第1話 追放と第零席
勇者候補パーティの控え室は、真昼なのに夜のように暗かった。
レンは、静かに立っていた。
壁際に寄りかかる三人の仲間が、彼を見ている。目に情けの欠片はなかった。
「悪いな、レン。お前は“器用貧乏”なんだ」
そう言ったのはリーダーの新城カイだった。
整った顔立ち、いつも通りの笑顔。だけど、その笑顔は今日はどこか冷たかった。
「……器用貧乏、ね」
レンは笑わなかった。
それが何を意味するか、彼自身が一番よくわかっていた。万能すぎる。突出しない。誰の代わりにもなれる。だから、誰にも必要とされない。
「次の試験、S席のメンバーで挑む。お前はここまでだ」
机の上に、紙が一枚置かれていた。
手書きの数字が並んでいる。
それは“適正値”。勇者候補全員の、魔術、剣術、支援、知覚、耐性――それぞれの資質を数値化したもの。
だがレンの目には、それが違う形で見えた。
紙の上に、淡い光が浮かび上がる。
数字が立体化し、複雑に絡み合う。
配線、回路、交差点。
それは「人間の設計図」だった。
(なんだ、これ……)
息を呑む。
カイの背後に立つ魔法使いの少女・エマの適正図には、光の層がねじれていた。攻撃特化型の制御線が、補助経路に干渉している。
剣士のラインが、魔術回路に侵食していた。
その構造が、音もなくレンの脳裏に焼きつく。
「最後の記録だ。これ、お前にやるよ」
カイが、紙を放った。
床に落ちる。レンは拾い上げた。
それが、彼にとって“唯一の贈り物”だった。
扉が閉まる音は、何かを終わらせる鐘の音のようだった。
レンは誰にも気づかれないまま、笑った。
ゆっくりと、静かに。
自分の頭の中に“設計”が流れ込む感覚が、怖いほど心地よかった。
***
入学式当日。
学園の掲示板前には人だかりができていた。
「おい、見ろよ、“第零席”だってさ」
「落ちこぼれクラス? こんな名前、聞いたことねぇぞ」
ざわめく声の中、レンは掲示を見上げた。
自分の名前の横には、確かにそう書かれている。
“第零席 レン・カサハラ”
ほとんどの生徒は笑っていた。だがレンは笑わなかった。
むしろ、胸の奥で何かが静かに鳴った。
鐘の音。
いや、始まりの信号のようなものだった。
(零。何もない。だから、すべてを組める)
教室の扉を開けると、薄暗い室内。
窓際で爆ぜる小さな火花。
机の下で悲鳴を押し殺す少女がいた。
「ひゃ……! また爆発したっ」
黒髪をおさえ、涙目で机から顔を出した少女――雛森ツムギ。
魔力制御ができず、無属性として扱われる“欠陥魔術師”だと聞いた。
だが、レンの目には見えた。
彼女の魔力配線図。無数の線が、全方向に枝分かれしながら、中心に一つの光を集めている。
その中心の光――“核”は、異常なほど純粋だった。
(……これ、ただの無属性じゃない)
レンは思わず息を呑んだ。
ツムギの視界には見えない“基板”が、彼にだけ立体的に視えている。
「あなたが……レンくん? 今日から同じクラスなんだよね」
「うん。雛森ツムギ。魔術は……爆ぜやすい、って聞いた」
「……ごめんなさい」
その小さな声は、まるで壊れ物のように震えていた。
彼女の瞳に映るレンの姿も、きっと同じだっただろう。
壊れかけの何か。
***
放課後。
誰もいない教室に、もう一人の少年が残っていた。
御影ユウト。
補助魔術専門。攻撃も防御も苦手。授業ではいつも“誰かの影”に隠れている。
「……お前も残ってたのか」
「ええ。今日も失敗ばかりで、居残り練習です」
ユウトはノートを閉じ、苦笑した。
だがレンは、そのページを覗き込んで、息をのんだ。
魔術式の構造が、極めて緻密だった。
手書きの符号が回路として視える。だが、配線が一部逆になっている。
それだけで、力が伝わらない。
(これ、もし正しく繋げば……)
「御影。君の補助魔術、少し見せてくれない?」
「え? 別に、すごくもないですよ」
「いや、すごい。俺には“見える”」
レンは黒板にチョークを走らせた。
“回路の設計図”。
光の線が、彼の筆跡に合わせて浮かび上がる。
ユウトとツムギは目を見開いた。
「……これが、君たちの“才能”の正しい形だ」
「え、でも……私は無属性で」
「無属性じゃない。君は“基板”だ。何でも通せる。すべての魔術の土台になれる」
教室が一瞬、静まった。
次の瞬間、レンの胸の奥に“異音”が走った。
脳裏に響く。
金属が軋むような音。
誰かが、内側から笑っている。
(設計図、だと? お前は“人間”を組み替える気か)
――誰の声だ?
レンは息を詰めた。
脳内の設計回路が、かすかに歪んだ。
視界の端で、誰かが立っている気がした。
だが振り返っても、そこには誰もいなかった。
黒板の線が、耳鳴りのように震えて見える。チョークで引いたはずの白が、ひと呼吸ごとに薄い脈動を打つ。線はただの線ではなく、筋肉のように伸び縮みし、見えない血が通っている。そんな錯覚が、レンの指先に冷たい汗を浮かばせた。
その汗の粒の中にも、細く細く配線が走っている。そんな気がした。
「基板……って、私が?」雛森ツムギはまだ机の下から半分だけ顔を出している。恐る恐る、けれど興味を抑えきれない目だ。
「そう。君は色がないんじゃない。色を選ばない。何でも通せる。……だから混ざれば爆ぜる。順序がないから」
「順序……」
「順序は俺が描く。御影、君は前に出る」
「僕が?」御影ユウトは言葉の音だけでしり込みした。「補助は後ろですよ。遠ざかる役目だって、ずっと……」
「遠ざかるのは、責任だ。君はその責任を、ずっと背負ってきた。その背中ごと前へ運べばいい」
そのとき、教室の蛍光灯が一度だけ瞬いた。配電盤の経年劣化だ、と誰かは言うだろう。だがレンは知っていた。灯りの内部にも、細い設計があり、ゆるむ瞬間がある。世界はいつだってほどけかけだ。だから、繋ぎ直せる。
「……怖くないの?」ツムギが聞く。声はあまりにも素直で、だからこそよく通る。
「怖いよ」
レンは笑っていないのに、笑っているような口調だった。
「怖いから設計する。怖くなければ、たぶん俺は描けない」
また、脳の底で金属が擦れる音がした。誰かが黒い爪で、透明な板をひっかいている。傷は目に見えないけれど、確かにそこに刻まれる。
(組み替えろ。もっとだ。骨も、筋も、心も)
耳元で囁く気配に目だけを向ける。視界の端。黒板の外側。窓ガラスの外に映る教室の像。その像のなかで、誰かが立っていた。制服の襟だけが、波のように揺れている。顔はない。ただ、空白の輪郭が、チョークの粉を吸い寄せているようだった。
レンは目を閉じ、深く息を吸う。鼻腔に広がるチョークの粉の匂いは、乾いた土の匂いに似ている。墓地の、雨上がりの匂い。湿気と石と、わずかな鉄の味。
「明日、模擬試合」
レンは黒板に、日付と時間を書いた。白い音が鳴る。
「俺たちは見世物になる。誰も、俺たちが勝つと思っていない。笑うための観客席は、もう組まれている」
「だったら」ユウトは口の中で言葉を噛み砕き、飲み込み、それでも続けた。「勝ち筋は、どこに?」
「ここだよ」
レンは、黒板の左下。小さく×と記した。目立たない印だ。だが黒板の裏側で、太い線が集まりはじめる。あくまで、レンの目にだけだが。
「遅延起動を束ねる。術式は一斉ではなく、ズレで繋ぐ。御影は前に出て、相手の視線と術式の時計を乱し、ツムギは基板として全員を同期させる。残りは……」
彼は第零席の名簿をめくった。問題児たちの、笑えないあだ名が並ぶ。投げやりな乱暴者。緊張すると矢が震える射手。回復速度だけが世界一遅い癒し手。彼らの数字が、紙のうえで立ち上がる。薄い糸が、蜘蛛の死骸の脚のように、ふるふると震えている。
震えは欠陥じゃない。振動は、束ねれば音になる。音は、合図になる。
「君は関節をずらす癖があるね」レンは乱暴者と言われる男子の肩を軽く押し、肘の角度を直す。
「は?」
「矢は肘の震えが素直で、むしろ正確だ」射手の女子生徒には、震えを止めろとは言わず、震えと同じ周期で息を吐かせる。
「遅い回復は、遅いだけで止まらない。ならば先に流しておく」癒し手の掌に軽い紙片を置く。それは薄い、何の変哲もないメモ用紙。だがレンの視界では、それが治癒回路の予備配線に変わる。
どの顔にも恐れがあった。羞恥と、怒りと、諦めと。恐れは、正しい。恐れは、設計の最初の部品だ。
放課後の教室は、長い影を増やしていた。窓の外、運動場で別のクラスが声を張り上げ、笑い合う。第零席の教室に笑いはなかった。けれど沈黙は、形を持ちはじめていた。中心に集まる沈黙。そこに立つと、胸が静かに痛んだ。
「明日、ここに立て」
レンは黒板の中央、消えかけの白粉で円を描いた。円は一息ごとにいびつになり、やがて誰かの目の形に似てくる。見ているのは誰だ。窓の外の空白の輪郭か。それとも黒板の裏に貼りついた、手のひら大の影か。
「立って、息を合わせる。息の回数を決める。三。二。二。三。……不規則に。規則を壊す規則に慣れる」
それは、恐怖の準備体操だった。
◇
入学式の模擬試合は、式典会場の裏手にある円形闘技場で行われる。石の壁は冬の名残の冷たさを保ち、白い旗が風に鳴いた。旗が鳴るたび、レンの耳の奥で同じ音がした。金属のひっかき音。あれは誰だ。あれは、どこから来る。
第零席は、観客に背を向けるように立たされた。審判役の教師は「安全性は確保されている」とだけ言って、あとは見世物としての段取りを淡々と述べる。笑い声がさざめく。期待は嘲りの形を持つとき、いちばんよく響く。
「本当に、僕が前に?」御影ユウトがもう一度だけ確認してくる。声は震えてはいなかった。ただ、喉の奥に小さな痛みがあったのだろう。
「前に。前に出て、顔で受けろ。怖い顔でも、泣きそうな顔でもいい。顔は盾になる」
「顔が……盾」
「人間は、表情に引きずられる。君が怖がっていない顔で立っていると、相手は無駄に慎重になる。怖がっている顔で立っていると、相手は甘く見る。どちらも、選べる」
御影はうなずいた。選ぶことは、責任だ。彼は選んだ。
対戦相手のA席は、選抜のなかでもさらに選ばれた才の集まりだ。鮮やかな色のケープ、均一な足並み。笑顔には余裕が宿る。その余裕の中で、レンの眼は別のものを見る。ケープの裏地に縫い込まれた、こっそりとしたお守り。家の期待。小さな祈り。配線はそこにも走っている。誰もが、どこかで繋がれている。
「新城カイは?」
観客席の上段、ひときわ高い位置に、彼はいた。背筋を伸ばし、組んだ腕の上に顎を載せる癖。冷めた目の奥の、わずかな熱の波。レンはこちらを見た彼と一瞬だけ視線を交わした。何も言葉はない。けれど、急に喉が渇いた。
合図の鐘が、鳴る。
最初に動いたのはA席の魔術師だった。熾火を散らすような赤の紋を空中に描き、大口径の火球を詠唱する。王道。強い。丁寧。観客が沸く。第零席の半数はそれを見ただけで腰が引けた。ツムギの肩がびくりと上がる。だが彼女は逃げない。彼女は基板だ。逃げる基板は、ただの板だ。
「御影」
名前を呼ぶだけで、御影は一歩前に出た。足は震えない。震えの代わりに、肩甲骨が小さく上下する。呼吸の合図。三。二。二。三。黒板に描いたリズムが、胸の内側で鳴る。
御影の指先から、薄い膜が広がった。誰にも色は見えないが、レンの目には透明な回路図が展開していく。膜は盾ではない。遅延の層だ。火球が通り抜けるときに、ほんの刹那、進みを遅くする空気の布。たったそれだけのはずが、束ねれば意味を持つ。
「次」レンは横に目をやる。矢が震える少女が息を吐く。震えと同じ周期で吐く。吐くたび、矢羽が震えを飲み込む。彼女の矢は、火球には向かない。けれど火球の脇を通り、詠唱者の袖口の糸を断つ。ほどけた糸は、詠唱の形を乱す。乱れは強度を落とさない。ただ、時間をずらす。
乱暴者は、肩の関節を直された通りの角度で、地面を蹴った。蹴りは攻撃ではない。足元、石畳の継ぎ目を割る。破片が空に浮き、火球の下にひとまとめの影を作る。影の形は御影の膜の形と似ている。似た形は、重ねやすい。
ツムギは逃げない。逃げられない。彼女の両手は胸の前で合わされ、指のあいだから、何でもない光が漏れる。無属性の光。色を選ばない光。膜と影と、ほどけた糸と、関節の角度と。あらゆる線は、そこに通る。
遅延が重なった。火球の速度が乱れ、三。二。二。三。と目に見えない拍ごとに揺れる。揺れが最大になった瞬間、御影が一歩だけ踏み込み、肩を開いて、顔を上げる。観客席が一瞬ざわめきを止める。補助が、前に出た。顔が、盾になる。A席の詠唱者が思わず慎重になる。慎重は遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
「いまだ」
レンの声は低く、よく通った。ツムギが息を吸い、吐く。彼女の息は色を選ばない。膜と影と糸と角度が、一点に集まる。観客には何も見えない。ただ、火球が、そこで何かを落としたように重くなる。重くなった火は、地面には落ちない。落ちたのは、向こう側だ。詠唱者の膝の内側、小さな支え。そこに遅延の重みが移る。膝が笑う。ほんのわずかに。年老いた階段が軋むように。
御影が手を伸ばす。空を掴む。掴めるはずのない場所に、彼の手は一秒の輪郭を作る。輪郭は、時間の縁。縁が、めくれる。火球は受け流された。受け流された火は、受け流されたことに気づかない。目標を失った火は、細い道を探す。その道は、レンが黒板に描いた通りの、石畳の継ぎ目の先に注がれる。そこには、乱暴者の蹴りで生まれた、一点の窪み。
火が落ち、煙が上がる。煙はA席の視界を割る。割れ目から、矢が一本。終わりかけの震えを美しく使い切り、詠唱者の耳飾りに触れて、それを弾く。金属音が甲高く鳴った。甲高い音は、合図に向いている。
一斉に動いたのは、第零席だった。遅延を束ね、束ねた遅延を解き、波となって押し返す。合成魔術と呼ぶには、あまりに手触りが違う。丁寧ではない。乱暴で、粗雑で、だが、意味がある。意味の連鎖は、術式の名より強いことがある。
A席の盾役が慌てて前に出る。遅い。慎重は遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
石が鳴り、火が沈む。観客席に「え?」という声が走る。驚きは連鎖する。連鎖は音になる。音は、合図になる。
教師の裁定が下ったのは、次の瞬間だ。「一時中断」。安全確保。形式的な言葉。だが観客席の空気はもう、元のそれではない。静かなざわめき。疑問。焦り。誰かが笑いを飲み込んだ。笑いの代わりに、舌を噛んだ。
御影が振り返る。目は怯えていない。額の汗が光り、呼吸は早いが、拍は整っていた。三。二。二。三。胸の奥で、まだ鳴っている。
ツムギは自分の手を見つめている。白い手。何も持たない。だから何でも通せる。手のひらに、わずかな黒い粉がついていた。黒板の粉だ。いつの間に。彼女はそれを払おうとして、やめた。手のひらの黒を、もう少しだけ見ていたかった。
レンは、観客席の上段を見た。新城カイは、笑っていた。笑っているが、笑いは目まで届いていなかった。彼の目の奥で、細い線が一つちぎれる音がした。レンはそれを聞いた。気のせい、と片付けるには、音は澄みすぎていた。
(見ているか)
誰に向けた問いかわからない。黒板の裏の影か。窓の外の空白か。観客席の高い場所に座る、かつての仲間か。問いは返らない。返らない問いは、線の端になり、そこからまた何かが繋がる。
◇
試合の後。第零席の教室は、もう暗かった。夕方の残り火が窓の縁で燃え、廊下の蛍光灯は点いたり消えたりを繰り返している。レンは黒板の前に立ち、チョークを握っていた。手の内側の黒い粉が、熱のようにじんわりと広がる。粉の粒ひとつぶひとつぶに、細い回路が走っている。そんな気がした。
「運用計画」
彼はそう書いた。文字は柔らかい。だが線は、固い。計画という言葉は、怖い。怖いからこそ、固くなければならない。
「今日、私……」
ツムギが言いかけて、言葉を見失う。言葉が見つからないとき、人は沈黙という器に手を伸ばす。沈黙は、器用に何でも入る。彼女の沈黙には、驚きと、安心と、わずかな罪悪感が混ざっていた。
「君は何も間違っていない」レンは言う。「間違っていたのは、置き場所だけだ」
御影は教室の後ろで椅子を並べ、その上に立って黒板を見上げている。前に出るという行為の余韻が、まだ体から抜けていないのだろう。目線が高くなると、世界は違って見える。違って見えると、人は何かを疑いはじめる。疑いは、強い。
「先生たちは明日、僕らを叱りますよ」御影が笑った。「安全性がどうとか、規律がどうとか」
「叱らせておけばいい。叱られるということは、見られているということだ。見られていれば、線は切れにくい」
黒板に、新しい線。第零席の名前を横に並べ、その下に薄い矢印を引く。矢印は命令ではない。矢印は流れだ。流れなら、変えられる。変えられるものだけが、使える。
「これから必要なのは、拍だ。術式の名じゃない。拍だ。三。二。二。三。緩急の中に、怯えのポケットを用意する。相手がそこに足を入れる瞬間を、待つ。待つのは怖い。怖さを配る役を、俺がやる」
また、金属の音。今度ははっきりと。黒板の裏から、誰かが爪で掻いたような、湿った音。ツムギが肩をすくめ、御影がゆっくりと黒板の端を覗き込む。そこには当然、何もない。ただ、チョークの粉が溜まるだけの、薄暗い隙間。空気が冷たい。冬がまだ残っている。
「聞こえた?」
レンは問う。
「何か、ひっかく音」ツムギが囁く。囁きは音を増幅する。「黒板の中で誰かが……」
「焦らないで」レンはチョークを握り直す。「怖いときほど、線は乱れる。乱れは、使える。怖さは、資源だ」
「レン」
名前を呼ぶ声が、ドアからした。振り向くと、そこに立っていたのは新城カイだった。いつの間に。足音はなかった。彼は人の気配を消すのがうまい。武器を持たない場面でこそ、才能はよく見える。
「噂は本当だったんだな。補助が前に出た。面白い見世物だったよ」
言葉は柔らかい。柔らかい言葉ほど、刃は薄い。
「見物、ありがとう」レンは言った。感謝のかたちを借りる。借り物は返せばいい。返すタイミングは、まだ先でいい。
「ところで、それ」カイは黒板の文字を顎で示す。「運用計画。……君、いつからそんなことを?」
「今日」
「今日で、そこまで?」
「今日だから、そこまで」
短い間。カイの目の奥に、また一本、細い線が切れる音がした。彼はそれに気づかないふりをした。気づかないふりをしている自分に、気づいているふりもした。
「その紙、まだ持ってる?」カイは昨日渡した“適正値”の紙を指す。あれは別れの餞別のつもりだったのだろう。だが餞別は、時に刃物になる。
「持ってるよ」
「捨てないんだ」
「ゴミ箱の位置を知らないから」
御影が笑い、ツムギが困った顔をした。カイは笑わなかった。笑う筋肉の使い方を、一瞬だけ忘れたようだった。
「気をつけろよ、レン。設計は、時々、気持ちよすぎる。気持ちよすぎるものは、大体ろくなことにならない」
「忠告、ありがとう」
「忠告じゃない。感想だ」
カイはそう言って、振り返った。ドアの向こうの廊下は真っ直ぐで、どこまでも続いているように見える。だがもちろん、そんなことはない。どこかで曲がっている。曲がり角には、誰かが立つ。誰かは顔がない。空白の輪郭。
ドアが閉まる。金具のかすかな軋み。黒板の粉がふわりと舞い、レンの指先に新しい線を作る。線は怖い。繋がるから。切れるから。生まれるから。消えるから。
「続けよう」
レンは言った。声に余計な熱はなかった。ただ、必要な熱だけ。金属を曲げるのに足りるだけ。
黒板の一番上に、今日の日付を小さく書く。書きながら、彼はわずかに手を止めた。窓に映った教室の像の中で、黒板の前に立つ自分の肩越しに、誰かが覗き込んでいる。顔はない。襟だけが揺れている。風はないのに。ガラスのむこうの教室は、こちらと同じように暗く、同じように薄く、同じように怖い。
「才能は置き場所で化ける」
レンは、板書の最後の行を書いた。粉が指の間で鳴る。鳴った粉は、床に落ちる。落ちた粉は、誰かの足跡の形になる。誰も踏んでいないのに、足跡は増える。
「やろう、最強を設計し直す」
言い終えると、ツムギが小さく息を吸い、御影が首を縦に振った。二人の動作は、拍を作る。三。二。二。三。拍は、鼓動に似ている。鼓動は、恐怖に似ている。恐怖は、生きている証拠だ。
その夜、レンは寮の部屋で紙を広げた。適正値の紙。数字の羅列。紙の上で、線が立ち上がる。線は誰かの骨格になり、呼吸になり、笑顔の筋肉の配置になり、涙腺の開閉角度になり、心拍の揺れに変わる。紙の向こうから、ひっかく音がする。黒板の裏の音と同じだ。紙に爪を立てているのは、誰だ。レンか。カイか。第零席の誰かか。あるいは、紙そのものか。
(組み替えろ)
囁きが、眠りの縁を冷たくする。レンは目を閉じる。暗闇は、設計の反転だ。光が線を浮かべるように、闇は線を沈める。沈んだ線は、朝になればまた浮かぶ。浮かぶたび、違う線になる。
窓の外で、旗が鳴った。冬の名残の風。鳴るたびに、どこかで金属が擦れる。レンはその音を数える。三。二。二。三。拍は眠りに混ざり、恐怖は夢に溶けた。
夢の中で、黒板に書いた円がまた目に現れた。円は目の形に似ていて、やがて本当の目になった。目は何も言わない。ただ、見ている。見られているのは、第零席か。それとも、設計そのものか。
朝は来る。怖さも来る。拍も来る。線はまた立ち上がる。
レンは起き上がり、紙を畳み、制服の内ポケットに差し込んだ。紙は心臓の上にある。鼓動と紙の擦れる音が、かすかな歌になって、胸の内側で流れつづけた。
教室へ向かう廊下は長い。長いが、必ず曲がる。曲がる場所に、今日も誰かが立っている。顔はない。襟だけが揺れる。黒板の粉が目に見えない風に乗って、こちらへ流れてくる。粉のひと粒ひと粒に、細い回路が走っている。そんな気がする。
レンは歩きながら、指先で拍を取った。三。二。二。三。拍は、歩幅に合う。歩幅は、設計に合う。設計は、恐怖に合う。恐怖は、君たちに合う。
だから、怖がっていい。
怖がって、進め。
第2話 無属性の名前
朝いちばんの教室は、つめたい水の匂いがした。洗ったばかりの黒板が光を跳ね返して、窓際の床に四角い明るさを落としている。白い粉はまだどこかに残っていて、指で触れるとじわりと汚れが伸びた。レンは人のいないうちに、黒板下のチョークを一本折る。その断面は硬く、きめ細かく、崩れているのに頼りになる手応えだった。
無音のまま、線を一本だけ引いた。水平でも垂直でもない斜めの線。地面ではない。壁でもない。なのに、そこから立ち上がれる気がする傾き。ツムギは扉の隙間からそれを見て、小さく息を飲んだ。
「おはよう」
彼女はまだ、教室の敷居を跨ぐ動作がぎこちない。爆ぜるならここ、という位置を決めている歩き方。自分で危険区域を作って、その内側を歩いている。
「昨日の模擬、手が震えなくなってたね」
「……少しだけ。御影くんが前にいたから。あの、すごく、安心するんだ」
「前にいる人間は、後ろの呼吸を整える」
レンはチョークを置いた。粉が彼の指にだけ増える。ふと、黒板の表面を爪でなぞってしまいそうになる。黒板の向こう側で、誰かが耳を澄ませている気配がするからだ。呼ぶ音がする。ひっかく音。薄い金属の刃で、縄を少しずつ切っているような音。
「今日の課題はツムギの魔術の名前だ」
「名前……」
彼女のまつ毛が、影の中でかすかに震えた。名字のように軽い発音でありながら、実際は胸の奥で重く固い響きを持つ言葉。それが名前だ。名づけることでずっとそこにあったものが輪郭を持つ。輪郭があるものは、触れる。触れれば、変えられる。
「無属性って呼ばれてる。何色にもならない、って。でもそれは評価じゃなくて、省略だ」
「省略……」
「言葉を失うとき、人は記号を置く。無属性って言葉は、欠けたところの目隠しだよ」
「じゃあ、本当は何?」
「中立」
レンは黒板に、薄く、二重線で円を描く。円の中心は空洞で、ほんの気配だけが乗っている。
「揺れていない。ぶれていない。そのせいで、他の色が入りやすい。ただ順序がないから混ざる。混ざれば爆ぜる。順序があれば、重なる」
「重なる……」
「基礎層」
口の中で発音すると、舌の裏が冷たくなった。新しい名は、まだ生乾きの傷に触れるみたいに、ひりひりする。ツムギはその音を耳で追い、口の中で転がしてもう一度ゆっくり言った。
「きそそう」
「英語風の言い方をつけるなら、ベースレイヤ。基礎層」
黒板に、そう書いた。白い粉が四角い朝の光を吸い、かすかな輝きになる。
「君の魔力は中立だから、他属性を安定して通せる。順番を決めて、その順番どおりに通す。同期、遅延、増幅、緩衝。全部、君の中に吸わせてから出す。無色のまま、重ねればいい」
「それ、私にもできるかな」
「できる。できるように設計する」
設計、という語の手触りは危険だった。レンの耳の奥で、昨夜からのひっかき音が濃く響く。設計は気持ちよすぎる。新城カイの声が、混じる。気持ちよすぎるものは、大体ろくなことにならない。忠告。感想。どちらでも、隙間に刺さる。
「御影、来てる?」
レンは廊下に声を飛ばした。返事の代わりに、ゆっくりした呼吸の音が近づく。御影ユウトが扉の影から顔を出し、いつも通りの落ち着いた笑顔でうなずいた。
「います。壁になりにきました」
「いい壁は、黙ってそこにある。声がある壁は、もっといい」
「じゃあ、今日はしゃべります。しゃべって、守ります」
レンは机の引き出しから、薄い板を取り出した。木の板ほどの大きさで、表面には細い線が刻まれている。魔術式プレート。授業で使う訓練用の簡易回路板だ。古びていて、角はすり減り、誰かの名前がうっすら消えていない。
「これを、はめよう」
レンはツムギの手首をとり、板の内側にある金具をそっと合わせる。カチ、と小さく音がし、彼女の皮膚に冷たい感触が触れた。ツムギの肩がわずかに震える。震えは止めない。震えは拍になる。拍は、呼吸を導く。
「痛くない?」
「少し冷たいだけ。……でも、怖い」
「怖いときは、怖いと言っていい。怖さは測定できる。測定できるものは、扱える」
レンは板の刻線に指を滑らせた。同期。遅延。増幅。緩衝。四つの溝が、小さな水路のように並んでいる。そこに魔力が流れたとき、傾きのちがいで速度と厚みが変わるはずだ。
「まずは同期を薄く。御影、声で拍を取って」
「はい。三。二。二。三」
御影の低い声は、壁の内側を叩く音に似ている。ツムギの呼吸がそれに揺れを合わせ、きれいに上下する。彼女の指先から、ほんの少しだけ空気の温度が動いた。色はない。匂いもない。けれど動きだけは確かにあって、黒板の白が一瞬だけ細く見える。
「次は遅延を薄く挟む。拍をずらす。三の二拍目で一息止める」
ツムギは言われたとおりに、息の角を丸く折った。プレートの窪みが、ふっと湿る。何も燃えていないのに、教室の空気が重くなる。重さは薄い。薄いから、見逃されやすい。見逃されるものは、よく効く。
「増幅。少しだけ。自分の中心から外へ押す。押すと言っても力を入れない。言い訳みたいに押す」
「言い訳……?」
「言い訳は、相手に全部届かない。届かない分が、ちょうどいい」
ツムギが笑って、やってみる。笑いは魔術には悪くない。魔術は感情に敏感なはずなのに、笑いの輪郭は不思議と安定している。
「そして緩衝。戻ってくる力を受ける層。受けるとき、受けすぎるな。半分だけ受ける」
「半分だけ……」
「残りは、御影の壁に流す」
「はい。流れ先、こちらで受けます」
その瞬間、教室の蛍光灯が、ひとつだけ明滅した。薄い音。ひっかく音。黒板の裏で誰かが指を曲げる。ツムギの手首の板が、カチリと小さく鳴った。
「いくよ」
ツムギが手を上げる。その所作にはもう、机の下に隠れる癖はない。指先の少し上、教室の空気に薄い膜が立つ。透明な、見えない板。そこに彼女の魔力が染み出し、溝に沿って流れる。流れは細い。ほとんど無だ。無いものは静かで、静かなものほどよく燃える。
小さな光が走った。ピ、と短い音がして、空気がすぐに元の形を取り戻す。爆ぜなかった。爆ぜないかわりに、教室の角の影が一瞬だけ濃くなった。
「……できた?」
「できた。今は小指の爪くらい。でも、できた」
「私、今、何を出したの?」
「無色の層だ。色がつかない光。何にも見えないけど、確かにそこにある。基礎層」
ツムギはもう一度、板をなでた。冷たさは抜け、体温が溶けこみはじめている。
そこから先は、失敗の連続だった。小刻みな失敗は、たいてい美しい。大きな失敗は、破片の形が雑だ。小さな失敗は、破片の縁が滑らかで、どこか透明だ。ツムギが拍を間違えるたび、プレートの溝が細く鳴り、教室の空気が波打った。御影は壁をつくって受ける。彼の壁は見えず、聞こえず、ただ空気の温度だけが変わる。額の汗がこめかみを伝い、あごの下でひとつにまとめられる。震えはない。震えは拍に溶けた。
乾いた花瓶の中で、花の茎だけが音もなく裂ける。そんな気配がした。黒板の裏の空気が、少し寒い。レンは時々、そこに指を向ける。何も触れない。けれど触れてはいけないものの気配だけが増える。触れてしまえば、簡単に崩れる。崩れると、とても気持ちよくなる。気持ちよさは、やさしい毒だ。
「いい。今日はここまで」
レンは区切った。区切ることで、人は前に倒れない。踏み外しても、落ちきらない。
「放課後、小テストの公開演習がある。そこで、無色を見せよう」
「みんなの前で?」
「みんなの前で。見せれば、名前になる」
◇
公開演習は、小さな観覧席を備えた実験場で行われた。教員に加えて、他クラスの生徒、暇そうな上級生、そして見物目当ての外部者。入学式の日からずいぶん早い。誰もが新しい見世物を欲しがっていた。
薄い冬の光がガラス越しに差し、床に白い長方形をいくつも重ねた。配線が床下を走っている。制御盤は壁際に寄せられ、緊急遮断の赤いボタンが、どこか血の気のない舌みたいに見える。
ツムギの番が近づく。御影は彼女の斜め後ろに立ち、手を前に出した。壁の準備。レンは書記台に置かれたノートを開き、右上に小さく拍を書いておく。三。二。二。三。ノートの紙の端が、黒板の粉と同じ匂いを持っていることに気づく。これはどこから来た粉だ。教室の裏から吹いてきた粉か。あるいは、名前の付いた粉か。名前のない粉は、床に落ちるだけだ。
「次、雛森ツムギ」
呼ばれた名前に小さなざわめきが乗った。「あの無属性の」「また爆発するんじゃ」「片付け面倒なんだよな」軽い声。軽い声は、震えを運ぶ。震えは、こちらに都合がいい。
ツムギは前に出る。足幅は狭く、でも迷いは少ない。彼女の手首にはプレート。表面に刻まれた溝は、ここからでも見えないくらい細い。細いものは、よく使える。薄いものは、よく通る。
「始めてください」
教師の声は硬い。完成された規則の塊みたいだ。その声の向こうで、別の声が囁く。黒板の裏ではない。もっと高いところ。観覧席の上段。学園長・神垣が腕を組み、わずかに前屈している。目の奥は濁っていない。濁っていないからこそ、警戒の色が深く見える。
ツムギは息を吸う。御影が低い声で拍を提示する。三。二。二。三。レンは板書がない代わりに、床の白い長方形を数えた。五つ目の角のところで、ツムギが小さく息を止める。遅延。呼吸の角を丸く折る。増幅は控えめ。緩衝は半分。残りは御影へ。
彼女の指先から、光が漏れた。無色の光。誰の目にも色はない。ただ、空気が重なり合う質感だけがあり、光沢だけが残った。薄い布を空気に溶かし、その布が風に揺れずに張りつくような感覚。張りついた布に、別の色の糸を押し当てる。色は吸われない。色は滑り、重なる。重なって、乱れない。
観客には、ただ無色のまま見えた。だからこそ、ざわめきが生まれた。
「今、何をした?」
「光ってないよな?」
「でも、あの……空気、ちょっと」
「寒気がした」
「目の奥、きゅってなった」
教師は書きつける。書いているうちに、ペン先がわずかに音を変える。音の変化が、名前の代わりをしてくれる。
学園長・神垣は苦い顔をした。彼の口元に浮かぶ皺は、長年の折り目がついた紙に似ている。折られつづけた紙は、そこだけ薄くなってちぎれやすい。ちぎれやすい場所に、言葉が刺さる。
「設計工学を学生が?」
後ろの教務主任が肩をすくめる。「あの子は、ただの無属性です。偶然ですよ。……偶然で、あれば」
「偶然は、最初だけだ」
神垣は目を細めた。目の奥に薄く小さなひっかき傷が増える。増えるたび、視界がわずかに微粒子めいて見える。微粒子は光を散らし、色を消す。無色の輝きだけが残る。
観覧席の別の場所で、長い髪を耳にかけ直した少女が、息のない声で呟いた。
「……綺麗」
セラ。レンが追放されるとき、最後まで口を開かなかった魔法使い。彼女の手は膝の上で静まり、指の先だけが小さく丸まり、開く。目線は真っ直ぐにツムギへ、そして、その向こうで首を少し傾けているレンへ。レンはその視線を感じた。視線は糸だ。糸は、束ねられる。
「遊びだ」
隣の席の新城カイが、短く切った。まるで紐を切るときの音みたいに。声は冷たい。冷たさは正確だ。正確なものは、時々、間違う。セラの横顔がわずかに強ばり、でも目だけはレンを追った。その一瞬を、カイは見逃さなかった。見逃さないほうに、彼は慣れている。視線が糸なら、彼は糸の結び目の位置をすぐに見つける。
ツムギの演習は、何も壊さずに終わった。壊さなかったことに、誰かが安堵の溜息を漏らした。壊さない演習は、演習にならないと笑う者もいる。それでも、空気の細い厚みの変化を感じ取った者たちは、笑わなかった。笑いは空っぽな場所にしか落ちない。今ここにあるのは、空っぽではない。
御影の壁は音もなく消え、彼の手の平に白い粉が少しだけ残った。黒板の粉ではない。床から舞い、壁に擦れて落ちる何か。名前のない粉。名づければ、使える。
◇
公開演習が終わる頃には日差しが傾き、廊下の影が長く伸びた。実験場から外に出ると、風は冷たかったが、湿り気は少ない。空気は乾いていて、粉はよく飛ぶ。飛んだ粉の軌道が、薄く可視化された気がする。粉にまで線が通るのは、考えすぎだろうか。考えすぎでも、整合性があれば使える。
「ありがとう」
ツムギは校門を出る少し手前で立ち止まり、レンに向き直った。彼女の声には汗の味が少し混ざっていた。汗は良い。汗は測定できる。頑張りと、恐怖と、喜びの比率がわかる。
「何に?」
「名前」
「まだ借り物だよ。使って、擦り切らせないと。本当のものにならない」
「でも、私、呼ばれた気がした。無属性って、いつも、そこに穴が空いてるみたいだった。今日、穴の底に床ができた感じがしたの」
「床は大事だ。立てる」
「立てる。ほんとに」
ツムギは歩き出す。歩幅は昨日より少し広く、靴音が薄く響く。御影は一歩後ろで、歩きながらさりげなく左右を見ている。彼は壁であることを忘れない。壁は、歩く。
寮の棟までの道は、途中で曲がる。曲がる角には、時々、誰かが立っている。今日は立っていない。代わりに、道路の角に影がたまっていた。角は影が好きだ。影は角が好きだ。どちらでも、使える。
「それ、見せて」
ツムギが唐突に言った。レンが首を傾げると、彼女は遠慮がちに続ける。
「ノート。みんなの、設計図。……前に、黒板に描いてたの、もう少し見たい」
「怖いよ」
「知ってる。でも、見たい。怖いの、見たい。私、基礎になるって決めたいから」
レンは少しだけ躊躇した。名づけは力だ。図にするのは、さらに力だ。見えるものは壊しやすい。壊しやすいものを、見せるのは怖い。怖いから、慎重になる。慎重は遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
「ここじゃなくて、寮の談話室で」
「うん」
談話室は、夕方の光の残り香で満ちていた。ソファは柔らかすぎず、固すぎず、誰かの体温が薄く残っている。壁に掛かった時計の秒針が、呼吸より少し早い。早い鼓動は落ち着かない。落ち着かないから、拍を整える。
レンはノートを開いた。紙の上に鉛筆の線。鉛筆の薄い光沢は、黒板の粉のそれと兄弟だ。ページには名前が並び、その下に配線の図が走っている。人の顔ではない。心臓でもない。だけど、そこにいる人の手触りがある。癖がある。間違いがある。間違いは、使える。
ツムギは静かに見た。指先は紙の端に触れず、息を詰めすぎない。目の動きだけが忙しく、まぶたの重みが途中で何度も変化する。変化が怖いとき、人はまばたきの数を増やす。彼女は増やさなかった。見たいのだ。怖いのに、見たいのだ。
「私のは、これ?」
「そう。中心が空洞。だから、どこからでも入れて、どこにでも出せる。君は穴じゃない。穴の形の床だ」
「床の形を、持っている」
「うん」
「御影くんのは?」
「壁。壁って、外から見える線と内側の骨組みの線が違う。彼は内側が強い。だから、外へ回すときに順番を間違えやすい。順番を決めてやれば、表と裏をひっくり返せる」
「すごい……」
ツムギの声が細くなる。細くなった声は、よく届いた。レンは次のページをめくった。乱暴者の関節の線。矢の震えの周期。癒し手の遅い回復が早められないかわりに、先行して流しておく配線。どの図にも、直したい角度がある。角度は、怖い。角度は人を変える。変わると、戻れない。戻れない道を、紙は平然と示す。
「ねえ、レンくん」
ツムギは目を離さないまま言った。
「私、基礎になる」
「……」
「基礎に、なる。誰の上にも、私がいる。みんなが乗っても、沈まない床になる。怖いけど、決めたい」
レンはノートを閉じた。閉じる音は薄く、談話室の空気に吸われた。
「ありがとう」
「私のほうこそ、ありがとう」
「違う。今の言葉にありがとう」
名づけは力だ。決めた言葉は、骨になる。骨は、簡単には折れない。折れたら、痛い。痛いから、守ろうと思う。守ろうと思えるものは、強い。
そのとき、談話室の壁の時計が、ほんの一瞬だけ止まった。すぐに動き出したが、止まる前と後で秒針のわずかな傾きが変わった気がする。時計の裏側の配線に、見えない手が触れたような。黒板の裏のひっかき音が、遠くで反響する。誰かが、こちらを覗いている。顔はない。ただ、襟だけが、風もないのに揺れている。
レンはノートの表紙を指で押さえ、軽く叩いた。三。二。二。三。拍はここでも使える。拍は、恐怖を薄める。
「明日から、負荷を上げる。基礎層に他属性を重ねる練習を増やす。順序の種類を増やす。御影は壁の厚みを多段にする訓練。乱暴者は関節を守る筋の強化。矢の子は震えの種類を二つに分ける。癒し手は先行流しのパターンを五つ」
「うん」
「それと」
レンは少し、言葉を選んだ。選ぶのは遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
「学園長が、気づいている。設計の匂いに。たぶん、近いうちに、何か言われる」
「怒られる?」
「怒らせておけばいい。怒りは注目だ。注目がある間は、線が切れにくい」
談話室のドアが、遠慮のない手つきで開いた。新城カイが立っていた。見慣れた笑みに、今日に限って少しだけ影が差している。顔の筋肉が覚えた笑いは、その日その日の感情に影響されない。けれど目の奥の温度は嘘をつけない。低い熱。低い熱は長く続く。長く続く熱は、人を変える。
「ここにいたのか」
「見学?」
「まあね。面白いものを見せてもらったから。そのお礼に、忠告」
「どうぞ」
「君たち、見られすぎると危ない。見世物は、壊されて初めて完成することがある」
「壊させない」
「壊れるよ」
カイは笑った。笑いは薄く、刃みたいに光った。
「それでも続けるの?」
「続ける」
「なら、止めないよ」
彼は踵を返して出て行った。去っていく足音が、秒針より少し遅い。遅い足音は、こちらに時間をくれる。もらった時間で、設計は進む。進むこと自体が、怖い。
ツムギはレンの袖を、そっとつまんだ。子どもみたいな仕草だったが、指の力は意外と強い。彼女は笑い、言った。
「大丈夫。壊れないよ。だって、床だよ、私は」
「床にも、ひびは入る」
「ひびが入ったら、埋めて。御影くんが」
「やります」御影が笑った。「壁は、床と仲良しなので」
「仲良し……いいね」
レンは、ふっと小さく笑った。笑いはわずかな油のように、きしむところに染みこんだ。
◇
夜、レンは一人で教室に戻った。黒板の前に立つと、昼間よりも板は冷たく見える。粉はより白く、床の影は濃く、窓ガラスは鏡のように内側を映す。鏡の中で、黒板の前に立つ自分の肩の向こうから、誰かが覗いている。顔はなく、襟だけが揺れる。それは一度も瞬きをしない目のようで、瞬きをしない目は、見られているほうの瞬きを増やす。
レンはチョークを取り、黒板に四角を描いた。四角の中に、円。円の中心は空洞。空洞の縁を薄く塗る。薄く塗ると、音が出る。キ、とか、シ、とか、名前のない音が。
「名づけは力だ」
声に出す。声は小さく、教室の壁に吸われる。壁は、御影のように静かだ。
「無属性は、基礎層」
書いた言葉を見直す。粉が光る。光り方は昼間と違う。夜の粉は、鈍い。鈍いものは、長持ちする。
背中のほうで、椅子がひとつ、小さく鳴った。誰もいない。椅子の脚が床を引っかく癖の音。ひっかき傷は、生きている場所の証拠になる。
「見てるなら、見るといい」
レンは誰に言うでもなく、呟く。黒板の裏の空気は冷たい。ガラスに映る襟は、まだ揺れている。揺れに拍がある。三。二。二。三。拍の形は、あらゆる所に潜んでいる。心臓。足音。秒針。ひっかく音。全部、同じ場所に集められる。集めたとき、怖さは形になる。形になった怖さは、仲間だ。
ノートを開く。ページの端に、今日のツムギの値を細く追記した。遅延の角度。緩衝の厚み。増幅の癖。同期の癖。許容量はまだ小さい。床はまだ薄い。薄い床は、上に乗るものを選ぶ。選ぶ基準を、レンは考える。考えるうちに、また気持ちよくなる。危険な気持ちよさ。脳の中で、誰かが笑う。笑いは音に変わり、黒板に吸い込まれた。
翌朝、教室に早く来たツムギは、黒板に残った言葉に触れず、ただ見上げた。
「無属性は、基礎層」
彼女はゆっくりと唇だけでなぞる。声に出さないとき、言葉は体の内側を通って、胸まで届く。胸で止まった言葉は、そこで骨になる。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶は簡単で、軽く、ですがるところのない形をしている。それを交わすことで、床に小さな釘が一本打たれた気がした。釘は多いほうが、床は鳴かない。
御影が来て、壁が笑った。乱暴者がきて、肩の角度を直され、文句を言いながら笑った。矢の震えが廊下の曲がり角で風と混ざって、いい音になった。癒し手は遅い歩幅で、でも確実に来た。遅いものは、時計の針の間に入り込んで、時間を少しだけ柔らかくする。
レンは黒板を指で叩く。三。二。二。三。拍が合った。合った拍の上に、名前が乗る。名前の上に、怖さが座る。怖さは目を閉じず、こちらを見続ける。見られていることに、やっと慣れはじめる。慣れは、設計の最初の部品になる。
「授業の前に、一回」
レンが言うと、第零席は静かに立った。全員が立つ姿はまだぎこちないが、昨日より少しだけ、天井が高く見えた。天井が高く見えるのは、床が厚くなった証拠かもしれない。
「ツムギ」
「はい」
「基礎層を、出して」
彼女は息を吸い、遅延を折り、増幅を弱く、緩衝を半分。御影の壁が先に立ち、受け口を用意する。乱暴者の足が石を鳴らし、矢の震えが拍を刻む。癒し手は遅く、先に流す。
無色の光が、教室に落ちた。落ちたというより、敷かれた。薄い布。布は透明で、色を拒まない。拒まないまま、受け取る。受け取ったものが、重ならない。重ならないように、順番を決める。順番は、名前になる。
「できてる」
レンは言った。
「できてる」
ツムギは笑った。笑いは床を厚くする。
その日の放課後、学園長の呼び出しが来た。扉の向こうで、誰かが待っている。顔はなく、襟だけが揺れ、黒板の粉はどこからかついてくる。見られることは、続く。続くことは、怖い。怖いものに、もう少しだけ名前をやる必要がある。
ツムギは帰り道で、もう一度だけレンに礼を言った。言葉は短く、でも重い。
「ありがとう。私、基礎になる」
それは宣言ではなく、誓いだった。誓いは、床下に通る梁になる。梁がある床は、鳴きにくい。鳴きにくい床は、よく戦える。
冬の旗が遠くで鳴った。金属が擦れる。黒板の裏のひっかき傷が、また一つ増える。息を合わせる。三。二。二。三。拍が体の内側で鳴り、名前が骨になり、床が厚くなる。怖さは、そこに座ったままだ。座ったまま、こちらを見る。こちらも見返す。目を閉じない。目を開けたまま、次の線を引く準備をする。設計は進む。進むたび、気持ちがよくなる。そのたび、チョークは少しだけ短くなる。
短くなったチョークを、レンは指で転がした。転がる白の先で、見えない粉が宙に舞う。粉の粒の一つ一つに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、設計はできる。できた設計は、怖さに名前をつける。名前がついた怖さは、仲間の席に座る。
第零席。呼ばれるたび、そこに床板が一枚増える音がした。床板の数は、もう指で数えられない。数えられないものは、こぼれない。こぼれないから、立てる。立てるから、進める。進めるから、怖い。怖いから、名前を呼ぶ。無属性は、基礎層。ツムギの名は、床の響きの中で、静かに固まっていった。
第3話 補助が主役になる日
朝の体育館は、まだ誰の声も吸っていない大きな箱だった。磨かれた床は寒いほどに光り、窓の高い位置から差し込む光が帯になってほこりを浮かべる。ほこりは粉になって、空中でゆるく踊る。踊る粒のひとつひとつに、細い配線が通っているように見えた。見えるだけだ、とレンは心の中で言い直す。見えるだけで、十分だ。見えたものは、使える。
御影ユウトは、体育館の中央線の上に立って、両手を見つめていた。手はいつも通りだ。指の関節は硬すぎず、手のひらは少し乾いている。けれど、そこに何かが欠けている気がした。欠けている、というより、名前がない。名前のない部品は、箱の隅に追いやられる。誰も触らない。触られないものは、錆びる。
「攻撃しない俺に、価値はあるのか」
ユウトはつぶやいた。声は低く、床に吸われてすぐ消えた。消えても、床の底で反響する。反響は拍になる。三。二。二。三。呼吸と同じ速度で、胸の内側で鳴る。
「あるよ」
レンは、体育館の隅から歩いてきて、ユウトの正面に立った。背後には折りたたみの戦術ボード。透明な板の上に、白いペンで細い線が描かれている。線は路線図に似ていた。駅は円で、乗換えは三角で。白い線は、どこかで必ず交わっている。
「支援は舞台監督だ」
「舞台監督」
「照明じゃない。主役でもない。でも、誰かが照明を落とす瞬間を指さし、主役が袖から出てくる拍を作り、脇役が出す小道具の位置を決める。失敗はここで止まる。成功はここから先に流れる」
レンはボードに指を滑らせ、円を一つ叩いた。叩かれた円は音を出さない。けれどユウトには、確かに薄い音が聞こえた気がした。
「君の支援は、舞台裏の線路だ。誰も転ばない道。立ち止まる場所。走っていい区間。人ごとに速度が違うから、線路は重ねて引く」
「線路、か」
「レールには継ぎ目がある。継ぎ目が怖い。怖いから、君が拍を配る」
「拍」
「三。二。二。三。遅延をその継ぎ目に敷いて、増幅を坂に乗せ、緩衝をカーブに置く。同期は駅だ。みんなが揃って次の車両に乗り換える場所」
ユウトはボードを見た。白い線はやがて薄く立体化し、互いにすれ違い、重なり、ほどけ、そのあともう一度ゆっくり結ばれる。黒板の裏でひっかく音が、遠いのに近く聞こえてきた。体育館に黒板はないのに。ないものの裏で音がするのは、おかしい。おかしくても、拍に合わせることはできる。
「俺が前に出る意味は?」
「観客の視線を乱す。敵の時計を割る。支援は、遠くから投げるだけじゃない。前に出て、相手の目の前で、速度を変える」
「速度を」
「変える。君が顔で受ける。怖さを持って立つと、相手は慎重になる。慎重は遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる」
レンはユウトの肩にそっと手を置く。触れた指先が、薄い電気を帯びるように感じた。体育館の床の板の継ぎ目に、ひとつだけ黒い筋があり、そこから冷たい風が上がってくる。風は粉を運び、粉は光に浮かび、浮いた粉は線になった。
「三つ巴の演習、覚えてるな」
「三チーム同時に」
「A席、B席、零席。三つの時計が同時に進む。時計同士は干渉する。干渉は音になる。音は合図になる」
レンはボードの上に、三色の丸磁石を置いた。赤、青、無色。無色は透明だから、位置がわかりにくい。わかりにくいのは、使いやすい。
「御影、声で拍」
「はい」
ユウトの背後から、低い声が来る。三。二。二。三。ツムギは少し離れた場所で、自分の手首の魔術式プレートに触れ、薄く息を吐く。その吐息は色を持たない。持たないから、どこにでも通る。
「ユウト」
レンは静かに言った。
「君が敷く線路は、誰も失敗しないためにある。成功に連れていくためじゃない。失敗を先に拾ってしまえば、成功は勝手に残る」
「……拾う」
「失敗の先回り。それが支援だ。君は、人の転ぶ位置を知っている。だったらその少し手前に、何かを置けばいい」
「何かって」
「拍。遅延。声。目線。あるいは、床」
床。ユウトは足元を見る。体育館の板の継ぎ目が、ゆっくり呼吸している気がする。板は呼吸しないはずだ。呼吸しないものの呼吸に合わせて、ユウトは肺の空気を薄く入れ替える。
「今日、補助は前に出る」
レンは言った。
「君が、主役だ」
◇
特訓は実戦形式で行われた。体育館に三本の白線が引かれ、円形のコートが重なり合う。その中心には、審判の立つ丸い影。影は目に見えない網の目を広げ、三本の線を結ぶ。観覧席には、昨日の公開演習から味をしめた生徒や教員が集まっていた。A席の面々は余裕の笑いを浮かべ、B席は苦い顔で静かに準備をしている。第零席は、自分たちの位置をまだ探している途中。探す途中のものは、驚くほど強い時がある。
「各チーム、準備」
審判の声が床に落ち、反響した。反響は微妙に遅れて帰ってきて、体育館の上部の梁の間でほどけた。ほどけた声の糸は、粉に絡まって無色のさざ波になった。
A席の司令塔は、眼鏡の奥に冷たい計算を宿した少年だった。視線は高く、広く、ブレがない。彼は片手を挙げ、静かに合図を送る。A席が一糸乱れず動く。最短距離の戦術。最短距離はときどき最も遅い。
B席は慎重だ。誰も突出しない。突出するべき場面でも、全員が揃ってから動く。揃うのは安心だが、敵の糸は揃うのを待ってくれない。揃いを狂わせるのが、支援の仕事だ。
「零席、開戦」
レンはマイクなしで言った。誰にも届かないはずの声が、床を伝って小さく伸びた。ユウトの足元に、拍が立った。三。二。二。三。
ツムギが、基礎層を薄く敷く。透明な布が床の上に敷設されるように、無色の層が広がっていく。層の端はフチが立っていて、そこに他属性の力が引っかかる。このフチは目には見えない。見えないものは、人の足に絡む。
ユウトは前に出た。敵に近い位置。目線の高さが揃う場所。彼は両手を軽く広げ、掌を見せる。攻撃の構えではない。構えない構え。構えないから、相手の構えを汚す。
「来るぞ」
A席の前衛が唇の形だけで言った。ユウトはその形に合わせて、ほんのわずか拍を早める。三。二。二。三。二の、二拍目を一欠けら抜く。抜けた拍は、そこに落とし穴を作る。
A席の魔術師が詠唱の第一声を立ち上げた瞬間、ユウトの声がその上に薄く重なる。重ねるのは別の言語でもない。単に、音の高低だ。少しだけ高く、少しだけ早く。重なれば、聞いている側の耳は焦る。焦りは遅延だ。遅延は糸だ。
ユウトが右手を少し前に滑らせる。その先にツムギの基礎層の小さな隆起がある。見えない壁が、そこにある。壁は受けるためにあるが、受けるだけではない。壁の裏には、押し返すための角がある。角は、攻撃になる。
「御影、前」
レンの声は床から上がった。ユウトは半歩踏み込み、掌を前に切った。手刀は空を割らない。ただ、空気の速度を変える。変わった速度は、基礎層のフチに引っかかり、薄い波になって返る。波はA席の詠唱者の喉元へ届き、声帯の震えを一瞬だけ狂わせる。狂いは、詠唱の継ぎ目に入る。継ぎ目に入った狂いは、すぐ増殖する。
観客席で、誰かが息を呑む音がした。
「今、補助が」
「前に出た?」
「攻めた?」
A席の司令塔の眉が、ほんの少しだけ上下した。計算にない揺れ。揺れに気づいた彼は、すぐに補正をかけるべく指を動かした。その指示は正しい。正しいが、遅い。遅いというだけで、線路から外れる。
B席の矢が飛ぶ。ユウトはそれを一瞬だけ見る。見るだけだ。見た瞬間、彼はツムギの足元に拍を一つ落とす。落ちた拍に、無色の層のフチが震え、矢の背を風がなでる。矢の震えはほどよく抑えられ、矢羽は空気の布に沿って滑った。滑りの角度が、ほんの少しだけ変わり、矢はA席の盾の隙間を抜け、司令塔の肩の袖口を裂く。裂ける音はささやきに似ていた。誰にも届かないのに、全員がそれを聞いた気がした。
「ユウト、左」
レンの声。ユウトは視線を左に落とし、床の白線を一つ踏む。白線は電流のような感触を足裏に残す。残された感触は合図になる。合図を見つけたツムギが無色の層を少し厚くする。厚みは壁のための厚みではない。押すための厚みだ。押す壁は、攻撃だ。
前に出たユウトの掌が、空を掴む形になり、三。二。二。三。の二でグッと閉じる。閉じた掌の中に、無色の層から返った圧が一瞬だけ集まり、そのまま前へ滑る。目には見えない。見えないのに、A席の前衛が一歩分だけ押し返される。押し返された彼の靴底が体育館の床を鳴らす。鳴った音が合図になり、B席がそこへ重なる。三つ巴のはずが、一瞬だけ線がまとまる。まとまりは事故のように見え、事故に見えるから、たいてい効く。
「補助が攻めた!」
観客席で悲鳴のような声。悲鳴は笑いよりも速く広がる。笑いは空っぽに落ちる。悲鳴は、何かにぶつかって返る。返った悲鳴は、拍になる。
A席の司令塔が手を早く動かす。彼の目はまだ冷静だ。動揺を押し込めるひたいの筋肉。筋肉に走る細い線。線が、一本、切れたように見えた。見えただけだ。だが、見えれば使える。レンはその切断面に合わせて、淡く「設計通り」と呟いた。マイクはない。誰にも届かない。届かない声は、床の下へ落ちる。落ちた声は、ユウトの踵に触れる。
「前へ」
ユウトはもう一歩、前へ出た。支援の壁が彼の掌の前に立ち、ツムギの基礎層がその壁の裏に厚みをつける。壁の厚みには角がある。角は押し返す。押し返した先に、B席の遅い回復が先行して流されている。回復の流れは、ぶつかってきた敵の速度を鈍らせる。鈍った速度は、拍を落とす。落ちた拍に、零席の乱暴者が肩をぶつけ、矢の子が震えの周期を一つだけ変える。すべてが無色の層に吸われ、何も見えない波として返る。
A席の盾が傾く。B席の全体の足音が崩れる。崩れた足音の隙間に、ユウトの声が入る。
「今」
短い。短いが、よく通る。声は合図だ。合図は、主役の立つ位置を作る。
零席は一斉に踏み込んだ。踏み込みと同時に、体育館の窓のどこかで金具が小さく鳴る。鳴った音は黒板のひっかき音に似ていた。黒板はないはずだ。ないのに、音はする。体育館の上部の窓ガラスに映った観客席の像の中で、襟だけが揺れている誰かがこちらを見ている。顔はない。瞬きもしない。見られる感覚は、拍を早めそうになる。ユウトは自分の胸に手を当て、拍を一定に戻した。三。二。二。三。
演習が終わったのは、誰かの靴音が一度途切れた時だった。途切れた靴音は、審判の旗の動きを促す。旗が横に振られ、演習は停止した。体育館の上の梁に溜まっていた粉が、光の帯の中で一斉に落ちた。落ちる粒のひとつひとつに、髪の毛ほどの細い線が通っている気がした。線は震えている。震えは拍に似ている。拍は、終わりと始まりの境目に似ている。
静寂。呼吸の音。誰かの笑い。誰かの舌打ち。A席の司令塔は眼鏡を押し上げ、レンの方を一瞬だけ見た。その目は冷たい。冷たさは正確だ。正確な目は、人の揺れを見逃さない。
観覧席の上段で、新城カイが組んだ腕を解き、何かを言いかけて口を閉じた。セラは息を止めていたらしい。息を解く音が、ほんの短い欠伸に似て響いた。
「終了」
審判の声。体育館の隅から、誰かが拍手を始める。拍手は、すぐに広がらない。ためらいを挟んで、少しずつ増える。増えるにつれて、ユウトの手の震えが遅れてやってくる。震えは細かく、持続する。持続する震えは、仕事を終えた身体のものだ。
レンはユウトに歩み寄った。ユウトは自分の手の震えに気づいて、少し恥ずかしそうに笑った。
「俺の手、震えてる」
「震えは、拍の残り香だよ」
「俺が、主役で……いいのか?」
ユウトは言った。言葉は軽く、重かった。軽さは空に浮き、重さは足元に落ちる。浮いたものと落ちたものの間に、薄い糸が張る。糸は人を結ぶ。
レンは笑った。目の奥は静かだ。静かだから、怖くないわけではない。怖いから、静かにしている。
「主役は結果で決まる。今日は君」
短い言葉が、ユウトの胸に入ってくる。入った言葉は、そこに席を作る。席に座るまでには少し時間がかかる。時間の間、ユウトはうなずいた。うなずくたびに、震えは小さくなった。小さくなった震えは、指の腹に移っていく。指の腹に移った震えは、次の拍になる。
◇
練習後、零席は体育館の片隅で円になって座った。床は冷たく、背中に広がる。広がる冷たさは、少しだけ心地よい。心地よいものは、危険だ。レンはその心地よさから半歩ずれて座り、ノートを開いた。鉛筆の先で、今日の線路を書き直す。継ぎ目の位置。遅延の厚み。緩衝の角度。増幅の坂。同期の駅名。
ツムギはユウトの横で、魔術式プレートを外して手首を揉んでいる。プレートの金具の跡が薄く赤い。赤い跡は、名残だ。名残は証拠だ。証拠は、次に進むための階段だ。
「御影、今日の前に出たときの気持ちを、言葉にして」
レンは問う。問うことは、線を可視化する。
「怖い。楽しい。怖い。楽しい。……両方ある。前に出ると、敵の目が僕の顔に張りつく感じがして、息が詰まりそうになった。詰まった息を、誰かが指で押し広げるみたいに拍が入ってきて、歩けた」
「誰か」
「わからない。ツムギかもしれないし、レンかもしれないし、体育館の床かも」
「床は、よく支える」
レンは笑った。それは慰めではない。事実だ。床は、よく支える。支えるものの名前を、今日はもう一つ加えなければならない。御影ユウト。支援。舞台監督。線路。前に出る壁。攻撃する壁。
「A席の司令塔、崩れなかった」
矢の子が言った。彼女の声は、震えの抜けた矢のように乾いていた。
「崩れないよ。正しいから。正しいものは、折れにくい。でも、曲がる」
「今日は、曲がった」
「曲がり始めた。曲がり始めたものは、次に折れる可能性がある。折る必要があるなら、折る」
乱暴者が鼻を鳴らした。鼻の鳴る音は小さく、しかし鋭い。鋭い音は、合図に向く。
「俺ら、折るんだな」
「折るよ」
レンは淡々と言う。淡々とした声は、怖い。怖い声は、計画を進める。
「補助が主役になる日」
ツムギがぽつりと繰り返した。繰り返された言葉は、睫毛に乗って、しばらくそこにいた。彼女はユウトを見た。ユウトは視線を受け取り、目を逸らさなかった。逸らさない目は、壁になる。壁は、仲間の居場所になる。
「今日は君」
レンはもう一度、言った。違う拍で。三。二。二。三。さっきとは別のタイミングで、別の角度で。言葉は同じでも、拍が違えば、別物になる。別物は、力を持つ。
◇
夕方、窓の外の旗がまた鳴った。金具が擦れる音。黒板の裏のひっかき傷の音。体育館に黒板はない。それでも音は、どこからかついてくる。音は、目に見えない襟を揺らす。揺れる襟の持ち主は、顔がない。顔がないのに、こちらを見ている。見られていることに慣れるのは、良くない。良くないが、使える。使えるものは、使う。
レンはノートの最後のページに、細く書いた。
「御影ユウト。支援=舞台監督。前に出る壁。線路。失敗の先回り」
書き終えた鉛筆の芯が、わずかに折れた。折れた芯は粉になって、ノートの隅に落ちる。落ちた粉を指で集めると、黒板の粉と同じ匂いがした。匂いは、記憶の線を引く。
「帰ろう」
レンが言うと、零席はゆっくりと立ち上がった。床に手をついて立ち上がった乱暴者の指の跡が、板の上に薄く残る。残った跡は、すぐに消えそうで、でも消えない。消えないうちに、誰かが次の一歩をそこに置く。
体育館の扉の前で、ユウトが立ち止まった。手の震えは、もうほとんどない。代わりに、心臓の拍が強く鳴っている。鳴る拍は、顔に出ない。出ない拍は、内側で線になる。線は、次の道になる。
「レン」
「うん」
「俺、明日も前に出る」
「もちろん」
「明日、主役じゃなくてもいい。でも、前に出る」
「前に出ることは、主役の前提じゃない。主役の結果だ」
ユウトは笑った。笑いは薄く、床に落ちた粉をひと粒だけ浮かせた。浮いた粉は風に乗って、窓の方へ漂う。漂う粉の向こうで、ガラスに映る体育館の像の中の襟が、わずかに傾いた。傾きに拍はない。拍がないものは、怖い。怖いものは、名前が必要だ。
扉が開く。夜の空気が、体育館の匂いを押し出す。押し出された匂いは廊下に広がり、曲がり角へ流れる。曲がり角には、今日は誰もいない。誰もいないのに、足音が一つ分だけ多く聞こえる。レンは振り返らない。振り返らないことは、時に礼儀だ。礼儀は、拍の一種だ。
◇
寮に戻る前、レンはひとり教室に寄った。黒板の前に立つと、昼間の演習の残り香がまだ漂っていた。粉の匂い。汗の匂い。恐怖の匂い。恐怖は匂いがある。鉄と、古い紙と、濡れた布の匂い。匂いは、名前を欲しがる。
レンはチョークを手に取り、黒板に一行だけ書いた。
「補助が主役になる日」
書いた線は、細く震えた。震えは、拍に似ている。拍を聞きながら、レンは目を閉じた。目を閉じると、黒板の裏のひっかき音がよく聞こえる。誰かがそこで笑い、爪を立て、何かを待っている。何を。答えは、まだ先だ。
チョークを置くと、粉が指に残った。指先をこすり合わせると、粉は落ちず、むしろ増える気がする。増えた粉の粒ひとつぶひとつぶに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、設計はできる。設計ができれば、次の主役の席は、もう用意できる。
翌朝、体育館の扉が開く。ユウトは自分から先に中へ入った。前に出る。前に出る姿勢は、誰かの拍を整える。ツムギはその背中を見て笑い、基礎層の薄い布を足元に敷いた。無色の布は、踏まれても破れない。破れないのは、厚いからではない。順番があるからだ。
レンは二人の後ろで、ボードを立てる。白い線を一本、斜めに引く。床でも壁でもない傾き。そこから立ち上がれる傾き。傾きに、拍が入る。三。二。二。三。
補助が主役になる日。名づけられたその日は、静かに始まり、静かに怖く、静かに進む。怖さは目を閉じない。こちらも目を閉じない。目を開けたまま、次の線を引く。線は、前へ。前へ。前へ。
主役は結果で決まる。今日は君。明日は、誰。どちらでもいい。線路は、もう敷かれている。敷かれた線の上で、誰も転ばないように。転びそうになった足の先に、拍を一つ置いてやるために。支援の壁は前に出て、攻撃の角をひそかに用意して、見えない観客に背を向けたまま、舞台を回す。
舞台の上で、粉がまた光る。光は無色。無色のままで、怖いほど綺麗だ。
第4話 査定試験と序列の穴
朝、学園の中庭に仮設の白いテントがいくつも立った。テントの壁は薄く、指で触れると向こう側の影が揺れる。影は数字の形をしていた。大きな数字、小さな数字、端が欠けた数字。数字は名前より前に置かれるらしい。受付の札にも、壁の掲示にも、教師の声にも、まず数が来る。数が人を先に歩かせ、人の後ろを名前が追いかけている。追いつく日は、来るだろうか。
査定試験の日だった。
レンは零席の面々を中庭の隅に集め、折りたたみの戦術ボードではなく、薄い透明の板を手にしていた。板は窓ガラスの切れ端のようで、端がわずかに白い。指を滑らせると、静かに冷えを返す。
「ルールの説明は聞いた通り」
レンの声は小さく、でもよく通った。
「各自、規定の術式で“瞬間最大火力”を計測。判定は、魔力測定柱のフレーム内で出た最大値。爆ぜても、枠外で光っても、採点は入らない。逆にいえば、枠内に落とせばいい」
「落とす?」
矢の子が首をかしげる。黒髪が肩で揺れて、光が一瞬だけ跳ねる。
「瞬間火力は“瞬間”でしかない。なら、瞬間を重ねればいい。継ぎ目に遅延を入れて、時間を束ねる。合成遅延。拍でまとめて、採点フレームの中にたたき込む」
レンは透明の板に指で四角を描き、四角の中に短い棒をいくつも立てた。棒の頭を線で繋ぐ。棒はどれも背が低い。つないだ線は、四角の上ぎりぎりに沿って波打つ。
「一つ一つは低くても、束ねれば縁を越える。縁の内側で越える。縁の外は、無意味。内側で最大を作る。それだけだよ」
「それ、ズルくない?」
乱暴者が腕を組んだ。目だけは楽しそうに光っている。どこかで喧嘩の匂いを嗅いでいるのだろう。喧嘩の匂いは、いつも少し鉄っぽい。
「ズルいかどうかは、ルールが決める」
レンは肩をすくめた。
「ルールが決めていないなら、設計が決める。今日の審判は数字だ。数字は、怖いくらい正直だ。正直なものは、たまに残酷だ」
ツムギはその言葉を聞きながら、自分の手首の魔術式プレートに触れた。冷たさは、昨日より薄い。皮膚の下に、薄い板が重なっているような感覚がする。板は基礎層。そこに、同期。遅延。増幅。緩衝。順番は、昨日までの練習で、指の腹に書き込まれている。
「基礎層は、見えない布」
レンは言った。
「布の上で、拍を転がす。御影、声」
「三。二。二。三」
御影ユウトの低い声が、中庭の白い光の中に沈んでいく。声は土に吸われる。吸われた声は、足の裏に戻ってくる。戻ってきた拍は、骨の上を歩く。
魔力測定柱は、テントの中央に立っていた。透明な筒に薄い目盛りが刻まれ、側面に黒い枠が描かれている。その枠の中でのみ、数値が採点される。枠の外側はただの光。枠の中は評価。枠は、怖い。枠の縁は紙の端に似ていて、指を切る。血は見せるためにこそ鮮やかだ。
「次、A席」
教師の声が響く。A席の少年が一歩出る。指先から白い炎が立ち、枠の中で弾ける。目盛りが一瞬だけ跳ね、数字が上がった。観客が小さくどよめく。
「出た。百三十二」
「さすが代表候補」
「やっぱ瞬間だよな」
数字は人を動かす。動かされた人は、誰かを押す。押された誰かは、枠から落ちる。
「零席は後半ブロックだから、準備に時間がある」
御影が小声で言った。レンはうなずき、透明の板の四角の上に、さらに薄い線を加えた。線は、見えるか見えないかのぎりぎり。見えるものと見えないものの間に、設計は宿る。
「合図は、僕が」
御影が言う。ツムギはうなずく。喉の奥が少し乾く。乾くのは、ちゃんと怖い証拠だ。怖いとき、名前は役に立つ。無属性は基礎層。基礎層は、床。床は、沈まない。
◇
昼近く、零席の番が来た。中庭の温度は上がり、テントの布がわずかに膨らんだ。風が布の内側を撫で、粉の匂いがする。黒板はないのに、粉がある。粉の粒には、細い配線が走っている。そんな気がした。
「零席、雛森ツムギ」
呼ばれた名前に、いくつかの笑いが混じった。「爆発の子ね」「片付け係、用意」軽い声。軽い声は、足元を滑らせる。滑った足元に、拍を置く。
ツムギは測定柱の前に立ち、御影の声を待つ。三。二。二。三。拍を胸に入れて、吐く。基礎層の布が足元から薄く立ち上がり、枠の内側に合わせて伸びた。枠の縁に沿って、見えないフチができる。フチは引っかけるためにある。そこに、遅延の石を並べる。石は小さい。小さいほうが効く。
「同期、いま。遅延、一。増幅、微。緩衝、半分」
レンの声は届かない。届かないが、床に落ちる。床を伝って、ツムギの踵に触れる。
ツムギの指先から、無色の光が出た。光は光っていない。けれど、枠の中の空気が薄く厚くなり、目盛りの下で何かが動いた。ほんの少し。小指の爪ほど。観客の笑いが途切れ、代わりに短い沈黙が落ちる。沈黙は、合図だ。
「重ねる」
御影の声が落ちる。三。二。二。三。ツムギの呼吸が角を丸く折り、遅延の石の上で跳ね、増幅の坂を滑り、緩衝の布で戻る。戻った波はフチで集められ、また出る。小さな棒が、目盛りの中でピピピ、と刻むように伸びた。伸びるたび、枠の内側で最大が更新される。棒の背はまだ低い。だが、数は正直だ。正直な数は、重なれば大きくなる。
「最後」
レンの指が見えない場所で四角の角を叩いた。叩かれた角は、拍を返す。三。二。二。三。御影が半歩前に出て、顔で受ける。観客の視線が、彼の顔に引っかかる。引っかかりが、遅延になる。遅延が、ツムギの布に集まる。集まったものが、枠の内側で、同時に跳ねる。
測定柱の目盛りが、細く、しかし確かに上がった。枠の黒い縁の中で、最大値がはねる。白い針が、ひとつ分だけ高い段に止まった。教師の持つ板に数字が写され、筆が進む。
「百十八」
ざわめきが走る。さっきA席が叩き出した数より低いが、零席の基礎ステータスから考えれば、ありえない高さだ。何より、枠の内側の“狙い撃ち”が異常だった。揺れず、外れず、重ねてくる。
教師の一人が手を挙げた。
「いまの、術式の種類は」
「規定の範囲です」
試験官が淡々と答える。範囲内。範囲内なら、文句は言えない。文句にできない不気味さだけが、枠の内側に留まる。
「次、御影ユウト」
御影は前に出た。支援の術で測定柱にわざわざ挑む者はいない。支援は数字になりにくい。なりにくいものは、ゼロに近づけられる。ゼロに近いものは、無視される。
御影は掌を枠の内側へと差し出し、視線を上に向けた。顔で受ける。観客の視線が、また引っかかる。遅延が生まれる。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
「支援の壁、角を立てて」
レンの言葉は、やはり届かない。届かないが、御影の肩甲骨の間に落ちる。彼は角を立てた。味方が打つ仮想の火力の“拍”を、枠の内に押し込む角。角が押すと、見えない棒が一瞬だけ背を伸ばす。支援は攻撃にならない。けれど、攻撃の枠を作る。枠の中に押し込まれた棒は、支援の手触りを覚える。
目盛りが、また少し上がった。百二十四。数字は小さくない。支援でこの値は、制度の想定外だった。教師の筆が止まる。止まる筆は、音を立てないのに、耳に刺さる。
「零席、合計値で上位に入ってるぞ」
「どういう仕掛けだ」
「フレームの穴を使ってる」
「穴?」
「採点は“枠内最大”。最大の定義を、向こうがずらしてる」
最大の定義をずらす。言葉は簡単だが、やっていることは脳の奥が少し寒くなる種類の行為だった。最大は、普通は一度しかない。だが枠の縁に重ねられた拍が、最大を“揺れない帯”に変える。その帯の中で、一番高い段は、静かに、しかし確かに引き上げられる。
零席の他の面々も、同じ要領で枠の中を叩いた。乱暴者は角を踏み、矢の子は震えを同期させ、癒し手は遅延の先行流しで戻りの反動を殺す。誰の一撃も、個別にはA席の華やかさに遠く及ばない。だが、枠の内側だけを狙って繰り返す繰り返す繰り返す。重ねた拍は、低い段を段ごと押し上げる。
教師陣は、顔を見合わせる。誰も「不正だ」とは言わなかった。言えないからだ。ルールに書かれていない。ルールに書かれていないことは、世界からはみ出していない。世界の端は、書かれた紙の端のほうが鋭い。
「零席、総合暫定二位」
冷たい声がテントの中に響いた。数字が貼り出され、人の目がそちらに吸い寄せられる。目に吸われた人の体は軽く傾く。傾きに、粉が滑る。粉の粒に、細い配線が走る。気のせいだとしても、気のせいではなかった。
◇
試験が終わったあと、学園長・神垣は校舎裏の薄暗い通用口から外に出て、通信の水晶を掌に載せた。水晶の中で、濁った光がひとつだけ震える。震えは拍ではない。拍がない震えは、不吉だ。
「こちら、神垣」
声は低く抑えられている。抑えられた声は、落ち着きではなく、深い警戒だ。
『受信。《方舟》運営局』
耳に馴染まない金属の音。遠くで黒板をひっかく音と重なる。重なった音は、背中の皮膚を薄く撫でていく。
「学生に“設計工学”を使う者が出た。名はレン。零席所属」
『設計工学……学生が?』
「偶然ではない。枠を読み、縁を縫い、定義をずらす。危険だ。逸脱者は切る。あなた方の規約にも、近い条文があるはずだ」
『逸脱者……切除対象の定義は』
「影響範囲。速度。再現性」
神垣は短く答え、空を見上げた。冬の旗が遠くで鳴っている。旗の金具の擦れる音が、通信の音と混ざり、やがて一つの細い糸になる。糸は冷たい。
『資料の送付を。次の“航路選定”までに判断を』
「急ぐ」
水晶の光が消えた。消えた瞬間、神垣の指先に粉が一粒落ちた。粉はどこから来る。黒板はここにはないのに。粉は白く、触るとすぐに消えた。
「設計は、気持ちが良すぎる」
神垣は目を閉じ、独り言のように言った。目を閉じると、裏側で誰かが笑った気がした。笑いは、名前がない。名前のない笑いは、気味が悪い。
◇
その夜、A席の宿舎では小さな祝勝会が開かれていた。総合暫定一位。代表推薦はほぼ確実。テーブルには光るグラスと、乾いた菓子。笑い声は軽く、すぐに消えて、また繰り返された。繰り返す笑いは、拍を持たない。拍がない笑いは、耳に残らない。
新城カイは窓辺に立ち、外を見ていた。窓ガラスには薄い自分の輪郭が映る。輪郭の肩の向こうに、誰かが覗いている気がする。襟だけが揺れている。顔はない。夜風はないのに。ガラスの中の誰かは、まばたきをしない。まばたきしない視線は、胸の奥の何かをひとつずつ冷やす。
「かんぱい」
誰かが言って、グラスが軽く触れ合う音がした。音は歯の裏に似て響いた。カイはグラスを持ち上げ、口を湿らせる程度に口をつけただけで、目線を動かさなかった。視線の先で、セラが座っていた。彼女はいつも通り、目に光を落として、静かに笑っている。静かな笑いは、拍がある。拍がある笑いは、怖くない。怖くないのに、今日は怖い。
「カイ」
隣の誰かが声をかけた。カイはわずかに顔を向け、笑顔を貼り付ける。貼り付ける笑いは、筋肉が勝手にやってくれる。便利だ。危険だ。便利と危険は、たいてい同じ線の両端にある。
「代表の話、正式に来たらどうする?」
「受けるよ」
「だよな」
「当たり前だ」
言葉は軽い。軽くした。軽くしたほうが、落ちるときに痛くない。痛みは、あとでまとめて来る。
「ねえ」
セラが言った。声は非常に小さかった。小さいのに、全員が聞こえた。全員が聞こえたふりをしなかった。
「レンの、設計。学びたいなって、少し思った」
音が消えた。部屋から、空気から、壁から、粉から、音が抜け落ちた。抜けたあとに残る薄い穴の縁が、鋭くなる。そこに指を置くと切れるだろうな、と誰もが同時に想像した。
カイは笑った。笑いはいつも通り、筋肉がやってくれる。音は出る。音はたぶん自然だ。自然な音の表面には、薄い冷たさが浮かぶ。浮かんだ冷たさは、目の奥で裂け目になって、そこから何かが顔を出す。顔はない。襟だけが揺れている。
「遊びだよ」
カイは言った。軽く。軽い刃のように。
「今日、零席がやったのは。遊び。審査の穴を使っただけ。現場じゃ意味がない」
「そう、かもしれない」
セラはうつむいた。うつむいた首筋に、細い影が落ちる。影は数字の形に見えた。数は、もともと影なのかもしれない。光の当たらないところに、跡だけ残る。
「でも、綺麗だった」
彼女は続けた。カイの胸に何かが強く触れた。薄いガラスを爪で弾いたような、乾いた鋭い音。胸の中のどこかに置いてあったグラスが、ひとりでに倒れて、床に落ちる。落ちた音は部屋では鳴らず、胸の内側でだけ鳴った。割れた破片の形は見えない。見えないのに、血の匂いだけがした。
「綺麗は、危ない」
カイは笑いながら言った。笑いはうまく出る。中身は、少し遅れてやってきた。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。束ねてしまえば、ほどけにくい。
祝勝会は、何事もなく終わったふりをした。ふりは便利だ。便利なものは、後で請求書が来る。来るときは、たいてい夜だ。夜は、顔がない。襟だけが揺れる。
◇
その頃、零席の教室は暗かった。窓の外の旗がかすかに鳴り、黒板の前の空気が冷える。レンはひとり、黒板に向かってチョークを握っていた。指に粉がつく。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、設計は進む。
黒板に四角を描く。四角の内側に、棒を立てる。棒の頭を線で繋ぐ。線は枠の上に沿って、揺れずに走る。走る線の音が、チョークの先から耳に入る。キ、とか、シ、とか、名前のない音。名前のない音は、怖い。
「枠内最大」
レンは小さく声に出した。言葉を口にすると、空気が固まる。固まった空気の縁に、ひっかき傷ができる。黒板の裏から、誰かが掻いたような音がした。ひっかく指は細長く、爪だけが白い。顔はない。襟だけが揺れている。
「設計工学」
声にしたとたん、胸の中で誰かが笑った。笑いは、先ほど神垣の通信で聞こえた金属の音と同じ調子だった。遠くで旗が鳴る。旗の金具が擦れ、一拍空けて、粉が床に落ちる。
レンはチョークを置き、ノートを開いた。今日の数値。拍の配置。遅延の角度。緩衝の厚み。増幅の坂道。すべてに、薄い疑いが重なる。疑いは、壊すためではない。守るためだ。守るためにこそ、疑わなければならない。
「逸脱者」
その言葉を頭の中で組み立ててみる。組み立てると、形が出る。形が出ると、壊せる。壊せるなら、置き場所を変えられる。置き場所を変えれば、化ける。
扉の外で、足音がした。御影の足音だ。ゆっくりで、拍がある。三。二。二。三。レンは顔を上げ、笑った。笑いは薄く、粉をひと粒だけ宙に浮かせた。
「今日の結果、見た?」
「見ました。数字は噓をつかない。……その分、怖い」
「怖いときは、名前をつける」
レンは黒板に、新しい行を書いた。
「数値信仰の穴」
書いた瞬間、ひっかき音が一度だけ強くなり、すぐに消えた。消えたあとに残る匂いは、金属と、冷たい水と、濡れた布。匂いは、記憶を結ぶ。
ツムギが遅れて入ってきた。手首のプレートは外してある。皮膚の赤い跡はまだある。彼女はそれをかばうふりもせず、黒板を見上げた。目が、怖くて、強かった。
「ねえ、レンくん」
「うん」
「これ、続けられる?」
「続けるよ」
「怒られる?」
「怒らせておけばいい。怒りは注目だ」
「注目のあとに、切る、が来る」
「切らせない」
レンは淡々と言った。淡々とした声は、怖い。怖い声は、進む。
「今日、私、うれしかった」
ツムギが言った。言葉は短い。
「数字が、私のことを、嘘つかなかったから」
「数字は、見たものだけを言う」
「見せたのは、レンくんたち」
「見せたのは、君だよ」
彼女は笑った。笑いは床を厚くする。床が厚くなると、天井が少し高く見える。高く見えると、首が上がる。首が上がると、呼吸がしやすい。呼吸がしやすいと、怖さを飲み込める。
「明日から、序列が動く」
御影が言った。声は落ち着いているが、指先にわずかに震えが残っている。震えは拍の残り香だ。
「動くよ」
レンはうなずいた。
「序列は枠だ。枠に穴があれば、そこから水が入ってくる。水が満ちれば、床が浮く。浮いた床でも、立てるようにする」
「どうやって?」
「拍で。拍は、穴にも使える」
窓のガラスに、教室の像が映った。黒板の前に立つ自分の肩越しに、誰かが覗く。顔はない。襟だけが、音のない風に揺れている。見られている。見られていることに慣れてはいけない。慣れそうになるたび、拍を数える。三。二。二。三。拍は、怖さを薄める。怖さを薄めた上で、次の線を引く。
レンはチョークを取り、最後の行を書いた。
「最強は、枠の外で決めない」
粉が落ちる。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、たぶん、十分だ。
◇
夜更け、A席の棟では灯りが落ちた。廊下に残った薄い光の帯の中で、新城カイはひとり立ち尽くしていた。胸の内側に、夕方の割れる音がまだ残っている。グラスが割れたわけではない。割れたのは、見えない何かの表面だ。表面が割れると、中身が空気に触れる。触れた部分から、冷える。
セラの言葉が、耳の裏で繰り返される。
綺麗。
その二文字に、刃がある。刃は細く、薄く、どこにでも通る。通らない場所は、基礎層の奥だ。床のもっと下。梁のさらに下。そこを削る刃は、滅多にない。あの二文字には、削る力があった。
カイは目を閉じた。暗闇の表面に、薄い線が浮かぶ。線は数字の形に似ている。数字は、怖い。怖さは、便利だ。便利なものは、たいてい、遅れて請求が来る。来るだろう。彼は笑った。笑いは、筋肉がやってくれる。筋肉は、彼を守らない。守るのは、別のものだ。別の場所に、別の線だ。
「遊び、ね」
口の中で転がす。転がる言葉は、刃を鈍らせるか、逆に研ぐか。どちらに転ぶかは、拍次第だ。拍は、もはや彼の掌にはない。他の誰かの掌にある。レンの。零席の。あるいは、見えない襟の持ち主の。
旗が鳴る。遠くで、金具が擦れる。黒板の裏の音が、別の建物にまでついてくる。音に拍がある。三。二。二。三。カイはその拍に呼吸を合わせ、胸の奥の割れ目に、薄い蓋をした。蓋の上に、数字を置く。数字は重い。重いものは、蓋になる。
◇
翌朝。掲示板に新しい紙が貼られ、序列が動いた。零席の数字が上へ滑る。滑る過程で、紙の端がめくれ、下の層のインクが光る。光は無色だ。無色のまま、怖いほど綺麗だ。
掲示を見上げる人だかりの中で、誰かが囁いた。
「枠の中で勝っただけだ」
別の誰かが否定する。
「枠の中で勝てないと、枠の外にも出られない」
声は交わり、絡み、やがて拍になる。拍は、誰にでも配れる。配られた拍は、誰の胸にも入る。入った拍は、線になる。線は、次の道になる。
零席の前に、今日も黒板があり、粉があり、怖さがあった。レンは指で板を叩く。三。二。二。三。拍が合う。合った拍の上に線を引く。線の先に穴がある。穴は、枠の内側だ。内側で勝つ。内側で勝ちながら、外側の形を変える。変えること自体が、設計の怖さだ。
「授業の前に、一回」
レンが言うと、全員が立った。ツムギは基礎層を敷き、御影は前に出て、壁に角を作る。乱暴者は足を踏み、矢の子は震えを二つに割る。癒し手は先に流す。誰も転ばない。誰も、まだ。
黒板の裏のひっかき音が、今日はいくらか遠い。遠い音は、油断を招く。油断は、穴になる。穴は、枠の外だ。
レンは目を閉じた。閉じた目の裏で、見えない襟が揺れる。揺れに拍はない。拍がないものには、名前が必要だ。名づけは力だ。名づけるまで、怖さを手放さない。
名づける用意をしながら、レンは粉のついた指で新しい線を引いた。線は薄く、しかし消えない。消えないうちに、次の一手を置く。
「最強を設計し直す」
誰にも聞こえない声で呟く。呟きは床に落ち、そこで拍になる。三。二。二。三。
序列の穴は、今日も口を開けている。開いた口の縁は鋭い。それでも、そこへ足をかける。怖いから、拍を置く。拍を置きながら、進む。進むたび、粉は落ちる。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、十分だ。そう自分に言い聞かせながら、レンはチョークを握り直した。
勇者候補パーティの控え室は、真昼なのに夜のように暗かった。
レンは、静かに立っていた。
壁際に寄りかかる三人の仲間が、彼を見ている。目に情けの欠片はなかった。
「悪いな、レン。お前は“器用貧乏”なんだ」
そう言ったのはリーダーの新城カイだった。
整った顔立ち、いつも通りの笑顔。だけど、その笑顔は今日はどこか冷たかった。
「……器用貧乏、ね」
レンは笑わなかった。
それが何を意味するか、彼自身が一番よくわかっていた。万能すぎる。突出しない。誰の代わりにもなれる。だから、誰にも必要とされない。
「次の試験、S席のメンバーで挑む。お前はここまでだ」
机の上に、紙が一枚置かれていた。
手書きの数字が並んでいる。
それは“適正値”。勇者候補全員の、魔術、剣術、支援、知覚、耐性――それぞれの資質を数値化したもの。
だがレンの目には、それが違う形で見えた。
紙の上に、淡い光が浮かび上がる。
数字が立体化し、複雑に絡み合う。
配線、回路、交差点。
それは「人間の設計図」だった。
(なんだ、これ……)
息を呑む。
カイの背後に立つ魔法使いの少女・エマの適正図には、光の層がねじれていた。攻撃特化型の制御線が、補助経路に干渉している。
剣士のラインが、魔術回路に侵食していた。
その構造が、音もなくレンの脳裏に焼きつく。
「最後の記録だ。これ、お前にやるよ」
カイが、紙を放った。
床に落ちる。レンは拾い上げた。
それが、彼にとって“唯一の贈り物”だった。
扉が閉まる音は、何かを終わらせる鐘の音のようだった。
レンは誰にも気づかれないまま、笑った。
ゆっくりと、静かに。
自分の頭の中に“設計”が流れ込む感覚が、怖いほど心地よかった。
***
入学式当日。
学園の掲示板前には人だかりができていた。
「おい、見ろよ、“第零席”だってさ」
「落ちこぼれクラス? こんな名前、聞いたことねぇぞ」
ざわめく声の中、レンは掲示を見上げた。
自分の名前の横には、確かにそう書かれている。
“第零席 レン・カサハラ”
ほとんどの生徒は笑っていた。だがレンは笑わなかった。
むしろ、胸の奥で何かが静かに鳴った。
鐘の音。
いや、始まりの信号のようなものだった。
(零。何もない。だから、すべてを組める)
教室の扉を開けると、薄暗い室内。
窓際で爆ぜる小さな火花。
机の下で悲鳴を押し殺す少女がいた。
「ひゃ……! また爆発したっ」
黒髪をおさえ、涙目で机から顔を出した少女――雛森ツムギ。
魔力制御ができず、無属性として扱われる“欠陥魔術師”だと聞いた。
だが、レンの目には見えた。
彼女の魔力配線図。無数の線が、全方向に枝分かれしながら、中心に一つの光を集めている。
その中心の光――“核”は、異常なほど純粋だった。
(……これ、ただの無属性じゃない)
レンは思わず息を呑んだ。
ツムギの視界には見えない“基板”が、彼にだけ立体的に視えている。
「あなたが……レンくん? 今日から同じクラスなんだよね」
「うん。雛森ツムギ。魔術は……爆ぜやすい、って聞いた」
「……ごめんなさい」
その小さな声は、まるで壊れ物のように震えていた。
彼女の瞳に映るレンの姿も、きっと同じだっただろう。
壊れかけの何か。
***
放課後。
誰もいない教室に、もう一人の少年が残っていた。
御影ユウト。
補助魔術専門。攻撃も防御も苦手。授業ではいつも“誰かの影”に隠れている。
「……お前も残ってたのか」
「ええ。今日も失敗ばかりで、居残り練習です」
ユウトはノートを閉じ、苦笑した。
だがレンは、そのページを覗き込んで、息をのんだ。
魔術式の構造が、極めて緻密だった。
手書きの符号が回路として視える。だが、配線が一部逆になっている。
それだけで、力が伝わらない。
(これ、もし正しく繋げば……)
「御影。君の補助魔術、少し見せてくれない?」
「え? 別に、すごくもないですよ」
「いや、すごい。俺には“見える”」
レンは黒板にチョークを走らせた。
“回路の設計図”。
光の線が、彼の筆跡に合わせて浮かび上がる。
ユウトとツムギは目を見開いた。
「……これが、君たちの“才能”の正しい形だ」
「え、でも……私は無属性で」
「無属性じゃない。君は“基板”だ。何でも通せる。すべての魔術の土台になれる」
教室が一瞬、静まった。
次の瞬間、レンの胸の奥に“異音”が走った。
脳裏に響く。
金属が軋むような音。
誰かが、内側から笑っている。
(設計図、だと? お前は“人間”を組み替える気か)
――誰の声だ?
レンは息を詰めた。
脳内の設計回路が、かすかに歪んだ。
視界の端で、誰かが立っている気がした。
だが振り返っても、そこには誰もいなかった。
黒板の線が、耳鳴りのように震えて見える。チョークで引いたはずの白が、ひと呼吸ごとに薄い脈動を打つ。線はただの線ではなく、筋肉のように伸び縮みし、見えない血が通っている。そんな錯覚が、レンの指先に冷たい汗を浮かばせた。
その汗の粒の中にも、細く細く配線が走っている。そんな気がした。
「基板……って、私が?」雛森ツムギはまだ机の下から半分だけ顔を出している。恐る恐る、けれど興味を抑えきれない目だ。
「そう。君は色がないんじゃない。色を選ばない。何でも通せる。……だから混ざれば爆ぜる。順序がないから」
「順序……」
「順序は俺が描く。御影、君は前に出る」
「僕が?」御影ユウトは言葉の音だけでしり込みした。「補助は後ろですよ。遠ざかる役目だって、ずっと……」
「遠ざかるのは、責任だ。君はその責任を、ずっと背負ってきた。その背中ごと前へ運べばいい」
そのとき、教室の蛍光灯が一度だけ瞬いた。配電盤の経年劣化だ、と誰かは言うだろう。だがレンは知っていた。灯りの内部にも、細い設計があり、ゆるむ瞬間がある。世界はいつだってほどけかけだ。だから、繋ぎ直せる。
「……怖くないの?」ツムギが聞く。声はあまりにも素直で、だからこそよく通る。
「怖いよ」
レンは笑っていないのに、笑っているような口調だった。
「怖いから設計する。怖くなければ、たぶん俺は描けない」
また、脳の底で金属が擦れる音がした。誰かが黒い爪で、透明な板をひっかいている。傷は目に見えないけれど、確かにそこに刻まれる。
(組み替えろ。もっとだ。骨も、筋も、心も)
耳元で囁く気配に目だけを向ける。視界の端。黒板の外側。窓ガラスの外に映る教室の像。その像のなかで、誰かが立っていた。制服の襟だけが、波のように揺れている。顔はない。ただ、空白の輪郭が、チョークの粉を吸い寄せているようだった。
レンは目を閉じ、深く息を吸う。鼻腔に広がるチョークの粉の匂いは、乾いた土の匂いに似ている。墓地の、雨上がりの匂い。湿気と石と、わずかな鉄の味。
「明日、模擬試合」
レンは黒板に、日付と時間を書いた。白い音が鳴る。
「俺たちは見世物になる。誰も、俺たちが勝つと思っていない。笑うための観客席は、もう組まれている」
「だったら」ユウトは口の中で言葉を噛み砕き、飲み込み、それでも続けた。「勝ち筋は、どこに?」
「ここだよ」
レンは、黒板の左下。小さく×と記した。目立たない印だ。だが黒板の裏側で、太い線が集まりはじめる。あくまで、レンの目にだけだが。
「遅延起動を束ねる。術式は一斉ではなく、ズレで繋ぐ。御影は前に出て、相手の視線と術式の時計を乱し、ツムギは基板として全員を同期させる。残りは……」
彼は第零席の名簿をめくった。問題児たちの、笑えないあだ名が並ぶ。投げやりな乱暴者。緊張すると矢が震える射手。回復速度だけが世界一遅い癒し手。彼らの数字が、紙のうえで立ち上がる。薄い糸が、蜘蛛の死骸の脚のように、ふるふると震えている。
震えは欠陥じゃない。振動は、束ねれば音になる。音は、合図になる。
「君は関節をずらす癖があるね」レンは乱暴者と言われる男子の肩を軽く押し、肘の角度を直す。
「は?」
「矢は肘の震えが素直で、むしろ正確だ」射手の女子生徒には、震えを止めろとは言わず、震えと同じ周期で息を吐かせる。
「遅い回復は、遅いだけで止まらない。ならば先に流しておく」癒し手の掌に軽い紙片を置く。それは薄い、何の変哲もないメモ用紙。だがレンの視界では、それが治癒回路の予備配線に変わる。
どの顔にも恐れがあった。羞恥と、怒りと、諦めと。恐れは、正しい。恐れは、設計の最初の部品だ。
放課後の教室は、長い影を増やしていた。窓の外、運動場で別のクラスが声を張り上げ、笑い合う。第零席の教室に笑いはなかった。けれど沈黙は、形を持ちはじめていた。中心に集まる沈黙。そこに立つと、胸が静かに痛んだ。
「明日、ここに立て」
レンは黒板の中央、消えかけの白粉で円を描いた。円は一息ごとにいびつになり、やがて誰かの目の形に似てくる。見ているのは誰だ。窓の外の空白の輪郭か。それとも黒板の裏に貼りついた、手のひら大の影か。
「立って、息を合わせる。息の回数を決める。三。二。二。三。……不規則に。規則を壊す規則に慣れる」
それは、恐怖の準備体操だった。
◇
入学式の模擬試合は、式典会場の裏手にある円形闘技場で行われる。石の壁は冬の名残の冷たさを保ち、白い旗が風に鳴いた。旗が鳴るたび、レンの耳の奥で同じ音がした。金属のひっかき音。あれは誰だ。あれは、どこから来る。
第零席は、観客に背を向けるように立たされた。審判役の教師は「安全性は確保されている」とだけ言って、あとは見世物としての段取りを淡々と述べる。笑い声がさざめく。期待は嘲りの形を持つとき、いちばんよく響く。
「本当に、僕が前に?」御影ユウトがもう一度だけ確認してくる。声は震えてはいなかった。ただ、喉の奥に小さな痛みがあったのだろう。
「前に。前に出て、顔で受けろ。怖い顔でも、泣きそうな顔でもいい。顔は盾になる」
「顔が……盾」
「人間は、表情に引きずられる。君が怖がっていない顔で立っていると、相手は無駄に慎重になる。怖がっている顔で立っていると、相手は甘く見る。どちらも、選べる」
御影はうなずいた。選ぶことは、責任だ。彼は選んだ。
対戦相手のA席は、選抜のなかでもさらに選ばれた才の集まりだ。鮮やかな色のケープ、均一な足並み。笑顔には余裕が宿る。その余裕の中で、レンの眼は別のものを見る。ケープの裏地に縫い込まれた、こっそりとしたお守り。家の期待。小さな祈り。配線はそこにも走っている。誰もが、どこかで繋がれている。
「新城カイは?」
観客席の上段、ひときわ高い位置に、彼はいた。背筋を伸ばし、組んだ腕の上に顎を載せる癖。冷めた目の奥の、わずかな熱の波。レンはこちらを見た彼と一瞬だけ視線を交わした。何も言葉はない。けれど、急に喉が渇いた。
合図の鐘が、鳴る。
最初に動いたのはA席の魔術師だった。熾火を散らすような赤の紋を空中に描き、大口径の火球を詠唱する。王道。強い。丁寧。観客が沸く。第零席の半数はそれを見ただけで腰が引けた。ツムギの肩がびくりと上がる。だが彼女は逃げない。彼女は基板だ。逃げる基板は、ただの板だ。
「御影」
名前を呼ぶだけで、御影は一歩前に出た。足は震えない。震えの代わりに、肩甲骨が小さく上下する。呼吸の合図。三。二。二。三。黒板に描いたリズムが、胸の内側で鳴る。
御影の指先から、薄い膜が広がった。誰にも色は見えないが、レンの目には透明な回路図が展開していく。膜は盾ではない。遅延の層だ。火球が通り抜けるときに、ほんの刹那、進みを遅くする空気の布。たったそれだけのはずが、束ねれば意味を持つ。
「次」レンは横に目をやる。矢が震える少女が息を吐く。震えと同じ周期で吐く。吐くたび、矢羽が震えを飲み込む。彼女の矢は、火球には向かない。けれど火球の脇を通り、詠唱者の袖口の糸を断つ。ほどけた糸は、詠唱の形を乱す。乱れは強度を落とさない。ただ、時間をずらす。
乱暴者は、肩の関節を直された通りの角度で、地面を蹴った。蹴りは攻撃ではない。足元、石畳の継ぎ目を割る。破片が空に浮き、火球の下にひとまとめの影を作る。影の形は御影の膜の形と似ている。似た形は、重ねやすい。
ツムギは逃げない。逃げられない。彼女の両手は胸の前で合わされ、指のあいだから、何でもない光が漏れる。無属性の光。色を選ばない光。膜と影と、ほどけた糸と、関節の角度と。あらゆる線は、そこに通る。
遅延が重なった。火球の速度が乱れ、三。二。二。三。と目に見えない拍ごとに揺れる。揺れが最大になった瞬間、御影が一歩だけ踏み込み、肩を開いて、顔を上げる。観客席が一瞬ざわめきを止める。補助が、前に出た。顔が、盾になる。A席の詠唱者が思わず慎重になる。慎重は遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
「いまだ」
レンの声は低く、よく通った。ツムギが息を吸い、吐く。彼女の息は色を選ばない。膜と影と糸と角度が、一点に集まる。観客には何も見えない。ただ、火球が、そこで何かを落としたように重くなる。重くなった火は、地面には落ちない。落ちたのは、向こう側だ。詠唱者の膝の内側、小さな支え。そこに遅延の重みが移る。膝が笑う。ほんのわずかに。年老いた階段が軋むように。
御影が手を伸ばす。空を掴む。掴めるはずのない場所に、彼の手は一秒の輪郭を作る。輪郭は、時間の縁。縁が、めくれる。火球は受け流された。受け流された火は、受け流されたことに気づかない。目標を失った火は、細い道を探す。その道は、レンが黒板に描いた通りの、石畳の継ぎ目の先に注がれる。そこには、乱暴者の蹴りで生まれた、一点の窪み。
火が落ち、煙が上がる。煙はA席の視界を割る。割れ目から、矢が一本。終わりかけの震えを美しく使い切り、詠唱者の耳飾りに触れて、それを弾く。金属音が甲高く鳴った。甲高い音は、合図に向いている。
一斉に動いたのは、第零席だった。遅延を束ね、束ねた遅延を解き、波となって押し返す。合成魔術と呼ぶには、あまりに手触りが違う。丁寧ではない。乱暴で、粗雑で、だが、意味がある。意味の連鎖は、術式の名より強いことがある。
A席の盾役が慌てて前に出る。遅い。慎重は遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
石が鳴り、火が沈む。観客席に「え?」という声が走る。驚きは連鎖する。連鎖は音になる。音は、合図になる。
教師の裁定が下ったのは、次の瞬間だ。「一時中断」。安全確保。形式的な言葉。だが観客席の空気はもう、元のそれではない。静かなざわめき。疑問。焦り。誰かが笑いを飲み込んだ。笑いの代わりに、舌を噛んだ。
御影が振り返る。目は怯えていない。額の汗が光り、呼吸は早いが、拍は整っていた。三。二。二。三。胸の奥で、まだ鳴っている。
ツムギは自分の手を見つめている。白い手。何も持たない。だから何でも通せる。手のひらに、わずかな黒い粉がついていた。黒板の粉だ。いつの間に。彼女はそれを払おうとして、やめた。手のひらの黒を、もう少しだけ見ていたかった。
レンは、観客席の上段を見た。新城カイは、笑っていた。笑っているが、笑いは目まで届いていなかった。彼の目の奥で、細い線が一つちぎれる音がした。レンはそれを聞いた。気のせい、と片付けるには、音は澄みすぎていた。
(見ているか)
誰に向けた問いかわからない。黒板の裏の影か。窓の外の空白か。観客席の高い場所に座る、かつての仲間か。問いは返らない。返らない問いは、線の端になり、そこからまた何かが繋がる。
◇
試合の後。第零席の教室は、もう暗かった。夕方の残り火が窓の縁で燃え、廊下の蛍光灯は点いたり消えたりを繰り返している。レンは黒板の前に立ち、チョークを握っていた。手の内側の黒い粉が、熱のようにじんわりと広がる。粉の粒ひとつぶひとつぶに、細い回路が走っている。そんな気がした。
「運用計画」
彼はそう書いた。文字は柔らかい。だが線は、固い。計画という言葉は、怖い。怖いからこそ、固くなければならない。
「今日、私……」
ツムギが言いかけて、言葉を見失う。言葉が見つからないとき、人は沈黙という器に手を伸ばす。沈黙は、器用に何でも入る。彼女の沈黙には、驚きと、安心と、わずかな罪悪感が混ざっていた。
「君は何も間違っていない」レンは言う。「間違っていたのは、置き場所だけだ」
御影は教室の後ろで椅子を並べ、その上に立って黒板を見上げている。前に出るという行為の余韻が、まだ体から抜けていないのだろう。目線が高くなると、世界は違って見える。違って見えると、人は何かを疑いはじめる。疑いは、強い。
「先生たちは明日、僕らを叱りますよ」御影が笑った。「安全性がどうとか、規律がどうとか」
「叱らせておけばいい。叱られるということは、見られているということだ。見られていれば、線は切れにくい」
黒板に、新しい線。第零席の名前を横に並べ、その下に薄い矢印を引く。矢印は命令ではない。矢印は流れだ。流れなら、変えられる。変えられるものだけが、使える。
「これから必要なのは、拍だ。術式の名じゃない。拍だ。三。二。二。三。緩急の中に、怯えのポケットを用意する。相手がそこに足を入れる瞬間を、待つ。待つのは怖い。怖さを配る役を、俺がやる」
また、金属の音。今度ははっきりと。黒板の裏から、誰かが爪で掻いたような、湿った音。ツムギが肩をすくめ、御影がゆっくりと黒板の端を覗き込む。そこには当然、何もない。ただ、チョークの粉が溜まるだけの、薄暗い隙間。空気が冷たい。冬がまだ残っている。
「聞こえた?」
レンは問う。
「何か、ひっかく音」ツムギが囁く。囁きは音を増幅する。「黒板の中で誰かが……」
「焦らないで」レンはチョークを握り直す。「怖いときほど、線は乱れる。乱れは、使える。怖さは、資源だ」
「レン」
名前を呼ぶ声が、ドアからした。振り向くと、そこに立っていたのは新城カイだった。いつの間に。足音はなかった。彼は人の気配を消すのがうまい。武器を持たない場面でこそ、才能はよく見える。
「噂は本当だったんだな。補助が前に出た。面白い見世物だったよ」
言葉は柔らかい。柔らかい言葉ほど、刃は薄い。
「見物、ありがとう」レンは言った。感謝のかたちを借りる。借り物は返せばいい。返すタイミングは、まだ先でいい。
「ところで、それ」カイは黒板の文字を顎で示す。「運用計画。……君、いつからそんなことを?」
「今日」
「今日で、そこまで?」
「今日だから、そこまで」
短い間。カイの目の奥に、また一本、細い線が切れる音がした。彼はそれに気づかないふりをした。気づかないふりをしている自分に、気づいているふりもした。
「その紙、まだ持ってる?」カイは昨日渡した“適正値”の紙を指す。あれは別れの餞別のつもりだったのだろう。だが餞別は、時に刃物になる。
「持ってるよ」
「捨てないんだ」
「ゴミ箱の位置を知らないから」
御影が笑い、ツムギが困った顔をした。カイは笑わなかった。笑う筋肉の使い方を、一瞬だけ忘れたようだった。
「気をつけろよ、レン。設計は、時々、気持ちよすぎる。気持ちよすぎるものは、大体ろくなことにならない」
「忠告、ありがとう」
「忠告じゃない。感想だ」
カイはそう言って、振り返った。ドアの向こうの廊下は真っ直ぐで、どこまでも続いているように見える。だがもちろん、そんなことはない。どこかで曲がっている。曲がり角には、誰かが立つ。誰かは顔がない。空白の輪郭。
ドアが閉まる。金具のかすかな軋み。黒板の粉がふわりと舞い、レンの指先に新しい線を作る。線は怖い。繋がるから。切れるから。生まれるから。消えるから。
「続けよう」
レンは言った。声に余計な熱はなかった。ただ、必要な熱だけ。金属を曲げるのに足りるだけ。
黒板の一番上に、今日の日付を小さく書く。書きながら、彼はわずかに手を止めた。窓に映った教室の像の中で、黒板の前に立つ自分の肩越しに、誰かが覗き込んでいる。顔はない。襟だけが揺れている。風はないのに。ガラスのむこうの教室は、こちらと同じように暗く、同じように薄く、同じように怖い。
「才能は置き場所で化ける」
レンは、板書の最後の行を書いた。粉が指の間で鳴る。鳴った粉は、床に落ちる。落ちた粉は、誰かの足跡の形になる。誰も踏んでいないのに、足跡は増える。
「やろう、最強を設計し直す」
言い終えると、ツムギが小さく息を吸い、御影が首を縦に振った。二人の動作は、拍を作る。三。二。二。三。拍は、鼓動に似ている。鼓動は、恐怖に似ている。恐怖は、生きている証拠だ。
その夜、レンは寮の部屋で紙を広げた。適正値の紙。数字の羅列。紙の上で、線が立ち上がる。線は誰かの骨格になり、呼吸になり、笑顔の筋肉の配置になり、涙腺の開閉角度になり、心拍の揺れに変わる。紙の向こうから、ひっかく音がする。黒板の裏の音と同じだ。紙に爪を立てているのは、誰だ。レンか。カイか。第零席の誰かか。あるいは、紙そのものか。
(組み替えろ)
囁きが、眠りの縁を冷たくする。レンは目を閉じる。暗闇は、設計の反転だ。光が線を浮かべるように、闇は線を沈める。沈んだ線は、朝になればまた浮かぶ。浮かぶたび、違う線になる。
窓の外で、旗が鳴った。冬の名残の風。鳴るたびに、どこかで金属が擦れる。レンはその音を数える。三。二。二。三。拍は眠りに混ざり、恐怖は夢に溶けた。
夢の中で、黒板に書いた円がまた目に現れた。円は目の形に似ていて、やがて本当の目になった。目は何も言わない。ただ、見ている。見られているのは、第零席か。それとも、設計そのものか。
朝は来る。怖さも来る。拍も来る。線はまた立ち上がる。
レンは起き上がり、紙を畳み、制服の内ポケットに差し込んだ。紙は心臓の上にある。鼓動と紙の擦れる音が、かすかな歌になって、胸の内側で流れつづけた。
教室へ向かう廊下は長い。長いが、必ず曲がる。曲がる場所に、今日も誰かが立っている。顔はない。襟だけが揺れる。黒板の粉が目に見えない風に乗って、こちらへ流れてくる。粉のひと粒ひと粒に、細い回路が走っている。そんな気がする。
レンは歩きながら、指先で拍を取った。三。二。二。三。拍は、歩幅に合う。歩幅は、設計に合う。設計は、恐怖に合う。恐怖は、君たちに合う。
だから、怖がっていい。
怖がって、進め。
第2話 無属性の名前
朝いちばんの教室は、つめたい水の匂いがした。洗ったばかりの黒板が光を跳ね返して、窓際の床に四角い明るさを落としている。白い粉はまだどこかに残っていて、指で触れるとじわりと汚れが伸びた。レンは人のいないうちに、黒板下のチョークを一本折る。その断面は硬く、きめ細かく、崩れているのに頼りになる手応えだった。
無音のまま、線を一本だけ引いた。水平でも垂直でもない斜めの線。地面ではない。壁でもない。なのに、そこから立ち上がれる気がする傾き。ツムギは扉の隙間からそれを見て、小さく息を飲んだ。
「おはよう」
彼女はまだ、教室の敷居を跨ぐ動作がぎこちない。爆ぜるならここ、という位置を決めている歩き方。自分で危険区域を作って、その内側を歩いている。
「昨日の模擬、手が震えなくなってたね」
「……少しだけ。御影くんが前にいたから。あの、すごく、安心するんだ」
「前にいる人間は、後ろの呼吸を整える」
レンはチョークを置いた。粉が彼の指にだけ増える。ふと、黒板の表面を爪でなぞってしまいそうになる。黒板の向こう側で、誰かが耳を澄ませている気配がするからだ。呼ぶ音がする。ひっかく音。薄い金属の刃で、縄を少しずつ切っているような音。
「今日の課題はツムギの魔術の名前だ」
「名前……」
彼女のまつ毛が、影の中でかすかに震えた。名字のように軽い発音でありながら、実際は胸の奥で重く固い響きを持つ言葉。それが名前だ。名づけることでずっとそこにあったものが輪郭を持つ。輪郭があるものは、触れる。触れれば、変えられる。
「無属性って呼ばれてる。何色にもならない、って。でもそれは評価じゃなくて、省略だ」
「省略……」
「言葉を失うとき、人は記号を置く。無属性って言葉は、欠けたところの目隠しだよ」
「じゃあ、本当は何?」
「中立」
レンは黒板に、薄く、二重線で円を描く。円の中心は空洞で、ほんの気配だけが乗っている。
「揺れていない。ぶれていない。そのせいで、他の色が入りやすい。ただ順序がないから混ざる。混ざれば爆ぜる。順序があれば、重なる」
「重なる……」
「基礎層」
口の中で発音すると、舌の裏が冷たくなった。新しい名は、まだ生乾きの傷に触れるみたいに、ひりひりする。ツムギはその音を耳で追い、口の中で転がしてもう一度ゆっくり言った。
「きそそう」
「英語風の言い方をつけるなら、ベースレイヤ。基礎層」
黒板に、そう書いた。白い粉が四角い朝の光を吸い、かすかな輝きになる。
「君の魔力は中立だから、他属性を安定して通せる。順番を決めて、その順番どおりに通す。同期、遅延、増幅、緩衝。全部、君の中に吸わせてから出す。無色のまま、重ねればいい」
「それ、私にもできるかな」
「できる。できるように設計する」
設計、という語の手触りは危険だった。レンの耳の奥で、昨夜からのひっかき音が濃く響く。設計は気持ちよすぎる。新城カイの声が、混じる。気持ちよすぎるものは、大体ろくなことにならない。忠告。感想。どちらでも、隙間に刺さる。
「御影、来てる?」
レンは廊下に声を飛ばした。返事の代わりに、ゆっくりした呼吸の音が近づく。御影ユウトが扉の影から顔を出し、いつも通りの落ち着いた笑顔でうなずいた。
「います。壁になりにきました」
「いい壁は、黙ってそこにある。声がある壁は、もっといい」
「じゃあ、今日はしゃべります。しゃべって、守ります」
レンは机の引き出しから、薄い板を取り出した。木の板ほどの大きさで、表面には細い線が刻まれている。魔術式プレート。授業で使う訓練用の簡易回路板だ。古びていて、角はすり減り、誰かの名前がうっすら消えていない。
「これを、はめよう」
レンはツムギの手首をとり、板の内側にある金具をそっと合わせる。カチ、と小さく音がし、彼女の皮膚に冷たい感触が触れた。ツムギの肩がわずかに震える。震えは止めない。震えは拍になる。拍は、呼吸を導く。
「痛くない?」
「少し冷たいだけ。……でも、怖い」
「怖いときは、怖いと言っていい。怖さは測定できる。測定できるものは、扱える」
レンは板の刻線に指を滑らせた。同期。遅延。増幅。緩衝。四つの溝が、小さな水路のように並んでいる。そこに魔力が流れたとき、傾きのちがいで速度と厚みが変わるはずだ。
「まずは同期を薄く。御影、声で拍を取って」
「はい。三。二。二。三」
御影の低い声は、壁の内側を叩く音に似ている。ツムギの呼吸がそれに揺れを合わせ、きれいに上下する。彼女の指先から、ほんの少しだけ空気の温度が動いた。色はない。匂いもない。けれど動きだけは確かにあって、黒板の白が一瞬だけ細く見える。
「次は遅延を薄く挟む。拍をずらす。三の二拍目で一息止める」
ツムギは言われたとおりに、息の角を丸く折った。プレートの窪みが、ふっと湿る。何も燃えていないのに、教室の空気が重くなる。重さは薄い。薄いから、見逃されやすい。見逃されるものは、よく効く。
「増幅。少しだけ。自分の中心から外へ押す。押すと言っても力を入れない。言い訳みたいに押す」
「言い訳……?」
「言い訳は、相手に全部届かない。届かない分が、ちょうどいい」
ツムギが笑って、やってみる。笑いは魔術には悪くない。魔術は感情に敏感なはずなのに、笑いの輪郭は不思議と安定している。
「そして緩衝。戻ってくる力を受ける層。受けるとき、受けすぎるな。半分だけ受ける」
「半分だけ……」
「残りは、御影の壁に流す」
「はい。流れ先、こちらで受けます」
その瞬間、教室の蛍光灯が、ひとつだけ明滅した。薄い音。ひっかく音。黒板の裏で誰かが指を曲げる。ツムギの手首の板が、カチリと小さく鳴った。
「いくよ」
ツムギが手を上げる。その所作にはもう、机の下に隠れる癖はない。指先の少し上、教室の空気に薄い膜が立つ。透明な、見えない板。そこに彼女の魔力が染み出し、溝に沿って流れる。流れは細い。ほとんど無だ。無いものは静かで、静かなものほどよく燃える。
小さな光が走った。ピ、と短い音がして、空気がすぐに元の形を取り戻す。爆ぜなかった。爆ぜないかわりに、教室の角の影が一瞬だけ濃くなった。
「……できた?」
「できた。今は小指の爪くらい。でも、できた」
「私、今、何を出したの?」
「無色の層だ。色がつかない光。何にも見えないけど、確かにそこにある。基礎層」
ツムギはもう一度、板をなでた。冷たさは抜け、体温が溶けこみはじめている。
そこから先は、失敗の連続だった。小刻みな失敗は、たいてい美しい。大きな失敗は、破片の形が雑だ。小さな失敗は、破片の縁が滑らかで、どこか透明だ。ツムギが拍を間違えるたび、プレートの溝が細く鳴り、教室の空気が波打った。御影は壁をつくって受ける。彼の壁は見えず、聞こえず、ただ空気の温度だけが変わる。額の汗がこめかみを伝い、あごの下でひとつにまとめられる。震えはない。震えは拍に溶けた。
乾いた花瓶の中で、花の茎だけが音もなく裂ける。そんな気配がした。黒板の裏の空気が、少し寒い。レンは時々、そこに指を向ける。何も触れない。けれど触れてはいけないものの気配だけが増える。触れてしまえば、簡単に崩れる。崩れると、とても気持ちよくなる。気持ちよさは、やさしい毒だ。
「いい。今日はここまで」
レンは区切った。区切ることで、人は前に倒れない。踏み外しても、落ちきらない。
「放課後、小テストの公開演習がある。そこで、無色を見せよう」
「みんなの前で?」
「みんなの前で。見せれば、名前になる」
◇
公開演習は、小さな観覧席を備えた実験場で行われた。教員に加えて、他クラスの生徒、暇そうな上級生、そして見物目当ての外部者。入学式の日からずいぶん早い。誰もが新しい見世物を欲しがっていた。
薄い冬の光がガラス越しに差し、床に白い長方形をいくつも重ねた。配線が床下を走っている。制御盤は壁際に寄せられ、緊急遮断の赤いボタンが、どこか血の気のない舌みたいに見える。
ツムギの番が近づく。御影は彼女の斜め後ろに立ち、手を前に出した。壁の準備。レンは書記台に置かれたノートを開き、右上に小さく拍を書いておく。三。二。二。三。ノートの紙の端が、黒板の粉と同じ匂いを持っていることに気づく。これはどこから来た粉だ。教室の裏から吹いてきた粉か。あるいは、名前の付いた粉か。名前のない粉は、床に落ちるだけだ。
「次、雛森ツムギ」
呼ばれた名前に小さなざわめきが乗った。「あの無属性の」「また爆発するんじゃ」「片付け面倒なんだよな」軽い声。軽い声は、震えを運ぶ。震えは、こちらに都合がいい。
ツムギは前に出る。足幅は狭く、でも迷いは少ない。彼女の手首にはプレート。表面に刻まれた溝は、ここからでも見えないくらい細い。細いものは、よく使える。薄いものは、よく通る。
「始めてください」
教師の声は硬い。完成された規則の塊みたいだ。その声の向こうで、別の声が囁く。黒板の裏ではない。もっと高いところ。観覧席の上段。学園長・神垣が腕を組み、わずかに前屈している。目の奥は濁っていない。濁っていないからこそ、警戒の色が深く見える。
ツムギは息を吸う。御影が低い声で拍を提示する。三。二。二。三。レンは板書がない代わりに、床の白い長方形を数えた。五つ目の角のところで、ツムギが小さく息を止める。遅延。呼吸の角を丸く折る。増幅は控えめ。緩衝は半分。残りは御影へ。
彼女の指先から、光が漏れた。無色の光。誰の目にも色はない。ただ、空気が重なり合う質感だけがあり、光沢だけが残った。薄い布を空気に溶かし、その布が風に揺れずに張りつくような感覚。張りついた布に、別の色の糸を押し当てる。色は吸われない。色は滑り、重なる。重なって、乱れない。
観客には、ただ無色のまま見えた。だからこそ、ざわめきが生まれた。
「今、何をした?」
「光ってないよな?」
「でも、あの……空気、ちょっと」
「寒気がした」
「目の奥、きゅってなった」
教師は書きつける。書いているうちに、ペン先がわずかに音を変える。音の変化が、名前の代わりをしてくれる。
学園長・神垣は苦い顔をした。彼の口元に浮かぶ皺は、長年の折り目がついた紙に似ている。折られつづけた紙は、そこだけ薄くなってちぎれやすい。ちぎれやすい場所に、言葉が刺さる。
「設計工学を学生が?」
後ろの教務主任が肩をすくめる。「あの子は、ただの無属性です。偶然ですよ。……偶然で、あれば」
「偶然は、最初だけだ」
神垣は目を細めた。目の奥に薄く小さなひっかき傷が増える。増えるたび、視界がわずかに微粒子めいて見える。微粒子は光を散らし、色を消す。無色の輝きだけが残る。
観覧席の別の場所で、長い髪を耳にかけ直した少女が、息のない声で呟いた。
「……綺麗」
セラ。レンが追放されるとき、最後まで口を開かなかった魔法使い。彼女の手は膝の上で静まり、指の先だけが小さく丸まり、開く。目線は真っ直ぐにツムギへ、そして、その向こうで首を少し傾けているレンへ。レンはその視線を感じた。視線は糸だ。糸は、束ねられる。
「遊びだ」
隣の席の新城カイが、短く切った。まるで紐を切るときの音みたいに。声は冷たい。冷たさは正確だ。正確なものは、時々、間違う。セラの横顔がわずかに強ばり、でも目だけはレンを追った。その一瞬を、カイは見逃さなかった。見逃さないほうに、彼は慣れている。視線が糸なら、彼は糸の結び目の位置をすぐに見つける。
ツムギの演習は、何も壊さずに終わった。壊さなかったことに、誰かが安堵の溜息を漏らした。壊さない演習は、演習にならないと笑う者もいる。それでも、空気の細い厚みの変化を感じ取った者たちは、笑わなかった。笑いは空っぽな場所にしか落ちない。今ここにあるのは、空っぽではない。
御影の壁は音もなく消え、彼の手の平に白い粉が少しだけ残った。黒板の粉ではない。床から舞い、壁に擦れて落ちる何か。名前のない粉。名づければ、使える。
◇
公開演習が終わる頃には日差しが傾き、廊下の影が長く伸びた。実験場から外に出ると、風は冷たかったが、湿り気は少ない。空気は乾いていて、粉はよく飛ぶ。飛んだ粉の軌道が、薄く可視化された気がする。粉にまで線が通るのは、考えすぎだろうか。考えすぎでも、整合性があれば使える。
「ありがとう」
ツムギは校門を出る少し手前で立ち止まり、レンに向き直った。彼女の声には汗の味が少し混ざっていた。汗は良い。汗は測定できる。頑張りと、恐怖と、喜びの比率がわかる。
「何に?」
「名前」
「まだ借り物だよ。使って、擦り切らせないと。本当のものにならない」
「でも、私、呼ばれた気がした。無属性って、いつも、そこに穴が空いてるみたいだった。今日、穴の底に床ができた感じがしたの」
「床は大事だ。立てる」
「立てる。ほんとに」
ツムギは歩き出す。歩幅は昨日より少し広く、靴音が薄く響く。御影は一歩後ろで、歩きながらさりげなく左右を見ている。彼は壁であることを忘れない。壁は、歩く。
寮の棟までの道は、途中で曲がる。曲がる角には、時々、誰かが立っている。今日は立っていない。代わりに、道路の角に影がたまっていた。角は影が好きだ。影は角が好きだ。どちらでも、使える。
「それ、見せて」
ツムギが唐突に言った。レンが首を傾げると、彼女は遠慮がちに続ける。
「ノート。みんなの、設計図。……前に、黒板に描いてたの、もう少し見たい」
「怖いよ」
「知ってる。でも、見たい。怖いの、見たい。私、基礎になるって決めたいから」
レンは少しだけ躊躇した。名づけは力だ。図にするのは、さらに力だ。見えるものは壊しやすい。壊しやすいものを、見せるのは怖い。怖いから、慎重になる。慎重は遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
「ここじゃなくて、寮の談話室で」
「うん」
談話室は、夕方の光の残り香で満ちていた。ソファは柔らかすぎず、固すぎず、誰かの体温が薄く残っている。壁に掛かった時計の秒針が、呼吸より少し早い。早い鼓動は落ち着かない。落ち着かないから、拍を整える。
レンはノートを開いた。紙の上に鉛筆の線。鉛筆の薄い光沢は、黒板の粉のそれと兄弟だ。ページには名前が並び、その下に配線の図が走っている。人の顔ではない。心臓でもない。だけど、そこにいる人の手触りがある。癖がある。間違いがある。間違いは、使える。
ツムギは静かに見た。指先は紙の端に触れず、息を詰めすぎない。目の動きだけが忙しく、まぶたの重みが途中で何度も変化する。変化が怖いとき、人はまばたきの数を増やす。彼女は増やさなかった。見たいのだ。怖いのに、見たいのだ。
「私のは、これ?」
「そう。中心が空洞。だから、どこからでも入れて、どこにでも出せる。君は穴じゃない。穴の形の床だ」
「床の形を、持っている」
「うん」
「御影くんのは?」
「壁。壁って、外から見える線と内側の骨組みの線が違う。彼は内側が強い。だから、外へ回すときに順番を間違えやすい。順番を決めてやれば、表と裏をひっくり返せる」
「すごい……」
ツムギの声が細くなる。細くなった声は、よく届いた。レンは次のページをめくった。乱暴者の関節の線。矢の震えの周期。癒し手の遅い回復が早められないかわりに、先行して流しておく配線。どの図にも、直したい角度がある。角度は、怖い。角度は人を変える。変わると、戻れない。戻れない道を、紙は平然と示す。
「ねえ、レンくん」
ツムギは目を離さないまま言った。
「私、基礎になる」
「……」
「基礎に、なる。誰の上にも、私がいる。みんなが乗っても、沈まない床になる。怖いけど、決めたい」
レンはノートを閉じた。閉じる音は薄く、談話室の空気に吸われた。
「ありがとう」
「私のほうこそ、ありがとう」
「違う。今の言葉にありがとう」
名づけは力だ。決めた言葉は、骨になる。骨は、簡単には折れない。折れたら、痛い。痛いから、守ろうと思う。守ろうと思えるものは、強い。
そのとき、談話室の壁の時計が、ほんの一瞬だけ止まった。すぐに動き出したが、止まる前と後で秒針のわずかな傾きが変わった気がする。時計の裏側の配線に、見えない手が触れたような。黒板の裏のひっかき音が、遠くで反響する。誰かが、こちらを覗いている。顔はない。ただ、襟だけが、風もないのに揺れている。
レンはノートの表紙を指で押さえ、軽く叩いた。三。二。二。三。拍はここでも使える。拍は、恐怖を薄める。
「明日から、負荷を上げる。基礎層に他属性を重ねる練習を増やす。順序の種類を増やす。御影は壁の厚みを多段にする訓練。乱暴者は関節を守る筋の強化。矢の子は震えの種類を二つに分ける。癒し手は先行流しのパターンを五つ」
「うん」
「それと」
レンは少し、言葉を選んだ。選ぶのは遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
「学園長が、気づいている。設計の匂いに。たぶん、近いうちに、何か言われる」
「怒られる?」
「怒らせておけばいい。怒りは注目だ。注目がある間は、線が切れにくい」
談話室のドアが、遠慮のない手つきで開いた。新城カイが立っていた。見慣れた笑みに、今日に限って少しだけ影が差している。顔の筋肉が覚えた笑いは、その日その日の感情に影響されない。けれど目の奥の温度は嘘をつけない。低い熱。低い熱は長く続く。長く続く熱は、人を変える。
「ここにいたのか」
「見学?」
「まあね。面白いものを見せてもらったから。そのお礼に、忠告」
「どうぞ」
「君たち、見られすぎると危ない。見世物は、壊されて初めて完成することがある」
「壊させない」
「壊れるよ」
カイは笑った。笑いは薄く、刃みたいに光った。
「それでも続けるの?」
「続ける」
「なら、止めないよ」
彼は踵を返して出て行った。去っていく足音が、秒針より少し遅い。遅い足音は、こちらに時間をくれる。もらった時間で、設計は進む。進むこと自体が、怖い。
ツムギはレンの袖を、そっとつまんだ。子どもみたいな仕草だったが、指の力は意外と強い。彼女は笑い、言った。
「大丈夫。壊れないよ。だって、床だよ、私は」
「床にも、ひびは入る」
「ひびが入ったら、埋めて。御影くんが」
「やります」御影が笑った。「壁は、床と仲良しなので」
「仲良し……いいね」
レンは、ふっと小さく笑った。笑いはわずかな油のように、きしむところに染みこんだ。
◇
夜、レンは一人で教室に戻った。黒板の前に立つと、昼間よりも板は冷たく見える。粉はより白く、床の影は濃く、窓ガラスは鏡のように内側を映す。鏡の中で、黒板の前に立つ自分の肩の向こうから、誰かが覗いている。顔はなく、襟だけが揺れる。それは一度も瞬きをしない目のようで、瞬きをしない目は、見られているほうの瞬きを増やす。
レンはチョークを取り、黒板に四角を描いた。四角の中に、円。円の中心は空洞。空洞の縁を薄く塗る。薄く塗ると、音が出る。キ、とか、シ、とか、名前のない音が。
「名づけは力だ」
声に出す。声は小さく、教室の壁に吸われる。壁は、御影のように静かだ。
「無属性は、基礎層」
書いた言葉を見直す。粉が光る。光り方は昼間と違う。夜の粉は、鈍い。鈍いものは、長持ちする。
背中のほうで、椅子がひとつ、小さく鳴った。誰もいない。椅子の脚が床を引っかく癖の音。ひっかき傷は、生きている場所の証拠になる。
「見てるなら、見るといい」
レンは誰に言うでもなく、呟く。黒板の裏の空気は冷たい。ガラスに映る襟は、まだ揺れている。揺れに拍がある。三。二。二。三。拍の形は、あらゆる所に潜んでいる。心臓。足音。秒針。ひっかく音。全部、同じ場所に集められる。集めたとき、怖さは形になる。形になった怖さは、仲間だ。
ノートを開く。ページの端に、今日のツムギの値を細く追記した。遅延の角度。緩衝の厚み。増幅の癖。同期の癖。許容量はまだ小さい。床はまだ薄い。薄い床は、上に乗るものを選ぶ。選ぶ基準を、レンは考える。考えるうちに、また気持ちよくなる。危険な気持ちよさ。脳の中で、誰かが笑う。笑いは音に変わり、黒板に吸い込まれた。
翌朝、教室に早く来たツムギは、黒板に残った言葉に触れず、ただ見上げた。
「無属性は、基礎層」
彼女はゆっくりと唇だけでなぞる。声に出さないとき、言葉は体の内側を通って、胸まで届く。胸で止まった言葉は、そこで骨になる。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶は簡単で、軽く、ですがるところのない形をしている。それを交わすことで、床に小さな釘が一本打たれた気がした。釘は多いほうが、床は鳴かない。
御影が来て、壁が笑った。乱暴者がきて、肩の角度を直され、文句を言いながら笑った。矢の震えが廊下の曲がり角で風と混ざって、いい音になった。癒し手は遅い歩幅で、でも確実に来た。遅いものは、時計の針の間に入り込んで、時間を少しだけ柔らかくする。
レンは黒板を指で叩く。三。二。二。三。拍が合った。合った拍の上に、名前が乗る。名前の上に、怖さが座る。怖さは目を閉じず、こちらを見続ける。見られていることに、やっと慣れはじめる。慣れは、設計の最初の部品になる。
「授業の前に、一回」
レンが言うと、第零席は静かに立った。全員が立つ姿はまだぎこちないが、昨日より少しだけ、天井が高く見えた。天井が高く見えるのは、床が厚くなった証拠かもしれない。
「ツムギ」
「はい」
「基礎層を、出して」
彼女は息を吸い、遅延を折り、増幅を弱く、緩衝を半分。御影の壁が先に立ち、受け口を用意する。乱暴者の足が石を鳴らし、矢の震えが拍を刻む。癒し手は遅く、先に流す。
無色の光が、教室に落ちた。落ちたというより、敷かれた。薄い布。布は透明で、色を拒まない。拒まないまま、受け取る。受け取ったものが、重ならない。重ならないように、順番を決める。順番は、名前になる。
「できてる」
レンは言った。
「できてる」
ツムギは笑った。笑いは床を厚くする。
その日の放課後、学園長の呼び出しが来た。扉の向こうで、誰かが待っている。顔はなく、襟だけが揺れ、黒板の粉はどこからかついてくる。見られることは、続く。続くことは、怖い。怖いものに、もう少しだけ名前をやる必要がある。
ツムギは帰り道で、もう一度だけレンに礼を言った。言葉は短く、でも重い。
「ありがとう。私、基礎になる」
それは宣言ではなく、誓いだった。誓いは、床下に通る梁になる。梁がある床は、鳴きにくい。鳴きにくい床は、よく戦える。
冬の旗が遠くで鳴った。金属が擦れる。黒板の裏のひっかき傷が、また一つ増える。息を合わせる。三。二。二。三。拍が体の内側で鳴り、名前が骨になり、床が厚くなる。怖さは、そこに座ったままだ。座ったまま、こちらを見る。こちらも見返す。目を閉じない。目を開けたまま、次の線を引く準備をする。設計は進む。進むたび、気持ちがよくなる。そのたび、チョークは少しだけ短くなる。
短くなったチョークを、レンは指で転がした。転がる白の先で、見えない粉が宙に舞う。粉の粒の一つ一つに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、設計はできる。できた設計は、怖さに名前をつける。名前がついた怖さは、仲間の席に座る。
第零席。呼ばれるたび、そこに床板が一枚増える音がした。床板の数は、もう指で数えられない。数えられないものは、こぼれない。こぼれないから、立てる。立てるから、進める。進めるから、怖い。怖いから、名前を呼ぶ。無属性は、基礎層。ツムギの名は、床の響きの中で、静かに固まっていった。
第3話 補助が主役になる日
朝の体育館は、まだ誰の声も吸っていない大きな箱だった。磨かれた床は寒いほどに光り、窓の高い位置から差し込む光が帯になってほこりを浮かべる。ほこりは粉になって、空中でゆるく踊る。踊る粒のひとつひとつに、細い配線が通っているように見えた。見えるだけだ、とレンは心の中で言い直す。見えるだけで、十分だ。見えたものは、使える。
御影ユウトは、体育館の中央線の上に立って、両手を見つめていた。手はいつも通りだ。指の関節は硬すぎず、手のひらは少し乾いている。けれど、そこに何かが欠けている気がした。欠けている、というより、名前がない。名前のない部品は、箱の隅に追いやられる。誰も触らない。触られないものは、錆びる。
「攻撃しない俺に、価値はあるのか」
ユウトはつぶやいた。声は低く、床に吸われてすぐ消えた。消えても、床の底で反響する。反響は拍になる。三。二。二。三。呼吸と同じ速度で、胸の内側で鳴る。
「あるよ」
レンは、体育館の隅から歩いてきて、ユウトの正面に立った。背後には折りたたみの戦術ボード。透明な板の上に、白いペンで細い線が描かれている。線は路線図に似ていた。駅は円で、乗換えは三角で。白い線は、どこかで必ず交わっている。
「支援は舞台監督だ」
「舞台監督」
「照明じゃない。主役でもない。でも、誰かが照明を落とす瞬間を指さし、主役が袖から出てくる拍を作り、脇役が出す小道具の位置を決める。失敗はここで止まる。成功はここから先に流れる」
レンはボードに指を滑らせ、円を一つ叩いた。叩かれた円は音を出さない。けれどユウトには、確かに薄い音が聞こえた気がした。
「君の支援は、舞台裏の線路だ。誰も転ばない道。立ち止まる場所。走っていい区間。人ごとに速度が違うから、線路は重ねて引く」
「線路、か」
「レールには継ぎ目がある。継ぎ目が怖い。怖いから、君が拍を配る」
「拍」
「三。二。二。三。遅延をその継ぎ目に敷いて、増幅を坂に乗せ、緩衝をカーブに置く。同期は駅だ。みんなが揃って次の車両に乗り換える場所」
ユウトはボードを見た。白い線はやがて薄く立体化し、互いにすれ違い、重なり、ほどけ、そのあともう一度ゆっくり結ばれる。黒板の裏でひっかく音が、遠いのに近く聞こえてきた。体育館に黒板はないのに。ないものの裏で音がするのは、おかしい。おかしくても、拍に合わせることはできる。
「俺が前に出る意味は?」
「観客の視線を乱す。敵の時計を割る。支援は、遠くから投げるだけじゃない。前に出て、相手の目の前で、速度を変える」
「速度を」
「変える。君が顔で受ける。怖さを持って立つと、相手は慎重になる。慎重は遅延だ。遅延は糸だ。糸は、束ねられる」
レンはユウトの肩にそっと手を置く。触れた指先が、薄い電気を帯びるように感じた。体育館の床の板の継ぎ目に、ひとつだけ黒い筋があり、そこから冷たい風が上がってくる。風は粉を運び、粉は光に浮かび、浮いた粉は線になった。
「三つ巴の演習、覚えてるな」
「三チーム同時に」
「A席、B席、零席。三つの時計が同時に進む。時計同士は干渉する。干渉は音になる。音は合図になる」
レンはボードの上に、三色の丸磁石を置いた。赤、青、無色。無色は透明だから、位置がわかりにくい。わかりにくいのは、使いやすい。
「御影、声で拍」
「はい」
ユウトの背後から、低い声が来る。三。二。二。三。ツムギは少し離れた場所で、自分の手首の魔術式プレートに触れ、薄く息を吐く。その吐息は色を持たない。持たないから、どこにでも通る。
「ユウト」
レンは静かに言った。
「君が敷く線路は、誰も失敗しないためにある。成功に連れていくためじゃない。失敗を先に拾ってしまえば、成功は勝手に残る」
「……拾う」
「失敗の先回り。それが支援だ。君は、人の転ぶ位置を知っている。だったらその少し手前に、何かを置けばいい」
「何かって」
「拍。遅延。声。目線。あるいは、床」
床。ユウトは足元を見る。体育館の板の継ぎ目が、ゆっくり呼吸している気がする。板は呼吸しないはずだ。呼吸しないものの呼吸に合わせて、ユウトは肺の空気を薄く入れ替える。
「今日、補助は前に出る」
レンは言った。
「君が、主役だ」
◇
特訓は実戦形式で行われた。体育館に三本の白線が引かれ、円形のコートが重なり合う。その中心には、審判の立つ丸い影。影は目に見えない網の目を広げ、三本の線を結ぶ。観覧席には、昨日の公開演習から味をしめた生徒や教員が集まっていた。A席の面々は余裕の笑いを浮かべ、B席は苦い顔で静かに準備をしている。第零席は、自分たちの位置をまだ探している途中。探す途中のものは、驚くほど強い時がある。
「各チーム、準備」
審判の声が床に落ち、反響した。反響は微妙に遅れて帰ってきて、体育館の上部の梁の間でほどけた。ほどけた声の糸は、粉に絡まって無色のさざ波になった。
A席の司令塔は、眼鏡の奥に冷たい計算を宿した少年だった。視線は高く、広く、ブレがない。彼は片手を挙げ、静かに合図を送る。A席が一糸乱れず動く。最短距離の戦術。最短距離はときどき最も遅い。
B席は慎重だ。誰も突出しない。突出するべき場面でも、全員が揃ってから動く。揃うのは安心だが、敵の糸は揃うのを待ってくれない。揃いを狂わせるのが、支援の仕事だ。
「零席、開戦」
レンはマイクなしで言った。誰にも届かないはずの声が、床を伝って小さく伸びた。ユウトの足元に、拍が立った。三。二。二。三。
ツムギが、基礎層を薄く敷く。透明な布が床の上に敷設されるように、無色の層が広がっていく。層の端はフチが立っていて、そこに他属性の力が引っかかる。このフチは目には見えない。見えないものは、人の足に絡む。
ユウトは前に出た。敵に近い位置。目線の高さが揃う場所。彼は両手を軽く広げ、掌を見せる。攻撃の構えではない。構えない構え。構えないから、相手の構えを汚す。
「来るぞ」
A席の前衛が唇の形だけで言った。ユウトはその形に合わせて、ほんのわずか拍を早める。三。二。二。三。二の、二拍目を一欠けら抜く。抜けた拍は、そこに落とし穴を作る。
A席の魔術師が詠唱の第一声を立ち上げた瞬間、ユウトの声がその上に薄く重なる。重ねるのは別の言語でもない。単に、音の高低だ。少しだけ高く、少しだけ早く。重なれば、聞いている側の耳は焦る。焦りは遅延だ。遅延は糸だ。
ユウトが右手を少し前に滑らせる。その先にツムギの基礎層の小さな隆起がある。見えない壁が、そこにある。壁は受けるためにあるが、受けるだけではない。壁の裏には、押し返すための角がある。角は、攻撃になる。
「御影、前」
レンの声は床から上がった。ユウトは半歩踏み込み、掌を前に切った。手刀は空を割らない。ただ、空気の速度を変える。変わった速度は、基礎層のフチに引っかかり、薄い波になって返る。波はA席の詠唱者の喉元へ届き、声帯の震えを一瞬だけ狂わせる。狂いは、詠唱の継ぎ目に入る。継ぎ目に入った狂いは、すぐ増殖する。
観客席で、誰かが息を呑む音がした。
「今、補助が」
「前に出た?」
「攻めた?」
A席の司令塔の眉が、ほんの少しだけ上下した。計算にない揺れ。揺れに気づいた彼は、すぐに補正をかけるべく指を動かした。その指示は正しい。正しいが、遅い。遅いというだけで、線路から外れる。
B席の矢が飛ぶ。ユウトはそれを一瞬だけ見る。見るだけだ。見た瞬間、彼はツムギの足元に拍を一つ落とす。落ちた拍に、無色の層のフチが震え、矢の背を風がなでる。矢の震えはほどよく抑えられ、矢羽は空気の布に沿って滑った。滑りの角度が、ほんの少しだけ変わり、矢はA席の盾の隙間を抜け、司令塔の肩の袖口を裂く。裂ける音はささやきに似ていた。誰にも届かないのに、全員がそれを聞いた気がした。
「ユウト、左」
レンの声。ユウトは視線を左に落とし、床の白線を一つ踏む。白線は電流のような感触を足裏に残す。残された感触は合図になる。合図を見つけたツムギが無色の層を少し厚くする。厚みは壁のための厚みではない。押すための厚みだ。押す壁は、攻撃だ。
前に出たユウトの掌が、空を掴む形になり、三。二。二。三。の二でグッと閉じる。閉じた掌の中に、無色の層から返った圧が一瞬だけ集まり、そのまま前へ滑る。目には見えない。見えないのに、A席の前衛が一歩分だけ押し返される。押し返された彼の靴底が体育館の床を鳴らす。鳴った音が合図になり、B席がそこへ重なる。三つ巴のはずが、一瞬だけ線がまとまる。まとまりは事故のように見え、事故に見えるから、たいてい効く。
「補助が攻めた!」
観客席で悲鳴のような声。悲鳴は笑いよりも速く広がる。笑いは空っぽに落ちる。悲鳴は、何かにぶつかって返る。返った悲鳴は、拍になる。
A席の司令塔が手を早く動かす。彼の目はまだ冷静だ。動揺を押し込めるひたいの筋肉。筋肉に走る細い線。線が、一本、切れたように見えた。見えただけだ。だが、見えれば使える。レンはその切断面に合わせて、淡く「設計通り」と呟いた。マイクはない。誰にも届かない。届かない声は、床の下へ落ちる。落ちた声は、ユウトの踵に触れる。
「前へ」
ユウトはもう一歩、前へ出た。支援の壁が彼の掌の前に立ち、ツムギの基礎層がその壁の裏に厚みをつける。壁の厚みには角がある。角は押し返す。押し返した先に、B席の遅い回復が先行して流されている。回復の流れは、ぶつかってきた敵の速度を鈍らせる。鈍った速度は、拍を落とす。落ちた拍に、零席の乱暴者が肩をぶつけ、矢の子が震えの周期を一つだけ変える。すべてが無色の層に吸われ、何も見えない波として返る。
A席の盾が傾く。B席の全体の足音が崩れる。崩れた足音の隙間に、ユウトの声が入る。
「今」
短い。短いが、よく通る。声は合図だ。合図は、主役の立つ位置を作る。
零席は一斉に踏み込んだ。踏み込みと同時に、体育館の窓のどこかで金具が小さく鳴る。鳴った音は黒板のひっかき音に似ていた。黒板はないはずだ。ないのに、音はする。体育館の上部の窓ガラスに映った観客席の像の中で、襟だけが揺れている誰かがこちらを見ている。顔はない。瞬きもしない。見られる感覚は、拍を早めそうになる。ユウトは自分の胸に手を当て、拍を一定に戻した。三。二。二。三。
演習が終わったのは、誰かの靴音が一度途切れた時だった。途切れた靴音は、審判の旗の動きを促す。旗が横に振られ、演習は停止した。体育館の上の梁に溜まっていた粉が、光の帯の中で一斉に落ちた。落ちる粒のひとつひとつに、髪の毛ほどの細い線が通っている気がした。線は震えている。震えは拍に似ている。拍は、終わりと始まりの境目に似ている。
静寂。呼吸の音。誰かの笑い。誰かの舌打ち。A席の司令塔は眼鏡を押し上げ、レンの方を一瞬だけ見た。その目は冷たい。冷たさは正確だ。正確な目は、人の揺れを見逃さない。
観覧席の上段で、新城カイが組んだ腕を解き、何かを言いかけて口を閉じた。セラは息を止めていたらしい。息を解く音が、ほんの短い欠伸に似て響いた。
「終了」
審判の声。体育館の隅から、誰かが拍手を始める。拍手は、すぐに広がらない。ためらいを挟んで、少しずつ増える。増えるにつれて、ユウトの手の震えが遅れてやってくる。震えは細かく、持続する。持続する震えは、仕事を終えた身体のものだ。
レンはユウトに歩み寄った。ユウトは自分の手の震えに気づいて、少し恥ずかしそうに笑った。
「俺の手、震えてる」
「震えは、拍の残り香だよ」
「俺が、主役で……いいのか?」
ユウトは言った。言葉は軽く、重かった。軽さは空に浮き、重さは足元に落ちる。浮いたものと落ちたものの間に、薄い糸が張る。糸は人を結ぶ。
レンは笑った。目の奥は静かだ。静かだから、怖くないわけではない。怖いから、静かにしている。
「主役は結果で決まる。今日は君」
短い言葉が、ユウトの胸に入ってくる。入った言葉は、そこに席を作る。席に座るまでには少し時間がかかる。時間の間、ユウトはうなずいた。うなずくたびに、震えは小さくなった。小さくなった震えは、指の腹に移っていく。指の腹に移った震えは、次の拍になる。
◇
練習後、零席は体育館の片隅で円になって座った。床は冷たく、背中に広がる。広がる冷たさは、少しだけ心地よい。心地よいものは、危険だ。レンはその心地よさから半歩ずれて座り、ノートを開いた。鉛筆の先で、今日の線路を書き直す。継ぎ目の位置。遅延の厚み。緩衝の角度。増幅の坂。同期の駅名。
ツムギはユウトの横で、魔術式プレートを外して手首を揉んでいる。プレートの金具の跡が薄く赤い。赤い跡は、名残だ。名残は証拠だ。証拠は、次に進むための階段だ。
「御影、今日の前に出たときの気持ちを、言葉にして」
レンは問う。問うことは、線を可視化する。
「怖い。楽しい。怖い。楽しい。……両方ある。前に出ると、敵の目が僕の顔に張りつく感じがして、息が詰まりそうになった。詰まった息を、誰かが指で押し広げるみたいに拍が入ってきて、歩けた」
「誰か」
「わからない。ツムギかもしれないし、レンかもしれないし、体育館の床かも」
「床は、よく支える」
レンは笑った。それは慰めではない。事実だ。床は、よく支える。支えるものの名前を、今日はもう一つ加えなければならない。御影ユウト。支援。舞台監督。線路。前に出る壁。攻撃する壁。
「A席の司令塔、崩れなかった」
矢の子が言った。彼女の声は、震えの抜けた矢のように乾いていた。
「崩れないよ。正しいから。正しいものは、折れにくい。でも、曲がる」
「今日は、曲がった」
「曲がり始めた。曲がり始めたものは、次に折れる可能性がある。折る必要があるなら、折る」
乱暴者が鼻を鳴らした。鼻の鳴る音は小さく、しかし鋭い。鋭い音は、合図に向く。
「俺ら、折るんだな」
「折るよ」
レンは淡々と言う。淡々とした声は、怖い。怖い声は、計画を進める。
「補助が主役になる日」
ツムギがぽつりと繰り返した。繰り返された言葉は、睫毛に乗って、しばらくそこにいた。彼女はユウトを見た。ユウトは視線を受け取り、目を逸らさなかった。逸らさない目は、壁になる。壁は、仲間の居場所になる。
「今日は君」
レンはもう一度、言った。違う拍で。三。二。二。三。さっきとは別のタイミングで、別の角度で。言葉は同じでも、拍が違えば、別物になる。別物は、力を持つ。
◇
夕方、窓の外の旗がまた鳴った。金具が擦れる音。黒板の裏のひっかき傷の音。体育館に黒板はない。それでも音は、どこからかついてくる。音は、目に見えない襟を揺らす。揺れる襟の持ち主は、顔がない。顔がないのに、こちらを見ている。見られていることに慣れるのは、良くない。良くないが、使える。使えるものは、使う。
レンはノートの最後のページに、細く書いた。
「御影ユウト。支援=舞台監督。前に出る壁。線路。失敗の先回り」
書き終えた鉛筆の芯が、わずかに折れた。折れた芯は粉になって、ノートの隅に落ちる。落ちた粉を指で集めると、黒板の粉と同じ匂いがした。匂いは、記憶の線を引く。
「帰ろう」
レンが言うと、零席はゆっくりと立ち上がった。床に手をついて立ち上がった乱暴者の指の跡が、板の上に薄く残る。残った跡は、すぐに消えそうで、でも消えない。消えないうちに、誰かが次の一歩をそこに置く。
体育館の扉の前で、ユウトが立ち止まった。手の震えは、もうほとんどない。代わりに、心臓の拍が強く鳴っている。鳴る拍は、顔に出ない。出ない拍は、内側で線になる。線は、次の道になる。
「レン」
「うん」
「俺、明日も前に出る」
「もちろん」
「明日、主役じゃなくてもいい。でも、前に出る」
「前に出ることは、主役の前提じゃない。主役の結果だ」
ユウトは笑った。笑いは薄く、床に落ちた粉をひと粒だけ浮かせた。浮いた粉は風に乗って、窓の方へ漂う。漂う粉の向こうで、ガラスに映る体育館の像の中の襟が、わずかに傾いた。傾きに拍はない。拍がないものは、怖い。怖いものは、名前が必要だ。
扉が開く。夜の空気が、体育館の匂いを押し出す。押し出された匂いは廊下に広がり、曲がり角へ流れる。曲がり角には、今日は誰もいない。誰もいないのに、足音が一つ分だけ多く聞こえる。レンは振り返らない。振り返らないことは、時に礼儀だ。礼儀は、拍の一種だ。
◇
寮に戻る前、レンはひとり教室に寄った。黒板の前に立つと、昼間の演習の残り香がまだ漂っていた。粉の匂い。汗の匂い。恐怖の匂い。恐怖は匂いがある。鉄と、古い紙と、濡れた布の匂い。匂いは、名前を欲しがる。
レンはチョークを手に取り、黒板に一行だけ書いた。
「補助が主役になる日」
書いた線は、細く震えた。震えは、拍に似ている。拍を聞きながら、レンは目を閉じた。目を閉じると、黒板の裏のひっかき音がよく聞こえる。誰かがそこで笑い、爪を立て、何かを待っている。何を。答えは、まだ先だ。
チョークを置くと、粉が指に残った。指先をこすり合わせると、粉は落ちず、むしろ増える気がする。増えた粉の粒ひとつぶひとつぶに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、設計はできる。設計ができれば、次の主役の席は、もう用意できる。
翌朝、体育館の扉が開く。ユウトは自分から先に中へ入った。前に出る。前に出る姿勢は、誰かの拍を整える。ツムギはその背中を見て笑い、基礎層の薄い布を足元に敷いた。無色の布は、踏まれても破れない。破れないのは、厚いからではない。順番があるからだ。
レンは二人の後ろで、ボードを立てる。白い線を一本、斜めに引く。床でも壁でもない傾き。そこから立ち上がれる傾き。傾きに、拍が入る。三。二。二。三。
補助が主役になる日。名づけられたその日は、静かに始まり、静かに怖く、静かに進む。怖さは目を閉じない。こちらも目を閉じない。目を開けたまま、次の線を引く。線は、前へ。前へ。前へ。
主役は結果で決まる。今日は君。明日は、誰。どちらでもいい。線路は、もう敷かれている。敷かれた線の上で、誰も転ばないように。転びそうになった足の先に、拍を一つ置いてやるために。支援の壁は前に出て、攻撃の角をひそかに用意して、見えない観客に背を向けたまま、舞台を回す。
舞台の上で、粉がまた光る。光は無色。無色のままで、怖いほど綺麗だ。
第4話 査定試験と序列の穴
朝、学園の中庭に仮設の白いテントがいくつも立った。テントの壁は薄く、指で触れると向こう側の影が揺れる。影は数字の形をしていた。大きな数字、小さな数字、端が欠けた数字。数字は名前より前に置かれるらしい。受付の札にも、壁の掲示にも、教師の声にも、まず数が来る。数が人を先に歩かせ、人の後ろを名前が追いかけている。追いつく日は、来るだろうか。
査定試験の日だった。
レンは零席の面々を中庭の隅に集め、折りたたみの戦術ボードではなく、薄い透明の板を手にしていた。板は窓ガラスの切れ端のようで、端がわずかに白い。指を滑らせると、静かに冷えを返す。
「ルールの説明は聞いた通り」
レンの声は小さく、でもよく通った。
「各自、規定の術式で“瞬間最大火力”を計測。判定は、魔力測定柱のフレーム内で出た最大値。爆ぜても、枠外で光っても、採点は入らない。逆にいえば、枠内に落とせばいい」
「落とす?」
矢の子が首をかしげる。黒髪が肩で揺れて、光が一瞬だけ跳ねる。
「瞬間火力は“瞬間”でしかない。なら、瞬間を重ねればいい。継ぎ目に遅延を入れて、時間を束ねる。合成遅延。拍でまとめて、採点フレームの中にたたき込む」
レンは透明の板に指で四角を描き、四角の中に短い棒をいくつも立てた。棒の頭を線で繋ぐ。棒はどれも背が低い。つないだ線は、四角の上ぎりぎりに沿って波打つ。
「一つ一つは低くても、束ねれば縁を越える。縁の内側で越える。縁の外は、無意味。内側で最大を作る。それだけだよ」
「それ、ズルくない?」
乱暴者が腕を組んだ。目だけは楽しそうに光っている。どこかで喧嘩の匂いを嗅いでいるのだろう。喧嘩の匂いは、いつも少し鉄っぽい。
「ズルいかどうかは、ルールが決める」
レンは肩をすくめた。
「ルールが決めていないなら、設計が決める。今日の審判は数字だ。数字は、怖いくらい正直だ。正直なものは、たまに残酷だ」
ツムギはその言葉を聞きながら、自分の手首の魔術式プレートに触れた。冷たさは、昨日より薄い。皮膚の下に、薄い板が重なっているような感覚がする。板は基礎層。そこに、同期。遅延。増幅。緩衝。順番は、昨日までの練習で、指の腹に書き込まれている。
「基礎層は、見えない布」
レンは言った。
「布の上で、拍を転がす。御影、声」
「三。二。二。三」
御影ユウトの低い声が、中庭の白い光の中に沈んでいく。声は土に吸われる。吸われた声は、足の裏に戻ってくる。戻ってきた拍は、骨の上を歩く。
魔力測定柱は、テントの中央に立っていた。透明な筒に薄い目盛りが刻まれ、側面に黒い枠が描かれている。その枠の中でのみ、数値が採点される。枠の外側はただの光。枠の中は評価。枠は、怖い。枠の縁は紙の端に似ていて、指を切る。血は見せるためにこそ鮮やかだ。
「次、A席」
教師の声が響く。A席の少年が一歩出る。指先から白い炎が立ち、枠の中で弾ける。目盛りが一瞬だけ跳ね、数字が上がった。観客が小さくどよめく。
「出た。百三十二」
「さすが代表候補」
「やっぱ瞬間だよな」
数字は人を動かす。動かされた人は、誰かを押す。押された誰かは、枠から落ちる。
「零席は後半ブロックだから、準備に時間がある」
御影が小声で言った。レンはうなずき、透明の板の四角の上に、さらに薄い線を加えた。線は、見えるか見えないかのぎりぎり。見えるものと見えないものの間に、設計は宿る。
「合図は、僕が」
御影が言う。ツムギはうなずく。喉の奥が少し乾く。乾くのは、ちゃんと怖い証拠だ。怖いとき、名前は役に立つ。無属性は基礎層。基礎層は、床。床は、沈まない。
◇
昼近く、零席の番が来た。中庭の温度は上がり、テントの布がわずかに膨らんだ。風が布の内側を撫で、粉の匂いがする。黒板はないのに、粉がある。粉の粒には、細い配線が走っている。そんな気がした。
「零席、雛森ツムギ」
呼ばれた名前に、いくつかの笑いが混じった。「爆発の子ね」「片付け係、用意」軽い声。軽い声は、足元を滑らせる。滑った足元に、拍を置く。
ツムギは測定柱の前に立ち、御影の声を待つ。三。二。二。三。拍を胸に入れて、吐く。基礎層の布が足元から薄く立ち上がり、枠の内側に合わせて伸びた。枠の縁に沿って、見えないフチができる。フチは引っかけるためにある。そこに、遅延の石を並べる。石は小さい。小さいほうが効く。
「同期、いま。遅延、一。増幅、微。緩衝、半分」
レンの声は届かない。届かないが、床に落ちる。床を伝って、ツムギの踵に触れる。
ツムギの指先から、無色の光が出た。光は光っていない。けれど、枠の中の空気が薄く厚くなり、目盛りの下で何かが動いた。ほんの少し。小指の爪ほど。観客の笑いが途切れ、代わりに短い沈黙が落ちる。沈黙は、合図だ。
「重ねる」
御影の声が落ちる。三。二。二。三。ツムギの呼吸が角を丸く折り、遅延の石の上で跳ね、増幅の坂を滑り、緩衝の布で戻る。戻った波はフチで集められ、また出る。小さな棒が、目盛りの中でピピピ、と刻むように伸びた。伸びるたび、枠の内側で最大が更新される。棒の背はまだ低い。だが、数は正直だ。正直な数は、重なれば大きくなる。
「最後」
レンの指が見えない場所で四角の角を叩いた。叩かれた角は、拍を返す。三。二。二。三。御影が半歩前に出て、顔で受ける。観客の視線が、彼の顔に引っかかる。引っかかりが、遅延になる。遅延が、ツムギの布に集まる。集まったものが、枠の内側で、同時に跳ねる。
測定柱の目盛りが、細く、しかし確かに上がった。枠の黒い縁の中で、最大値がはねる。白い針が、ひとつ分だけ高い段に止まった。教師の持つ板に数字が写され、筆が進む。
「百十八」
ざわめきが走る。さっきA席が叩き出した数より低いが、零席の基礎ステータスから考えれば、ありえない高さだ。何より、枠の内側の“狙い撃ち”が異常だった。揺れず、外れず、重ねてくる。
教師の一人が手を挙げた。
「いまの、術式の種類は」
「規定の範囲です」
試験官が淡々と答える。範囲内。範囲内なら、文句は言えない。文句にできない不気味さだけが、枠の内側に留まる。
「次、御影ユウト」
御影は前に出た。支援の術で測定柱にわざわざ挑む者はいない。支援は数字になりにくい。なりにくいものは、ゼロに近づけられる。ゼロに近いものは、無視される。
御影は掌を枠の内側へと差し出し、視線を上に向けた。顔で受ける。観客の視線が、また引っかかる。遅延が生まれる。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。
「支援の壁、角を立てて」
レンの言葉は、やはり届かない。届かないが、御影の肩甲骨の間に落ちる。彼は角を立てた。味方が打つ仮想の火力の“拍”を、枠の内に押し込む角。角が押すと、見えない棒が一瞬だけ背を伸ばす。支援は攻撃にならない。けれど、攻撃の枠を作る。枠の中に押し込まれた棒は、支援の手触りを覚える。
目盛りが、また少し上がった。百二十四。数字は小さくない。支援でこの値は、制度の想定外だった。教師の筆が止まる。止まる筆は、音を立てないのに、耳に刺さる。
「零席、合計値で上位に入ってるぞ」
「どういう仕掛けだ」
「フレームの穴を使ってる」
「穴?」
「採点は“枠内最大”。最大の定義を、向こうがずらしてる」
最大の定義をずらす。言葉は簡単だが、やっていることは脳の奥が少し寒くなる種類の行為だった。最大は、普通は一度しかない。だが枠の縁に重ねられた拍が、最大を“揺れない帯”に変える。その帯の中で、一番高い段は、静かに、しかし確かに引き上げられる。
零席の他の面々も、同じ要領で枠の中を叩いた。乱暴者は角を踏み、矢の子は震えを同期させ、癒し手は遅延の先行流しで戻りの反動を殺す。誰の一撃も、個別にはA席の華やかさに遠く及ばない。だが、枠の内側だけを狙って繰り返す繰り返す繰り返す。重ねた拍は、低い段を段ごと押し上げる。
教師陣は、顔を見合わせる。誰も「不正だ」とは言わなかった。言えないからだ。ルールに書かれていない。ルールに書かれていないことは、世界からはみ出していない。世界の端は、書かれた紙の端のほうが鋭い。
「零席、総合暫定二位」
冷たい声がテントの中に響いた。数字が貼り出され、人の目がそちらに吸い寄せられる。目に吸われた人の体は軽く傾く。傾きに、粉が滑る。粉の粒に、細い配線が走る。気のせいだとしても、気のせいではなかった。
◇
試験が終わったあと、学園長・神垣は校舎裏の薄暗い通用口から外に出て、通信の水晶を掌に載せた。水晶の中で、濁った光がひとつだけ震える。震えは拍ではない。拍がない震えは、不吉だ。
「こちら、神垣」
声は低く抑えられている。抑えられた声は、落ち着きではなく、深い警戒だ。
『受信。《方舟》運営局』
耳に馴染まない金属の音。遠くで黒板をひっかく音と重なる。重なった音は、背中の皮膚を薄く撫でていく。
「学生に“設計工学”を使う者が出た。名はレン。零席所属」
『設計工学……学生が?』
「偶然ではない。枠を読み、縁を縫い、定義をずらす。危険だ。逸脱者は切る。あなた方の規約にも、近い条文があるはずだ」
『逸脱者……切除対象の定義は』
「影響範囲。速度。再現性」
神垣は短く答え、空を見上げた。冬の旗が遠くで鳴っている。旗の金具の擦れる音が、通信の音と混ざり、やがて一つの細い糸になる。糸は冷たい。
『資料の送付を。次の“航路選定”までに判断を』
「急ぐ」
水晶の光が消えた。消えた瞬間、神垣の指先に粉が一粒落ちた。粉はどこから来る。黒板はここにはないのに。粉は白く、触るとすぐに消えた。
「設計は、気持ちが良すぎる」
神垣は目を閉じ、独り言のように言った。目を閉じると、裏側で誰かが笑った気がした。笑いは、名前がない。名前のない笑いは、気味が悪い。
◇
その夜、A席の宿舎では小さな祝勝会が開かれていた。総合暫定一位。代表推薦はほぼ確実。テーブルには光るグラスと、乾いた菓子。笑い声は軽く、すぐに消えて、また繰り返された。繰り返す笑いは、拍を持たない。拍がない笑いは、耳に残らない。
新城カイは窓辺に立ち、外を見ていた。窓ガラスには薄い自分の輪郭が映る。輪郭の肩の向こうに、誰かが覗いている気がする。襟だけが揺れている。顔はない。夜風はないのに。ガラスの中の誰かは、まばたきをしない。まばたきしない視線は、胸の奥の何かをひとつずつ冷やす。
「かんぱい」
誰かが言って、グラスが軽く触れ合う音がした。音は歯の裏に似て響いた。カイはグラスを持ち上げ、口を湿らせる程度に口をつけただけで、目線を動かさなかった。視線の先で、セラが座っていた。彼女はいつも通り、目に光を落として、静かに笑っている。静かな笑いは、拍がある。拍がある笑いは、怖くない。怖くないのに、今日は怖い。
「カイ」
隣の誰かが声をかけた。カイはわずかに顔を向け、笑顔を貼り付ける。貼り付ける笑いは、筋肉が勝手にやってくれる。便利だ。危険だ。便利と危険は、たいてい同じ線の両端にある。
「代表の話、正式に来たらどうする?」
「受けるよ」
「だよな」
「当たり前だ」
言葉は軽い。軽くした。軽くしたほうが、落ちるときに痛くない。痛みは、あとでまとめて来る。
「ねえ」
セラが言った。声は非常に小さかった。小さいのに、全員が聞こえた。全員が聞こえたふりをしなかった。
「レンの、設計。学びたいなって、少し思った」
音が消えた。部屋から、空気から、壁から、粉から、音が抜け落ちた。抜けたあとに残る薄い穴の縁が、鋭くなる。そこに指を置くと切れるだろうな、と誰もが同時に想像した。
カイは笑った。笑いはいつも通り、筋肉がやってくれる。音は出る。音はたぶん自然だ。自然な音の表面には、薄い冷たさが浮かぶ。浮かんだ冷たさは、目の奥で裂け目になって、そこから何かが顔を出す。顔はない。襟だけが揺れている。
「遊びだよ」
カイは言った。軽く。軽い刃のように。
「今日、零席がやったのは。遊び。審査の穴を使っただけ。現場じゃ意味がない」
「そう、かもしれない」
セラはうつむいた。うつむいた首筋に、細い影が落ちる。影は数字の形に見えた。数は、もともと影なのかもしれない。光の当たらないところに、跡だけ残る。
「でも、綺麗だった」
彼女は続けた。カイの胸に何かが強く触れた。薄いガラスを爪で弾いたような、乾いた鋭い音。胸の中のどこかに置いてあったグラスが、ひとりでに倒れて、床に落ちる。落ちた音は部屋では鳴らず、胸の内側でだけ鳴った。割れた破片の形は見えない。見えないのに、血の匂いだけがした。
「綺麗は、危ない」
カイは笑いながら言った。笑いはうまく出る。中身は、少し遅れてやってきた。遅延は糸だ。糸は、束ねられる。束ねてしまえば、ほどけにくい。
祝勝会は、何事もなく終わったふりをした。ふりは便利だ。便利なものは、後で請求書が来る。来るときは、たいてい夜だ。夜は、顔がない。襟だけが揺れる。
◇
その頃、零席の教室は暗かった。窓の外の旗がかすかに鳴り、黒板の前の空気が冷える。レンはひとり、黒板に向かってチョークを握っていた。指に粉がつく。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、設計は進む。
黒板に四角を描く。四角の内側に、棒を立てる。棒の頭を線で繋ぐ。線は枠の上に沿って、揺れずに走る。走る線の音が、チョークの先から耳に入る。キ、とか、シ、とか、名前のない音。名前のない音は、怖い。
「枠内最大」
レンは小さく声に出した。言葉を口にすると、空気が固まる。固まった空気の縁に、ひっかき傷ができる。黒板の裏から、誰かが掻いたような音がした。ひっかく指は細長く、爪だけが白い。顔はない。襟だけが揺れている。
「設計工学」
声にしたとたん、胸の中で誰かが笑った。笑いは、先ほど神垣の通信で聞こえた金属の音と同じ調子だった。遠くで旗が鳴る。旗の金具が擦れ、一拍空けて、粉が床に落ちる。
レンはチョークを置き、ノートを開いた。今日の数値。拍の配置。遅延の角度。緩衝の厚み。増幅の坂道。すべてに、薄い疑いが重なる。疑いは、壊すためではない。守るためだ。守るためにこそ、疑わなければならない。
「逸脱者」
その言葉を頭の中で組み立ててみる。組み立てると、形が出る。形が出ると、壊せる。壊せるなら、置き場所を変えられる。置き場所を変えれば、化ける。
扉の外で、足音がした。御影の足音だ。ゆっくりで、拍がある。三。二。二。三。レンは顔を上げ、笑った。笑いは薄く、粉をひと粒だけ宙に浮かせた。
「今日の結果、見た?」
「見ました。数字は噓をつかない。……その分、怖い」
「怖いときは、名前をつける」
レンは黒板に、新しい行を書いた。
「数値信仰の穴」
書いた瞬間、ひっかき音が一度だけ強くなり、すぐに消えた。消えたあとに残る匂いは、金属と、冷たい水と、濡れた布。匂いは、記憶を結ぶ。
ツムギが遅れて入ってきた。手首のプレートは外してある。皮膚の赤い跡はまだある。彼女はそれをかばうふりもせず、黒板を見上げた。目が、怖くて、強かった。
「ねえ、レンくん」
「うん」
「これ、続けられる?」
「続けるよ」
「怒られる?」
「怒らせておけばいい。怒りは注目だ」
「注目のあとに、切る、が来る」
「切らせない」
レンは淡々と言った。淡々とした声は、怖い。怖い声は、進む。
「今日、私、うれしかった」
ツムギが言った。言葉は短い。
「数字が、私のことを、嘘つかなかったから」
「数字は、見たものだけを言う」
「見せたのは、レンくんたち」
「見せたのは、君だよ」
彼女は笑った。笑いは床を厚くする。床が厚くなると、天井が少し高く見える。高く見えると、首が上がる。首が上がると、呼吸がしやすい。呼吸がしやすいと、怖さを飲み込める。
「明日から、序列が動く」
御影が言った。声は落ち着いているが、指先にわずかに震えが残っている。震えは拍の残り香だ。
「動くよ」
レンはうなずいた。
「序列は枠だ。枠に穴があれば、そこから水が入ってくる。水が満ちれば、床が浮く。浮いた床でも、立てるようにする」
「どうやって?」
「拍で。拍は、穴にも使える」
窓のガラスに、教室の像が映った。黒板の前に立つ自分の肩越しに、誰かが覗く。顔はない。襟だけが、音のない風に揺れている。見られている。見られていることに慣れてはいけない。慣れそうになるたび、拍を数える。三。二。二。三。拍は、怖さを薄める。怖さを薄めた上で、次の線を引く。
レンはチョークを取り、最後の行を書いた。
「最強は、枠の外で決めない」
粉が落ちる。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、たぶん、十分だ。
◇
夜更け、A席の棟では灯りが落ちた。廊下に残った薄い光の帯の中で、新城カイはひとり立ち尽くしていた。胸の内側に、夕方の割れる音がまだ残っている。グラスが割れたわけではない。割れたのは、見えない何かの表面だ。表面が割れると、中身が空気に触れる。触れた部分から、冷える。
セラの言葉が、耳の裏で繰り返される。
綺麗。
その二文字に、刃がある。刃は細く、薄く、どこにでも通る。通らない場所は、基礎層の奥だ。床のもっと下。梁のさらに下。そこを削る刃は、滅多にない。あの二文字には、削る力があった。
カイは目を閉じた。暗闇の表面に、薄い線が浮かぶ。線は数字の形に似ている。数字は、怖い。怖さは、便利だ。便利なものは、たいてい、遅れて請求が来る。来るだろう。彼は笑った。笑いは、筋肉がやってくれる。筋肉は、彼を守らない。守るのは、別のものだ。別の場所に、別の線だ。
「遊び、ね」
口の中で転がす。転がる言葉は、刃を鈍らせるか、逆に研ぐか。どちらに転ぶかは、拍次第だ。拍は、もはや彼の掌にはない。他の誰かの掌にある。レンの。零席の。あるいは、見えない襟の持ち主の。
旗が鳴る。遠くで、金具が擦れる。黒板の裏の音が、別の建物にまでついてくる。音に拍がある。三。二。二。三。カイはその拍に呼吸を合わせ、胸の奥の割れ目に、薄い蓋をした。蓋の上に、数字を置く。数字は重い。重いものは、蓋になる。
◇
翌朝。掲示板に新しい紙が貼られ、序列が動いた。零席の数字が上へ滑る。滑る過程で、紙の端がめくれ、下の層のインクが光る。光は無色だ。無色のまま、怖いほど綺麗だ。
掲示を見上げる人だかりの中で、誰かが囁いた。
「枠の中で勝っただけだ」
別の誰かが否定する。
「枠の中で勝てないと、枠の外にも出られない」
声は交わり、絡み、やがて拍になる。拍は、誰にでも配れる。配られた拍は、誰の胸にも入る。入った拍は、線になる。線は、次の道になる。
零席の前に、今日も黒板があり、粉があり、怖さがあった。レンは指で板を叩く。三。二。二。三。拍が合う。合った拍の上に線を引く。線の先に穴がある。穴は、枠の内側だ。内側で勝つ。内側で勝ちながら、外側の形を変える。変えること自体が、設計の怖さだ。
「授業の前に、一回」
レンが言うと、全員が立った。ツムギは基礎層を敷き、御影は前に出て、壁に角を作る。乱暴者は足を踏み、矢の子は震えを二つに割る。癒し手は先に流す。誰も転ばない。誰も、まだ。
黒板の裏のひっかき音が、今日はいくらか遠い。遠い音は、油断を招く。油断は、穴になる。穴は、枠の外だ。
レンは目を閉じた。閉じた目の裏で、見えない襟が揺れる。揺れに拍はない。拍がないものには、名前が必要だ。名づけは力だ。名づけるまで、怖さを手放さない。
名づける用意をしながら、レンは粉のついた指で新しい線を引いた。線は薄く、しかし消えない。消えないうちに、次の一手を置く。
「最強を設計し直す」
誰にも聞こえない声で呟く。呟きは床に落ち、そこで拍になる。三。二。二。三。
序列の穴は、今日も口を開けている。開いた口の縁は鋭い。それでも、そこへ足をかける。怖いから、拍を置く。拍を置きながら、進む。進むたび、粉は落ちる。粉の粒ひとつひとつに、細い配線が走っている。そんな気がした。気がしただけでも、十分だ。そう自分に言い聞かせながら、レンはチョークを握り直した。



