「まだかな」

 誰もいない教室で、ソワソワと椅子を揺らす。
 時間潰しのために机の上に広げた宿題は、全く捗っていない。

 帰る約束をした蒼井は、

「放課後、屋上に来てください」

 と書いてあったらしい手紙に従って行ってしまった。
 きちんと断らなければと言っていたが、日向の体感時間では二時間は経っている。

「遅いなー」

 腕時計で確認すると、実際には三十分しか経っていない。が、日向はどうしても落ち着かなかった。

 封筒に書いてあった名前を思い出す。
 入学してきた時に学校中の男子の視線を奪っていった、可愛くてモテる一年生の女子の名前だった。
 日向のことが好きだという蒼井だが、恋愛対象が同性だけであるとは一言も言っていない。

(直接あんな可愛い子に『好き』って言われたら……蒼井だってもしかしたら)

 胸の奥が詰まったように感じ、意味もなく喉を鳴らしてみる。
 もちろん、すっきりなどしない。

 蒼井が告白相手を好きになったらどうしようと。そればかりが頭の中を巡る。

(待て待て。別にいいだろ。そしたら花吐き病が治って良いことしか……)

 新しい恋をして、それが両思いになれば。
 当然、ひまわりが蒼井を蝕むことはなくなるだろう。
 日向は花吐き病を治すのは自分しかいないと思っていたが、よく考えたらそうとも限らない。

(やだなぁ)

 蒼井が自分ではない誰かと手を繋ぐのも、抱きしめ合うのも口付けるのも。
 素直に「嫌だ」と思ったときには、立ち上がっていた。

 気がついたら階段を登って屋上に辿り着いていて。
 恐れていることが起こっているかもしれないと唾を飲み込み、そっと金属製の扉に耳を当てる。
 冷たい扉の向こうにまだ誰かがいる気配がして、息を潜めた。

「うぇえっ」

 聞こえてきたのは、いつもの情緒のかけらもない蒼井の嘔吐音。
 まだ、ひまわりが蒼井から生まれてきている。
 日向を、恋しいと言っている。

 扉に当てた腕に力を込め、日向は向こう側に顔を出した。

「あ、蒼井?」
「……っ日向!?」

 真っ黄色の床。
 そこに蹲る、血の気のない顔の蒼井。
 今まで見たことがないほどのひまわりが散っていて、まるで花畑だった。

 容赦なく踏み荒らしながら、日向は蒼井に駆け寄った。
 美しくも異様な光景を、今すぐになんとかしなければならないと、心が叫ぶ。

「蒼井! お前……っ」
「待たせて悪い。とっくに用事は終わってたんだけど、なんか、止まらな……っげほ」

 しゃがみ込んで顔を覗くと、この期に及んで申し訳なさそうにする蒼井が咳き込む。小さな小さなひまわりが落ちていった。
 いつもの喉につっかえるような大きさではなく、とめどなく落ちていく極小のひまわり。
 日向は思わず手を出して花を受け止めた。

 喜ぶような状況ではないと分かっているのに。
 これが自分を思って溢れているものだと思うと、不謹慎にも胸に熱い何かが込み上げてきた。

「好きだ」
「うぇ?」

 ひまわりを吐き出しながら涙目になっている蒼井が、間抜けな声を出す。
 日向は蒼井の唇についた花びらをそっと咥え、躊躇なく飲み込んだ。驚きで見開かれた瞳を真っ直ぐに見つめる。

「お前のこと、好き」
「そうやって、思い込めた、か?」

 吐き気や咳のせいではなく、本格的に泣きそうに歪む顔を見て、日向はグッと唇を噛み締めた。
 恋は思い込みだと言ったのは日向だし、今の蒼井は目に見えて弱っている。この状況では、心からの好意を伝えているようには聞こえないだろう。

「どうしたら、伝わるかな」

 きっと蒼井が花吐き病になる前から「そう」だった。
 最近になってようやく自覚してきたものの。蒼井の病状を見て同情しているのか、本当に好きなのかが自分でも判別がつかなかったのだ。

「蒼井の隣は、俺がいい」
「それは、親友だからだろ?」

 花は、蒼井が話すたびにまるで吐息のように口から舞う。全く止まる気配がない。
 倒れてしまいそうな冷たい頬を、日向は両手で挟み込む。

「信じてくれよ」
「んぐ」

 花よ止まれと念じながら唇を重ねる。
 力が入りすぎて歯が当たってしまい、蒼井が小さく吹き出す声が聞こえた。

「いっつも思うんだけど、お前キス下手って言われたことねぇ?」
「失礼すぎる!」

 空気を壊す台詞に対し、思わずいつものノリで頭をバシンと叩いてしまう。
 尻餅をついた蒼井は、声を上げて笑いながら頭を摩った。
 大きく開けた口から出ていた花が途切れる。

 日向は息を大きく吸い、自分より僅かに大きい両手を握りしめた。
 気持ちが正確に伝わらなかったらと思うと、喉の奥が熱くなり声が震える。

「俺の気持ち、ちゃんと受け入れてくれよ。俺を、諦めないで」
「日向……」
「蒼井、お前が好きだよ」
「俺、も」

 これ以上は言葉もなくお互いに見つめ合い、自然と顔を寄せ合う。
 目を閉じて、あと少しで唇が触れ合うはずだった。

 それなのに、蒼井は日向の肩を強く押して体を引き剥がしてしまう。

「……っ、なに」

 不服げな声を出して開いた日向の目に、口を押さえて気持ち悪そうにしている蒼井が映った。
 日向は心に大穴を開けられた心地で、唖然と見守るしかない自分に嫌気がさす。

(まだ、ダメなのか)
「おぶぇっ」

 聞いてきた中で一番苦しそうな濁音と共に口から飛び出した花が、黄色い絨毯の上に舞い降りた。
 ひまわりではない。

 白銀の百合だ。
 花吐き病の、完治の証。

 日向の目から大粒の涙がこぼれ落ち、可憐な花を濡らす。

「どう考えても、こんな綺麗な花が出てくる声じゃねぇよ……っ」

 鼻を啜りながらも口角を上げていると、蒼井も同じような顔をしていた。
 お互いに、全く格好がつかない情けない表情だ。

「やかましい……っお前がやってみろよ本気で苦しいから」
「なんだよ片想いさせる気か?」
「一生させねぇ」

 蒼井に腕を掴まれ、引き寄せられる。
 本当の恋人になって初めてのキスは、しょっぱくて。

 お前だって下手だろって言い返してやりたかったのに、それどころじゃなくなった。
 


               終わり