らない。 ‘眠り’ は ‘保つ’。 ‘保たれた’ 体でないと、 ‘界面’ は ‘立たない’。
「今日は、ここまで」
 チョークを黒板の端に置く。置いた音は小さい。小さい音が ‘終わり’ の合図になる。 ‘終わり’ は ‘終わり’ ではない。 ‘保留’ だ。 ‘保留’ は ‘次’ の ‘測り方’ を ‘選ぶ’ ための ‘余白’。
 灯りをひとつ落とした。白い字のいくつかだけが浮き上がる。 ‘世界の設計図’。 ‘拡張層’。 ‘界面’。 ‘柱’。 ‘敷居’。 ‘余白’。 ‘逃げ道は先に置く’。浮いた文字のあいだに、黒が広がる。黒は怖いが、やさしい。やさしい黒の上で、人の ‘可能性’ は ‘止まらない’。止まらないように、 ‘設計’ する。 ‘設計’ を ‘疑い’ ながら。
 窓ガラスに、襟だけが揺れる影が映った。顔はない。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に、名前を置く。置いた名前は、すぐに消す。消した ‘跡’ だけを、世界式は拾いに来る。拾いに来た ‘指’ に、粉が付く。粉は落ちない。落ちない粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――確かに走っている。そう思えるあいだは、まだ、間に合う。
     ◇
 夜更け、僕はひとりで黒板の前に戻った。誰もいない。粉の匂いは弱く、金具のにおいがまだ少し強い。強いにおいは、 ‘方舟’ の ‘底’ から上がってくる。上がってくるものは、いつか必ず ‘落ちる’。 ‘落ちる’ 前に、 ‘置く’。
 黒板の隅に、小さく描く。
 人の意志入力層 界面=無色の縁側 柱=伸縮支援 敷居=凍らない冷たさ 間合い=無名化
 そして、その下にさらに小さく書く。
 正しさ、選べ
 書いたところで、指を止める。指に粉は残らない。残らないのに、白い気持ちが残る。白い気持ちは、 ‘眠り’ を呼ぶ。 ‘眠り’ のあいだに、世界式は ‘測り方’ を探す。 ‘測り方’ に ‘名前’ を付けられる前に、僕は ‘図’ を増やす。 ‘図’ が増えるほど、 ‘余白’ は広がる。広がった ‘余白’ に、 ‘人’ は ‘立てる’。 ‘立つ’ という語は、世界式にはない。 ‘立つ’ の ‘代わり’ に、向こうは ‘安定’ と言う。 ‘安定’ のために、 ‘可能性’ を止めない。止まらないように、 ‘界面’ に ‘体温’ を残す。
 黒板の粉が、ひと粒だけ頬に落ちた。落ちた粉の感触は、 ‘冷たいのに凍らない’ に似ていた。似ているだけで、同じではない。違うものが、重なる。重なったところに、 ‘拡張層’ は置ける。置いた ‘層’ は、きっと短い。短くてもいい。短いものが、 ‘次’ を呼ぶ。 ‘次’ の前に、僕は目を閉じる。閉じた瞼の裏で、四角と丸と線と余白が、明日の順番を勝手に決めていく。勝手でいい。 ‘勝手’ は ‘人の領分’ だ。 ‘人の領分’ は、まだ残っている。残っているうちに、守る。守るための図を、今夜のうちに、指先の白で、薄く、置いておく。


第二十話 大停電の夜
 午後と夜の境目を、校舎が見落とした。窓の外で鳥の影が短く走り、廊下の端に濃い灰色が落ちて、それからすべての灯りが同時に消えた。消える音はない。音の代わりに、金具のにおいだけが急に強くなる。蛍光灯の白い残光が細く滲み、粉の浮いた黒板だけがしばらく薄く光って、それもすぐ沈んだ。
 方舟が反撃した。地下の透明な筒の底で、逆さに落ちるものが速くなり、見えない格子が校内の配線に噛みついた。噛みつく音はしない。代わりに、空気の角がひとつだけ増える。角が増えると、人はまっすぐ歩けなくなる。
「非常灯も死んでる」
 御影ユウトが窓を開けた。外の空はまだ青さを残しているはずなのに、校庭の土が思ったより黒い。闇ではなく、濃い影が積み上がったような黒さ。影の山は静かで、人の声だけが遠くで薄く揺れている。揺れ方に規則がない。規則がないと、怖さが増える。
「街も落ちてる」
 ツムギが言った。遠くのビルの線が、一本ずつ消えている。消えても火は上がらない。揺れる炎がない夜は静かすぎて、逆に聴こえるものが増える。車のクラクションは一度だけ、すぐ止んだ。止んだところに、泣き声が置かれる。置かれた泣き声の主は見えない。見えないから、足が勝手に動く。
「向かう」
 僕は黒板のチョークを掴み、机の上に短い図を走らせた。四角、丸、線、余白。設計の骨を、持ち運べる重さにまで細くする。持ち運ぶのは、勝つためではない。生き延びさせるためだ。今夜は戦場より街のほうが先だ。
 階段は暗いが、人の手で磨かれた手すりは温かい。温かいものに触れると、息の形が整う。整ったところで、廊下の先にいる誰かが襟だけを揺らし、扉の影に消えた。顔は見えない。顔のないものは、名前を好む。名前を置きたい衝動を飲み込み、扉を押す。金具のにおいが強くなり、夜が校舎に入ってくる。
 校門を出ると、坂道の先に広い道路が横たわっていた。車は止まり、信号は黒く、店の看板の電飾は沈黙している。夜に目が慣れる前に、世界の輪郭をまとめて忘れる。この忘れ方は、悪くない。余白が増えるぶん、動ける。
「零席、分散」
 御影が短く言い、僕らは頷いた。御影は交差点へ。ツムギは公園側。僕は商店街のほうへ。セラは水路沿いに走り、カイは踏切へ向かう。各々の役目は決めない。役目の名前を減らすほど、働きの幅が増える。
     ◇
 商店街のシャッターは半分降りたまま固まり、ガラス戸の向こうで懐中電灯の光が何本か泳いでいる。誰かが「冷凍庫、もう持たない」と叫び、誰かが「エレベーターに人が」と返す。人の声はよく分岐し、すぐ渋滞する。渋滞の出口は狭い。狭いままでも、流せる。
「騒がないで。順番を作る」
 僕は声を落として言い、近くの八百屋の木箱を引き寄せた。箱を三つ並べ、それぞれに紙を貼る。水、薬、電池。何もないが、名前は働く。名前を見た人の動きがすぐに分岐し、手が勝手に並ぶ。並んだ列は、遅くても折れない。折れない列の横を、泣き声が通り過ぎる。泣き声の跡に、粉のない白い道が見える。ここに、誰かが立てる。
「エレベーターは」
 僕は店主の肩に触れた。肩は硬く、汗のにおいが少し鉄に似ている。
「停電用の解錠があるはず。一階の機械室。鍵の位置を教えて」
「分からない。大家も連絡がつかない」
「なら、鍵を設計する」
 嘘ではない。鍵を破るのではなく、動きを組み替える。非常用の蓋のボルトの径、軸の深さ、パネルの裏に走る薄い配線。昼間に一度見た配線図が、頭の内側で正しく縮んで広がる。僕はボルトの頭に合う硬貨を選び、布でくるんで押し込み、袋ナットのほうを先に回す。回す方向は逆だ。逆に回るものは、よく外れる。外れた蓋の向こうで、赤いレバーが眠っている。
「非常解錠。レバーは少しだけ。大きく下げると落ちる」
 僕は商店街の人たちに手を上げて合図を出した。合図は粉ではないが、粉のように舞う。舞った合図の一部が、誰かの目に入り、動きが止まる。止まった動きを、隣の人が押す。押す力は重くない。ただ、背中に触れる手の熱が、順番を思い出させる。
 そのとき、公園のほうから、か細い笑い声がひとつ、闇を縫って届いた。笑いは泣き声と違ってすぐに消える。消える前に、意味が残る。意味が残る笑いは、強い。
「ツムギだ」
 僕は声を出さずに呟いた。呟きは自分の耳にしか届かないが、届けば十分だ。商店街の仕事を手渡し、交差点へ視線を送る。御影の姿が見える。人の流れが四方向から押し合い、何も動かない。動かないのに、彼の指だけが少し動いている。動いた指の先で、見えない線が絡み、解け、また絡む。分岐の枝が、柱に変わっていく。
「止まって。横断歩道の白を一枚おきに使う。白の上は歩く、黒の上は止まる。右から来る人は右手を上げる。左からは左手」
 御影の声は低く、重く、遠くへ行かない。行かない声は、地面に沈む。沈む声の上で、人の足が揃う。揃う足が、揃いすぎる前に、彼はわざと手を下ろす。わずかな不揃いが、列の折れを防ぐ。折れない列が、橋になる。橋の上を、ベビーカーが二つ渡った。
「助けて、です」
 背の低い男の子が、僕の制服の裾を掴んだ。指は冷たく、爪に白い粉が付いている。粉はここにはないはずなのに、ある。彼は泣いていないが、目が赤い。赤い目で、坂の下を指す。
「妹が、暗いの怖いって。家にろうそくがなくて」
「連れてって」
 僕は頷き、木箱の裏に置いた自分の鞄から、薄いプレートを一枚取り出した。ツムギの予備の無色の板。小さく、軽く、回路は簡略化されている。光源にはならない。ただの界面だ。界面は、触れたものを傷つけず、触れたほうに合わせて形を変える。
「これ、持って」
 男の子は不審そうに見たが、やがて両手で受け取った。プレートは手の中で暖かくならない。ならないので、人は最初に不安を覚える。だが次に、わずかな光を思い出す。光ではない。縁だけに薄く白が宿る。無色の灯りは、ものの輪郭を少しだけくっきりさせる。輪郭が戻ると、人は立てる。
「妹はどこ」
「公園、ツムギさんのとこ。あの人、笑ってくれた」
 笑いの記憶が言葉になった。言葉になった記憶は強い。強い記憶は、夜の角を少しだけ削る。
     ◇
 公園の砂場に、人が集まっていた。街灯は死に、ブランコの鎖は動かず、滑り台の天板は冷たい。冷たい金属の上に、子どもが三人、膝を抱えて座っている。その前にツムギがいて、掌の上で薄い板を撫でていた。撫でる手の動きは遅く、丁寧で、何度も戻る。戻る手に、子どもの目がついていく。行ったり来たりする手の軌跡が、宙に見えない線を残し、線の上に白が落ちる。
 灯りがともった。灯りと呼ぶには弱すぎる。白くも黄色くもない。色の名前が付かないまま、砂場の縁、ベンチの端、足もとの草の穂先に、小さな輪郭だけが帰ってきた。輪郭は影を作らない。影は闇の属物だ。輪郭だけの灯りは、闇と喧嘩しない。
「大丈夫。ここにいるよ」
 ツムギは子どもたちに微笑み、板をもう一枚取り出した。もう一枚には、縁に小さな粒がいくつか埋め込んである。粒は光らない。触れると、位置を少しだけ変える。変えるたび、灯りの輪郭が揺れる。揺れるけれど、消えない。消えないから、安心できる。
 泣いていた女の子が、鼻をすする音をやめた。ツムギはその子の手に板を渡し、指を重ねて持ち方を教える。手が触れたところだけ、灯りは少し濃くなる。濃くなるのに、眩しくない。眩しくない光は、眠りを呼ぶ。眠りに落ちる前のまぶたの重さを、子どもたちの肩が思い出す。
「水、止まった」
 公園の蛇口をひねっていた老女が言った。水は出ない。出ない蛇口の金具が冷たく、指に金の匂いが移る。移った匂いは、帰り道を忘れない。
「配水のルート、家屋側を一度『締めて』から開け直す。セラ」
 僕が呼ぶと、彼女は植え込みの影から出てきた。制服の襟は整っていて、目は静かだ。静かな目は、冷たい。冷たいのに、人の肌を切らない冷たさ。
「主幹のバルブ、凍らせずに冷やす。相転移の段差は薄く。敷居だけ立てて、戸を閉めない」
 セラは蛇口の根元に触れた。空気が薄く冷える。冷たいのに凍らない。さっき子どもたちの足首を撫でていたのと同じ冷たさ。冷たさは金具に吸い取られ、金具の向こうの管を通って水路に届く。届いた冷たさが、流れを思い出させる。思い出した流れは、細い。細くても、十分だ。
 蛇口から音が一度だけ鳴り、小さな水の線が見えた。見えた線は、途切れる前に紙コップへ落ちる。落ちる音は小さく、濡れた紙が柔らかくなる匂いがした。匂いは安心に似て、安心は夜の角を少しだけ削る。
「御影」
「交差点、回った。病院の前に移動。発電機、動かない。動力の規約が書き換えられてる。多分、方舟の『保留』が広域に延びた」
「保留のまま機能を奪う。安定化のふりをした遮断」
「人の動きで補うしかない」
 御影は短く息を吐き、指を開いた。指の間に見えない線が走り、交差点と病院前と公園と商店街がひとつの絵になる。絵の中で、人の動きが柱になり、柱が橋と壁になる。橋の上を救急車が押され、壁の影でお年寄りが座る。座る場所が『指定されていない』のに、座れる。座れるように、支援が場を保つ。支援は技ではなく、社会の形だ。
 僕は初めて、ここでチョークが欲しくなった。粉の白で、この街の図を黒い夜に描き込みたくなる。だが今夜は板と手だけでいい。名前のない灯りと、折れない柱と、凍らない冷たさと、踏み替えた間合いと。勝つための設計ではない。生かす設計だ。
「生かす設計」
 声に出すと、胸の内側に薄い線が一本通った。線は痛くない。痛くないのに、強い。強いが、誰も傷つけない。
「何それ」
 ツムギが笑い、板の縁を撫でる。撫でられた灯りが少しだけ濃くなり、女の子が板に額を寄せる。額に触れた部分だけ、灯りが柔らかく散る。散った灯りに、砂場の砂が白く光る。白く光った砂は暖かくない。暖かくないのに、人は寒さを忘れることができる。
「勝ち方の設計は、誰かを負けにする。負けが出る設計は、長く置けない。今夜必要なのは、負けを産まない図だ」
「図は、嫌いだ」
 背後からカイの声がした。彼は照明の死んだ遊具の影から現れ、剣を持っていなかった。持たないと、彼はよく見える。剣のないカイは、勇者候補の枠から少しだけ外れて、やわらかくなる。やわらかさは、折れない。
「でも、今の図は、嫌じゃない」
 彼はベンチの横で膝をつき、年配の人の靴紐を結び直した。結び方は上手くない。上手くない結び目は、すぐほどける。ほどけるけれど、ほどけたらまた結べる。結べる人がそばにいる限り、靴は歩ける。
「踏切の遮断機、降りたままだった。電源が戻らない。見張りを置いて、人の鎖で渡した。誰も怒鳴らないほうが、早い」
「それが支援だ」
 御影が言う。言いながら、指で人の流れをまた一本ずらす。ずらした先で、病院の前の坂に担架が出てくる。担ぐ手は多いほどいい。多い手は遅い。遅いのに倒れない。倒れないのが、今夜の勝ちだ。
     ◇
 夜は深くなり、街は音を選ぶようになった。救急車のサイレンは近づいたり遠ざかったりせず、同じ場所で震える。発電機の腹の低い唸りが短く増えるが、すぐ消える。遠くで犬が一度吠え、公園の隅の自販機の前で空き缶が転がる。転がる音は軽く、空き缶は冷たい。
 方舟の声は、来ない。対話層は保留のまま、監視だけが続いている。監視は音を持たないが、匂いを持つ。金具のにおいは薄く、しかし確実に残っている。残ったにおいは、人の手の動きを少しだけ速くする。速すぎない。速すぎる動きは、転ぶ。
 ツムギは砂場の灯りを広げ、公園の端でしゃがむ妊婦の隣に板を置き、手を握った。握る手の熱が板に移り、灯りが少し濃くなる。濃くなるのに、眩しくない。眩しくない灯りの中で、彼女は目を閉じ、肩を落とし、それから深く息を吐いた。吐いた息が白くならない夜で、よかった。
 セラは蛇口から水を紙コップに配り、冷たさを浅く保つ。浅い冷たさは、長く持つ。持つ冷たさは、喧嘩しない。喧嘩しない水は、喉を通りやすい。通った水が腹に落ちる音はしない。音がしないことが、今夜は救いだ。
 御影は交差点と病院前を往復し、支援線を伸び縮みする柱に変え続ける。柱は揺れても折れず、寄りかかる人の重さを覚える。覚えた重さに合わせて、次の柱の角度が決まる。角度の正確さは、長く残る。残った正確さは、次の誰かを支える。
 カイは踏切の見張りを別の有志に渡し、犬の吠えたほうに歩いた。吠え声の主は、迷子になった小さな茶色の犬で、首輪に小さな鈴がついている。鈴は鳴らない。鳴らない鈴は軽く、犬は震えている。カイはしゃがんで手を差し出し、すぐに引っ込めた。自分の手の動きが大きすぎると、犬が後ずさりした。彼は目線を下げ、手を膝の上に置き直し、犬のほうを見ないで、横を向いて、指で地面を軽く叩いた。叩くリズムは一定ではない。一定でないほうが、怖くない。犬は近づき、鼻先で彼の指を押し、鈴が一度だけ鳴った。鳴った音は小さく、良い。
 僕は商店街の一角で、懐中電灯を持つ年配の男性と一緒に、エレベーターの解錠作業を続けた。赤いレバーは重く、途中で止めるのが難しい。止める角度が少しでもずれると、カゴが落ちる。落ちてしまえば、誰にも届かない場所に行く。落ちる前に、柱を足す。御影の支援線の根元を思い描き、腕の角度を固定する。固定した腕がもう震えはじめたときに、内側から「開放、確認」という声がかすかにした。声は女性のもので、息が上がっている。息が上がっているのに、言葉が崩れない。崩れない言葉は、強い。
 扉が開き、若い夫婦が抱き合った。抱き合う音はしない。音がないのに、場が揺れる。揺れは薄く、長い。長い揺れは、支援の柱に吸われ、柱は少しだけ背が伸びる。
 そのとき、空のほうで薄く光が揺れた。方舟ではない。雲の切れ間から、星が三つだけ顔を出し、すぐ隠れる。星の光は夜に負ける。負けるのに、人の目には届く。届いた光の残像が、無色の灯りと混ざり合い、砂場の縁の白がほんのわずか柔らかくなる。
「レン」
 ツムギが呼んだ。僕は走りながら頷き、彼女のそばに膝をついた。彼女の指は白く、板の縁は薄く光り、子どもの目は大きく開いて僕を見た。見られて、僕はやっと気づく。
 設計は勝つためだけではない。勝つ図は、誰かの負けを前提にする。負けを前提にした図は、夜に弱い。夜は敗者を増やす。今夜、僕らが引くべき線は、勝ち負けの間に置く線ではない。立てる場所を増やす線だ。灯りの輪郭を取り戻す線、座れる場所に名前のない印を置く線、水が喉を通る角度を決める線、泣き声が笑いに変わるまでの時間を保つ線。
「生かす設計」
 僕はもう一度、声に出した。ツムギは笑い、御影は短く頷き、セラは目を伏せ、カイは犬を撫でた。撫でられた犬の鈴がもう一度鳴り、砂場の灯りがわずかに揺れた。揺れて、消えない。
     ◇
 深夜。街はようやく、静けさの置き場所を思い出した。救急車は少し遠くで止まり、発電機の唸りは途切れ途切れに戻り、信号はまだ黒い。黒い信号の下を、御影が最後の柱をたたんで歩く。柱は細くなり、影に戻る。戻った影は、朝にまた形になる。
 方舟の声は最後まで来なかった。監視だけが続き、安定域の更新は場当たり的に延期され、保留は保留のまま街の上に薄くかかっている。薄い膜は嫌いだ。嫌いだが、今夜は破らない。破った膜の破片は、子どもの足に刺さる。刺さるものを作る設計は、捨てる。
 僕らは校舎に戻り、黒板の前に立った。粉は机の上に少し積もり、指で触ると安心する。安心は危ない。危ないが、今夜は受け取る。
 黒板に書く。
 生かす設計
 その下に小さく、走り書きする。
 灯りは輪郭 支援は柱 冷たさは敷居 間合いは無名化 道は余白
 そして、もう一行。
 勝ち負けの外側に、立つ場所を増やす
 書き終えると、粉が指に残った。残った粉は落ちない。落ちない粉の粒ひとつひとつに、今夜の街の図が薄く付いている。図は地面ではない。地図だ。地図は、朝に役に立つ。朝が来るまで、粉を指に残しておく。指に残った白で、また描けるように。
 窓の外が、ほんのわずかに薄くなった。薄くなった空の下で、校庭の土がいつもの黒に戻る。黒は怖いが、やさしい。やさしい黒の上で、粉の白はよく見える。よく見える白で、僕はもう一度だけ黒板に書いた。
 生かす設計、着手
 書いた字は曲がった。曲がった字を、腹でならす。ならしても曲がりは消えない。消えないままでいい。消えないものが、人を生かす。生かす設計は、勝たせない。勝たせないのに、負けさせない。負けが増えない夜は、朝に近い。
 教室の扉の向こうで、旗は鳴らなかった。鳴らない旗の代わりに、廊下のどこかで襟が一度だけ揺れた。顔はない。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に、名前を置く。置いた名前は、すぐ消す。消した跡だけを、世界式は拾いに来る。拾いに来た指に、粉が付く。粉は落ちない。落ちない粉が、明日を押す。押された明日は、速い。速さの上で、僕らはまた、立てる場所を増やす。増やすための図を、粉の白で、静かに置いておく。


第二十一話 勇者の定義
 屋上の扉は、夜になると急に重くなる。昼間は生徒たちの出入りに馴染んで軽かった蝶番が、夜の金具のにおいを吸いすぎて、沈んだふりをする。ふりのわりに音は出ない。代わりに、鉄の匂いが喉の奥に薄く張りついた。
 吹きさらしの床は乾いて白く、粉が目に見えない薄さで拡がっている。拡がっているのに指は白くならない。それでも靴の裏に、誰かの歩幅の癖だけが細く残る。手すり越しの街は、まだ半分だけ停電の名残を抱えていて、点滅しない信号の黒が、夜の端に針のように刺さっていた。
 カイはフェンスの前に立っていた。制服の襟は正しく、肩の線は硬い。見る前から、殴り合うことになると分かった。言葉でどうにかできる夜ではない。夜は言い訳を嫌う。言い訳の代わりに、拳が先に置かれる。
「来たな」
 彼は振り返らずに言った。声は低く、地面に吸われる。吸われるほうが、正しい夜だ。
「ここでやる」
「ここで」
 返した瞬間、床の粉の匂いがわずかに濃くなった。誰かが扉の影で襟だけを揺らし、顔を出さずに消えた気配がある。顔のない観客は、名前を好む。先に、名前を置かれる前に動く。
 カイが踏み込む。拳は速くはない。自分で速度を遅らせた拳だ。遅らせることで、戻れる場所を残す。残したまま、頬骨の下に重さが入った。視界の端が少しだけ白くなる。白は粉ではない。光の残りかすだ。残りかすの輪郭が崩れる前に、僕も拳を出す。肋の隙間を狙う。打って、すぐ引く。引いた拳の背で、夜の冷たさが皮膚に貼りつく。
「俺は守りたかった!」
 二撃目の途中で、カイが叫んだ。叫びながら打つ拳は、いつもより痛い。声が殴る側の骨まで震わせるからだ。骨が震えると、拳は当たってから長く残る。
「正しさを!」
 彼の拳が胸骨の上をかすめ、背中で夜風が跳ねた。跳ねた風が鉄の匂いを背中に押し付け、肺の位置を思い出させる。思い出した場所は、痛くない。痛くないのに、冷える。
「わかってる」
 僕は短く答え、拳で応える。頬の側面、肩、肋、みぞおち。大きい筋肉は外し、小さな筋の上だけを叩く。叩いて、残す。残した痛みが、今夜の話になる。話は文字ではなく、打突の角度で語られる。
「俺は守ってた!隊列、士気、役割、勝ち方、全部!」
 カイが突きを誤魔化すように、左で押して右で殴る。殴られながら、彼の言葉が骨に入ってくる。骨に入る言葉は強い。弱さは筋肉に、強さは骨に残る。
「正しさを守ることが、みんなを守ることだと。俺は、それしか教わってこなかった!」
 拳は近い。近い距離の打ち合いは恐怖が少ない。遠い拳ほど怖い。けれど今夜は、近さが怖さを増やす。目の前の人間の体温が、金具の匂いを薄めないで残すからだ。残る匂いの上で、汗の味が遅れてくる。
 殴り合いは単純だ。単純なものは、嘘が入る余地がない。僕らは数合以上、言葉の代わりに殴って、殴られた分だけ考えを交換した。交換した考えは、どちらのものでもなくなって、屋上の粉の中に座り込む。座り込んだものは、夜に食べられにくい。
「レン!」
 カイの拳が頬をはじいた。視界の端で星が跳ね、下の校庭の黒がいちどだけ起伏する。
「お前の正しさは、俺の正しさを殺す! お前の『勝ち方』は、俺たちの『やり方』を捨てさせる!」
「うなずく」
 返事を拳の形にして、彼の肩の前で止めた。止めて、言った。
「ならば、守りたいものを設計に入れろ」
 カイの眉間がわずかに寄る。寄った眉が、彼の正しさの形だ。形は人を助けるが、人を傷つける。どちらにもなる。なる前に選ぶ。
「お前の正しさは、正しく働く場所を欲しがってる。なら、そこごと設計に入れればいい。勝つための図に、守りたいものの場所と重さを足せ」
「それが……できると思うのか」
「できる。 ‘勝ち方’ は ‘図’ のひとつに過ぎない。 ‘生かす設計’ と同じ層に置ける。『守り方』も、『旗の下で立つ人たちの目線』も、組みこめる」
「組みこめる……?」
 彼の拳が止まった。止まった拳は、殴るより怖い。止めたまま、彼は空を見ないで空を探した。探して、戻ってきた目が、僕の鼻のすぐ前で焦点を結んだ。
「俺は、守りたかったんだ」
「知ってる」
「俺が『勇者候補』でいる理由は、勝ちたいからじゃない。負けさせないためだ。誰も」
「知ってる」
「お前の図は、俺の『正しい』を切り落として前に進む。そう見えた」
「見えるようにしていた。速く通すために。でも今は夜だ。夜の図に、昼の裁きは入れない」
 カイの呼気が熱い。熱の片側だけが冷え、汗が額の端でゆっくり進む。汗は金具の匂いを運ぶ。運ばれた匂いが、二人の間の床に薄く降りる。降りた匂いが、境界線になる。境界線の上で、拳が再び動いた。今度は、重さが違う。殴るためではなく、言葉を押し出すための重さだ。
「勇者って、なんだ」
 彼が言った。拳が頬を掠め、対になる拳が僕の手の甲に当たって跳ねた。跳ね返りは弱い。弱いのに、刺さる。
「勇者って、誰のために立つ。誰の定義で呼ばれるべきなんだ」
「ここで決めよう」
 僕は前に出た。拳と拳の間に入って、肩をぶつけ、胸骨で押し、顎の下に自分の額を当てる。骨と骨の会話は、ゆっくりだ。ゆっくりのほうが、残る。
「勇者は、 ‘正しさを選び続ける人’ だ。 ‘選ぶ’ の動詞を外に見せる人だ。見せるから、揺さぶられる。揺さぶられるまま、立つ」
「選ぶだけで、救えるのか」
「 ‘選ぶ’ を設計に入れる。『誰を』『どこに』『どう重く置くか』を、勝ち方の図の上に、同じ大きさで置く」
「数値にしないで、置くのか」
「数値にしないから、残る」
 拳がまた、来た。今度は腹に入った。息が浅くなる。浅くなるのに、夜の匂いは濃くなる。濃い匂いは、落ちない粉のように、周囲に積もる。
「俺の『正しさ』は、隊に生き残りを作るための手段だ。役割の更新の速さ、隊列の間隔、退く合図のタイミング。全部、『正しく』ないと死ぬ」
「なら、それを設計に入れる。お前の ‘合図’ を、僕らの ‘拡張層’ に直接つなぐ。『間合いの名前を捨てる』時でさえ、お前の ‘間’ は消えないで残る」
「そんなことが……」
「できる。街でやった。支援を社会の柱に置き替え、無色の灯りで輪郭を返し、凍らない冷たさで敷居を立てた。あの夜、勇者は ‘名札のある人’ じゃなかった。名札のない働きが、勇者の定義を上書きした」
 言いながら、僕は拳を開いた。開いた掌を、彼の胸の前に見せる。掌は白くないが、粉の感触が指の腹に記憶として残っている。残っているから、図を持ち出せる。
「見せる」
 僕は空中に短く描いた。四角、丸、線、余白。四角は場。丸は人。線は支援。余白は逃げ道。そこにもう一つ、小さな印を打つ。『守りたい』。印に数値はない。印は自重で沈み、図の中心をわずかに歪める。歪んだ中心は、 ‘勝ち方’ の最短距離をかすかに曲げる。その曲がりが、誰かの命になる。
 カイは拳を下ろし、図を見えない目で見た。見えるはずのないものを見ようとする人の顔は、きれいだ。きれいさは、弱い。弱いから、守りたいと思う。守りたくなるものは、設計に入れられる。
「俺は、勇者でありたい」
「うん」
「『勇者候補』じゃなく、『勇者』でありたい。名札のほうじゃない」
「うん」
「俺の勇者は、『正しさを守る』じゃなく、『守りたいを正しさにする』だ」
「それを入れよう」
 彼の拳が、もういちどだけ僕の頬に触れた。触れただけだ。痛みも熱も置かない、ただの ‘触れ’。触れのあとで、彼は笑った。笑い方が下手だ。下手な笑いは、正直だ。
「……力を貸せ」
 その言葉は、拳よりも強く当たった。骨の内側に入って、背中まで届き、床の粉の一部を柔らかくした。柔らかくなった粉の上に、僕は掌を置いた。置いた手の白は薄い。薄い白でも、図は描ける。
「貸す。返さなくていい」
「返す」
「返さなくていい」
「返す」
 短いやり取りのあいだに、屋上の風がひと筋通り過ぎた。旗は鳴らない。鳴らないのに、フェンスの金具がいちどだけ、別の誰かの指で触れられた気配がする。透明な筒の底が遠くで逆さに落ち、見えない格子の一部がこちらの図に興味を示す。興味を、示すだけだ。示して、届かない。届かないあいだに、こちらは先に『定義』を置く。
「勇者の定義」
 僕はゆっくり言った。言葉は粉の匂いを帯びて、夜の上に薄く漂う。
「 ‘守りたいものを設計に入れ、選び続ける人’」
「選び続けるのは、骨が折れる」
「折れない角度を覚えよう。御影が柱でやったみたいに」
「折れなかったら、誰かが折れていることに気付けない」
「折れた音を聴けるように、 ‘縁側’ を広げる。ツムギが灯りでやったみたいに」
「灯りは、夜に小さすぎる」
「小さい灯りだけが、夜と喧嘩しない」
「冷たさは、人を遠ざける」
「凍らない冷たさなら、残れる。セラが敷居でやったように」
「間合いは、戦場で生まれる」
「名前を捨てれば、街でも動く。お前が踏切でやったように」
 言葉を交わすたび、拳の形がほどけていく。ほどけた指先は冷たく、汗の塩でわずかに荒れている。荒れた指を握ると、粉の記憶が移る。移った記憶は、落ちない。
 ふいに、扉の影から足音がした。御影が出てきた。肩で短く息を整え、状況を確認するでもなく、フェンスにもたれてじっと空を見た。彼の視線は何も映していないのに、見ている。そういう見方ができる人は、場を保てる。
「終わった?」
「終わらせた」
 カイが言う。顔は腫れて、口の端が切れている。切れたところに血の味が残り、鉄の匂いが少し強くなる。強くなって、すぐ薄くなる。
「決まったこと」
 御影が短く問う。僕は頷き、黒板のようにゆっくり話す。
「勇者の定義。 ‘守りたいものを設計に入れ、選び続ける人’。これを図にのせる。 ‘勝ち方’ と ‘生かす設計’ と同じ層に」
「柱、二本追加だな」
「一本は ‘退く勇気’。もう一本は ‘譲る順番’」
「譲る順番、嫌い」
 扉の影からツムギが顔を出した。目のふちに白い部分が増えている。増えた白は疲れだが、目は笑っている。笑っているのに、泣きそうでもある。そういう顔は、夜に強い。
「譲る順番、嫌いだけど、いる」
「うん。順番は、柱の一本になる」
「敷居も増やす」
 セラが続いた。風が彼女の髪をわずかに持ち上げ、落とした。落ちるときに音はしない。音のない落下は、夜に似合う。
「『凍らない冷たさ』の横に、『触れられる冷たさ』。寄りかかっても切れない線」
「灯りは」
「『輪郭』だけじゃなく、『影のやわらかさ』も返す。怖いのが丸く見えるように」
 ツムギの言葉は高くない。高くない声が、粉の匂いに混ざって、屋上の床にしみ込む。しみ込んだ声は、朝になっても残る。
 カイは拳を握り、開き、また握った。握った拳は、もう殴る形ではない。握り直した手の甲に、さっきまでの怒りの名残が淡く浮かぶ。怒りは設計の敵ではない。 ‘敵’ は ‘名前のつきすぎ’ だ。名前が増えるほど、裁きが近づき、余白が減る。
「……力を貸せ」
 彼はもう一度、同じ言葉を置いた。置き直したそれは、さっきより深く入る。深いところに水の音がして、それから静かになった。
「貸す。設計に入れる」
 僕は手を差し出した。握手は儀式ではなく、図のひとつだ。握った手の温度が、 ‘拡張層’ に流れる。流れた温度が ‘界面’ に残る。残った温度は、 ‘保留’ を削る。
 遠くの空で、透明な筒の底がいちどだけ揺れた。方舟の端末は、何も言わない。言わないけれど、見ている。襟のない顔のない目が、こちらの図を眺めている。名付けの前の印で、測ろうとしている。測られる前に、こちらはふたつ目の見出しを先に置く。
 黒板がないので、夜の空に向かって、ゆっくり言った。
「勇者の定義、更新」
 粉のない空に、言葉だけが薄く浮かび、すぐ消えた。消えた跡が、指の腹に残る。残った感触で、明日の図の骨を引く。骨は細いが、折れない。折れない角度を、殴り合いで覚えた。覚えた痛みは、設計に入れられる。入れた痛みが、誰かの ‘守りたい’ を正しさに変える。
 扉を閉めると、屋上の静けさが背中から落ちた。落ちた静けさに、金具の匂いが少し混ざる。混ざった匂いは、眠気に似ている。眠気の上で、僕らは階段を降りる。降りる途中、旗は鳴らない。鳴らない旗のかわりに、廊下のどこかで襟が一度だけ揺れた。顔はない。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に、名前を置く。置いた名前は、すぐ消す。消した跡だけを、世界式は拾いに来る。拾いに来た指に粉が付き、粉は落ちない。落ちない粉で、明日に線を引く。線は細く、長い。長い線の上で、勇者の定義は、選び続けられる。

第二十二話 国家代表戦
 競技場の扉は、病院の自動ドアみたいに、近づいてもすぐには開かない。透明な板の向こうで何かが計り、合格の音を鳴らさないまま、無言で左右に割れる。割れた途端、金具のにおいが濃くなる。鉄と油、それから測定の冷たさ。胸の奥の薄い管が、見えない手でつままれたように細くなる。
 観客席はぎっしり埋まり、巨大な円環が人の色で縁どられていた。光の案内板は生きているはずなのに、白が少し黄ばんで見える。アリーナの床は新しく張り替えられ、吸音材の下に薄い網目が透けている。網はどこまでも均一で、綺麗で、退屈だ。退屈さは方舟の好物だ。均しの食卓。
 国家代表戦。選抜の最終日。僕ら零席は、有志の何人かを混ぜ、仮のチームを組んだ。ゼミ論争の後、学園祭、停電の夜、屋上での殴り合いを経て、言葉より先に体で覚えたものだけを持ち込む。持ち込めるものは、粉みたいに軽いくせに、落ちない。
 相手は、規格戦術。見た目は整っていて、間違いがない。最短距離だけを使う足取り。無駄のない刻み。合図の音は聞こえないのに、全員の動きが同じ角度で折り畳まれ、同じ速度で戻る。方舟寄りの隊は、笑わない。笑わない顔は、怖いというより、目に映らない。映らないのに、脅すのが上手い。
 マイクは渡されたが、使わないことにした。代わりに、黒板の粉の感触を指の腹に呼び戻す。粉はない。けれど記憶だけで十分だ。
「設計の民主化を宣言する」
 僕は、観客席に向けて、はっきりと口だけで言った。声量は上げない。上げないほうが、届くことがある。届いたかわりに、客席のどこかで咳払いが散り、その散り方が場の形を見せる。場に散った音が、網目の一部に引っかかり、わずかに揺れる。揺れは方舟の弱点だ。揺れているものは測れない。
「今日は、図を閉じない。勝ち方を、場に開く。合図を握りしめない。手の内を、見せる」
 御影ユウトは短く頷き、支援線を柱に変える仕草だけを僕に見せる。柱は揺れていい。ただし折れない角度を覚える。セラは横顔のまま、敷居の冷たさを薄く敷き、ツムギは界面を戸口から縁側に広げる。どれも観客からは見えない。見えないまま、観客の中の誰かがバッグの肩紐を握り直し、ひざ掛けの端を整え、ペットボトルのキャップを回す。その小さな動作の音が、場を支える材料になる。
「観衆同期を、やる」
 マイクは要らない。客席の上を、人の気配が風みたいに巡る。風は匂いを運ぶ。金具のにおいに紛れて、綿の匂い、ミントの匂い、雨の上着の湿りが混じる。混じり合うものは、名前になりにくい。名前にならないものは、裁きにくい。
 僕らの合図は、今日に限って、見るものに向けて置く。観客の拍手、靴底が床を踏む音、座席の軋み、咳払い、ペンのノック、ため息、笑いの手前で飲み込まれた息の重さ。どれも小さい。小さいが、場の形を決めるには十分だ。場が決まれば、図は早い。
 対戦相手が入場する。規格外のものを嫌う歩み。最初に床が反応し、次に照明が微かに脈を打つ。脈ではない。周期の均し。均された周期は、見ていて美しいが、触れると危ない。触れた指が、切れる。
 スタートの合図は鐘の音ではなく、電光掲示の赤が青に変わる変化だけだった。音がないほうが、方舟に向いている。こちらの合図は、音が一斉に散ることだ。散る音を図に置く。置いた図に、僕らの足が乗る。
 開幕、相手は規定通りの三段構え。前衛の突破、中央の制御、後衛の補助。その補助は、人ではなく装置に近い。支援線が無菌で、触れると指の温度が奪われる。奪われながら、御影は柱を立てる。一本は伸び側、一本は縮み側。柱は観客の足元の軋みと同じ速度で揺れ、揺れに合わせて角度を少しだけ変える。変えるたび、無菌の支援線がわずかにためらう。ためらいの語は、向こうの辞書にはない。
 ツムギの縁側は広く、薄い。踏まずに感じられる土手のように、客席からアリーナへ、見えない板が渡される。渡された先で、セラの敷居が冷たくなる。冷たいのに凍らない。凍らない冷たさの上で、観客の膝が緩む。緩んだ膝の湿った音が、場に沈む。沈んだ音を拾って、僕は図の余白に印を打つ。
「いま」
 御影が呟く。支援の噛み合わせを、わざとずらす。ずれの幅は、観客のペンのノックの間隔に合わせる。バラバラだが、どれも短い。短いばらつきが、相手の均しを鈍らせる。鈍ったところへ、ツムギの界面が柔らかく押し、セラが敷居の角を丸め、カイが前に出る。カイは剣を抜かない。踏み替えだけで、間合いの名前を落とす。名前のない隙間は、測れない。
 相手の規格戦術は、空間の「区切り」に依存している。区切りの深度を上げ、敵味方の役目を固定し、支援の流路を定義し直す。定義は数字で、からだを通らない。観客の席の軋み、靴の爪先を戻す摩擦、紙コップがつぶれる音は、定義に加算されない。なら、こちらが先に計算する。数字にならない材料で。
「拍手を」
 誰かが小さく叩いた。ひとつ、ふたつ、ためらいのある音。ためらいは合図になる。ひとりの音が二人になり、列の端から端へ、遠慮がちに広がる。広がり方は田舎の雨のようで、どこかでたちまち止まり、また別のところから始まる。リズムにはならない。ならないから、読みづらい。読みづらさが、こちらの味方だ。
 観客の音が網目にひっかかるたび、アリーナの床の下で透明な筒の底がわずかに揺れた。揺れが続くと、方舟の器官は必ず別の測り方を探しに来る。測り替えの刹那が、こちらの入り口だ。
「御影、柱を ‘譲る順番’ に」
「了解」
 彼は自分の支援線をいったん薄くし、客席の段差の軋みに主役を譲る。譲られた軋みが柱になり、僕らの足を支える。セラは冷たさの濃度を下げ、凍らない線の上を滑る前衛の足裏を、切らずに返す。ツムギは板の縁を撫で、界面を観客席の手すりにまでひろげる。手すりに置かれた誰かの手の熱が、ひとつ分だけ灯りのように残る。灯りではない。輪郭の回復だ。
 相手の隊長が、わずかに首を傾げた。均しの王国に、雑然とした材料が混ざっていく。均しは雑に弱い。乱れではない。人の生活の細かさ。座面のきしみ、荷物の中の鍵の当たる音、上着のチャックの留め具が指先で触れる感触、スポンジのへたった弾力。世界式は、そういうものを測りづらい。測れない隙間が残る。
「レン」
 カイが呼ぶ。彼は最前線で間合いの名前を落とし続けていた。名前のない距離は怖いが、戦える。彼の額に汗が浮き、頬の傷跡に薄い赤が戻る。戻った色に、客席の誰かが息を飲む音が混じる。飲まれた音は、設計に入れられる。
「勇者の定義、使う」
「使え」
 彼は剣を抜かず、拳を握らず、手を開いて前に出た。手のひらは白くない。指の腹に、粉の記憶だけが残っている。残った記憶が、場を押す。押された場の上で、方舟寄りの隊は、一瞬だけ自分の正しさを確認しようと立ち止まる。立ち止まった肩に、観客の拍手の切れ端が当たる。当たった音は柔らかいが、筋肉の奥へ入る。入ったものは、残る。
「設計の民主化」
 僕は、宣言の続きをかみ砕く。かみ砕いた言葉を、場へ投げる。拾うのは観客だ。拾い方は自由で、いい。観客の何人かは、両手ではなく片方の手のひらを膝に当てて叩く。低い音。低い音は地面に落ち、網の目を少しだけ広げる。広がった隙間に、僕らの線が落ちる。線は落ちても切れない。御影の柱が抱え、セラの敷居が支え、ツムギの縁側が滑り止めになる。
 相手の補助役が、手元の器具を切り替えた。規格の支援装置。方舟の規約で許された範囲を最大限に使い、環境の変数を標準化する。標準化の波が一度だけ押し寄せ、観客の拍手が少し弱る。弱った拍手の間を、別の音が埋める。咳払い、咬んだ唇の擦れる音、立ち上がる気配に揺れる床板の鳴き、紙の端がこすれるささやかな音。小さい音が、小さいまま寄り集まり、場の下に広がる。
 神垣が、貴賓席で顔を覆った。指の隙間から見えるのは、規定の外側で動いているものたち。名札の付けづらい働き。彼はずっと、それを嫌ってきた。嫌いは理解の一種だ。理解は、いつかこちらに来る。
「御影、 ‘退く勇気’ を」
「出す」
 彼は柱をわずかに後ろへ引き、観客の音に主導権を渡す。渡した瞬間、前衛の一人がわざと一歩退く。退く動きは負けに見える。見せておいて、場の流れを変える。退くスペースに、相手の均しが流れ込む。流れ込んだ均しは、場の雑事に足を取られる。誰かのバッグの金具がぶつかる音、手すりを持ち替える掌の汗の湿りが鉄に移る感触、幼い子どもが肩を叩く軽い音。どれも無力だが、合わせると強い。強いのに、刃にならない。
 セラの氷が、凍らないまま線を引いた。線は冷たいが、寄りかかれる。寄りかかった相手の膝が一瞬緩み、その緩みを御影の柱が優しく抱え、ツムギの縁側が受け流す。受け流しの先に、カイが立つ。カイは握りしめず、開いた手のひらで相手の肩を押し、間合いの名前を落とす。名前が落ちると、方舟は読めない。読めないと、測れない。
「いまだ」
 僕は図の余白を広げる。広げた余白に、観客の音が落ちる。落ちた音は、壁にならない。橋になる。橋の上を、僕らは渡る。渡る最中に、方舟の端末の声は来ない。来ないこと自体が、不気味な合図だ。見ているのは分かる。襟のない顔のない目が、網の隙間のこちら側から覗いている。
 瞬間、アリーナの空気が薄く傾いた。規格戦術の最後の手順。区切りの深度を一段上げ、観客席をも一時的に「遮断域」に指定しようとする。指定される前に、こちらが先に名札を剥がす。観客は観客であり、場であり、柱であり、縁であり、敷居だ。肩に乗る子の靴の重みが、場にのる。ペットボトルが空になる音が、場にのる。座席の折り畳みが戻る音が、場にのる。のった音は、僕らの拡張層に認証される。
 規格の壁に細いひびが入った。ひびは音を立てない。立てないまま、広がる。広がった先で、カイの足が一歩だけ深く入る。深く入った足の下で、ツムギの縁側がすべりを止め、セラの線が冷たく支え、御影の柱が背を伸ばす。伸びた柱が、規格の天井に当たり、静かな音をひとつだけ立てる。静かな音は長い。長い音の間に、僕らは押す。
 勝敗は、そのとき決まった。倒れた者はいない。誰も倒れていないのに、場は明らかにこちらへ傾いた。傾いたものは、戻りにくい。相手の隊は最後まで規定の美しさを守った。守ったそれが、今日は足かせになった。美しいものは、よく切れる。切れる刃の背で、僕らは歩いた。
 終わりの合図は、やはり鳴らない。電光掲示の青が白に戻り、観客の音が一拍遅れて増える。増えた音の中で、誰かが泣く。泣き方は、うまくない。うまくない泣き方は、長く残る。残ったそれに、別の誰かの拍手が混ざり、脈が一瞬合う。合う、と書きながら、その言葉を嫌う。合わさないまま、並ぶ。並ぶ音の帯が、競技場をひとつにしていく。
 神垣は顔を覆ったまま、指の隙間からこちらを見ていた。見てしまったものの名前を、彼はまだ持っていない。名前がないものは、裁けない。裁けないものは、いったん置かれる。置かれている間に、僕らは図を増やす。
 選手の整列。規格の隊長がこちらへ歩み寄り、はっきりと一礼した。礼は短く、正確で、痛みがない。痛みがない礼は美しいが、長く残らない。残るのは、観客のなかで起きた小さな変化だ。見ず知らずの隣人同士が、目を合わさずに肩を並べ、同じ段の階段を同じ速度で降りる。降りるときに、手すりに残る誰かの熱が、次の誰かの掌に移る。移った熱は、無色の灯りに少し似て、輪郭を返す。
「勝った」
 御影が言った。言い方は淡々としていて、柱の一本が静かに畳まれる気配がした。セラは敷居の冷たさを空気に戻し、ツムギは縁側を床にしまった。しまい方に、儀式はない。ただ、指の腹で触れて、消す。消えた跡は見えない。見えないのに、次に触れるときの位置が、からだに残る。
 カイは剣を抜かないまま、観客席に向き直った。声を出さないのに、何かを言った。言葉が粉になって、場に散る。散った粉の一部が、僕の爪の根元に入る。落ちない。
 方舟の端末は、最後まで無言だった。無言で、見ていた。見ているあいだに、こちらは先に次の見出しを置く。黒板はないから、唇で静かに言う。
 設計は、ひとりの手から、場に渡った
 観客は涙ぐみ、頬を拭く仕草が波のように広がった。泣き方が下手な大人と、こらえ方を知らない子どもの涙は、似ていた。似ているものが並ぶと、方舟の網はたちまち目詰まりする。目詰まりの隙間から、細い線がこちらに伸びてくる。伸びて、届かない。届かない距離で、僕らは立つ。立って、図をたたむ。たたんだ図の端は白く、指で触ると粉の気配が戻る。戻ったそれで、また描ける。
 退場の列が動き出す。僕らは最後尾に回り、客席の最後の一人が階段を降り切るのを確認してから、足を返した。扉は、やはり音を立てない。金具のにおいだけが濃いまま、左右に割れる。割れた隙間で、透明な筒の底が、いちどだけ逆さに落ちた。音はない。ないまま、落ちた輪が床材の下を通り、壁に移り、天井を撫で、どこか遠くへ消えた。
 廊下に出ると、旗は鳴らなかった。鳴らない旗の代わりに、誰かの襟が一度だけ揺れた。顔は見えない。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に、名前を置く。置いた名前は、すぐ消す。消した跡だけを、世界式は拾いに来る。拾いに来た指に粉が付き、粉は落ちない。落ちない粉で、僕らはまた、場に線を引く。線は細いが、長い。長い線の上で、拍手の残り火がまだ温かく、設計は静かに民主化のほうへ滑っていく。

第二十三話 設計者の宣告
 昼と夜のあいだが、学園の屋根の上に薄く立ち上がった。空は青でも黒でもなく、洗いすぎた布の色に似ていて、そこに糸くずみたいな亀裂が走る。亀裂は音を持たず、金具のにおいだけを落とした。落ちたにおいが校庭の砂に染み込み、靴底が鳴らない。
 頭上の空が、ひとつの面に畳まれる。畳み目は見えない。代わりに、誰かが黒板を消しゴムで拭いたあとに残る白い粉の霧が、風のない空へまっすぐ吸い上がった。吸い上がった先に、輪郭が置かれる。輪郭は顔ではない。襟もない。ただ、図形が人の形に似ていた。四角と丸と線で組まれた大きなものが、学園の上にぶら下がっている。
 設計者が投影された。世界式の中心に座る《アーキテクト》。声は最初からここにあるように響き、誰の耳にも同じ温度で触れた。
「逸脱は、世界を壊す」
 言葉は硬くないのに、歯に当たる。歯の根元が薄く痺れて、教室の窓ガラスが微かに震えた。震えは風ではなく、測定の名残だ。名残は落ちない。落ちないまま、廊下の掲示板の画鋲が一つだけ回り、床に落ちた。落ちた音は小さい。小さいが、胸の奥へ届く。
 校舎から外に出ると、観覧席に人はないのに、誰かに見られている。屋上の手すりを撫でると、冷たくも温かくもなく、ただ指の腹に粉が移った。粉はどこから来たのか分からないのに、確かに白い。白は落ちにくい。落ちにくいものが、今は助かる。
 ツムギが僕の袖を小さく引く。目のふちは色を失い、肩はわずかに震えている。震えが音にならないうちに、彼女は自分の掌の上に無色の板を乗せた。板は光らない。そのかわり、空気の端に薄い輪郭だけを返した。輪郭が返ると、人は立てる。
「逸脱は、世界を壊す」
 設計者は繰り返した。繰り返すものは長くなる。長くなった言葉は、校庭の木の葉を裏返し、砂場の縁石にひびを置く。置かれたひびは、すぐには広がらない。広がらないあいだに、僕は口を開いた。
「壊したあと、作れる」
 誰にも届かない高さだと分かっていて、それでも上に向けて言う。声は軽い。粉に似て、落ちない。落ちないことで、残る。
 学園の上空で、四角の角が少しだけ尖った。尖った角が、存在しない眼差しの代わりにこちらを射る。射られた空気が冷え、校舎の壁の塗装がきしむ。きしんだ塗装を、指でなぞりたい衝動が走る。なぞったところだけ、世界式の縁が現れる。縁は人に似合う。人の側で、用を足す。
「安全装置を解除する」
 設計者は言った。言い終わると同時に、見えない筒の底がひとつ、天から落ちた。音はないのに、鼓膜の裏側が湿る。湿った裏側が冷えて、校内の魔術装置が一斉に短い咳をする。咳の揺れで、配線の網が露わになり、教室の時計の針が前に二つ、勝手に動いた。時間が、測るのをやめる前のあがきだ。
「全土に試練を降らせる」
 宣告は終わりではなく、開幕の合図だった。校庭の地面がわずかに沈み、廊下の蛍光灯の影が床と壁の境目で細く伸びる。伸びた影の端から、細い線が生える。線は草ではない。文字でもない。輪郭だけが地面の下に食い込み、教室の机の足から机の足へ、見えない橋を渡す。橋はわざと狭く、靴底の片側だけで乗れる幅だ。乗っていないほうの片足が、宙に落ちることを想像した瞬間、背中が冷えた。
 遠くで、街のサイレンが短く鳴った。短すぎて、合図にならない。合図にならない音のほうが、怖い。怖さの上に、試練は落ちる。
 グラウンドの中央に、名札のない塔が一本立った。鉄ではない。石でもない。手で触れると、紙の硬さに似ていた。紙は、水に弱い。弱いのに、長持ちする。塔の表面には、小さな穴が無数にあいている。穴は何も吐き出さず、吸いもしない。ただ、見られている気配だけを返す。返された気配の形を、胸の裏が覚える。
「レン」
 ツムギは震えながら、まっすぐ塔を見た。目の白が大きい。恐怖は正直だ。正直なものは、設計に入る。
「私、基礎だから」
 彼女は言った。声は小さいが、抜けない。抜けない声は、塔の穴に触れ、穴の奥で薄く弾む。弾んだ響きが、誰かの胸に戻る。戻った胸が、立てる。
「御影」
「柱、用意する」
 御影は指を開く。開いた指の間に、見えない線の巻き取りが始まる。巻いた線は細く、揺れる。揺れは折れない。折れない角度を、彼の筋肉は覚えたままだ。覚えたものは落ちない。
「セラ」
「敷居を立てる。冷たいのに凍らない」
 セラは塔の足元へ歩き、地面に触れない位置で手を止めた。止める位置の正確さに、塔の表面の穴のいくつかが、ほんのわずかに狭まる。狭まり方は呼応に似て、模倣ではない。模倣は世界式の好物だ。呼応は、人の側に残る。
 空の設計者が、沈黙した。沈黙は脅しではない。測定だ。測りながら、全土のどこかで同じ塔が立っている。小さな町の空き地、都市の川沿い、山間の神社の隣、ビルの屋上。名札のない塔は、人の数だけ穴を開けて、穴の数だけ視線を置く。視線は数えられない。数えられないうちに、試練は始まる。
 最初のゆがみは、音で来なかった。教室の壁に掛かった地図の端が、風もないのにめくれ、裏紙のざらざらが光を吸った。吸った光の量が少なすぎて、誰も気づかない。気づかないまま、二度目のゆがみが校庭の鉄棒の影を伸ばし、三度目で体育館のステージ幕がほつれる。ほつれたところに、子どもの指が引っかかり、怪我をしない程度に布を裂いた。裂け目から、冷たい空気が薄く吹く。冷たいのに凍らない。凍らないのに、肌が縮む。
 四度目のゆがみで、校門の脇に立つ掲示板のガラスが、音もなく外れた。外れたガラスは割れず、芝生の上に立てかけたように落ち着いた。落ち着いたガラスに、空の設計者の影が薄く映る。映った影は顔を持たず、襟もない。ないまま、こちらを見ている。
「逸脱は、世界を壊す」
 上からの言葉は、今度はやさしく落ちた。やさしさは刃の形に似ることがある。刃の形をしたやさしさは、切れ目を残さない。切れ目がないから、血は出ない。血が出ないのに、痛い。
「壊すことは、終わりだ」
 設計者は続けた。続ける言葉を、僕は粉の匂いで遮る。遮るやり方は、一度覚えると簡単だ。黒板に図を描くのと同じように、言葉の上に別の図を置く。置いた図の余白が、言葉の刃を鈍くする。
「終わりは、始まりだ」
 僕は言った。塔の穴がひとつだけ、確かに大きくなる。大きくなった穴は、吐息の音に似た空気を吐く。吐かれた空気は冷たくない。冷たくない空気は、眠気を呼ぶ。眠りは敵じゃない。眠りのうえに図は置ける。
「壊したあと、作れる」
 僕はもう一度、繰り返した。繰り返すたび、指の腹の粉が増える。粉の増えた指は、図を長く保つ。長く保たれた図の端に、ツムギがそっと触れた。触れた指は白くないが、白い気持ちが残る。
「私、基礎だから」
 彼女は再び言い、無色の板を胸に当てた。板は光らない。光らないのに、塔の穴のいくつかが静かになった。静かさは、設計に使える。静けさの上で、人は立つ。
 御影は柱を二本、立てた。一本は伸び、一本は縮む。伸びる柱は、逃げ道を確保する。縮む柱は、集まる場所を限定する。人の流れが狭い橋に乗り、同じ歩幅で進むとき、転ぶ。転ばないように、歩幅をわざと乱す。乱れは失敗ではない。余白だ。
 セラは敷居の角をさらに丸くし、塔の根元の土に小さな段差をつくった。段差は階段ではない。線だ。線は薄く、足裏の皮膚だけが見つける。足裏が見つけた線は、からだの重心をそっと戻す。戻された重心は、倒れない。
 塔の穴のひとつが、突然、学園長室の方向を向いた。向けられた視線は数えられないが、確実に重い。重さの先に、神垣の襟が少しだけ揺れた。揺れた襟の影が机の端に落ち、紙の端を濡らす。濡れた紙は、インクを吐く。吐いた文字が、規約の行間を太らせる。太った行間は、読みづらい。
 設計者の声は止まない。
「設計は、権限である」
 否定ではない。説明だ。説明は武器になることがある。武器にしないために、僕らは図を分ける。図を分けるというのは、権限を配ることだ。配られた権限は小さく、なくなりやすい。なくなりやすいものは、奪われにくい。
「設計は、権限ではない」
 僕は応じる。粉が増える。粉の重さで、言葉が沈む。沈んだ言葉は、砂に刺した旗のように、折れない。
「設計は、置き場所だ」
 塔がわずかに軋み、穴のいくつかが閉じる。閉じる音はしない。閉じない穴の方角へ、細い影が集合していく。影の集まり方が、陣形に似る。似ているだけで同じではない。陣形には声がある。影には声がない。声のないものは、読みづらい。
「全土の試練、開始」
 設計者の言葉が、落ちた。落ちた先で、遠い街のビルの屋上に同じ塔が立つ。川沿いに、二本。山の尾根に、一本。海の上には立たない。その代わり、水面の下で透明な筒の底が逆さに落ち、魚の群れの動きがわずかに乱れる。乱れた群れのそばを、漁船が通る。通るときに、船の腹が小さく鳴る。鳴る音は、人の骨に似ている。
 学園の塔は、最初の求めを出した。求めは命令ではない。お願いの形をしているのに、断れない。掲示板のガラスに、文字が浮く。赤でも黒でもない、石鹸の泡みたいな色の文字。
 ここで、一人だけ、上に登れ
 文字が消える。消えたあとに、砂場の縁の白が薄く揺れる。揺れの方向は塔に向いている。向きは誰にも強制されないのに、足が向く。足のうち、誰のものかを決めるのは、この場だ。場は投票箱ではない。ひとつずつの小さな重みで、選ぶ。
 カイが、塔を見た。見ただけで、塔の穴のいくつかが彼を向く。視線の量は分からない。分からないのに、肩にひっかかる。ひっかかった視線を、彼は剣で払わない。剣を抜かないまま、踏み替えた。踏み替えの音は柔らかい。柔らかい音の後ろで、人の気配が少しだけ楽になる。
「俺が行く」
 カイは言った。言いきってから、僕を見ない。見ない視線は、正直だ。正直さは、塔の穴を狭める。狭まった穴は、彼の歩幅に合わせて戻る。
「行くな、は言わない」
 御影が低く言う。言っただけで、柱の一本が塔の足元に寄る。寄った柱は、折れない角度で揺れる。揺れの上で、ツムギが頷いた。
「上は、冷たい。でも凍らない」
 セラは地面からほんの少しだけ線を引いた。線は見えない。見えないのに、足裏が見つける。見つけた線の上で、カイは足をかけ、塔の側面へと体を持ち上げた。塔は掴むところを用意しない。掴ませる気がない。ないなら、こちらから置く。ツムギの板が薄い段差のかわりになり、御影の柱が見えない背骨を入れる。セラの敷居は冷たく、凍らない。
 塔の穴が一斉に開いた。開いた穴は、風のない空気を吐き、校庭の砂を巻き上げる。砂は粉になる前の粒で、靴の中に入り、爪の間に入る。入った砂は落ちない。落ちないまま、痛くない痒みになる。痒みを無視して、カイがさらに上へ。塔の上は近くない。近くないのに、手のひらに板の冷たさが移る。冷たくても凍らない。
 上空の設計者は、観客のいない観客席に目を向けない。向けないまま、世界式の安全装置をはがし続ける。はがされた場所は静かで、危ない。静けさを、ツムギの無色で埋める。埋めたところだけ、輪郭が戻る。戻った輪郭に、人が立てる。立った人の影が二つ重なり、重なった部分が薄く濃くなる。濃い部分は、裁けない。
 塔の中腹で、カイが止まった。止まった肩が細かく上下し、汗がひたいの端をゆっくり伝う。汗の線は短い。短いものは、長持ちする。長持ちするうちに、塔の穴がひとつ、彼の真横で開く。開いた穴の奥に、誰かの指がある気配がした。指は白くない。爪の先が黒い。黒い爪は、粉を嫌う。
 穴の奥から、声がした。
「逸脱は、世界を壊す」
 カイは笑った。笑い方は下手だ。下手な笑いは、正直だ。
「壊したあと、作れる」
 彼は言い、右手を穴の縁に差し入れた。縁は冷たい。冷たいのに、切れない。切れない縁に指をかけ、身を起こす。起き上がる途中で、御影の柱が下から押し、セラの線が足裏を返し、ツムギの板が掌の下に薄い段差を作る。段差はやさしい。
 頂上で、彼は手を挙げた。挙げた手のひらは白くないが、粉の記憶が薄く残っている。残った記憶に、空の設計者の影が少しだけ歪む。歪んだ影は、襟を持たないまま、こちらに顔を向けたふりをする。ふりでいい。ふりの上で、僕は声に出す。
「設計は、ひとりのものじゃない。置き場所だ。壊したあと、作れる」
 宣告の返歌は、塔の穴の奥で繊維のように絡まり、空の向こうへ吸い込まれた。吸い込まれるとき、金具のにおいがいちどだけ弱くなった。弱いにおいは、眠りに似る。眠りの上で、試練は続く。続くなら、図を置く。置いた図の余白を広げ、柱を足し、敷居を丸め、縁側を畳んでは延ばす。
 ツムギは震えを止めない。止めないまま、微笑む。笑いは上手ではない。上手でない笑いが、夜に強い。強い笑いの横で、御影が指を鳴らし、セラが目を細め、カイが片手を挙げたまま、遠くの街の塔に向けて顔を上げる。塔はどこにでも立つ。立つならば、こちらも立つ。立てる場所を増やすための図を、粉の白で、静かに置き続ける。
 上空の設計者は、沈黙に戻った。戻った沈黙の縁で、透明な筒の底が逆さに落ち、見えない格子の一部分が剥がれかけて、また貼り直された。貼り直す指は白くない。爪の先だけが黒い。黒い爪は、粉を嫌う。それでいい。粉は、こちらの側に落ちる。落ちた粉で、明日の図を描く。描いた図が短くても、足りる。短いものが、次を呼ぶ。
 塔の影が校庭を長くしていく。長くなる影の上で、僕らは並んで立った。旗は鳴らない。鳴らない旗の代わりに、廊下のどこかで襟が一度だけ揺れた。顔はない。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に、名前を置く。置いた名前は、すぐ消す。消した跡だけを、世界式は拾いに来る。拾いに来た指に粉が付き、粉は落ちない。落ちない粉で、壊したあとを、作る。

第二十四話 全学園シンクロ作戦
 校内放送のベルは鳴らなかった。代わりに、壁の中で細い金具がいちどだけ擦れ、廊下の空気が重くなった。重さは音より先にくる。アーチ状の天井は白く乾き、粉の匂いが鼻の内側に薄く張りつく。窓には雲の影が遅れて通り、光が床の線に沿ってちぎれた。
 全学園、同期。ひと言で書かれた掲示は、紙の端が丸まっていて、画鋲の穴がふたつ空いている。穴はすでに使われ、位置が少しずれていた。ずれは不安ではない。余白だ。余白がなければ、図は動かせない。
 御影ユウトは講義棟の中央ホールにいる。舞台の上ではない。舞台の前、床の上だ。四つ脚の古い椅子に座り、腹と胸と額に白い布を巻かれて、背もたれに縛られている。縛りは乱暴ではなく、結び目が整っていた。整った結び目は、ほどきやすい。ほどける前提の拘束は、設計の一部だ。
 椅子のまわりに、線が敷かれていた。チョークでもロープでもない。見えない。見えないが、触れると指先の皮膚だけが気づく薄さで、床はところどころ冷たい。冷たさはセラの仕事だ。彼女は視界の端に立ち、ひたすら温度の段差をつくっていた。段差は凍結ではない。冷たいのに切れず、冷たいのに滑らない。靴底のゴムが、そこだけ少し低く鳴る。
 ツムギは無色の板を両手で抱え、ホールの真ん中に立っている。人々の目は、板に当たらない。光らないのだから目を捉えないはずなのに、誰もが板に近づくと、歩幅が揃う。揃う手前で揃わず、ばらつきがうまく残る。残り方までが、彼女の範囲だ。
 カイは出入口に背を向け、体育館から借りてきた古い防具を肩にかけていた。剣は持たない。持たないから、彼の立ち方は柔らかい。柔らかさは遠慮ではない。弾力だ。弾力のある前線は、押しても戻る。戻ったときに折れない。
 僕は、講義棟の上の階段に座って、手すりの金具に指をかけていた。金属はよく温度を記憶する。さっき誰かがここを触れた、という事実が冷たさの順番に残り、指の腹を通して頭の内側へ入ってくる。入った順番を、図に置く。図に置いた順番は、線になる。線は、世界式の外側へ出るときの橋脚だ。
 屋外では、市民が集まっている。校門の外、駅前の広場、商店街の路地、川辺の遊歩道。スマホは沈黙し、拡声器はハウリングの声だけを残して止まった。止まった機械の代わりに、人の喉が順番を覚える。覚えた順番を、御影が拾う。拾い方は荒っぽくはない。呼び水に手を添えるだけだ。その手は縛られているが、縛られた手ほど、広く触れられる。
「開始」
 御影は目を閉じた。閉じた目は、眠る前の静けさを思い出さない。思い出すのは、廊下の床の軋み、椅子の脚の擦れる音、誰かの靴ひもが金具にこすれて鳴る小さな悲鳴、笑いそうで笑わない空気の表面張力。細かい音の粒だけが、彼の耳の近くでまとまって、柱の心材になる。柱は揺れていい。ただし、折れない角度で。
「負荷の割り付けを、私に集める」
 彼は椅子の背もたれに頭を打ちつけないように、顎をひとつ引いた。ひとの筋肉は、首の角度で声の通り道を変える。変えた通り道に、学園中の雑音が入り、薄く整理されていく。整理というほど整わない。整わないまま、使える。整えないことを設計に入れてから、僕らは勝てるようになった。勝ち方がすべてではないのに、勝ち方に似てしまう夜がある。今は昼と夜のあいだだ。どちらでもない時間を、御影が抱える。
「負荷、流入開始」
 セラが静かに告げる。冷却線が作る細い谷間を、人のざわめきが滑って、御影の椅子の脚元に集まる。脚の一本一本が音を吸い、木材の年輪に取り込む。取り込んだ音のうち、尖ったものは角を落とす。角の落とし方は、氷の粒子の配列に似る。似るだけでいい。似すぎると、世界式は真似を始める。真似られる前に、次へ。
「無色層、敷きます」
 ツムギは板の縁を、舞台の木目に沿って撫でた。撫でたところだけ、光が遅れて戻る。戻った光の縁が、黙っている人の頬の内側を少しゆるませる。観客席のないホールで、僕らが観るべき顔はここにいない。いない顔まで、板はつなぐ。つながれていることを、自覚させないで。
「前線は、外」
 カイが扉に手を添えて、押しも引きもしない。押さず、引かない動作は、人を落ち着かせる。落ち着くのは優しさではない。判断の速度だ。速すぎる判断は転ぶ。遅すぎる判断は、人を置いていく。ちょうどよい遅さを、彼は体で覚えている。覚えた遅さを見せながら、見せていない速さで、扉の隙間の空気を嗅ぐ。金具の匂いが強い。方舟の網が、校舎の内外に薄くかかっている。網目の大きさは同じだが、引っぱり具合が違う。内側のほうが硬く、外側のほうが湿っている。湿っているほうが、火がつきにくい。今夜は、火がいらない。
 僕は階段から立ち上がり、手すりを離した。離れた手のひらに粉が移り、指の腹がざらつく。ざらつきの順番を、唇の裏で並べる。それは祈りではない。準備だ。言葉の前に、落ちない粉をひとつまみ。粉は図形の影だ。影から書き始めると、線は消えにくい。
「世界式に、入る」
 誰に向けてもなく言って、僕はホールの中央へ歩いた。御影の椅子の斜め後ろ、ツムギの板の縁が返すほの暗い輪郭の中に、白い線を一本ひいた。白は目に見えない。見えない白を、足裏が踏む。踏んだ足の骨が黙ってうなずく。骨は正直だ。骨に任せること。任せてから、世界式の表層に手を伸ばす。
 音が、消えた。
 ホールの空気から、ものの縁を鳴らす音が抜け落ち、ただ乾いた光だけが残る。光は暑くない。白い粉に触れると、やわらかく散る。散った白の上に、配線の細い影が現れる。天井から床へ、床から人へ、人から人へ、人から街へ。配線は金属ではなく、柔らかい。柔らかいのに、切れない。切れないのに、ひどく薄い。薄いから、世界式は見逃す。見逃すようにして、僕は線に手をかける。
 御影の背が、いちどだけ震えた。震えは痛みではない。音の代わりに彼に集まっているものが、彼の筋肉の束へ乗り換えるときの、合図だ。合図は優しくない。優しくないが、残酷でもない。残酷なのは、均しだ。均しは、数を平らにする。平らにされたところから、人が落ちる。落ちた穴に、今までのやり方を収納してきた。収納がいっぱいだ。出さなければ次が入らない。
「支援の設計者として、宣言する」
 御影は小さく笑った。笑い方が下手な人間の笑いは、音にしないのがいちばん強い。強い笑いは、筋肉の結び目をほどく。ほどけた結び目から、支援線がいっせいに広がった。広がる速度はゆっくりだ。ゆっくりなのに間に合う。間に合うように、ツムギが板の縁を撫でる。撫でる手が止まると、セラの冷たさがそこへ薄く降りる。降りた冷たさにカイの足音が乗り、扉の向こうの街の雑音が遠くで巻き取られる。
「負荷を私に。痛みは分散して、熱だけ残して」
 御影の声は低く、床の木目に吸われた。吸われた後に、木目の年輪が微かに濃くなった。濃くなった部分だけ、椅子の脚がきしむ。きしんだ音まで、彼は設計の図に書き込んだ。図は万能でないほうが強い。欠けているぶん、ひとの手に馴染む。
 ツムギの無色層が校舎の隅々を撫で、市民の足元に届く。届いた先で、誰かの膝がゆるみ、誰かの肩が上がり、誰かの手がポケットの中の鍵を握りしめる。鍵の金具が指に冷たい。冷たさの薄さまで、セラは予測していた。予測は細かいほど、人を傷つけない。傷つかないように敷いた冷たさは、熱と仲が良い。熱があるところに、冷たさは薄く寄りかかる。寄りかかった線は、折れない。
 カイの前線は、校門の外にまで広がっていた。前線といっても、垣根のようなものだ。掴んで乗り越えるものもない。触れると柔らかく戻る。戻るときの音が、街の揺れを少し落ち着かせる。落ち着いた揺れは、次の段へ渡される。
 世界式の配線は、僕の足もとで見える。見えるが、掴めない。掴めないものを、掴めるようにするには、名前を増やさないことだ。名札は金具で、重い。重いものは配線を垂らす。垂れた先に、誰かが引っかかる。引っかからないように、僕は指先の粉で、線の表面を撫でた。粉は道具ではない。気配だ。気配に反応して、線は少しだけ曲がる。
「市の広場、同期に入ります」
 放送が止まっているのに、情報は届く。届くのは声ではない。物音のまとまりだ。御影の椅子の脚は、四本とも同じようにきしみ、背もたれの板が一度だけ短く鳴った。鳴りは痛みの代わりだ。痛みは彼に集まっている。集めた痛みは、熱にして返す。返す熱は、ツムギの板の縁に沿って外へ出る。外で、誰かの指先を温め、誰かの涙の温度をわずかに変える。変えた温度で、判断は変わる。変えていいのだ。今日だけではなく、明日も。
 廊下の窓ガラスに、白いものが流れた。雪ではない。光のかけらでもない。何かが、向こうからこちらへ移動してきた気配の、殻だ。殻が剥がれ落ちると、空気の端が少し丸くなる。丸くなった先を、配線は通る。通るときに、金具の匂いが弱くなる。匂いが弱くなると、息が楽になる。楽になるのは危険だ。油断が入る。油断の入る位置を、御影は図に赤い丸で囲んだ。丸に色はないが、彼の骨は識別した。
「ここから、一段、上げる」
 御影は椅子の背に頭を預け、目を開けた。目は赤くない。ただ潤んでいる。潤みは泣くためではない。乾燥を防ぐためだ。乾燥が続くと、線は割れる。割れを嫌うなら、水ではなく、余白を足す。余白を足すのは、僕の仕事だ。
「音、落とす」
 僕は言った。ツムギとセラとカイの目が、それぞれ僕の肩、手、足を見た。視線は短い。短いから、繋がる。繋がったところで、音が消えた。
 ほんとうに、すべての音が消えた。靴底の擦れる砂の粒の声も、蛍光灯の管の中を走る何かの小さな電気の鳴きも、御影の喉の奥を通る空気のひずみも、全部。消えた瞬間、光が満ちた。満ちたといっても、眩しくない。眩しくない白が、目の裏から広がり、骨の内部を薄く照らす。その光のなかで、世界式の配線が、もういちどだけ、はっきりと見えた。
 線は、思っていたより少なかった。少ないのに、絡む。絡むのに、ほどける。ほどけるたび、どこかで誰かの名前が落ちる。名前が落ちるたび、誰かの肩が軽くなる。軽くなった肩が、隣の誰かの重さを受け、そこで柱になる。柱は本数を数えられない。数えるより先に、折れない角度が広がる。
 御影は椅子の上で、静かに震えた。震えは細かく長い。長い震えは、痛みの合図を熱へ変える途中の音だ。音がないのに、彼の骨は鳴る。鳴っているのが分かる。分かるから、僕は線を握った。握るのではない。触れる。触れた瞬間、線のほうがこちらへ来る。来るのは上下ではない。内外でもない。向き合い方だけが、変わる。向き合ったところで、配線のルールがひとつ、薄く書き換わった。
 ひとの意志を、入力にする。
 世界式の枠外に置かれていた注釈が、線の陰から表面へ浮かんだ。浮かぶときに、粉が舞う。舞った粉は落ちない。落ちない粉を、ツムギが撫でる。撫でた指先から、無色の層が街へ伸びる。伸びた先で、誰かが目を伏せ、誰かが顔を上げ、誰かが手を握りしめ、誰かが離す。離した手が、また誰かに触れる。触れたところで、線は太らない。太らないのに、折れなくなる。折れない理由は、数式にはしない。数式にしないものは、奪われない。
 セラの冷却は、天井の角に小さな霜を生んだ。霜はすぐに消えた。消える前に、空気の層が薄くずれる。ずれた層が、光の道をひとつ増やす。光は暑くない。暑くない光が満ちると、恐怖の形がわずかに丸くなる。丸くなった恐怖は、走るのをやめる。走らなくていい。立てばいい。立つ場所の線だけ、僕が描く。
 カイの前線が、街の四隅まで広がった。老人ホームの玄関、幼稚園の砂場、病院の待合室、川の橋の上。彼は剣を持たないから、誰もそれを武器と呼ばなかった。誰も呼ばないのに、効果は出る。混乱が整いすぎない。整いすぎは硬直だ。硬直は弱点を大きくする。大きくなった弱点を狙うのは簡単だが、それでは壊すばかりだ。今は壊していいものだけを壊し、壊したあとに作れるように、順番を決める。
 音のない世界は、しばらく続いた。続くあいだ、御影は椅子で震え、汗が喉の横を細い線になって落ちた。線は冷たくない。冷たくないが、彼の皮膚を焼かない。焼かないで、本当に熱だけが残る。残る熱を、ツムギの板の縁が受け、セラの冷たさが縁に座り直し、カイの弾力がそれを前線へ渡す。
 僕は線に、もうひとつだけ注釈を書いた。
 合図の主語を、場に開く。
 主語は言葉の骨だ。骨を奪えば、言葉は崩れ、崩れた言葉は形を変える。形を変えた言葉は、暴力になることがある。主語を場に開けば、骨はひとりのものではなくなる。折られにくくなる。折られにくい骨は、長持ちする。
 白い光が、いっせいに薄くなった。薄くなっても、消えない。消える前に、音が戻る。戻り方は、雨上がりの町の音に似ている。遠くの車の走る音、信号機の中でまだ休んでいる電気の小さな作業の声、誰かが笑いそうで笑わない喉の揺れ、はだしの子どもが砂の上に立つときの、粉の沈む音。ひとつひとつが、もう怖くない。怖いのは、音がないことだった。音がないところで、光だけが残ったとき、世界は修羅場の手前に立つ。手前で止めたのは、御影だ。彼の椅子の脚が、最後の一本を深く鳴らした。
「書き換わった」
 彼は、空気に告げた。声はかすれていない。かすれていないのに、少し低くなった。低さは、重さではない。根だ。根が浅いと、柱は折れる。浅くなかった。御影の根は、街の中に伸びていた。伸びた根が、彼の椅子の下で揺れる。
 ツムギは板を抱きしめ、きゅっと目を閉じて、また開いた。目の白は多い。多いけれど、濁っていない。濁らない理由は、板の縁の無色にある。無色は何色にもならないと、ずっと言われてきた。違う。無色は、どんな色とも喧嘩しない。喧嘩をしない灯りが、今、校舎から街へ、街から海へ、海から見えない遠くへ、薄い輪郭のまま広がっている。
 セラは両手を下ろし、肩の線をひとつ落とした。落とし方に、乱れはない。冷たさが引き上げられ、床板の下へ潜る。潜った冷たさは、朝まで残る。朝に残っていると、昼の熱が入りすぎない。入れすぎる熱は、怒りに似る。似るだけで、同じではない。怒りは使える。使えるが、置き場所を間違えると人を傷つける。置き場所は、設計に書いた。書いた紙はない。粉の順番だけが、僕らの外側に残る。
 カイは扉の前から動かず、胸を上下させ、外を見て、戻ってきた視線で僕たちを確かめ、うなずいた。うなずき方は短い。短い仕草は、長く効く。長く効く仕草は、ひとの記憶の端に座る。座っているあいだ中、壊れない。
 御影の縛りを、ツムギがほどいた。ほどきながら、彼女は笑った。笑うと、板の縁の無色がほんのわずか濃くなる。濃くなっても、眩しくない。眩しくない笑いは、夜に強い。昼にも、強い。
「ユウト」
 僕は声をかけた。彼はうなずき、椅子の上から立ち上がろうとして、足がもつれた。もつれたところで転ばないのは、セラの冷たさが床の端に残した薄い敷居のせいだ。敷居は段差ではない。線だ。線が、足裏の皮膚だけをそっと返す。返された足が、すっと前に出る。
「終わったの?」
 ツムギが尋ねた。御影は首を振る。否定の角度は浅い。
「一段。書き換えた。全部じゃない。でも、次をつなぐには足りる」
「次」
 カイが繰り返し、扉の向こうの街をもう一度だけ見て、扉を閉めた。閉める音はしない。金具が噛み合う感触だけが、手のひらに残る。残った感触は、安心に似る。似ているだけだ。安心は気を緩める。緩めて転ぶ前に、僕は黒板のない空間に、見出しをそっと置いた。
 ひとの意志を入力にする世界式
 声にしない見出しは、粉に似て、落ちない。落ちない粉を、方舟が嫌う。嫌うものは、学習する。学習の前に、こちらが先に書く。書いた線は、金具の匂いのしない場所に隠す。隠すのではない。置く。置いた場所が、場になる。
 外では、ひとの声が戻っていた。泣き声が笑い声と混ざり、怒鳴り声はどこにもなかった。怒鳴り声がないのは不自然だが、なくてもいい。ないほうが、次を置きやすい。置くべきは旗ではない。旗は鳴らない。鳴らない旗を見上げる時間で、線は一本増やせる。
 ホールの隅で、誰かの襟が一度だけ、揺れた。顔は見えない。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に、名前を置く。置いた名前は、すぐ消す。消した跡だけを、世界式は拾いに来る。拾いに来た指に粉が付き、粉は落ちない。落ちない粉のひとつひとつに、さっき書き換えた配線の微かな線が、影のように残っている。
 御影は椅子の背に手を置き、深く、静かに息を吐いた。吐いた息は白くならない。ならないのに、涼しい。涼しさの中で、彼は言った。
「支援は、場の形だ。場は、ひとの意志の置き場所だ。置き場所を増やせば、倒れる数は減る」
「基礎は、広いほど薄くなる」
 ツムギがつぶやいた。自分を薄くしていくことを、怖がっていない。怖がらないのは、強さとは別の何かだ。誇りという言葉では足りない。名前を増やすと、壊れる。増やさないまま、覚えておく。覚えておけるように、僕らは粉の順番をそろえる。
「冷たさは、最後に戻る」
 セラの声は、いつも通り高くない。冷たいのに、刺さらない。刺さらない冷たさは、眠りに似る。眠りは戦場の敵ではない。眠りの上でしか、夜は終わらない。昼は、眠りの形を忘れがちだ。忘れないように、彼女は冷たさを薄く床にしまう。
「前に出るのは、勇気じゃなくて、順番だ」
 カイは防具を肩から外し、扉の横の壁にもたれた。もたれる角度は浅い。浅いほうが、走り出しやすい。走り出す前に、立っていられる。立っていられる人の数が、場の強さだ。場が強ければ、旗はいらない。旗は鳴らない。
「レン」
 御影が、僕を見た。目は赤くない。疲れは、骨のほうに行っている。骨が疲れるのは、悪くない。骨は嘘をつかない。つかないまま、支える。
「書き換わった分の説明は、しないのが正しい。説明を求められたら、図で見せる。図は紙に書かない。場に置く。置いた図を見つけるのは、人の意志だ。意志は入力だ。入力が増えるほど、方舟の網は目詰まりする」
「詰まった網は、切れず、外れない」
 僕は答えた。外れない網は、足場になる。足場にしてしまえばいい。誰のものでもない足場を、人は勝手に使う。勝手に使える場所を増やせば、統治の種類は減る。減って、残る。残ったものだけが、強い。
 校舎の外で、陽が傾いた。傾き方は静かで、影は長く、黒板の粉のように乾いている。粉は風で飛ぶ。飛んで、戻らない。戻らなくていい。足跡が残る。足跡の形は、誰のものでもないが、僕らはそれを見分けられる。見分けられるように、今日、線を一本足した。
 ホールを出ると、廊下に人はいなかった。三階の窓はひとつだけ開いて、カーテンがほとんど動かないまま、薄く息をしている。息という言葉を僕は避けたかったが、それ以外の名がなかった。名前がないものを説明するとき、言葉のほうが壊れる。壊れない言葉だけ残す。残した言葉の上を、粉が通る。通った粉は落ちない。
 階段を降りる途中、旗は鳴らなかった。鳴らない旗を見上げるかわりに、僕は手すりの金具をいちどだけ撫でた。金具は冷たくない。冷たくないのに、さっきより固い。固くなったのは、世界式の外皮が少し厚くなったからだ。厚くなるのは、痛みを遠ざけるためだ。遠ざけると、鈍る。鈍った外側に、僕らは細い穴を開けた。穴は見えない。見えない穴を、方舟は嫌う。嫌っているあいだに、こちらが先に、次の線を描く。
 校門の外では、子どもがふたり、手をつないでいた。手のひらは白くない。握り方はぎこちない。ぎこちなさは、強さだ。強さが外に見えない形で残る日が、ようやく来た。来てしまえば、名前がいらない。名前を言うまえに、ここに立てる。
 空の上で、透明な筒の底が、いちどだけ逆さに落ちた。落ちる音はしない。音はないが、落ちたあとの輪の震えが、世界式の表層を薄く揺らした。揺らしながら、配線の一段が、確かに書き換わった。書き換わりきらない部分も、たくさん残った。残ったぶんだけ、明日の図は太る。太らせすぎないように、粉の順番を整え、僕は首をゆっくり回した。金具の匂いは薄い。薄い匂いは、眠りを呼ぶ。眠りは敵ではない。眠りの上で、ひとは立てる。立てる数を増やす。それが今日、ここでやった同期の、本当の意味だ。
 廊下のどこかで、襟がいちどだけ揺れた。顔はない。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に、名前を置く。置いた名前は、すぐ消す。消した跡だけを、世界式は拾いに来る。拾いに来た指に粉が付き、粉は落ちない。落ちない粉で、僕らはまた、ひとつ、線を足す。線は細いが、長い。長い線の上で、音は戻り、光は薄まり、恐怖は丸くなる。丸くなったそれでも、夜は来る。夜が来たら、また設計する。壊したあとを、作れるように。すべての主語を、場に開くために。

第二十五話 ざまぁの定義
 講堂は朝から乾いていた。乾いているはずなのに、床板の下で水気だけが集められている気配があり、金具の匂いが普段より濃い。入口の自動扉は故障中の札をかけ、開け放たれたまま、風を入れない。風の代わりに人の視線が出入りし、出入りの回数だけ、空気が薄く切り刻まれていく。切り目は目に見えない。代わりに、黒板消しの粉が、誰も触っていないのに舞い上がらず、頭上でじっととどまっている。
 評議会の臨時総会。議題はひとつ。学園規則の改定と、権限の再配置。神垣学園長は最前列の貴賓席に座り、襟をひとつも乱さず、紙束を膝に置いていた。紙は白い。白は恐ろしい。何度でも書き直せるからだ。書き直す手がひとつしかない世界では、白は刃だ。
 零席は全員揃っていた。僕らは壇上の上ではなく、壇の横に細く並んだ。高い場所に立つと、声の主語が勝手につくられる。今日はそれを避ける。御影は椅子を持ち込まず、壁にもたれ、両手を前で組んでいる。ツムギは無色の板を胸に抱え、セラは講堂の角へ冷たさを薄く敷いていた。カイは、扉と壇の間の死角に立ち、間合いの名前をひとつずつ床に落としていた。名前が落ちるたび、講堂の見えない格子が少し揺れた。揺れは方舟を苛立たせる。苛立ちは音にならない。音にならない苛立ちほど、長持ちする。
 議長席に座るのは、学生評議会長の古賀。声は高くないが、紙に吸われにくい。吸われない声は、場の壁に薄く残る。残った声の薄皮の上で、誰かが椅子を引き、脚の金具が一度だけ鳴った。鳴りは、合図ではない。準備だ。
「臨時総会を開会する。議題、学園規則の改定および運用権限の再配置」
 古賀が読み上げ、形式の挨拶がいくつか続いた。神垣は挨拶の終わりだけを拾い、すっと立ち上がる。立つときに椅子の脚を鳴らさないのは、場の重みを測る術のひとつだ。彼は測るのがうまい。うまさは長く、刃は短い。短い刃が、今はきれいに光っている。
「諸君。騒擾の続いた数週間を経て、いま我々に必要なのは『規則』だ。設計だとか民主だとか、甘ったるい言葉で世界を曖昧にするのではなく、測れる線で場を縛ることだ。逸脱は、世界を壊す。壊すことに快楽を覚える年頃があるのは承知している。しかし学園は、遊び場ではない」
 壇上のマイクは切ってある。神垣は素の喉で言う。にもかかわらず、声は講堂の隅々まで届く。言葉の縁に、たしかな怖さがある。怖さは数字にならない。なれないぶんだけ、骨に残る。
「よって私からは、次の提案を行う。臨時に創設した『設計関連の活動』をすべて凍結し、零席の権限を剥奪。共同演習と称した越権的実験の記録を審査し、関係者を停学処分とする。規則とは、秩序の骨だ。骨が柔らかい組織は、必ず折れる。折れてからでは遅い」
 拍手が起きた。拍手は大きくない。大きくないのに、長い。長い拍手は、同意ではなく、安堵の表現だ。誰かが誰かを決めてくれることへの安堵。安堵が骨に入る前に、粉で薄く覆う必要がある。
 壇の横で、僕は手帳を閉じた。開いている間中、そこには何も書いていない。書くべきものは、今日、紙ではなく場に置く。置いたものは簡単に剥がれない。剥がれないものだけが、次を運ぶ。
「提案に対し、反対意見はあるか」
 古賀が形式通りに問う。誰も手を挙げない。挙げようとした腕が途中で固まり、空調の風のふりをしてそっと下ろされる。風はない。代わりに、視線の流れだけが客席の段差に沿って動く。動くたび、粉が少しずつ舞い上がりかけ、舞い上がらずに落ちる。
「あります」
 僕は言った。声を張らない。張れば、誰かが退く。退いたところで、刃が走る。刃に血は似合わない。血のにおいは、粉を湿らせる。
「零席の代表、レン君」
 古賀は目だけで合図し、僕が壇に上がるのを待たなかった。上がる必要はない。壇と床の段差をひとつ、セラが冷たさで平らにしている。平らといっても、畳表の目のように細い段差が残り、足裏の皮膚だけが気づく。気づくと、人は転ばない。
「神垣学園長の提案に反対する。理由は簡単だ。規則の運用権限は、学園長のためにあるのではないからだ。場の骨に権限が埋められているのなら、骨の居場所を増やせばいい」
 ざわめきが起きた。起きて、すぐ止んだ。止まったというより、吸われた。講堂の壁の内側に、誰かが見えない布を張っている。布は音を食う。食われた音の代わりに、金具の匂いが濃くなる。濃い匂いの上で、神垣が口の端をわずかに上げた。
「つまり、何が言いたいのかね」
「規則の設計そのものを、学生評議会に移譲する。条文の更新、適用、例外規程の運用、すべてだ。今日この場で、可決する」
 笑いが起きなかったのは、ここにいる多くが、笑い方を忘れていたからだ。笑いは滑る。滑りは失敗の気配と仲がよく、失敗の気配は今、場から消されている。消された場に、粉を足す。
「無茶だ」
 神垣は短く言った。短い否定は、刃先に似る。刃先は光に弱い。眩しさではない。無色の光だ。ツムギがじっと板を抱え、客席の最前列から最後列までの間に薄い界面を敷いた。界面は光らない。光らないのに、観客の姿勢がわずかに整う。整えると、人は選べる。
「無茶ではない」
 御影が続けた。壇に上がらず、壁にもたれたまま、支援線の束をほどく。ほどかれた線の一部が客席のひざとひざの間に横たわり、足音の重さを数え、息の浅さを拾い、視線の向きをそろえすぎない。そろえすぎると、刃が通る。通り道をわざと曲げる。
「規則の設計は『設計』の一部だ。設計が場に分配されるのなら、規則の骨も場に埋め直すのが筋だ」
「学生に何が分かる」
「場が分かる。場に立っているのは学生だから」
 神垣は手袋を外し、紙束を膝から机に移した。紙の白が眩しい。眩しさは斬る。斬る前に、こちらが先に切り口を選ぶ。
「手続きの瑕疵がある。評議会に規則設計の移譲など、現行規約には一言もない」
「あるよ」
 僕は古手の規約集を掲げた。掲げただけで、ページは風もなく捲れ、裁断の紙粉が薄く宙に浮いた。粉は落ちない。落ちない粉に、ツムギの無色層が触れ、輪郭を戻す。輪郭の返りで、古賀が目を細める。
「付属書の『緊急手続き』。 ‘安全装置の喪失’ と ‘学内自治の機能不全’ が併発した場合、最高意思決定機関の座は臨時に学生評議会に委譲されうる。文面は曖昧だ。曖昧だから、生きている。条文が死ぬのは、誰かが自分の都合のために一度きりに使ったときだけだ。生かすために今使う」
「安全装置の喪失、とは」
「方舟が外した。昨日、全土。あなたは知っている」
 神垣の瞼がほんの少し遅れて落ち、戻った。戻るまでの時間が、普段より長い。長い間の隙間に、セラが冷たさで階段の角を丸める。丸めた角で、人は転ばない。転ぶのは、高い場所にいる者だ。高い椅子は足を絡める。絡まる前に、降りる必要がある。
「自治の機能不全、は」
「あなたが告げた。零席の権限剥奪、共同演習の凍結、停学処分。現実に場を保っている機能を、規則の名前で切り捨てようとした。切る前にどうなるか、あなたは本当に想像していたか」
 講堂の後方で、誰かの椅子がかすかに倒れた。倒れた椅子を、別の誰かが拾い上げる音が遅れて来る。遅い音は長い。長い音は、怖さのなかで呼吸の代わりをする。呼吸、という言葉はここでは使いたくない。代わりに、粉の沈みで話す。
「議長、動議」
 古賀が椅子から半歩だけ立ち上がり、顔をこちらへ向け、次に客席へ向けた。向け方が上手い。主語を誰かに押しつけない。押しつけないで、場に置く。
「規則の設計権限を、臨時に学生評議会へ移譲する。期間は方舟の安全装置再接続まで。賛否を問う」
 神垣は即座に立った。立つ速度は速すぎない。遅すぎない。完璧だ。完璧さは刃を鈍らせる。鈍りに気づかないのが致命だ。
「待ちなさい。手続き上の確認が——」
「確認のために設けられた委員会の委員長は学園長。つまりあなた自身です。利益相反の可能性がある。確認は、委譲後に第三者を含む小委員会で行う」
 御影が淡々と言い、古賀が頷き、事務局の学生が裏紙にその場で要点を書き起こした。裏紙は灰色で、線は曲がる。曲がったままでも読める。読めるものから始める。始めるための静けさが講堂に降り、天井の梁から粉が一粒だけ落ちた。落ちた粉が、神垣の肩の上で見えない白を作る。白は重い。重さに気づかない人間は、立っていられる。
「挙手。賛成」
 古賀の声に、手がいくつも上がった。上がる前に迷いが走り、迷いごと上がる。迷いが混ざった挙手は、美しい。混ざりがあるから、刃は通りにくい。
「反対」
 手が上がる。少ない。少ないのに、強い。強さは骨に近い。骨は簡単に折れない。折れない骨が、場のどこに建っているかを、御影が黙って数える。数えながら、セラが冷たさの配分をわずかに調整し、ツムギが無色の板の縁で、上がった手の指をつなぎかけ、つながない。
 集計は長くなかった。長くないのに、長く感じたのは、時間が測りを失いかけているからだ。測りはいつもどこかで失われる。失われた時間は、粉で埋めるしかない。
「可決」
 古賀が言う。言葉が舞台の前でいったん止まり、客席へ落ち、床に染み込み、背もたれの布に吸われ、窓ガラスにうつる。うつった言葉は薄く、剥がれやすい。剥がれやすいものほど、何度でも貼り直せる。
 拍手が起きた。先ほどよりも大きい。大きいが、乱れている。乱れは失敗ではない。乱れの中に、ざわめきの音がひとつずつ生まれ、椅子の脚と脚の間に入り込んで静まる。静まった音が積もる。積もった音の上で、神垣の肩が初めて、ほんの少しだけ下がった。
「——茶番だ」
 彼は低く言い、紙束を手に取った。白は刃だ。刃をとがす前に、こちらが先に刃の置き場所を動かす。古賀が書記に目配せし、記録係の学生がすばやく端末を立ち上げた。画面にはあらかじめ用意されていた書式が開いている。学園規則の『運用権限』の欄に、学生評議会の名が打ち込まれる。打ち込まれる前に、一瞬だけ、光が薄く滲む。滲んだ光の上を、ツムギの板が優しく撫でた。
「議事録の公開時間は」
「即時」
 古賀が答える。即時は怖い。怖さを粉で薄める。御影が支援線を会場の端まで伸ばし、セラが扉の金具に冷たさを添え、カイが前に出る。出るといっても、半歩だ。半歩の動きが、人のざわめきを吸い、前へ押し出さない。押し出せば、刃が走る。
「学園長」
 僕は神垣に向き直った。彼の襟は乱れていない。乱れない襟は、美しい。美しいものは、よく切れる。切れるものは、置き場所を選ぶ。
「あなたに辞任を求める」
 講堂の椅子が、どこかで倒れた。倒れた音が遅れて跳ね、天井裏の金具に吸われ、戻ってこない。戻らない音の代わりに、人の視線が僕に釘のように刺さる。刺さるほうがずっと楽だ。刺さりっぱなしで、刃は鈍る。
「理由は」
 神垣は問う。問う声は低い。低い声は床を這い、粉の層に触れて鈍る。
「あなたは場を守るための規則を、あなた自身の防具として使った。 ‘守る’ の主語を自分にしてしまった。今日、主語を場へ返す。規則は、使われるためにある。 ‘正しく’ 使われるために」
 彼はしばらく黙っていた。黙るという行為は、卑怯でも賢明でもない。場に対する礼儀だ。礼儀が終わると、彼は深く息を吸い、吐き、紙束を机に置いた。置いた音は小さい。小さいのに、長い。
「諸君。私はここまでだ」
 それだけ言って、彼は礼をした。礼は短い。短い礼ほど、長く残る。残った礼の陰で、観客席に立ち尽くす影がいくつも見えた。かつて僕を笑った顔が、揃っている。笑い方を忘れて、立ち方を思い出している。立ち方を思い出すと、人は沈黙する。沈黙は、敗北の音に似ていない。似ていないから、長く効く。
 拍手が起きた。誰のための拍手か分からない拍手。分からないから、きれいだ。きれいな音は刃を鈍らせる。鈍った刃の前で、古賀が議事槌を軽く叩き、叩いた音が粉の層を通って柔らかくなる。柔らかさは夜に強い。
「本総会はこれをもって——」
 古賀の言葉を、誰かの嗚咽が遮った。嗚咽は遠い。遠いのに、骨に届く。届いた骨が静かに痛み、痛みは熱に変わり、熱は無色の板の縁でやわらぐ。やわらいだ端で、セラが冷たさを畳み、カイが扉の前から半歩だけ下がる。下がり方にも、勇気がいる。勇気という言葉は使わない。順番だ。
 僕は壇の横から、講堂の中央へ歩いた。歩幅は小さい。小さい足取りで、床の段差の名前を落としていく。名前が落ちると、刃はそこを選ばなくなる。刃は選びやすい道を好む。選びやすい道を減らす。それが設計だ。
 中央で、立ち止まった。視線は背中に刺さる。刺さって、痛みにならない。なれない痛みは、粉の層の上で形を失い、音になりかけて、ならない。ならないところで、僕は言葉を置いた。
「ざまぁ、ってのは」
 講堂のどこかで、金具がゆっくり鳴った。鳴りは低い。低い音は、場の骨へまっすぐ降りる。
「勝つことじゃない」
 僕の声は、マイクに触れない。触れない声は、場に触れる。
「正しく使われることだ」
 誰に向けてもいないのに、言葉は抜け道を選ばない。選ばないで、客席の段差をひとつひとつ降り、立ち尽くす顔の前で止まり、肩の高さを測り、背中の堅さを確かめ、床の粉をひと粒ずつ拾って、黒板のない壁に見えない文字を書いた。書いた文字は誰にも読めない。読めないから、残る。残るあいだ中、刃は鈍る。
 神垣は踵を返した。返すときに、彼の襟が初めてわずかに揺れた。顔は見えない。顔のないものは、名前を好む。ここで名前を呼ぶのは簡単だ。呼ばない。呼んだ名前の重みは、粉を湿らせる。湿った粉は、翌朝まで残らない。
 扉の向こうに、廊下の静けさが落ちていた。旗は鳴らない。鳴らない旗の代わりに、講堂のどこかで椅子の脚が一度だけ鳴った。音は短い。短い音ほど、長く効く。効いているあいだに、評議会の端末に新しい文面が打ち込まれ、公開され、場の骨の居場所がほんの少し広がる。広がった先で、かつて僕を笑った面々がまだ立ち尽くしている。立ち尽くした姿は、きれいだ。きれいなものは、よく切れる。切れないように、粉を足す。粉は落ちない。
 講堂を出ると、外の光は白かった。白は刃だ。刃の上を歩くには、足裏の皮膚が必要だ。皮膚は薄い。薄いが、覚える。どこに段差があったか、どの金具が冷たかったか、誰の襟がいつ揺れたか。覚えたことだけが、次の設計になる。設計は勝つためだけにあるわけじゃない。使うためにある。正しく使われるために。
 背後で扉が開閉し、金具がかすかに噛み合った。噛み合う音は、礼砲の代わりだ。礼砲はいらない。いらないものを増やすと、粉が薄くなる。薄くなった粉は、朝の風で飛ぶ。飛んでも残るように、僕らは今日、場に文字を置いた。読めない文字だ。読めないものほど、よく効く。効いているあいだに、夜が近づく。夜が来れば、また設計する。ざまぁの定義を、紙にではなく、居場所に。正しく使われる場所に。


第二十六話 設計は続く
 昼と夕方の真ん中みたいな光が、学園の屋根をうすく撫でていた。空は青の手前で止まり、洗いざらしの白い布の色に似ている。その布に、細い亀裂が何本も走っていた。さっきまで空全体を覆っていた格子は、静かにたたまれている。金具のにおいはまだ残り、手すりを触ると、粉が指の腹に移った。粉は落ちない。落ちないものだけが、今日の結果だ。
 《方舟》は、止まった。完全に沈黙したのではない。眠っている。眠ることを覚えた、と言ったほうが近い。目に見えない機械の底で、透明な筒の底が逆さに落ちる気配はもうない。代わりに、遠くの校舎の窓から、誰かがゆっくりとカーテンを引く音がした。音は小さい。小さいが、長い。
 校庭の端のベンチに腰を下ろすと、木目がやわらかく背に当たった。背もたれは古く、釘の頭がひとつ浮いている。そこに指をかけると、金属の冷たさは弱く、かわりに人の手の熱の残りがあった。朝から何人もが座って、立っていったのだ。熱の順番は、図の余白に似ている。すぐ消えず、かといって主役でもない。そういうものの上に、成果は座る。
 空の上。襟のない顔のない影は、昼の光に溶けた。溶ける前に、最後の言葉を置いていった。宣告ではない。条件だ。甘さはない。硬さだけが、薄い布で包まれている。
 人の意志を前提にする拡張を、条件付きで許容する
 それが《設計者》の答えだった。認めるのではない。押し返せない流れを、外側から囲い直す。囲いの目は、今までよりわずかに大きい。落ちるものも増えるが、残るものも増える。落ちてはいけないものの重さを、こちらが選べる。それだけで十分だ。十分でない、と考える夜は来るだろう。来るなら、次の図を用意する。
 肩にやわらかな重さが降りた。上着だ。ツムギの昼寝用の、うすい上着。色は淡く、袖口に小さな毛玉がいくつかできている。彼女は何も言わず、僕の肩にそれをかけた。かけ終えてから、ひと呼分だけ間を置き、口を開く。
「私、基礎だから」
 声は掠れず、まっすぐ落ちた。上着の布の重さと同じくらいの、軽い確かさがあった。彼女の無色は、今日、校舎の隅々まで伸び、街へも広がった。誰も見ていない裏道まで届き、曲がり角の影の中にあった小さな転びやすさを、そっと丸くした。丸くするというのは、悪いことではない。丸いものは、転がる。転がると、進む。
 ベンチの足元で、缶がコツンと音を立てた。御影ユウトが、紙袋から青い缶コーヒーを取り出して、僕のそばに置いた。砂埃が薄く被さっていて、缶の角に短い傷がある。彼は何も言わず、ふたつめの缶を自分の前に置き、指でプルタブを起こした。金属が小さく鳴る。鳴りは長くない。長くない音ほど、骨に届く。
 カイがやって来て、僕の肩を小突いた。力は入っていない。入っていないのに、背筋がすっと伸びる。彼は笑っていない。笑い方を、今日は選ばないらしい。選ばないこと自体が、彼の正直さだ。正直なものは、設計に使える。
「終わったのか?」
「一段だ。全部じゃない」
「そうか」
 それだけ言うと、カイは空を見た。空は薄い。うすくて、遠い。遠いくせに、手のひらに乗るみたいに近く感じる。そういう昼がある。そういう昼のほうが、怖い。怖いという言葉には、余計な古傷のにおいがついている。においが粉を湿らせる。湿った粉は、図を短くする。だから怖い、という言葉を、なるべく使わない。使わないで、残す。
 セラは少し離れて、校舎の屋根の上に生まれた薄い影を見ていた。影は細く、消えかけていて、なのに、そこだけ温度が違う。冷たいのに凍らない。凍らない冷たさの上に、人は座れる。座って、呼吸のしかたを思い出す。彼女は首を傾け、口の端で小さく言った。
「正しい勝ち方、見えた気がする」
 誰に向けた言葉でもない。自分に向けた合図のように、彼女は目を細めた。勝ち方、という言葉に絡みつく古い音と匂いを、彼女は一緒に折りたたみ、懐にしまう。しまったのは礼だ。礼の形は、次の戦いを呼ばない。呼ばない礼ほど、長持ちする。
 学園の時計塔が影を伸ばして、音を飲み込むように見えた。さっきの「停止」の瞬間、時間はうっすらと測り方を変えた。秒針は動く。動くが、刻む音の角が丸く、どこかで吸われている。あの格子の目が広がり、人の意志の線がその中を通り抜けるようになったせいだろう。吸われて困る音はある。残すべき音もある。その区別は、もう僕たちだけのものではない。場に配ったのだから。
 ベンチの背にもたれ、空に右手の人差し指を伸ばす。指の腹に粉のざらつきが残ったまま、何もないところを指す。彼方に、薄い縫い目がある。まだ名前のない縫い目。そこから風が出入りしている気がする。気のせいかもしれない。気のせいでは困る。困るので、名前を用意する。名前があれば、そこは設計図の余白になる。
「次は、あっちを書き換える」
 僕が言うと、ツムギはうなずいた。御影は缶をひと口だけ飲み、カイは肩で笑い、セラは黙って目を細めた。誰も、即座の賛成も反対もしない。ひと呼分だけ、それぞれの胸に置く。その置き方が、今日までのやり方だ。置かれた言葉は、音にならず、粉になって残る。残った粉は、明日の朝、指の腹に移る。
 広場の向こうから、子どもたちの笑い声が交差して届いた。混ざり方は乱暴で、良い。笑い声の軌道が空の縫い目に引っかかり、ほどけないまま固まり、やがて薄い輪になる。輪は高く上がらない。上がらないから、落ちない。落ちない輪の下で、僕たちは座った。
 《設計者》の最後の応答は、頭の内側の深いところに残っていた。文字ではない。言葉の骨だけ。骨は折れていない。折れていない骨は、細く長い。長いくせに、軽い。軽さは危険だ。手から滑り落ちる。滑らないように、粉を足す。粉は重くないのに、滑り止めになる。人の意志を前提にする拡張。前提、という言葉は、嫌いだ。けれど、今は必要だ。基礎に置く言葉が無色でなければ、上に重ねるものがひずむ。
 ツムギの上着の袖口から、糸が一本だけ飛び出していた。指で軽く押さえ、引っ張らずに、ただ触る。触るだけで糸は落ち着き、布目の中に戻っていく。彼女は気づかない。気づかなくていい。基礎は、気づかれないほうが強い。見える基礎は、飾りになる。飾りは弱い。弱いものほど、刃に近い。
 ベンチの後ろで、砂が少し動いた。誰かが足を引きずって歩いている。見るまでもなく、それが神垣ではないと分かる。あの男は、踵の使い方が正確だから、砂を引きずらない。今日の彼は、紙を置き、礼をし、扉を出た。襟はわずかに揺れ、顔は見えない。顔のないものは、名前を好む。けれど、ここで名前を呼ぶのは簡単すぎる。簡単に呼べるものは、図を短くする。短い図を長くするのは、手間だ。ならば呼ばない。
 講堂から校舎へ続く渡り廊下を、学生たちが何人か走っていく。走る足音は軽く、今朝までの切迫した響きが薄い。薄くて、良い。彼らの肩がぶつかり、ぶつかったほうが笑い、ぶつけたほうも笑い、すぐに離れる。離れる前に、視線だけが一瞬重なる。重なった視線が、空の縫い目をほんの少し開ける。ひとの意志は、図の外側から入ってくる。一度入ると、出にくい。出にくいものを、僕は嫌わない。
 御影が缶を置き、ベンチの背もたれに両手を回した。指の関節が白く浮く。分配されていた痛みは、熱になって彼の中で均され、均しすぎないところで止まっている。彼は言葉を選ばず、ただ空を見た。空の縫い目は、さっきより少し、薄い。薄くても、ある。あるなら、図を足す。
「なあ、レン」
 カイが立ったまま言う。声は低く、短い。短い声は、粉の層を乱さない。
「勇者の定義は、書き換えられたか?」
「書き換えられたよ。俺たちの中だけじゃなく、場のほうに」
「なら、いい」
 彼は笑う。笑いは上手くない。上手くない笑いが、長く効く。効いている間、刃は鈍い。鈍っているのに、怖いのは、刃がいつでも研ぎ直されることだ。研ぎ直す手がどこにあるのか。僕らの内側にも、外側にもある。あると知っていることのほうが、安心だ。安心は油断に似ているが、同じではない。
 セラが近づき、ベンチの端に座らず、背もたれにもたれず、立ったまま空を見ている。距離を測るのが上手い。近すぎない。遠すぎない。その距離は、誰かを傷つけない。傷つけないということは、逃げもしないということだ。彼女は小さく呟いた。
「正しい勝ち方、見えた気がする。全部じゃないけど」
「全部じゃないほうがいい。全部にしてしまうと、刃の置き場所を他人が選べるから」
「分かる」
 彼女の指先は冷たい。冷たいのに、凍らない。凍らない冷たさが、僕の肩にかけられた上着の端に触れ、布の毛足を立てる。立った毛の一本一本が、光を吸って、少し温かい。温かさは、眠気に似ている。眠気は敵ではない。眠りの上でしか、夜は終わらない。
 遠くの方で、学園の鐘が鳴り始めた。鳴り方はゆっくりで、音の角が丸い。丸い音は、校舎の窓ガラスに弱い。ガラスは音を跳ね返す。跳ね返された音は、塔の上に登らず、地面の近くでほどけて、砂に染み込む。砂に染み込んだ音は、朝になっても残ることがある。残ってしまえば、子どもたちの靴底がその上を歩く。歩いたあとに残る粉の形は、図のヒントになる。
 風が少しだけ出て、旗の端が揺れた。旗は鳴らない。鳴らないのに、目を引く。鳴らないものが、強い。鳴らないほうが、長い。長いものの横で、僕は立たない。座ったまま、空に指を伸ばし続ける。指の先に、さっきの縫い目が見える。そこから、まだ小さな音が漏れている。誰かのひそひそ声みたいな、弱い音。音は弱いほど、真ん中に刺さる。
 《設計者》は完全に去ったわけではない。眠っている。眠りの中でも、見ている。見ていることに気づきながら、僕らは手を止めない。止めないで、動きを細かくする。細かい動きは目立たない。目立たなければ、奪われない。奪われないで、伝わる。伝わるものだけが、続く。
 校門の外の坂を、小さな自転車が上がってくる。前かごにパンが二つ。後ろの荷台に揺れる小さな旗。旗は鳴らない。鳴らないが、風を切る。風を切る音は、金具のにおいを薄め、粉の匂いを少し強くする。粉は白い。白は刃だ。刃であり、灯りの白だ。両方でいられるのは、今のうちだけかもしれない。だから、今のうちに、図を多めに置いておく。
 御影が肩をぐるりと回し、立ち上がった。ベンチの影が短く震え、すぐ落ち着く。彼は空を見ず、地面を見た。見て、顎を引く。
「支援の設計者としての仕事は、これでおしまいじゃない。配った権限は戻さない。戻すなら、違う形にしてから返す」
「頼む」
 僕は缶を取った。冷たさはほとんど消え、指の跡だけ残る。残った跡の形が、図の端に似ていた。端は見落とされやすい。見落とされやすいところに、次の入口がある。
 校舎の影の中から、評議会の古賀が手を振ってきた。端末を片手に、額に汗を浮かべている。新しい規約の運用ページはすでに公開され、質問が山ほど届いているのだろう。答えなければならない。全部に答える必要はない。場が答えを探す時間を残す。残した時間が、ひとの意志を入力に変える。
 ツムギは上着の袖をきゅっと握って、微笑んだ。笑い方は上手いほうではない。上手くない笑いは、泣き方に似る。似るだけで、同じではない。笑いは前に出る。泣きは後ろに下がる。前に出すべきは笑いだ。後ろに残すべきは泣きだ。どちらも、基礎の上でしか立てない。
「レン」
「ん」
「さっきの言葉、もういちど言って」
「どれだ」
「次は、あっちを書き換える、って」
 僕は空を見ず、仲間たちの顔を順に見た。御影の目の奥の疲れは、骨の色に似ている。カイの肩の線はやわらかく、セラの指先は冷たく、ツムギの上着の端は無色で光らない。光らないもののほうが、長い。長いものの横で、言葉を置く。
「次は、あっちを書き換える」
 言った瞬間、校庭の砂がごく浅く波打った。波は音を持たない。音を持たないくせに、肌のうえで分かる。分かったことは、逃げない。逃がさないで、走らせる。走るものの前に、線を一本引く。線は細い。細いが、つながっていく。
 鐘の音がひとつ遅れて鳴り、子どもたちの笑い声が交差した。交差点でぶつかった笑いは、平手で叩き合うみたいに弾み、すぐにほどける。ほどけた後で、同じ方向へ流れることはない。それでいい。同じ方向に整うと、刃が通る。通り道を曲げるのが、僕たちの役目だ。
 《方舟》の影は、深くたたまれて、地面の内側に沈んだ。沈んだまま、まだ見ている。見ている目は顔を持たず、襟もない。名前を置くことはできる。けれど、今日は置かない。置くべきは別の名前だ。誰かの「できない」に、まだ名前がない。それに名前を置く。それが、僕らの設計の最初で最後の礼儀だ。
 旗は鳴らない。鳴らない旗の下で、粉は落ちない。落ちない粉の上に、目には見えない文字がゆっくりと浮かび、誰も読めない形のまま、長く残る。残っているあいだ、刃は鈍い。鈍っているあいだに、僕らは線を増やす。線は細い。細いが、長い。
 ベンチから立ち上がると、背に残った木目の感触が、図の端の印になった。印は小さい。小さい印の連なりが、町の地図をつくる。地図は正確でなくていい。正確さは、刃を呼ぶ。唇の裏で短く見出しを置く。黒板はない。粉だけがある。
 設計は続く
 誰に言うでもなく、僕は歩き出した。上着の肩がずれ、ツムギがそっと直す。御影は歩幅を合わせ、セラは温度の段差を先に薄くし、カイは半歩前で道の名前を落とす。落ちた名前は刃を遠ざけ、地面の粉は靴底に移る。移った粉は、落ちない。
 ——設計は続く、誰かの「できない」が、まだ名前を待っているから。