巨大な交差点で、胸の鼓動だけが人の流れに逆らっていた。
透明なガラスの塔が並ぶ駅前。春の光はやわらかいのに、空気の冷たさが頬の奥をきゅっと締めつける。
──あと少し。
伸ばした指先が、あの背中の布をかすめる。
けれど、信号が赤に変わって、人々の波が彼の影を飲み込んだ。
「先輩!」
呼んだ声は、車のブレーキ音にかき消され、空へほどけた。
いつも、そこで夢は終わる。
逢坂優奈は、跳ねる心臓のまま目を覚ました。ブラインドの隙間から差す朝の光が、白い天井に細い縞を描いている。
枕元の小さなアラーム──ペンギンの鼻を押すと、短い電子音が止んだ
「……いつになったら、終わるんだろう?」
三年間、同じ夢を見続けてきた。いつも赤で止まり、青に間に合わない自分。
優奈は、机の端に置いてある一冊の文庫本をそっと撫でた。
『群青の黄昏』
藍に沈む海と二人の影が描かれた、光沢のない藍色の表紙。
最後のページには、古ぼけた付箋が一枚。
【今日の夕方、駅前で返して】
その一行の筆跡は、柔らかなのに少し急いでいて。優奈の世界を三年間止めてきた。
早く解放されたい。
そう思うのに、ずっとこのままでいたいとも思っていた。
初恋はずっと、蒼に閉じ込められたままだ。
✱
私立桜栄高校の正門は、毎年変わらず桜をまとっていた。
神崎晴斗は、あくびを噛み殺しながら門をくぐる。肩から提げた鞄が、歩くたびにかすかに鳴った。
「おー、神崎。頭んとこ、花びらおみくじ当たりじゃん」
肩を組んできたのは中学からの友人・三輪恭平だ。指先が晴斗の前髪から、薄桃色の欠片を摘まみ上げる。
「門で最初に花びら受けたやつ、入学式の日に運命の出会いがあるってさ。俺のばあちゃんが言ってた」
「お前のばあちゃん、毎年言ってないか?」
「伝統芸だ」
恭平の笑い声が、春風に混ざって軽やかに響く。
晴斗は苦笑して、花びらを恭平の手のひらに返した。
この春から三年生になる。無益な学校生活。去年の秋に陸上部を辞めてから、やることを見つけられなかった。原因は、肉離れで長く走れなくなったこと。ただ、それよりも、長く走れなくなってしまった自分から目を逸らしていた。
「今年は普通にいくって言ってたよな?」
「言った。普通に、何事もなく卒業する。もう問題は起こさないよ」
干したばかりの布のように軽い会話の向こうで、礼拝堂の鐘が一度だけ鳴る。
晴斗は肩にぬるい陽を受けながら、礼拝堂へと足を向けた。
✱
光で縁取られた長椅子。ステンドグラスの断片が床に散り、春の空気は蜂蜜のように甘く、ゆっくり流れている。
優奈は新入生の列の端にそっと腰を下ろした。制服のスカーフが、動くたびに微かな音を立てる。両膝の上には『群青の黄昏』。いつしかお守り代わりとなってる文庫本だった。
もちろん、この校舎の図書室で借りたものではない。三年前、中学の図書委員室で手渡された一冊だ。
『よかったら、これ。海の描写が綺麗でさ』
何か嫌なことがあって泣いていた優奈に、彼はそう言って一冊の本を手渡した。笑いながら差し出した彼の顔は陽射しのようだったのを、今でも覚えている。
──神崎先輩。
優奈はあの時頷いて、返事の代わりに手を伸ばした。受け取った瞬間、カーテンの陰が揺れて、次の授業のチャイムが鳴ったのだ。
放課後の静かな図書室で、彼と話したのはたった数分だった。でも、傷ついて泣いていて。どうしようもなく辛かったその時間に元気付けられた記憶が、彼の声の温度ごと、今も胸に残っていた。
その日を最後に、先輩は転校することになっていたらしい。以降、連絡はできていない。
残った付箋には『今日の夕方、駅前で返して』とだけ。どこの駅前かまでは、もちろん書いていなかった。
「ここ、座っていい?」
控えめな声に、優奈は顔を上げる。
隣に立っていた男子は、声よりも先、影が静かだった。切り揃えられた前髪の下の目は眠たげで、けれど、何かに触れるのをためらうような慎重さがある。
――似てる。
胸の奥のどこかが、きゅっと縮む。
優奈は慌てて視線を逸らし、膝に指を添えた。
男子は軽く会釈をしてから、隣に腰を下ろす。
校長の挨拶が始まった。マイクの調整音が礼拝堂の天井に白い線を走らせる。
優奈は横顔を見ないように、ステンドグラスの青を見つめていた。視界の端で、彼の睫毛が微かに震えるのがわかった。その目尻に、花粉なのか、赤い小さな影が滲んでいる。
伸びた自分の右手に、優奈はそこで気づいた。
――何してるんだろ、私。
慌てて引っ込めるより先に、彼がこちらを振り向いた。
目が合う。ほんの一瞬だけ、三年前の図書室が重なる。
「……ごめんなさい。目が赤かったから」
優奈は呟いた。
彼は小さく瞬いてから、指で目尻に触れ、淡く笑う。
「アレルギー。この時期はいつもこんな感じなんだ。春、好きなんだけどなぁ」
礼拝堂の空気がほどけるように笑いが漏れ、場内に微かなざわめきが広がった。
優奈は、鼓動を手のひらで押さえるように、本を抱き締めた
✱
式が終わると、校舎案内のグループ分けが始まった。
優奈のグループの引率は、さっきの男子だった。そして、その名前は──。
「三年の神崎晴斗です。校舎案内します」
名前が飛び石のように心を渡った瞬間、優奈は息を呑んだ。
――やっぱり!
口の中で小さく名前を転がしてみると、三年前のそれとまったく同じ音の温度だった。
「ここが理科棟。薬品のニオイがきついから、換気はちゃんと」
「図書館は?」
グループの誰かが尋ねた。
「渡り廊下を抜けて右。昼休みは混むから、朝のうちが穴場」
淡々とした説明の合間に、晴斗の視線が何度か優奈の手元で止まった。藍色の表紙。
教室で配られた新入生ガイダンスの紙が風にめくれ、階段の踊り場でひゅうっと吹いた風が、皆の同じ髪型を一斉に揺らす。渡り廊下の先、空が広がった。
「ここ、好きだな」
思わず漏れた優奈の声に、晴斗が横目で笑う。
「海、見えるしな。天気がいいと、群青って言葉が似合う」
群青。
優奈は胸の奥で小さく身構える。 図書室の前で、優奈は勇気を掬い上げるようにして彼を呼び止めた。
「神崎先輩……あの」
晴斗は足を止め、目で続きを促す。
優奈は、抱えていた藍色の本を差し出した。
「お返し、したくて。三年前……」
晴斗は本を受け取りかけ、ふと手を止めた。
「三年前?」
「中学の図書室で。先輩が、これ貸してくれて」
晴斗の眉がわずかに動く。記憶をなぞる時の速さを、優奈は知っていた。人によって違う。それでも、期待してしまっていた。
「ごめん。俺、たぶん覚えてないわ」
優奈の胸で、何かが柔らかくひしゃげた。
付箋の【今日の夕方、駅前で返して】は、優奈にとって世界の中心でも、彼にとってはメモの端だったのかもしれない。
「……そう、ですか」
目線が落ちる。視界の下で、藍の表紙の角が白く擦れていた。
その時、雨が落ちてきた。
突風でもない、予告なしの雨。渡り廊下の屋根の境目から、斜めの糸が一斉に降りてくる。
「やべ」
晴斗は反射的に優奈と本の上へ自分のブレザーを差し出した。肩で支えられた布の陰が、世界を一気に静かにする。雨音だけが、やけに近くなった。
「濡れるぞ」
「大丈夫です。これ、濡らしたくないだけですから」
優奈が抱えている本に、ふたりの指が同時に触れた。指先が触れ合って、少しだけ跳ねる。
晴斗は笑い方を迷うみたいに目尻を少し下げた。
「それ、そんなに大事?」
「はい。……大事、です」
喉の奥に引っかかっていたものが、雨に溶けるようにこぼれた。
晴斗が、ああ、と小さく息を漏らす。
雨はすぐに上がった。濡れた路面が午後の光を乱反射させる。離れた空には、白い雲がふちどられていた。
晴斗はブレザーを受け取りながら、ちょっとだけ困った顔をする。
「これ、俺が貸したんだよな」
「はい。『群青の黄昏』、海の描写が綺麗って」
晴斗は、藍の表紙をもう一度見た。
「……俺、引っ越したんだ、三年前の春。親の都合で急に。ばたばたしてて、誰に何を言ったか曖昧なんだよな。ごめん」
またこの街に戻ってきたのはほんと偶然、と神崎は笑った。
優奈は頷く。
「私、駅前に行きました。付箋、見て」
「付箋?」
最後のページを開く。
付箋はまだそこにあった。色は安い飴みたいに褪せている。
【今日の夕方、駅前で返して】
晴斗の顔から、少しだけ冗談が抜けた。
「俺の、字……だな。やば。今思い出した」
頬に手を当て、晴斗は小さく笑った。その笑いは、ごめんとありがとうを同時に含んでいる。
「駅で先輩のこと見つけたんですけど、信号が赤で。人も多くて、声も届かなかったんです。青になったら、もう……先輩はいなくて」
「それは……悪かった」
謝罪の言葉が軽くないのは、すぐにわかった。
「なんか、下級生の子が泣いてたからさ。何でもいいから元気付けたかったんだけど……俺、その日引越しで。時間、ギリギリだったんだよ」
晴斗は空を見上げた。
「待てないのは俺の悪い癖だな。もう少し待てばよかったなぁ」
「じゃあ、今日は待ってくれますか?」
優奈は言った。我ながら唐突だったけれど、言葉は戻らなかった。
「今日?」
「はい。今日の放課後。駅前の交差点で。ちゃんと待っててほしいです」
晴斗は目を細め、春の光の濃さを量るみたいに黙った。
そして、こくりと頷く。
「わかった。待つよ」
✱
放課後の駅前は昼の顔を畳んで、夕方の匂いを広げていた。焼き鳥と洗い立ての布の匂い、誰かの笑い声、遠くの犬の鳴き声。
優奈は交差点の手前に立つ。胸の奥で、何かがいつもより静かだった。
『群青の黄昏』は鞄の中だ。最後のページの付箋は、もう用を終えた兵隊みたいに、たわんでいる。
信号機の縁に、夕陽が小さくひっかかっていた。
「待たせた?」
声と一緒に、影が寄る。
晴斗は、約束より五分早かった。
「私が早く来ただけです」
肩の上の空が、薄く藍に寄っていく。
優奈は、鞄から本を取り出した。
「返します。ちゃんと、今度こそ。三年前は、ありがとうございました」
晴斗は両手で本を受け取り、最後のページの付箋を指で押さえた。
「付箋、捨てる?」
「まだ捨てないでください。……青に変わってから、剥がしてほしいです」
彼は笑った。
「ルール、厳しいな」
「ルールじゃなくて、儀式です」
そう、儀式。この三年間の停滞から解放されるための儀式だ。
晴斗は苦笑いを浮かべた。
「儀式ときたか。じゃあ、その儀式ってのを始めよう」
赤い人のシルエットは、誰かの心臓の鼓動みたいに止まっていた。車の列が途切れ、交差点の向こうで風船を持った子どもがジャンプする。
世界が、ひとつ息を吸った。
ふたりで待つ、青に変わる一秒前。
優奈は、ずっと言えなかった言葉を、音にした。
「先輩のことが、好きです」
風が、信号機の金属の縁をかすめていく音がした。
晴斗は驚かなかった。代わりに、少し困ったように目尻を下げた。
「俺、走るのはもうダメだけど。待つのは結構、得意になったのかもな」
その言い方に、優奈は笑った。
──そして今、青へと変わる。
カチリ、と小さな音。人のシルエットが歩き出しに変わる。
晴斗が付箋の端を、ゆっくり剥がした。
「これで、やっと返せたな」
「はい。やっと」
ふたりは、並んで一歩を踏み出す。
青の点滅が始まるまで、まだ十分に時間はあった。
交差点の真ん中で、晴斗が言った。
「逢坂。俺も、たぶん、駅前で誰かを待ってた。名前がわからない『誰か』を。今日、それがやっと誰かがわかった気がする」
「……それは、私でよかったんでしょうか?」
「もちろん。つか、逢坂がいい」
正面から向けられた言葉に、胸がドキンと跳ね上がる。
そんな優奈を見てか、晴斗が笑った。
「待つのも、案外悪くないな」
「ですね。私も思います」
「なんか、世界が変わって見える」
「それは大袈裟です」
そうは言ったものの、向こう岸に着いた時には世界は少しだけ違っていた。
信号は青から点滅へ、そしてまた赤に戻る。
けれど優奈の胸の中で、止まっていた時間は再び動き出した。
三年前から今日までの空白は、青に変わる一秒の間に、ちゃんと音をたてて埋まったのだ。
春の風が、横断歩道に取り残された花びらをふわりと持ち上げる。
その花びらを指先で受けて、晴斗が優奈の手のひらにそっと移した。
「最初に花びらを受けたやつ、運命の出会いがあるって、友達が言ってた」
「迷信ですよ」
「……そうでもないかな」
晴斗が優奈の手のひらを見て、にやりと笑った。
釣られるようにして、優奈も手のひらの花びらを見る。
薄く、少し透けて、けれど確かに存在していた。
ふたりで笑って、そして歩き出す。
信号がまた青に変わるまで、あと少し。
今度はもう、待つのが怖くなかった。
透明なガラスの塔が並ぶ駅前。春の光はやわらかいのに、空気の冷たさが頬の奥をきゅっと締めつける。
──あと少し。
伸ばした指先が、あの背中の布をかすめる。
けれど、信号が赤に変わって、人々の波が彼の影を飲み込んだ。
「先輩!」
呼んだ声は、車のブレーキ音にかき消され、空へほどけた。
いつも、そこで夢は終わる。
逢坂優奈は、跳ねる心臓のまま目を覚ました。ブラインドの隙間から差す朝の光が、白い天井に細い縞を描いている。
枕元の小さなアラーム──ペンギンの鼻を押すと、短い電子音が止んだ
「……いつになったら、終わるんだろう?」
三年間、同じ夢を見続けてきた。いつも赤で止まり、青に間に合わない自分。
優奈は、机の端に置いてある一冊の文庫本をそっと撫でた。
『群青の黄昏』
藍に沈む海と二人の影が描かれた、光沢のない藍色の表紙。
最後のページには、古ぼけた付箋が一枚。
【今日の夕方、駅前で返して】
その一行の筆跡は、柔らかなのに少し急いでいて。優奈の世界を三年間止めてきた。
早く解放されたい。
そう思うのに、ずっとこのままでいたいとも思っていた。
初恋はずっと、蒼に閉じ込められたままだ。
✱
私立桜栄高校の正門は、毎年変わらず桜をまとっていた。
神崎晴斗は、あくびを噛み殺しながら門をくぐる。肩から提げた鞄が、歩くたびにかすかに鳴った。
「おー、神崎。頭んとこ、花びらおみくじ当たりじゃん」
肩を組んできたのは中学からの友人・三輪恭平だ。指先が晴斗の前髪から、薄桃色の欠片を摘まみ上げる。
「門で最初に花びら受けたやつ、入学式の日に運命の出会いがあるってさ。俺のばあちゃんが言ってた」
「お前のばあちゃん、毎年言ってないか?」
「伝統芸だ」
恭平の笑い声が、春風に混ざって軽やかに響く。
晴斗は苦笑して、花びらを恭平の手のひらに返した。
この春から三年生になる。無益な学校生活。去年の秋に陸上部を辞めてから、やることを見つけられなかった。原因は、肉離れで長く走れなくなったこと。ただ、それよりも、長く走れなくなってしまった自分から目を逸らしていた。
「今年は普通にいくって言ってたよな?」
「言った。普通に、何事もなく卒業する。もう問題は起こさないよ」
干したばかりの布のように軽い会話の向こうで、礼拝堂の鐘が一度だけ鳴る。
晴斗は肩にぬるい陽を受けながら、礼拝堂へと足を向けた。
✱
光で縁取られた長椅子。ステンドグラスの断片が床に散り、春の空気は蜂蜜のように甘く、ゆっくり流れている。
優奈は新入生の列の端にそっと腰を下ろした。制服のスカーフが、動くたびに微かな音を立てる。両膝の上には『群青の黄昏』。いつしかお守り代わりとなってる文庫本だった。
もちろん、この校舎の図書室で借りたものではない。三年前、中学の図書委員室で手渡された一冊だ。
『よかったら、これ。海の描写が綺麗でさ』
何か嫌なことがあって泣いていた優奈に、彼はそう言って一冊の本を手渡した。笑いながら差し出した彼の顔は陽射しのようだったのを、今でも覚えている。
──神崎先輩。
優奈はあの時頷いて、返事の代わりに手を伸ばした。受け取った瞬間、カーテンの陰が揺れて、次の授業のチャイムが鳴ったのだ。
放課後の静かな図書室で、彼と話したのはたった数分だった。でも、傷ついて泣いていて。どうしようもなく辛かったその時間に元気付けられた記憶が、彼の声の温度ごと、今も胸に残っていた。
その日を最後に、先輩は転校することになっていたらしい。以降、連絡はできていない。
残った付箋には『今日の夕方、駅前で返して』とだけ。どこの駅前かまでは、もちろん書いていなかった。
「ここ、座っていい?」
控えめな声に、優奈は顔を上げる。
隣に立っていた男子は、声よりも先、影が静かだった。切り揃えられた前髪の下の目は眠たげで、けれど、何かに触れるのをためらうような慎重さがある。
――似てる。
胸の奥のどこかが、きゅっと縮む。
優奈は慌てて視線を逸らし、膝に指を添えた。
男子は軽く会釈をしてから、隣に腰を下ろす。
校長の挨拶が始まった。マイクの調整音が礼拝堂の天井に白い線を走らせる。
優奈は横顔を見ないように、ステンドグラスの青を見つめていた。視界の端で、彼の睫毛が微かに震えるのがわかった。その目尻に、花粉なのか、赤い小さな影が滲んでいる。
伸びた自分の右手に、優奈はそこで気づいた。
――何してるんだろ、私。
慌てて引っ込めるより先に、彼がこちらを振り向いた。
目が合う。ほんの一瞬だけ、三年前の図書室が重なる。
「……ごめんなさい。目が赤かったから」
優奈は呟いた。
彼は小さく瞬いてから、指で目尻に触れ、淡く笑う。
「アレルギー。この時期はいつもこんな感じなんだ。春、好きなんだけどなぁ」
礼拝堂の空気がほどけるように笑いが漏れ、場内に微かなざわめきが広がった。
優奈は、鼓動を手のひらで押さえるように、本を抱き締めた
✱
式が終わると、校舎案内のグループ分けが始まった。
優奈のグループの引率は、さっきの男子だった。そして、その名前は──。
「三年の神崎晴斗です。校舎案内します」
名前が飛び石のように心を渡った瞬間、優奈は息を呑んだ。
――やっぱり!
口の中で小さく名前を転がしてみると、三年前のそれとまったく同じ音の温度だった。
「ここが理科棟。薬品のニオイがきついから、換気はちゃんと」
「図書館は?」
グループの誰かが尋ねた。
「渡り廊下を抜けて右。昼休みは混むから、朝のうちが穴場」
淡々とした説明の合間に、晴斗の視線が何度か優奈の手元で止まった。藍色の表紙。
教室で配られた新入生ガイダンスの紙が風にめくれ、階段の踊り場でひゅうっと吹いた風が、皆の同じ髪型を一斉に揺らす。渡り廊下の先、空が広がった。
「ここ、好きだな」
思わず漏れた優奈の声に、晴斗が横目で笑う。
「海、見えるしな。天気がいいと、群青って言葉が似合う」
群青。
優奈は胸の奥で小さく身構える。 図書室の前で、優奈は勇気を掬い上げるようにして彼を呼び止めた。
「神崎先輩……あの」
晴斗は足を止め、目で続きを促す。
優奈は、抱えていた藍色の本を差し出した。
「お返し、したくて。三年前……」
晴斗は本を受け取りかけ、ふと手を止めた。
「三年前?」
「中学の図書室で。先輩が、これ貸してくれて」
晴斗の眉がわずかに動く。記憶をなぞる時の速さを、優奈は知っていた。人によって違う。それでも、期待してしまっていた。
「ごめん。俺、たぶん覚えてないわ」
優奈の胸で、何かが柔らかくひしゃげた。
付箋の【今日の夕方、駅前で返して】は、優奈にとって世界の中心でも、彼にとってはメモの端だったのかもしれない。
「……そう、ですか」
目線が落ちる。視界の下で、藍の表紙の角が白く擦れていた。
その時、雨が落ちてきた。
突風でもない、予告なしの雨。渡り廊下の屋根の境目から、斜めの糸が一斉に降りてくる。
「やべ」
晴斗は反射的に優奈と本の上へ自分のブレザーを差し出した。肩で支えられた布の陰が、世界を一気に静かにする。雨音だけが、やけに近くなった。
「濡れるぞ」
「大丈夫です。これ、濡らしたくないだけですから」
優奈が抱えている本に、ふたりの指が同時に触れた。指先が触れ合って、少しだけ跳ねる。
晴斗は笑い方を迷うみたいに目尻を少し下げた。
「それ、そんなに大事?」
「はい。……大事、です」
喉の奥に引っかかっていたものが、雨に溶けるようにこぼれた。
晴斗が、ああ、と小さく息を漏らす。
雨はすぐに上がった。濡れた路面が午後の光を乱反射させる。離れた空には、白い雲がふちどられていた。
晴斗はブレザーを受け取りながら、ちょっとだけ困った顔をする。
「これ、俺が貸したんだよな」
「はい。『群青の黄昏』、海の描写が綺麗って」
晴斗は、藍の表紙をもう一度見た。
「……俺、引っ越したんだ、三年前の春。親の都合で急に。ばたばたしてて、誰に何を言ったか曖昧なんだよな。ごめん」
またこの街に戻ってきたのはほんと偶然、と神崎は笑った。
優奈は頷く。
「私、駅前に行きました。付箋、見て」
「付箋?」
最後のページを開く。
付箋はまだそこにあった。色は安い飴みたいに褪せている。
【今日の夕方、駅前で返して】
晴斗の顔から、少しだけ冗談が抜けた。
「俺の、字……だな。やば。今思い出した」
頬に手を当て、晴斗は小さく笑った。その笑いは、ごめんとありがとうを同時に含んでいる。
「駅で先輩のこと見つけたんですけど、信号が赤で。人も多くて、声も届かなかったんです。青になったら、もう……先輩はいなくて」
「それは……悪かった」
謝罪の言葉が軽くないのは、すぐにわかった。
「なんか、下級生の子が泣いてたからさ。何でもいいから元気付けたかったんだけど……俺、その日引越しで。時間、ギリギリだったんだよ」
晴斗は空を見上げた。
「待てないのは俺の悪い癖だな。もう少し待てばよかったなぁ」
「じゃあ、今日は待ってくれますか?」
優奈は言った。我ながら唐突だったけれど、言葉は戻らなかった。
「今日?」
「はい。今日の放課後。駅前の交差点で。ちゃんと待っててほしいです」
晴斗は目を細め、春の光の濃さを量るみたいに黙った。
そして、こくりと頷く。
「わかった。待つよ」
✱
放課後の駅前は昼の顔を畳んで、夕方の匂いを広げていた。焼き鳥と洗い立ての布の匂い、誰かの笑い声、遠くの犬の鳴き声。
優奈は交差点の手前に立つ。胸の奥で、何かがいつもより静かだった。
『群青の黄昏』は鞄の中だ。最後のページの付箋は、もう用を終えた兵隊みたいに、たわんでいる。
信号機の縁に、夕陽が小さくひっかかっていた。
「待たせた?」
声と一緒に、影が寄る。
晴斗は、約束より五分早かった。
「私が早く来ただけです」
肩の上の空が、薄く藍に寄っていく。
優奈は、鞄から本を取り出した。
「返します。ちゃんと、今度こそ。三年前は、ありがとうございました」
晴斗は両手で本を受け取り、最後のページの付箋を指で押さえた。
「付箋、捨てる?」
「まだ捨てないでください。……青に変わってから、剥がしてほしいです」
彼は笑った。
「ルール、厳しいな」
「ルールじゃなくて、儀式です」
そう、儀式。この三年間の停滞から解放されるための儀式だ。
晴斗は苦笑いを浮かべた。
「儀式ときたか。じゃあ、その儀式ってのを始めよう」
赤い人のシルエットは、誰かの心臓の鼓動みたいに止まっていた。車の列が途切れ、交差点の向こうで風船を持った子どもがジャンプする。
世界が、ひとつ息を吸った。
ふたりで待つ、青に変わる一秒前。
優奈は、ずっと言えなかった言葉を、音にした。
「先輩のことが、好きです」
風が、信号機の金属の縁をかすめていく音がした。
晴斗は驚かなかった。代わりに、少し困ったように目尻を下げた。
「俺、走るのはもうダメだけど。待つのは結構、得意になったのかもな」
その言い方に、優奈は笑った。
──そして今、青へと変わる。
カチリ、と小さな音。人のシルエットが歩き出しに変わる。
晴斗が付箋の端を、ゆっくり剥がした。
「これで、やっと返せたな」
「はい。やっと」
ふたりは、並んで一歩を踏み出す。
青の点滅が始まるまで、まだ十分に時間はあった。
交差点の真ん中で、晴斗が言った。
「逢坂。俺も、たぶん、駅前で誰かを待ってた。名前がわからない『誰か』を。今日、それがやっと誰かがわかった気がする」
「……それは、私でよかったんでしょうか?」
「もちろん。つか、逢坂がいい」
正面から向けられた言葉に、胸がドキンと跳ね上がる。
そんな優奈を見てか、晴斗が笑った。
「待つのも、案外悪くないな」
「ですね。私も思います」
「なんか、世界が変わって見える」
「それは大袈裟です」
そうは言ったものの、向こう岸に着いた時には世界は少しだけ違っていた。
信号は青から点滅へ、そしてまた赤に戻る。
けれど優奈の胸の中で、止まっていた時間は再び動き出した。
三年前から今日までの空白は、青に変わる一秒の間に、ちゃんと音をたてて埋まったのだ。
春の風が、横断歩道に取り残された花びらをふわりと持ち上げる。
その花びらを指先で受けて、晴斗が優奈の手のひらにそっと移した。
「最初に花びらを受けたやつ、運命の出会いがあるって、友達が言ってた」
「迷信ですよ」
「……そうでもないかな」
晴斗が優奈の手のひらを見て、にやりと笑った。
釣られるようにして、優奈も手のひらの花びらを見る。
薄く、少し透けて、けれど確かに存在していた。
ふたりで笑って、そして歩き出す。
信号がまた青に変わるまで、あと少し。
今度はもう、待つのが怖くなかった。



