湿った草の香りが、鼻の奥をくすぐった。

 目を開けた瞬間、視界に広がったのは、見慣れない青空だった。どこまでも透き通っているのに、なぜか息が重い。



 研究室じゃない。

 てか、ここどこ。



 俺⋯⋯ユウは、上体を起こしてあたりを見回した。白衣は泥にまみれ、手の中には粉砕した薬草の破片。最後の記憶は、研究中の試薬が予想外の反応を起こして……爆ぜた、そこまでだ。



 辺りには巨大な樹木が立ち並び、葉の先から青白い光が滴っている。まるで蛍光菌が宿ったような幻想的な森。

 遠くで鳥とも獣ともつかない声が鳴いた。



 「……異世界転生って、マジであるんだな」



 口にしてみると、意外と現実味を帯びて聞こえた。

 だが現実なら、まず生き延びなきゃならない。喉が渇き、体は鉛のように重い。



 と、その時、風に乗って金属の音がした。

 カン、カン……甲冑の擦れる音。



 音の方を向くと、木々の間から一台の馬車が見えた。白い布で覆われた豪華な車体が揺れ、その周囲を銀鎧の騎士たちが固めている。



 そして、馬車の扉が開いた。



 金色の髪が、風に舞う。

 陽光を受けて、宝石のように輝いていた。



 「……なにをしているの、あなた」



 馬車の中から現れた少女。その瞳は冷たく、声は澄んでいた。

 けれどその顔には、かすかな疲労の影が差している。



 「えっと……その、道に迷いまして」

 「この森に道なんて存在しませんわ」



 彼女は眉ひとつ動かさずに言い放った。

 背後の騎士が俺に剣を向ける。やばい。



 「待って、怪しい者では!」

 「怪しくない者が泥だらけで倒れていると思って?」



 鋭い。正論だ。

 ただ、近くで見れば見るほど、その少女の顔立ちは息をのむほど整っていた。

 その美しさに圧倒されつつも、俺は気づいた。

 彼女の唇の端が、かすかに青い。



 「……失礼ですが、少し顔色が悪いですね」

 「は?」

 「貧血か、あるいは体温調整の異常かも……すぐに休まれたほうが」



 言いながら、俺は無意識にポケットを探った。

 そこに、奇跡的に残っていたのは試作品の携帯型調合キット。

 ビーカーも秤も簡易だが、即席の薬なら作れる。



 少女。後に俺が知ることになるエリナ・フォン・カーディアは、訝しげに俺を見下ろした。

 「あなた、何者?」

 「薬師です。……多分」



 騎士たちがざわめく。だが、彼女は小さく手を上げて彼らを制した。



 「いいわ。面白そうだから、ついてきなさい」



 その一言で、俺の運命は決まった。



 こうして、悪役令嬢と呼ばれる少女と、迷い込んだ薬学オタクの奇妙な物語が始まる。




馬車の中は、想像以上に静かだった。

 豪奢な内装。深紅のカーペット。銀糸で刺繍された王家の紋章。

 そのすべてが、ここが上の世界の人間の乗り物だと告げていた。



 対面の席に座るエリナ・フォン・カーディアは、腕を組んだまま窓の外を見ている。

 表情は氷のように硬いが、時折その手が小さく震えていた。

 馬車が揺れるたび、微かな吐息がこぼれる。



 「……本当に大丈夫ですか?」

 問いかけると、彼女は一瞬だけこちらを見た。

 「あなたこそ。拾われてすぐに馬車に乗るなんて、ずいぶん図々しいのね」

 「いや、あなたがついてこいって言ったじゃないですか」

 「忘れました」



 乾いた返事。だがその頬はかすかに赤く、額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 典型的な熱発の兆候。



 俺は腰のバッグから、奇跡的に無事だったメモ帳を取り出した。

 この世界でも、人体の基本構造は同じだろう。

 ならば、薬理の理屈も応用できるはずだ。



 「なにをしているの?」

 「薬を、少し」

 「馬車の中で?」

 「ええ、馬車の中で」



 エリナが眉をひそめる。

 俺は瓶に入った草を数本取り出し、香りを確かめた。青臭いが、微かに甘い匂いがある。β-シトラールに近い。つまり、鎮静作用が見込める。

 次に取り出したのは、薄紫色の花弁。樹液が冷却効果をもつなら、発熱にも効くはずだ。



 俺は手のひらでそれらを擦り合わせ、持っていた金属皿の上で加熱する。

 馬車の中でこんなことをするのは非常識だが、そんなことを言っていられる状況ではない。



 「……香りが、違う」

 エリナがわずかに目を細めた。

 「落ち着くでしょう。深呼吸してみてください」

 彼女は一瞬迷ったが、やがて小さく息を吸った。

 淡い香気が満ちる。

 瞳がふと柔らいだ⋯⋯その一瞬だけ。



 だが次の瞬間、馬車が大きく揺れた。

 「っ……!」

 エリナが身体を支え損ね、俺の方へ倒れ込んでくる。

 咄嗟に腕を伸ばし、受け止めた。体温が高い。やはり熱だ。



 「触らないで」

 「倒れる人間にそんなこと言われても困ります」

 「不敬罪って知ってる?」

 「薬理学的に意味がない罪です」



 思わずそう口走ってしまった。

 エリナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして小さく笑った。

 それは、氷がひび割れるような笑みだった。



 馬車が城門をくぐる頃には、彼女の意識はもう朦朧としていた。



 カーディア侯爵家の屋敷は、街の中央部にそびえる巨大な邸宅だった。

 石造りの門を抜けると、噴水があり、花々が整然と咲き誇っている。

 だが、その美しさの裏に、どこか冷えた空気が漂っていた。



 出迎えた執事が慌ててエリナを抱きかかえる。

 「お嬢様……! また発作が――!」

 「落ち着いてください、俺が診ます」

 「何者だ貴様!」



 剣の切っ先が再び俺の喉元に突きつけられる。

 「彼は私が連れてきたの……下がりなさい」

 かすれた声。意識が朦朧としているはずなのに、彼女の命令には抗えない威圧があった。

 騎士たちは渋々下がり、俺はそのまま彼女の寝室へ案内された。



 部屋の中は薄暗く、香の匂いが充満している。

 天蓋付きのベッドにエリナを寝かせ、俺は窓を開け放った。

 「空気を入れ替えます。香の煙が呼吸を悪化させてる」

 「それは……王宮の薬師が処方したものだぞ」

 「原因を特定せずに香だけ焚くのは、悪化させる行為です」



 執事は唖然としていた。だが、俺は迷わなかった。

 持ってきた試験管にエリナの汗を一滴採り、匂いと反応を確かめる。

 熱性中毒だ。恐らく、慢性的な魔力過剰による代謝障害。



 この世界では魔力が生命の一部らしい。だが、過剰な魔力は体内で熱を生み、やがて臓器を焼く。

 医学的に見れば、それは未知の炎症性疾患だ。



 「治せるのか?」

 執事が怯えた声で問う。

 「完全には。けど、少なくとも熱は下げられます」



 俺は机の上に広げられた乾燥薬草の束を見て、息をのんだ。

 なんだこのクオリティ。

 見たことのない種類が混じっている。葉脈が青く光るもの、液化した魔力を含む花弁。



 「すげぇ……」

 「な、なにをしている?」

 「最高の素材だ。これなら――?」



 俺はそれらを手際よく刻み、蒸留皿の上に並べた。

 魔力反応で加熱される器具を見つけ、直感的に理解する。

 ⋯⋯こっちの世界の錬金器具だな。原理は似てる。



 数分後、透明な液体が皿の縁に滴り始めた。

 香りは柑橘と草の中間、刺激性は低い。即効性のある解熱・鎮静剤。



 「口を開けさせて」

 「お嬢様に何を――!」

 「飲ませなきゃ死にます」



 静かな声で言うと、執事はわずかに怯んだ。

 俺はスプーンで薬液をすくい、エリナの唇に流し込んだ。

 最初は拒むように喉が動いたが、すぐにすべてを飲み込んだ。



 数分後、彼女の呼吸が穏やかになり、額の汗が少しずつ引いていく。

 その変化を見て、俺はほっと息を吐いた。



 「……助かったのか?」

 「熱は下がります。根本治療は、これから考えます」



 その言葉に、執事は深々と頭を下げた。

 「ありがとうございます。あなたは、どちらの薬師様で……?」

 「えっと、ただの通りすがりの薬マニアです」



 場が一瞬だけ静まり、次の瞬間、後ろで誰かが小さく笑った。

 ベッドの方を振り向くと、エリナが目を開けていた。



 「……薬マニア、ね」

 「起きたんですか!?」

 「うるさい。声が響く」



 その口調はまだ弱々しいが、さっきまでの冷たさとは違っていた。

 彼女はしばらく俺を見つめ、やがてほんのわずかに口元を緩めた。



 「あなた、少し変わっているわね」

 「よく言われます」

 「……でも、悪くない香りだった」



 その言葉を最後に、彼女は再び目を閉じた。

 寝息が静かに響く。



 部屋の外では、騎士たちのざわめきが広がっていた。

 「王宮薬師ですら治せなかった病を……」

 「何者だ、あの男は」



 だが俺は、そんな視線を気にする余裕もなかった。

 ただ、エリナの寝顔を見て思った。



 この世界の薬は、まだまだわからないことだらけだ。

 けど、彼女を助ける手段があるなら、俺の知識を全部使ってやる。



 その決意とともに、夜が更けていった。




翌朝、光が差し込む。

 カーテンの隙間から漏れる陽光が、銀の装飾をやわらかく照らしていた。



 エリナ・フォン・カーディアは目を覚ました。

 昨夜の熱は嘘のように引き、頬にはうっすらと血の色が戻っている。

 寝台の傍らには、椅子に寄りかかって眠るユウの姿。

 泥だらけの白衣に、無骨な手。呼吸が静かで、少し猫背。



 「……変な人」



 囁くように呟く。

 思い出す。あの香り。草の匂いの奥に、かすかな甘さ。

 眠りに落ちる直前、自分の頬を撫でた手の温度――。



 彼女はそっとシーツを握り、顔を背けた。

 まるで自分の心の動きを見られたくないかのように。



 「お嬢様……!」

 扉の向こうで、執事が声をあげる。

 「ご回復のようで何よりです。王太子殿下がお見えに――」

 「……っ」



 その名が告げられた瞬間、エリナの肩がわずかに強張った。

 そして、まだ眠っているユウを見て、ため息をつく。

 「――起こして。変な姿で寝られると、こちらが恥をかくわ」



 数分後、王子が部屋に入ってきた。

 白と金を基調とした軍装、絵に描いたような美貌。

 エリナと並べば、誰もが理想の婚約者と呼ぶだろう。



 「久しいな、エリナ」

 「殿下。ご心配をおかけしました」

 「まさか倒れていたとは聞いたが……それで、あの男は?」



 王子の視線がユウに突き刺さる。

 俺は姿勢を正し、ぎこちなく頭を下げた。

 「えっと、通りすがりの薬師です。命を助けたのは偶然でして」

 「通りすがりが侯爵家の屋敷に入り込むとは奇妙だな」



 声の奥に、冷たい棘があった。

 それは彼が王太子であることを嫌でも思い出させた。



 「殿下、彼は――」

 「エリナ、君はまた怪しい者を庇うのか?」



 その一言に、部屋の空気が一変した。

 侍女たちが息をのむ。

 エリナは唇をかすかに噛み、視線を床に落とす。



 「庇ってなどおりません。ただ――」

 「言い訳は聞き飽きた」

 王子は一歩近づき、低い声で続けた。

 「君がどんな噂で呼ばれているか知っているか? 悪役令嬢だ。人を見下し、毒を盛り、婚約者の座にしがみつく女だと」



 沈黙。

 その言葉は、ナイフのように鋭く突き刺さった。



 俺は思わず前に出た。

 「殿下、それは――」

 「下がれ。平民が口を挟むな」



 怒鳴り声が響いた。

 けれど、俺の中で何かが弾けた。



 「薬で助けられる命を見捨てるような人が、王になるんですか」



 その場の全員が凍りついた。

 エリナでさえ、驚きに目を見開いている。

 王子の顔に、怒りの色が滲んだ。



 「……面白い。だが、言葉には責任を持て」

 「もちろん」



 俺は一歩も退かなかった。

 科学の世界で、どんな権威も結果の前では平等だった。

 ここでも、それは変わらない。



 エリナが静かに口を開いた。

 「殿下。彼の薬で、私は救われました。それだけは事実です」

 「……」

 王子はしばらく沈黙し、やがて小さく鼻で笑った。

 「好きにすればいい。だが、後悔するな」



 そのまま背を向け、侍従を従えて部屋を出ていった。

 残された空気は、ひどく重かった。



 扉が閉まると、エリナはベッドの縁に腰を下ろした。

 彼女の顔には、疲労よりも別の影が浮かんでいる。



 「……今の、余計なことを」

 「放っておけませんよ」

 「あなた、立場がわかってないわね。殿下はこの国の次期国王。逆らえば首が飛ぶ」

 「薬師は、人の体を治す仕事です。立場とか関係ない」



 しばらく沈黙が続いた。

 その沈黙の中で、エリナは小さく笑った。

 「そんな言葉、久しぶりに聞いた気がする」



 窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らす。

 その微笑はほんの一瞬、氷が溶けるように柔らかかった。



 昼過ぎ。

 屋敷の庭を歩きながら、俺は異世界の空気をもう一度吸い込んだ。

 花の匂い。湿った土。どこか懐かしい薬草の香り。

 この世界の植物を調べれば、もっと多くの命を救えるかもしれない。



 足元には、小さな白い花が咲いていた。

 指で摘み取り、香りを確かめる。わずかに苦味のある芳香。アピオール系か。鎮痛作用が期待できる。



 「また草を嗅いでるの?」



 振り向くと、エリナが立っていた。

 淡い青のドレスに着替え、先ほどよりずっと穏やかな顔。



 「いえ、研究です」

 「研究って、そんなに楽しいもの?」

 「俺にとっては、生きてる理由みたいなもんです」



 エリナは小さく息を吐き、空を見上げた。

 「……不思議ね。あなたの話を聞いていると、少しだけ心が軽くなる」

 「それはきっと、薬草の香りのせいです」

 「違うと思うわ」



 彼女がそう言って笑ったとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。



 その夜。

 俺は自室の机に向かい、手帳を開いた。



 この世界の薬理構造は、魔力と密接に関係している。

 魔力の流れ=代謝。過剰蓄積による熱=エネルギー暴走。

 つまり、魔法を抑える薬を作れれば、病も戦も変えられる。



 ペンを握る指が震えた。

 未知の世界。未知の理論。けれど、そこには確かに科学が息づいている。



 「――薬で助ける。薬で変える」



 自分に言い聞かせるように呟いた。

 あの令嬢を救ったように、もっと多くを救えるはずだ。

 そして、その過程で、彼女が再び笑う瞬間を見たいと思った。



 夜風が窓を揺らした。

 その音に紛れて、遠くで鐘が鳴る。



 始まりの鐘のように、静かで、確かに響いていた。




日が傾き、屋敷の廊下に長い影が落ちた。

 エリナ・フォン・カーディアは久しぶりに笑顔を取り戻したかのように見えたが、その微笑みはどこか儚く、掴みどころがなかった。

 「――今日は、少し外を歩きましょう」

 侍女たちの視線が揃って彼女に向かう。けれど、その目の奥には、恐怖にも似た緊張が潜んでいることを、俺は知っていた。



 その頃、俺は自室で薬の調合をしていた。

 あの小さな白い花の成分を基に、鎮痛と免疫回復の複合薬を作り上げる。手のひらで温度を感じ、指先で香りを嗅ぐ。異世界の草花は、この世界の魔力に反応するため、成分ひとつで生死を左右する。



 「……まさか、また事件が」

 不意に、心臓が跳ねた。屋敷の侍従が緊張した声で駆け込んできたのだ。

 「お嬢様が、毒を――!」

 「毒……?」

 俺は即座に白衣を羽織り、手に薬壺を握り締めた。



 庭に向かう途中、エリナはゆっくりと歩いていた。

 日没の光が赤く彼女の髪を照らし、いつもの高飛車な雰囲気は消え、ほんの少し不安げな影を落としている。

 「……あの、ユウ」

 「はい」

 「私、こう見えて……怖いの」



 その言葉に、胸がぎゅっとなる。

 笑顔の裏で、心が壊れそうなほど揺れている人間を、俺は初めて見た。

 「怖いときは、誰かに頼っていいんだよ」

 つい、自然に声が出ていた。



 彼女は一瞬驚いた顔をしてから、ゆっくりとうなずく。

 「――ありがとう」



 だが、その平和は長くは続かなかった。



 庭園の噴水付近で、突然、侍女の一人が叫んだ。

 「お嬢様――!」

 見ると、エリナが膝をつき、苦悶の表情を浮かべて倒れかかっている。

 「――毒だ!」

 俺はすぐに駆け寄り、手元にある薬を振りかけた。成分が魔力と反応して、空気中に微かな蒸気が立ち上がる。



 彼女の瞳がわずかに揺れ、呼吸が乱れる。

 「大丈夫……すぐに……効くはず……」

 声が震える。俺の手も震えていた。だが、計算は正確だ。成分の比率、吸収速度、魔力の流れ……すべて頭の中で再現される。



 数分後、エリナの体が少し落ち着いた。

 汗で濡れた髪が顔に張り付く。

 「……ユウ、ありがとう……」

 その声には、ほんのわずか、普段見せない優しさと信頼が含まれていた。



 事件の余波は屋敷中を駆け巡った。

 侍従たちは騒ぎ、王子はまたもや現れた。だが、今回は違った。

 「……これは単なる偶然か?」

 眉をひそめながらも、彼の目は俺を鋭く見つめる。

 「王子殿下、偶然ではありません。科学と魔力の反応を組み合わせれば、毒も救えるのです」

 王子は黙り込む。言葉を返せないまま、ただ俺を観察している。



 そして、エリナが低く、しかし確かな声で言った。

 「――ユウなら、助けられる」



 その言葉に、俺は胸が熱くなった。

 命を救うこと。それは単なる薬師の職務だけではなく、彼女の心を支える力でもあったのだ。



 深夜、屋敷の書斎で、俺は暗く長い影を眺めていた。

 悪役令嬢の呼称、その重さ。王族と貴族社会の目。陰謀、嫉妬、策略……。

 それでも、薬で救える命はある。

 それでも、彼女の笑顔をもう一度見たい。



 ペンを取り、手帳に書き込む。



 「毒は、防げる。心も、少しずつ守れる」

 「薬の力で、彼女を振り向かせる」



 深夜の静寂の中、遠くで鐘が鳴る。

 その音は、再び始まりを告げているようだった。




 翌朝、屋敷の空気は一変していた。

 侍従たちは口々に囁き、廊下の壁にかけられた肖像画の王族の視線が、いつもより鋭く感じられる。

 エリナ・フォン・カーディアは、薄青のドレスを身にまとい、微笑を絶やさずに歩いていた。しかしその微笑みの奥には、昨夜の毒事件の余波がまだ色濃く残っている。



 「……ユウ、今日も手伝ってくれる?」

 「もちろん」

 庭園の薬草を観察するふりをしながら、俺は内心で計算を巡らせる。

 あの毒の成分は特殊で、魔力との反応速度が非常に速い。短時間で分解させなければ、命に関わる。



 その時、王子が再び現れた。

 白と金の軍装を身にまとい、顔は少し険しい。

 「エリナ。君の警護は充分か?」

 「殿下、もう大丈夫です」

 だが、王子の視線は俺に向けられていた。

 「薬師……君の手腕は本物か?」



 俺は小さくうなずいた。

 「この世界の魔力と化学反応を組み合わせれば、治療も防御も可能です」

 王子は目を細め、微かに唇を動かしたが、言葉は続かない。



 昼下がり。

 屋敷の奥で密談が行われていた。

 エリナの名を貴族たちが陰で呟く声。

 「悪役令嬢が、王子に媚びている……」

 「あの薬師と結託しているらしい」

 言葉には嫉妬と恐怖、陰謀の匂いが混じる。



 その中で、俺は冷静に分析する。

 今回の毒は、意図的にエリナの命を狙ったもの。

 だが、成分の配合から、仕掛け人は未熟。魔力の流れを読み誤っている。

 この世界の薬学と魔力の知識があれば、彼らの手口を暴くことは可能だ。



 夕刻。

 庭園の一角で、エリナが俺に話しかける。

 「ユウ、私……あなたに助けられて、本当に良かった」

 「命を守るのが薬師の仕事です」

 「でも……あなた、何も怖くないの?」

 その質問に、胸が少し痛む。

 「怖くないわけがない。でも、守りたいと思う命があるから」



 その時、背後で不意に物音がした。

 影が素早く動く。

 「――っ」

 俺は即座に反応し、手元の薬壺を投げつけた。透明な液体が空中で反応し、煙のように広がる。

 襲撃者は一瞬動きを止め、その隙に俺は近づく。

 黒ずくめの男――貴族の下僕だろう――が、毒入りの矢を握りしめていた。



 「エリナ、後ろ!」

 彼女をかばいながら、薬の反応を利用して矢を無力化する。

 煙が消え、矢は地面に落ちた。

 「……ユウ!」

 その目には、驚きと感謝が同時に浮かんでいる。



 夜。

 屋敷の書斎で、俺は事件の全貌を整理する。

 毒の成分、魔力の流れ、犯人の行動パターン。

 紙に書き出すことで、次に起こる可能性を事前に計算できる。



 その隣で、エリナが静かに座っていた。

 「ユウ、私……あなたを信じていい?」

 その一言に、心が揺れた。

 「もちろん。信頼してくれ」

 彼女は小さくうなずき、ほっとしたように肩の力を抜く。



 その夜、俺は決意を新たにした。

 「この世界で、薬で人を救う。そして、あの人の心も――」



 外では遠くで鐘が鳴り、闇に染まった屋敷を包む。

 静かな夜の中で、薬と魔力と信頼が交錯する。




屋敷の大広間には、貴族や王族の視線が鋭く光っていた。

 エリナはいつもの高飛車な表情を少し引き締め、王子の前に立つ。

 「――私は、もう逃げません」

 その言葉に、ざわめきが走る。

 王子は眉をひそめるが、どこか興味深げに見つめている。



 俺は静かに薬壺を手に持ち、準備を整える。

 昨日までの事件で得た情報と、魔力の反応を元に、屋敷内に潜む毒や陰謀の仕掛けを事前に無力化する。

 紙に書き出した計算は間違いなく、反応時間、濃度、魔力の流れすべて完璧だ。



 すると、黒ずくめの影が大広間の端から現れる。

 「――仕掛け人は、そなたか?」

 影は冷たい笑みを浮かべるが、俺の手元の薬が微かに光り、魔力の流れを逆流させる。

 矢や毒針が床に落ち、影の人間は一瞬動揺する。



 「エリナ、下がって!」

 彼女をかばいながら、俺は計算通りに薬を使い、敵の攻撃を完全に無力化する。

 影が慌てて逃げ出す。大広間に安堵の空気が流れた。



 事件解決後、王子が静かに前に出る。

 「……薬師よ、君の技量は確かに見た」

 その言葉に、エリナは微かに顔を上げる。

 「ユウがいなければ、私は……」

 言葉を止め、目を伏せる。その小さな仕草に、俺は胸が熱くなる。



 夜、屋敷の書斎。

 エリナはそっと俺の隣に座る。

 「ユウ、私……あなたにお願いがある」

 「何でも」

 「……これからも、私のそばで、守ってほしい」



 その言葉に、俺は小さく笑った。

 「もちろんだ。薬で、命も心も守る」

 彼女の頬が赤く染まり、初めて見せる弱さと信頼に、胸がじんとする。



 その後、屋敷は平穏を取り戻す。

 陰謀の首謀者たちは明るみに出され、貴族社会の波紋も次第に静まる。

 王子はエリナに冷たさを保ちながらも、微かな信頼の目を向ける。

 そして、俺の薬学知識が、この世界での権力闘争に一つの秩序をもたらしたのだ。



 深夜、庭園。

 星が瞬き、微風が花の香りを運ぶ。

 エリナは静かに俺の手を取る。

 「……ありがとう、ユウ」

 「これからも、ずっと」

 その約束は言葉以上の重みを持ち、屋敷の闇を溶かしていく。



 数日後、俺は再び薬草を手に取り、調合を始める。

 「この世界には、まだ救える命がある」

 エリナは隣で微笑み、時折手伝いながら言った。

 「ユウの薬があれば、何でもできそう」

 「そうだね、でも一歩ずつだ」



 異世界での生活は、依然として予測不能で、困難も多い。

 だが、薬と信頼があれば、未来は少しずつ変えられる――そう信じられた。



 闇夜の屋敷で、二人の影が寄り添う。

 薬師と悪役令嬢――奇妙な組み合わせの冒険は、ここから本当の意味で始まるのだった。