第5話 公開模擬戦:零席vs勇者候補
 風が旗を鳴らした。金具が擦れ、乾いた金属の音が空にほどけていく。そのほどけた音の細い糸が、闘技場の観客席をぐるりと撫でた。撫でられた人々はそれが合図だと勝手に思い込み、喉の奥に小さなざわめきを溜めた。ざわめきは、まだ拍を持たない。拍が入るのを待っている。
 話題性重視の公開試合。紙の上で決まったその言葉は、足音と体温の塊に変わり、今日の観客席を満員にした。看板には太い文字が並ぶ。零席 vs 勇者候補。勇者候補の中に、忘れたくても忘れられない名前が混じっている。新城カイ。かつての仲間。剥がれない笑いの筋肉。目の奥に、低い熱。
 レンは控え室から通路へ出た。通路の壁は薄く湿っている。雨の予定はないのに、湿気はそこにいた。湿気はいつも黒板の裏の匂いがする。粉のない場所に粉の匂い。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。
 出番を告げる鐘が鳴る。鐘は丸い。音には角がない。角がない音は、人の耳をすべって、床に落ちる。落ちた先で、拍になる。三。二。二。三。胸の奥でそれが鳴るのを、レンは確かめた。
 闘技場の中央。マイクが一本立っている。マイクの先端は乾いた唇に似ていて、こちらの言葉を飲み込みたがっているように見えた。レンは歩み出て、その前に立つ。満員の視線が、肩口に乗った。視線は重い。重いものは、杖になる。折れることもある。折れることは知っている。
 一礼してから、レンは言う。
「勝ち方の設計をお見せします」
 その一言が、観客席のざわめきに拍を入れた。三。二。二。三。ざわめきは形を持ち、方向を得た。高い位置に座る学園長・神垣の目は細められ、口元には紙の折り目のような皺が刻まれた。皺は長年の習慣だ。習慣は、油断に似る。似るだけだ。神垣は油断しない。顔の下側の筋肉がそれを示している。
 対面に並ぶ勇者候補の列の先頭で、新城カイが一歩前に出た。白い手袋を外す所作に無駄がない。外した手袋を誰かに投げ、片手を軽く上げる。それだけで、彼の側の空気は揃う。揃った空気は、よく曲がる。曲がる前に、折れる。
「始め!」
 合図と同時に、カイの前衛二名が地を蹴った。目を合わせず、肩も触れず、けれど拍だけは一致している。彼らはカイの背で拍を合わせられることを知っている。拍の所在を知っている連携は、強い。強いものは、怖くない。怖くないふりだけが上手くなる。
 零席は押された。乱暴者が一歩下がり、矢の子が二本分の距離の誤差を作る。御影ユウトは前に出るべき位置で一瞬躊躇し、ツムギの基礎層はまだ布の端を探している。観客席が軽く笑いを漏らす。笑いは空洞に落ちるとよく響く。空洞があると、こちらにも音が届く。届いた音は、ひとつだけ拍を早めようとする。
「落ち着け」
 レンは言った。マイクはもう使わない。彼の声は床に落ち、足裏から零席に入る。入った声は骨を通り、肩甲骨の裏で拍を作る。
 前に出たカイは、刃のない刃を持っている。その刃の角度が変わる瞬間に、レンは目の奥の回路を開いた。紙切れに書かれた数字が、立体の配線に変わり、勇者候補たちの連携を薄く透かせて見せる。音のない機械の中で、小さな継ぎ目が鳴っている。遅延の誤差。それは目に見えない。見えないが、ここにある。
 勇者側の後衛が詠唱の二拍目と三拍目の間に、必ず息を飲む癖がある。彼の左の唇の端が、その瞬間だけ小さく上がる。上がる角度は一定ではない。観客席のどこかで、旗が鳴るたびに、角度は少し違う。違いは、誤差だ。誤差は入口だ。入口に、拍を置ける。
「御影」
 レンは肩で合図を送った。ユウトの視線がこちらに一瞬だけ跳ね、すぐに敵の喉元に戻る。彼の呼吸が変わる。三。二。二。三。いつもの拍から、三の二拍目を薄く削る。その削ったところに、声を一つ落とした。落とされた声は、空白を作る。目に見えない穴。二十糎にも満たない、冷たい何かが胸の前に張られたような空白。
「空白の〇・二秒」
 レンは口の中で言った。自分に聞かせるための言葉。名前がつけば、扱える。
 ユウトは、一歩、前。顔で受ける。観客の視線が、彼の顔に引っかかる。引っかかった視線は、遅延になる。遅延が空白へ流れる。空白は、音を吸う。吸った音の分だけ、勇者側の詠唱が薄く脆くなる。脆いものは、重ねられる。
「今」
 レンの右手が、空を切った。ツムギはそれを見ていた。彼女の手首の魔術式プレートは、もはや冷たくない。皮膚と板の境が曖昧になり、層と皮膚が同じ温度を持つ。彼女は基礎層を、ユウトの空白の上に敷いた。見えない布。無色。薄いのに、受け止める。受け止めた途端、反転の角度が生まれる。
 勇者側の連携は、カイが作る。作られた拍は美しい。美しいものは、裏から見ると薄い。薄いところに、こちらの合成遅延が入る。遅延の石を並べ、増幅の坂を小さく作り、緩衝の布を半分に折る。ツムギの基礎層は、色を選ばない。選ばないことは、選べることだ。選べるから、反転できる。
 A席の剣士の踏み込みが、ユウトの掌で角を作られた壁に出会い、ほとんど抵抗なく滑る。その滑りは、反対側の矢印を作る。矢印は、詠唱の三拍目に刺さる。刺さる音は、観客には聞こえない。聞こえないのに、誰もがそれとわかった。皮膚の内側で知った。
「反転して」
 レンの言葉はツムギの耳に届いていない。届いていないのに、彼女の指はちょうどそのとおりに動いた。布を返すように、無色の層を裏返す。裏返した瞬間、勇者側の魔術が自分の拍で自分を叩いた。自滅。けれど自滅という言葉は正確ではない。自分の拍が過ちを呼び込むように、こちらが配置しただけだ。
 場内が揺れた。揺れるとき、人は目を見開く。見開いた目の奥に、細いひっかき傷が増える。傷の数は、なぜか名前の数と正比例する。実況席の若い声が、ほとんど悲鳴の高さで叫んだ。
「支援を、支援で、壊した!」
 支援は壊れない。壊れないようにできている。だから、壊されたように見えたとき、人は震える。その震えの拍に、零席は足を置いた。乱暴者が角を踏み、矢の子が震えを倍音に変え、癒し手は遅延の先行流しで戻りの反動を殺した。御影は前に出たまま、顔で受けつづけ、目線で押しつづける。押しつづける視線は、勇者側の司令塔の喉元に張り付き、息の角をほんの少し汚した。
 新城カイの笑いは、変わらなかった。筋肉が覚えた笑いは、場面に左右されない。けれど、その笑いのちょうど横で、目の奥の線が一本切れた音がした。レンはそれを聞いた。聞いた気がした。気がしただけでも、使える。
「ここから数える」
 レンは囁いた。誰のためでもなく、自分のために。
「三。二。二。三」
 剣が滑る。詠唱がわずかに遅れる。滑った剣の軌跡には、ツムギの無色の布が薄く敷かれている。遅れた詠唱の継ぎ目に、合成遅延の石が挟まる。御影の声がそこへ落ちる。声に角がある。角は押し返す。
 勇者候補の盾役が前に出た。足裏が床の白線を踏んだ瞬間、白線の下の配線が鳴る。配線などないはずなのに、鳴る。鳴った音は、黒板のひっかき音に似ている。黒板は闘技場にはない。ないのに、音だけがついてくる。耳の裏で飼っている。
「今」
 レンの声に拍が入った。三。二。二。三。ツムギの指先が、層をもう一度、裏返す。反転。そのたった一回で、勇者側の美しい連携の美しさが、刃になる。刃は薄い。薄いものは、よく切れる。よく切れたものは、血の匂いがする。
 前衛がよろけ、後衛の詠唱が舌に絡む。絡んだ舌は温度を失い、音だけが遅れる。遅れた音に、零席の乱暴者が肩で触れる。触れた肩から、御影の壁に角が立ち、押し返された速度が勇者側の盾の膝へ移る。膝が笑う。老いではない。拍のせいだ。
 実況の声が言葉を見失い、観客席のざわめきと溶けてひとつの叫びになる。叫びは名前を欲しがる。誰かが叫ぶ。「零席」。別の誰かが続ける。「レン」。名前が、粉のように舞う。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走る。そんな気がした。
 終わりは唐突に来る。審判の旗が横に振られた。勇者候補の後衛が、自分の詠唱の拍で自分の足を絡め取られ、腰を落とした瞬間。その瞬間を「安全確保」と呼ぶことに、意味はない。名づけは力だが、名づけが全てではない。
「勝者、零席」
 音が落ちる。拍が、消える。消えた拍のかわりに、震えが残る。震えは指の腹に集まり、指の腹は暖かい。暖かいのに、怖い。
     ◇
 開口一番に、神垣が立ち上がった。椅子の脚が石を引っかいた薄い音が、闘技場の壁に沿って走る。走りながら冷えていく。
「零席の技術は反則的だ」
 言葉は硬い。硬い言葉は、聞いている者の内側の柔らかさを傷つける。傷つけたうえで、縫い合わせる気はないという形をしている。
 レンはマイクに近づき、受け取らないまま、審判の机から規定冊子を取った。ページの角は油で軽く黒ずんでいる。誰もがそこをめくるから。めくられる場所は、薄くなる。薄くなったところは、破れる。
 読み上げる。条文を、一字一句。声は平坦。平坦な声は、相手の感情の上を歩かない。歩かないで、ただ通り過ぎる。規定は、フレームの内側の最大値を採点対象とする。術式同時使用の制限なし。ただし、直接的な相手の術式破壊行為は不可。間接的な誘導・合成は、禁止事項に該当せず。
「我々はフレーム内で最大値を作りました。相手の術式を壊してはいない。相手の術式が踏むべき拍の足元に、こちらの拍を置いた。置くことは、禁止されていない」
 神垣の目が、わずかに細くなる。細くなった目は、怒りよりも疑いを意味する。疑いは強い。強いものは、長く続く。長く続くと、冷える。冷えると、痛い。
「反則的、という言葉は美学の話です。ここは査定の場で、試験の場です。美学は観客の数だけある。規則は一冊しかない」
 レンは冊子を閉じた。閉じる音は薄く、しかし浮かばなかった拍の代わりをした。沈黙が、神垣の口元に垂れ下がり、その重みで皺の一本がほんの少し伸びる。伸びた皺は、すぐに戻る。
「……確認する」
 神垣は短く言い残し、席に戻った。戻るその背の上で、見えない襟が揺れた。揺れに拍はない。拍がないものは、怖い。怖いものは、目を閉じさせようとする。レンは目を閉じない。
     ◇
 勝利の後、舞台中央に仮設の机が出された。握手。形式。形式は、冷たい。冷たいが、必要だ。必要なものは、たいてい痛い。
 カイが歩み寄る。笑っている。笑いはいつも通りだ。筋肉が覚えた笑いに、今日の温度は混ざらない。混ざらないのに、手は震えていた。白い指の腹がかすかに揺れて、光を割る。割れた光は足元に落ち、すぐに見えなくなる。
「よくやった」
 カイは言った。声は乾いている。乾いた声は、よく燃える。
「ありがとう」
 レンは返す。返した言葉は、彼の喉の奥で少しだけひっかかった。ひっかき傷に、粉が入ったのかもしれない。黒板の裏の粉は、どこにでもついてくる。
 握手。手のひらと手のひらの間に、基礎層の薄い布が入っているような、奇妙な感触。レンはその布を取らない。取れば、崩れる。崩れると、気持ちが良すぎる。神垣の声が頭のどこかで繰り返した。設計は気持ちが良すぎる。
 カイが、ほんの少しだけ顔を寄せる。観客に見えない角度。唇は動かない。声は喉の奥で転がっただけで、外には出ない。出ない声に、言葉は乗った。
「お前の正しさは、俺の正しさを殺す」
 レンは目を逸らさなかった。殺す、という言葉は、たいてい間違っている。正しさは殺せない。置き場所が変わるだけだ。置き場所が変われば、化ける。化けたものを、人は殺したように見なす。見なす行為は、簡単だ。簡単な行為は、危険だ。
「カイ」
 レンはゆっくり言う。握手は解かない。
「正しさがぶつかったとき、拍で決めるんだと思う。どちらの拍が、先に床に落ちるかで」
 カイは笑った。笑いはうまく出る。うまく出るものは、たいてい、遅れて痛む。彼は手を離し、肩をすくめた。その背の筋肉は薄く硬く、長い時間をかけて作られたものだ。長い時間で作られたものは、たやすくは崩れない。崩れないが、曲がる。
「セラ」
 レンは名前を呼ばなかった。呼べば、そこに糸が張る。糸は人を結ぶ。結んだ糸は、切れる音がうるさい。うるさい音は、拍を乱す。乱れは使えるが、今は使わない。
 セラは観客席で立ち上がりかけ、また座った。目は笑っている。笑いに拍がある。拍がある笑いは、こちらの拍と干渉する。その干渉の上で、レンは立った。床は沈まない。沈まないように、名づけたからだ。基礎層。床。床は、沈まない。
     ◇
 解散の合図が出る頃、日差しは斜めになっていた。闘技場の砂は少しだけ暗く、冷たくなっている。砂の粒は軽いが、粒のひとつひとつに、誰かの足の重さが短く残る。短く残る重さは、拍になる。
 控え室に戻る廊下で、御影ユウトが立ち止まった。手の震えはもうない。代わりに、爪の内側に薄い疼きが残っている。疼きは悪くない。働いた証拠だ。ツムギは彼の横で、プレートの金具を外して手首を揉み、赤い跡を見つめている。跡は残るためにある。残れば、次に触れる場所がわかる。
「勝った」
 乱暴者が言った。言葉は粗いが、拍は合っている。矢の子が短く笑い、癒し手がゆっくり頷いた。全員の拍が、同じ場所に落ちる。
「勝ち方は一つじゃない」
 レンは言った。言いながら、黒板のない壁にチョークの跡を探した。無意味だ。壁はただの壁だ。けれど、粉の匂いはある。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がする。気がするだけでも、設計は進む。
「今日は、空白を使った。明日は、別の穴を使う」
「穴」
 御影が繰り返す。繰り返された言葉は、彼の胸の中で骨になる。骨になったものは、折れにくい。
「神垣が動くよ」
 ツムギが言った。声は細いが、足元はぶれない。細い足元は、拍で支えられている。
「動くね」
 レンは笑った。笑いは薄い。薄い笑いは、粉を散らす。散った粉は、光に浮く。浮いた粉の軌跡の上に、線が見える。線は、次の道だ。
     ◇
 夜、学園の屋根の上で、旗がまた鳴った。金具の音。黒板の裏のひっかき音。闘技場にも、廊下にも、教室にも、寝室にも、同じ音がついてくる。音は、目に見えない襟を揺らす。揺れる襟の主は、顔がない。顔がないのに、こちらを見ている。見られていることに、少しだけ慣れた。慣れは危ない。危ないものは、拍で薄める。
 レンは寮の硬い机にノートを広げ、今日の線を細く描き直した。空白の〇・二秒の位置。勇者側の詠唱の唇の角度。ユウトの前に出る壁の角。ツムギの反転の裏表。乱暴者の蹴りの重心。矢の子の震えの割り方。癒し手の先行流しの流量。
 隣のベッドで、誰かが寝返りを打つ音がした。寝返りの拍は、三。二。二。三。落ち着く拍だ。落ち着く拍は、よく眠れる。眠っている間にも、粉は落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。
 ページの余白に、小さく書く。
「主役は結果で決まる」
 今日、御影が前に出て、顔で受けて、拍を配って、空白を作った。それが結果を連れてきた。主役だった。明日は、誰か。明日が誰でも、線路は敷かれている。
 レンはペンを置き、目を閉じた。黒板はないはずなのに、裏のひっかき音がよく聞こえる。誰かが笑っている。笑いは名前がない。名前のない笑いは、怖い。怖いから、設計する。設計は、気持ちよすぎる。気持ちよさの上に、拍を置く。拍を置けば、床になる。床は、沈まない。
     ◇
 翌朝、掲示板に新しい紙が貼られた。公開試合の戦評。零席の欄に、薄い鉛筆書きの注釈がある。合成遅延。反転。基礎層。支援の角。言葉は並んで、まだ骨にはなっていない。骨にならないうちは、折れない。折れるなら、骨になってからだ。
 紙の下で、人だかりが波打つ。波の上で、セラが短く立ち止まり、目を細めた。彼女の目は笑っている。笑いは拍がある。拍がこちらに届く。届いた拍は、薄い合図になる。合図に名はない。名を与えれば、ここから何かが始まる。それをレンは知っている。知っているから、呼ばなかった。
 新城カイは紙を見ず、空を見た。空には旗があり、金具が鳴る。鳴る音は、彼の胸の中の割れ目に小さな石を落とす。落ちた石は、拍になる。拍は、彼の歩幅を整える。整った歩幅で、彼は前に進む。進む背の襟が、風もないのに揺れた。
 零席はいつもの教室に集まった。黒板は湿っておらず、粉の匂いは薄い。それでも、粉はある。粉はどこにでもついてくる。チョークを握ると、指の腹に白が移る。移った白は、なかなか落ちない。
「授業の前に、一回」
 レンが言うと、皆が立った。拍が合う。三。二。二。三。ツムギが基礎層を敷き、御影が前に出て、角を立て、乱暴者が足で鳴らし、矢の子が震えを二つに割り、癒し手が先に流す。黒板の裏のひっかき音は、昨日よりも遠い。遠い音は、いくらか優しい。優しさは、油断に似る。似るだけだ。油断しない。
「行こう」
 レンは薄く笑った。笑いは粉を一粒だけ宙に浮かせた。浮いた粉に、光が刺さる。刺さった光は無色だ。無色のまま、怖いほど綺麗だ。綺麗は、危ない。危ないから、拍を置く。拍を置きながら、次の線を引く。線は、前へ。前へ。前へ。
 正しさは、殺せない。置き場所が変わるだけだ。その置き場所を、設計する。設計の上を、仲間が立つ。床は沈まない。沈まないうちに、旗がまた鳴った。金具が擦れ、空の縁に細い傷が増えた。傷の数だけ、名前が増える。名前の数だけ、拍が増える。拍の数だけ、進める。進むたび、粉が落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、十分だった。今日はもう、それで十分だと思えた。

第六話 スカウト禁止令
 朝の鐘が鳴る少し前、掲示板の前にだけ風が吹いた。誰もいない廊下で、貼られたばかりの紙の角がかすかに浮き、糊が乾く音が、耳の奥の薄い膜を撫でる。風のくせに匂いがある。黒板の裏に染みついた粉の匂い。粉の粒には細い配線が走っている。そんな気がした。気のせいでも、朝はそれで十分だった。
 貼り紙の文字は太い。上から二行目だけ、紙の下の板の木目が透けて、黒が浅くなっている。そこに書かれているのは、短い命令だ。
 クラス間の引き抜き、当面禁止。
 追って詳細。
 署名は学園長・神垣。名前の横に押された印は、新しい赤のはずなのに、どこか乾いて見えた。乾いた赤は、最初から血の味がしない。
 その紙の前を、最初に歩いたのは御影ユウトだった。いつもより早く来たのは、眠れなかったからだ。昨夜の夢の中で、彼は何度も前に出て、何度も顔で受けた。拍は合っているのに、足元がなく、踏み出すたび、薄い空白に靴底が沈み、そのたびに目が覚めた。沈む空白は、誰かのために用意したはずのものだ。自分に開くのは、違うはずだ。違うのに、目が覚める。
 貼り紙を見上げ、ユウトは指で文字をなぞるふりをした。触れない。触れたら、貼り替えられる前の掲示の跡まで一緒に剥がれそうだからだ。下に薄く残っている古いテープの呼吸が、つられて早くなる。三。二。二。三。呼吸は、誰にでも配れる。
「早いね」
 背後から、レンの声。振り返ると、彼は片手にノート、片手に白いチョークをぶら下げていた。こんな時間にチョーク。教室の黒板はまだ濡れている頃だ。粉の匂いはどこからでも彼についてくる。
「見た?」ユウトは紙を顎でさす。「スカウト禁止」
「見た」
「うちに来たいっていう子たち、どうするんだろ」
「制度は壁だ。壁があるなら、扉を作る」
「扉?」
「共同演習。クラス間の“転籍”は禁じられた。でも“共同演習の参加枠”は、まだ禁じられていない。向こうの名札のまま、こっちの拍に入れる」
「抜け道」
「抜け道は、ルールが忘れている正しさだ」
 レンはそう言うと、貼り紙の下の何もない白い余白に、指で小さく拍を叩いた。こつ。こつ。こつ。音は紙に吸われて、板に散った。散った拍は、廊下の角を曲がり、階段の途中でひとつに集まった。その集まりが足音になる。
 足音は三人分。乱暴者の重いのと、矢の子の乾いたのと、そして、今日だけわずかに速い雛森ツムギの。彼女は走らない。走ると爆ぜる病気にかかったみたいに、歩幅を細かくしてでも走らない。それでも今日は、靴の先が床を探している感じがした。
「見た?」ユウトが尋ねる前に、彼女は頷いた。息は少しだけ上がっている。
「見た。大変?」
「楽しいよ」とレン。「掲示板が増えるほど、黒板が増える」
「ねえ、レンくん」
 ツムギは貼り紙を一度だけ見上げ、すぐに視線を彼の指先に落とした。チョークはまだ使われておらず、白い棒の表面に指の跡だけがついている。
「私、練習、もっと増やしていい?」
 ユウトが反射的に口を開くより早く、レンの指が空中で静かに横に振られ、そして頷いた。肯定と否定を同時にする指の動き。矛盾の上で、設計は始まる。
「増やす。ただし、拍を刻むのは僕じゃなくて御影だ。御影の拍の上で練習する」
「うん」
 頷いた彼女の声は、薄い紙に墨を落としたみたいに、静かに濃かった。
     ◇
 昼休み、食堂の掲示板にはもう一枚、紙が増えていた。今度はレンが書いた。書記台で申請した正式な用紙だ。共同演習の募集。零席オープン演習。
 内容は簡潔だった。演習テーマは基礎層上での合成支援。募集対象は全クラス。複数名の参加を想定し、座学と実技を分ける。名札は各クラスの色をそのまま。演習の成果物は各所属へ帰属。
 文面は整いすぎていて、逆に裏側の狙いが透けて見える。オープンラボ。転籍は禁じられても、研究室見学は禁止されていない。見学が増えれば、拍に慣れる者が増える。拍に慣れた者は、いざというとき間違わない。間違わない者は、どこのクラスにいても味方だ。
 申請印は、すぐに降りた。誰も断れない文面だった。断るときに必要な言葉が、用紙のどこにも書かれていなかったからだ。用語に抜け穴はない。あるのは、気持ちのほうにだけだ。気持ちは書類にならない。
 神垣は、窓際の席でそれを読んだ。窓ガラスに彼の顔が映る。映りにくい顔だ。皺が光を散らし、目の濁りが少なく、口元だけがいつもより動かない。動かない口は、思っていることをまだ言わない。言わないでいる間に、別の言葉が芽を出す。
「オープン演習」
 言って、学園長は舌で言葉の厚みを確かめた。厚くも薄くもない。噛み切ると血が出るほどではない。なのに喉の奥が冷える。冷えの原因は、言葉そのものではなく、それを口にする若者の側にある。設計工学。危険だ。気持ちよすぎる。
 彼は席を立ち、事務局へ通信の水晶を取りに向かった。廊下の角を曲がると、旗が鳴った。金具が擦れる。黒板の裏が掻かれる。ひっかく音に拍はない。拍がない音は、神垣の耳にだけ、妙に長く残った。
     ◇
 オープン演習の初日、零席の教室は満員だった。椅子は足りず、廊下にまで生徒が溢れる。色とりどりの名札。赤、青、緑、そして無色の白。無色は、色を選ばない。
 レンは黒板の前に立ち、チョークで四角を描く。四角の縁から始めない。まず、中心に薄い点を打つ。点の周りに円。円の外側に、薄い布の線。布は透明で、空気よりわずかに重い。重いという感じを持った透明。
「基礎層は床です。床は沈まない。沈まない床の上で、順番に部品を乗せる。同期。遅延。増幅。緩衝。言葉は聞いたことがあるでしょう」
 ざわめきは、評価の成分を含んでいた。聞いたことはある。使ったことはない。あるいは、使っているつもりで全然違うものを触っていた。
「支援は舞台監督です。前に出ます。顔で受けます。視線を汚します。汚れは遅延になる。遅延は糸。糸は束ねられる」
 御影ユウトは、後ろで小さく手を挙げた。挙げた手にすぐ気づくのは、講師が友人だからではない。講師の目が、拍で動くからだ。拍は視線でも配れる。
「質問」
「どうぞ」
「顔で受けるって、怖くない人、いません。怖いのに、どうやって前に」
「拍を探す。三。二。二。三。恐怖の上に拍を置くと、怖さは形になる。形になった怖さは、仲間だ」
 笑いが起こり、すぐに静まる。笑う者は、ルールの外側の空気の温度を測っている。静まる者は、今さら中に戻れないと理解している。どちらも、拍がある。
 実技の時間。窓側の机がいくつか寄せられ、簡易の測定器と、練習用の魔術式プレートが配られた。配る係の手元は慣れていない。他クラスの生徒は自分の席ではない場所に座って、少しだけ背筋が伸びている。背筋が伸びると、呼吸が入る。呼吸が入ると、拍が聴こえる。
「まず、床を敷く。ツムギ、見本」
「はい」
 ツムギは、手首に板を嵌めて、息を吸った。吸う前に、一度だけ吐いた。吐いて、空白を作る。空白に、御影が拍を落とす。三。二。二。三。透明な布が机の上に立ち、波打たない空気が震える。教室のあちこちから小さな感嘆が漏れた。音は短い。短い音は、よく残る。
 乱暴者が足で床を鳴らし、矢の子が震えの説明をした。癒し手は先行流しの量を語り、他クラスの眼鏡の少年が真剣に頷く。頷くと眼鏡がずれて、耳の後ろの皮膚が少し赤くなる。その赤さにも拍はある。レンは見逃さない。
 午前が終わる頃、ツムギは立ちくらみを一度、二度、三度、やり過ごした。見逃された。見逃されるために、笑った。笑いは薄く、床の粉を一粒だけ浮かせた。浮いた粉が、ゆっくり落ちる。落ちるのを目で追っているうちに、彼女の視界の端が黒くなった。
「ツムギ」
 御影の声は低い。低い声は、床の下から拾い上げる。拾い上げられた呼吸は、角が取れる。角が取れた呼吸は、続く。続くはずだった。彼女は椅子の背にもたれようとして、うまくいかず、机の角に肘を強く当て、そこから落ちた。
 静まり返った教室の中で、衝撃音が一つ。椅子の足と床の滑り音が一つ。チョークが転がる音が一つ。三つの音は混ざり合わず、それぞれの拍を持って散った。散った拍を御影が拾う。腕を回し、彼女の頭を支え、反射的に呼吸の数を数える。
 三。二。二。三。
 数える手が震えた。震えは拍の残り香だ。香りは、焦る者にとって毒だ。
「保健室、開けて」
 御影の声は驚くほど冷静で、驚くほど怒っていた。怒りは支援に向かない。向かないのに、声は怒っていた。怒りが声に混ざると、回りの拍が揺れる。それでも、彼はツムギを抱え上げた。軽い。軽いという感覚は危険だ。軽いものは落としやすい。
 教室の壁を通り抜けるとき、窓のガラスに教室の像が映った。黒板の前に立つ自分の肩の向こうから、誰かが覗いている。襟だけが揺れている。顔はない。見られている場面はいつも、なぜか少しひやりとする。
     ◇
 保健室は白かった。白いカーテン。白いベッド。白い棚。白い紙。白は色がないのではない。何を置いても、許す色だ。許す色は、時々残酷だ。
 ツムギは薄い毛布に包まれて眠っていた。眠っているというには呼吸が速い。速い呼吸は、拍を乱す。乱れた拍は、頭の奥で小さく跳ねる。跳ねる音に、御影の歯がきしんだ。噛んだわけではない。歯自体がきしんだ。
 レンが後から来た。足音は静かで、保健室の床の白の上で薄く吸われる。吸われた音は、ベッドの脚の金属に触れて、ひやりとする温度に変わる。豊富な温度だけが、保健室の色だ。
「限界までやらなくていい」
 御影の声は、聞いたことのない高さになった。高いのに低い。低いのに刺さる。刺さったのは相手ではない。彼自身の胸だ。刺しておく。痛みに慣れるな、という印だ。
「御影」
「設計だの拍だの、わかるよ。効果的だ。安全だ。だけど、限界を越えてまで床を敷くのは、違う。君は床じゃない。人だ」
 レンは何も言わなかった。言葉を選んでいるのではない。沈黙でさえ、拍になってツムギに乗ることを、彼は知っていたからだ。沈黙は緩衝だ。緩衝は、戻ってくる力を半分にする。
「限界は設計し直せる」
 しばらくして、彼はゆっくり言った。保健室の空気は乾いていて、その乾きの上を言葉が滑った。
「限界は定数じゃない。初期値だ。置き場所だ。置き場所を変えれば、化ける。化けた限界は、同じ名前でも別物だ」
「言葉遊びに聞こえる」
「遊びは、たいてい正しい」
 御影は目を閉じた。閉じた視界の裏で、黒板のひっかき音が鳴る。保健室に黒板はない。ないのに、音はついてくる。ついてくる音に拍がないことが、彼を落ち着かせた。拍がないものは、今は扱えない。
「僕が、もっと負荷を持つべきだ」
「君はもう、前で受けている」
「受けるだけじゃない。肩代わりしたい。ツムギの基礎層に乗っている全部の支援の一部を、彼女の向こう側で俺が受ける。そういう回路は作れるのか」
 レンは答えなかった。代わりに、眠るツムギの指先が動いた。毛布の上で、小指が、二度、三度、微かに。動きは拍だった。三。二。二。三。拍のあいだに、浅い呼吸が挟まる。挟んだ呼吸で、彼女の瞼が揺れる。
「ツムギ」
 御影が名を呼ぶ前に、彼女は目を開けた。目には涙がなかった。乾いている。乾いている目は、よく見える。よく見える目は、ときどき残酷だ。
「ごめん」
 微笑み。毛布の中の指が、もう一度だけ動く。彼女の声は細く、保健室の白の上で薄く伸びた。
「私、基礎だから」
 御影の喉の奥で何かが崩れ、また組み上がった。崩れたのは怒り、ではない。恐怖のほうだ。崩れた恐怖の残骸は、拍になる。拍は、彼の肩に乗った。
「基礎は、沈まない」
「沈まないように、御影くんが壁になる」
「なるよ」
 短い会話の間、レンはずっと静かに立っていた。立っていることでしか伝えられない情報がある。立ち位置。足の幅。呼吸の深さ。目の高さ。全部、拍になる。
「肩代わりの回路は作れる」
 やがて彼は口を開く。
「基礎層の下に、補助層を敷く。名は、支柱層。御影が作る。床の下の梁。梁は見えない。見えないから、揺れを吸う。君の壁の角を丸くして、梁にする。梁は、荷重を横へ流す。横に流れた負荷は、君が顔で受ける場所の手前で半分に割って返す」
「難しそうに言ってるけど、つまり、持つってことだね」
「持って、戻す。戻した力で、敵の拍を汚す」
 御影は頷いた。頷くと、ベッドの鉄の桟が薄く鳴った。鉄の鳴きには、高い倍音が含まれる。それは黒板のひっかき音とは違い、拍に馴染む。馴染んだ音は、怖くない。
「練習を再開しよう。焦らず、梁を作る。今日の午後から」
 ツムギは静かに笑った。笑いは床を厚くする。厚くなった床は、保健室の白の下に広がり、ベッドの脚を少しだけ軽くした。
     ◇
 午後、教室はまた満員だった。噂は速い。スカウト禁止令の余波で、誰もが様子を見に来る。来た者は、基礎層の上に立つ。立つだけで、何かが伝わる。伝わった何かに名前がまだないとき、人は黙る。黙るが、拍は合う。
 レンは黒板に新しい言葉を書いた。支柱層。梁。床下。見えない場所。文字は直線的で、粉が指の腹に白い三日月を残した。ツムギが机に手を置き、御影が前に出る準備をしている。
「梁は、床の下にある。しかし、床の上で呼吸する」
 説明が短いほど、誰かの拍は勝手に補う。補われるほうが、強い。強さは、時々危ない。
「御影」
「はい」
「顔で受けるのは変わらない。変わるのは、受けた後。角を作る代わりに、梁に流す。君の壁は角を持っていた。角は押し返す。梁は、受け流す」
「流した先で、返す」
「そう」
 御影は一歩前へ。視線の高さは敵の喉のあたり。顔で受ける立ち位置。そこで彼は、今までと違う呼吸をした。三。二。二。三。二の、二拍目でわずかに息を長くした。長くした息は、胸骨の裏に溜まり、肩甲骨の間を通って、背中から床へ落ちる。落ちた息は、梁になる。床の下で、見えない梁が鳴る。鳴る音は、黒板のひっかき音に似ていない。それは救いの音だ。
 ツムギは基礎層を薄く敷いた。午前の疲れの影はある。しかし布は薄いまま均等だ。均等さは、支える側の体温と呼吸が同じ方向を向いている証拠だ。御影の梁が、彼女の布の下で受ける。受けた負荷は横へ流れ、御影の肩で半分に割れて返る。返った力が、敵の拍に触れる。触れた拍は、濁って遅延になる。
「いま」
 乱暴者が角に足を置き、矢の子が震えを二つに割り、癒し手が戻りを殺す。すべてが基礎層に吸われ、梁に支えられ、御影の顔で受けられて、汚れだけが敵へ向かう。汚れは遅延だ。遅延は、束ねられる。束ねられた遅延は、連携の継ぎ目に入る。入った継ぎ目は、音を変える。
 実技の見学に来ていた他クラスの司令塔が、わかるはずのない拍の変化に眉を動かした。動いた眉の下で、喉仏が一度だけ上下した。上下の速度は、いつもの彼の速度ではない。速度は、御影が握っている。
「梁、効いてる」
 ツムギが小さく呟いた。呟きは布の上に落ちて、床の仕上げの板の継ぎ目をなでた。なでられた継ぎ目は、鳴らなかった。鳴らない床は、よく戦える。
 練習は続いた。拍を変え、呼吸を繋ぎ、梁に流し、返す。御影の目の下に薄い影が落ちる。影は疲労の証拠だが、拍が崩れていない。崩していない。崩さないための設計が、彼の背中に薄く描かれている。背中の設計図は、見せるものではない。見せると、誰かが欲しがる。欲しがらせる設計は、危険だ。
 休憩の合図。水を飲み、腕を回し、肩を落とす。ツムギは立っていた。座れと言う前に、彼女は座った。座るという動作にも拍はある。彼女は学んでいる。床は、沈まないが、休む。
「御影くん」
「うん」
「ありがとう」
「まだ、ありがとうの段階ではない。でも、どういたしまして」
 御影は少し笑った。笑いは床を厚くする。厚くなった床は、黒板の粉を一粒、余分に受け止めた。粉の粒には、細い配線が走っている。そんな気がする。気がするだけでも、正確に使える。
     ◇
 夕方、レンは校務室の扉を叩いた。神垣に呼ばれていた。呼び出し状の文字は硬い。硬い文字は、受け取る指に小さな切り傷を作る。切り傷は、痛む前に乾く。
「入れ」
 扉の向こうの声は低く、控えめな金属音を帯びている。水晶の通信を切った直後の声だ。レンは思い出す。方舟。運営。航路。切除。言葉は記録より先に、匂いを持つ。金属と水と濡れた布の匂い。良くない匂いだ。
「共同演習。盛況だな」
「ありがたいことです」
「私は、設計工学を嫌っているわけではない」
「嫌っている」
 神垣の眉がわずかに動いた。目は動かない。動かない目は、見たいものを動かさない。
「嫌っているのは、設計に酔う者だ」
 レンは黙った。沈黙は緩衝だ。緩衝の布は、相手の言葉の勢いを半分にする。半分になった勢いは、床の上を歩ける速さになる。
「逸脱者は切る」
 神垣は言った。言ってから、机の上に置いた指を見た。指先に粉がついている。保健室の白ではない。黒板の白だ。黒板に触った覚えはないのに、粉はついていた。粉はどこからでもつく。名づけの粉だ。
「君は、踏み越えないと約束できるか」
「約束は、怖い」
「だから、約束してみろ」
 レンはわずかに微笑した。微笑むと、頬の内側の筋肉が緩む。緩んだ筋肉は、言葉を柔らかくする。
「僕は、拍で止まる。拍を外さない限り、設計は人を裏切らない」
「その拍を誰が配る」
「御影です」
 神垣は目を細め、背もたれに腰を沈めた。椅子の軋む音には拍がない。拍がない音は、話を終わらせる。
「帰れ」
「ありがとうございました」
 部屋を出る。廊下の角で、旗が鳴る。金具が擦れる。黒板の裏が掻かれる。音はいつも同じようで、少しずつ違う。違いの中に、名札が増える気配がある。名札は増えた。オープン演習は、本当にオープンになってしまった。
     ◇
 夜、寮の談話室。御影は机の上に戦術ボードを広げ、そこに薄い透明の板を二枚、三枚、重ねていった。重ねるたび、白い線が濃くなる。濃くなった線は、梁の位置だ。床下の地図。見えてはいけない場所の、見える地図。
 ツムギは向かいに座り、指で板の端を撫でている。日中の疲れがまだある。あるのに、目が冴えている。冴えた目は、眠る準備をしている目だ。眠るために、最後にもう一つだけ、言葉を飲む。
「御影くん」
「うん」
「私、基礎だから。重ねられる。乗られる。踏まれる。平気」
「平気じゃない。だから、梁を敷く」
「御影くんが、私の下で」
「下にいるから、見えるものがある。上からじゃ見えない隙間が、床下にはある」
 ツムギは笑った。笑いは、床下まで届かない。届かないから、上に残る。上に残る笑いは、上で戦う者を助ける。助けは、名づけなくてもいい。名づけてしまうと、請求が来る。
「明日、試す?」
「試す」
「倒れたら怒って」
「怒る。怒って、それでも拍を配る」
 二人の言葉の間に、薄い沈黙が何度か落ちた。沈黙は緩衝だ。緩衝の布の上で、眠気がやっと体の形を取り戻す。取り戻したところで、談話室の窓が微かに震える。外の旗が鳴ったのだ。金具の擦れる音。黒板のひっかき音。襟だけが揺れている影。
 御影は立ち上がり、手を差し出した。ツムギはそれを取り、立ち上がった。立ち上がるとき、拍は揃った。三。二。二。三。揃った拍の上で、二人の距離は、実際よりも短くなった。
     ◇
 翌朝の教室には、昨日より少し多くの椅子があった。オープン演習は、名目を越えて広がっていく。名目は名札に似ている。貼られたものの輪郭を整えるが、中身の増減までは止められない。
 レンは黒板を拭き、湿った面に最初の線を引いた。引かれた線の上で、水が薄く逃げる。逃げる水の縁に、粉がくっつく。粉は、線の誤差を埋める。誤差の上で、今日の授業は始まる。
「支柱層、二日目。梁は、床の下で鳴る。鳴る音を聞けるように、耳を作る」
 言いながら、レンは指で黒板を叩いた。こつ。こつ。こつ。音の高低は、彼の胸の呼吸と一致している。一致は拍だ。拍を配る者を前に、御影が立ち、顔で受ける。その肩の上で、梁が鳴る。鳴る音は、昨日より少し深い。深い音は、よく持つ。
 ツムギの基礎層は薄く、広い。広いのに端が立っていて、合成の波が滑らない。滑らない布は、きれいだ。きれいは危ない。危ないから、御影が下から支える。支える手の中で、彼は自分の限界の位置を少しだけ動かした。限界は設計し直せる。置き場所を変えるだけで、別の言葉になる。
 練習の終盤、他クラスの一人が唐突に言った。
「転籍は禁止なのに、ここ、あたたかい」
 言った後で、彼は少し恥ずかしそうに笑い、耳の後ろをかいた。耳の後ろの皮膚が赤くなる。赤は、拍の色だ。レンはその赤を見て、何も言わなかった。言わないことが、拍を乱さないことだと知っていたから。
 終わりの合図。チョークを置く。粉が指に残る。指をこすり合わせると、粉は落ちず、むしろ増える気がする。増えた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。気のせいでないほうが、怖い。怖いから、拍を数える。三。二。二。三。
 廊下に出ると、掲示板の紙の角がまた浮いていた。スカウト禁止の文字は変わらない。変わらないから、読む者の中身が変わる。読むたびに違う意味を持つ。意味は読み手の拍だ。拍が変われば、意味も変わる。
 レンは紙の下の何もない余白に、叩くふりをして、叩かなかった。叩かない拍は、床に落ちない。落ちない拍は、まだ名前がない。名前がないものは、怖い。怖いから、名づける準備だけしておく。
 準備は、もうできている。共同演習の枠は拡張された。支柱層の図は整い、御影の肩の上で梁が鳴る。ツムギの基礎層は薄く、広く、端が立っている。乱暴者の足は角に強く、矢の子の震えは二つに割れ、癒し手は先に流す。オープンラボは、名札を選ばない。名札を選ばない場所で、拍はよく配れる。
 スカウト禁止令は、緩やかな冬みたいに学園を包んだ。冬は、息を白く見せる。白く見える息には拍がある。拍が見える季節は、設計しやすい。設計は、気持ちよすぎる。気持ちよさに名前をつける前に、レンはふと、窓ガラスを見た。ガラスの中で、襟だけが揺れている。顔はない。見られている。見られていることに、少しだけ慣れた自分が、いちばん怖い。
 粉が、指から床へ落ちた。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、十分だ。十分でないように見える時ほど、拍は正確に配られる。三。二。二。三。床は沈まない。梁は鳴る。名札は選ばない。スカウトは禁止。禁止の文字の下で、オープンな拍が増える。
 限界は、設計し直せる。御影はそれを肩で覚え、ツムギは笑いで覚え、レンは粉で覚えた。覚えたものは、床の下へしまっておく。しまっておいたものは、必要なときにだけ取り出す。取り出されたとき、黒板の裏のひっかき音が、一度だけ遠ざかった。遠ざかった音には拍がなかった。拍がないものは、いまは扱わない。扱わないから、進める。
 旗が鳴る。金具が擦れる。空の縁に細い傷が増えた。増えた傷の数だけ、名前が増える。名前の数だけ、拍が増える。拍の数だけ、次の扉の位置が見える。扉は壁の中にある。壁の中にある扉の前で、レンは指で空中の四角を描き、中心に薄い点を打った。点の周りに円。円の外側に、透明な布。床。床の下に、梁。梁の上に、彼ら。
 スカウト禁止令の紙は、その日の夕暮れに、風で少しだけ剥がれた。剥がれた角の下には、古い掲示の色褪せた線があり、そこにも拍があった。拍は、古いものにも新しいものにも、均等に乗る。均等に乗せられるのは基礎層の仕事だ。ツムギは、窓の外の色を一度だけ見て、目を閉じ、そして開けた。開けた目には、涙がなかった。乾いている。乾いている目は、よく見える。よく見える目は、ときどき残酷だ。けれど、その残酷さも、いつか名づけられる。名づけられるまで、拍で薄める。
 三。二。二。三。
 零席の一日は、そうやって終わり、次の一日のために、指の腹に白が残った。白は落ちにくい。落とさないほうが、戦いやすい。指に残った白を、レンはそっと確かめ、ポケットの中で粉の感触が消えないのを確かめ、教室の鍵を閉めた。廊下の角で、再び旗が鳴る。ひっかき音は遠い。遠い音は優しい。優しいから、危ない。危ないから、設計する。設計の上で、眠る。眠っている間にも、粉は落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――走っている。そんな気がした。気がしただけでも、まだ、十分だった。

第七話 氷の天才、揺らぐ
 夜の訓練場は広かった。昼間の喧騒が跡形もなく消え、耳が痛くなるほどの静けさが、地面の砂の粒にまで沁みていた。照明は必要最低限だけが点き、冷たい白が土の上に四角い島をいくつか作る。その四角の境目は、踏むと少しだけ温度が変わる。境目を跨ぐたび、皮膚の内側で薄い金属が擦れるような感覚が走った。
 セラがひとり、氷の式を展開した。手元で組んだ術式は美しく、寸分の狂いもない。指先の軌跡で描かれた線が、空気の冷えと合わさり、透明な刃と壁とが次々に立ち上がる。壁の角は鋭く、刃の輪郭は潔い。完璧に見えた。見えただけだった。
 刃と壁の接合部、温度と魔力量の遷移で、必ず微かに欠ける。欠け目は目では追えない。追えないのに、砕けるときだけは遅れて響く。遅れてくる音は、背骨の奥で薄く跳ねる。その跳ね返りに、セラは何度も息を止める癖がついた。止めても、直らない。
「……ここ」
 彼女は手袋を外し、夜気にすぐ冷たくなる指先をその欠け目にかざした。触れない。触れたら、全体が崩れる。
 赤い名札の灯りが横切った。足音は静かで、砂の上の白い島の端を選ぶように歩いてくる。レンだった。制服の袖に粉が付いている。教室を出てから一度も黒板に触っていないはずなのに、粉はどこからでも付く。白は落ちにくい。
「こんばんは」
 レンは距離を取り、セラの術式には近づかなかった。近づかないこと自体が、観察だと知っている顔だった。
「相談、してもいい?」
「うん」
「氷の式の欠点。私のやり方だと、ここで壊れる。速度を落とすと威力が死んで、威力を残すと制御が死ぬ。両方を生かしたい」
「見せて」
 セラは頷き、式を最短の動作で再構成する。空気が乾き、地面の砂が薄く音を立てた。透明な壁と刃がもう一度立ち上がる。照明の四角い島の白が反射して、訓練場の隅の暗さがいっそう黒く見えた。黒い場所の中で、襟だけが揺れている影がある。いつからいるのか、誰なのか、顔は見えない。
 レンは目を細めた。紙切れが立体化して視界に浮かぶように、構成や流量、温度勾配や式の結び目が白い線で立ち上がる。氷は単純な寒さの塊ではない。瞬間ごとの状態が切り替わるたび、細い段差ができる。段差は見えない階段だ。階段を駆け上がる速度で割れる。
「相転移の段差が急すぎる」
 レンはゆっくりと言った。言葉は夜の白の上で薄く滑る。
「段差の前後、魔力の配線が直線すぎる。一直線だと、無意識に同じ力で押す。押された側は、勢いで乗り越えるか、つま先で引っかかって割れるかの二択になる。二択をやめよう」
「やめる?」
「緩やかな坂にする。段差の手前に細かい踏み場を作って、式の中に薄い層を差し込む。温度の下げ方も一度に落とすんじゃなく、傾斜を作る。氷にする場所と氷にしない場所の境界へ、透明な“遷移層”を挟むんだ」
「遷移層」
「氷じゃないけど、水でもない。固まりたい願いと、流れたい性質が両方少しずつ残っている層。そこを魔力が通ると、威力の芯が崩れないまま角の手前で速度が柔らかくなる」
「柔らかい氷なんて、嫌い」
「柔らかい場所は、表じゃない。見えない。内側にだけ置く」
 レンは指先を軽く持ち上げ、空に一本線を引いた。見えない線なのに、空間の外皮がそのとおりにたわんだ気配がした。セラの術式の内部に、細い経路が一本増える。直線で結ばれていた配線の途中に、透けるトンネルが差し込まれる。そこを通る間に熱の落ち方が変わり、魔力の圧がまるい瓶の内側を擦っていくように変質する。
「やってみて」
 セラは無言で頷いた。二度目の構成。指のひらが冷えて痺れ、爪の縁が淡く痛む。痛みを合図に変えない。合図にしたら、戻れなくなる。式の途中で、言われたとおり遷移層の配線を咬ませた。見えない層が、刃の背に沿って薄く走る。次の瞬間、刃が走った。
 音が変わった。いつもなら硬く乾いた響きで周囲の空気を割るのに、今の刃は音を連れていかなかった。連れていかないで、ただ通った。通り抜けた痕だけが冷えて残った。壁と刃の接合部に欠け目がない。欠けないという事実が、遅れて皮膚に触れる。
「……両方、残った」
 セラは驚きより前に笑いそうになって、笑いが喉の手前で凍るのを感じた。氷が凍るのは当たり前なのに、自分の笑いが凍るのはおかしい。そのおかしさに、思わず近づき、レンの袖を掴んでいた。掴んだ布の温度が、夜の空気よりほんのわずかに高い。
「私、間違ってたのかな」
 袖口を握る指が、白くなる。言葉は小さかった。夜は小さな言葉のほうが遠くまで届く。暗がりの向こうで、襟だけがわずかに揺れる。見ている、誰か。
「間違いっていう名前を置かないほうが、たぶん速い」
 レンは袖を引き剥がさなかった。離さないほうが、返事になると思った。
「選ばなかった配線が、いくつかあった。その時は“そうしない理由”がたしかだった。でも今は、理由の置き場所を少し移動できる。置き直したら、別の顔になる。顔が変われば、届き方も変わる」
「届き方」
「君の氷は、まっすぐ過ぎた。それは強さだけど、折れやすさとセットだった。遷移層で受け渡しを増やせば、真っ直ぐのまま折れにくくなる」
「ずるい」
「ずるさは、設計の礼儀」
 セラは小さくうなずいた。掴んでいた袖からそっと指を離す。離した指先に、布の感触がしばらく残っている。残っている間に、暗がりの影が去った。誰がいたのか、言葉になる前に、訓練場の照明が一段だけ落ちた。夜が少し増えた。増えた夜の中で、セラは再度、刃を構成した。音はやはり、連れていかれない。ただ通る。通ったあとに、白い線が残る。それだけ。
 帰り際、レンは何も言わなかった。言わないことが、今夜の作法に思えた。セラは背中のほうで彼の足音が離れていくのを聞き、訓練場の端へ歩いた。闇と光の境目に立つと、夜の向こうに、ガラスのような目の色が一瞬光った気がした。気がしただけかもしれない。気がしただけでも、胸の中に落ちる音は本物だった。
     ◇
 翌朝。勇者候補の棟のミーティングルーム。窓の外は晴れて、校庭の旗が動く。金具が擦れる音が、壁を薄く撫でる。その音のせいで、部屋の空気は温度の数字よりも冷たく感じられた。
 セラは資料を配った。夜の訓練場で組んだ改良案。氷式の内部に遷移層を挟む配線図。温度勾配の傾斜のつけ方。魔力の再循環の経路。簡潔で、誰でも追える説明だった。追えないふりをするのは、面子の都合だ。
「読んで。試して。全体の安定が上がる」
 数人が頷いた。端のほうに座っていた盾役は、紙を眺め、具体的に三つの質問をした。詠唱者は二カ所に赤を入れた。前衛のひとりは眠そうな顔のまま「やってみる」と言った。新城カイだけが、視線を資料に落とさなかった。落とさずに、窓の外の旗を見ていた。旗は、風がなくても揺れる時がある。
「レンの理屈に寄るのは、負けだ」
 彼は、紙に触れずに言った。声は乾いていて、角がない。角がないのに、切れる。
「理屈がレンのものだとしても、手法自体は一般化できる。使えるなら使えばいい」
 セラは淡々と言った。淡々という表皮は、内側の動揺を隠す。隠したほうが、届く人には届く。届かない人には、なお届かない。
「違う。負けるのは手ではなく、考え方だ。あいつの“設計”に時間を委ね始めたら、次も、その次も、判断の基準が外に置かれる。俺たちの勝ち方が、俺たちの手から離れる」
 カイは笑った。笑う筋肉はいつも通りに動く。動きの手触りだけが、昨日の夜から変わっていた。変わったことに気づく人は少ない。気づいたセラは、喉の奥に氷の欠片が引っかかったような感覚を覚えた。痛みではない。しびれだ。しびれは、長い。
「……学園祭の混合チーム戦、零席と組むのはどう?」
 セラは言った。提案ではなく、観測結果として。誰もが気づかないふりをしている空気の形を、指でなぞって見えるようにするための音量で。
 沈黙。資料の紙が擦れる音。旗の金具。遠くで誰かが黒板を引っかく音。黒板はここにはないのに、音だけがいる。
「仮の共闘。名札はそのまま。勝ち方の実験を、観客の前でやる」
「観客の前で実験はしない」
 カイは即答した。
「実験じゃない。検証。見せるべきものを見せる」
「見せるために、零席に寄るのか」
「寄るんじゃない。繋ぐ」
「線の名付けを変えただけだ」
 カイの指がテーブルの端を一度だけ叩いた。固い音。この部屋には柔らかいものが少ない。彼の視線は窓の外から戻ってこない。セラは資料の最後のページの端を折り、黙って一度息を吐いた。吐くことに意味はない。ただ、音を増やさないための動作だった。
「見に行ってもいい?」
 前衛のひとりが言った。素朴な声。彼はいつも大きくも小さくもない声を出す。大きくもしないし、小さくもしない人の言葉は、やがて場の基準になる。
「オープン演習、今日もやるはずだ」
 詠唱者が思い出したように補足した。セラは頷いた。頷くと、髪が少し肩を叩いた。叩いた場所に冷えが移る。冷えは嫌いではない。それでも、今日は温度の上がり下がりにわずかに敏感だった。
「勝つための道具は、すべて借りる。ただし返すときは、別の形にして返す」
 セラが最後にそう言うと、カイはやっと彼女を見た。目は笑っていた。昨日の夜、訓練場の暗がりで光った目の色と重なる。重なった瞬間、胸の内側でグラスのような音がした。割れてはいない。立てかけたまま滑って、縁が机に触れた時の音。小さく、やさしい、嫌な音。
     ◇
 昼過ぎ、零席の教室。今日のオープン演習は見学者が多い。色の違う名札が並び、互いの距離を測るための視線が宙を行き交う。黒板の前にはレン。指に粉。ノートの余白に細い配線の落書き。
「氷の式について」
 レンは書いた。黒板に白い線が現れる。凍る線ではない。乾いた粉の線だ。粉は落ちる。落ちたあと、靴の裏に移る。
「段差の扱い。相転移の前後に、魔力の通り道を一本増やす。遷移層を挟む。温度の落ち方を一度にしない」
 教室の右側、扉の近くに立っていたセラは、その字を見て眉をわずかに動かした。昨夜の配線が、言葉として黒板に置かれる。置かれた言葉は、もう彼女だけのものではない。良いことだ。良いはずだ。良いことの重さに、指先が冷える。
 見学に来ていた前衛が手を挙げ、詠唱者が質問を重ねる。御影が支柱層の図を補い、ツムギが基礎層の広げ方を実演する。乱暴者が角の作り方で笑いを取り、矢の子が震えの歩幅の話で笑いを消す。笑いが消えると、空気は集中の形になる。集中の形は、人を静かにする。
 教室の一番後ろに新城カイが立っていた。入ってきたときの音を誰も聞かなかった。聞こえた人がいても、誰もそれを合図にしなかった。カイは黒板を見ない。見ているのは、レンの指先と、板の端に残る古い粉の線だった。線は真新しいものよりも、扱いが難しい。難しいものは、燃える。
 演習の終わり際、セラは前へ出た。紙を持っていた。昨夜の配線図の、少し違う版。遷移層の密度が場所ごとに変わり、傾斜が多段になっている。彼女は黒板と並んで立ち、言った。
「実装例を共有したい」
 レンは横に一歩分ずれた。場所を空ける動き。セラが板書を始める。粉が指に付く。付いた粉は落ちない。落とす必要がなかった。彼女の説明は短く、線はすっきりとしていた。質問が出る。答える。やってみる者がいる。失敗する。失敗の形が手のひらに残る。残った形が、次を正しくする。次の正しさが、場を温める。
 最後列のカイは、いつの間にか教室を出ていた。扉の隙間からのぞく廊下は静かで、掲示板の紙がわずかに浮いている。浮いた角の下に、古い線が透けて見える。透けた線は、誰のものでもない。誰のものでもない線を、カイは見た。見たあと、目を閉じた。閉じた暗さの表面で、夜の訓練場の照明がもう一度光った。袖を握る指。見えない観客。薄い音。全部が、彼の内側で別の名札を着け始める。名札は簡単に剥がれる。剥がれたあとは、皮膚が赤い。
     ◇
 学園祭まで、時間はあるようでなかった。混合チーム戦の要項が発表され、各クラスは出場枠を巡って静かな戦を始めた。零席の掲示板には、仮の共闘を示す紙が一枚、さりげなく貼られた。紙の角は誰かに丁寧に押さえられ、剥がれない。紙の下で、板の木目が静かに流れている。流れは遅い。遅いものは、強い。
 夜、屋上。風は弱い。旗は鳴らない。鳴らないのに、金具は擦れる。擦れる音は、黒板の裏のひっかきに似ていた。似ているだけで、同じではない。違いがわかるほどには、みんなよく聞いている。
 レンは柵にもたれ、学園の灯りの形を眺めた。四角と丸と、薄い線。線の先に、行き先は書いていない。書いてしまうと、そこへしか行かなくなる。行き先を決めないまま、線だけ増やす。それが、今のやり方だ。
 足音。セラだった。昼間の粉がまだ指に残っている。彼女はレンの隣に立ち、何も言わなかった。言わない時間が、屋上の空気の温度を決める。温度が決まれば、凍るものと溶けるものの境目が見える。境目に、遷移層を置く。
「混合戦、ほんとに仮の共闘でいく?」
 やがて、セラが言った。
「仮で十分。本気の名前をつけるのは、最後でいい」
「……きっと、怒られる」
「怒りは熱。熱は使える」
 セラは笑った。笑いは遠くの灯りに反射して、薄く見えた。見える笑いは、大抵消えるのが早い。消える前に、線を一本増やす。線は、繋がる場所を選ばない。
「昨日の夜、見てた人がいた」
「知ってる」
「カイ」
「知ってる」
「彼は、きっと来ない」
「来ない人のためにも、道は作る」
「優しい」
「設計は、冷たくて優しい」
 セラは黙り、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。昨夜の配線図よりさらに細かい、氷の式の新しい案。渡し方はぎこちない。受け取り方も、ぎこちない。ぎこちなさは、いい。人間の証拠だ。
「借りて、返す。別の形にして」
「返して」
「返す」
 紙の端が、風に少しだけ揺れた。風は弱い。弱い風は、紙の匂いを運び、指に粉の感触を残す。粉は落ちにくい。落とさないまま、明日の教室へ持ち込まれる。持ち込まれた粉は、別の名前を覚える。
 屋上から降りる階段の踊り場で、誰かが立ち止まった形跡があった。靴の尖りが床の埃を薄く蹴っている。蹴られた埃の粒が、廊下の灯りの下で舞っている。舞う粒の間で、襟だけが揺れた。顔はない。顔がないのは、見ないからだ。見たら、名前がつく。名前がついたら、扱える。扱えるものは、壊せる。壊せるものは、怖くない。怖くないことほど、怖い。
     ◇
 学園祭当日の予定表には、混合チーム戦の欄に小さく但し書きが付いた。仮共闘、名札は所属のまま、指揮権限は交渉による。交渉という言葉は、表面が滑らかで、内側に刃がたくさんある。刃は見えない。見えない刃で手を切る者が、今日は多いだろう。
 セラは控えめに頷き、氷の式をもう一度だけ、夜の訓練場で組んでみた。遷移層は常に静かで、刃は音を連れていかない。切断の痕だけが冷えて残る。冷えが残るのは、跡だ。跡は正しい。正しさは、誰かの正しさを壊すことがある。壊すつもりはないのに、壊れるときがある。彼女は袖口を一度握り、すぐに離した。あの夜の触感が、布の織りの目にまだいる。指が覚えているものは、たいてい正確だ。
 観客席は、朝から満員になるだろう。旗は鳴るだろう。金具が擦れ、黒板の裏をひっかく音が遠くからついてくるだろう。零席の黒板には、今日も線が増える。粉が落ちる。粉の粒ひとつひとつに細い配線が走っている。そんな気がする。気がしただけでも、十分だった。今は、十分であることが、いちばん怖い。
 セラは最後に、冷えた刃に触れず、離れた場所からそれを見た。刃はそこで待っている。待つことができる刃は、よく切れる。よく切れるものは、音を連れていかない。連れていかない音の代わりに、胸の内側で小さな音が鳴る。割れないグラスが、机の縁に当たるあの音。やさしく、嫌な音。
 彼女はその音を、今日のための合図にした。合図の上に、歩を置く。置いた歩は、揺れない。揺れない足元に、氷の透明な影が薄く伸びた。影は、名札を選ばない。名札の色が混ざる場所へ、彼女は向かった。

第八話 学園祭・混合チーム戦
 朝の校庭に屋台の甘い匂いが重なって、砂の上の白線までが砂糖菓子みたいに見えた。浮かれ声は高いところを流れていくのに、闘技場の内側だけ温度が下がっている。看板には太い文字。混合チーム戦。ランダム構成。名札の色はばらばらに混ぜられ、ふだんの連携は初めから崩されている。崩れたものを拾い上げられるかどうかを、観客は面白がる。面白がる眼差しは、時々冷たい。
 抽選の鐘が鳴った。箱の蓋が開き、名札の欠片が取り出されては、電光掲示に貼られていく。レンは紙に目を落とし、そこに浮く見えない線を指先でなぞった。組み合わせは悪くない。悪くないが、揃ってはいない。揃いにくい形を、今日のルールはよく知っている。
 発表。レンは零席からひとり。あとは他クラスの剣士と、回復役と、弓。対する相手側に、セラの名があった。彼女は別ブロック。さらに遠く、最後列の札に新城カイの名も浮いている。互いに遠い位置。遠さは、油断を呼ぶ。呼ばれた油断は、すぐに誰かの足下を滑らせる。
 開始の合図。四方から音が飛び、各隊が散開した。レンのチームは初手からつまずいた。剣士が前の癖で角に立つ。回復役が密着しすぎる。弓が距離を取りすぎる。三つの癖が別々の方向を向いて、同じ地面を引き裂いた。
 レンは言葉より先に、目の前の空気に回路を描いた。見えない四角と、そこに通す細い道。剣士の踏み切り位置に印を置き、回復役の立つ幅に薄い壁を置き、弓の矢筋を少しだけ曲げる透明の溝を掘る。掘ったと同時に、指先でチョークを握る癖が出た。粉はない。ないのに、指は白くなる。錯覚は、使える。
「ひと呼吸分、ずらして」
 短い合図に応じる顔。剣士が一歩分の遅れを作り、回復役が半歩分だけ後ろに下がり、弓がわずかに引きを弱める。その三つが同時に行われた瞬間、ばらばらの拍子が一度だけ揃い、見えない輪が地面に沈んだ。輪の中心に、敵の突撃が落ちた。落ちたものは、戻る前に減速する。減速した勢いを、弓が横合いからさらう。さらった矢筋が、剣士の刃を押した。押された刃は、正面の盾を軽く外す。
 観客席のざわめきが、わずかに深くなった。レンがいると、皆が少し強く見える。見える、ではなく、強いのだと気づく者は少ない。強いはずなのに、今まで使われていなかった線が、今日の競技のためにだけ明るくなっただけだ。
 勝敗は点で刻まれる。最初の小競り合いは取れた。だがランダムは続く。メンバーは試合ごとに組み替えられ、意地悪な抽選は何度でも重ねられる。「運営は愉快だな」と誰かが漏らし、その言葉が紙に書かれていない罠を白状した。
 次の対戦に、セラの名が呼ばれた。相手側。場内の肌理が変わる。観客の期待は甘い砂糖みたいで、触ると指にくっつく。くっついた指で冷たいものを捕まえようとするから、落とす。落ちた音が、胸の裏に残る。
 セラは中央に進み、手袋を外した。夜に設計した遷移層が、彼女の指と氷の間に薄く挟まっている。見えない層の上に、刃の背骨が通された。刃は音を連れていかない。ただ通る。通り過ぎた跡だけが白く残り、敵の盾の縁にひやりとした色を置いた。歓声。歓声は軽くない。今日は地面を叩いて跳ね返り、照明に当たって砕け、また人の耳に戻る。戻るたび、誰かが笑う。笑いを見て、誰かが黙る。
 レンは対角で、別の即席チームを組んでいた。彼の回路は簡素で、線の数が少ない。少ない線なのに、外側の観客には複雑に見えた。複雑に見せたほうが、手品はよく効く。効く間に、本物を通す。弓はまた距離を取りがちで、回復役は前に出すぎた。剣士は足を揃えすぎる。三つの癖に、それぞれ薄い蓋を置いた。蓋の上に乗った彼らは、一度だけ同じ方向を向いた。向けた場所に、点が加算される。
 途中、対戦の組み合わせが入れ替わり、セラとレンの名が同じ枠に入った。共闘。名札の色はそのまま。観客席のざわめきは、空気の角を立てた。角は、罵声の前触れにも歓声の前触れにもなる。どちらであっても、割れる瞬間は似ている。
 互いに短い目配せだけで、十分だった。レンは足元に薄い輪を滑らせ、セラの氷筋を受け止める溝を二つ作る。溝は見えない。見えない分だけ、機能する。セラの刃は音を連れず、溝を通って、また通り過ぎた。触れた盾の側面に白い霜が咲き、詠唱者の舌の縁に冷えが走る。冷えは痛みではないのに、動きを確実に鈍らせた。
 「綺麗だ」と誰かが言い、すぐ別の誰かが「怖い」と言った。綺麗と怖いは、裏表に重なっている。重なったものの縁に、今日の競技は線を引く。線を引く者は、責められる。線を越える者は、称えられる。いつも順番は逆だ。
 終盤。ポイントは拮抗し、観客の視線は一方向に寄り始めた。寄せられた視線の先に、新城カイがいた。彼は最終ブロックの先鋒。名札は勇者候補。彼の足取りは揺れない。揺れないまま、速度だけが一段分高い。高すぎる速度は、周りの線を無視する。無視した結果、破るか、落ちるか。彼は破ろうとした。
 無理な突撃。前衛の間をこじ開けようとして、刃の角度を調整せずにすり抜ける形になった。すり抜けるなら、誰かが挟まれる。観客席の空気が一瞬だけ薄くなった。薄くなったところへ、人の声は届かない。
 セラが動いた。レンの作った溝をわずかに外れ、彼女は身を入れて、矢筋と刃の間に自分の氷を挟んだ。遷移層は衝撃を受け流す。受け流すけれど、肩は斜めに切れる。切れたのは布と皮膚の少し。冷たい音がした。音は小さいのに、耳の奥で長く鳴る。鳴った間に、審判の旗が上がり、競技は止められた。
 ざわめきが戻る前に、救護班が走った。レンの視界の端で、セラが軽く片膝をつく。顔色は悪くない。悪くないのに、こちらを見ない。見ないのは、痛みではなく、誰かに見られたくない種類の気持ちのせいだ。彼女は目だけで「平気」を作った。作られた平気は薄い。薄いのに、よく持つ。
 カイは立ち尽くした。誰も彼を囲まない。囲めば、悪者が固定される。固定された悪者は便利だが、今日の線はまだ名前を持たない。名前のない線の前で、彼はゆっくりと手を握ったり開いたりしていた。開いた手のひらに白い粉が見えた。黒板に触れていないのに、粉はどこにでも付く。恐らく、目に見えない場所のほうが、多い。
     ◇
 救護室は白かった。白いカーテン。白い棚。白い灯り。白は汚れをよく覚える。覚えた汚れを簡単には忘れない。セラはベッドに座り、手当てを受けた肩を押さえている。包帯は新しく、端の折り目がまだ固い。
 扉が閉まると、外の歓声が遠のいた。遠のいた分だけ、救護室の時計の音が浮かび上がる。刻む音は一定で、余計な意味を持たない。意味がない音は安全だ。安全な音は、時々飢える。
 レンが入った。彼の靴底が床板を一度だけ鳴らした。鳴った音の高低で、セラは彼と距離を測った。測る必要はなかった。必要はないのに、体が勝手にする。勝手にしてもらったほうが、いまは助かる。
「痛い?」
「平気」
 セラは短く言い、嘘を付いた。嘘に薄いひびが入って、彼女自身がそれを見た。見てしまうと、もう隠せない。
「……ごめん」
「誰に」
「自分に。チームに。あなたに」
 言いながら、肩を押さえる手が強くなった。強くすると、別の場所が弱くなる。弱くなったところから、涙が降りる。泣き顔は似合わない、と以前誰かに言われたことがある。似合う泣き顔など、本当はどこにもない。なくていい。
「正しい勝ち方がしたい」
 セラは言った。白い灯りの下で、その言葉は影を作らなかった。影がない言葉は、床を通り抜けて、下の層へ落ちる。落ちた先は暗い。暗い場所からは、たいてい音だけが戻ってくる。
「正しい、なんて、一つじゃないってわかってる。でも――」
 息が絡む。絡んだ音が、喉の奥で球になって転がる。転がったまま、止まらない。止められないから、こぼれる。
「今日みたいなのは、違う。誰かが無理を重ねて、誰かが庇って、うまくいったふうに見えて……後で、何も残らないのは嫌だ」
 レンは近寄った。近寄っても、手を伸ばさなかった。伸ばさない手の形のまま、彼は言った。
「君の正しさは、君が選べ」
 セラは顔を上げた。涙は止まっていない。止まらないまま、目だけがしっかりとこちらを捉える。捉えられた側の胸の奥で、薄い紙がめくれた音がした。紙の裏に、まだ誰も読んでいない文字が並んでいる。並ぶだけで、力になる。
「選んだら、誰かを傷つけるかもしれない」
「選ばなくても、傷つく」
「ずるい言い方」
「たぶんね」
 レンは少し笑った。笑いは空調の風に削られ、角がとれた。角のない笑いは安全だ。安全なものは、時々物足りない。物足りなさに、救われる瞬間がある。
「零席に来るか、とかは言わない。名札の色は君が決める。今日、氷が通った道は、君のものだ。あれは、誰かの理屈に寄った結果じゃない。君が自分の手で置き直した段差の上を、君が歩いた」
 セラは口を開きかけて、また閉じた。言葉は良くできすぎていると、かえって出ない。出ない代わりに、握る。シーツの端を、そっと握った。握った指先の隙間に、冷えが入り込む。冷えは嫌いではない。嫌いではないものに、弱い。
 扉の外で、誰かが立ち止まった。足音の間が不自然に空き、その間だけ時間が伸びた。伸びる時間の表面に、薄い影が落ちる。襟だけが揺れる影。顔はない。見られている。見られていることに、今日はもう慣れない。
「……最後の試合、見に行く?」
 セラが言った。涙の跡を拭いながら、笑いに近い形を口に作った。笑うためではない。立つための合図として。
「行こう」
 レンは頷いた。頷くだけで、粉が舞った気がした。黒板に触れていないのに、粉はどこにでも付く。ここにも、付いているふりをする。
     ◇
 夕暮れの闘技場。影が長く、白線の端が灰色に沈む。最終戦の直前、アナウンスが流れた。混合戦は規定により、最後の一戦のみ代理出場を認める。負傷者の代替に限る。紙の上の一句は無機質だが、誰かの呼吸の代わりに置かれると、とたんに温度を持つ。温度を持った文章は、よく刺さる。
 代替の名に、セラの名はなかった。観客席の一部が残念がり、別の一部が安堵した。安堵の音は軽くて、よく飛ぶ。飛んで戻らない。戻らない音は、置き忘れられる。
 レンは最前列に立ち、砂の匂いを吸い込んだ。砂は乾いていて、指で握るとすぐ崩れる。崩れる形の中にも規則はある。崩れ方がわかれば、掬い方もわかる。掬った砂を誰に渡すかは、そのとき選ぶ。選ぶたび、指に白い粉が付く。粉は落ちにくい。落ちないまま、明日まで残る。
 最終戦は静かに始まり、静かに終わった。派手さはなく、しかし線が美しかった。勝者の名が呼ばれる。拍手が重なる。拍手の波の合間に、レンは新城カイの横顔を見た。彼はいい笑い方を知っている。その笑いが今日は、少しだけ古かった。古くなった笑いの表面に、薄いひびが広がる。ひびは音を持たない。持たない音の代わりに、彼の指の節が白くなっていた。
 祭の紙片が風に乗って舞い、照明に当たって、落ちる。落ちる紙の裏に書かれた線は、誰のものでもない。誰が拾うのかは、たぶん次の話の中で決まる。
 救護室へ戻ると、セラは立っていた。無理はしていない。無理の手前で止めてある。止め方を知っている顔だ。彼女は窓の外を見て、こちらを見て、わずかに笑った。
「ねえ、レン」
「うん」
「正しい勝ち方、探す。私の名前で」
「うん」
「それで、いつか、君の回路を嫌いにならないで済むように」
「それは、いい願いだ」
 扉の向こうで、旗が鳴った。金具の音は遠く、黒板の裏のひっかきに似ていた。似ているだけで、同じではない。違いがわかるほど、今日の一日は長かった。
 窓の外、屋台の灯りが弱くなり、紙の提灯が少し揺れた。襟だけが揺れる影は、もういない。いないことに気づいてから、レンは指を見た。白い粉は、やはりついていない。ついていないのに、ついている気がした。気がしただけでも、十分だ。十分でないときのことは、次に考える。
 学園祭の夜は、やがて色を薄め、冷たくなっていく。冷えの中で、正しさの置き場所は何度でも動き、名前を変え、また動く。動くたび、誰かが決める。決めるたび、誰かが泣く。泣いた跡が乾くまで、今日の砂は白い。白い砂の上に、細い線が増えた。線の先に、まだ書かれていない場所がある。そこへ行く方法を、レンはもう一度、頭の中で描いた。描くたび、闘技場の真ん中で照明が一度だけ明るくなり、すぐに暗くなった。暗さの中に、誰かの袖の感触が残っている。残るものがある限り、進める。進むとき、粉は落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――走っている。そう思えたなら、今はそれでいい。

第九話 方舟の影
 夜になると、学園は音を減らす。屋台の板は片づけられ、看板の照明はひとつずつ消え、砂の白線は灰色に沈む。沈んだ校庭の真上で、旗だけがときどき揺れた。風があるわけでもないのに、金具が擦れる。耳の裏で、その音はいつもより長く尾を引いた。
 零席の教室は空だ。黒板の文字は消され、湿った面に粉の匂いだけが残っている。レンは自分の席に腰を下ろし、ノートを開いた。開いた瞬間、紙の表面に細い筋が走る。線ではなく、裂け目のように見えた。見えただけかもしれない。指でなぞると、何も触れない。
 設計図を描き始める。今日の混合戦で使った配線の復習。実戦の速度に合わせて線を間引き、不要な箇所を白で塗りつぶす。いつもの手順。いつものはずだった。ページの端で点が跳ねた。跳ねるはずのない点。紙に穴が開いたかと錯覚するような、黒の濃さ。
 レンは目を細め、筆圧を下げた。下げたところで、ノートの中心にうっすらと「ノイズ」が出た。こまかな記号の群れが、線の間を泳ぐみたいに動く。描いた覚えはない。目を逸らすと消え、見つめると濃くなる。視線そのものを測られているような気配。
 ページをめくるたび、ノイズは別の形に変わった。はんだ付けの焦げ跡のような、樹脂の薄い膜のような、言葉にならない汚れ。汚れという名前を与えるのがためらわれる種類の、計測可能な異物。世界式に、誰かの指が触れた跡だと、頭のどこかが即座に判断した。
 誰かが干渉している。
 耳の端で、廊下の旗が鳴る。金具が擦れる。黒板の裏がひっかかれる。いつからか、音はついてくる。音がついてくる場所は限られている。学園の中。それも、地下へ続く階段の近く。
 レンはノートを閉じた。閉じた瞬間、ノイズは消えた。消えたというより、隠れた。隠れるやり方を知っているような消え方。隠れる相手は、こちらを知っている。
 廊下の角を曲がり、階段へ。夜の学園は鍵が多い。管理棟の扉は半分だけ閉まっていて、薄い隙間から事務局の灯りが漏れる。誰かが仕事をしている。誰か、という指のかたちが、扉の向こうに幾つも並ぶ。並ぶ数は多いように見えて、実際に仕事をしているのは一人だけだ。学園長・神垣。彼は深夜でも椅子を鳴らさない。鳴らない音のほうが、たいてい遠くまで届く。
 レンは管理棟を避けた。避けるだけで、余計に気配が濃くなる。見張られているというより、測られている。測定器の針が、廊下の空気を渡ってこちらの肩に触れ、温度を奪う。細い金属が皮膚の手前で止まり、そこに小さな数字を置いていくような感覚。
 階段の踊り場の壁には、昔の学園の写真が並んでいる。校舎が木造だった頃の校庭。白黒の旗。知らない生徒たちの顔。顔は笑っているのに、襟だけが揺れている。写真の中で、風は止まっているはずなのに。
 地下へ降りる。コンクリートの壁。冷えた空気。照明の色は白で、黄味がない。人の肌の色を奪う白だ。曲がり角を二つ、三つ。古い倉庫、配電盤、清掃用具のロッカー。いちばん奥に、看板のない鉄扉があった。取っ手は小さく、鍵穴は見えない。扉の表面に、誰かが貼ったシールの跡。剝がされた名札。
 触れると、扉は音もなく開いた。開く必要がないのに開く扉は、内部に人がいるわけではない。いるのは、機械だ。機械は人がいなくても働く。働いてほしくない時ほど、働く。
 部屋は狭かった。狭いのに、奥行きだけが深い。壁と天井に薄い金属の棚が組まれ、黒い箱が積まれている。箱の腹に、淡い文字。識別番号。短い単語。舟、という漢字を含むラベルがいくつか見えた。舟は軽く、重い。重いものを軽い名前で呼ぶとき、人は笑う。
 中央に、透明な筒が立っている。水が入っているように見えるが、表面張力が異様に高い。筒の底から、細い線が束になって伸び、床の隙間に消える。線の緊張は固く、誰かの手で弾かれたばかりみたいに澄んだ音をたたえている。
 ここが、端末だ。
 国家プロジェクト。《方舟》。名前は聞いたことがある。学園の外、もっと遠い場所で。実在するなら、ここの地下にあっていいはずがない。ないのに、ある。あると仮定すると、いくつかの謎の答えが同時に立ち上がる。神垣の目の濁りの少なさ。事務局の夜の灯り。黒板の粉が、どこにでも付くこと。
 レンは足を踏み入れなかった。境界線の手前で止まり、目だけを部屋の内部に通す。通した視線に、ノイズが出た。昼間ノートに現れたものと同じ――いや、より細かい。粒の一つひとつに、意味がある。数字に見えない数字。言葉に見えない言葉。見えないことが、機能の条件になっている。
 壁の棚の低い位置に、透明な板が差し込まれていた。古いガラスのように波打った表面。埃はない。誰かが拭いている。拭くという行為は、保守の一部だ。触らないほうがいいと本能が告げるのに、指は動いた。板の端にそっと触れる。冷たい。冷たいはずが、温度がある。温度があるから、まだ動いている。
 ガラスの下に、紙が挟まっていた。一枚の古い文書。手で書かれた細い文字。紙は茶色く、ところどころ薄く破れ、縁には古い糊の跡。糊は乾いているのに、指に粘る感じが残る。文字は、読み慣れない形だった。けれど、読むしかない。
 そこに、記されていた。
 設計者《アーキテクト》。
 この世界を支える層の名。層は設計され、維持され、安定化アルゴリズムに紐づけられている。安定化――名は穏やかだが、内容は冷たい。変動を許さず、逸脱を検知すれば排除する。排除という言葉は、紙の上では軽い。軽いのに、骨の裏に小さな音を残す。
 レンの目の端が、再び紙の上のノイズを捉えた。文書そのものではなく、紙を透過して部屋の空気に浮く細い粒。粒は文の合間を漂い、意味の横腹を指で押して確かめているように見えた。確かめられているのは、こちらではなく、文章だ。文章が、異物として計測されている。
 ここが、世界式の端末。
 レンは笑いそうになった。笑いは喉の手前で、金具に擦られる。笑いが擦れる音は、いつか聞いた黒板のひっかきに似ていて、似ていない。似ているだけで、違うものは、怖い。
 紙には続きがあった。過剰な設計改変。人の手による配線の再定義。群体の拍の合成――といった言葉に取り消し線が引かれ、その上から別の言い換えが書き足されている。「過度の設計」は「逸脱」に置換される。置換の印は赤で、誰かの癖の強い筆跡。筆者の名はない。署名欄には古いシールの粘着が残るだけだ。剥がされた証拠。名を削ることは、記憶の再設計に似ている。
 その時、部屋の奥でかすかな振動があった。透明な筒の中の液面がほんの少しだけ揺れ、揺れの形だけで見たくない予感を膨らませる。レンは視線を戻した。筒の底の線束のいくつかに、目に見えない指が触れた。触れた指が数を数え、順番を変える。変えられた順番の上で、別のリズムが立ち上がる。世界に、別の拍が打ち込まれた――そう思ったところで、レンは自分の思考の言葉を切った。リズムも拍も、いま口にすべき語ではない。語の選び方を間違えると、ここでは誰かが出てくる。
 扉の外で、足音が止まった。ひどく軽い音。軽いのに、床板の芯に響く。神垣の靴音だ。彼は重さを残さない歩き方を知っている。残さない音は、尾を引かない。引かない尾の先に、長い影だけが残る。影は、襟だけが揺れる。
 レンは板を戻し、紙を戻し、扉を閉めた。閉める直前、透明な筒の中で、誰かがこちらを見た気がした。顔はない。見ているものは、視線そのものだ。視線が、測定器の針になって、こちらの数値を読み取る。読み取られる対象になるのは、思っていたよりも生々しく、冷たい。
 階段を上がり、廊下へ出る。旗は鳴らない。鳴らないのに、金具のにおいだけが残っている。鉄が濡れるにおい。濡れていないのに。濡れていないもののにおいを嗅いだとき、人は古い記憶を誤る。
 教室へ戻る途中、図書館の前を通った。扉のガラスの向こうで、夜間灯だけが点いている。本棚の影は長く、床のカーペットは歩幅を吸い込むような色だ。吸い込まれたものは、戻らない。戻らないものの上に、貸出カードの山が積もる。
 図書館の鍵は、夜間でも教職員の許可があれば開く。許可はない。ないが、扉は少しだけ開いていた。隙間の角は、誰かの指の圧で柔らかくなっている。柔らかくなった角は、押すと何でも通す。通したくないものまで。
 レンは中へ入った。書庫の奥、閲覧不可の札の先。古文書の棚。布に包まれた冊子が並び、紙の匂いが濃くなった。古い紙の匂いは、なぜか甘くて、生っぽい。生の匂いの正体は、たぶん糊だ。糊には決心のにおいが混じる。決めた人間の指の温度が、年月を越えて残る。
 「世界式」に関する冊子は少なかった。理論書よりも、記録が多い。誰かの私記。古い会議の議事録。外部施設の点検表。遅配の理由の羅列。紙の角に、小さな赤い丸が付いているものがあった。誰が付けたのかは、わからない。丸の中身は空洞だ。空洞のくせに、満ちている感じがする。
 レンは一冊を選んだ。木綿の布で簡単に綴じられた短い書。表紙に墨で細い字。読みにくい字の中から、彼の目は特定の言葉だけを拾い上げた。設計者《アーキテクト》。別名、基層調律者。世界の層の張力を安定させる調律。安定化アルゴリズム。逸脱の排除。排除の方法についての記述は、丸ごと塗りつぶされている。墨の層の厚みに、書いた者の躊躇と、最後の瞬間の決断が残る。決断はたいてい、一度だけ音を立てる。
 本文の余白に、小さな走り書きがあった。別の筆跡。後から読んだ誰かが、短く残したメモだ。
 「逸脱者は切る、は“誰が”の主語を曖昧にしている」
 それだけ。短いのに、床が冷える。
 ページをめくると、図があった。黒い円の上に白い点。点から点へ細い線。線は部分的に太さを変え、ところどころで途切れている。図の下に、名のない注釈。「過剰な設計改変は、局所の安定性を一時的に高めるが、全体の張力に歪みを生む。歪みが閾値を越える前に、安定化アルゴリズムは介入する」。介入という言葉は、優しい表皮をしている。内側は硬い。硬いものは、音を返さない。
 レンは指で余白を軽く叩いた。叩いた場所に、白い粉が落ちる。黒板に触っていないのに、粉はやはりどこにでも付く。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がする。配線の先に、名もない小部屋。透明な筒。見ている視線。
 ページの端で、ノイズがまた跳ねた。今度は文書の外側に出て、机の上で微かな砂嵐のように揺れる。揺れはすぐに沈み、何もなかったように戻る。残るのは、指先の冷え。冷えは長く続かない。続かないのに、体は覚える。
 「安定化アルゴリズム」
 声に出すと、口の中の味が変わった。鉄っぽい味。血の味ではない。血の味に似せて作られた、薄い金属の味。味に名前がついていないと、不安が騒ぐ。不安の騒ぎを、言葉で鎮める。ふだん、彼が仲間にやっていることを、自分にやるだけだ。
 図書館の時計が鳴った。何の変哲もない合図。なのに、その瞬間、窓ガラスが小さく揺れた。揺れと同時に、どこか遠くで水が一度だけ逆さに落ちるような音がした。透明な筒。液面。線束。世界のどこか別の場所で、何かがつながり、何かが切れた。切れる音は、ここまで届かない。届かないかわりに、誰かの肩に細い痣が残る。
 レンは冊子を閉じ、元の場所に戻した。棚に戻すとき、ほんのわずかにずれた。ずれは気にならない程度だが、次に誰かが取り出すとき、違和感になる。違和感は、気づく人を選ぶ。選ばれた人だけが、ここから先へ進める。
 廊下に出ると、旗が鳴った。金具の音は短く、その短さが合図めいていた。合図が一つあれば、人は勝手に次を待つ。待っている間に、想像が増える。増えた想像の上で、現実は少しだけ動く。動いた分だけ、ノイズが濃くなる。
 教室に戻る途中、レンは管理棟の扉から漏れる灯りが一段明るくなるのを見た。人の影が動く。影の襟だけが揺れる。彼は足を止めず、視線だけをそちらに向け、すぐに外した。外した視線のあとに、背中を撫でる冷気が残る。冷気にはにおいがない。においがない冷たさは、記憶に残りにくい。忘れられたものほど、後から強く戻る。
 零席の教室は相変わらず空で、黒板の端に一本だけ白い線が残っている。誰が引いたか、心当たりはある。引いた者は、粉が落ちる感覚を知っている。粉が落ちる感覚を知っている者は、床の固さも知っている。
 レンは椅子を引き、ノートをもう一度開いた。ノイズは、出た。出る位置は先ほどと違う。違うのに、意味は同じ。干渉者は、こちらの挙動に同期している。同期を確認するために、彼はわざと一本、間違いを描いた。筋を一本ずらし、合成の順序を逆にし、緩衝を先に置く。本来なら起こらない詰まりを、意図的に作る。作った瞬間、ノイズが一段濃くなった。濃くなることで、場所を教えてくる。場所を教える行為は、狩りに似ている。狩られているのは、紙の上の間違いだ。間違いに触れて、満足して帰っていく獣の姿が、一瞬だけ脳裏に浮かんだ。獣の襟だけが揺れる。顔は、ない。
 ノートの端に、レンは短く書いた。
 「世界式介入 検知」
 横に、矢印。その先に、さっきの部屋のイメージ。透明な筒。線束。壁の棚。古い紙。神垣の靴音。図書館の余白。書いていて、少し笑った。笑いは、机の木目の隙間に吸い込まれた。木目は古く、誰かが噛んだ跡のように柔らかいところがある。柔らかいところは、指で押すとしずむ。しずんだところから、音が出る。
 扉が開いた。御影ユウトが顔を出し、入ってきた。彼はレンの表情を見て、何も言わずに隣の椅子に腰を下ろした。こういう夜に、余計な言葉を置くと、明かりが増えすぎる。増えた明かりに、寄ってくるものがいる。寄ってきたものの襟だけが揺れる。顔はやはり、ない。
「さっき、図書館で」
 レンが言った。御影は頷いた。頷く角度が、いつもより浅い。浅い頷きのとき、人はだいたい、すでに半分知っている。
「安定化アルゴリズム。逸脱の排除」
「逸脱者は切る」
「主語が曖昧だ」
「切るのは、人か、仕組みか」
「いまはまだ、音しか聞こえない。扉の向こうで刃物が擦れる音。刃物の名前は、あとで決める」
「レン」
 御影は短く両手を組み、机の上に置いた。置かれた指の間に、粉が少しだけ光る。粉は落ちない。落ちないように、床が見えない場所で支えている。支えているのは、梁だ。梁は、見えないから、揺れを吸う。
「限界は設計し直せるって、保健室で言ってた」
「ああ」
「この“逸脱”ってやつの限界も、設計し直せる?」
 レンは少しだけ笑った。笑うと、机の木目が吸い込む音がする。吸い込まれた音は、次の言葉の出番を少しだけ遅らせる。
「限界は、人が決めた境界なら、いくらでも動かせる。問題は、境界を決めているのが人かどうかだ」
「人じゃないものが決めた境界は、どうする」
「境界線ごと、別の線で囲う」
 御影は目を閉じ、すぐに開けた。閉じている間に、誰かが廊下を通った。足音はしない。足音がしないのに、靴の底の形だけが床に残る。残った形は、朝までには消える。消える前に、誰かが踏む。その誰かの指に、粉が付く。
「……レン」
「なに」
「俺たち、切られるかもよ」
「切るための刃が、どこにあるか次第だ」
「どこにある?」
「地下。図書館。黒板の裏。紙の余白。あと、脳の中」
「増やすな」
「増える」
 二人で笑った。笑いは短く、すぐに引いた。引いたあとに、黒板の端の白い線が目に入る。線は細く、まっすぐで、どこにも繋がっていない。繋がっていない線は、怖い。怖いから、繋げたくなる。繋げる手が、世界式の端末のほうから伸びてくる気配がする。その手の襟だけが揺れる。顔は、ない。
「図書館で、“設計者”って言葉を見た」
「人の話?」
「人かどうか、わからない。名だけが残っている。仕事だけが残っている。世界の層を張る者。張りすぎると、切る者」
「名前があるだけで、怖い」
「名前をつけることで、怖さを薄めるために書いた者もいる」
「薄まる?」
「薄まりすぎると、近づきすぎる」
 御影は笑った。笑いは木目に吸われ、また出てこない。出てこない笑いの代わりに、廊下の旗が鳴る。金具が擦れ、空の縁に薄い傷が増える。傷の数は、あまりに多い。
「これ、どうする」
 御影がノートを指した。ノイズはいつの間にか消えている。消えているが、頁の端に色の薄い影が残る。影はいい。残るものがあるのは、いい。影の輪郭は、設計に使える。
「設計する」
 レンは言った。御影の眉が上がる。上がる角度は、いつもより小さい。
「逸脱の設計」
 口に出すと、唇の内側で金属が擦れた。扉の隙間から風が入り、黒板の粉がひと粒だけ舞い上がる。指先に、それが落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。配線は、床の下へ、壁の向こうへ、地下の奥へ、透明な筒の底へ。そこからさらに、名前のない方角へ。
 御影はうなずいた。うなずいたことが合図になり、外の旗がもう一度鳴った。金具の擦れる音は短く、怖いほど澄んでいた。澄んだ音は、たいてい早い。
 レンはノートに新しい頁を開き、余白のど真ん中に点を打った。点のまわりに円。円の外に、見えない布。布の下に梁。梁の先に、まだ誰も知らない扉。その扉の上に小さく、書いた。
 「逸脱」
 書いた瞬間、どこかで水が逆さに落ちた音がした。透明な筒の液面が揺れ、線束の一本がわずかに軋む。軋みの音はここまで届かない。届かないのに、指先が冷える。冷えが長く続かないのを、体が覚えてしまったのは、よくない兆候だ。よくないものほど、設計に向いている。
 レンは笑った。笑いが金具に擦られ、黒板の裏に弾かれ、廊下の影に薄く貼り付く。貼り付いた笑いは、朝になれば落ちる。落ちた粉は、どこへでも付く。
「じゃあ、逸脱の設計をしよう」
 言葉は、教室の空の真ん中で静かに立ち上がり、透明な筒の向こうまで届いていった。届いた先で誰かが襟を揺らし、顔のない笑いをほんのわずかに歪めた。歪んだ笑いは音を立てず、代わりに世界のどこかで一本の線を細くした。細くした線の上を、明日、誰かが歩く。
 粉が、指から落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――走っている。そう思えるうちは、まだ怖がり方を選べる。選べるあいだに、扉の位置を決める。決めた扉の前で、待つ。待つという行為の名を、彼はまだ知らない。知らないことは、余白になる。余白は、設計のいちばんいい場所だ。


第十話 代表選抜と告白未遂
 午前の空は軽かった。祭の片付けが終わって二日、学園の掲示板には新しい紙が積み重なり、古い紙の端は角砂糖みたいに柔らかくなって剥がれ落ちていた。紙の下から現れた木目は、前からそこにあったはずなのに色が違って見えた。違って見えるものは、大抵、誰かが触った跡だ。
 代表選抜の要項が更新された。太い黒い文字と、ところどころ濃淡の揺れる赤い注記。赤の上にはさらに、鉛筆で細い印が付いている。印の位置が微妙にずれていて、誰かが急いで書き足したのがわかる。書いた者の指が紙に残した圧の痕が、昼の光の角度で浮いては沈んだ。
 零席の名前は、欄外に回されていた。項目の最後、追記の形で小さく。共同演習の成果は評価に含めるが、クラス再編を経ていない者は代表候補から除外、とある。言葉は冷静だった。冷静な言葉は、よく冷える。冷える文面の表面に、微かなざらつきがある。砂が混じっているみたいに。
「規約の更新、早いね」
 背後から声。御影ユウトが手に持った飲み物の紙コップを掲示の隅にかざし、薄く笑った。笑いは長くない。すぐに消える種類の笑いだ。消えたあとに、指の節の白さだけが残る。
「早い、というより、用意してあったやつを出しただけ」
 レンは紙を眺めたまま言った。目だけを動かし、注記の行間に小さく残った鉛筆の下書きを追う。消し残し。消しゴムの粉が紙に押しつけられて馴染んでいる。馴染んだ粉はもう落ちない。
「零席は制度の外にいる。外に合わせる規約。わかりやすい」
「外にいるままで、突破する方法は?」
「内側の言葉を、外側の意味に読み替える」
「合法で?」
「合法で」
 御影は冗談のように肩をすくめ、冗談ではない視線をレンに向けた。レンは掲示板の端に指を触れ、紙の角を一度だけ押さえた。押された角は素直に言うことを聞く。紙は素直だ。素直すぎるから、規約に向いている。
 神垣の名は、要項の最下段に署名としてあった。あの人の筆跡は、いつ見ても温度がない。温度がないのに、紙の裏に熱が溜まる。熱は紙を波打たせる。波打った紙の上で言葉は滑り、読み違いを誘う。
「神垣は、零席を代表に上げる気はない」
「上げなくていい。代表を通すのは、零席じゃなくて“運用”。名札じゃなく、仕事の名前で通す」
「仕事の名前」
「規約の中で、一番冷たいところにある言葉」
 レンは掲示板から目を離し、教室へ戻った。黒板には昨日の練習の跡が残り、白い線が二本、角度を変えて交わらずに消えている。消え残りの粉を指の腹で拾い、掌に移す。掌には薄く汗がある。汗と粉が混じって、指先の感覚が少しだけ鈍くなる。その鈍さの上で、言葉の角を落とす。
 昼の演習を終え、零席の面々はそれぞれに散った。乱暴者は器具の片づけを終え、矢の子は弓弦を拭き、癒し手は机の上で薬草の束の向きを揃えている。ツムギは黒板の消しを両手で抱えて、窓辺に立っていた。陽の光に粉が舞い、彼女の髪に淡い白が降りる。降りた粉の粒が、時間の傷のように見えた。
「ツムギ」
 呼ぶと、彼女は振り向いた。目が、いつもより長くこちらに留まる。留まる視線は、言葉より先に体の形を整える。整えた形のまま、彼女は消しを窓枠に置いた。
「規約、見た。零席を、外したいのがはっきりだった」
「うん」
「でも、できるよね。どうにかするんだよね」
 不思議な言い方だった。希望じゃない。断言でもない。未来の形だけを指先でなぞるみたいな声。レンは頷き、笑おうとしてやめた。笑うと粉が落ちる。落ちた粉の行き先に、今は余計な意味が乗る。
「明日、代表選抜の一次、規約の読み替えで通す。今日のうちに文言の隙間を探す。手伝って」
「うん」
 彼女は即答した。即答のあと、何かを言いかけて止まった。止まった場所には、まだ名前がない。名前がない場所の縁で、彼女は口を結び、視線を床に落とした。
「レンの……」
 そこまで言って、ツムギは首を振った。振る動作が小さすぎて、誰も気づかないと思ったはずだ。御影は気づいた。気づくのが早すぎて、彼は椅子を軽く引き、背もたれに腰をかけたまま立ち上がるみたいに姿勢を変えた。
「俺、少し用事を思い出した」
 御影が立ち、出ていく。出ていく背中の肩甲骨がかすかに近づき、離れる。扉の向こうに消える前に、彼は一度だけ振り向いた。目がレンと合い、すぐに合わなくなった。合わない目のほうが、何かを伝えることがある。
 教室に残ったのは二人だけ。廊下の旗が鳴る音は遠く、黒板の裏をひっかく気配はない。静かな部屋は危ない。音がないところで言葉を置くと、置いた言葉が外に聞こえすぎる。
「レンのそばに……」
 ツムギが、もう一度だけ言いかけた。言葉が喉の奥で固まり、形を変え、別の意味の輪郭をまとう。まとう前に、扉が開いた。癒し手が顔を出し、水差しの位置を尋ねて入ってくる。何も悪くない行為が、世界の中でたまに一番厄介なタイミングを選ぶ。厄介さの名前は、だいたい誰にもつけられない。
 ツムギは微笑んだ。微笑みは、諦めではない。先延ばしの形。先延ばしは嫌いではない。嫌いではないものは、弱い。弱い場所に、きれいな色が乗る。乗った色を、レンは見ないふりをした。見ないふりは、よくない礼儀だ。礼儀に従えない夜がある。
     ◇
 午後、申請書の束を持って事務局へ向かう。申請の題目は、規約読替申立。名前が冗長だ。冗長にすることで、誰かの視線から外れる。目立たなくするために、目立つ言葉を積む。積み上げられた言葉は重く、角で相手の指を切る。
 受付の教員は面倒くさそうに書類をめくり、途中で指を止めた。止めた指先の爪が、紙の縁で薄く白くなっている。白くなった指先を見るのは、妙に気持ちが悪い。血のかわりに粉が付いているように見える。
「これは、つまり、どこをどう読み替えるの」
「代表候補の資格条件。『クラス代表から推薦された者』は、クラス名でなく『クラス機能』の代表に読み替え可能。零席は“クラス”としては外されているが、“運用機能”として規約に登記されている。共同演習の運用責任者の推薦は、“クラス機能代表”の推薦に準じる」
「準じる、は、そっちの解釈でしょ」
「規約の第四条、定義。『本規約における代表とは、所属組織の最小単位からの委任を受け、当該組織の運用責任を一時的に担う者』。零席の運用は、運営の認可で“共同演習室”として登記済み。最小単位は“演習室”。委任の手続きは昨日、学内システム上で完了している」
 受付の教員は一瞬だけ目を瞬かせ、端末の画面を睨んだ。画面の光が彼の頬を青くする。青い顔は冷たく見える。冷たく見える人間の感情は、少しだけ正確だ。
「あった……。共同演習室、運用責任者、零席。推薦状……提出済み。これ、誰が出したの」
「御影」
「君じゃないの」
「僕だと、神垣が手で払う」
「君でも、払うと思うが」
「払う速度が違う」
 教員は笑った。笑いは長くない。疲れた人間の笑いはだいたい短い。
「受け付ける。が、判断は学園長」
「もちろん」
 紙は受理印で赤くなった。赤は血の色ではなく、事務の色だ。事務の赤は痛くない。その代わり、よく消えない。
 廊下に出ると、神垣が角から現れた。彼は何も持っていないのに、両手が忙しそうだった。忙しくしている人の手は、宙に見えない紙を並べている。紙の上で、誰かの予定が置き換えられる。
「君は、規約の読み替えで入るつもりか」
 神垣の声は静かだ。静かな声は、簡単に記憶に残る。残らないふりをしても、残る。
「規約は読み物ですから」
「読み物を、書き換える権限はない」
「書き換えません。読むだけ。読み方を増やすだけ」
 神垣は目を細め、笑った。それは笑いというより、顔の筋肉の体操だった。表情の変化だけが、返事の代わりになる時がある。
「代表選抜は、君のような“設計屋”の見せ場ではない」
「代表選抜の規約は、“設計屋”のために穴が開いている」
「穴は、ふさぐためにある」
「ふさがらなければ、通るためにある」
 神垣は立ち位置を微妙に変えた。数センチ。影の長さが変わる。変わった影の先で、旗が鳴る。金具の音が壁に薄く反射し、また吸い込まれた。
「方舟は、逸脱者を切る」
 唐突だった。唐突さだけで、言葉の温度が上がる。上がった温度を、しばらく誰も触れない。
「話の続きは、代表が決まってからにしよう」
 神垣は背を向け、歩き去った。歩く背中の襟だけが揺れた。揺れる襟を見送らず、レンは教室へ戻った。戻る道の途中、掲示板の角が風でわずかに浮いた。浮いた角の下に、古い紙の縁が見えた。古い言葉は削られ、上から新しい言葉が貼られ、赤い線で縁取られている。縁取った人間の指の跡は、やはり粉っぽい。
     ◇
 代表選抜の一次は、午後の大講堂で行われた。天井が高く、声がよく伸びる。伸びすぎた声は意味を薄くし、拍手の音だけが大きくなる。拍手の音の中で、名前が読み上げられた。零席の運用責任者、代表候補。レン。
 ざわめきは短く、沈んだ。沈んだあとに、別のざわめきが生まれた。別の、というのは、色が違うという意味だ。面白がり、という色。面白がりは、時々毒だ。
 一次の内容は規模の小さい模擬戦。見た目は単純だが、代表選抜の基準はそこではない。試合開始の合図と同時に、レンは相手チームの支援同士の接点に目をやった。接点は、見えないヒンジのようなものだ。回る角度が決まっていて、重さに耐えられる範囲も決まっている。決まっているものは、外しやすい。
 相手の支援役は二人。片方は固定壁を得意とし、もう片方は回復の事前展開を重ねる癖がある。二つの性格は仲が悪い。悪いのに、表向きはよく揃っている。揃っているふりの継ぎ目に、レンは薄い指を差し込んだ。指はチョークの形をしていて、実体はない。ないのに、相手の配線の上をかすめるだけで、音を変える。
 固定壁の縁。回復展開の起点。二つの拍を一瞬だけ逸らす。逸らされた拍は、互いに相手を支えず、支えない重さが空回りを生む。空回りは美しい。回っているのに前へ進まないものは、見ていて少し酔う。その酔いに気づく者は少ない。酔いに気づかない者の足が、勝手に遅くなる。
 味方の剣士の踏み込みに、回復の薄い膜を重ねる。膜は防御ではない。滑り。滑らせた足が、氷でもないのに自然に最短距離に乗る。乗ったところに、相手の矛先がちょうど届かない。届かない刃は、音だけ残して空を切る。その音を弓が拾い、角度をずらす。ずれた矢筋が敵の肩を掠め、掠った感触に相手の支援の一人が顔を上げた。上げた顔は、視線を失う。視線を失った者の支援は、働かない。
 短い時間で点が入り、審判の旗が上がった。観客席に微妙な笑いが走る。笑いは軽い。軽い笑いは、誰かの苛立ちを連れてくる。苛立ちは、音にならない。
 二次、三次。構図は似ているが、相手は学ぶ。支援同士の噛み合わせを外す行程を、二段階に増やす。わざと遅くする線と、わざと早くする線。二つの線が、相手の間に挟み込まれる。挟み込まれた二人は、互いに合わせようとして逆方向へズレる。ズレたところへ味方の乱暴者が足を置き、矢の子が震えを割り、癒し手が先に流す。合成ではない。ただの組み合わせ。組み合わせの名前を、今日だけ“設計”と呼ぶ。
 最後の笛が鳴った。会場が一度静まり、拍手が鳴る。拍手の波の上で、神垣は拍手をしていなかった。していない手の指が、膝の上で一度だけ動いた。動いた指の長さで、次の更新の数がわかる。更新は早い。早すぎると、紙はすぐに古くなる。
 退場の列に加わる直前、ツムギが駆け寄ってきた。肩の包帯は外れている。外してよかったのかどうかは、今聞くことではない。彼女の目は驚くほど澄んでいて、澄んでいる目はときどき残酷だ。
「レン」
 名前を呼ぶ声に、色があった。色は、昨日も今日も同じに見えるのに、違う。違うのは、名前の置き場所のほうだ。置き場所が近い。
「さっき、言いかけたこと」
 廊下の角で、彼女は立ち止まった。人の流れがふたつに割れ、二人の周りに短い空白が生まれる。空白は危ない。音がよく響くからだ。
「レンのそばに――」
 そこまで言って、彼女は言葉を飲み込んだ。飲み込み方に迷いはなかった。飲み込むしかない時というのは、たしかにある。あるせいで、いくつかの大事なものが後回しになる。
「……あとで」
「うん」
 御影は視界の端にいるはずだった。いなかった。いないほうが、正しい。正しさは、たいてい後で痛む。
 帰り道、空気は冷たく、旗は鳴らないのに金具だけが擦れるにおいを置いていった。においは色を持たず、匂いのない色だけが夜に残る。レンは校門を出て、歩いた。歩く足の裏に砂の感触。砂は乾いていて、噛むと音がする。噛まないのに、音がする。
 角を曲がると、寮の前の掲示板に新しい紙が貼られているのが見えた。代表選抜、一次通過者。零席の文字は書いていない。代わりに“共同演習室運用”と淡く印字されている。名前の代わりに、仕事の名前。仕事の名前は、誰のものでもない。誰のものでもない名前の前で、彼は少し笑った。笑いは短い。
 寮の玄関のガラスに自分の姿が映る。襟だけが揺れている。揺れているのは風のせいか、それとも他の理由か。理由に触ると、音が変わる。変えたくない音もある。
 部屋に戻って明かりをつける。机の上のノートを開いた。ページの余白に、薄くノイズが滲む。昼より小さい。小さいが、明確だ。誰かが見ている。透明な筒の底から、線束の一本がこちらへ伸びてきて、紙の上に触れている錯覚。錯覚は使える。使える錯覚は、長く置かないほうがいい。
 レンは文字を書いた。今日の代表選抜の記録。噛み合わせを外した位置。相手の支援が空回りを始めた秒差。味方の剣士が踏み切る前に置いた薄い膜の角度。事実の羅列。羅列だけが、ノイズを薄める。薄くなったノイズの中に、別の気配が混ざった。紙の表面に、ほとんど見えない、指の跡。粉の粒が一つ、文字の上で止まる。止まった粉に、細い配線が走る。走った先に、言いかけて止まった言葉の空白がある。
 彼はペンを置き、椅子の背に身を預けた。背もたれが軋む。軋みの音は、黒板のひっかきとは違う。違いがわかる夜は、眠りにくい。
 窓の外で旗が鳴った。鳴っていないのに、鳴ったような気がした。気がしただけで、胸の中の何かが細く切り替わる。切り替わった感覚のまま、レンは明かりを落とした。暗くなった部屋では、ノイズが見えない。見えないもののほうが、よく働くことがある。働いている間に、朝が来る。朝になれば、紙の上の言葉は乾く。乾いた言葉は、読み替えられる。読み替えられた言葉の端が、誰かの心に触れる。触れた場所が、後で痛む。
 廊下の向こうで、足音が止まった。止まった音は、すぐに消えた。消える前に、襟だけが揺れた。顔はない。顔がないものは、名前に強い。名前に強いものが、規約を書き替える。規約に強いものが、世界を梳く。
 レンは目を閉じた。目を閉じても粉は落ちる。落ちた粉の粒ひとつひとつに、細い配線が――走っている。そう思える限り、読み替えは続けられる。続けているあいだ、聞きそびれた言葉は、無傷で置いておける。置いておくことが、今日の正しさの全部ではないけれど、いちばん静かな一部には、なり得る。
 明日、規約はまた更新される。学園は紙を増やす。紙の角は浮き、誰かが押さえ、また浮く。そのたびに、ツムギの口元に残った未完成の言葉が、心の端でひかり、暗くなる。ひかって、暗くなる。その繰り返しの中に、代表選抜の次の段が置かれる。
 神垣は、きっと待っている。方舟は、きっと見ている。御影は、きっと笑わずに支える。セラは、きっと刃を通す。カイは、きっと正しさの場所を探す。探す音は遠い。遠い音が近づく前に、レンはページをめくり、余白の真ん中に小さく点を打った。点の周りに円。円の外へ、線。線の先に、まだ書かれていない、誰かの言葉の続きを置くための場所。
 その場所は、夜の底で白く、静かだった。