第十一話 勇者候補の崩れ目
午前の演習場は明るく、砂の粒まで全部数えられそうなほど視界が澄んでいた。澄みすぎた景色は、ときどき人の癖を露骨に浮かび上がらせる。新城カイのチームは、そういう明るさの下でこそ映えるはずだった。規律正しい足並み、想定された角度、最短で貫く突撃。どの動作にも「正しい」が貼り付いている。貼り付けてしまったものは、剥がすときに音が鳴る。
セラの氷は、今日も透明だった。透明なのに、触れた者の動きをわずかに丸く曲げる。遷移層の密度が均され、刃は音を連れていかず、通った痕だけが白く残る。残る白の細さを、カイは認めていた。認めていながら、それが自分の突撃の拍をずらすことに苛立ちを覚えていた。
「拍じゃない。角度だ」
彼はそう言う。角度が揃えば、突撃は美しく刺さる。美しい刺さり方でない勝利を、カイは勝ちの範囲に含めたがらない。彼の中の「勝つ」は、形式の美と結びついている。歪んだ勝ち方は、負けだとすら思っている節がある。
午前の最初の対戦、セラの氷筋が相手の前衛の膝を浅く撫でた。撫でただけで、相手は足の置き場を一段変え、カイの突撃線上からずれた。ずれた相手に、刃が狙っていた芯の手応えがない。芯がない手応えを、カイはこの上なく嫌う。嫌悪の細い皺が、彼の眉間にだけ生む音は、ベンチのほうまで届いた。
「今の、俺が踏み込む前に通すな」
試合後の整列の直前、カイは短く言った。セラは目を合わせ、わずかに首を振る。
「通さないと、相手の回復が先に形になる。遅れた一手で、次が全部重くなる」
「重いほうがいい。重いものを正確に持つのが俺たちの勝ち方だ」
「重いものを持てるのは、持ち上げ方を知ってるから。今のは、置き方を変えた」
言い合いはそこで途切れた。途切れた音の裏で、観客が席を立つ。拍手は短く、空に吸われる。砂の表面だけが夕方の色に近づき、白線の端が薄く灰を帯びた。
◇
チーム会議は、窓のない小部屋で行われた。壁に掛かった戦術図は、何度も書き直された跡が層になって残っている。古い線の細さと新しい線の太さが重なり、紙の上で時間がひとつの図を譲り合わずに喧嘩している。
司令塔役の男子が配布した紙に、今日のミスが印字されていた。誤字はない。誤配線の指摘だけが淡々と並ぶ。淡々の底に湿りがある。
「セラの新式は、確かに通りが滑らかだ。だが前衛の最短動線と干渉する場面が出ている。前衛優先の原則に戻したほうが、全体の効率が上がる」
カイがうなずく。うなずきながら、机の天板に置いた拳をゆっくり握る。握る指の節が白い。白いと、血の色の代わりに粉の色だけが見える。粉は、黒板に触れなくてもどこにでも付く。
「戻そう。氷は旧式の層構成で、角は立てる。遷移層は最小限。目に見える強度に寄せる」
セラは紙を見て、顔を上げた。
「角を立てれば、刺さる。でも、折れる」
「折れないように刺すのが、前衛の仕事だ」
「それ、いつもできる?」
静かな質問だった。静かすぎて、刃より冷たい。司令塔が咳払いで間を埋める。
「理想の話はわかる。ただ、選抜の段階では欠点の見えない勝ち方を優先したい。ここで取りこぼせば、何も始まらない」
「欠点をごまかす勝ち方は、あとで全部請求される」
セラの声はきちんとした音量で、誰の耳にも届くところに置かれた。置かれた言葉は、部屋の空気の層を一枚剥がし、壁にかかった戦術図の古い線をくっきりさせた。
「勝ちたい。正しく勝ちたい。間違った勝ち方は、勝ちじゃない」
カイが笑った。笑いは上手い。上手いのに、今日の笑いは古い。古くなった笑いは、表面に薄いひびが走る。
「正しさは、結果で決まる。形じゃない」
「結果だけで決まるなら、あなたはここに立ってない。あなたがここにいるのは、形を守ってきたから」
室内の空気が少しだけ重くなり、全員の視線が机に落ちた。落ちた視線の集まる場所に、見えないひびが広がる。ひびは音を持たない。持たないものほど、あとで響く。
「……次の対戦、旧式でやって」
司令塔が妥協案のように言う。セラは目を閉じ、すぐ開けた。頷くでも、否でもない顔。肯うための筋肉と、否むための筋肉が両方用意され、どちらにも倒さない発声だけが残った。
「わかった。やる。でも記録は残す。何が折れて、どこが刺さらなかったのか」
カイの指先がわずかに動いた。机の角に爪が触れ、薄い音が出る。音は狭い部屋を一周して、紙の上に落ちた。
◇
午後の二戦目。旧式の氷。角は立ち、音は鋭い。刃は確かに刺さる。刺さった感触は、見栄えがいい。スタンドから歓声が上がるたび、カイの足取りは軽く揃い、セラの顔色は少しずつ薄くなった。
相手の回復役は、朝より賢くなっていた。固定壁の角と角の間に薄い膜を残し、刃の腹を滑らす準備をしている。その膜に、旧式の角は弱い。角は流れを起こしてしまう。起きた流れに、剣士の踏み込みが微妙に引き摺られ、全体の重心が半足ぶんずれる。ずれた重心に、詠唱が追いつかない。
「踏み直せ」
カイが叫ぶ。叫びは正しい。正しい叫びは、隊列を救う。救うはずだった。剣士の踵が砂に深く沈み、跳ね返りの角度が崩れる。崩れた角度に、セラの次の氷筋が刺さらない。刺さらない刃は、ただ冷やす。冷やされた砂は、ほんの少し滑る。滑った足に、遅れがつく。
小さな遅れが三つ重なって、スコアが逆転した。審判の旗が上がり、観客席の空気が沈む。沈んだ色はよく見える。見る者は、面白がる。面白がりは、毒だ。
初の黒星。
整列の列で、カイの喉仏が上下した。飲み込んだのは言葉か、血か、粉か。セラは何も言わなかった。言わない代わりに、指先で包帯の端を一度だけ押さえた。先日の傷は浅かった。浅い傷はすぐ忘れられる。忘れられた傷に、負けはよく触れる。
「次は、戻す」
退場の通路でカイが言った。戻す、というのは新式に、ではなかった。もっと前――彼が選抜の前段で磨き上げてきた、完璧な突撃線の時代に。氷は刃のための踏み台。支援は角のための支柱。誰の目にもわかりやすい正しさ。勝つために、美しい。美しいから、勝つ。
「戻らない」
セラの返事は短かった。短さが、否を強くする。
「勝つために正しくなりたい。正しさの形が変わったなら、私が変わる。戻らない」
カイは立ち止まり、彼女を見た。見たまま言葉を選ぶ顔。選ぶ過程で、昔の練習場の景色がわずかに滲む。砂が粗く、指導役の叱声が太く、彼が初めて「形」を褒められた日の冷たい空気。褒め言葉の輪郭に、彼は守るべき境界を見てしまった。その境界を強く撫でるほど、指の腹は薄くなった。
「セラ。俺たちは――」
「同じ方向を見てる。だから、ぶつかる」
その通りだった。ぶつかるのは、遠ざかっていない証拠だ。証拠は痛い。痛みは、記録になる。
◇
夕方、勇者候補の棟のトレーニングルーム。窓ガラスに橙の色が薄く残り、床の黒いゴムが光を飲み込む。器具の鉄のにおいに、消毒液の匂いが重なっている。重なるにおいの上から、紙の匂いが微かにする。紙はどこにでもいる。紙に書いたものは、どこにでもついてくる。
司令塔がデータをプロジェクタに投影する。数字が並び、線が描かれ、勝ちと負けの差が薄く可視化される。薄い差は、意見を割る。割れた意見に、カイが手を挙げた。
「次も旧式でやる。突撃線を最優先。氷は補助」
誰も返事をしない時間があった。その空白の中で、セラが前へ出る。前に出る動作の速さは、つねに静かだ。
「私は、新式でやる。記録を残す。負けたときに、何が折れているのか。どこで勝てるのか。あなたの突撃は、正しい。でも、その正しさが壊してるものがある」
カイは目を細め、口元を固くした。
「俺は守ってきた」
「私も、守ってる。違う角度で」
「角度の違いで隊列は壊れる」
「壊れたなら、設計し直す」
設計、という単語に、数人が小さく目を泳がせた。零席の黒板の粉が、勇者候補の部屋の空気に混ざったからだ。混ざった粉は、払っても落ちない。
司令塔はため息をひとつだけ落とし、まとめた。
「次は分岐案でいく。前半は旧式、後半は新式。記録者は二名。喧嘩する時間はない」
誰も笑わなかった。笑うべきタイミングだったのに。笑わなかったことが、みんなの体内の時計のずれを示す。
◇
その日の夜、屋上。風は弱く、旗は鳴らない。鳴らないのに、金具の擦れるにおいだけが残る。残るにおいは、記憶に効く。
カイは柵にもたれ、校庭の白線の消えかけた跡を見下ろした。昼間はくっきりしていた線が、夜の湿り気でぼやけ、砂に戻る。戻っていく最中の線を見ていると、形の正しさが全部仮に見える。仮を積み上げて城を作り、その城で旗を振り、旗の襟だけが揺れ、顔はどこにも映らない。
「俺は、守ってたのか、壊してたのか」
声は低く、夜の鉄の色に近かった。問いは誰にも向けず、風にも向けない。壁に向けた声は、跳ね返らない。跳ね返らないから、胸の中で膨らむ。膨らんだものに、人は名前をつけたがる。名前をつけると、扱える。扱えるようになってしまうと、壊せる。
彼は目を閉じた。閉じた暗さの表面で、今日の試合のひとコマが何度も現れては薄く消えた。旧式の角が膜で滑り、剣士の踵が砂に沈み、号令が届く前に遅れが増え、セラの氷が刺さらず、観客の空気が沈み、それでも正しさを守ろうとして声を張り、声が形を壊し、形が声を壊し――。
遠くの闇の底で、微かな音がした。水が逆さに落ちるみたいな音。彼はその音を知らないはずだった。知らないのに、胸の骨の内側がうっすらと冷えた。冷えが、古い記憶の輪郭を指でなぞる。初めて褒められた日のラインを、誰かが黒い太線でなぞり直す。その太線は、輪郭を守ると同時に、中身を窒息させる。
柵に置いた掌に汗が滲む。汗は金属の粉を呼び、見えない粒が肌に移る。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている――そんな気がした。気がしただけだ。気がしただけでも、十分壊れるものがある。
足音がした。軽い。御影かと思い、違うとわかる。足音は止まり、すぐ離れた。襟だけが揺れるのが見えた。顔はない。顔のない影は、名前に強い。
カイは息を整え、少し笑った。笑いはうまくない。うまくない笑いは、正直だ。
「明日、勝つ。勝って、それでも崩れていたら、そのときもう一度決める」
誰に言うでもなく、彼はそう置いた。置いた言葉は、夜の鉄に吸われて、音を立てなかった。音がないほうが、怖い。怖いほうが、決めやすいときがある。
旗は鳴らなかった。鳴らないのに、金具のにおいは強くなった。においの強さは、朝の近さだ。朝になれば、砂の線はまた濃く描き直される。描き直された線が、今日より正しく見える確証はない。ないから、整える。整えた線の上に、誰かの足が乗る。足が乗るたび、線はほんの少しだけ音を変える。その変化を、彼は明日、聞き分けなければならない。
守るために。壊さないために。あるいは、壊すべきものを見つけるために。
夜気は薄く、屋上の床は乾いていた。乾いた床の上で、彼の影だけが細く伸び、襟だけが揺れた。揺れ方は、いつもより遅く、正確で、残酷だった。
第十二話 合宿と同期事故
山の空気は冷たく、薄かった。学園からバスで二時間。木々が近く、建物が少ない。合宿所の前庭には白い石灰で丸が描かれ、まだ誰の足跡もついていない。風で枝が擦れ合う音が、耳に残る。擦れ合う音は、旗の金具と少し似ていた。
合宿初日の午後、レンは板張りの食堂に皆を集めた。長机をどけ、壁際に折りたたみの黒板を立てる。黒板は小さくても、粉は同じにおいがする。ツムギは消しを両手で抱え、御影ユウトは体育倉庫から延長コードを持ってきた。延長コードは床に蛇のように伸び、足を引っかける気配をつくる。
「大規模同期をやる」
レンの声はいつも通りだった。いつも通りは、練習より危険だ。危険だから、皆が一斉に静かになった。
「今までの合成は人数が少なかった。四人、五人。同じ動きを合わせて、ズレを吸って、ひとつの線にまとめる。でも本番はもっと多い。同期の輪を大きくしても壊れない方法を、今日ここで決める」
黒板に白い線が増える。基礎層、支柱層、緩衝、遅延。短い言葉だけ置き、指で粉を払う。その粉が、窓のほうへ飛ぶ。窓の外では、山の影が近い。近い影は、聞き耳を立てている。
レンは続けた。
「基礎はツムギ。無色の層に皆の線をいったん吸わせて、遅延で並べる。御影が前で支援の線路を引く。前に出す支援に慣れているぶん、負荷を増やす。ここが問題だ。輪が大きいほど、支えの重さは急に跳ね上がる」
御影は頷いた。ツムギは両手の指を握ったり開いたりして、すぐにやめた。握ると手のひらが白くなる。その白さが今日は痛そうに見えた。
「大丈夫。練習で限界点を測っておく。限界は設計し直せる」
レンの言い方は軽かった。軽さは、みんなが不安になるから、楽に聞こえるように置かれている。だが軽さの下で、何か固いものが欠ける音がした。レン自身には聞こえていない音だった。
夕方。前庭の白い円の周りに皆が立つ。円の中には印が四つ。ツムギと御影、乱暴者の前衛、矢の子の弓。その他は周囲で待機し、合図で順番に輪に入る。合図係はレンだ。白い石灰の粉が靴に付く。粉に湿り気はないのに、足裏が冷たくなる。
「第一段」
レンが手を挙げた。ツムギが目を閉じて、指のひらを空に向ける。空気が薄く沈み、無色の光が見えない膜になって足元へ広がった。御影の支援が前に置かれ、前衛の踏み切りが膜に乗る。乗った瞬間、輪は確かに軽く回った。軽く回るものは、油断を呼ぶ。
「第二段」
待機組から二人が輪に加わる。支援の線が増え、ツムギの基礎層が広がる。御影の手首の動きが速くなり、視線が細かく跳ねる。跳ねる視線の先で、遅延の並びが崩れかけ、すぐ戻った。戻ったことを、誰も褒めない。戻ったという事実は、次の崩れを呼ぶ。
「第三段」
輪は広くなり、合図のタイミングは短くなる。短い合図に、体は間に合う。間に合っているのに、何かが遅れる。遅れたものだけが、重くなる。重くなった負荷が、御影の肩に乗った。肩の筋肉が固まり、目の焦点が遠くにずれる。支援は前に出ている。前に出ている支援は、倒れやすい。
「第四段。維持」
レンが告げた瞬間、ツムギの膝が少し落ちた。落ちた膝を支えるために御影がさらに前へ出る。前に出ると負荷が増える。増えた負荷は、基礎層へ流れる。ツムギの指先の震えが細かくなり、呼び名のない色が頬から引いていく。無色の層が広いほど、中心は薄くなる。
レンの視界に、見慣れた「ノイズ」が出た。輪の縁、ツムギの足元、石灰の線の上。黒い点の群れが、設計線の上を泳ぐように動く。合宿所の前庭に世界式の指が降りてきて、彼らの輪の強度を測っている。測られている、という言葉を置いた瞬間、ノイズは濃くなった。濃くなるということは、あちらが近いということだ。近いと、早い。
「維持」
レンは繰り返した。繰り返すことで、輪の閉じ方が安定する。安定は、割れにくさの仮の姿だ。仮は長く持たない。ツムギの膝がもう一度落ち、今度は戻る気配が薄かった。御影の肩に乗っていた重さが一気に跳ね上がり、彼の口から短い音が漏れた。漏れた音には名前がない。名前がない音のほうが、ずっと本物に近い。
「中止」
レンが口を開くより早く、輪の内側で光が崩れた。合成の線がばらけ、遅延がズレ、支援の滑りが止まる。止まったところに、全員分の重さがいっぺんに落ちた。落ちた重さの下で、ツムギの目の焦点が消えた。彼女はあっけなく倒れ、膝が石灰の線を擦って白くなった。
時間の流れが細くなった。誰もが声を上げた気がするのに、音が出ない。合図係のレンの声は、遅れて出た。遅い声は、間に合わない。
「解け! 輪を解け!」
遅い命令を、皆はすぐに聞いた。輪は解け、支援の線は外され、前衛は武器を下げた。御影は走ってツムギの肩に手を回し、地面から持ち上げる。体重は軽いのに、持ち上がらない。持ち上がらないときの軽さは、怖い。
レンが駆け寄ると、御影の視線がぶつかった。ぶつかるというより、刺さった。刺さる目は、言葉の前に手を動かす。御影はレンの胸ぐらを掴んだ。掴んだ手は、いつもより冷たかった。
「お前の設計は、誰のためだ!」
言葉は大きくなく、閉じた空間に置くための音量だった。置かれた言葉が足元の石灰の粉を震わせる。粉は細かく跳ね、すぐに止まった。止まった粉の一つひとつに細い配線が走っている――そんな気がして、レンは目をそらしたくなった。
「……」
何も言わなかった。言葉が遅いときは、頭を下げたほうが早い。レンは、御影の手が胸を掴んでいるのをそのままにして、小さく頭を下げた。下げる行為は、謝罪ではない。作業の前の姿勢だ。粉が襟に落ちる。襟が白くなる。襟だけが揺れた。
皆がツムギを運んでいく。合宿所の玄関に入ると、消毒液のにおいが強くなる。においの強さは時間の近さだ。誰かが走り、誰かが水を取り、誰かは祈るような目をして立つだけだ。立っている者の靴に、白い粉がまだ付いている。
レンは前庭にひとり残った。石灰の輪の中に座り、黒板を引き寄せた。膝の上でノートを開く。ノイズが浮かぶ。浮かぶノイズは、怒っているように見えた。見えたから、あえて視線を外さない。外さないままで、線を引く。引いた線が震える。震えの上から、別の線を重ねる。
「負荷を、分けろ」
声に出した。御影に向けたのではない。自分の手に向けた。手は、従った。黒板に白い四角を描く。その四角の中に、輪の中の人間の名前を置く。ツムギ、御影、前衛、弓、詠唱者、癒し手、その他。名前ではなく、役目の線を引く。線の太さを変え、繋ぎ目に小さな箱を挟む。箱は、譲渡器。持てない重さを隣へ渡す小さな部品。渡された側がさらに隣へ送る仕組みを、輪の外にまで広げる。外側には、待機の者の名を置く。輪の外から中に、重さを吸う細い管を通す。管には逆止弁を付ける。返らない重さは危ないから。
御影の支援の前に、緩衝の布を一枚挟む。布は見えない。見えないが、布の繊維の目を想像しないと、機能しない。繊維の目は細かすぎると詰まり、粗すぎると抜ける。抜けるにも種類がある。良い抜け方を、言葉にする。細い縦糸、少し太い横糸。横糸の間に、譲渡器を挟む。挟んだ場所を御影に見せるイメージだけ、はっきりと置く。
「譲渡の、設計」
書く手の裏で、山の影が伸びてきた。陽が傾くと、石灰の輪が色を変える。色が変わると、線の意味が変わる気がする。気がしただけだ。粉は粉だ。粉の粒に、細い配線を走らせるのは人間の頭の癖だ。癖を使う。癖で、救う。
黒板の前で時間が長く伸びた。伸びた時間の端に、玄関の戸の音が落ちる。御影が出てきた。顔はひどい。嗚咽で赤く、涙の跡が乾ききっていない。乾く前に、彼は前庭へ戻ってきた。戻るべき場所を、体が覚えていた。
「ツムギは?」
「寝た。水の音に反応して目を動かした。大丈夫、と言わない。大丈夫じゃない、も言わない」
御影は黒板を見て、短く息を吐いた。吐く音は荒くない。抑えた音には、力がある。
「新式を、今?」
「今」
「間に合う?」
「間に合わせるために、間に合う設計を作る」
「言葉が嫌いだ」
「僕も嫌いだ」
二人で、少し笑った。笑いの隙間に、山の影が一段深くなった。影は深いほど、音が近くなる。近くなった音のひとつは、合宿所の古い給湯器の鳴き。もうひとつは、どこからか分からない水の逆落ちの音。透明な筒はこの山にはない。ないのに、音だけがついてくる。
「譲渡器、仕組みは?」
「持てない重さを、隣に渡す。渡された側は、少しだけ吸って、また隣へ送る。最後に外側の待機者に逃がす。支援の前で緩衝の布を挟む。布の目は御影の手の大きさに合わせる。御影の手は小さいから、目は細かいけど詰まらない程度に」
「俺の手は小さくない」
「小さい」
「そうだな」
御影は両手を開いた。掌に粉がうっすら付く。付いた粉の粒に、光の線が走る気がして、彼は目を細めた。目を細めるのは、嫌なものを遠ざけるためではない。見たいものの輪郭を、濃くするためだ。
「やる。背負う場所があるなら、背負う。俺が前で、布を受ける。何が流れてくるか、分かるようにしてくれ」
「分かるようにする。重さは数字じゃない。方向と形だ。あとは、匂い」
「匂い?」
「重さに匂いがある。嘘じゃない。前に立つ人間だけが嗅げるやつだ。御影なら、嗅げる」
御影は頷いた。頷きは遅く、深い。深い頷きのとき、人は自分を使う覚悟を思い出す。
「ツムギが起きたら、止められる。起きる前にやろう」
「止められたら、止める」
「止められても、次の設計に繋げる」
「それでいい」
二人はもう一度輪に立った。輪は先ほどより小さい。小さい輪は、壊れにくい。壊れにくいものに、新しい壊れ方が宿る。宿る前に、名前を付ける。
「譲渡式、起動」
レンが言い、御影が前に出る。ツムギの不在の空白に、御影が片足を入れた。片足だけ。代わりきらない代わり方。代わりきらないほうが、割れない。
レンの指が空に見えない布を張る。布の目の間に、小さな箱が並ぶ。箱の内側に薄い窓。窓を通ると、重さが少し丸くなる。丸くなった重さが、御影の前に流れた。御影は両手を広げ、目に見えない塊を受ける。受けた瞬間、吐き気が来た。鼻の奥に金属のにおい。金具が擦れるにおい。嗅いだことがある。いやな記憶を呼ぶ種類のにおいだ。
「来た」
御影の声が低く落ちる。落ちる声は、倒れる前に出るやつだ。倒れない。倒れたら、意味がない。彼は足を少しだけ開き、背中を丸めず、重さの方向だけを見た。重さは右から左へ。上から下へ。下から、また上へ。方向を読み、譲渡器へ送る。送った分だけ、腹が冷える。冷えが続く。続く冷えに、体は弱い。
「もう、二段増やす」
レンの声が薄く届く。届いた言葉の中身を確かめる暇はない。御影は吐いた。吐いて、笑った。笑いは、ひどい。
「これが、俺の役目だ」
言った瞬間、譲渡器の窓が一枚開いた。開いた窓から、外の待機者へ重さが抜ける。抜けたぶん、御影の肩が一瞬軽くなる。軽くなったところに別の重さがすぐ入ってくる。入ってくる前に、彼はまた吐いた。吐き方を選ばない吐き方。選ばないほうが、正確だ。
輪は回った。回り方は悪くない。悪くないのに、良くはない。良くないままで、維持に入った。維持に入ると、ノイズが薄くなる。薄くなったノイズの向こうで、誰かがこちらを見ている。顔はない。襟だけが揺れる。
「止める!」
レンが合図し、譲渡器の窓が閉じ、布が畳まれ、輪が解けた。御影はその場に膝をついた。膝に触れた石灰の粉が白くつき、白の輪郭が少し崩れた。崩れた輪の欠け目から、冷たい風が上がる。風は匂いがない。匂いがない風のほうが、よく覚える。
御影はもう一度吐き、笑った。笑いはさっきよりましだった。
「できる。これで、できる」
レンは頷いた。頷く代わりに、黒板に文字を書いた。譲渡、緩衝、布、窓、外側、待機。書いた字が細く震えて、すぐ止まる。止まった文字は、長持ちする。
ツムギが玄関に立っていた。いつから見ていたのか、わからない。顔は青くない。青いのは包帯の端だけだ。彼女はゆっくり歩いてきて、御影の前にしゃがんだ。しゃがみ方が静かだった。
「怒っていいのは、御影だけ」
ツムギの声はまっすぐだった。御影は首を振って、また笑った。笑いに涙が混じる。涙はすぐ乾く。乾く前に、ツムギはレンを見た。見られた側の胸に、粉が一粒落ちた。落ちた粉に、細い配線が走る。
「ねえ、レン」
「うん」
「私の基礎層は、今までのままでいいの?」
「よくない。広げ方を変える。中心を薄くしすぎない。譲渡の窓は、最初に君のそばに一枚置く。逃げ道を作る」
「逃げ道」
「設計の礼儀」
ツムギは笑った。笑いは短く、丈夫だった。
「じゃあ、次は、私も立つ」
「寝てろ」
御影が言った。彼は立ち上がり、足元の粉を払った。払った粉は落ちない。靴裏に残って、彼の歩き方に重さを足す。重さが足された歩き方は、今日の記録になる。
合宿所の二日目、三日目。譲渡式は改良を重ね、輪の人数は増え、御影の吐く回数は減った。減ったが、ゼロにはならない。ゼロにしない。ゼロを目指すと、どこかが割れる。割れない範囲で、勝つ。
夜。山は音を減らし、星の色が強くなる。強い星は、怖い。怖いものほど近い。近いと言ってはいけない種類の近さだ。合宿所の屋根の上で、レンは黒板の小さな破片を指で弄んだ。粉が落ちる。落ちた粉が、屋根の板の隙間に入る。隙間の下には、天井。天井の裏には梁。梁の先に、古い配線。配線のどこかで、誰かが測っている。そう思うと、笑えなくなる。
笑わないまま、レンは屋根から下りた。廊下は暗い。暗い廊下で、誰かが立っていた。襟だけが揺れる。顔は見えない。近づくと、相手は一歩退いた。退くときの靴の音は軽く、床に重さを残さない。
「誰」
レンが言うと、影は消えた。消えたのに、金具のにおいだけが残った。においは、時間を運ぶ。運ばれた時間の端で、レンは思い出す。管理棟の地下。透明な筒。世界式のノイズ。安定化。逸脱。譲渡。
設計は、冷たくて優しい。冷たいから、間違える。優しいから、間違えたまま歩くことができる。間違えた足跡に粉が付く。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――走っている。そう思えるあいだは、まだ間に合う。間に合わせるための設計を作れる。
翌朝、山は明るかった。白い円は薄く崩れ、昨日の足跡が消えかけている。消えかけた場所に、新しい線を重ねる。重ねる前に、レンは皆を見た。ツムギの顔色は戻っていないが、目は真っすぐ。御影は吐き気止めの袋をポケットにしまったまま、笑っている。前衛は足に包帯を巻き、弓は弦を張り替え、詠唱者は声を温めている。乱暴者は黙って輪の外を歩き、癒し手は水の温度を確かめる。
「行こう」
レンは言った。言葉は短い。短い言葉でしか、輪は回らない。回るとき、粉はまた落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走る。配線の先に、まだ空白がある。空白は怖い。怖い空白に、名前を付ける。今日の名前は、譲渡。次の名前は、まだ書かない。書かない余白の上で、輪は静かに回り始めた。
第十三話 ゼミ抗争
午前の掲示板は紙の層が厚く、角が重く垂れていた。上から新しい告知の針が打ち込まれ、古い紙の端が砂糖菓子のようにほろほろ剥がれ落ちる。白い欠片は床に散り、靴底に付き、廊下の端に連れていかれる。連れていかれた欠片の上を、視線だけが何度も踏む。
公開討論会。学内最強の教授ゼミ、名を挙げれば誰もが一度は頭を垂れたあの研究室が主催。テーマは「才能は先天か設計か」。場所は大講義棟、午後。招待枠に、零席の名があった。名簿の紙に、黒いインクで薄く囲い。囲いの四隅が、誰かの爪で小さく潰れている。
噂は早かった。廊下に漂う空気は甘くなく、鉄分を帯びている。旗の金具は鳴らないのに、擦れた匂いだけが残っていた。匂いは記憶を集める。集められた記憶の薄い束が、掲示の前でほどけそうになる。
「やるの」
ツムギが告知の紙を見上げた。彼女の瞳には紙の行間が映り、映った文字の縁が少し滲む。彼女は首を少し傾げた。細い仕草は、たいてい誰かの緊張をほどくが、今日はほどけない。
「やるよ」
レンは答えた。御影ユウトは紙を上から下まで二度読み、ふっと笑って肩を回す。
「“公開”がついてる。あのゼミ、勝ち筋だと思ってるな。先天の旗を振れば、客は拍手する」
「振られた旗の襟だけが揺れる」
レンは掲示から離れ、零席の教室へ戻った。黒板には薄い線が残っている。昨日の譲渡式の図の名残。粉の匂いは甘くなく、乾いた土に近い。粉はどこにでも付く。付いた粉を払いながら、彼は小さな白の四角を描いた。
「議論の準備はする。でも今日は“実演”を中心に置く。言葉は好きに切り貼りできる。動きは嘘をつかない」
「実演って、あのふたりで」
御影がツムギを見た。ツムギは小さく頷く。頷くたびに髪に白い粉が降り、光の粒が一瞬だけ浮かんだ。
「最小構成。基礎層一、支援一。合成なし、増幅最小、遅延は必要最低限。二人だけで最大出力を出す」
「最大って、どこまで」
「全体の張力を歪めない範囲、ぎりぎりまで」
彼はチョークの先を折り、粉を指に押しつけながら言った。押しつけられた粉は、皮膚の油に薄く貼りつく。貼りついた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている気がする。気がするだけでも、設計は進む。
◇
午後。大講義棟は縦に広く、声がよく伸びた。伸びすぎた声は意味を薄め、言葉の形だけが天井で跳ねる。跳ね返って落ちてくる拍手は重く、床の木を鈍く鳴らした。
壇上には教授陣の長い机。中央に座るのが学内最強と謳われる白髪の教授で、目は細いのに、こちらをよく見ていた。左右に助手と院生。紙が積み上げられ、グラフの束が前に寝かされている。零席の席は斜め前の短い机、三人分。レン、ツムギ、御影。座る前から、後列の学生の視線が刺さる。面白がりと敵意は色合いが似ている。似ているものの区別は、遅れてやってくる。
「始めましょうか」
白髪の教授が軽く頷き、指先でマイクを整えた。整えられた音は透明で、耳の裏で薄く凍る。
「問いは単純です。才能は与えられるものか、作るものか。私は前者だと考える。与えられたものの管理と最適化、環境の微調整。教育者の務めはそこで尽きる。作る、などと言う者は、たいてい若いか、若く見せたがる。あるいは、危ない」
客席に笑いが走る。軽い笑い。笑った者の指先だけが白くなった。白くなった指の節の皮に粉が付いたように見える。それは錯覚だ。錯覚が多いほうが、議場はよく温まる。
教授は数枚の資料を示した。折れ線。散布図。相関の影。遺伝的指標、幼児期の測定、青年期の伸び。伸びの限界値。限界値を越えようとして怪我をしたスポーツ選手の例。数字は冷静で、冷静なものはたいてい強い。
「君たち零席は、設計を口にする。配線の再定義だとか、基礎層の調整だとか。しかし、それは本当に“作る”行為か。もともとあった性能を引き出しているに過ぎない。袋の口を閉じていた紐をほどいただけだ。紐がなければ、袋は開かなかったはずだ。その袋を誰かに与えられた、という事実を、設計はどこまで埋められるのか」
教授の指が机を軽く叩く。叩く音は短く、よく通る。通った音の先で、神垣が静かに腕を組んだ。彼は観客席の後方、陰になる位置に立っている。立っているのに、影が薄くならない。襟だけが揺れる。
「君はどう答える。零席の設計屋くん」
レンは立った。マイクには触れない。触れないほうが、音が透ける。
「答えは単純です。設計は“可塑性”の操作で、可塑性は後天的に増やせる。袋を与えられたかどうかではなく、袋の布目を変え、口の縫い目を増やし、重さの逃がし方を設計する。与えられた布はそのまま。でも袋の“仕事”を変える」
教授が薄く笑った。笑いが上手い。上手い笑いは、よく滑る。
「言葉はきれいだが、検証が必要だ」
「だから、実演をご用意しました」
レンは机の上に小さなプレートを置いた。簡易回路板。ツムギの手に馴染むよう、角を落とし、薄い溝を二本通してある。御影は隣で椅子から立ち、前に出る。客席のざわめきが増え、空気が硬くなる。硬くなると、音は細く刺さる。
「最小構成で最大出力。二人だけ。基礎層と支援。合成なし、増幅最小、遅延は必要最低限。今日は“見せるための設計”じゃない。“生きるための設計”であることを見せる」
ツムギはプレートを受け取り、指に挟む。彼女の掌はまだ少し冷たい。冷たい掌の上で、回路の溝が光を飲み込む。飲み込んだ光は色を持たない。無色の層がひろがり、床の木の縁に淡い影を置いた。
「御影、前へ。君は舞台監督。線路は短い。滑らせすぎるな」
御影は頷き、手を前に差し出す。差し出した指の節の皮に粉はない。ないのに、あるように見える。目の錯覚だけで、支援は成立する時がある。
指示は短い。短いのに、輪郭ははっきりしている。レンは壇上の端に立ち、白いチョークで空に見えない四角を描いた。四角の角に、小さな窓。窓の向こうに、逃げ道。
「起動」
声は小さく、しかし全員の耳に届く位置に置かれた。置かれた声の上で、ツムギの無色が開く。開いた層に、御影の線が前に滑る。滑りは狭い。狭いから、倒れない。狭い上で、御影は重さを抱えて右へ送る。送る前に少し噛み、噛んだ分だけ柔らかくする。柔らかくなった重さが、ツムギの基礎層の上で丸く回った。丸く回るものは、見栄えがしない。見栄えがしないぶん、壊れにくい。
教授陣の机の上で紙がめくられる。助手の小さな囁きが続く。グラフの線は揺れない。揺れない線の先で、白髪の教授が顎を撫でた。
「出力」
レンが短く言った。ツムギがプレートの溝の端を軽く弾く。弾いた音は聞こえない。聞こえない音の代わりに、空気がいちどだけ薄く沈んだ。沈んだ空間から、光が一本、無色のまま前へ走った。走った先で、御影の指がそれを受け、さらに前へ押し出す。押し出された無色は、壁に当たる直前で角度を変え、梯子のように段を作りながら高く伸びる。段の間隔は均一。均一な段は、だれの足も選ばない。
講堂の空気が一瞬静まり、その静けさを破るように、後列から低い息が漏れた。息の音はすぐ消え、代わりに紙の擦れる音が重なる。擦れた音は、緊張の軽い衣擦れに似ている。
「最大域まで、あと三目盛」
御影が囁く。ツムギは頷き、無色の層を薄く重ね直した。重ね直しは早く、雑ではない。雑に見える早さほど、よく設計されている。御影の肩に重さが乗る。乗った瞬間、彼は笑った。笑うことで、重さは少しだけ軽くなる。笑いは、訓練の一部だ。
「もう一段」
レンが言った瞬間、講堂の床の下でわずかな振動があった。透明な液面が逆さに落ちるような気配。音は誰にも聞こえないはずなのに、数人が同時に首筋を押さえた。押さえた手の指に粉はない。粉がない手は、汚れを知らないふりが上手い。
無色の段がさらに伸びる。段の上面に薄い光が走り、最後の先端で静かに消えた。消えた場所で、空気の張力がほんの少し変わる。変わったことに気づく者は少ない。気づかない者の拍手は早い。早い拍手の中で、教授陣の机の前のランプが僅かに明滅した。明滅は規定外の合図だ。規定外は、おおむね危ない。
「これが、“最小構成で最大出力”。袋は与えられたまま。布目を変え、口の縫い目を増やし、重さの逃がし方を設計しました。可塑性は、増やせる」
レンは言った。客席の一部が笑い、別の一部が黙った。黙った人の目は、紙ではなく二人の足元の段差を見ていた。見えない段差。見えないものほど、正確に働く。
白髪の教授はマイクに手を添え、ゆっくり首を傾げた。
「見事だ。だが、それは特例ではないか。このふたりが特別に相性が良いだけではないか。相性の妙を、設計と呼び替えているのではないか」
「相性を扱うことも、設計です。偶然の噛み合わせを再現可能な形で固定する。今日は“固定”の手順も公開します」
レンは黒板を運ばせ、壇上に立てた。粉の匂いが急に濃くなる。濃い匂いは、怖さを薄める。薄まった怖さの下に、別の怖さが沈殿する。
「見てのとおり、構成要素は五つ。基礎層、支援線路、緩衝布、遅延の軽い糸、逃がし窓。どれも簡単で、誰でも作れる。作る順番だけが難しい。順番は計測で決める。今日ここで計測します」
「測る、とな」
教授が目を細めた。眼鏡のレンズが光をはね、客席の顔のいくつかを白くした。
「計測は、危うい“調律”に近い。若者はそれを面白がり、やがて壊す」
壊す、という語が出た瞬間、講堂の後方で旗が鳴った。鳴るはずのない場所で、金具が擦れた。音は短く、空気の隅に薄い傷を残す。残った傷の上を、神垣の視線が通る。視線は冷たい。冷たい視線は、数字の匂いがする。
「壊しません。壊れているものを、少しだけ持ちこたえさせる。設計はそのためにある」
レンは順番に、校内から借りた計測器を並べた。古い型で、数字が遅い。遅い数字の上に、別の数字を重ねる。重ねることはよくないが、今日は許す。教授陣も頷き、助手が前に出て紙を渡す。紙の端に赤い丸。丸の中は空白。空白はよく働く。
実演の二段目で、教授陣の顔色がわずかに変わった。御影の前に置かれた緩衝布の目が、計算上の最適値と数%ずれたのだ。ずれた値のまま、出力は安定している。安定していることのほうが、気味が悪い。
「何をした」
白髪の教授が低く問う。レンはチョークを置いた。
「設計の“許容”を、広げました。可塑性に可塑性を重ねる。目の粗さのばらつきを、譲渡器で吸いながら走らせる」
「理屈の上で、説明になっていない」
「理屈より先に動いているので」
教授は笑わなかった。笑わない顔は、たいてい本音に近い。近い顔に、客席のいくつかが引いた。引いた気配は、廊下の影にたまる。
教授陣の端に座る若い講師が、手を挙げた。出自が違うゼミの男だ。額に薄い汗を浮かべている。
「君らの言う設計は、方法論として興味深い。しかし“誰にでも”は無理だろう。誰にでも、という言葉は教育の現場で刃になる」
「刃になるから、鞘を作る。鞘ごと設計する」
レンは机から紙を取り、そこに簡易の“手順”を書いた。二行おきに薄い空白。空白の脇に小さな丸。丸の中に、小さく逃げ道と書く。丸は数えられる。数えられるものは、安心する。
「今日見せたのは二人のための設計です。三人四人五人と増やすには、譲渡の流路を広げ、逃げ道を増やす。逃げ道が増えれば、無能と呼ばれてきた動線にも仕事が出る。誰にでも、は嘘です。誰にも、ではなくなる。それだけで十分です」
静かな拍手が起きた。静かな拍手は長い。長い間、壇上と客席を細い橋で繋ぐ。橋の下を風が抜ける。風は匂いがない。ないもののほうが、よく覚える。
教授は紙を重ねて脇に寄せ、背もたれに軽く触れた。椅子は軋まない。軋まない椅子は高い。彼はゆっくりとマイクを外し、机の上に置いた。
「私の負けだ、とは言わない。理論としては欠落が多く、危うく、危険だ。それでも、現象はたしかに“ある”。ここで否定すれば、教育者の罪になる。……ただし、指導の枠組みの外で続けるなら、話は別だ」
教授の視線が、神垣へ向いた。神垣は動かない。動かないまま、目だけが薄く笑ったように見えた。笑いは氷に似ている。似ているだけで、同じではない。
「設計工学は、危うい。学内で扱うには、枠が要る。枠の外へ出る者は、切られる」
切る、という語に、講堂の床が浅く鳴った。誰も足を動かしていない。鳴ったのは、床の下だ。透明な何かの揺れが、古い木の梁に触れた。触れた場所が冷えた。
レンは静かに頷いた。頷きは礼ではない。確認だ。彼はマイクを取らず、客席に向けて頭を下げた。下げる角度は浅い。浅い礼は、長持ちする。
「以上で、零席の実演を終わります」
拍手はさっきより硬く、早かった。硬い拍手は、議場を早く終わらせる。終わることを誰もが望むとき、外で別の扉が開く。
◇
討論会が終わって人が流れ出し、講義棟の外の石段に影が長く伸びた。レンたちは一枚の影の縁を踏み、建物の裏手の通路を通る。裏手は冷え、金具の匂いが強い。風は弱いのに、襟だけが揺れる気配がある。顔はない。
「勝った、でいいの?」
ツムギが小さく聞いた。御影は肩で笑い、喉に残った緊張を咳で切った。
「論破って言葉は好きじゃないけど、あれは勝ちでいい」
「勝ちは、明日まで続かない」
レンは答えた。答えながら、壁の向こうの地下を思った。透明な筒。線束。棚。古い紙。ノイズ。安定化。逸脱。譲渡。扉。鍵のない扉は、押すだけで小さく開く。開く必要がないのに、開く。
その時、学内放送のスピーカーが一瞬だけ明るく鳴り、すぐ沈んだ。誰かがマイクを触って離した時の音。音は短い。短い音の後で、地面の下から低い唸りが来た。低いのに、はっきりとした起動音。空気の層が一枚めくられ、階段の隙間に冷たい気配が立つ。
《方舟》が、起動した。
レンの視界の端に、薄い文字が浮いた。浮いたのは現実ではない。紙でもない。頭の奥の、図と図の隙間。そこに、細いタグが貼られるようにして現れた。
逸脱候補。
言葉は短く、重い。重さは数字ではなく、方向と形で押し寄せる。押し寄せるものが胸の裏に触れ、冷たさを置いていく。冷たいのに、熱のにおいがする。金具のにおい。黒板の粉のにおい。消毒液のにおい。混じったにおいが、名前を奪う。
「いま、音したよな」
御影が立ち止まり、石段を振り返る。人影が上を通り過ぎる。襟だけが揺れる。顔はない。
「地下が動いた」
レンは言った。言葉の端に粉がひっかかり、指先が白くなる。白くなった指で、彼はポケットのノートを開いた。開いたページに、細い字で書く。
方舟 端末 起動 逸脱候補タグ 付与
書きながら、胸の内側で小さな笑いがひび割れた。笑いは上手くない。上手くない笑いは、正直だ。
「レン」
呼ぶ声は小さかった。ツムギだ。彼女は階段の影の中で立ち止まり、指先で袖の端をつまんだ。つまみ方が細い。細い指に、粉がうっすら付いている。粉は落ちない。落とさない。落とすと、線が消える。
「怖いの、嫌いじゃないけど、嫌い」
「僕も」
御影が苦笑いし、空を仰ぐ。空は曇っていないのに、灰色だった。灰色の空は、音の色を吸う。
「対策は?」
「設計する」
レンは答えた。即答は逃げではない。顔を上げるための支えだ。支えは細い。細い支えに、今は乗る。乗ったあとで太くする。
神垣が廊下の端に現れた。現れて、立ち止まる。立ち止まって、笑わない。笑わないのに、周囲の空気が少しだけ乾く。乾いた空気は、紙を波打たせる。
「よくやったね」
褒め言葉は薄い。薄い褒め言葉は長持ちしない。長持ちしないから、よく使われる。
「だが、ルールは変わる。規約は読み物だが、読む者を選ぶ。選ばれない者が読めば、切られる」
御影の肩がわずかに動いた。動いた肩の上で、彼は笑った。笑いは苦い。苦い笑いは、支えになる。
「選ばれに行くよ。切られに行くわけじゃない」
「君の“設計”は、誰のためだ」
昼間の怒鳴り声が戻ってきた。御影の掌の温度。ツムギの膝の白い粉。譲渡器の窓。逃げ道。レンは目を閉じ、すぐ開けた。
「誰かの役に立つ“仕事”のため」
神垣は短く笑った。笑いは氷ではなく、薄い紙の裂け目だった。裂け目は細い。細い裂け目から、黒いものが一瞬だけ覗き、すぐ消える。
「なら、続けなさい。続けていてもらわないと、切れない」
そう言って、彼は踵を返した。返した襟だけが揺れた。揺れた襟の振幅が、階段の段差と同じだった。同じものは、違うものより怖い。
◇
夕方。零席の教室に戻ると、黒板に白い線が一本だけ増えていた。誰かが引いたのだろう。端が少し太い。太い線は、目に痛い。痛みは覚える。
レンはチョークを取り、線の端に小さな丸を付けた。丸の中に、逃。字は短い。短い字は、よく効く。ツムギは椅子に腰を下ろし、御影は机の角に座り、三人でその丸を見た。
「逸脱候補」
御影が呟く。呟きは石の上で転がり、角が取れた。
「候補でいるうちに、やることをやる」
レンは言い、その下にもうひとつ丸を描いた。丸の中に、鞘。丸がふたつ。丸のあいだに細い線。線の途中に四角。四角の中に、小さな窓。窓の向こうに、紙。紙の上に、粉。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――確かに走っていた。
外で旗が鳴った。鳴っていないのに、鳴った気がした。気がしただけで、指先が白くなる。白くなった指で、レンは黒板の下の溝に手を掛けた。粉が落ちる。落ちた粉が床の木目に沿って流れ、誰かの足あとに重なる。重なった場所が、明日の初めの一歩になる。
討論会は終わった。終わりは、はじまりの裏側に綴じられている。綴じ目は弱く、よく裂ける。裂けたところから黒い音が出る。黒い音は、顔を持たない。持たない音は、襟だけを揺らす。揺れる襟を見ないようにして、レンは丸と四角の間の線をもう一本、増やした。増やした線は余白に続き、余白は静かに、暗く、広かった。
第十四話 勇者候補vs零席(再)
再戦は、朝いちばんの鐘で告げられた。まだ校庭の砂が夜の湿りを持っていて、白線の粉が靴裏にうっすら貼りつく。貼りついた粉は一歩ごとに形を変え、廊下の影まで連れていく。影の端で、金具のにおいだけが細く残った。
掲示板の紙は新しく、角が硬い。対戦カードの行に、勇者候補と零席の名が並ぶ。今回は、混合でも実験でもない。正規の一戦。表の線から外された名前が、今度は表の中央に置かれている。表に置かれたものは、よく見られる。よく見られる場所ほど、音が変わりやすい。
ツムギは消しを胸に抱いたまま、掲示を見上げた。御影ユウトは隣で肩を回し、背中のあたりに残っている鈍い冷えを、手のひらで軽く押した。押すと、少しだけ楽になる。楽になった分だけ、怖さの輪郭がはっきりする。輪郭が立つと、よく動ける。
「セラは、残るらしい」
御影が言った。掲示の下、細く書き足された注の文字。勇者候補の名簿は従来通り。ただ一行だけ、氷術者の術式について注記がある。本人の裁量による再構成を許容。短い文の余白が、やけに冷えた。
「残って、捨てない」
レンは頷いた。頷く角度が浅い。浅い角度は、余白を残す。余白は設計に向く。黒板の前に立ち、彼は短く説明をした。今朝の指示はとても少ない。少ないほうが怖い。怖いくらい少ないのが、今日はちょうどいい。
「今日は“主語”を奪う」
チョークが小さく鳴り、黒板に細い線が一本だけ引かれた。線は、どこにも繋げずに止まる。止まる線は、怖い。怖いから、誰かが繋げにくる。繋げに来た手を、捕まえる。
「主語?」
御影が眉を上げる。ツムギが黒板の前に寄り、線の始点を指で押さえた。押さえた粉が指先に移る。白い。
「戦場の主語は、ふつう、隊の名前か、司令塔の声か、旗。どっちの文も“俺たち”で始まる。だから、噛み合う。今日はそれを、どっちでもない“線”にする。誰のでもない主語。支援線と緩衝の布と遅延の糸。それ自体に主語を渡す」
「言い換えれば、敵の線も混ぜる」
「そう。混ぜるけど、壊さない。壊した瞬間、安定化が歯を出す」
ツムギは小さく息を呑み、御影は笑って肩をすくめた。笑いは短い。短い笑いを、木の床がすぐ飲み込む。
「“線が主語”。やる。前に出す支援は、言葉より先に走る」
◇
大講堂の隣、競技場の観客席は朝の冷えをまだ残していた。旗は鳴らないのに、金具だけがどこかで擦れて、匂いだけ強い。匂いの強さは、近いという意味だ。近いのに、見えない。
第一視点席の向こうで、勇者候補の輪が整う。新城カイは前へ出て、肩幅より半歩狭い姿勢で立つ。剣の角度が、いつもよりむしろ控えめだ。控えめというのは、傲慢の表現のひとつだ。傲慢な控えめは、よく刺さる。彼の隣にセラが立つ。氷の式は新式。角が立ちすぎず、遷移層の段差が消えている。彼女は視線だけで隊列を押さえ、カイは前方を見据える。二人の間の細いひびは、今のところ音を立てない。
審判の旗が上がる。白線が眩しく、砂が冷たい。零席は輪を小さく、薄く開いた。小さい輪は壊れにくい。壊れにくいものには、新しい壊れ方が宿る。宿る前に、名前を付ける。名は主語。
「開始」
短い合図が空に置かれ、最初の踏み込みが砂を裂いた。勇者候補の突撃線は美しかった。規律の美。前衛の踵が沈まず、刃の腹がぶれない。ぶれない腹は、音を返さない。音がない美しさは、観客の目だけを満たす。満たされた目は、見落とす。
御影が一歩前に出る。出た足の前に、ツムギが薄い布を敷いた。布は無色だ。無色の布は、言葉の前に敷かれる。御影は指先で線を捕まえ、滑りの角度を上げすぎないように、ほんの少しだけ斜めに送る。送った線は、味方の足元に戻らず、敵の支援の根元にかすめる。かすめるだけで、噛み合わせの小さなヒンジが鳴る。鳴ったのは音ではなく、匂いだ。御影にはわかる。金具の匂いがほんの僅かに変わる。
支援同士がつくる見えない蝶番。その回転角の許容量。回復の膜が先に触るか、固定壁の縁が先に触るか。その順番のズレ。ズレは数値にすると笑われるほど小さい。笑えるうちは、安全だ。笑えなくなったとき、線が主語になる。
「合成、外へ」
レンの声は小さい。小さいのに、よく通る。ツムギの無色が外側へ伸び、相手の支援線の端を“基礎層”として吸う。吸うというより、預かる。預かった線は、名札を剥がされる。誰の支援でもない支援。主語を持たない線。その線だけが、戦場の中央に立つ。
カイの剣筋がわずかに遅れた。遅れは彼のせいではない。彼の足元にあるべき“支え”が、ごく短い間だけ所在を失ったのだ。所在を失った支えは、怖い。怖いから、剣は少しだけ手前で止まる。止まった刃に、セラの氷が触れない。触れない氷は、ただ空気を冷やす。冷えを御影が横へ送る。送った冷えが、誰のものでもない線の上で丸くなる。丸くなって、重さを失う。
観客席にざわめき。実況の言葉が遅れる。「支援が……いや、支援線そのものが……」。言葉が追いついたときには、もう主語は移っている。誰のでもない線が、両軍の足元を静かに串刺しにして、一瞬だけ全員を“同じ動作”にした。誰も気づかない。気づくのは、遅延の誤差に敏感な者だけだ。
「主語を、取った」
御影の囁き。ツムギは頷き、指先でプレートの溝を一つ弾いた。無色の層が薄く震え、逃げ道の窓が二枚開く。開いた窓から、勇者候補の回復の予備が出ていき、零席の外周に吸い込まれる。吸い込まれて、名札を剥がされる。名のない支援は、働きやすい。働きやすいものは、危ない。危ないものほど、よく働く。
カイが吠えた。
「俺のチームだ!」
声は太く、正しい。正しい声に、隊列の背骨が一瞬通る。通った背骨は強い。強さにすがろうとした瞬間、レンの声が被さった。小さくて、冷たい。
「勝つための設計を選べ」
選べ、というのは命令ではない。話しかける形だ。けれど、戦場で話しかける声は、たいてい刃だ。カイは顔を上げ、前へ踏む。踏み方は完璧。完璧な踏み方は、世界式にとってたいへんわかりやすい。わかりやすいものから、先に測られる。
レンの視界の端に、ノイズ。黒い点の群れが砂の上で泳ぎ、白線の縁に沿って薄く震える。ノイズが出る位置は、敵味方の支援線が交わる場所にきれいに重なっている。重なってしまうと、簡単だ。そこに布を敷けば、主語はさらに薄くなる。
「いま」
レンの合図に、ツムギの布がすっと伸びた。御影が前に送った線と、勇者候補の支援の端が、布の上で触れる。触れた瞬間、二つの線は互いの名札を落とす。名札を落とした線は、良い線だ。良い線は、揉めない。
セラは迷わなかった。彼女の新式の氷は、いまこの布の上でしか働かない。角を立てない滑りで、段差のない相転移。彼女は掌を返し、無色の層の上へ氷の浅い筋を置いた。筋は刃のためではない。足の置き場のため。置き場ができると、刃は黙って最短距離を選ぶ。味方も、敵も。
刃が交わり、音が消えた。消えた音の代わりに、観客席にざわめきが広がる。ざわめきは、主語にならない。主語は、砂の下に降りていった。
カイの前衛が踏み遅れ、零席の乱暴者が逆に早くなった。早くなった理由は誰にも説明できない。説明は不要だ。線はもう、言葉を必要としない。線が主語のとき、声は遅い。
「押すな、流せ」
御影が低く言い、ツムギの布がさらに薄くなる。薄くなった布の上で、勇者候補の固定壁が勝手に角度を変え、回復の膜が知らないうちに位置を譲る。譲った膜に、零席の詠唱の遅延が小さく噛む。噛んだタイミングに、矢の子の指が弦を離す。離す音は聞こえない。聞こえない矢は、よく刺さる。
歓声。実況が叫ぶ。「合成でも干渉でもない、“共有”? いや、“主語の奪取”だ!」。名前がついた瞬間、観客は安心する。安心すると、音が大きくなる。音が大きいと、世界式が寄る。寄る気配が、砂の上のノイズに濃く出る。
レンの背筋に冷たい気配。透明な筒の液面が、どこかで逆さに落ちたのだろう。落ちる音はここまで届かない。代わりに、胸の裏に薄い重み。逸脱候補のタグは、外れていない。外れないまま、彼は線を増やした。増やす場所は少ない。少ないから、正確だ。
「終盤、窓を閉める」
「了解」
御影の返事は短く、笑いが混じった。笑いを入れることで、布の目がほぐれる。ほぐれた目に、最後の重さが入り、逃げ道が閉じる。閉じる瞬間、主語はもう一度動く。動いた先は、零席。線は彼らの足元で名前を取り戻し、ツムギの無色が白に近づき、御影の指先が熱くなる。
カイは吠えた。吠えながら踏んだ。踏み方はやはり美しい。その美しさは、彼自身を支えてきたものだ。支えは尊い。尊いものは、刃の外側に置かれると、無力になる。彼の刃は無力ではなかった。ただ、届かない。届かないのに、音だけが残る。残った音に、セラの氷が触れた。触れただけで、音が消えた。
審判の旗が上がる。一本。二本。観客席の空気が揺れ、砂の表面の粉が立つ。立った粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走る――気がする。気がするだけのときに限って、世界のほうが先に頷く。
終わりの笛。零席の勝利。
◇
整列の列は、いつもより短く感じた。短い列の中で、言葉は少ない。少ない言葉は、濃い。濃い言葉は、よく切れる。
「ありがとう」
セラが頭を下げた。涙はこぼれていない。こぼれないようにしている目は、ひどくまっすぐだ。彼女は零席のほうを見たまま、礼を深くした。礼の角度は、美しい。美しい角度は、彼女の“正しい”の形そのものだ。
「捨てなかったね」
レンが言うと、セラはうなずいた。
「捨てたら、勝てても負けるところがあった」
「勝つための設計を選んだ」
「……うん」
後ろで、カイが立ち尽くしていた。剣は下げられ、視線は低い。低い視線は、よく見える。見えるものの数が増えすぎると、人は動けない。動けない人の襟だけが、ゆっくり揺れる。
「新城」
レンが呼ぶと、カイは顔を上げた。目に怒りはない。怒りがない顔は、よく壊れる。壊れる前に、言葉が先に出る。
「俺は……」
続きは風に削られ、消えた。消えたので、彼は別の言葉を選んだ。
「俺のチームだって、言った。あれは、間違いじゃない。でも、あれだけじゃ、足りなかった」
「主語は、動く」
「動く主語を追いかける時間が、今日の俺にはなかった」
彼は笑った。うまくない笑いだった。うまくない笑いは、正直だ。
「次は、追う」
「追いながら、選べ」
「ああ」
短いやりとりの間に、観客席の騒ぎは遠のいていく。遠のいた音の上に、いつもの匂いが戻る。粉、金具、消毒液。三つが混じると、決まって昔の記憶が揺れる。揺れた記憶の端で、レンは地下の起動音を思い出した。終わりではない。何かの始まりが、薄い紙の裏で音だけ鳴らしている。
御影が肩を叩いた。叩く手は温かい。温かい手に、粉が少し付く。付いた粉は落ちない。
「主語を線に渡す、ってやつ。気持ち悪いくらい、うまくいったな」
「気持ち悪いので、やりすぎない」
「わかってる。俺の胃袋が先に止める」
ツムギが笑った。笑いは短く、丈夫だ。丈夫な笑いの上で、彼女は小さく頷いた。
「線は、怖い。でも、優しい。優しいほうの怖さなら、まだ歩ける」
レンは頷き、黒板の粉を指ですりつぶした。つぶれきらない粒の感触が、指腹に残る。粒の中に、細い配線。配線の先に、誰のでもない主語。主語の先に、まだ名前のない扉。
◇
夕方、零席の教室。黒板には朝の一本線が残り、その先に小さく丸が増えていた。丸の中には、字がふたつ。主語、と逃。丸と丸の間をつなぐ細い線の途中に、四角がひとつ。四角の上に粉が積もり、角が柔らかくなる。柔らかい角は、突き刺さらない。突き刺さらないのに、効く。
「神垣、何か言ってくるかな」
御影が椅子にもたれたまま聞いた。窓の外で、旗は鳴らない。鳴らないのに、金具のにおいだけが濃い。濃いにおいは、近い。
「規約はまた変わるだろう」
レンはチョークを置き、ノートを開いた。頁の余白に薄いノイズ。今日の戦場で感じた“あちら”の手の届き方。支援線が主語になった瞬間だけ、ノイズが濃くなった。線を主語にする行為は、向こう側にとっても扱いやすいのかもしれない。扱いやすい、は危ない。危ないから、やりすぎない。
「逸脱候補のタグ、まだ付いてる?」
ツムギが問う。レンは短く笑った。
「たぶん」
「たぶん、が一番怖い」
「だから、設計する」
黒板の一本線の端に、彼は小さな窓を描いた。窓の先に細い布。布の上を、主語のない線が静かに渡る。渡るあいだだけ、誰も傷つかない。そんな設計が、もし許されるのなら。
「ありがとう」
ツムギの声が背中から落ちた。振り向くと、彼女は椅子の背に頬を預けていた。無色の瞳は眠気を含み、口元だけが真剣だ。
「今日、倒れなかったの、御影が支えてくれたからだよ。レンの設計が、逃げ道を先に置いたからだよ。だから、ありがとう」
御影は照れたふうに鼻を鳴らし、手近のゴミ箱から吐き気止めの袋を一本抜いてポケットに戻した。
「また背負う。俺の役目だ」
「背負いすぎたら、譲渡する。譲渡の窓は、最初にここに置く」
レンは黒板の四角の中に小さく点を打った。点の場所は、教室のこの机の上――三人がいつも座る位置の真ん中。点を囲む丸は小さく、よく効く。
夕方の風が窓の隙間から入り、黒板の粉が一粒だけ舞った。舞った粉は床に落ちず、どこか見えないところへ吸い込まれた気がした。吸い込まれた先に、透明な筒があるかどうか、確かめる手段はない。ないなら、書く。書くことで、怖さの形を薄くする。
線は主語になり、主語はまた動くだろう。動くたびに、誰かが揺れ、襟が揺れる。顔は、まだ見えない。それでいい。見えないあいだに、次の逃げ道を描く。逃げるためじゃない。折れないで勝つために。
粉が、指から落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――確かに走っていた。そう思えるうちは、まだ間に合う。間に合わせるための設計を、ここで続ける。零席の黒板の前で。旗の鳴らない午後のなかで。
第十五話 校外大会と初めての敗北
朝の校門には、出発のバスが並んでいた。塗装の白は少し黄ばんで、窓のゴム枠には細いひびが刻まれている。指でなぞれば消えるようなひびではなく、指が覚えるための線だった。荷物の金具が触れ合うたび、乾いた音がして、耳に薄い傷を残す。旗は鳴らないのに、金具のにおいだけが残った。
校外大会。連盟主催。学内の規約ではなく、外の規則で動く場所。紙の重さも、判定の速度も、笑い方も違う。違いが重なる場所は、よく音が変わる。変わった音の上で、名前が削れやすくなる。
零席はバスの後部に固まって座った。ツムギは窓側で、膝の上に小さな回路板のプレートを置いている。御影ユウトは反対側の席で、ノートを体に貼り付けるように抱え、ページの角を親指で往復させていた。角が柔らかくなり、紙が少し薄くなる。薄くなる紙は、破れやすい。破れる前に、何かを書かなければならない。
「会場の床、木じゃないかも」
御影が言った。視線は窓の外の街路樹の隙間に、まだ見えない建物を探している。探しているだけで、肩が固くなる。
「樹脂系。吸いが悪い。粉も乗らない」
レンが答える。彼の膝の上には何もない。何も持っていないときの指先は、かえって落ち着きがない。落ち着かなさを紛らせるために、彼は座席の縁を内側から軽く押した。押された布が沈み、すぐ戻る。戻りが早いものは、壊れにくいようでいて、時々いちばん先に音を立てる。
「連盟のコート。支援線に印をつけるための光が入ってる。見せるための線。……線を見られる場所で、線を主語にするのは、きつい」
ツムギが顔を上げた。瞳に朝の薄い光が入って、表情が少し浅くなる。浅い表情のほうが、強い言葉がよく通る。
「見せる線は、壊れやすいよね」
「見せるために整えられた線は、掴む位置が多い。掴む相手が慣れていたら、こっちのほうが引かれる」
レンの声は、いつものように乾いていた。乾いた声は、粉の匂いを連れてこない。匂いがないまま言葉だけ置かれると、かえって怖い。
バスは会場の外周道路に入った。建物は白い皺のない箱のようで、窓は大きい。外から中の照明の色が分かる。青白い。青白い光の下では、布の目の粗さが均一に見えてしまう。均一に見えるものは、間違いに気づきにくい。
受付は早かった。名簿と血圧のチェック。小さな紙切れに印が押され、薄いストラップが配られる。ストラップは肌に冷たい。冷たいまま、首に絡む。
「零席、コートB」
係の学生の声は明るく、どんな相手にも同じ調子で刺さらない。刺さらない声は、よく通る。通る声の先に、コートBがあった。床は樹脂。白線は塗り込み。線は焼きつけられていて、拭いても落ちない種類だった。
観客席は半分ほど埋まっている。連盟の大会は、学内よりも大人が多い。拍手の速度が違う。数字の好きな拍手と、血の好きな拍手が混じっている。混じると、匂いが変わる。金具の匂いの上に、油の匂いが乗った。
対戦相手は、連盟上位の常連だった。名前は短く、発音しやすい。短い名前の隊は、ルールに沿って動くのがうまい。ルールの角にひっかかることがない。ひっかかりがないのは、美しい。美しいものは、よく切れる。
彼らは「設計型」に慣れていた。慣れている者の歩き方は、最初から少しだけ斜めだ。斜めに歩く者は、まっすぐ寄ってくる相手を、見る前に弾ける。支援の担当は二人。いずれもプレートを持たず、腰にぶら下げた帯の節に指を滑らせていた。帯の節が光るたび、床の白線の上に薄い影がかすかに走る。影は線に似て、線は影に似ている。似ているものほど、視界に残りやすい。
「偽線、混ぜてくる」
御影が言う。言われなくても、皆が分かっていた。偽の支援線。合成できるように見せかけた線。触れると、整っている。一歩進むと、足が空を掴む。空を掴む手を、相手の刃が打ち落とす。そういう線だ。
「偽線に触れた自分のほうを、疑う」
レンは短く言い、黒板のない空間に小さな四角を描いたつもりになった。描いたつもりの線は、すぐ消えた。消えるのが早い。早いときは、何も書かないほうがいい。
整列。短い礼。審判の旗が上がる。立会の距離が学内より狭い。狭い立会は、支援の前衛化を促す。促して、切らせるための距離だ。
「開始」
床の上の白が眩しく、砂がない。砂がない足音は、硬い。硬い足音の上に、相手の支援が早く走る。早く走るのに、足元を汚さない。汚れない線は、触りたくなる。触ってはいけない。触りたくなるほうが、触ってしまう。
「御影、下げ……」
レンの合図が、いつもよりわずかに遅れた。遅れたと感じた瞬間には、偽線がもう二重に通っていた。無色の布の底をくぐるように。くぐられた布は、重さの行き先を失う。失った行き先の上で、真っ直ぐ踏んだ足が軽く沈む。沈み方に名がない。名がない沈みは、記録がない。
最初の一撃は、味方の乱暴者の盾の縁を滑り、彼の脇に冷たい痺れを残した。痺れは浅い。浅いのに、指を弱くする。弱くなった握りの上に、次の衝撃が届く。届く角度は綺麗だ。綺麗な角度に、無色の布が間に合わない。
「布、向こうの帯から」
レンは言う。言いながら、自分の声が床に吸われるのを感じる。吸う床。吸わない粉。黒板がない場所で、言葉はむき出しだ。むき出しの言葉は、よく切れる。切れたのは、こちらの指だった。
ツムギの目が揺れた。揺れないようにしている目が、外側の光に引かれる。引かれた視線の隙間から、偽線が入ってくる。入ってきた線は、名札があるように見えて、名前がない。名前がないのに働く。働くのに、誰の味方でもない。
御影が前へ出た。出た場所に、もう線はなかった。彼は空気を掴み、吐き、笑った。笑いはすぐ硬く折れた。折れた笑いの破片が喉に刺さり、言葉が痛くなる。痛い言葉は遅い。遅い言葉の上に、相手の矢が通る。通る音は聞こえない。聞こえないほうが、よく刺さる。
「遅延が……」
詠唱者が声を上げた。遅延の糸が、偽線に絡め取られていた。絡まれた糸は、ほどくときに切れる。切れないように指の腹で押すが、押す前に次の偽線が重なる。重なった線同士が、互いに名札を交換しながら走る。名札だけを見て追う者は、いつの間にか自分の足を打つ。
レンの視界に、ノイズが濃く出た。線ではない。床板の下、透明な筒の底の揺れの影。会場の地下に連盟の端末がある。端末はこの大会の全データを集めている。集めながら、タグを付ける。危険の名札。逸脱の候補。今日の場で、その名札は誰に渡されるのか。
「御影、手を離して」
「離したら、倒れる」
「倒れない倒れ方を選んで」
御影は笑った。笑いはすぐ血の味になり、彼は舌を噛んだ。噛んでも、味は消えない。味は指先まで降りてきて、プレートを持っていないのに何かを握りたくさせた。握りたいものがないとき、人は自分の骨を握る。骨に指をかけて、足を前に出す。出た足の先で、偽線がほどける。ほどけるのは、向こうの意志だ。こちらの設計は、捕まえる位置を失っていた。
最初の一本。審判の旗は迷わず上がり、音は短い。短い音のあとで、観客席に軽い笑いが走る。笑いは毒だ。毒はすぐに血に混じる。混じった血の色は、見えない。
二本目。偽線の向こう側に、相手の本当の支援の根が見えたような気がして、レンはそこへ布を敷いた。敷いた瞬間、見えていた根が薄く消えた。消えた場所に、影だけが残る。影は線に似て、線は影に似ている。似ているものほど、目が覚えたときに残っている。
「角度、変える」
セラの氷が、かすかに走った。彼女は今日、こちら側ではない。こちら側ではないのに、古い練習で覚えた筋が、わずかに反応してしまう。反応した動きは正確だ。正確さは無力だ。無力な正確さを、偽線は好む。
前衛の踵が滑り、盾の縁が空を切る。空を切った音を、相手の剣が拾う。拾った音は刃を強くする。強くなった刃が詠唱者の前をかすめ、癒し手が張り詰めた声で名を呼ぶ。名は届く。届いた名の上を、偽線がまた重なる。重なった線の束に、零席の輪はわずかに傾き、戻らない。
完敗だった。
終わりの笛が鳴ったとき、ツムギはまだ立っていた。立っていたが、足の裏に力がなかった。力のない足で、彼女は礼をした。礼の角度は浅い。浅い礼は、長持ちする。長持ちする間、肩がわずかに震え続けた。
御影はノートを開いた。開いたページの上で、鉛筆の芯が折れた。折れる音は小さい。小さいのに、耳に刺さった。刺さった音のまま、彼は別の鉛筆を握り、書こうとして、書けなかった。書けない紙は、破りやすい。破りそうな指を、彼は自分で止めた。止めると、指の節が白くなる。白くなったところに粉は付いていない。粉がないなら、泣けない。泣けないなら、笑う。笑うと、吐いた。
観客席の拍手は、均一に早かった。早さは結果のためのものだ。結果のための音は、体の中に何も残さない。残らないほうが、遠くまで響く。遠くの壁で跳ね返り、またこちらへ戻ってきて、ツムギの肩を薄く叩いた。叩かれた肩が震える。震えを彼女は見せない。見せない震えは、長く続く。
「……負けた」
御影が言った。言葉は薄い。薄さが重い。
「うん。ちゃんと」
レンは頷いた。頷きながら、喉の奥に残る金属の味を飲み込めなかった。味は太い筒の底の水のにおいに似て、どこからかいつも逆さに落ちてくる。落ちるたび、胸の裏が少し冷える。冷えたまま、彼は審判に礼をし、相手に礼をし、コートの外に出た。
◇
戻りのバスは静かだった。窓の外の街は、いつもより澄んで見えた。澄んだ景色は、ひびを目立たせる。舗装の継ぎ目、看板の支柱の傷、電線の垂れの角度。そういうものが、今日はよく目に入る。目に入るたび、体の中で何かが小さく割れる。
ツムギは眠らなかった。眠らないまま、窓に映る自分の顔をじっと見ていた。見ながら、手のひらを上下に返し、鈍い痛みの残る場所を確かめる。確かめる行為は慰めではなく、約束だ。約束は簡単に破られる。その簡単さを嫌って、彼女は指を組んだ。組んだ指は、小さく震えた。
御影はノートをもう一度開き、端に小さく日付だけを書いた。日付の横に、コートの材質、支援線の光の色、相手の帯の節の数。数える行為は残酷だ。数えた枠からこぼれるものが、いつも本当だから。こぼれた本当は、紙に貼り付かない。貼り付かない本当を、彼は嫌いではない。嫌いではないということに、うすうす気づいてしまい、さらに疲れた。
レンは、何も書かなかった。書くための黒板がなかった。黒板のない場所で、彼は体を空に向けて座った。空の向こうに、紙の厚みが幾重にも重なったような暗さがある。暗さは柔らかく、指を差し入れると形を変える。形を変えた暗さの底に、細い配線が走っている。配線は冷たく、明るく、静かだ。
◇
夜、学園に戻ると、人の声は少なかった。運動部の掛け声の代わりに、芝生の散水の音がしていた。遠くから見える管理棟の窓には、遅い光がいくつか残っている。遅い光は疲れている。疲れている光は、優しい。優しい光の下に、やさしくないものがいる。いる気配だけが、風に乗る。
零席の教室は暗かった。扉を開けると、かすかに消毒液のにおいが残っている。試薬瓶の棚に貼られたラベルの角がめくれ、机の隅には粉が少し積もっている。粉は誰のものでもない。指で触れると、指が白くなる。白くなった指で、レンは黒板の明かりをつけた。蛍光灯の青白い光。板面の細かい傷が浮いてくる。浮いた傷に、今日の偽線が重なって見える。
チョークを取る。粉が落ちる。落ちた粉が床で小さく跳ね、すぐ静かになる。静かになった粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている――そう思えるときだけ、彼はまだ書ける。
黒板の左上に、文字を置く。
設計の設計
線は細く、間隔は広い。広い間隔の間の黒が、冷たい。冷たさが、安心を呼ぶ。安心に寄りかかると、折れる。
今日の敗因。偽線。外部の可視化。床材の吸い。支援の前衛化。逃げ道の不足。主語の奪い合いに、向こうが慣れていたという事実。慣れている相手に、こちらは「疑い方」を持っていなかった。
レンは「疑う」という字を大きく書いた。書いて、離れて見た。「疑う」は、設計の言葉ではない。書きながら、彼は初めて気づく。自分がこれまで組み上げてきた線の束は、信頼でできていた。無色の層に預け、譲渡の窓を開き、緩衝の布を敷き、遅延の糸で並べる。どれも信じるための仕組みだった。疑いはどこにもない。だから、偽線は全ての入口を通れた。
信頼の設計は、疑いの設計で守らなければならない。
黒板の右側に、もうひとつの見出しを書く。
破断の礼儀
線を切るときの手順。切られたときの形の保ち方。自分で切る練習。自分で切った線を、どう元に戻すか。戻さない選択。戻さないまま、別の線を立てる選択。
彼は短く手を止め、耳を澄ました。廊下の向こうで旗が鳴った気がした。鳴っていない。鳴っていないのに、金具の匂いが強くなる。強くなった匂いの背後に、低い唸りが潜む。地下の端末が、今日の試合のデータを飲み込み、誰かの名前にタグを貼ろうとしている。逸脱候補。候補のまま長く置かれたものが、いつか候補でなくなる日を、端末は待たない。機械は待たない。世界式は待たない。待たないものに、こちらの書き付けはどれだけ間に合うのか。
粉が指先から落ちる。落ちる粉の細い影を避けるように、レンは次の言葉を書いた。
偽線探知
可視化の上に、不可視化を重ねる。光る線に、光らない縫い目を足す。縫い目は誰にも見えない。自分にも見えない。触ったときにだけ分かる。触るための指先を増やす。指先を増やすために、人を増やすのではない。役目の影を増やす。役目に影を、はじめから用意する。
役目の影、と書いて、自分で笑いそうになった。笑いはうまくなかった。うまくない笑いは、正直だ。正直さは、破れ目から真っ先に出ていく。
黒板の中央に、大きく四角を書いた。四角の中に、輪の図。基礎層、支援線路、緩衝布、遅延、逃げ道。さらに、「疑い」の層を重ねる。疑いの層は薄く、滑る。滑るが、粘りがある。曲がる。曲がったところに、切れない目をつける。切れない目は、安全ではない。安全でないものに頼る。頼った先で、切る練習をする。
レンはチョークを持ち替えた。指が白い。白い指で額の汗を拭い、また線を書く。書きながら、昼間の偽線の感触を思い返す。あれは偽物ではなかった。本当に働いていた。ただ、名前がなかった。名前がない働きは、世界式のほうが得意だ。人間の設計は、名前に支えられる。名前が剥がされた場所に、何を置けるのか。
設計を疑う。
黒板の一番下に、そう書いた。書いた字は大きく、少し歪んだ。歪みは悪くない。悪くない歪みを作るための線を、明日から引く。引く手を増やす。増やすときに、減らすものを決めておく。決めたものの名前を、今は書かない。書いた名前だけが、後で切れる。
「レン」
扉の隙間から声がした。ツムギだ。彼女は入ってきて、黒板を見上げた。粉の匂いに、顔が落ち着く。落ち着いた顔で、目だけが揺れた。
「眠れてないの」
「眠る前の仕事」
「それ、朝になっても終わらないやつ」
「終わらないのは、よくない」
「よくないこと、今日はいっぱいあった」
ツムギは笑い、それから笑いをやめた。やめると、肩がわずかに震えた。震えを止めるために、彼女はチョークを取った。取って、黒板の端に小さな丸を描いた。丸の中に、逃、と書こうとしてやめた。やめた代わりに、点を打った。点は粉で、すぐに消えた。
「偽線、触った。触った手が、しびれた。しびれたのは、怖いのと違う。怖いのは好き。しびれるのは嫌い」
「嫌いなものの匂いを決める。御影に渡す」
「御影の匂いは、もう、金具になってる」
「なら、足りない匂いを作る」
御影は来なかった。来ないほうが、よい夜がある。来ない背中の代わりに、彼のノートが机に残っていた。端に日付と短い数字。数字の横に、破れ目の白。破りかけてやめた跡。やめたという事実は、役に立つ。やめることができる筋肉は、切るときに折れない。
ツムギは椅子に座り、机に頬を預けた。頬に粉が付く。粉の粒が肌の上で崩れ、線になり、また粒に戻る。戻るたびに、彼女の呼気がかすかに揺れる。揺れに気づいて、レンは電気を半分落とした。暗くなると、黒板の字が浮いた。浮いた字の中で「疑う」だけが少し明るい。明るい字は、すぐに目に痛い。痛みは覚える。
廊下の向こうで、足音が止まった。止まったまま、長く動かない。襟だけが揺れる。顔は、やはり見えない。見えないものが、見えるものを並べる。並べた順番が、明日からの規約になる。規約は読み物だが、書いた者の手の色が薄く残る。薄い色は、なかなか落ちない。
レンは黒板の前に立ち、最後に一行だけ追加した。
名前のない仕事を、設計する。
書き終えたとき、粉の匂いが強くなった。強い匂いは、眠りを壊す。壊れた眠りの破片を拾うように、彼は照明を落とし、窓の鍵を確かめ、扉を閉めた。閉めた扉の表面に、さっきまでの自分の指の跡が薄く残る。残る跡の上を、朝の光が通るだろう。通ったあとに、誰かがそれを消す。消された跡だけが、長く残る。
初めての敗北は、その夜の端に置かれた。端は鋭い。鋭い端の上に、逃げ道の窓をひとつ置く。置いて、閉める。閉めて、忘れない。忘れないために、黒板の粉を指先に残した。白い指で彼は灯りを消し、暗い教室を出た。暗さは優しく、優しくないものの居場所をよく知っていた。
階段の踊り場で、薄い唸りが胸の裏を擦った。透明な筒の底で水が落ちる音。世界式は、今日の線の束に、まだ名前を付けていない。付ける前に、こちらが付ける。付けた名前の上を、偽線がまた走るだろう。その時に、触った指がしびれないように。
彼は手を下ろし、背筋を伸ばし、小さく笑った。うまくない笑いだった。うまくない笑いは、正直だ。その正直さでしか、設計の設計は始まらない。始めるために、今夜は眠る。眠る前に、粉を落とす。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――確かに走っていた。そう思えるあいだは、まだ間に合う。間に合わせるために、疑いの線を、明日、引く。
第十六話 最適化の罠
黒板の上で、白い字が増えていく。粉の匂いが教室に満ち、窓の外の校庭は暗く沈んでいる。散水の水音だけが遠くで細く続き、ときどき止む。その止み方のほうが、よく響く。止んだ瞬間に残る静けさは、鋭い。
レンは左上に大きく書いた。
過学習
字の横に、浅い溝を付けるようにチョークの腹で線を引く。指で触ると、板面のざらつきが骨の内側まで来る。ざらつきの形に、昼間の敗北がぴったり嵌まり、そこから抜けない。
「勝ち方が、勝ち方を壊す」
言葉は誰に向けたわけでもないのに、教室の中央の机で腕を組んでいた御影ユウトは顔を上げた。机の角に残る粉を親指で集め、丸め、潰す。潰した粉が爪のあいだに入る。入った粉は落ちない。
「過学習って、わざと難しく言ってる?」
「噛み砕く。昨日までの勝ちパターンが“手応えのある轍”になって、そこからハンドルが切れなくなる状態。正しいのに、曲がれない。曲がる必要が出た瞬間に、転ぶ」
レンは黒板の真ん中に丸を描き、そこから同じ角度の矢印を五本伸ばした。矢印はすべて美しく揃い、均質で、安心する。安心に触れて、彼はすぐに手を離した。
「勝ちパターンは、早い。早いのは強い。強いから、強いまま固定される。昨日の大会は“偽線”でその固定を外から撫でられ、逆向きの轍に押し込まれた。轍は深かった。僕らは自分の正しさに足首まで浸かっていた」
ツムギは黒板の斜め前で椅子の背に腕を置き、レンの手元を見ていた。頬に粉が薄く付いている。目は静かだが、光を受ける角度がときどき変わる。変わるたびに、怖さが少しだけ揺れる。
「じゃあ、轍を崩すの?」
「崩すより、轍と轍のあいだに“余白”を作る。ここに、わざと不揃いを入れる」
不揃い、とレンは黒板に書き、そこから細い枝をいくつも出した。枝の先に小さな丸。丸の中に、乱、揺、確、窓。意味の薄い字を選ぶ。意味が薄い字は、早く逃げる。逃げられるものには、あまり牙が出ない。
「解決策は、ランダム性の導入」
御影が鼻で笑った。笑いはひどく、正直だ。
「適当にやる、ってこと?」
「適当は違う。選択肢のどれを使うかだけを、振り分ける。設計の骨は、そのまま残す。骨の上に、揺らぎを乗せる」
「揺らぎ」
ツムギが復唱する。復唱は彼女が言葉を選ぶ手つきだ。選ばれた言葉は、肌に触ってから内側に入る。
「私の無色の層に、それを仕込む?」
「仕込む。君の層は“中立”だ。中立ほど、少しの揺れで機能が変わる。遷移の段差を均して、いままでは“何色でも受け止める床”だった。そこに、薄い粒を撒く。目に見えない粒。触った瞬間だけ位置を変える小石。誰が踏んでも滑らず、でも“同じ踏み心地”にならないように」
レンはカバンから小さな木箱を出した。蓋を開けると、乾いた金属のにおいがわずかに強くなる。箱の中には、同じ形の小さな玉が二十個。重さは微妙に違う。違いは秤で測るまで分からない。見た目は一緒だ。目に頼るべきでないものでも、目で見たくなる。
「乱数器」
御影が言った。
「手で触って、揺らすタイプ。投げられない。回す。止める。止め方は人それぞれ。だから“癖”が出る。癖ごとの乱数。御影、君は支援線を多層化する。“確率分岐”の準備。手元の分岐を増やして、入口のほんの短い時間だけ、どの線路を通すか“賽を振る”。賽を振るけれど、倒れない台の上で」
御影は玉を一つ取って、指の腹で転がした。転がす速度が一定からすぐに逸れて、戻る。戻る途中で指がささくれに引っかかり、玉が軽く跳ねた。跳ね方は嫌な音を出さないのに、教室の空気が微かに冷えた。跳ねるものは、よく落ちる。
「確率分岐って、どう記録する」
「枝を全て記録しない。枝ぶりの“分布”を記録する。君がいつも選ばないほうの枝を一本、意図的に選ぶ。選んだあとに、また設計に戻す。戻すまでの時間を短く固定して、“悪い乱れ方”を避ける」
「悪い乱れ方」
「世界式が喜ぶ乱れ方。向こうが名前を付けやすい小賢しいランダム。あれは食われる。食われない揺らぎは、名前のない微小差を、一定の幅で揺すり続ける」
レンは棒きれで砂を突くようにチョークで点を打った。点と点の間を、目に見えない細い糸がふるふる揺れる。揺れの幅は狭く、小さく、確からしさを持たない。確からしさのないものほど、保存される。保存されるのは、気味が悪い。
「揺らぎなら、私、今日すぐにでも作れる」
ツムギは椅子から立って、窓際に置いたプレートに指を当てた。彼女の無色の層は、静かに起き上がり、机の影に沿って薄く広がる。広がる速度は均一で、やさしい。やさしさは危ない。危ないから、少しだけ変える。
「揺れの粒、どこに撒く?」
「中央ではなく、縁。縁に撒くと、踏み入れた瞬間にだけ、わずかな差が生まれる。差はそれぞれ違うが、どれも小さい。小さすぎて、普通は無視される。無視されるための設計。無視されているあいだに、向こうの読みがずれる」
「読みがずれた証拠は、匂い」
御影は笑って、玉を箱に戻した。金具の薄いにおいが立って、消えた。消えたにおいの輪郭だけが指に残る。残った輪郭は名前がない。ないまま機能する。
「次の相手、連盟の上位ではないけど、“設計を見る目”が早いゼミの出身だ」
レンはノートの端に短く書き、黒板に戻った。板面の右側に、見出しをもう一つ。
美しい無秩序
「秩序があるから、崩れる。無秩序もあるから、崩れる。崩れる“直前の形”がいちばん美しい。いちばん壊れやすい。そこに“仕事”を置く」
「仕事」
「名前のない仕事だ。勝ちにも負けにも付かず、ただ“ずらす”。誰かの正しさの襟を、ほんの少しだけ引く」
チョークが短くなった。短いチョークは折れやすい。折れる前に、レンは一呼吸置いてから、それを横にして字の腹で太い線を引いた。チョークの粉が指に濃く付く。濃さは夜の深さだ。
◇
練習は校庭ではなく、旧講堂でやった。床板は薄く、梁は古い。梁の上に配線の名残が走り、修繕した釘の頭が光る。釘は鳴らない。鳴っていないのに、金具の匂いは消えない。
ツムギが無色の層を敷く。彼女はわざとわずかなずれを作った。層の縁に薄い粒を撒き、粒の位置を指先で見えないほど変える。変えるたび、床板の節がひとつだけ呼吸を止めるように沈黙し、それから戻る。戻る速さは測れない。測れないものは、長持ちする。
「御影、分岐を」
「三段。短い枝二つ、長い枝一つ。短い枝のどちらを通すかを、その瞬間の匂いで決める。匂いは俺の錯覚でいい。錯覚でいいが、嘘はつかない」
御影は手を前に差し、線を三枚重ねた。重ね方は汚くないが、揃えていない。揃えないのに、崩れていない。崩れない理由は、彼の肩の筋肉が“次の微差”の準備をし続けているからだ。準備する筋肉は疲れない。疲れない筋肉は、怖い。
「矢の子、遅延の縁に乗って。遅延は均一にするな。早い遅いが交互に出るように、あらかじめ“幅”を持たせる」
詠唱者が頷き、癒し手が水の温度を確かめる。乱暴者の前衛は、足裏に粉が付くのを嫌がらず、静かに踏みしめた。踏みしめる位置が一定からわずかにずれ、ずれの痕が床板の節に馴染む。馴染むのに音がないのが、気味が悪い。
「いく」
レンの合図で、輪が薄く回る。回るとき、ツムギの縁の粒が足の下で微妙に動く。動きは滑りにならず、振動になる。振動の幅が御影の指に届き、彼の分岐が一本だけいつもと違う側へ開く。開いた枝の上で、矢がいつもより早く、しかし早すぎずに抜ける。抜けた矢の音は聞こえない。聞こえないのに、壁の女神像の目がわずかに陰った気がした。気のせいだ。気のせいだが、指先の粉が一粒、彼の爪の根元に食い込む。
「もう一段、乱す」
レンの声。ツムギは頷き、縁の粒をさらに細かくした。御影が分岐の確率を五対四対一に固定し、固定した数字をすぐに忘れる練習をする。忘れることを、設計に入れる。忘れ方にも骨が要る。
輪はうまく回り、うまく崩れ、うまく立て直った。うまく、という言葉は役に立たないのに、今日は機能した。機能したことが、少し怖い。怖さは設計の栄養だとレンは思った。栄養に頼りすぎると、体は壊れる。壊すと直せる。直すたび、何かが薄くなる。薄くなっていく順番を、彼はまだ知らない。
◇
次の試合は、学内の練習試合の延長として急遽組まれた。観客席は満員ではないが、ざわめきは静かに広い。広いざわめきは、音を丸くする。丸い音の上で、旗は鳴らないのに、金具の匂いだけが濃い。
相手の隊列は整っていた。基本に忠実で、乱れが少ない。少ない乱れは、こちらの揺らぎを吸収してそのまま捨てる形だ。捨てられるのは、屈辱だ。屈辱は汗のにおいに似て、指先の感覚を鈍らせる。鈍りを嫌って、御影は袖を少しまくった。腕の筋を、粉が白く汚す。
「開始」
審判の声と同時に、床の樹脂が光を返す。ツムギの無色が薄く広がり、縁に撒かれた粒が見えないまま位置を変えた。変化は匂いになり、御影の鼻腔に少しだけ金具の味を残す。味は合図だ。合図は分岐へ流れ、彼の指が通常なら選ばない枝を選ぶ。選んだとき、彼の口から短い笑いが出た。笑いが走り、詠唱の遅延が早くなり、すぐ戻る。戻る速度が“読めない”。
相手の支援が一度つまずいた。つまずきは深くない。浅いのに、全体の背骨がほんのわずか遅れ、前衛の踏み切りが半足分遅れる。遅れた分だけ刃の角度が鈍る。鈍った角度に、ツムギの縁の粒が指先の力を均等に配り直し、盾の返しがいつもより早くなる。早い返しは美しくない。美しくない動きに、観客席がざわめく。美しくないもののほうが、生きている。
「揺らぎ、維持」
レンが短く言う。言葉は砂の上に置くように軽い。軽さは、床に吸われない。吸われない言葉は、遅れない。
相手はすぐ修正し、支援の帯を広げて合成の根を太らせてきた。根は見えない。見えないのに、こちらの無色の層の縁が少しだけ冷たくなる。冷たくなる、と御影の分岐が逆側へ開き、矢がいつもの半拍遅く放たれる。遅いのに、間に合う。間に合わせるために、遅れた。遅れを選んだのは、賽だ。賽は嘘をつかない。
序盤の均衡。相手は「読み」を積み上げようとした。こちらの分岐を数え、傾向を掴もうとする。掴まれる前に、分岐の“癖”をずらす。御影の肩がわずかに下がり、彼の指が二度、いつもならしない重ね方をする。重ねた線路の一方が無意味に見える。無意味に見えるものが、いちばん危ない。
「御影、今の枝、切って」
「切る」
御影は自分の引いた分岐の一本を自ら切った。切るときの手順は黒板で何度も練習した。切った線の端が空にほどけ、ツムギの縁の粒がそれを受けて、中央へ流す。流す途中で、その線は“名前を捨てる”。名前がない線は、読む者の目に入らない。目に入らない線が、相手の帯の蝶番に触れる。触れた場所だけ、温度が落ちる。落ちた温度に、刃の反射が一瞬遅れる。
中盤。突然、相手の前衛が突っ込んできた。読みを崩される前に“賭け”に出たのだ。賭けは正しい。正しい賭けは、綺麗に折れる。折れる直前の形は、見惚れるほど美しい。
ツムギの目が光を受けた。彼女は“揺らぎ”の層に、さらに薄い粒を撒いた。撒いた粒の半分は、その場で消えた。消えた粒は働かない。残った半分だけが、足裏の皮膚の皺の隙間に小さく入り込む。入り込んだ粒が、御影の分岐に“偶然”の一押しを伝える。偶然は設計に入れられない。入れた瞬間、壊れる。壊さずに、隣に置く。
「いま」
レンの声は低く、短かった。御影は分岐の“長い枝”を初めて選んだ。長い枝は遅い。遅いが、幅が広い。幅が広いから、相手の賭けの線を含んだまま、やわらかく逸れる。逸れた先で、矢の子の弦が初めての角度で鳴り、乱暴者の盾が美しくない面で衝撃を流す。美しくない面は、見る者に不快感を残し、読みの気持ちよさを奪う。
観客席がわっと沸いた。沸き方は汚くない。汚くないのに、揃っていない。揃っていない拍手の音が、樹脂の床に散って、戻ってくる。戻ってきた音の数が合わない。合わない音のうち、いくつかだけが、地下のどこかに落ちる。透明な筒の底に、水音が立ち、すぐ消えた。
終盤、相手の司令塔が最後の修正をかけてきた。彼らは読みを捨て、偶然に賭け始めた。偶然は面白い。面白いが、勝敗には向かない。賭け合いは、長く続かない。長く続かないものほど派手だ。
「窓、閉める」
レンの指示。ツムギが逃げ道の窓を半分だけ閉じ、御影の分岐の“偏り”をあえて増やす。偏った分岐は、見つかりやすい。見つかった瞬間に、別の枝が開く。開く瞬間、彼の肩の筋肉が微妙な笑い方をする。その笑い方を読み切れる者はいない。笑いは、匂いにしか残らない。
最後の一撃は、誰のものでもなかった。主語のない線が、砂のない床の上で静かに滑り、相手の蝶番に触れて、止まった。止まったところで、審判の旗が上がる。一本。二本。終わりの笛。
零席の逆転勝利。
歓声は大きくなり、すぐに形を失った。形のない歓声が、講堂の天井に溜まって揺れ、粉の匂いを溶かす。溶けた匂いが冷えて、金具のにおいに変わる。金具のにおいは、明日を連れてくる。
「美しい……無秩序だ」
誰かが言った。実況の声ではない。後ろの列の、見たことのない顔だった。顔はすぐに人混みに紛れ、襟だけが揺れ、消えた。
◇
整列の列。相手の司令塔が、短い礼をした。彼の目は怒っていない。怒っていないのに、赤い。赤さは疲れの色だ。疲れの色は、負けの色ではない。彼は笑った。うまくない笑いだった。うまくない笑いは、正直だ。
「読みが崩れた理由が、わからない」
「わからないまま、倒れない。そこに“仕事”を置きました」
レンは答えた。答えてから、相手の手のひらの粉に気づいた。粉は白い。白い粉は、どこでも同じ匂いをする。だが今日だけ、わずかに違った。違いは、彼の指先にだけ分かる程度の差だ。差は名前にならない。ならないほうが、怖い。
ツムギは観客席の端を見た。誰かが立っていた気がした。襟だけが揺れる。顔は、やはり見えない。見えない顔から、冷えた視線が降りる。降りた視線は、無色の層の縁に触れて、すぐ消える。消えた感触が、彼女の指の腹に紙の切れ端のように残る。
御影はポケットから折りたたんだ紙を出し、今日の枝ぶりを三行だけ記録した。数字は書かなかった。書いた数字は使い潰すためのものだ。残したいのは、匂い。匂いは紙に付かない。でも、紙の角に残る。角を触る指が、少し白くなる。
◇
夜、教室に戻る。黒板には昨日の字がまだ残っている。「過学習」の横に、「揺らぎ」「確率分岐」「美しい無秩序」。粉は薄く床に落ち、足音が静かだ。静かな足音の奥に、低い唸りがときどき通る。地下の端末は、今日の“無秩序”に名前をつけようとしている。つけられる前に、こちらで別の名前を置く。
「揺らぎ、よかった?」
ツムギが座り、頬に手を当てた。指の腹が白い。白いことに安心しないように、彼女は自分の指をつねる。つねる痛みで、揺れの幅が記憶に固定される。
「よかった。でも、よすぎるのが怖い」
レンは黒板に新しく小さな四角を描いた。四角の中に、点を三つ。点と点の間に、糸を張らない。張らないことで、明日の“運び”を残す。
「過学習の罠は、いま崩した。次は、“乱数の罠”を見る。ランダムは、人の脳がすぐ“型”を見つける。型を見つけられないまま、倒れない設計。型を見つけても、近寄ると溶ける設計。溶けることで、こちらの骨まで崩さない設計」
御影は笑い、うなずいた。笑いが粉を散らし、机の角が白くなる。白くなる角は、すぐ汚れる。汚れた角は、触りやすい。
「今日の勝ちは、明日の負け方の設計図だな」
「そう」
レンは黒板の端に小さく書いた。
設計を疑う、を続ける
扉の外で、旗が鳴った気がした。鳴っていない。鳴っていないのに、金具のにおいだけが濃くなる。においは時間を運ぶ。運ばれた時間の端で、透明な筒の水面が逆さに落ちた気配がする。世界式は“揺らぎ”に微笑むのか、歯を見せるのか。どちらでも、構わない。構わない様に見せかけて、指先の粉を確かめる。
レンはチョークを置き、指をこすった。粉が落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――走っていないように見える。見えないほうが、まだいい。見えないもののほうが、長く効く。効いているあいだに、こちらは次の余白を用意する。余白の縁に、今日より細かい粒を撒く。その粒が誰のものでもないうちに、眠る。
眠りに落ちる直前、彼は教室の奥にある古いガラス窓に目を向けた。そこに、襟だけが揺れる影が映った。顔はなかった。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に、名前を置く。置いた名前は、すぐ消す。消した跡だけを、世界式は拾いに来る。拾いに来た指に、粉が付く。付いた粉は、落ちない。
怖さは静かだった。静かな怖さが、背骨の奥に細く収まり、骨の中から明日を押す。押された明日は、薄く、早い。早さの上で、無秩序がうつくしい。うつくしいものは、よく切れる。切れないように、設計する。設計を疑いながら。
第十七話 告白と決裂
夕方の鐘は、低くてやわらかい音を校舎に貼りつけていく。貼りついた音はガラス越しに薄く震え、階段室の手すりの金具に吸い込まれて止まった。止まった瞬間の静けさに、怖さが生まれる。誰もこちらを見ていないのに、見られているような静けさ。
ツムギから、屋上に来てほしいとメッセージが届いたのは、その静けさが廊下の端まで流れ切った頃だった。短い文だった。句点がなく、余白が多い。余白の多い文は、読む前から胸に触る。
鉄の扉は重くはないが、開けるときだけ重いふりをする。ふりのわりに蝶番は鳴らず、かわりに金具の匂いが強くなる。屋上は思ったより明るく、空の色が校舎の窓ガラスに反射して、四角い明るさを何枚も重ねていた。重なった明るさの縁が白く鋭くて、そこだけ薄く寒い。
ツムギはフェンスのそばに立っていた。靴の先が線から半歩だけ内側にあり、指先はフェンスに触れていない。触れない手は、宙で小さく丸くなる。丸い手の中に、言葉の種がいくつもあるのだと思った。
「来てくれて、ありがとう」
彼女の声は普段より少し高く、細い。細い声は風に混じりやすく、薄く切れて、またつながった。
「うん」
返事は短く、粉のつかない声になった。黒板の前で話すときの癖が、屋上では役に立たない。足元のコンクリートは乾いていて、白い粉の代わりに、昼の光の欠片が落ちている。拾っても指は白くならない。だから、何も準備ができない。
ツムギは一歩、こちらに近づいた。靴底が小さく鳴る。鳴り方が、教室の床とは違う。ここは板ではないから、深いところで誰も息を止めない。息を止める代わりに、空気の角が一瞬だけ引っかかる。引っかかった角で、彼女の言葉がほどけた。
「好き。……レンのことが、好き」
きれいな言い方ではなかった。言い方の形を選ぶ余裕がないから、真っ直ぐだった。真っ直ぐの線は、世界式から見ると測りやすい。測りやすいものの上に、名前が落ちる。名前が落ちると、風が止まる。止まった風の隙間で、金具の匂いが濃くなる。
胸の内側で、透明な筒の底がいちどだけ鳴った。音は届かないが、指先の熱が一瞬だけ抜ける。抜けた熱の輪郭が、言葉の形を決めてしまう。
「……ごめん。いまは」
言いかけて、噛む。噛んだところから、別の言葉が出た。
「いまは、設計が先だ」
言ってから、遅いと思った。遅いのに、取り消せない種類の言葉だ。取り消そうとすると、紙が破れて、破れ目の白だけが残る。
ツムギは瞬きをした。瞼の動きがゆっくりで、視線は落ちない。落としたら、粉がつくと思っているのかもしれない。粉はここにはない。ないけれど、彼女の目には白いものが浮かんだ。
「そっか」
短い頷き。頷きの角度は浅く、礼ではない。確認の角度。確認が終わると、彼女は笑った。笑い方が、ひどく上手だった。上手な笑いは、痛い。
「じゃあ、強くなる。……私、強くなる。基礎で、支えるだけじゃなくて」
声が震えた。震えは長くなかった。長くしないように、彼女の体が先に笑いを選んだ。笑いは上手くても、涙は先に出る。出た涙は風にすぐ冷やされ、頬の上でかたちを失っていく。かたちを失った涙は、粉にならない。粉にならないものは、黒板に残らない。残らないから、明日呼び出せない。
「ツムギ」
名前を呼ぶと、彼女は首を振った。それ以上、触る場所がない。自分の言葉がよくないことは分かっている。分かっているのに、他の言い方を持っていない。設計の言葉は、人の体温を持っていない。持たせる練習をしてこなかった。やり方を知らない。
「大丈夫。泣いているけど、大丈夫。……レンのそばにいると、怖いのが、きれいに見えるときがあるから。怖いのがきれいだと、立てるから」
彼女は袖で目を押さえ、深く息を吸わずに、吐いた。吐き方に癖がない。癖のない吐息は、音にならない。音にならないものほど、残る。彼女の頬は赤く、目のふちが少し白い。白いところへ、夕方の光の薄い刃が差して、すぐ消えた。
「強くなる。設計の先に、立てるくらいに」
その言葉は宣言の形をしていないのに、宣言だった。背中がわずかに伸び、足の位置が半歩変わった。半歩の差は大きい。フェンスの影が靴の甲にかかって、影の縁がほんの少しだけ震えた。震えは風ではない。下から来ていた。地下の、あの端末の方向。透明な筒の底。
扉のほうから、足音がひとつ上がってきた。御影ユウトだった。扉のところで立ち止まり、こちらを見ないままフェンスの反対側に歩いていく。歩幅がいつもより少し広い。広い歩幅は、割って入らないという合図だ。合図を出してから、彼はフェンスに背を向けて立ち、空を見た。見ていない空を見るふりが、上手い。上手いふりのほうが、優しいときがある。
彼は何も言わなかった。言わないかわりに、片方の拳を腰の後ろに押し当てた。押し当て方に力がある。力は言葉の代わりだ。言葉よりも長く残る代わりに、届く場所が狭い。届くのは、味方の背中だけだ。
「ありがとう」
ツムギが小さく頭を下げた。御影は頷きもしないで、視線だけを少し落とした。落とした視線の先に、屋上のコンクリートの微かな傷があった。傷は薄く、古く、誰のものでもない。
そのとき、風がいちどだけ止み、遠くの観覧席の影で誰かの襟が揺れた。顔は見えない。襟だけが揺れる気配。こういうときに限って、金具の匂いが濃い。濃い匂いは、声より先に胸に来る。
◇
ツムギと別れて階段を下りると、影が長く伸びた廊下の端にセラが立っていた。制服の襟はきっちりしていて、髪は揺れない。揺れない髪は、影のほうが動いて見える。
「屋上、風が強いね」
挨拶の代わりに、彼女はそう言った。声は乾いていて、粉の匂いはしない。目はレンを見ていない。レンの肩の向こう側、空気の薄い層のずっと奥を見ている。
「聞いてたのか」
「聞こえた」
短い答え。彼女は歩いてこない。距離が正しい。正しい距離は、怖い。歩いてこない人が近い。
「正しいことを言うのが、いちばん難しいんだって、前に誰かが言ってた」
「誰か、って」
「いまなら、答えられる気がするけど、答えない。ずるいから」
彼女は少し笑った。笑い方が、以前より柔らかい。氷の角を落としてからの笑い。角を落とす方法を教えたのはレンだが、角を落としたのはセラ自身だ。彼女の中にある正しさは、いつも自分の刃で自分を傷つける。それでも彼女は手放さなかった。
「正しいだけじゃ、勝てないのに」
彼女の声はそこだけ低く、長く伸びた。伸びた声の最後のほうが、わずかに震えた。震えを隠さないのは、彼女の上手さだ。隠すと、別の怖さが増えるから、彼女は選ばない。
「勝ち方を設計して、勝つだけじゃ、足りない。勝つまでに何を捨てるかで、その勝ちが何だったか決まる。……わかってるよね」
「わかってるつもりでも、いつも遅れる」
「遅れる人は、ずっと間に合い続ける気がする」
セラは一歩だけ近づき、止まった。止まり方がきれいだった。練習の跡が残っている止まり方。止まった足のそばを、風がひと筋抜けていく。抜けたあとに金具の匂いが残る。匂いは(また)地下から来た。
「ツムギは強くなるよ。あの子は、名前がないところで働くのが上手いから」
「君も」
「私は、正しさを捨てないで勝つ方法を探す。無理でも、探す」
言い終わる前に、彼女の視線がレンの肩越しに跳ねた。廊下の角の向こうで、襟が揺れる。顔はない。誰かがこちらに背を向けたまま、わずかに首を傾けている。傾いた首の角度が、今日の試合の最終局面の角度に似ている。似ているから、名前を付けたくなる。付けたら、届く。届いたら、切られる。
「また明日」
セラはそれだけ言って、踵を返した。返すときの靴音は軽く、痛くない。痛くない音を出せる人は、痛い場所をよく知っている。
◇
夜の零席の教室は、昼の粉の匂いを残していた。蛍光灯をつけると、黒板の上の白い線が浮き上がる。過学習、と揺らぎ、と確率分岐、と、美しい無秩序。書いた字が、どれも自分の顔に見える。顔は好きではない。顔に名前が付くと、逃げ道が減る。
チョークを手に取る。指先が白くなる。白くなる前に、扉の向こうで足音が止まった。止まったまま、動かない。動かないのに、襟だけが揺れる。揺れる襟の向こうで、低い唸りが短く続く。世界式の端末が、今日の告白にまでタグを貼れるなら、それはもう設計ではない。設計のふりをした裁断だ。
黒板の左下に、小さく書く。
名前のない仕事 名前のある傷
その隣に、もっと小さく書く。
いまは設計が先、と言った
字が曲がる。曲がった線を、チョークの腹でならす。ならしても曲がりは消えず、表面だけが滑らかになる。滑らかな表面ほど、薄く剥がれる。剥がれた粉のひと粒に、指を押し当てる。粉は何も語らない。語らないことが、長く効く。
御影が入ってきた。ノックはしない。しないのが、ここの礼儀になっている。彼は黙って黒板を見て、机の端に腰を掛けた。腰を掛ける場所がいつもと違う。違う場所に座るのは、背中を押す体勢だ。
「背中」
レンが言うと、御影は肩で笑った。笑うと、粉が少し舞う。舞った粉が、蛍光灯の下で光る。
「押すだけ。引っ張らない」
「ありがとう」
「押すのは簡単。押したあとに、俺は倒れない。その練習は俺の仕事」
彼はポケットから破れかけの紙片を出した。紙片の端に、細い線が三本。今日の分岐の記録だ。数字はない。匂いだけが残っている。残っている匂いは、たぶん本人以外には読めない。読めない記録は、強い。
「ツムギは」
「強くなる。そう言った」
「なるよ」
御影の声は静かで、平らだった。平らな声は、遠くへ行かない代わりに、沈む。沈んだ声が黒板の下に溜まり、粉の匂いを濃くする。
「レン」
「うん」
「設計は、お前の言うとおり先なんだろうけど、順番は並べ替えられる。先と先を入れ替えれば、両方が先になる。そういう嘘もある」
御影は笑って、紙片をたたんだ。たたみ方が上手かった。上手な折り目は、ほどくときに傷にならない。ほどく気になれば、だが。
「俺は押す。お前は書け。明日の分」
彼が出ていくとき、廊下で旗が鳴った。ほんとうは鳴っていない。鳴っていないのに、鳴ったときの匂いだけが通り過ぎる。金具の匂いは、記憶を押す。押されて、レンはチョークを黒板に置いた。
右の端に、新しく線を引く。線は途中で止め、四角をひとつ描き、丸を二つつなげる。丸の中には何も書かない。書かない丸ほど、危ない。危ないもののそばに、ちいさく窓を描く。窓の向こうに、粉。粉の向こうに、誰のでもない主語。
そのとき、教室の窓ガラスに影が映った。襟だけが揺れて、顔はなかった。顔のない影は、こちらの手元をよく見ている。見られているのに、何も書き換えられていない。今はまだ。今はまだ、設計の側に順番の権利がある。
黒板の隅に、もう一行だけ書く。
逃げ道は先に置く
それはツムギのためでもあり、御影のためでもあり、セラのためでもあり、自分のためでもある。順番は決めない。決めないまま、明日の図の骨を引いていく。骨は細いが、折れない。折れないように、粉を指に残す。
照明を半分落とすと、白い字のいくつかだけが浮き上がった。過学習。揺らぎ。確率分岐。無秩序。名前のない仕事。名前のある傷。いまは設計が先。逃げ道は先に置く。浮いた文字の間に、黒い空間が広がる。黒は怖いが、やさしい。やさしいから、そこで立てる。立って、明日を押す。
教室を出る直前、レンは振り返って黒板を見た。白と黒のあいだに、自分の背中とツムギの横顔、御影の拳、セラの氷の薄い縁、そして、襟だけが揺れる顔のない影が、うっすら並んで見えた。見間違いだ。見間違いでよかった。見間違いでないなら、名前をつけられてしまうから。
扉を閉めると、静けさがひとつ増えた。増えた静けさが、背中の骨の中に収まり、骨の奥から明日を押す。押された明日は早い。早すぎるものは、設計が必要だ。設計は先に置いておく。人の気持ちよりも先に。そう決めてしまったから、今日はもう眠る。眠る前に、指先の粉を見て、落とさずに、目を閉じた。
午前の演習場は明るく、砂の粒まで全部数えられそうなほど視界が澄んでいた。澄みすぎた景色は、ときどき人の癖を露骨に浮かび上がらせる。新城カイのチームは、そういう明るさの下でこそ映えるはずだった。規律正しい足並み、想定された角度、最短で貫く突撃。どの動作にも「正しい」が貼り付いている。貼り付けてしまったものは、剥がすときに音が鳴る。
セラの氷は、今日も透明だった。透明なのに、触れた者の動きをわずかに丸く曲げる。遷移層の密度が均され、刃は音を連れていかず、通った痕だけが白く残る。残る白の細さを、カイは認めていた。認めていながら、それが自分の突撃の拍をずらすことに苛立ちを覚えていた。
「拍じゃない。角度だ」
彼はそう言う。角度が揃えば、突撃は美しく刺さる。美しい刺さり方でない勝利を、カイは勝ちの範囲に含めたがらない。彼の中の「勝つ」は、形式の美と結びついている。歪んだ勝ち方は、負けだとすら思っている節がある。
午前の最初の対戦、セラの氷筋が相手の前衛の膝を浅く撫でた。撫でただけで、相手は足の置き場を一段変え、カイの突撃線上からずれた。ずれた相手に、刃が狙っていた芯の手応えがない。芯がない手応えを、カイはこの上なく嫌う。嫌悪の細い皺が、彼の眉間にだけ生む音は、ベンチのほうまで届いた。
「今の、俺が踏み込む前に通すな」
試合後の整列の直前、カイは短く言った。セラは目を合わせ、わずかに首を振る。
「通さないと、相手の回復が先に形になる。遅れた一手で、次が全部重くなる」
「重いほうがいい。重いものを正確に持つのが俺たちの勝ち方だ」
「重いものを持てるのは、持ち上げ方を知ってるから。今のは、置き方を変えた」
言い合いはそこで途切れた。途切れた音の裏で、観客が席を立つ。拍手は短く、空に吸われる。砂の表面だけが夕方の色に近づき、白線の端が薄く灰を帯びた。
◇
チーム会議は、窓のない小部屋で行われた。壁に掛かった戦術図は、何度も書き直された跡が層になって残っている。古い線の細さと新しい線の太さが重なり、紙の上で時間がひとつの図を譲り合わずに喧嘩している。
司令塔役の男子が配布した紙に、今日のミスが印字されていた。誤字はない。誤配線の指摘だけが淡々と並ぶ。淡々の底に湿りがある。
「セラの新式は、確かに通りが滑らかだ。だが前衛の最短動線と干渉する場面が出ている。前衛優先の原則に戻したほうが、全体の効率が上がる」
カイがうなずく。うなずきながら、机の天板に置いた拳をゆっくり握る。握る指の節が白い。白いと、血の色の代わりに粉の色だけが見える。粉は、黒板に触れなくてもどこにでも付く。
「戻そう。氷は旧式の層構成で、角は立てる。遷移層は最小限。目に見える強度に寄せる」
セラは紙を見て、顔を上げた。
「角を立てれば、刺さる。でも、折れる」
「折れないように刺すのが、前衛の仕事だ」
「それ、いつもできる?」
静かな質問だった。静かすぎて、刃より冷たい。司令塔が咳払いで間を埋める。
「理想の話はわかる。ただ、選抜の段階では欠点の見えない勝ち方を優先したい。ここで取りこぼせば、何も始まらない」
「欠点をごまかす勝ち方は、あとで全部請求される」
セラの声はきちんとした音量で、誰の耳にも届くところに置かれた。置かれた言葉は、部屋の空気の層を一枚剥がし、壁にかかった戦術図の古い線をくっきりさせた。
「勝ちたい。正しく勝ちたい。間違った勝ち方は、勝ちじゃない」
カイが笑った。笑いは上手い。上手いのに、今日の笑いは古い。古くなった笑いは、表面に薄いひびが走る。
「正しさは、結果で決まる。形じゃない」
「結果だけで決まるなら、あなたはここに立ってない。あなたがここにいるのは、形を守ってきたから」
室内の空気が少しだけ重くなり、全員の視線が机に落ちた。落ちた視線の集まる場所に、見えないひびが広がる。ひびは音を持たない。持たないものほど、あとで響く。
「……次の対戦、旧式でやって」
司令塔が妥協案のように言う。セラは目を閉じ、すぐ開けた。頷くでも、否でもない顔。肯うための筋肉と、否むための筋肉が両方用意され、どちらにも倒さない発声だけが残った。
「わかった。やる。でも記録は残す。何が折れて、どこが刺さらなかったのか」
カイの指先がわずかに動いた。机の角に爪が触れ、薄い音が出る。音は狭い部屋を一周して、紙の上に落ちた。
◇
午後の二戦目。旧式の氷。角は立ち、音は鋭い。刃は確かに刺さる。刺さった感触は、見栄えがいい。スタンドから歓声が上がるたび、カイの足取りは軽く揃い、セラの顔色は少しずつ薄くなった。
相手の回復役は、朝より賢くなっていた。固定壁の角と角の間に薄い膜を残し、刃の腹を滑らす準備をしている。その膜に、旧式の角は弱い。角は流れを起こしてしまう。起きた流れに、剣士の踏み込みが微妙に引き摺られ、全体の重心が半足ぶんずれる。ずれた重心に、詠唱が追いつかない。
「踏み直せ」
カイが叫ぶ。叫びは正しい。正しい叫びは、隊列を救う。救うはずだった。剣士の踵が砂に深く沈み、跳ね返りの角度が崩れる。崩れた角度に、セラの次の氷筋が刺さらない。刺さらない刃は、ただ冷やす。冷やされた砂は、ほんの少し滑る。滑った足に、遅れがつく。
小さな遅れが三つ重なって、スコアが逆転した。審判の旗が上がり、観客席の空気が沈む。沈んだ色はよく見える。見る者は、面白がる。面白がりは、毒だ。
初の黒星。
整列の列で、カイの喉仏が上下した。飲み込んだのは言葉か、血か、粉か。セラは何も言わなかった。言わない代わりに、指先で包帯の端を一度だけ押さえた。先日の傷は浅かった。浅い傷はすぐ忘れられる。忘れられた傷に、負けはよく触れる。
「次は、戻す」
退場の通路でカイが言った。戻す、というのは新式に、ではなかった。もっと前――彼が選抜の前段で磨き上げてきた、完璧な突撃線の時代に。氷は刃のための踏み台。支援は角のための支柱。誰の目にもわかりやすい正しさ。勝つために、美しい。美しいから、勝つ。
「戻らない」
セラの返事は短かった。短さが、否を強くする。
「勝つために正しくなりたい。正しさの形が変わったなら、私が変わる。戻らない」
カイは立ち止まり、彼女を見た。見たまま言葉を選ぶ顔。選ぶ過程で、昔の練習場の景色がわずかに滲む。砂が粗く、指導役の叱声が太く、彼が初めて「形」を褒められた日の冷たい空気。褒め言葉の輪郭に、彼は守るべき境界を見てしまった。その境界を強く撫でるほど、指の腹は薄くなった。
「セラ。俺たちは――」
「同じ方向を見てる。だから、ぶつかる」
その通りだった。ぶつかるのは、遠ざかっていない証拠だ。証拠は痛い。痛みは、記録になる。
◇
夕方、勇者候補の棟のトレーニングルーム。窓ガラスに橙の色が薄く残り、床の黒いゴムが光を飲み込む。器具の鉄のにおいに、消毒液の匂いが重なっている。重なるにおいの上から、紙の匂いが微かにする。紙はどこにでもいる。紙に書いたものは、どこにでもついてくる。
司令塔がデータをプロジェクタに投影する。数字が並び、線が描かれ、勝ちと負けの差が薄く可視化される。薄い差は、意見を割る。割れた意見に、カイが手を挙げた。
「次も旧式でやる。突撃線を最優先。氷は補助」
誰も返事をしない時間があった。その空白の中で、セラが前へ出る。前に出る動作の速さは、つねに静かだ。
「私は、新式でやる。記録を残す。負けたときに、何が折れているのか。どこで勝てるのか。あなたの突撃は、正しい。でも、その正しさが壊してるものがある」
カイは目を細め、口元を固くした。
「俺は守ってきた」
「私も、守ってる。違う角度で」
「角度の違いで隊列は壊れる」
「壊れたなら、設計し直す」
設計、という単語に、数人が小さく目を泳がせた。零席の黒板の粉が、勇者候補の部屋の空気に混ざったからだ。混ざった粉は、払っても落ちない。
司令塔はため息をひとつだけ落とし、まとめた。
「次は分岐案でいく。前半は旧式、後半は新式。記録者は二名。喧嘩する時間はない」
誰も笑わなかった。笑うべきタイミングだったのに。笑わなかったことが、みんなの体内の時計のずれを示す。
◇
その日の夜、屋上。風は弱く、旗は鳴らない。鳴らないのに、金具の擦れるにおいだけが残る。残るにおいは、記憶に効く。
カイは柵にもたれ、校庭の白線の消えかけた跡を見下ろした。昼間はくっきりしていた線が、夜の湿り気でぼやけ、砂に戻る。戻っていく最中の線を見ていると、形の正しさが全部仮に見える。仮を積み上げて城を作り、その城で旗を振り、旗の襟だけが揺れ、顔はどこにも映らない。
「俺は、守ってたのか、壊してたのか」
声は低く、夜の鉄の色に近かった。問いは誰にも向けず、風にも向けない。壁に向けた声は、跳ね返らない。跳ね返らないから、胸の中で膨らむ。膨らんだものに、人は名前をつけたがる。名前をつけると、扱える。扱えるようになってしまうと、壊せる。
彼は目を閉じた。閉じた暗さの表面で、今日の試合のひとコマが何度も現れては薄く消えた。旧式の角が膜で滑り、剣士の踵が砂に沈み、号令が届く前に遅れが増え、セラの氷が刺さらず、観客の空気が沈み、それでも正しさを守ろうとして声を張り、声が形を壊し、形が声を壊し――。
遠くの闇の底で、微かな音がした。水が逆さに落ちるみたいな音。彼はその音を知らないはずだった。知らないのに、胸の骨の内側がうっすらと冷えた。冷えが、古い記憶の輪郭を指でなぞる。初めて褒められた日のラインを、誰かが黒い太線でなぞり直す。その太線は、輪郭を守ると同時に、中身を窒息させる。
柵に置いた掌に汗が滲む。汗は金属の粉を呼び、見えない粒が肌に移る。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている――そんな気がした。気がしただけだ。気がしただけでも、十分壊れるものがある。
足音がした。軽い。御影かと思い、違うとわかる。足音は止まり、すぐ離れた。襟だけが揺れるのが見えた。顔はない。顔のない影は、名前に強い。
カイは息を整え、少し笑った。笑いはうまくない。うまくない笑いは、正直だ。
「明日、勝つ。勝って、それでも崩れていたら、そのときもう一度決める」
誰に言うでもなく、彼はそう置いた。置いた言葉は、夜の鉄に吸われて、音を立てなかった。音がないほうが、怖い。怖いほうが、決めやすいときがある。
旗は鳴らなかった。鳴らないのに、金具のにおいは強くなった。においの強さは、朝の近さだ。朝になれば、砂の線はまた濃く描き直される。描き直された線が、今日より正しく見える確証はない。ないから、整える。整えた線の上に、誰かの足が乗る。足が乗るたび、線はほんの少しだけ音を変える。その変化を、彼は明日、聞き分けなければならない。
守るために。壊さないために。あるいは、壊すべきものを見つけるために。
夜気は薄く、屋上の床は乾いていた。乾いた床の上で、彼の影だけが細く伸び、襟だけが揺れた。揺れ方は、いつもより遅く、正確で、残酷だった。
第十二話 合宿と同期事故
山の空気は冷たく、薄かった。学園からバスで二時間。木々が近く、建物が少ない。合宿所の前庭には白い石灰で丸が描かれ、まだ誰の足跡もついていない。風で枝が擦れ合う音が、耳に残る。擦れ合う音は、旗の金具と少し似ていた。
合宿初日の午後、レンは板張りの食堂に皆を集めた。長机をどけ、壁際に折りたたみの黒板を立てる。黒板は小さくても、粉は同じにおいがする。ツムギは消しを両手で抱え、御影ユウトは体育倉庫から延長コードを持ってきた。延長コードは床に蛇のように伸び、足を引っかける気配をつくる。
「大規模同期をやる」
レンの声はいつも通りだった。いつも通りは、練習より危険だ。危険だから、皆が一斉に静かになった。
「今までの合成は人数が少なかった。四人、五人。同じ動きを合わせて、ズレを吸って、ひとつの線にまとめる。でも本番はもっと多い。同期の輪を大きくしても壊れない方法を、今日ここで決める」
黒板に白い線が増える。基礎層、支柱層、緩衝、遅延。短い言葉だけ置き、指で粉を払う。その粉が、窓のほうへ飛ぶ。窓の外では、山の影が近い。近い影は、聞き耳を立てている。
レンは続けた。
「基礎はツムギ。無色の層に皆の線をいったん吸わせて、遅延で並べる。御影が前で支援の線路を引く。前に出す支援に慣れているぶん、負荷を増やす。ここが問題だ。輪が大きいほど、支えの重さは急に跳ね上がる」
御影は頷いた。ツムギは両手の指を握ったり開いたりして、すぐにやめた。握ると手のひらが白くなる。その白さが今日は痛そうに見えた。
「大丈夫。練習で限界点を測っておく。限界は設計し直せる」
レンの言い方は軽かった。軽さは、みんなが不安になるから、楽に聞こえるように置かれている。だが軽さの下で、何か固いものが欠ける音がした。レン自身には聞こえていない音だった。
夕方。前庭の白い円の周りに皆が立つ。円の中には印が四つ。ツムギと御影、乱暴者の前衛、矢の子の弓。その他は周囲で待機し、合図で順番に輪に入る。合図係はレンだ。白い石灰の粉が靴に付く。粉に湿り気はないのに、足裏が冷たくなる。
「第一段」
レンが手を挙げた。ツムギが目を閉じて、指のひらを空に向ける。空気が薄く沈み、無色の光が見えない膜になって足元へ広がった。御影の支援が前に置かれ、前衛の踏み切りが膜に乗る。乗った瞬間、輪は確かに軽く回った。軽く回るものは、油断を呼ぶ。
「第二段」
待機組から二人が輪に加わる。支援の線が増え、ツムギの基礎層が広がる。御影の手首の動きが速くなり、視線が細かく跳ねる。跳ねる視線の先で、遅延の並びが崩れかけ、すぐ戻った。戻ったことを、誰も褒めない。戻ったという事実は、次の崩れを呼ぶ。
「第三段」
輪は広くなり、合図のタイミングは短くなる。短い合図に、体は間に合う。間に合っているのに、何かが遅れる。遅れたものだけが、重くなる。重くなった負荷が、御影の肩に乗った。肩の筋肉が固まり、目の焦点が遠くにずれる。支援は前に出ている。前に出ている支援は、倒れやすい。
「第四段。維持」
レンが告げた瞬間、ツムギの膝が少し落ちた。落ちた膝を支えるために御影がさらに前へ出る。前に出ると負荷が増える。増えた負荷は、基礎層へ流れる。ツムギの指先の震えが細かくなり、呼び名のない色が頬から引いていく。無色の層が広いほど、中心は薄くなる。
レンの視界に、見慣れた「ノイズ」が出た。輪の縁、ツムギの足元、石灰の線の上。黒い点の群れが、設計線の上を泳ぐように動く。合宿所の前庭に世界式の指が降りてきて、彼らの輪の強度を測っている。測られている、という言葉を置いた瞬間、ノイズは濃くなった。濃くなるということは、あちらが近いということだ。近いと、早い。
「維持」
レンは繰り返した。繰り返すことで、輪の閉じ方が安定する。安定は、割れにくさの仮の姿だ。仮は長く持たない。ツムギの膝がもう一度落ち、今度は戻る気配が薄かった。御影の肩に乗っていた重さが一気に跳ね上がり、彼の口から短い音が漏れた。漏れた音には名前がない。名前がない音のほうが、ずっと本物に近い。
「中止」
レンが口を開くより早く、輪の内側で光が崩れた。合成の線がばらけ、遅延がズレ、支援の滑りが止まる。止まったところに、全員分の重さがいっぺんに落ちた。落ちた重さの下で、ツムギの目の焦点が消えた。彼女はあっけなく倒れ、膝が石灰の線を擦って白くなった。
時間の流れが細くなった。誰もが声を上げた気がするのに、音が出ない。合図係のレンの声は、遅れて出た。遅い声は、間に合わない。
「解け! 輪を解け!」
遅い命令を、皆はすぐに聞いた。輪は解け、支援の線は外され、前衛は武器を下げた。御影は走ってツムギの肩に手を回し、地面から持ち上げる。体重は軽いのに、持ち上がらない。持ち上がらないときの軽さは、怖い。
レンが駆け寄ると、御影の視線がぶつかった。ぶつかるというより、刺さった。刺さる目は、言葉の前に手を動かす。御影はレンの胸ぐらを掴んだ。掴んだ手は、いつもより冷たかった。
「お前の設計は、誰のためだ!」
言葉は大きくなく、閉じた空間に置くための音量だった。置かれた言葉が足元の石灰の粉を震わせる。粉は細かく跳ね、すぐに止まった。止まった粉の一つひとつに細い配線が走っている――そんな気がして、レンは目をそらしたくなった。
「……」
何も言わなかった。言葉が遅いときは、頭を下げたほうが早い。レンは、御影の手が胸を掴んでいるのをそのままにして、小さく頭を下げた。下げる行為は、謝罪ではない。作業の前の姿勢だ。粉が襟に落ちる。襟が白くなる。襟だけが揺れた。
皆がツムギを運んでいく。合宿所の玄関に入ると、消毒液のにおいが強くなる。においの強さは時間の近さだ。誰かが走り、誰かが水を取り、誰かは祈るような目をして立つだけだ。立っている者の靴に、白い粉がまだ付いている。
レンは前庭にひとり残った。石灰の輪の中に座り、黒板を引き寄せた。膝の上でノートを開く。ノイズが浮かぶ。浮かぶノイズは、怒っているように見えた。見えたから、あえて視線を外さない。外さないままで、線を引く。引いた線が震える。震えの上から、別の線を重ねる。
「負荷を、分けろ」
声に出した。御影に向けたのではない。自分の手に向けた。手は、従った。黒板に白い四角を描く。その四角の中に、輪の中の人間の名前を置く。ツムギ、御影、前衛、弓、詠唱者、癒し手、その他。名前ではなく、役目の線を引く。線の太さを変え、繋ぎ目に小さな箱を挟む。箱は、譲渡器。持てない重さを隣へ渡す小さな部品。渡された側がさらに隣へ送る仕組みを、輪の外にまで広げる。外側には、待機の者の名を置く。輪の外から中に、重さを吸う細い管を通す。管には逆止弁を付ける。返らない重さは危ないから。
御影の支援の前に、緩衝の布を一枚挟む。布は見えない。見えないが、布の繊維の目を想像しないと、機能しない。繊維の目は細かすぎると詰まり、粗すぎると抜ける。抜けるにも種類がある。良い抜け方を、言葉にする。細い縦糸、少し太い横糸。横糸の間に、譲渡器を挟む。挟んだ場所を御影に見せるイメージだけ、はっきりと置く。
「譲渡の、設計」
書く手の裏で、山の影が伸びてきた。陽が傾くと、石灰の輪が色を変える。色が変わると、線の意味が変わる気がする。気がしただけだ。粉は粉だ。粉の粒に、細い配線を走らせるのは人間の頭の癖だ。癖を使う。癖で、救う。
黒板の前で時間が長く伸びた。伸びた時間の端に、玄関の戸の音が落ちる。御影が出てきた。顔はひどい。嗚咽で赤く、涙の跡が乾ききっていない。乾く前に、彼は前庭へ戻ってきた。戻るべき場所を、体が覚えていた。
「ツムギは?」
「寝た。水の音に反応して目を動かした。大丈夫、と言わない。大丈夫じゃない、も言わない」
御影は黒板を見て、短く息を吐いた。吐く音は荒くない。抑えた音には、力がある。
「新式を、今?」
「今」
「間に合う?」
「間に合わせるために、間に合う設計を作る」
「言葉が嫌いだ」
「僕も嫌いだ」
二人で、少し笑った。笑いの隙間に、山の影が一段深くなった。影は深いほど、音が近くなる。近くなった音のひとつは、合宿所の古い給湯器の鳴き。もうひとつは、どこからか分からない水の逆落ちの音。透明な筒はこの山にはない。ないのに、音だけがついてくる。
「譲渡器、仕組みは?」
「持てない重さを、隣に渡す。渡された側は、少しだけ吸って、また隣へ送る。最後に外側の待機者に逃がす。支援の前で緩衝の布を挟む。布の目は御影の手の大きさに合わせる。御影の手は小さいから、目は細かいけど詰まらない程度に」
「俺の手は小さくない」
「小さい」
「そうだな」
御影は両手を開いた。掌に粉がうっすら付く。付いた粉の粒に、光の線が走る気がして、彼は目を細めた。目を細めるのは、嫌なものを遠ざけるためではない。見たいものの輪郭を、濃くするためだ。
「やる。背負う場所があるなら、背負う。俺が前で、布を受ける。何が流れてくるか、分かるようにしてくれ」
「分かるようにする。重さは数字じゃない。方向と形だ。あとは、匂い」
「匂い?」
「重さに匂いがある。嘘じゃない。前に立つ人間だけが嗅げるやつだ。御影なら、嗅げる」
御影は頷いた。頷きは遅く、深い。深い頷きのとき、人は自分を使う覚悟を思い出す。
「ツムギが起きたら、止められる。起きる前にやろう」
「止められたら、止める」
「止められても、次の設計に繋げる」
「それでいい」
二人はもう一度輪に立った。輪は先ほどより小さい。小さい輪は、壊れにくい。壊れにくいものに、新しい壊れ方が宿る。宿る前に、名前を付ける。
「譲渡式、起動」
レンが言い、御影が前に出る。ツムギの不在の空白に、御影が片足を入れた。片足だけ。代わりきらない代わり方。代わりきらないほうが、割れない。
レンの指が空に見えない布を張る。布の目の間に、小さな箱が並ぶ。箱の内側に薄い窓。窓を通ると、重さが少し丸くなる。丸くなった重さが、御影の前に流れた。御影は両手を広げ、目に見えない塊を受ける。受けた瞬間、吐き気が来た。鼻の奥に金属のにおい。金具が擦れるにおい。嗅いだことがある。いやな記憶を呼ぶ種類のにおいだ。
「来た」
御影の声が低く落ちる。落ちる声は、倒れる前に出るやつだ。倒れない。倒れたら、意味がない。彼は足を少しだけ開き、背中を丸めず、重さの方向だけを見た。重さは右から左へ。上から下へ。下から、また上へ。方向を読み、譲渡器へ送る。送った分だけ、腹が冷える。冷えが続く。続く冷えに、体は弱い。
「もう、二段増やす」
レンの声が薄く届く。届いた言葉の中身を確かめる暇はない。御影は吐いた。吐いて、笑った。笑いは、ひどい。
「これが、俺の役目だ」
言った瞬間、譲渡器の窓が一枚開いた。開いた窓から、外の待機者へ重さが抜ける。抜けたぶん、御影の肩が一瞬軽くなる。軽くなったところに別の重さがすぐ入ってくる。入ってくる前に、彼はまた吐いた。吐き方を選ばない吐き方。選ばないほうが、正確だ。
輪は回った。回り方は悪くない。悪くないのに、良くはない。良くないままで、維持に入った。維持に入ると、ノイズが薄くなる。薄くなったノイズの向こうで、誰かがこちらを見ている。顔はない。襟だけが揺れる。
「止める!」
レンが合図し、譲渡器の窓が閉じ、布が畳まれ、輪が解けた。御影はその場に膝をついた。膝に触れた石灰の粉が白くつき、白の輪郭が少し崩れた。崩れた輪の欠け目から、冷たい風が上がる。風は匂いがない。匂いがない風のほうが、よく覚える。
御影はもう一度吐き、笑った。笑いはさっきよりましだった。
「できる。これで、できる」
レンは頷いた。頷く代わりに、黒板に文字を書いた。譲渡、緩衝、布、窓、外側、待機。書いた字が細く震えて、すぐ止まる。止まった文字は、長持ちする。
ツムギが玄関に立っていた。いつから見ていたのか、わからない。顔は青くない。青いのは包帯の端だけだ。彼女はゆっくり歩いてきて、御影の前にしゃがんだ。しゃがみ方が静かだった。
「怒っていいのは、御影だけ」
ツムギの声はまっすぐだった。御影は首を振って、また笑った。笑いに涙が混じる。涙はすぐ乾く。乾く前に、ツムギはレンを見た。見られた側の胸に、粉が一粒落ちた。落ちた粉に、細い配線が走る。
「ねえ、レン」
「うん」
「私の基礎層は、今までのままでいいの?」
「よくない。広げ方を変える。中心を薄くしすぎない。譲渡の窓は、最初に君のそばに一枚置く。逃げ道を作る」
「逃げ道」
「設計の礼儀」
ツムギは笑った。笑いは短く、丈夫だった。
「じゃあ、次は、私も立つ」
「寝てろ」
御影が言った。彼は立ち上がり、足元の粉を払った。払った粉は落ちない。靴裏に残って、彼の歩き方に重さを足す。重さが足された歩き方は、今日の記録になる。
合宿所の二日目、三日目。譲渡式は改良を重ね、輪の人数は増え、御影の吐く回数は減った。減ったが、ゼロにはならない。ゼロにしない。ゼロを目指すと、どこかが割れる。割れない範囲で、勝つ。
夜。山は音を減らし、星の色が強くなる。強い星は、怖い。怖いものほど近い。近いと言ってはいけない種類の近さだ。合宿所の屋根の上で、レンは黒板の小さな破片を指で弄んだ。粉が落ちる。落ちた粉が、屋根の板の隙間に入る。隙間の下には、天井。天井の裏には梁。梁の先に、古い配線。配線のどこかで、誰かが測っている。そう思うと、笑えなくなる。
笑わないまま、レンは屋根から下りた。廊下は暗い。暗い廊下で、誰かが立っていた。襟だけが揺れる。顔は見えない。近づくと、相手は一歩退いた。退くときの靴の音は軽く、床に重さを残さない。
「誰」
レンが言うと、影は消えた。消えたのに、金具のにおいだけが残った。においは、時間を運ぶ。運ばれた時間の端で、レンは思い出す。管理棟の地下。透明な筒。世界式のノイズ。安定化。逸脱。譲渡。
設計は、冷たくて優しい。冷たいから、間違える。優しいから、間違えたまま歩くことができる。間違えた足跡に粉が付く。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――走っている。そう思えるあいだは、まだ間に合う。間に合わせるための設計を作れる。
翌朝、山は明るかった。白い円は薄く崩れ、昨日の足跡が消えかけている。消えかけた場所に、新しい線を重ねる。重ねる前に、レンは皆を見た。ツムギの顔色は戻っていないが、目は真っすぐ。御影は吐き気止めの袋をポケットにしまったまま、笑っている。前衛は足に包帯を巻き、弓は弦を張り替え、詠唱者は声を温めている。乱暴者は黙って輪の外を歩き、癒し手は水の温度を確かめる。
「行こう」
レンは言った。言葉は短い。短い言葉でしか、輪は回らない。回るとき、粉はまた落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走る。配線の先に、まだ空白がある。空白は怖い。怖い空白に、名前を付ける。今日の名前は、譲渡。次の名前は、まだ書かない。書かない余白の上で、輪は静かに回り始めた。
第十三話 ゼミ抗争
午前の掲示板は紙の層が厚く、角が重く垂れていた。上から新しい告知の針が打ち込まれ、古い紙の端が砂糖菓子のようにほろほろ剥がれ落ちる。白い欠片は床に散り、靴底に付き、廊下の端に連れていかれる。連れていかれた欠片の上を、視線だけが何度も踏む。
公開討論会。学内最強の教授ゼミ、名を挙げれば誰もが一度は頭を垂れたあの研究室が主催。テーマは「才能は先天か設計か」。場所は大講義棟、午後。招待枠に、零席の名があった。名簿の紙に、黒いインクで薄く囲い。囲いの四隅が、誰かの爪で小さく潰れている。
噂は早かった。廊下に漂う空気は甘くなく、鉄分を帯びている。旗の金具は鳴らないのに、擦れた匂いだけが残っていた。匂いは記憶を集める。集められた記憶の薄い束が、掲示の前でほどけそうになる。
「やるの」
ツムギが告知の紙を見上げた。彼女の瞳には紙の行間が映り、映った文字の縁が少し滲む。彼女は首を少し傾げた。細い仕草は、たいてい誰かの緊張をほどくが、今日はほどけない。
「やるよ」
レンは答えた。御影ユウトは紙を上から下まで二度読み、ふっと笑って肩を回す。
「“公開”がついてる。あのゼミ、勝ち筋だと思ってるな。先天の旗を振れば、客は拍手する」
「振られた旗の襟だけが揺れる」
レンは掲示から離れ、零席の教室へ戻った。黒板には薄い線が残っている。昨日の譲渡式の図の名残。粉の匂いは甘くなく、乾いた土に近い。粉はどこにでも付く。付いた粉を払いながら、彼は小さな白の四角を描いた。
「議論の準備はする。でも今日は“実演”を中心に置く。言葉は好きに切り貼りできる。動きは嘘をつかない」
「実演って、あのふたりで」
御影がツムギを見た。ツムギは小さく頷く。頷くたびに髪に白い粉が降り、光の粒が一瞬だけ浮かんだ。
「最小構成。基礎層一、支援一。合成なし、増幅最小、遅延は必要最低限。二人だけで最大出力を出す」
「最大って、どこまで」
「全体の張力を歪めない範囲、ぎりぎりまで」
彼はチョークの先を折り、粉を指に押しつけながら言った。押しつけられた粉は、皮膚の油に薄く貼りつく。貼りついた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている気がする。気がするだけでも、設計は進む。
◇
午後。大講義棟は縦に広く、声がよく伸びた。伸びすぎた声は意味を薄め、言葉の形だけが天井で跳ねる。跳ね返って落ちてくる拍手は重く、床の木を鈍く鳴らした。
壇上には教授陣の長い机。中央に座るのが学内最強と謳われる白髪の教授で、目は細いのに、こちらをよく見ていた。左右に助手と院生。紙が積み上げられ、グラフの束が前に寝かされている。零席の席は斜め前の短い机、三人分。レン、ツムギ、御影。座る前から、後列の学生の視線が刺さる。面白がりと敵意は色合いが似ている。似ているものの区別は、遅れてやってくる。
「始めましょうか」
白髪の教授が軽く頷き、指先でマイクを整えた。整えられた音は透明で、耳の裏で薄く凍る。
「問いは単純です。才能は与えられるものか、作るものか。私は前者だと考える。与えられたものの管理と最適化、環境の微調整。教育者の務めはそこで尽きる。作る、などと言う者は、たいてい若いか、若く見せたがる。あるいは、危ない」
客席に笑いが走る。軽い笑い。笑った者の指先だけが白くなった。白くなった指の節の皮に粉が付いたように見える。それは錯覚だ。錯覚が多いほうが、議場はよく温まる。
教授は数枚の資料を示した。折れ線。散布図。相関の影。遺伝的指標、幼児期の測定、青年期の伸び。伸びの限界値。限界値を越えようとして怪我をしたスポーツ選手の例。数字は冷静で、冷静なものはたいてい強い。
「君たち零席は、設計を口にする。配線の再定義だとか、基礎層の調整だとか。しかし、それは本当に“作る”行為か。もともとあった性能を引き出しているに過ぎない。袋の口を閉じていた紐をほどいただけだ。紐がなければ、袋は開かなかったはずだ。その袋を誰かに与えられた、という事実を、設計はどこまで埋められるのか」
教授の指が机を軽く叩く。叩く音は短く、よく通る。通った音の先で、神垣が静かに腕を組んだ。彼は観客席の後方、陰になる位置に立っている。立っているのに、影が薄くならない。襟だけが揺れる。
「君はどう答える。零席の設計屋くん」
レンは立った。マイクには触れない。触れないほうが、音が透ける。
「答えは単純です。設計は“可塑性”の操作で、可塑性は後天的に増やせる。袋を与えられたかどうかではなく、袋の布目を変え、口の縫い目を増やし、重さの逃がし方を設計する。与えられた布はそのまま。でも袋の“仕事”を変える」
教授が薄く笑った。笑いが上手い。上手い笑いは、よく滑る。
「言葉はきれいだが、検証が必要だ」
「だから、実演をご用意しました」
レンは机の上に小さなプレートを置いた。簡易回路板。ツムギの手に馴染むよう、角を落とし、薄い溝を二本通してある。御影は隣で椅子から立ち、前に出る。客席のざわめきが増え、空気が硬くなる。硬くなると、音は細く刺さる。
「最小構成で最大出力。二人だけ。基礎層と支援。合成なし、増幅最小、遅延は必要最低限。今日は“見せるための設計”じゃない。“生きるための設計”であることを見せる」
ツムギはプレートを受け取り、指に挟む。彼女の掌はまだ少し冷たい。冷たい掌の上で、回路の溝が光を飲み込む。飲み込んだ光は色を持たない。無色の層がひろがり、床の木の縁に淡い影を置いた。
「御影、前へ。君は舞台監督。線路は短い。滑らせすぎるな」
御影は頷き、手を前に差し出す。差し出した指の節の皮に粉はない。ないのに、あるように見える。目の錯覚だけで、支援は成立する時がある。
指示は短い。短いのに、輪郭ははっきりしている。レンは壇上の端に立ち、白いチョークで空に見えない四角を描いた。四角の角に、小さな窓。窓の向こうに、逃げ道。
「起動」
声は小さく、しかし全員の耳に届く位置に置かれた。置かれた声の上で、ツムギの無色が開く。開いた層に、御影の線が前に滑る。滑りは狭い。狭いから、倒れない。狭い上で、御影は重さを抱えて右へ送る。送る前に少し噛み、噛んだ分だけ柔らかくする。柔らかくなった重さが、ツムギの基礎層の上で丸く回った。丸く回るものは、見栄えがしない。見栄えがしないぶん、壊れにくい。
教授陣の机の上で紙がめくられる。助手の小さな囁きが続く。グラフの線は揺れない。揺れない線の先で、白髪の教授が顎を撫でた。
「出力」
レンが短く言った。ツムギがプレートの溝の端を軽く弾く。弾いた音は聞こえない。聞こえない音の代わりに、空気がいちどだけ薄く沈んだ。沈んだ空間から、光が一本、無色のまま前へ走った。走った先で、御影の指がそれを受け、さらに前へ押し出す。押し出された無色は、壁に当たる直前で角度を変え、梯子のように段を作りながら高く伸びる。段の間隔は均一。均一な段は、だれの足も選ばない。
講堂の空気が一瞬静まり、その静けさを破るように、後列から低い息が漏れた。息の音はすぐ消え、代わりに紙の擦れる音が重なる。擦れた音は、緊張の軽い衣擦れに似ている。
「最大域まで、あと三目盛」
御影が囁く。ツムギは頷き、無色の層を薄く重ね直した。重ね直しは早く、雑ではない。雑に見える早さほど、よく設計されている。御影の肩に重さが乗る。乗った瞬間、彼は笑った。笑うことで、重さは少しだけ軽くなる。笑いは、訓練の一部だ。
「もう一段」
レンが言った瞬間、講堂の床の下でわずかな振動があった。透明な液面が逆さに落ちるような気配。音は誰にも聞こえないはずなのに、数人が同時に首筋を押さえた。押さえた手の指に粉はない。粉がない手は、汚れを知らないふりが上手い。
無色の段がさらに伸びる。段の上面に薄い光が走り、最後の先端で静かに消えた。消えた場所で、空気の張力がほんの少し変わる。変わったことに気づく者は少ない。気づかない者の拍手は早い。早い拍手の中で、教授陣の机の前のランプが僅かに明滅した。明滅は規定外の合図だ。規定外は、おおむね危ない。
「これが、“最小構成で最大出力”。袋は与えられたまま。布目を変え、口の縫い目を増やし、重さの逃がし方を設計しました。可塑性は、増やせる」
レンは言った。客席の一部が笑い、別の一部が黙った。黙った人の目は、紙ではなく二人の足元の段差を見ていた。見えない段差。見えないものほど、正確に働く。
白髪の教授はマイクに手を添え、ゆっくり首を傾げた。
「見事だ。だが、それは特例ではないか。このふたりが特別に相性が良いだけではないか。相性の妙を、設計と呼び替えているのではないか」
「相性を扱うことも、設計です。偶然の噛み合わせを再現可能な形で固定する。今日は“固定”の手順も公開します」
レンは黒板を運ばせ、壇上に立てた。粉の匂いが急に濃くなる。濃い匂いは、怖さを薄める。薄まった怖さの下に、別の怖さが沈殿する。
「見てのとおり、構成要素は五つ。基礎層、支援線路、緩衝布、遅延の軽い糸、逃がし窓。どれも簡単で、誰でも作れる。作る順番だけが難しい。順番は計測で決める。今日ここで計測します」
「測る、とな」
教授が目を細めた。眼鏡のレンズが光をはね、客席の顔のいくつかを白くした。
「計測は、危うい“調律”に近い。若者はそれを面白がり、やがて壊す」
壊す、という語が出た瞬間、講堂の後方で旗が鳴った。鳴るはずのない場所で、金具が擦れた。音は短く、空気の隅に薄い傷を残す。残った傷の上を、神垣の視線が通る。視線は冷たい。冷たい視線は、数字の匂いがする。
「壊しません。壊れているものを、少しだけ持ちこたえさせる。設計はそのためにある」
レンは順番に、校内から借りた計測器を並べた。古い型で、数字が遅い。遅い数字の上に、別の数字を重ねる。重ねることはよくないが、今日は許す。教授陣も頷き、助手が前に出て紙を渡す。紙の端に赤い丸。丸の中は空白。空白はよく働く。
実演の二段目で、教授陣の顔色がわずかに変わった。御影の前に置かれた緩衝布の目が、計算上の最適値と数%ずれたのだ。ずれた値のまま、出力は安定している。安定していることのほうが、気味が悪い。
「何をした」
白髪の教授が低く問う。レンはチョークを置いた。
「設計の“許容”を、広げました。可塑性に可塑性を重ねる。目の粗さのばらつきを、譲渡器で吸いながら走らせる」
「理屈の上で、説明になっていない」
「理屈より先に動いているので」
教授は笑わなかった。笑わない顔は、たいてい本音に近い。近い顔に、客席のいくつかが引いた。引いた気配は、廊下の影にたまる。
教授陣の端に座る若い講師が、手を挙げた。出自が違うゼミの男だ。額に薄い汗を浮かべている。
「君らの言う設計は、方法論として興味深い。しかし“誰にでも”は無理だろう。誰にでも、という言葉は教育の現場で刃になる」
「刃になるから、鞘を作る。鞘ごと設計する」
レンは机から紙を取り、そこに簡易の“手順”を書いた。二行おきに薄い空白。空白の脇に小さな丸。丸の中に、小さく逃げ道と書く。丸は数えられる。数えられるものは、安心する。
「今日見せたのは二人のための設計です。三人四人五人と増やすには、譲渡の流路を広げ、逃げ道を増やす。逃げ道が増えれば、無能と呼ばれてきた動線にも仕事が出る。誰にでも、は嘘です。誰にも、ではなくなる。それだけで十分です」
静かな拍手が起きた。静かな拍手は長い。長い間、壇上と客席を細い橋で繋ぐ。橋の下を風が抜ける。風は匂いがない。ないもののほうが、よく覚える。
教授は紙を重ねて脇に寄せ、背もたれに軽く触れた。椅子は軋まない。軋まない椅子は高い。彼はゆっくりとマイクを外し、机の上に置いた。
「私の負けだ、とは言わない。理論としては欠落が多く、危うく、危険だ。それでも、現象はたしかに“ある”。ここで否定すれば、教育者の罪になる。……ただし、指導の枠組みの外で続けるなら、話は別だ」
教授の視線が、神垣へ向いた。神垣は動かない。動かないまま、目だけが薄く笑ったように見えた。笑いは氷に似ている。似ているだけで、同じではない。
「設計工学は、危うい。学内で扱うには、枠が要る。枠の外へ出る者は、切られる」
切る、という語に、講堂の床が浅く鳴った。誰も足を動かしていない。鳴ったのは、床の下だ。透明な何かの揺れが、古い木の梁に触れた。触れた場所が冷えた。
レンは静かに頷いた。頷きは礼ではない。確認だ。彼はマイクを取らず、客席に向けて頭を下げた。下げる角度は浅い。浅い礼は、長持ちする。
「以上で、零席の実演を終わります」
拍手はさっきより硬く、早かった。硬い拍手は、議場を早く終わらせる。終わることを誰もが望むとき、外で別の扉が開く。
◇
討論会が終わって人が流れ出し、講義棟の外の石段に影が長く伸びた。レンたちは一枚の影の縁を踏み、建物の裏手の通路を通る。裏手は冷え、金具の匂いが強い。風は弱いのに、襟だけが揺れる気配がある。顔はない。
「勝った、でいいの?」
ツムギが小さく聞いた。御影は肩で笑い、喉に残った緊張を咳で切った。
「論破って言葉は好きじゃないけど、あれは勝ちでいい」
「勝ちは、明日まで続かない」
レンは答えた。答えながら、壁の向こうの地下を思った。透明な筒。線束。棚。古い紙。ノイズ。安定化。逸脱。譲渡。扉。鍵のない扉は、押すだけで小さく開く。開く必要がないのに、開く。
その時、学内放送のスピーカーが一瞬だけ明るく鳴り、すぐ沈んだ。誰かがマイクを触って離した時の音。音は短い。短い音の後で、地面の下から低い唸りが来た。低いのに、はっきりとした起動音。空気の層が一枚めくられ、階段の隙間に冷たい気配が立つ。
《方舟》が、起動した。
レンの視界の端に、薄い文字が浮いた。浮いたのは現実ではない。紙でもない。頭の奥の、図と図の隙間。そこに、細いタグが貼られるようにして現れた。
逸脱候補。
言葉は短く、重い。重さは数字ではなく、方向と形で押し寄せる。押し寄せるものが胸の裏に触れ、冷たさを置いていく。冷たいのに、熱のにおいがする。金具のにおい。黒板の粉のにおい。消毒液のにおい。混じったにおいが、名前を奪う。
「いま、音したよな」
御影が立ち止まり、石段を振り返る。人影が上を通り過ぎる。襟だけが揺れる。顔はない。
「地下が動いた」
レンは言った。言葉の端に粉がひっかかり、指先が白くなる。白くなった指で、彼はポケットのノートを開いた。開いたページに、細い字で書く。
方舟 端末 起動 逸脱候補タグ 付与
書きながら、胸の内側で小さな笑いがひび割れた。笑いは上手くない。上手くない笑いは、正直だ。
「レン」
呼ぶ声は小さかった。ツムギだ。彼女は階段の影の中で立ち止まり、指先で袖の端をつまんだ。つまみ方が細い。細い指に、粉がうっすら付いている。粉は落ちない。落とさない。落とすと、線が消える。
「怖いの、嫌いじゃないけど、嫌い」
「僕も」
御影が苦笑いし、空を仰ぐ。空は曇っていないのに、灰色だった。灰色の空は、音の色を吸う。
「対策は?」
「設計する」
レンは答えた。即答は逃げではない。顔を上げるための支えだ。支えは細い。細い支えに、今は乗る。乗ったあとで太くする。
神垣が廊下の端に現れた。現れて、立ち止まる。立ち止まって、笑わない。笑わないのに、周囲の空気が少しだけ乾く。乾いた空気は、紙を波打たせる。
「よくやったね」
褒め言葉は薄い。薄い褒め言葉は長持ちしない。長持ちしないから、よく使われる。
「だが、ルールは変わる。規約は読み物だが、読む者を選ぶ。選ばれない者が読めば、切られる」
御影の肩がわずかに動いた。動いた肩の上で、彼は笑った。笑いは苦い。苦い笑いは、支えになる。
「選ばれに行くよ。切られに行くわけじゃない」
「君の“設計”は、誰のためだ」
昼間の怒鳴り声が戻ってきた。御影の掌の温度。ツムギの膝の白い粉。譲渡器の窓。逃げ道。レンは目を閉じ、すぐ開けた。
「誰かの役に立つ“仕事”のため」
神垣は短く笑った。笑いは氷ではなく、薄い紙の裂け目だった。裂け目は細い。細い裂け目から、黒いものが一瞬だけ覗き、すぐ消える。
「なら、続けなさい。続けていてもらわないと、切れない」
そう言って、彼は踵を返した。返した襟だけが揺れた。揺れた襟の振幅が、階段の段差と同じだった。同じものは、違うものより怖い。
◇
夕方。零席の教室に戻ると、黒板に白い線が一本だけ増えていた。誰かが引いたのだろう。端が少し太い。太い線は、目に痛い。痛みは覚える。
レンはチョークを取り、線の端に小さな丸を付けた。丸の中に、逃。字は短い。短い字は、よく効く。ツムギは椅子に腰を下ろし、御影は机の角に座り、三人でその丸を見た。
「逸脱候補」
御影が呟く。呟きは石の上で転がり、角が取れた。
「候補でいるうちに、やることをやる」
レンは言い、その下にもうひとつ丸を描いた。丸の中に、鞘。丸がふたつ。丸のあいだに細い線。線の途中に四角。四角の中に、小さな窓。窓の向こうに、紙。紙の上に、粉。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――確かに走っていた。
外で旗が鳴った。鳴っていないのに、鳴った気がした。気がしただけで、指先が白くなる。白くなった指で、レンは黒板の下の溝に手を掛けた。粉が落ちる。落ちた粉が床の木目に沿って流れ、誰かの足あとに重なる。重なった場所が、明日の初めの一歩になる。
討論会は終わった。終わりは、はじまりの裏側に綴じられている。綴じ目は弱く、よく裂ける。裂けたところから黒い音が出る。黒い音は、顔を持たない。持たない音は、襟だけを揺らす。揺れる襟を見ないようにして、レンは丸と四角の間の線をもう一本、増やした。増やした線は余白に続き、余白は静かに、暗く、広かった。
第十四話 勇者候補vs零席(再)
再戦は、朝いちばんの鐘で告げられた。まだ校庭の砂が夜の湿りを持っていて、白線の粉が靴裏にうっすら貼りつく。貼りついた粉は一歩ごとに形を変え、廊下の影まで連れていく。影の端で、金具のにおいだけが細く残った。
掲示板の紙は新しく、角が硬い。対戦カードの行に、勇者候補と零席の名が並ぶ。今回は、混合でも実験でもない。正規の一戦。表の線から外された名前が、今度は表の中央に置かれている。表に置かれたものは、よく見られる。よく見られる場所ほど、音が変わりやすい。
ツムギは消しを胸に抱いたまま、掲示を見上げた。御影ユウトは隣で肩を回し、背中のあたりに残っている鈍い冷えを、手のひらで軽く押した。押すと、少しだけ楽になる。楽になった分だけ、怖さの輪郭がはっきりする。輪郭が立つと、よく動ける。
「セラは、残るらしい」
御影が言った。掲示の下、細く書き足された注の文字。勇者候補の名簿は従来通り。ただ一行だけ、氷術者の術式について注記がある。本人の裁量による再構成を許容。短い文の余白が、やけに冷えた。
「残って、捨てない」
レンは頷いた。頷く角度が浅い。浅い角度は、余白を残す。余白は設計に向く。黒板の前に立ち、彼は短く説明をした。今朝の指示はとても少ない。少ないほうが怖い。怖いくらい少ないのが、今日はちょうどいい。
「今日は“主語”を奪う」
チョークが小さく鳴り、黒板に細い線が一本だけ引かれた。線は、どこにも繋げずに止まる。止まる線は、怖い。怖いから、誰かが繋げにくる。繋げに来た手を、捕まえる。
「主語?」
御影が眉を上げる。ツムギが黒板の前に寄り、線の始点を指で押さえた。押さえた粉が指先に移る。白い。
「戦場の主語は、ふつう、隊の名前か、司令塔の声か、旗。どっちの文も“俺たち”で始まる。だから、噛み合う。今日はそれを、どっちでもない“線”にする。誰のでもない主語。支援線と緩衝の布と遅延の糸。それ自体に主語を渡す」
「言い換えれば、敵の線も混ぜる」
「そう。混ぜるけど、壊さない。壊した瞬間、安定化が歯を出す」
ツムギは小さく息を呑み、御影は笑って肩をすくめた。笑いは短い。短い笑いを、木の床がすぐ飲み込む。
「“線が主語”。やる。前に出す支援は、言葉より先に走る」
◇
大講堂の隣、競技場の観客席は朝の冷えをまだ残していた。旗は鳴らないのに、金具だけがどこかで擦れて、匂いだけ強い。匂いの強さは、近いという意味だ。近いのに、見えない。
第一視点席の向こうで、勇者候補の輪が整う。新城カイは前へ出て、肩幅より半歩狭い姿勢で立つ。剣の角度が、いつもよりむしろ控えめだ。控えめというのは、傲慢の表現のひとつだ。傲慢な控えめは、よく刺さる。彼の隣にセラが立つ。氷の式は新式。角が立ちすぎず、遷移層の段差が消えている。彼女は視線だけで隊列を押さえ、カイは前方を見据える。二人の間の細いひびは、今のところ音を立てない。
審判の旗が上がる。白線が眩しく、砂が冷たい。零席は輪を小さく、薄く開いた。小さい輪は壊れにくい。壊れにくいものには、新しい壊れ方が宿る。宿る前に、名前を付ける。名は主語。
「開始」
短い合図が空に置かれ、最初の踏み込みが砂を裂いた。勇者候補の突撃線は美しかった。規律の美。前衛の踵が沈まず、刃の腹がぶれない。ぶれない腹は、音を返さない。音がない美しさは、観客の目だけを満たす。満たされた目は、見落とす。
御影が一歩前に出る。出た足の前に、ツムギが薄い布を敷いた。布は無色だ。無色の布は、言葉の前に敷かれる。御影は指先で線を捕まえ、滑りの角度を上げすぎないように、ほんの少しだけ斜めに送る。送った線は、味方の足元に戻らず、敵の支援の根元にかすめる。かすめるだけで、噛み合わせの小さなヒンジが鳴る。鳴ったのは音ではなく、匂いだ。御影にはわかる。金具の匂いがほんの僅かに変わる。
支援同士がつくる見えない蝶番。その回転角の許容量。回復の膜が先に触るか、固定壁の縁が先に触るか。その順番のズレ。ズレは数値にすると笑われるほど小さい。笑えるうちは、安全だ。笑えなくなったとき、線が主語になる。
「合成、外へ」
レンの声は小さい。小さいのに、よく通る。ツムギの無色が外側へ伸び、相手の支援線の端を“基礎層”として吸う。吸うというより、預かる。預かった線は、名札を剥がされる。誰の支援でもない支援。主語を持たない線。その線だけが、戦場の中央に立つ。
カイの剣筋がわずかに遅れた。遅れは彼のせいではない。彼の足元にあるべき“支え”が、ごく短い間だけ所在を失ったのだ。所在を失った支えは、怖い。怖いから、剣は少しだけ手前で止まる。止まった刃に、セラの氷が触れない。触れない氷は、ただ空気を冷やす。冷えを御影が横へ送る。送った冷えが、誰のものでもない線の上で丸くなる。丸くなって、重さを失う。
観客席にざわめき。実況の言葉が遅れる。「支援が……いや、支援線そのものが……」。言葉が追いついたときには、もう主語は移っている。誰のでもない線が、両軍の足元を静かに串刺しにして、一瞬だけ全員を“同じ動作”にした。誰も気づかない。気づくのは、遅延の誤差に敏感な者だけだ。
「主語を、取った」
御影の囁き。ツムギは頷き、指先でプレートの溝を一つ弾いた。無色の層が薄く震え、逃げ道の窓が二枚開く。開いた窓から、勇者候補の回復の予備が出ていき、零席の外周に吸い込まれる。吸い込まれて、名札を剥がされる。名のない支援は、働きやすい。働きやすいものは、危ない。危ないものほど、よく働く。
カイが吠えた。
「俺のチームだ!」
声は太く、正しい。正しい声に、隊列の背骨が一瞬通る。通った背骨は強い。強さにすがろうとした瞬間、レンの声が被さった。小さくて、冷たい。
「勝つための設計を選べ」
選べ、というのは命令ではない。話しかける形だ。けれど、戦場で話しかける声は、たいてい刃だ。カイは顔を上げ、前へ踏む。踏み方は完璧。完璧な踏み方は、世界式にとってたいへんわかりやすい。わかりやすいものから、先に測られる。
レンの視界の端に、ノイズ。黒い点の群れが砂の上で泳ぎ、白線の縁に沿って薄く震える。ノイズが出る位置は、敵味方の支援線が交わる場所にきれいに重なっている。重なってしまうと、簡単だ。そこに布を敷けば、主語はさらに薄くなる。
「いま」
レンの合図に、ツムギの布がすっと伸びた。御影が前に送った線と、勇者候補の支援の端が、布の上で触れる。触れた瞬間、二つの線は互いの名札を落とす。名札を落とした線は、良い線だ。良い線は、揉めない。
セラは迷わなかった。彼女の新式の氷は、いまこの布の上でしか働かない。角を立てない滑りで、段差のない相転移。彼女は掌を返し、無色の層の上へ氷の浅い筋を置いた。筋は刃のためではない。足の置き場のため。置き場ができると、刃は黙って最短距離を選ぶ。味方も、敵も。
刃が交わり、音が消えた。消えた音の代わりに、観客席にざわめきが広がる。ざわめきは、主語にならない。主語は、砂の下に降りていった。
カイの前衛が踏み遅れ、零席の乱暴者が逆に早くなった。早くなった理由は誰にも説明できない。説明は不要だ。線はもう、言葉を必要としない。線が主語のとき、声は遅い。
「押すな、流せ」
御影が低く言い、ツムギの布がさらに薄くなる。薄くなった布の上で、勇者候補の固定壁が勝手に角度を変え、回復の膜が知らないうちに位置を譲る。譲った膜に、零席の詠唱の遅延が小さく噛む。噛んだタイミングに、矢の子の指が弦を離す。離す音は聞こえない。聞こえない矢は、よく刺さる。
歓声。実況が叫ぶ。「合成でも干渉でもない、“共有”? いや、“主語の奪取”だ!」。名前がついた瞬間、観客は安心する。安心すると、音が大きくなる。音が大きいと、世界式が寄る。寄る気配が、砂の上のノイズに濃く出る。
レンの背筋に冷たい気配。透明な筒の液面が、どこかで逆さに落ちたのだろう。落ちる音はここまで届かない。代わりに、胸の裏に薄い重み。逸脱候補のタグは、外れていない。外れないまま、彼は線を増やした。増やす場所は少ない。少ないから、正確だ。
「終盤、窓を閉める」
「了解」
御影の返事は短く、笑いが混じった。笑いを入れることで、布の目がほぐれる。ほぐれた目に、最後の重さが入り、逃げ道が閉じる。閉じる瞬間、主語はもう一度動く。動いた先は、零席。線は彼らの足元で名前を取り戻し、ツムギの無色が白に近づき、御影の指先が熱くなる。
カイは吠えた。吠えながら踏んだ。踏み方はやはり美しい。その美しさは、彼自身を支えてきたものだ。支えは尊い。尊いものは、刃の外側に置かれると、無力になる。彼の刃は無力ではなかった。ただ、届かない。届かないのに、音だけが残る。残った音に、セラの氷が触れた。触れただけで、音が消えた。
審判の旗が上がる。一本。二本。観客席の空気が揺れ、砂の表面の粉が立つ。立った粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走る――気がする。気がするだけのときに限って、世界のほうが先に頷く。
終わりの笛。零席の勝利。
◇
整列の列は、いつもより短く感じた。短い列の中で、言葉は少ない。少ない言葉は、濃い。濃い言葉は、よく切れる。
「ありがとう」
セラが頭を下げた。涙はこぼれていない。こぼれないようにしている目は、ひどくまっすぐだ。彼女は零席のほうを見たまま、礼を深くした。礼の角度は、美しい。美しい角度は、彼女の“正しい”の形そのものだ。
「捨てなかったね」
レンが言うと、セラはうなずいた。
「捨てたら、勝てても負けるところがあった」
「勝つための設計を選んだ」
「……うん」
後ろで、カイが立ち尽くしていた。剣は下げられ、視線は低い。低い視線は、よく見える。見えるものの数が増えすぎると、人は動けない。動けない人の襟だけが、ゆっくり揺れる。
「新城」
レンが呼ぶと、カイは顔を上げた。目に怒りはない。怒りがない顔は、よく壊れる。壊れる前に、言葉が先に出る。
「俺は……」
続きは風に削られ、消えた。消えたので、彼は別の言葉を選んだ。
「俺のチームだって、言った。あれは、間違いじゃない。でも、あれだけじゃ、足りなかった」
「主語は、動く」
「動く主語を追いかける時間が、今日の俺にはなかった」
彼は笑った。うまくない笑いだった。うまくない笑いは、正直だ。
「次は、追う」
「追いながら、選べ」
「ああ」
短いやりとりの間に、観客席の騒ぎは遠のいていく。遠のいた音の上に、いつもの匂いが戻る。粉、金具、消毒液。三つが混じると、決まって昔の記憶が揺れる。揺れた記憶の端で、レンは地下の起動音を思い出した。終わりではない。何かの始まりが、薄い紙の裏で音だけ鳴らしている。
御影が肩を叩いた。叩く手は温かい。温かい手に、粉が少し付く。付いた粉は落ちない。
「主語を線に渡す、ってやつ。気持ち悪いくらい、うまくいったな」
「気持ち悪いので、やりすぎない」
「わかってる。俺の胃袋が先に止める」
ツムギが笑った。笑いは短く、丈夫だ。丈夫な笑いの上で、彼女は小さく頷いた。
「線は、怖い。でも、優しい。優しいほうの怖さなら、まだ歩ける」
レンは頷き、黒板の粉を指ですりつぶした。つぶれきらない粒の感触が、指腹に残る。粒の中に、細い配線。配線の先に、誰のでもない主語。主語の先に、まだ名前のない扉。
◇
夕方、零席の教室。黒板には朝の一本線が残り、その先に小さく丸が増えていた。丸の中には、字がふたつ。主語、と逃。丸と丸の間をつなぐ細い線の途中に、四角がひとつ。四角の上に粉が積もり、角が柔らかくなる。柔らかい角は、突き刺さらない。突き刺さらないのに、効く。
「神垣、何か言ってくるかな」
御影が椅子にもたれたまま聞いた。窓の外で、旗は鳴らない。鳴らないのに、金具のにおいだけが濃い。濃いにおいは、近い。
「規約はまた変わるだろう」
レンはチョークを置き、ノートを開いた。頁の余白に薄いノイズ。今日の戦場で感じた“あちら”の手の届き方。支援線が主語になった瞬間だけ、ノイズが濃くなった。線を主語にする行為は、向こう側にとっても扱いやすいのかもしれない。扱いやすい、は危ない。危ないから、やりすぎない。
「逸脱候補のタグ、まだ付いてる?」
ツムギが問う。レンは短く笑った。
「たぶん」
「たぶん、が一番怖い」
「だから、設計する」
黒板の一本線の端に、彼は小さな窓を描いた。窓の先に細い布。布の上を、主語のない線が静かに渡る。渡るあいだだけ、誰も傷つかない。そんな設計が、もし許されるのなら。
「ありがとう」
ツムギの声が背中から落ちた。振り向くと、彼女は椅子の背に頬を預けていた。無色の瞳は眠気を含み、口元だけが真剣だ。
「今日、倒れなかったの、御影が支えてくれたからだよ。レンの設計が、逃げ道を先に置いたからだよ。だから、ありがとう」
御影は照れたふうに鼻を鳴らし、手近のゴミ箱から吐き気止めの袋を一本抜いてポケットに戻した。
「また背負う。俺の役目だ」
「背負いすぎたら、譲渡する。譲渡の窓は、最初にここに置く」
レンは黒板の四角の中に小さく点を打った。点の場所は、教室のこの机の上――三人がいつも座る位置の真ん中。点を囲む丸は小さく、よく効く。
夕方の風が窓の隙間から入り、黒板の粉が一粒だけ舞った。舞った粉は床に落ちず、どこか見えないところへ吸い込まれた気がした。吸い込まれた先に、透明な筒があるかどうか、確かめる手段はない。ないなら、書く。書くことで、怖さの形を薄くする。
線は主語になり、主語はまた動くだろう。動くたびに、誰かが揺れ、襟が揺れる。顔は、まだ見えない。それでいい。見えないあいだに、次の逃げ道を描く。逃げるためじゃない。折れないで勝つために。
粉が、指から落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――確かに走っていた。そう思えるうちは、まだ間に合う。間に合わせるための設計を、ここで続ける。零席の黒板の前で。旗の鳴らない午後のなかで。
第十五話 校外大会と初めての敗北
朝の校門には、出発のバスが並んでいた。塗装の白は少し黄ばんで、窓のゴム枠には細いひびが刻まれている。指でなぞれば消えるようなひびではなく、指が覚えるための線だった。荷物の金具が触れ合うたび、乾いた音がして、耳に薄い傷を残す。旗は鳴らないのに、金具のにおいだけが残った。
校外大会。連盟主催。学内の規約ではなく、外の規則で動く場所。紙の重さも、判定の速度も、笑い方も違う。違いが重なる場所は、よく音が変わる。変わった音の上で、名前が削れやすくなる。
零席はバスの後部に固まって座った。ツムギは窓側で、膝の上に小さな回路板のプレートを置いている。御影ユウトは反対側の席で、ノートを体に貼り付けるように抱え、ページの角を親指で往復させていた。角が柔らかくなり、紙が少し薄くなる。薄くなる紙は、破れやすい。破れる前に、何かを書かなければならない。
「会場の床、木じゃないかも」
御影が言った。視線は窓の外の街路樹の隙間に、まだ見えない建物を探している。探しているだけで、肩が固くなる。
「樹脂系。吸いが悪い。粉も乗らない」
レンが答える。彼の膝の上には何もない。何も持っていないときの指先は、かえって落ち着きがない。落ち着かなさを紛らせるために、彼は座席の縁を内側から軽く押した。押された布が沈み、すぐ戻る。戻りが早いものは、壊れにくいようでいて、時々いちばん先に音を立てる。
「連盟のコート。支援線に印をつけるための光が入ってる。見せるための線。……線を見られる場所で、線を主語にするのは、きつい」
ツムギが顔を上げた。瞳に朝の薄い光が入って、表情が少し浅くなる。浅い表情のほうが、強い言葉がよく通る。
「見せる線は、壊れやすいよね」
「見せるために整えられた線は、掴む位置が多い。掴む相手が慣れていたら、こっちのほうが引かれる」
レンの声は、いつものように乾いていた。乾いた声は、粉の匂いを連れてこない。匂いがないまま言葉だけ置かれると、かえって怖い。
バスは会場の外周道路に入った。建物は白い皺のない箱のようで、窓は大きい。外から中の照明の色が分かる。青白い。青白い光の下では、布の目の粗さが均一に見えてしまう。均一に見えるものは、間違いに気づきにくい。
受付は早かった。名簿と血圧のチェック。小さな紙切れに印が押され、薄いストラップが配られる。ストラップは肌に冷たい。冷たいまま、首に絡む。
「零席、コートB」
係の学生の声は明るく、どんな相手にも同じ調子で刺さらない。刺さらない声は、よく通る。通る声の先に、コートBがあった。床は樹脂。白線は塗り込み。線は焼きつけられていて、拭いても落ちない種類だった。
観客席は半分ほど埋まっている。連盟の大会は、学内よりも大人が多い。拍手の速度が違う。数字の好きな拍手と、血の好きな拍手が混じっている。混じると、匂いが変わる。金具の匂いの上に、油の匂いが乗った。
対戦相手は、連盟上位の常連だった。名前は短く、発音しやすい。短い名前の隊は、ルールに沿って動くのがうまい。ルールの角にひっかかることがない。ひっかかりがないのは、美しい。美しいものは、よく切れる。
彼らは「設計型」に慣れていた。慣れている者の歩き方は、最初から少しだけ斜めだ。斜めに歩く者は、まっすぐ寄ってくる相手を、見る前に弾ける。支援の担当は二人。いずれもプレートを持たず、腰にぶら下げた帯の節に指を滑らせていた。帯の節が光るたび、床の白線の上に薄い影がかすかに走る。影は線に似て、線は影に似ている。似ているものほど、視界に残りやすい。
「偽線、混ぜてくる」
御影が言う。言われなくても、皆が分かっていた。偽の支援線。合成できるように見せかけた線。触れると、整っている。一歩進むと、足が空を掴む。空を掴む手を、相手の刃が打ち落とす。そういう線だ。
「偽線に触れた自分のほうを、疑う」
レンは短く言い、黒板のない空間に小さな四角を描いたつもりになった。描いたつもりの線は、すぐ消えた。消えるのが早い。早いときは、何も書かないほうがいい。
整列。短い礼。審判の旗が上がる。立会の距離が学内より狭い。狭い立会は、支援の前衛化を促す。促して、切らせるための距離だ。
「開始」
床の上の白が眩しく、砂がない。砂がない足音は、硬い。硬い足音の上に、相手の支援が早く走る。早く走るのに、足元を汚さない。汚れない線は、触りたくなる。触ってはいけない。触りたくなるほうが、触ってしまう。
「御影、下げ……」
レンの合図が、いつもよりわずかに遅れた。遅れたと感じた瞬間には、偽線がもう二重に通っていた。無色の布の底をくぐるように。くぐられた布は、重さの行き先を失う。失った行き先の上で、真っ直ぐ踏んだ足が軽く沈む。沈み方に名がない。名がない沈みは、記録がない。
最初の一撃は、味方の乱暴者の盾の縁を滑り、彼の脇に冷たい痺れを残した。痺れは浅い。浅いのに、指を弱くする。弱くなった握りの上に、次の衝撃が届く。届く角度は綺麗だ。綺麗な角度に、無色の布が間に合わない。
「布、向こうの帯から」
レンは言う。言いながら、自分の声が床に吸われるのを感じる。吸う床。吸わない粉。黒板がない場所で、言葉はむき出しだ。むき出しの言葉は、よく切れる。切れたのは、こちらの指だった。
ツムギの目が揺れた。揺れないようにしている目が、外側の光に引かれる。引かれた視線の隙間から、偽線が入ってくる。入ってきた線は、名札があるように見えて、名前がない。名前がないのに働く。働くのに、誰の味方でもない。
御影が前へ出た。出た場所に、もう線はなかった。彼は空気を掴み、吐き、笑った。笑いはすぐ硬く折れた。折れた笑いの破片が喉に刺さり、言葉が痛くなる。痛い言葉は遅い。遅い言葉の上に、相手の矢が通る。通る音は聞こえない。聞こえないほうが、よく刺さる。
「遅延が……」
詠唱者が声を上げた。遅延の糸が、偽線に絡め取られていた。絡まれた糸は、ほどくときに切れる。切れないように指の腹で押すが、押す前に次の偽線が重なる。重なった線同士が、互いに名札を交換しながら走る。名札だけを見て追う者は、いつの間にか自分の足を打つ。
レンの視界に、ノイズが濃く出た。線ではない。床板の下、透明な筒の底の揺れの影。会場の地下に連盟の端末がある。端末はこの大会の全データを集めている。集めながら、タグを付ける。危険の名札。逸脱の候補。今日の場で、その名札は誰に渡されるのか。
「御影、手を離して」
「離したら、倒れる」
「倒れない倒れ方を選んで」
御影は笑った。笑いはすぐ血の味になり、彼は舌を噛んだ。噛んでも、味は消えない。味は指先まで降りてきて、プレートを持っていないのに何かを握りたくさせた。握りたいものがないとき、人は自分の骨を握る。骨に指をかけて、足を前に出す。出た足の先で、偽線がほどける。ほどけるのは、向こうの意志だ。こちらの設計は、捕まえる位置を失っていた。
最初の一本。審判の旗は迷わず上がり、音は短い。短い音のあとで、観客席に軽い笑いが走る。笑いは毒だ。毒はすぐに血に混じる。混じった血の色は、見えない。
二本目。偽線の向こう側に、相手の本当の支援の根が見えたような気がして、レンはそこへ布を敷いた。敷いた瞬間、見えていた根が薄く消えた。消えた場所に、影だけが残る。影は線に似て、線は影に似ている。似ているものほど、目が覚えたときに残っている。
「角度、変える」
セラの氷が、かすかに走った。彼女は今日、こちら側ではない。こちら側ではないのに、古い練習で覚えた筋が、わずかに反応してしまう。反応した動きは正確だ。正確さは無力だ。無力な正確さを、偽線は好む。
前衛の踵が滑り、盾の縁が空を切る。空を切った音を、相手の剣が拾う。拾った音は刃を強くする。強くなった刃が詠唱者の前をかすめ、癒し手が張り詰めた声で名を呼ぶ。名は届く。届いた名の上を、偽線がまた重なる。重なった線の束に、零席の輪はわずかに傾き、戻らない。
完敗だった。
終わりの笛が鳴ったとき、ツムギはまだ立っていた。立っていたが、足の裏に力がなかった。力のない足で、彼女は礼をした。礼の角度は浅い。浅い礼は、長持ちする。長持ちする間、肩がわずかに震え続けた。
御影はノートを開いた。開いたページの上で、鉛筆の芯が折れた。折れる音は小さい。小さいのに、耳に刺さった。刺さった音のまま、彼は別の鉛筆を握り、書こうとして、書けなかった。書けない紙は、破りやすい。破りそうな指を、彼は自分で止めた。止めると、指の節が白くなる。白くなったところに粉は付いていない。粉がないなら、泣けない。泣けないなら、笑う。笑うと、吐いた。
観客席の拍手は、均一に早かった。早さは結果のためのものだ。結果のための音は、体の中に何も残さない。残らないほうが、遠くまで響く。遠くの壁で跳ね返り、またこちらへ戻ってきて、ツムギの肩を薄く叩いた。叩かれた肩が震える。震えを彼女は見せない。見せない震えは、長く続く。
「……負けた」
御影が言った。言葉は薄い。薄さが重い。
「うん。ちゃんと」
レンは頷いた。頷きながら、喉の奥に残る金属の味を飲み込めなかった。味は太い筒の底の水のにおいに似て、どこからかいつも逆さに落ちてくる。落ちるたび、胸の裏が少し冷える。冷えたまま、彼は審判に礼をし、相手に礼をし、コートの外に出た。
◇
戻りのバスは静かだった。窓の外の街は、いつもより澄んで見えた。澄んだ景色は、ひびを目立たせる。舗装の継ぎ目、看板の支柱の傷、電線の垂れの角度。そういうものが、今日はよく目に入る。目に入るたび、体の中で何かが小さく割れる。
ツムギは眠らなかった。眠らないまま、窓に映る自分の顔をじっと見ていた。見ながら、手のひらを上下に返し、鈍い痛みの残る場所を確かめる。確かめる行為は慰めではなく、約束だ。約束は簡単に破られる。その簡単さを嫌って、彼女は指を組んだ。組んだ指は、小さく震えた。
御影はノートをもう一度開き、端に小さく日付だけを書いた。日付の横に、コートの材質、支援線の光の色、相手の帯の節の数。数える行為は残酷だ。数えた枠からこぼれるものが、いつも本当だから。こぼれた本当は、紙に貼り付かない。貼り付かない本当を、彼は嫌いではない。嫌いではないということに、うすうす気づいてしまい、さらに疲れた。
レンは、何も書かなかった。書くための黒板がなかった。黒板のない場所で、彼は体を空に向けて座った。空の向こうに、紙の厚みが幾重にも重なったような暗さがある。暗さは柔らかく、指を差し入れると形を変える。形を変えた暗さの底に、細い配線が走っている。配線は冷たく、明るく、静かだ。
◇
夜、学園に戻ると、人の声は少なかった。運動部の掛け声の代わりに、芝生の散水の音がしていた。遠くから見える管理棟の窓には、遅い光がいくつか残っている。遅い光は疲れている。疲れている光は、優しい。優しい光の下に、やさしくないものがいる。いる気配だけが、風に乗る。
零席の教室は暗かった。扉を開けると、かすかに消毒液のにおいが残っている。試薬瓶の棚に貼られたラベルの角がめくれ、机の隅には粉が少し積もっている。粉は誰のものでもない。指で触れると、指が白くなる。白くなった指で、レンは黒板の明かりをつけた。蛍光灯の青白い光。板面の細かい傷が浮いてくる。浮いた傷に、今日の偽線が重なって見える。
チョークを取る。粉が落ちる。落ちた粉が床で小さく跳ね、すぐ静かになる。静かになった粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている――そう思えるときだけ、彼はまだ書ける。
黒板の左上に、文字を置く。
設計の設計
線は細く、間隔は広い。広い間隔の間の黒が、冷たい。冷たさが、安心を呼ぶ。安心に寄りかかると、折れる。
今日の敗因。偽線。外部の可視化。床材の吸い。支援の前衛化。逃げ道の不足。主語の奪い合いに、向こうが慣れていたという事実。慣れている相手に、こちらは「疑い方」を持っていなかった。
レンは「疑う」という字を大きく書いた。書いて、離れて見た。「疑う」は、設計の言葉ではない。書きながら、彼は初めて気づく。自分がこれまで組み上げてきた線の束は、信頼でできていた。無色の層に預け、譲渡の窓を開き、緩衝の布を敷き、遅延の糸で並べる。どれも信じるための仕組みだった。疑いはどこにもない。だから、偽線は全ての入口を通れた。
信頼の設計は、疑いの設計で守らなければならない。
黒板の右側に、もうひとつの見出しを書く。
破断の礼儀
線を切るときの手順。切られたときの形の保ち方。自分で切る練習。自分で切った線を、どう元に戻すか。戻さない選択。戻さないまま、別の線を立てる選択。
彼は短く手を止め、耳を澄ました。廊下の向こうで旗が鳴った気がした。鳴っていない。鳴っていないのに、金具の匂いが強くなる。強くなった匂いの背後に、低い唸りが潜む。地下の端末が、今日の試合のデータを飲み込み、誰かの名前にタグを貼ろうとしている。逸脱候補。候補のまま長く置かれたものが、いつか候補でなくなる日を、端末は待たない。機械は待たない。世界式は待たない。待たないものに、こちらの書き付けはどれだけ間に合うのか。
粉が指先から落ちる。落ちる粉の細い影を避けるように、レンは次の言葉を書いた。
偽線探知
可視化の上に、不可視化を重ねる。光る線に、光らない縫い目を足す。縫い目は誰にも見えない。自分にも見えない。触ったときにだけ分かる。触るための指先を増やす。指先を増やすために、人を増やすのではない。役目の影を増やす。役目に影を、はじめから用意する。
役目の影、と書いて、自分で笑いそうになった。笑いはうまくなかった。うまくない笑いは、正直だ。正直さは、破れ目から真っ先に出ていく。
黒板の中央に、大きく四角を書いた。四角の中に、輪の図。基礎層、支援線路、緩衝布、遅延、逃げ道。さらに、「疑い」の層を重ねる。疑いの層は薄く、滑る。滑るが、粘りがある。曲がる。曲がったところに、切れない目をつける。切れない目は、安全ではない。安全でないものに頼る。頼った先で、切る練習をする。
レンはチョークを持ち替えた。指が白い。白い指で額の汗を拭い、また線を書く。書きながら、昼間の偽線の感触を思い返す。あれは偽物ではなかった。本当に働いていた。ただ、名前がなかった。名前がない働きは、世界式のほうが得意だ。人間の設計は、名前に支えられる。名前が剥がされた場所に、何を置けるのか。
設計を疑う。
黒板の一番下に、そう書いた。書いた字は大きく、少し歪んだ。歪みは悪くない。悪くない歪みを作るための線を、明日から引く。引く手を増やす。増やすときに、減らすものを決めておく。決めたものの名前を、今は書かない。書いた名前だけが、後で切れる。
「レン」
扉の隙間から声がした。ツムギだ。彼女は入ってきて、黒板を見上げた。粉の匂いに、顔が落ち着く。落ち着いた顔で、目だけが揺れた。
「眠れてないの」
「眠る前の仕事」
「それ、朝になっても終わらないやつ」
「終わらないのは、よくない」
「よくないこと、今日はいっぱいあった」
ツムギは笑い、それから笑いをやめた。やめると、肩がわずかに震えた。震えを止めるために、彼女はチョークを取った。取って、黒板の端に小さな丸を描いた。丸の中に、逃、と書こうとしてやめた。やめた代わりに、点を打った。点は粉で、すぐに消えた。
「偽線、触った。触った手が、しびれた。しびれたのは、怖いのと違う。怖いのは好き。しびれるのは嫌い」
「嫌いなものの匂いを決める。御影に渡す」
「御影の匂いは、もう、金具になってる」
「なら、足りない匂いを作る」
御影は来なかった。来ないほうが、よい夜がある。来ない背中の代わりに、彼のノートが机に残っていた。端に日付と短い数字。数字の横に、破れ目の白。破りかけてやめた跡。やめたという事実は、役に立つ。やめることができる筋肉は、切るときに折れない。
ツムギは椅子に座り、机に頬を預けた。頬に粉が付く。粉の粒が肌の上で崩れ、線になり、また粒に戻る。戻るたびに、彼女の呼気がかすかに揺れる。揺れに気づいて、レンは電気を半分落とした。暗くなると、黒板の字が浮いた。浮いた字の中で「疑う」だけが少し明るい。明るい字は、すぐに目に痛い。痛みは覚える。
廊下の向こうで、足音が止まった。止まったまま、長く動かない。襟だけが揺れる。顔は、やはり見えない。見えないものが、見えるものを並べる。並べた順番が、明日からの規約になる。規約は読み物だが、書いた者の手の色が薄く残る。薄い色は、なかなか落ちない。
レンは黒板の前に立ち、最後に一行だけ追加した。
名前のない仕事を、設計する。
書き終えたとき、粉の匂いが強くなった。強い匂いは、眠りを壊す。壊れた眠りの破片を拾うように、彼は照明を落とし、窓の鍵を確かめ、扉を閉めた。閉めた扉の表面に、さっきまでの自分の指の跡が薄く残る。残る跡の上を、朝の光が通るだろう。通ったあとに、誰かがそれを消す。消された跡だけが、長く残る。
初めての敗北は、その夜の端に置かれた。端は鋭い。鋭い端の上に、逃げ道の窓をひとつ置く。置いて、閉める。閉めて、忘れない。忘れないために、黒板の粉を指先に残した。白い指で彼は灯りを消し、暗い教室を出た。暗さは優しく、優しくないものの居場所をよく知っていた。
階段の踊り場で、薄い唸りが胸の裏を擦った。透明な筒の底で水が落ちる音。世界式は、今日の線の束に、まだ名前を付けていない。付ける前に、こちらが付ける。付けた名前の上を、偽線がまた走るだろう。その時に、触った指がしびれないように。
彼は手を下ろし、背筋を伸ばし、小さく笑った。うまくない笑いだった。うまくない笑いは、正直だ。その正直さでしか、設計の設計は始まらない。始めるために、今夜は眠る。眠る前に、粉を落とす。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――確かに走っていた。そう思えるあいだは、まだ間に合う。間に合わせるために、疑いの線を、明日、引く。
第十六話 最適化の罠
黒板の上で、白い字が増えていく。粉の匂いが教室に満ち、窓の外の校庭は暗く沈んでいる。散水の水音だけが遠くで細く続き、ときどき止む。その止み方のほうが、よく響く。止んだ瞬間に残る静けさは、鋭い。
レンは左上に大きく書いた。
過学習
字の横に、浅い溝を付けるようにチョークの腹で線を引く。指で触ると、板面のざらつきが骨の内側まで来る。ざらつきの形に、昼間の敗北がぴったり嵌まり、そこから抜けない。
「勝ち方が、勝ち方を壊す」
言葉は誰に向けたわけでもないのに、教室の中央の机で腕を組んでいた御影ユウトは顔を上げた。机の角に残る粉を親指で集め、丸め、潰す。潰した粉が爪のあいだに入る。入った粉は落ちない。
「過学習って、わざと難しく言ってる?」
「噛み砕く。昨日までの勝ちパターンが“手応えのある轍”になって、そこからハンドルが切れなくなる状態。正しいのに、曲がれない。曲がる必要が出た瞬間に、転ぶ」
レンは黒板の真ん中に丸を描き、そこから同じ角度の矢印を五本伸ばした。矢印はすべて美しく揃い、均質で、安心する。安心に触れて、彼はすぐに手を離した。
「勝ちパターンは、早い。早いのは強い。強いから、強いまま固定される。昨日の大会は“偽線”でその固定を外から撫でられ、逆向きの轍に押し込まれた。轍は深かった。僕らは自分の正しさに足首まで浸かっていた」
ツムギは黒板の斜め前で椅子の背に腕を置き、レンの手元を見ていた。頬に粉が薄く付いている。目は静かだが、光を受ける角度がときどき変わる。変わるたびに、怖さが少しだけ揺れる。
「じゃあ、轍を崩すの?」
「崩すより、轍と轍のあいだに“余白”を作る。ここに、わざと不揃いを入れる」
不揃い、とレンは黒板に書き、そこから細い枝をいくつも出した。枝の先に小さな丸。丸の中に、乱、揺、確、窓。意味の薄い字を選ぶ。意味が薄い字は、早く逃げる。逃げられるものには、あまり牙が出ない。
「解決策は、ランダム性の導入」
御影が鼻で笑った。笑いはひどく、正直だ。
「適当にやる、ってこと?」
「適当は違う。選択肢のどれを使うかだけを、振り分ける。設計の骨は、そのまま残す。骨の上に、揺らぎを乗せる」
「揺らぎ」
ツムギが復唱する。復唱は彼女が言葉を選ぶ手つきだ。選ばれた言葉は、肌に触ってから内側に入る。
「私の無色の層に、それを仕込む?」
「仕込む。君の層は“中立”だ。中立ほど、少しの揺れで機能が変わる。遷移の段差を均して、いままでは“何色でも受け止める床”だった。そこに、薄い粒を撒く。目に見えない粒。触った瞬間だけ位置を変える小石。誰が踏んでも滑らず、でも“同じ踏み心地”にならないように」
レンはカバンから小さな木箱を出した。蓋を開けると、乾いた金属のにおいがわずかに強くなる。箱の中には、同じ形の小さな玉が二十個。重さは微妙に違う。違いは秤で測るまで分からない。見た目は一緒だ。目に頼るべきでないものでも、目で見たくなる。
「乱数器」
御影が言った。
「手で触って、揺らすタイプ。投げられない。回す。止める。止め方は人それぞれ。だから“癖”が出る。癖ごとの乱数。御影、君は支援線を多層化する。“確率分岐”の準備。手元の分岐を増やして、入口のほんの短い時間だけ、どの線路を通すか“賽を振る”。賽を振るけれど、倒れない台の上で」
御影は玉を一つ取って、指の腹で転がした。転がす速度が一定からすぐに逸れて、戻る。戻る途中で指がささくれに引っかかり、玉が軽く跳ねた。跳ね方は嫌な音を出さないのに、教室の空気が微かに冷えた。跳ねるものは、よく落ちる。
「確率分岐って、どう記録する」
「枝を全て記録しない。枝ぶりの“分布”を記録する。君がいつも選ばないほうの枝を一本、意図的に選ぶ。選んだあとに、また設計に戻す。戻すまでの時間を短く固定して、“悪い乱れ方”を避ける」
「悪い乱れ方」
「世界式が喜ぶ乱れ方。向こうが名前を付けやすい小賢しいランダム。あれは食われる。食われない揺らぎは、名前のない微小差を、一定の幅で揺すり続ける」
レンは棒きれで砂を突くようにチョークで点を打った。点と点の間を、目に見えない細い糸がふるふる揺れる。揺れの幅は狭く、小さく、確からしさを持たない。確からしさのないものほど、保存される。保存されるのは、気味が悪い。
「揺らぎなら、私、今日すぐにでも作れる」
ツムギは椅子から立って、窓際に置いたプレートに指を当てた。彼女の無色の層は、静かに起き上がり、机の影に沿って薄く広がる。広がる速度は均一で、やさしい。やさしさは危ない。危ないから、少しだけ変える。
「揺れの粒、どこに撒く?」
「中央ではなく、縁。縁に撒くと、踏み入れた瞬間にだけ、わずかな差が生まれる。差はそれぞれ違うが、どれも小さい。小さすぎて、普通は無視される。無視されるための設計。無視されているあいだに、向こうの読みがずれる」
「読みがずれた証拠は、匂い」
御影は笑って、玉を箱に戻した。金具の薄いにおいが立って、消えた。消えたにおいの輪郭だけが指に残る。残った輪郭は名前がない。ないまま機能する。
「次の相手、連盟の上位ではないけど、“設計を見る目”が早いゼミの出身だ」
レンはノートの端に短く書き、黒板に戻った。板面の右側に、見出しをもう一つ。
美しい無秩序
「秩序があるから、崩れる。無秩序もあるから、崩れる。崩れる“直前の形”がいちばん美しい。いちばん壊れやすい。そこに“仕事”を置く」
「仕事」
「名前のない仕事だ。勝ちにも負けにも付かず、ただ“ずらす”。誰かの正しさの襟を、ほんの少しだけ引く」
チョークが短くなった。短いチョークは折れやすい。折れる前に、レンは一呼吸置いてから、それを横にして字の腹で太い線を引いた。チョークの粉が指に濃く付く。濃さは夜の深さだ。
◇
練習は校庭ではなく、旧講堂でやった。床板は薄く、梁は古い。梁の上に配線の名残が走り、修繕した釘の頭が光る。釘は鳴らない。鳴っていないのに、金具の匂いは消えない。
ツムギが無色の層を敷く。彼女はわざとわずかなずれを作った。層の縁に薄い粒を撒き、粒の位置を指先で見えないほど変える。変えるたび、床板の節がひとつだけ呼吸を止めるように沈黙し、それから戻る。戻る速さは測れない。測れないものは、長持ちする。
「御影、分岐を」
「三段。短い枝二つ、長い枝一つ。短い枝のどちらを通すかを、その瞬間の匂いで決める。匂いは俺の錯覚でいい。錯覚でいいが、嘘はつかない」
御影は手を前に差し、線を三枚重ねた。重ね方は汚くないが、揃えていない。揃えないのに、崩れていない。崩れない理由は、彼の肩の筋肉が“次の微差”の準備をし続けているからだ。準備する筋肉は疲れない。疲れない筋肉は、怖い。
「矢の子、遅延の縁に乗って。遅延は均一にするな。早い遅いが交互に出るように、あらかじめ“幅”を持たせる」
詠唱者が頷き、癒し手が水の温度を確かめる。乱暴者の前衛は、足裏に粉が付くのを嫌がらず、静かに踏みしめた。踏みしめる位置が一定からわずかにずれ、ずれの痕が床板の節に馴染む。馴染むのに音がないのが、気味が悪い。
「いく」
レンの合図で、輪が薄く回る。回るとき、ツムギの縁の粒が足の下で微妙に動く。動きは滑りにならず、振動になる。振動の幅が御影の指に届き、彼の分岐が一本だけいつもと違う側へ開く。開いた枝の上で、矢がいつもより早く、しかし早すぎずに抜ける。抜けた矢の音は聞こえない。聞こえないのに、壁の女神像の目がわずかに陰った気がした。気のせいだ。気のせいだが、指先の粉が一粒、彼の爪の根元に食い込む。
「もう一段、乱す」
レンの声。ツムギは頷き、縁の粒をさらに細かくした。御影が分岐の確率を五対四対一に固定し、固定した数字をすぐに忘れる練習をする。忘れることを、設計に入れる。忘れ方にも骨が要る。
輪はうまく回り、うまく崩れ、うまく立て直った。うまく、という言葉は役に立たないのに、今日は機能した。機能したことが、少し怖い。怖さは設計の栄養だとレンは思った。栄養に頼りすぎると、体は壊れる。壊すと直せる。直すたび、何かが薄くなる。薄くなっていく順番を、彼はまだ知らない。
◇
次の試合は、学内の練習試合の延長として急遽組まれた。観客席は満員ではないが、ざわめきは静かに広い。広いざわめきは、音を丸くする。丸い音の上で、旗は鳴らないのに、金具の匂いだけが濃い。
相手の隊列は整っていた。基本に忠実で、乱れが少ない。少ない乱れは、こちらの揺らぎを吸収してそのまま捨てる形だ。捨てられるのは、屈辱だ。屈辱は汗のにおいに似て、指先の感覚を鈍らせる。鈍りを嫌って、御影は袖を少しまくった。腕の筋を、粉が白く汚す。
「開始」
審判の声と同時に、床の樹脂が光を返す。ツムギの無色が薄く広がり、縁に撒かれた粒が見えないまま位置を変えた。変化は匂いになり、御影の鼻腔に少しだけ金具の味を残す。味は合図だ。合図は分岐へ流れ、彼の指が通常なら選ばない枝を選ぶ。選んだとき、彼の口から短い笑いが出た。笑いが走り、詠唱の遅延が早くなり、すぐ戻る。戻る速度が“読めない”。
相手の支援が一度つまずいた。つまずきは深くない。浅いのに、全体の背骨がほんのわずか遅れ、前衛の踏み切りが半足分遅れる。遅れた分だけ刃の角度が鈍る。鈍った角度に、ツムギの縁の粒が指先の力を均等に配り直し、盾の返しがいつもより早くなる。早い返しは美しくない。美しくない動きに、観客席がざわめく。美しくないもののほうが、生きている。
「揺らぎ、維持」
レンが短く言う。言葉は砂の上に置くように軽い。軽さは、床に吸われない。吸われない言葉は、遅れない。
相手はすぐ修正し、支援の帯を広げて合成の根を太らせてきた。根は見えない。見えないのに、こちらの無色の層の縁が少しだけ冷たくなる。冷たくなる、と御影の分岐が逆側へ開き、矢がいつもの半拍遅く放たれる。遅いのに、間に合う。間に合わせるために、遅れた。遅れを選んだのは、賽だ。賽は嘘をつかない。
序盤の均衡。相手は「読み」を積み上げようとした。こちらの分岐を数え、傾向を掴もうとする。掴まれる前に、分岐の“癖”をずらす。御影の肩がわずかに下がり、彼の指が二度、いつもならしない重ね方をする。重ねた線路の一方が無意味に見える。無意味に見えるものが、いちばん危ない。
「御影、今の枝、切って」
「切る」
御影は自分の引いた分岐の一本を自ら切った。切るときの手順は黒板で何度も練習した。切った線の端が空にほどけ、ツムギの縁の粒がそれを受けて、中央へ流す。流す途中で、その線は“名前を捨てる”。名前がない線は、読む者の目に入らない。目に入らない線が、相手の帯の蝶番に触れる。触れた場所だけ、温度が落ちる。落ちた温度に、刃の反射が一瞬遅れる。
中盤。突然、相手の前衛が突っ込んできた。読みを崩される前に“賭け”に出たのだ。賭けは正しい。正しい賭けは、綺麗に折れる。折れる直前の形は、見惚れるほど美しい。
ツムギの目が光を受けた。彼女は“揺らぎ”の層に、さらに薄い粒を撒いた。撒いた粒の半分は、その場で消えた。消えた粒は働かない。残った半分だけが、足裏の皮膚の皺の隙間に小さく入り込む。入り込んだ粒が、御影の分岐に“偶然”の一押しを伝える。偶然は設計に入れられない。入れた瞬間、壊れる。壊さずに、隣に置く。
「いま」
レンの声は低く、短かった。御影は分岐の“長い枝”を初めて選んだ。長い枝は遅い。遅いが、幅が広い。幅が広いから、相手の賭けの線を含んだまま、やわらかく逸れる。逸れた先で、矢の子の弦が初めての角度で鳴り、乱暴者の盾が美しくない面で衝撃を流す。美しくない面は、見る者に不快感を残し、読みの気持ちよさを奪う。
観客席がわっと沸いた。沸き方は汚くない。汚くないのに、揃っていない。揃っていない拍手の音が、樹脂の床に散って、戻ってくる。戻ってきた音の数が合わない。合わない音のうち、いくつかだけが、地下のどこかに落ちる。透明な筒の底に、水音が立ち、すぐ消えた。
終盤、相手の司令塔が最後の修正をかけてきた。彼らは読みを捨て、偶然に賭け始めた。偶然は面白い。面白いが、勝敗には向かない。賭け合いは、長く続かない。長く続かないものほど派手だ。
「窓、閉める」
レンの指示。ツムギが逃げ道の窓を半分だけ閉じ、御影の分岐の“偏り”をあえて増やす。偏った分岐は、見つかりやすい。見つかった瞬間に、別の枝が開く。開く瞬間、彼の肩の筋肉が微妙な笑い方をする。その笑い方を読み切れる者はいない。笑いは、匂いにしか残らない。
最後の一撃は、誰のものでもなかった。主語のない線が、砂のない床の上で静かに滑り、相手の蝶番に触れて、止まった。止まったところで、審判の旗が上がる。一本。二本。終わりの笛。
零席の逆転勝利。
歓声は大きくなり、すぐに形を失った。形のない歓声が、講堂の天井に溜まって揺れ、粉の匂いを溶かす。溶けた匂いが冷えて、金具のにおいに変わる。金具のにおいは、明日を連れてくる。
「美しい……無秩序だ」
誰かが言った。実況の声ではない。後ろの列の、見たことのない顔だった。顔はすぐに人混みに紛れ、襟だけが揺れ、消えた。
◇
整列の列。相手の司令塔が、短い礼をした。彼の目は怒っていない。怒っていないのに、赤い。赤さは疲れの色だ。疲れの色は、負けの色ではない。彼は笑った。うまくない笑いだった。うまくない笑いは、正直だ。
「読みが崩れた理由が、わからない」
「わからないまま、倒れない。そこに“仕事”を置きました」
レンは答えた。答えてから、相手の手のひらの粉に気づいた。粉は白い。白い粉は、どこでも同じ匂いをする。だが今日だけ、わずかに違った。違いは、彼の指先にだけ分かる程度の差だ。差は名前にならない。ならないほうが、怖い。
ツムギは観客席の端を見た。誰かが立っていた気がした。襟だけが揺れる。顔は、やはり見えない。見えない顔から、冷えた視線が降りる。降りた視線は、無色の層の縁に触れて、すぐ消える。消えた感触が、彼女の指の腹に紙の切れ端のように残る。
御影はポケットから折りたたんだ紙を出し、今日の枝ぶりを三行だけ記録した。数字は書かなかった。書いた数字は使い潰すためのものだ。残したいのは、匂い。匂いは紙に付かない。でも、紙の角に残る。角を触る指が、少し白くなる。
◇
夜、教室に戻る。黒板には昨日の字がまだ残っている。「過学習」の横に、「揺らぎ」「確率分岐」「美しい無秩序」。粉は薄く床に落ち、足音が静かだ。静かな足音の奥に、低い唸りがときどき通る。地下の端末は、今日の“無秩序”に名前をつけようとしている。つけられる前に、こちらで別の名前を置く。
「揺らぎ、よかった?」
ツムギが座り、頬に手を当てた。指の腹が白い。白いことに安心しないように、彼女は自分の指をつねる。つねる痛みで、揺れの幅が記憶に固定される。
「よかった。でも、よすぎるのが怖い」
レンは黒板に新しく小さな四角を描いた。四角の中に、点を三つ。点と点の間に、糸を張らない。張らないことで、明日の“運び”を残す。
「過学習の罠は、いま崩した。次は、“乱数の罠”を見る。ランダムは、人の脳がすぐ“型”を見つける。型を見つけられないまま、倒れない設計。型を見つけても、近寄ると溶ける設計。溶けることで、こちらの骨まで崩さない設計」
御影は笑い、うなずいた。笑いが粉を散らし、机の角が白くなる。白くなる角は、すぐ汚れる。汚れた角は、触りやすい。
「今日の勝ちは、明日の負け方の設計図だな」
「そう」
レンは黒板の端に小さく書いた。
設計を疑う、を続ける
扉の外で、旗が鳴った気がした。鳴っていない。鳴っていないのに、金具のにおいだけが濃くなる。においは時間を運ぶ。運ばれた時間の端で、透明な筒の水面が逆さに落ちた気配がする。世界式は“揺らぎ”に微笑むのか、歯を見せるのか。どちらでも、構わない。構わない様に見せかけて、指先の粉を確かめる。
レンはチョークを置き、指をこすった。粉が落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――走っていないように見える。見えないほうが、まだいい。見えないもののほうが、長く効く。効いているあいだに、こちらは次の余白を用意する。余白の縁に、今日より細かい粒を撒く。その粒が誰のものでもないうちに、眠る。
眠りに落ちる直前、彼は教室の奥にある古いガラス窓に目を向けた。そこに、襟だけが揺れる影が映った。顔はなかった。顔のないものは、名前を好む。こちらが先に、名前を置く。置いた名前は、すぐ消す。消した跡だけを、世界式は拾いに来る。拾いに来た指に、粉が付く。付いた粉は、落ちない。
怖さは静かだった。静かな怖さが、背骨の奥に細く収まり、骨の中から明日を押す。押された明日は、薄く、早い。早さの上で、無秩序がうつくしい。うつくしいものは、よく切れる。切れないように、設計する。設計を疑いながら。
第十七話 告白と決裂
夕方の鐘は、低くてやわらかい音を校舎に貼りつけていく。貼りついた音はガラス越しに薄く震え、階段室の手すりの金具に吸い込まれて止まった。止まった瞬間の静けさに、怖さが生まれる。誰もこちらを見ていないのに、見られているような静けさ。
ツムギから、屋上に来てほしいとメッセージが届いたのは、その静けさが廊下の端まで流れ切った頃だった。短い文だった。句点がなく、余白が多い。余白の多い文は、読む前から胸に触る。
鉄の扉は重くはないが、開けるときだけ重いふりをする。ふりのわりに蝶番は鳴らず、かわりに金具の匂いが強くなる。屋上は思ったより明るく、空の色が校舎の窓ガラスに反射して、四角い明るさを何枚も重ねていた。重なった明るさの縁が白く鋭くて、そこだけ薄く寒い。
ツムギはフェンスのそばに立っていた。靴の先が線から半歩だけ内側にあり、指先はフェンスに触れていない。触れない手は、宙で小さく丸くなる。丸い手の中に、言葉の種がいくつもあるのだと思った。
「来てくれて、ありがとう」
彼女の声は普段より少し高く、細い。細い声は風に混じりやすく、薄く切れて、またつながった。
「うん」
返事は短く、粉のつかない声になった。黒板の前で話すときの癖が、屋上では役に立たない。足元のコンクリートは乾いていて、白い粉の代わりに、昼の光の欠片が落ちている。拾っても指は白くならない。だから、何も準備ができない。
ツムギは一歩、こちらに近づいた。靴底が小さく鳴る。鳴り方が、教室の床とは違う。ここは板ではないから、深いところで誰も息を止めない。息を止める代わりに、空気の角が一瞬だけ引っかかる。引っかかった角で、彼女の言葉がほどけた。
「好き。……レンのことが、好き」
きれいな言い方ではなかった。言い方の形を選ぶ余裕がないから、真っ直ぐだった。真っ直ぐの線は、世界式から見ると測りやすい。測りやすいものの上に、名前が落ちる。名前が落ちると、風が止まる。止まった風の隙間で、金具の匂いが濃くなる。
胸の内側で、透明な筒の底がいちどだけ鳴った。音は届かないが、指先の熱が一瞬だけ抜ける。抜けた熱の輪郭が、言葉の形を決めてしまう。
「……ごめん。いまは」
言いかけて、噛む。噛んだところから、別の言葉が出た。
「いまは、設計が先だ」
言ってから、遅いと思った。遅いのに、取り消せない種類の言葉だ。取り消そうとすると、紙が破れて、破れ目の白だけが残る。
ツムギは瞬きをした。瞼の動きがゆっくりで、視線は落ちない。落としたら、粉がつくと思っているのかもしれない。粉はここにはない。ないけれど、彼女の目には白いものが浮かんだ。
「そっか」
短い頷き。頷きの角度は浅く、礼ではない。確認の角度。確認が終わると、彼女は笑った。笑い方が、ひどく上手だった。上手な笑いは、痛い。
「じゃあ、強くなる。……私、強くなる。基礎で、支えるだけじゃなくて」
声が震えた。震えは長くなかった。長くしないように、彼女の体が先に笑いを選んだ。笑いは上手くても、涙は先に出る。出た涙は風にすぐ冷やされ、頬の上でかたちを失っていく。かたちを失った涙は、粉にならない。粉にならないものは、黒板に残らない。残らないから、明日呼び出せない。
「ツムギ」
名前を呼ぶと、彼女は首を振った。それ以上、触る場所がない。自分の言葉がよくないことは分かっている。分かっているのに、他の言い方を持っていない。設計の言葉は、人の体温を持っていない。持たせる練習をしてこなかった。やり方を知らない。
「大丈夫。泣いているけど、大丈夫。……レンのそばにいると、怖いのが、きれいに見えるときがあるから。怖いのがきれいだと、立てるから」
彼女は袖で目を押さえ、深く息を吸わずに、吐いた。吐き方に癖がない。癖のない吐息は、音にならない。音にならないものほど、残る。彼女の頬は赤く、目のふちが少し白い。白いところへ、夕方の光の薄い刃が差して、すぐ消えた。
「強くなる。設計の先に、立てるくらいに」
その言葉は宣言の形をしていないのに、宣言だった。背中がわずかに伸び、足の位置が半歩変わった。半歩の差は大きい。フェンスの影が靴の甲にかかって、影の縁がほんの少しだけ震えた。震えは風ではない。下から来ていた。地下の、あの端末の方向。透明な筒の底。
扉のほうから、足音がひとつ上がってきた。御影ユウトだった。扉のところで立ち止まり、こちらを見ないままフェンスの反対側に歩いていく。歩幅がいつもより少し広い。広い歩幅は、割って入らないという合図だ。合図を出してから、彼はフェンスに背を向けて立ち、空を見た。見ていない空を見るふりが、上手い。上手いふりのほうが、優しいときがある。
彼は何も言わなかった。言わないかわりに、片方の拳を腰の後ろに押し当てた。押し当て方に力がある。力は言葉の代わりだ。言葉よりも長く残る代わりに、届く場所が狭い。届くのは、味方の背中だけだ。
「ありがとう」
ツムギが小さく頭を下げた。御影は頷きもしないで、視線だけを少し落とした。落とした視線の先に、屋上のコンクリートの微かな傷があった。傷は薄く、古く、誰のものでもない。
そのとき、風がいちどだけ止み、遠くの観覧席の影で誰かの襟が揺れた。顔は見えない。襟だけが揺れる気配。こういうときに限って、金具の匂いが濃い。濃い匂いは、声より先に胸に来る。
◇
ツムギと別れて階段を下りると、影が長く伸びた廊下の端にセラが立っていた。制服の襟はきっちりしていて、髪は揺れない。揺れない髪は、影のほうが動いて見える。
「屋上、風が強いね」
挨拶の代わりに、彼女はそう言った。声は乾いていて、粉の匂いはしない。目はレンを見ていない。レンの肩の向こう側、空気の薄い層のずっと奥を見ている。
「聞いてたのか」
「聞こえた」
短い答え。彼女は歩いてこない。距離が正しい。正しい距離は、怖い。歩いてこない人が近い。
「正しいことを言うのが、いちばん難しいんだって、前に誰かが言ってた」
「誰か、って」
「いまなら、答えられる気がするけど、答えない。ずるいから」
彼女は少し笑った。笑い方が、以前より柔らかい。氷の角を落としてからの笑い。角を落とす方法を教えたのはレンだが、角を落としたのはセラ自身だ。彼女の中にある正しさは、いつも自分の刃で自分を傷つける。それでも彼女は手放さなかった。
「正しいだけじゃ、勝てないのに」
彼女の声はそこだけ低く、長く伸びた。伸びた声の最後のほうが、わずかに震えた。震えを隠さないのは、彼女の上手さだ。隠すと、別の怖さが増えるから、彼女は選ばない。
「勝ち方を設計して、勝つだけじゃ、足りない。勝つまでに何を捨てるかで、その勝ちが何だったか決まる。……わかってるよね」
「わかってるつもりでも、いつも遅れる」
「遅れる人は、ずっと間に合い続ける気がする」
セラは一歩だけ近づき、止まった。止まり方がきれいだった。練習の跡が残っている止まり方。止まった足のそばを、風がひと筋抜けていく。抜けたあとに金具の匂いが残る。匂いは(また)地下から来た。
「ツムギは強くなるよ。あの子は、名前がないところで働くのが上手いから」
「君も」
「私は、正しさを捨てないで勝つ方法を探す。無理でも、探す」
言い終わる前に、彼女の視線がレンの肩越しに跳ねた。廊下の角の向こうで、襟が揺れる。顔はない。誰かがこちらに背を向けたまま、わずかに首を傾けている。傾いた首の角度が、今日の試合の最終局面の角度に似ている。似ているから、名前を付けたくなる。付けたら、届く。届いたら、切られる。
「また明日」
セラはそれだけ言って、踵を返した。返すときの靴音は軽く、痛くない。痛くない音を出せる人は、痛い場所をよく知っている。
◇
夜の零席の教室は、昼の粉の匂いを残していた。蛍光灯をつけると、黒板の上の白い線が浮き上がる。過学習、と揺らぎ、と確率分岐、と、美しい無秩序。書いた字が、どれも自分の顔に見える。顔は好きではない。顔に名前が付くと、逃げ道が減る。
チョークを手に取る。指先が白くなる。白くなる前に、扉の向こうで足音が止まった。止まったまま、動かない。動かないのに、襟だけが揺れる。揺れる襟の向こうで、低い唸りが短く続く。世界式の端末が、今日の告白にまでタグを貼れるなら、それはもう設計ではない。設計のふりをした裁断だ。
黒板の左下に、小さく書く。
名前のない仕事 名前のある傷
その隣に、もっと小さく書く。
いまは設計が先、と言った
字が曲がる。曲がった線を、チョークの腹でならす。ならしても曲がりは消えず、表面だけが滑らかになる。滑らかな表面ほど、薄く剥がれる。剥がれた粉のひと粒に、指を押し当てる。粉は何も語らない。語らないことが、長く効く。
御影が入ってきた。ノックはしない。しないのが、ここの礼儀になっている。彼は黙って黒板を見て、机の端に腰を掛けた。腰を掛ける場所がいつもと違う。違う場所に座るのは、背中を押す体勢だ。
「背中」
レンが言うと、御影は肩で笑った。笑うと、粉が少し舞う。舞った粉が、蛍光灯の下で光る。
「押すだけ。引っ張らない」
「ありがとう」
「押すのは簡単。押したあとに、俺は倒れない。その練習は俺の仕事」
彼はポケットから破れかけの紙片を出した。紙片の端に、細い線が三本。今日の分岐の記録だ。数字はない。匂いだけが残っている。残っている匂いは、たぶん本人以外には読めない。読めない記録は、強い。
「ツムギは」
「強くなる。そう言った」
「なるよ」
御影の声は静かで、平らだった。平らな声は、遠くへ行かない代わりに、沈む。沈んだ声が黒板の下に溜まり、粉の匂いを濃くする。
「レン」
「うん」
「設計は、お前の言うとおり先なんだろうけど、順番は並べ替えられる。先と先を入れ替えれば、両方が先になる。そういう嘘もある」
御影は笑って、紙片をたたんだ。たたみ方が上手かった。上手な折り目は、ほどくときに傷にならない。ほどく気になれば、だが。
「俺は押す。お前は書け。明日の分」
彼が出ていくとき、廊下で旗が鳴った。ほんとうは鳴っていない。鳴っていないのに、鳴ったときの匂いだけが通り過ぎる。金具の匂いは、記憶を押す。押されて、レンはチョークを黒板に置いた。
右の端に、新しく線を引く。線は途中で止め、四角をひとつ描き、丸を二つつなげる。丸の中には何も書かない。書かない丸ほど、危ない。危ないもののそばに、ちいさく窓を描く。窓の向こうに、粉。粉の向こうに、誰のでもない主語。
そのとき、教室の窓ガラスに影が映った。襟だけが揺れて、顔はなかった。顔のない影は、こちらの手元をよく見ている。見られているのに、何も書き換えられていない。今はまだ。今はまだ、設計の側に順番の権利がある。
黒板の隅に、もう一行だけ書く。
逃げ道は先に置く
それはツムギのためでもあり、御影のためでもあり、セラのためでもあり、自分のためでもある。順番は決めない。決めないまま、明日の図の骨を引いていく。骨は細いが、折れない。折れないように、粉を指に残す。
照明を半分落とすと、白い字のいくつかだけが浮き上がった。過学習。揺らぎ。確率分岐。無秩序。名前のない仕事。名前のある傷。いまは設計が先。逃げ道は先に置く。浮いた文字の間に、黒い空間が広がる。黒は怖いが、やさしい。やさしいから、そこで立てる。立って、明日を押す。
教室を出る直前、レンは振り返って黒板を見た。白と黒のあいだに、自分の背中とツムギの横顔、御影の拳、セラの氷の薄い縁、そして、襟だけが揺れる顔のない影が、うっすら並んで見えた。見間違いだ。見間違いでよかった。見間違いでないなら、名前をつけられてしまうから。
扉を閉めると、静けさがひとつ増えた。増えた静けさが、背中の骨の中に収まり、骨の奥から明日を押す。押された明日は早い。早すぎるものは、設計が必要だ。設計は先に置いておく。人の気持ちよりも先に。そう決めてしまったから、今日はもう眠る。眠る前に、指先の粉を見て、落とさずに、目を閉じた。



