巨大な交差点で、胸の鼓動だけが人の流れに逆らっていた。
 透明なガラスの塔が並ぶ駅前。春の光はやわらかいのに、空気の冷たさが頬の奥をきゅっと締めつける。
 ──あと少し。
 伸ばした指先が、あの背中の布をかすめる。
 けれど、信号が赤に変わって、人々の波が彼の影を飲み込んだ。

「先輩!」

 呼んだ声は、車のブレーキ音にかき消され、空へほどけた。
 いつも、そこで夢は終わる。
 逢坂優奈は、跳ねる心臓のまま目を覚ました。ブラインドの隙間から差す朝の光が、白い天井に細い縞を描いている。
 枕元の小さなアラーム──ペンギンの鼻を押すと、短い電子音が止んだ

「……いつになったら、終わるんだろう?」

 三年間、同じ夢を見続けてきた。いつも赤で止まり、青に間に合わない自分。
 優奈は、机の端に置いてある一冊の文庫本をそっと撫でた。

『群青の黄昏』

 藍に沈む海と二人の影が描かれた、光沢のない藍色の表紙。
 最後のページには、古ぼけた付箋が一枚。

【今日の夕方、駅前で返して】

 その一行の筆跡は、柔らかなのに少し急いでいて。優奈の世界を三年間止めてきた。
 早く解放されたい。
 そう思うのに、ずっとこのままでいたいとも思っていた。
 初恋はずっと、蒼に閉じ込められたままだ。

   ✱

 私立桜栄高校の正門は、毎年変わらず桜をまとっていた。
 神崎晴斗は、あくびを噛み殺しながら門をくぐる。肩から提げた鞄が、歩くたびにかすかに鳴った。

「おー、神崎。頭んとこ、花びらおみくじ当たりじゃん」

 肩を組んできたのは中学からの友人・三輪恭平だ。指先が晴斗の前髪から、薄桃色の欠片を摘まみ上げる。

「門で最初に花びら受けたやつ、入学式の日に運命の出会いがあるってさ。俺のばあちゃんが言ってた」
「お前のばあちゃん、毎年言ってないか?」
「伝統芸だ」

 恭平の笑い声が、春風に混ざって軽やかに響く。
 晴斗は苦笑して、花びらを恭平の手のひらに返した。
 この春から三年生になる。無益な学校生活。去年の秋に陸上部を辞めてから、やることを見つけられなかった。原因は、肉離れで長く走れなくなったこと。ただ、それよりも、長く走れなくなってしまった自分から目を逸らしていた。

「今年は普通にいくって言ってたよな?」
「言った。普通に、何事もなく卒業する。もう問題は起こさないよ」

 干したばかりの布のように軽い会話の向こうで、礼拝堂の鐘が一度だけ鳴る。
 晴斗は肩にぬるい陽を受けながら、礼拝堂へと足を向けた。

   ✱

 光で縁取られた長椅子。ステンドグラスの断片が床に散り、春の空気は蜂蜜のように甘く、ゆっくり流れている。
 優奈は新入生の列の端にそっと腰を下ろした。制服のスカーフが、動くたびに微かな音を立てる。両膝の上には『群青の黄昏』。いつしかお守り代わりとなってる文庫本だった。
 もちろん、この校舎の図書室で借りたものではない。三年前、中学の図書委員室で手渡された一冊だ。

『よかったら、これ。海の描写が綺麗でさ』

 何か嫌なことがあって泣いていた優奈に、彼はそう言って一冊の本を手渡した。笑いながら差し出した彼の顔は陽射しのようだったのを、今でも覚えている。
 ──神崎先輩。
 優奈はあの時頷いて、返事の代わりに手を伸ばした。受け取った瞬間、カーテンの陰が揺れて、次の授業のチャイムが鳴ったのだ。
 放課後の静かな図書室で、彼と話したのはたった数分だった。でも、傷ついて泣いていて。どうしようもなく辛かったその時間に元気付けられた記憶が、彼の声の温度ごと、今も胸に残っていた。
 その日を最後に、先輩は転校することになっていたらしい。以降、連絡はできていない。
 残った付箋には『今日の夕方、駅前で返して』とだけ。どこの駅前かまでは、もちろん書いていなかった。

「ここ、座っていい?」

 控えめな声に、優奈は顔を上げる。
 隣に立っていた男子は、声よりも先、影が静かだった。切り揃えられた前髪の下の目は眠たげで、けれど、何かに触れるのをためらうような慎重さがある。
 ――似てる。
 胸の奥のどこかが、きゅっと縮む。
 優奈は慌てて視線を逸らし、膝に指を添えた。
 男子は軽く会釈をしてから、隣に腰を下ろす。
 校長の挨拶が始まった。マイクの調整音が礼拝堂の天井に白い線を走らせる。
 優奈は横顔を見ないように、ステンドグラスの青を見つめていた。視界の端で、彼の睫毛が微かに震えるのがわかった。その目尻に、花粉なのか、赤い小さな影が滲んでいる。
 伸びた自分の右手に、優奈はそこで気づいた。
 ――何してるんだろ、私。
 慌てて引っ込めるより先に、彼がこちらを振り向いた。
 目が合う。ほんの一瞬だけ、三年前の図書室が重なる。

「……ごめんなさい。目が赤かったから」

 優奈は呟いた。
 彼は小さく瞬いてから、指で目尻に触れ、淡く笑う。

「アレルギー。この時期はいつもこんな感じなんだ。春、好きなんだけどなぁ」

 礼拝堂の空気がほどけるように笑いが漏れ、場内に微かなざわめきが広がった。
 優奈は、鼓動を手のひらで押さえるように、本を抱き締めた

   ✱

 式が終わると、校舎案内のグループ分けが始まった。
 優奈のグループの引率は、さっきの男子だった。そして、その名前は──。

「三年の神崎晴斗です。校舎案内します」

 名前が飛び石のように心を渡った瞬間、優奈は息を呑んだ。
 ――やっぱり!
 口の中で小さく名前を転がしてみると、三年前のそれとまったく同じ音の温度だった。

「ここが理科棟。薬品のニオイがきついから、換気はちゃんと」
「図書館は?」

 グループの誰かが尋ねた。

「渡り廊下を抜けて右。昼休みは混むから、朝のうちが穴場」

 淡々とした説明の合間に、晴斗の視線が何度か優奈の手元で止まった。藍色の表紙。
 教室で配られた新入生ガイダンスの紙が風にめくれ、階段の踊り場でひゅうっと吹いた風が、皆の同じ髪型を一斉に揺らす。渡り廊下の先、空が広がった。

「ここ、好きだな」

 思わず漏れた優奈の声に、晴斗が横目で笑う。

「海、見えるしな。天気がいいと、群青って言葉が似合う」

 群青。
 優奈は胸の奥で小さく身構える。 図書室の前で、優奈は勇気を掬い上げるようにして彼を呼び止めた。

「神崎先輩……あの」

 晴斗は足を止め、目で続きを促す。
 優奈は、抱えていた藍色の本を差し出した。

「お返し、したくて。三年前……」

 晴斗は本を受け取りかけ、ふと手を止めた。

「三年前?」
「中学の図書室で。先輩が、これ貸してくれて」

 晴斗の眉がわずかに動く。記憶をなぞる時の速さを、優奈は知っていた。人によって違う。それでも、期待してしまっていた。

「ごめん。俺、たぶん覚えてないわ」

 優奈の胸で、何かが柔らかくひしゃげた。
 付箋の【今日の夕方、駅前で返して】は、優奈にとって世界の中心でも、彼にとってはメモの端だったのかもしれない。

「……そう、ですか」

 目線が落ちる。視界の下で、藍の表紙の角が白く擦れていた。
 その時、雨が落ちてきた。
 突風でもない、予告なしの雨。渡り廊下の屋根の境目から、斜めの糸が一斉に降りてくる。

「やべ」

 晴斗は反射的に優奈と本の上へ自分のブレザーを差し出した。肩で支えられた布の陰が、世界を一気に静かにする。雨音だけが、やけに近くなった。

「濡れるぞ」
「大丈夫です。これ、濡らしたくないだけですから」

 優奈が抱えている本に、ふたりの指が同時に触れた。指先が触れ合って、少しだけ跳ねる。
 晴斗は笑い方を迷うみたいに目尻を少し下げた。

「それ、そんなに大事?」
「はい。……大事、です」

 喉の奥に引っかかっていたものが、雨に溶けるようにこぼれた。
 晴斗が、ああ、と小さく息を漏らす。
 雨はすぐに上がった。濡れた路面が午後の光を乱反射させる。離れた空には、白い雲がふちどられていた。
 晴斗はブレザーを受け取りながら、ちょっとだけ困った顔をする。

「これ、俺が貸したんだよな」
「はい。『群青の黄昏』、海の描写が綺麗って」

 晴斗は、藍の表紙をもう一度見た。

「……俺、引っ越したんだ、三年前の春。親の都合で急に。ばたばたしてて、誰に何を言ったか曖昧なんだよな。ごめん」

 またこの街に戻ってきたのはほんと偶然、と神崎は笑った。
 優奈は頷く。

「私、駅前に行きました。付箋、見て」
「付箋?」

 最後のページを開く。
 付箋はまだそこにあった。色は安い飴みたいに褪せている。

【今日の夕方、駅前で返して】

 晴斗の顔から、少しだけ冗談が抜けた。

「俺の、字……だな。やば。今思い出した」

 頬に手を当て、晴斗は小さく笑った。その笑いは、ごめんとありがとうを同時に含んでいる。

「駅で先輩のこと見つけたんですけど、信号が赤で。人も多くて、声も届かなかったんです。青になったら、もう……先輩はいなくて」
「それは……悪かった」

 謝罪の言葉が軽くないのは、すぐにわかった。

「なんか、下級生の子が泣いてたからさ。何でもいいから元気付けたかったんだけど……俺、その日引越しで。時間、ギリギリだったんだよ」

 晴斗は空を見上げた。

「待てないのは俺の悪い癖だな。もう少し待てばよかったなぁ」
「じゃあ、今日は待ってくれますか?」

 優奈は言った。我ながら唐突だったけれど、言葉は戻らなかった。

「今日?」
「はい。今日の放課後。駅前の交差点で。ちゃんと待っててほしいです」

 晴斗は目を細め、春の光の濃さを量るみたいに黙った。
 そして、こくりと頷く。

「わかった。待つよ」

   ✱

 放課後の駅前は昼の顔を畳んで、夕方の匂いを広げていた。焼き鳥と洗い立ての布の匂い、誰かの笑い声、遠くの犬の鳴き声。
 優奈は交差点の手前に立つ。胸の奥で、何かがいつもより静かだった。
『群青の黄昏』は鞄の中だ。最後のページの付箋は、もう用を終えた兵隊みたいに、たわんでいる。
 信号機の縁に、夕陽が小さくひっかかっていた。

「待たせた?」

 声と一緒に、影が寄る。
 晴斗は、約束より五分早かった。
 
「私が早く来ただけです」

 肩の上の空が、薄く藍に寄っていく。
 優奈は、鞄から本を取り出した。

「返します。ちゃんと、今度こそ。三年前は、ありがとうございました」

 晴斗は両手で本を受け取り、最後のページの付箋を指で押さえた。

「付箋、捨てる?」
「まだ捨てないでください。……青に変わってから、剥がしてほしいです」

 彼は笑った。

「ルール、厳しいな」
「ルールじゃなくて、儀式です」

 そう、儀式。この三年間の停滞から解放されるための儀式だ。
 晴斗は苦笑いを浮かべた。

「儀式ときたか。じゃあ、その儀式ってのを始めよう」

 赤い人のシルエットは、誰かの心臓の鼓動みたいに止まっていた。車の列が途切れ、交差点の向こうで風船を持った子どもがジャンプする。
 世界が、ひとつ息を吸った。
 ふたりで待つ、青に変わる一秒前。
 優奈は、ずっと言えなかった言葉を、音にした。

「先輩のことが、好きです」

 風が、信号機の金属の縁をかすめていく音がした。
 晴斗は驚かなかった。代わりに、少し困ったように目尻を下げた。

「俺、走るのはもうダメだけど。待つのは結構、得意になったのかもな」

 その言い方に、優奈は笑った。
 ──そして今、青へと変わる。
 カチリ、と小さな音。人のシルエットが歩き出しに変わる。
 晴斗が付箋の端を、ゆっくり剥がした。

「これで、やっと返せたな」
「はい。やっと」

 ふたりは、並んで一歩を踏み出す。
 青の点滅が始まるまで、まだ十分に時間はあった。
 交差点の真ん中で、晴斗が言った。

「逢坂。俺も、たぶん、駅前で誰かを待ってた。名前がわからない『誰か』を。今日、それがやっと誰かがわかった気がする」
「……それは、私でよかったんでしょうか?」
「もちろん。つか、逢坂がいい」

 正面から向けられた言葉に、胸がドキンと跳ね上がる。
 そんな優奈を見てか、晴斗が笑った。

「待つのも、案外悪くないな」
「ですね。私も思います」
「なんか、世界が変わって見える」
「それは大袈裟です」

 そうは言ったものの、向こう岸に着いた時には世界は少しだけ違っていた。
 信号は青から点滅へ、そしてまた赤に戻る。
 けれど優奈の胸の中で、止まっていた時間は再び動き出した。
 三年前から今日までの空白は、青に変わる一秒の間に、ちゃんと音をたてて埋まったのだ。
 春の風が、横断歩道に取り残された花びらをふわりと持ち上げる。
 その花びらを指先で受けて、晴斗が優奈の手のひらにそっと移した。

「最初に花びらを受けたやつ、運命の出会いがあるって、友達が言ってた」
「迷信ですよ」
「……そうでもないかな」

 晴斗が優奈の手のひらを見て、にやりと笑った。
 釣られるようにして、優奈も手のひらの花びらを見る。
 薄く、少し透けて、けれど確かに存在していた。
 ふたりで笑って、そして歩き出す。
 信号がまた青に変わるまで、あと少し。
 今度はもう、待つのが怖くなかった。