湿った草の香りが、鼻の奥をくすぐった。
目を開けた瞬間、視界に広がったのは、見慣れない青空だった。どこまでも透き通っているのに、なぜか息が重い。
研究室じゃない。
てか、ここどこ。
俺⋯⋯ユウは、上体を起こしてあたりを見回した。白衣は泥にまみれ、手の中には粉砕した薬草の破片。最後の記憶は、研究中の試薬が予想外の反応を起こして……爆ぜた、そこまでだ。
辺りには巨大な樹木が立ち並び、葉の先から青白い光が滴っている。まるで蛍光菌が宿ったような幻想的な森。
遠くで鳥とも獣ともつかない声が鳴いた。
「……異世界転生って、マジであるんだな」
口にしてみると、意外と現実味を帯びて聞こえた。
だが現実なら、まず生き延びなきゃならない。喉が渇き、体は鉛のように重い。
と、その時、風に乗って金属の音がした。
カン、カン……甲冑の擦れる音。
音の方を向くと、木々の間から一台の馬車が見えた。白い布で覆われた豪華な車体が揺れ、その周囲を銀鎧の騎士たちが固めている。
そして、馬車の扉が開いた。
金色の髪が、風に舞う。
陽光を受けて、宝石のように輝いていた。
「……なにをしているの、あなた」
馬車の中から現れた少女。その瞳は冷たく、声は澄んでいた。
けれどその顔には、かすかな疲労の影が差している。
「えっと……その、道に迷いまして」
「この森に道なんて存在しませんわ」
彼女は眉ひとつ動かさずに言い放った。
背後の騎士が俺に剣を向ける。やばい。
「待って、怪しい者では!」
「怪しくない者が泥だらけで倒れていると思って?」
鋭い。正論だ。
ただ、近くで見れば見るほど、その少女の顔立ちは息をのむほど整っていた。
その美しさに圧倒されつつも、俺は気づいた。
彼女の唇の端が、かすかに青い。
「……失礼ですが、少し顔色が悪いですね」
「は?」
「貧血か、あるいは体温調整の異常かも……すぐに休まれたほうが」
言いながら、俺は無意識にポケットを探った。
そこに、奇跡的に残っていたのは試作品の携帯型調合キット。
ビーカーも秤も簡易だが、即席の薬なら作れる。
少女。後に俺が知ることになるエリナ・フォン・カーディアは、訝しげに俺を見下ろした。
「あなた、何者?」
「薬師です。……多分」
騎士たちがざわめく。だが、彼女は小さく手を上げて彼らを制した。
「いいわ。面白そうだから、ついてきなさい」
その一言で、俺の運命は決まった。
こうして、悪役令嬢と呼ばれる少女と、迷い込んだ薬学オタクの奇妙な物語が始まる。
馬車の中は、想像以上に静かだった。
豪奢な内装。深紅のカーペット。銀糸で刺繍された王家の紋章。
そのすべてが、ここが上の世界の人間の乗り物だと告げていた。
対面の席に座るエリナ・フォン・カーディアは、腕を組んだまま窓の外を見ている。
表情は氷のように硬いが、時折その手が小さく震えていた。
馬車が揺れるたび、微かな吐息がこぼれる。
「……本当に大丈夫ですか?」
問いかけると、彼女は一瞬だけこちらを見た。
「あなたこそ。拾われてすぐに馬車に乗るなんて、ずいぶん図々しいのね」
「いや、あなたがついてこいって言ったじゃないですか」
「忘れました」
乾いた返事。だがその頬はかすかに赤く、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
典型的な熱発の兆候。
俺は腰のバッグから、奇跡的に無事だったメモ帳を取り出した。
この世界でも、人体の基本構造は同じだろう。
ならば、薬理の理屈も応用できるはずだ。
「なにをしているの?」
「薬を、少し」
「馬車の中で?」
「ええ、馬車の中で」
エリナが眉をひそめる。
俺は瓶に入った草を数本取り出し、香りを確かめた。青臭いが、微かに甘い匂いがある。β-シトラールに近い。つまり、鎮静作用が見込める。
次に取り出したのは、薄紫色の花弁。樹液が冷却効果をもつなら、発熱にも効くはずだ。
俺は手のひらでそれらを擦り合わせ、持っていた金属皿の上で加熱する。
馬車の中でこんなことをするのは非常識だが、そんなことを言っていられる状況ではない。
「……香りが、違う」
エリナがわずかに目を細めた。
「落ち着くでしょう。深呼吸してみてください」
彼女は一瞬迷ったが、やがて小さく息を吸った。
淡い香気が満ちる。
瞳がふと柔らいだ⋯⋯その一瞬だけ。
だが次の瞬間、馬車が大きく揺れた。
「っ……!」
エリナが身体を支え損ね、俺の方へ倒れ込んでくる。
咄嗟に腕を伸ばし、受け止めた。体温が高い。やはり熱だ。
「触らないで」
「倒れる人間にそんなこと言われても困ります」
「不敬罪って知ってる?」
「薬理学的に意味がない罪です」
思わずそう口走ってしまった。
エリナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして小さく笑った。
それは、氷がひび割れるような笑みだった。
馬車が城門をくぐる頃には、彼女の意識はもう朦朧としていた。
カーディア侯爵家の屋敷は、街の中央部にそびえる巨大な邸宅だった。
石造りの門を抜けると、噴水があり、花々が整然と咲き誇っている。
だが、その美しさの裏に、どこか冷えた空気が漂っていた。
出迎えた執事が慌ててエリナを抱きかかえる。
「お嬢様……! また発作が――!」
「落ち着いてください、俺が診ます」
「何者だ貴様!」
剣の切っ先が再び俺の喉元に突きつけられる。
「彼は私が連れてきたの……下がりなさい」
かすれた声。意識が朦朧としているはずなのに、彼女の命令には抗えない威圧があった。
騎士たちは渋々下がり、俺はそのまま彼女の寝室へ案内された。
部屋の中は薄暗く、香の匂いが充満している。
天蓋付きのベッドにエリナを寝かせ、俺は窓を開け放った。
「空気を入れ替えます。香の煙が呼吸を悪化させてる」
「それは……王宮の薬師が処方したものだぞ」
「原因を特定せずに香だけ焚くのは、悪化させる行為です」
執事は唖然としていた。だが、俺は迷わなかった。
持ってきた試験管にエリナの汗を一滴採り、匂いと反応を確かめる。
熱性中毒だ。恐らく、慢性的な魔力過剰による代謝障害。
この世界では魔力が生命の一部らしい。だが、過剰な魔力は体内で熱を生み、やがて臓器を焼く。
医学的に見れば、それは未知の炎症性疾患だ。
「治せるのか?」
執事が怯えた声で問う。
「完全には。けど、少なくとも熱は下げられます」
俺は机の上に広げられた乾燥薬草の束を見て、息をのんだ。
なんだこのクオリティ。
見たことのない種類が混じっている。葉脈が青く光るもの、液化した魔力を含む花弁。
「すげぇ……」
「な、なにをしている?」
「最高の素材だ。これなら――?」
俺はそれらを手際よく刻み、蒸留皿の上に並べた。
魔力反応で加熱される器具を見つけ、直感的に理解する。
⋯⋯こっちの世界の錬金器具だな。原理は似てる。
数分後、透明な液体が皿の縁に滴り始めた。
香りは柑橘と草の中間、刺激性は低い。即効性のある解熱・鎮静剤。
「口を開けさせて」
「お嬢様に何を――!」
「飲ませなきゃ死にます」
静かな声で言うと、執事はわずかに怯んだ。
俺はスプーンで薬液をすくい、エリナの唇に流し込んだ。
最初は拒むように喉が動いたが、すぐにすべてを飲み込んだ。
数分後、彼女の呼吸が穏やかになり、額の汗が少しずつ引いていく。
その変化を見て、俺はほっと息を吐いた。
「……助かったのか?」
「熱は下がります。根本治療は、これから考えます」
その言葉に、執事は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたは、どちらの薬師様で……?」
「えっと、ただの通りすがりの薬マニアです」
場が一瞬だけ静まり、次の瞬間、後ろで誰かが小さく笑った。
ベッドの方を振り向くと、エリナが目を開けていた。
「……薬マニア、ね」
「起きたんですか!?」
「うるさい。声が響く」
その口調はまだ弱々しいが、さっきまでの冷たさとは違っていた。
彼女はしばらく俺を見つめ、やがてほんのわずかに口元を緩めた。
「あなた、少し変わっているわね」
「よく言われます」
「……でも、悪くない香りだった」
その言葉を最後に、彼女は再び目を閉じた。
寝息が静かに響く。
部屋の外では、騎士たちのざわめきが広がっていた。
「王宮薬師ですら治せなかった病を……」
「何者だ、あの男は」
だが俺は、そんな視線を気にする余裕もなかった。
ただ、エリナの寝顔を見て思った。
この世界の薬は、まだまだわからないことだらけだ。
けど、彼女を助ける手段があるなら、俺の知識を全部使ってやる。
その決意とともに、夜が更けていった。
翌朝、光が差し込む。
カーテンの隙間から漏れる陽光が、銀の装飾をやわらかく照らしていた。
エリナ・フォン・カーディアは目を覚ました。
昨夜の熱は嘘のように引き、頬にはうっすらと血の色が戻っている。
寝台の傍らには、椅子に寄りかかって眠るユウの姿。
泥だらけの白衣に、無骨な手。呼吸が静かで、少し猫背。
「……変な人」
囁くように呟く。
思い出す。あの香り。草の匂いの奥に、かすかな甘さ。
眠りに落ちる直前、自分の頬を撫でた手の温度――。
彼女はそっとシーツを握り、顔を背けた。
まるで自分の心の動きを見られたくないかのように。
「お嬢様……!」
扉の向こうで、執事が声をあげる。
「ご回復のようで何よりです。王太子殿下がお見えに――」
「……っ」
その名が告げられた瞬間、エリナの肩がわずかに強張った。
そして、まだ眠っているユウを見て、ため息をつく。
「――起こして。変な姿で寝られると、こちらが恥をかくわ」
数分後、王子が部屋に入ってきた。
白と金を基調とした軍装、絵に描いたような美貌。
エリナと並べば、誰もが理想の婚約者と呼ぶだろう。
「久しいな、エリナ」
「殿下。ご心配をおかけしました」
「まさか倒れていたとは聞いたが……それで、あの男は?」
王子の視線がユウに突き刺さる。
俺は姿勢を正し、ぎこちなく頭を下げた。
「えっと、通りすがりの薬師です。命を助けたのは偶然でして」
「通りすがりが侯爵家の屋敷に入り込むとは奇妙だな」
声の奥に、冷たい棘があった。
それは彼が王太子であることを嫌でも思い出させた。
「殿下、彼は――」
「エリナ、君はまた怪しい者を庇うのか?」
その一言に、部屋の空気が一変した。
侍女たちが息をのむ。
エリナは唇をかすかに噛み、視線を床に落とす。
「庇ってなどおりません。ただ――」
「言い訳は聞き飽きた」
王子は一歩近づき、低い声で続けた。
「君がどんな噂で呼ばれているか知っているか? 悪役令嬢だ。人を見下し、毒を盛り、婚約者の座にしがみつく女だと」
沈黙。
その言葉は、ナイフのように鋭く突き刺さった。
俺は思わず前に出た。
「殿下、それは――」
「下がれ。平民が口を挟むな」
怒鳴り声が響いた。
けれど、俺の中で何かが弾けた。
「薬で助けられる命を見捨てるような人が、王になるんですか」
その場の全員が凍りついた。
エリナでさえ、驚きに目を見開いている。
王子の顔に、怒りの色が滲んだ。
「……面白い。だが、言葉には責任を持て」
「もちろん」
俺は一歩も退かなかった。
科学の世界で、どんな権威も結果の前では平等だった。
ここでも、それは変わらない。
エリナが静かに口を開いた。
「殿下。彼の薬で、私は救われました。それだけは事実です」
「……」
王子はしばらく沈黙し、やがて小さく鼻で笑った。
「好きにすればいい。だが、後悔するな」
そのまま背を向け、侍従を従えて部屋を出ていった。
残された空気は、ひどく重かった。
扉が閉まると、エリナはベッドの縁に腰を下ろした。
彼女の顔には、疲労よりも別の影が浮かんでいる。
「……今の、余計なことを」
「放っておけませんよ」
「あなた、立場がわかってないわね。殿下はこの国の次期国王。逆らえば首が飛ぶ」
「薬師は、人の体を治す仕事です。立場とか関係ない」
しばらく沈黙が続いた。
その沈黙の中で、エリナは小さく笑った。
「そんな言葉、久しぶりに聞いた気がする」
窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らす。
その微笑はほんの一瞬、氷が溶けるように柔らかかった。
昼過ぎ。
屋敷の庭を歩きながら、俺は異世界の空気をもう一度吸い込んだ。
花の匂い。湿った土。どこか懐かしい薬草の香り。
この世界の植物を調べれば、もっと多くの命を救えるかもしれない。
足元には、小さな白い花が咲いていた。
指で摘み取り、香りを確かめる。わずかに苦味のある芳香。アピオール系か。鎮痛作用が期待できる。
「また草を嗅いでるの?」
振り向くと、エリナが立っていた。
淡い青のドレスに着替え、先ほどよりずっと穏やかな顔。
「いえ、研究です」
「研究って、そんなに楽しいもの?」
「俺にとっては、生きてる理由みたいなもんです」
エリナは小さく息を吐き、空を見上げた。
「……不思議ね。あなたの話を聞いていると、少しだけ心が軽くなる」
「それはきっと、薬草の香りのせいです」
「違うと思うわ」
彼女がそう言って笑ったとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。
その夜。
俺は自室の机に向かい、手帳を開いた。
この世界の薬理構造は、魔力と密接に関係している。
魔力の流れ=代謝。過剰蓄積による熱=エネルギー暴走。
つまり、魔法を抑える薬を作れれば、病も戦も変えられる。
ペンを握る指が震えた。
未知の世界。未知の理論。けれど、そこには確かに科学が息づいている。
「――薬で助ける。薬で変える」
自分に言い聞かせるように呟いた。
あの令嬢を救ったように、もっと多くを救えるはずだ。
そして、その過程で、彼女が再び笑う瞬間を見たいと思った。
夜風が窓を揺らした。
その音に紛れて、遠くで鐘が鳴る。
始まりの鐘のように、静かで、確かに響いていた。
日が傾き、屋敷の廊下に長い影が落ちた。
エリナ・フォン・カーディアは久しぶりに笑顔を取り戻したかのように見えたが、その微笑みはどこか儚く、掴みどころがなかった。
「――今日は、少し外を歩きましょう」
侍女たちの視線が揃って彼女に向かう。けれど、その目の奥には、恐怖にも似た緊張が潜んでいることを、俺は知っていた。
その頃、俺は自室で薬の調合をしていた。
あの小さな白い花の成分を基に、鎮痛と免疫回復の複合薬を作り上げる。手のひらで温度を感じ、指先で香りを嗅ぐ。異世界の草花は、この世界の魔力に反応するため、成分ひとつで生死を左右する。
「……まさか、また事件が」
不意に、心臓が跳ねた。屋敷の侍従が緊張した声で駆け込んできたのだ。
「お嬢様が、毒を――!」
「毒……?」
俺は即座に白衣を羽織り、手に薬壺を握り締めた。
庭に向かう途中、エリナはゆっくりと歩いていた。
日没の光が赤く彼女の髪を照らし、いつもの高飛車な雰囲気は消え、ほんの少し不安げな影を落としている。
「……あの、ユウ」
「はい」
「私、こう見えて……怖いの」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
笑顔の裏で、心が壊れそうなほど揺れている人間を、俺は初めて見た。
「怖いときは、誰かに頼っていいんだよ」
つい、自然に声が出ていた。
彼女は一瞬驚いた顔をしてから、ゆっくりとうなずく。
「――ありがとう」
だが、その平和は長くは続かなかった。
庭園の噴水付近で、突然、侍女の一人が叫んだ。
「お嬢様――!」
見ると、エリナが膝をつき、苦悶の表情を浮かべて倒れかかっている。
「――毒だ!」
俺はすぐに駆け寄り、手元にある薬を振りかけた。成分が魔力と反応して、空気中に微かな蒸気が立ち上がる。
彼女の瞳がわずかに揺れ、呼吸が乱れる。
「大丈夫……すぐに……効くはず……」
声が震える。俺の手も震えていた。だが、計算は正確だ。成分の比率、吸収速度、魔力の流れ……すべて頭の中で再現される。
数分後、エリナの体が少し落ち着いた。
汗で濡れた髪が顔に張り付く。
「……ユウ、ありがとう……」
その声には、ほんのわずか、普段見せない優しさと信頼が含まれていた。
事件の余波は屋敷中を駆け巡った。
侍従たちは騒ぎ、王子はまたもや現れた。だが、今回は違った。
「……これは単なる偶然か?」
眉をひそめながらも、彼の目は俺を鋭く見つめる。
「王子殿下、偶然ではありません。科学と魔力の反応を組み合わせれば、毒も救えるのです」
王子は黙り込む。言葉を返せないまま、ただ俺を観察している。
そして、エリナが低く、しかし確かな声で言った。
「――ユウなら、助けられる」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。
命を救うこと。それは単なる薬師の職務だけではなく、彼女の心を支える力でもあったのだ。
深夜、屋敷の書斎で、俺は暗く長い影を眺めていた。
悪役令嬢の呼称、その重さ。王族と貴族社会の目。陰謀、嫉妬、策略……。
それでも、薬で救える命はある。
それでも、彼女の笑顔をもう一度見たい。
ペンを取り、手帳に書き込む。
「毒は、防げる。心も、少しずつ守れる」
「薬の力で、彼女を振り向かせる」
深夜の静寂の中、遠くで鐘が鳴る。
その音は、再び始まりを告げているようだった。
翌朝、屋敷の空気は一変していた。
侍従たちは口々に囁き、廊下の壁にかけられた肖像画の王族の視線が、いつもより鋭く感じられる。
エリナ・フォン・カーディアは、薄青のドレスを身にまとい、微笑を絶やさずに歩いていた。しかしその微笑みの奥には、昨夜の毒事件の余波がまだ色濃く残っている。
「……ユウ、今日も手伝ってくれる?」
「もちろん」
庭園の薬草を観察するふりをしながら、俺は内心で計算を巡らせる。
あの毒の成分は特殊で、魔力との反応速度が非常に速い。短時間で分解させなければ、命に関わる。
その時、王子が再び現れた。
白と金の軍装を身にまとい、顔は少し険しい。
「エリナ。君の警護は充分か?」
「殿下、もう大丈夫です」
だが、王子の視線は俺に向けられていた。
「薬師……君の手腕は本物か?」
俺は小さくうなずいた。
「この世界の魔力と化学反応を組み合わせれば、治療も防御も可能です」
王子は目を細め、微かに唇を動かしたが、言葉は続かない。
昼下がり。
屋敷の奥で密談が行われていた。
エリナの名を貴族たちが陰で呟く声。
「悪役令嬢が、王子に媚びている……」
「あの薬師と結託しているらしい」
言葉には嫉妬と恐怖、陰謀の匂いが混じる。
その中で、俺は冷静に分析する。
今回の毒は、意図的にエリナの命を狙ったもの。
だが、成分の配合から、仕掛け人は未熟。魔力の流れを読み誤っている。
この世界の薬学と魔力の知識があれば、彼らの手口を暴くことは可能だ。
夕刻。
庭園の一角で、エリナが俺に話しかける。
「ユウ、私……あなたに助けられて、本当に良かった」
「命を守るのが薬師の仕事です」
「でも……あなた、何も怖くないの?」
その質問に、胸が少し痛む。
「怖くないわけがない。でも、守りたいと思う命があるから」
その時、背後で不意に物音がした。
影が素早く動く。
「――っ」
俺は即座に反応し、手元の薬壺を投げつけた。透明な液体が空中で反応し、煙のように広がる。
襲撃者は一瞬動きを止め、その隙に俺は近づく。
黒ずくめの男――貴族の下僕だろう――が、毒入りの矢を握りしめていた。
「エリナ、後ろ!」
彼女をかばいながら、薬の反応を利用して矢を無力化する。
煙が消え、矢は地面に落ちた。
「……ユウ!」
その目には、驚きと感謝が同時に浮かんでいる。
夜。
屋敷の書斎で、俺は事件の全貌を整理する。
毒の成分、魔力の流れ、犯人の行動パターン。
紙に書き出すことで、次に起こる可能性を事前に計算できる。
その隣で、エリナが静かに座っていた。
「ユウ、私……あなたを信じていい?」
その一言に、心が揺れた。
「もちろん。信頼してくれ」
彼女は小さくうなずき、ほっとしたように肩の力を抜く。
その夜、俺は決意を新たにした。
「この世界で、薬で人を救う。そして、あの人の心も――」
外では遠くで鐘が鳴り、闇に染まった屋敷を包む。
静かな夜の中で、薬と魔力と信頼が交錯する。
屋敷の大広間には、貴族や王族の視線が鋭く光っていた。
エリナはいつもの高飛車な表情を少し引き締め、王子の前に立つ。
「――私は、もう逃げません」
その言葉に、ざわめきが走る。
王子は眉をひそめるが、どこか興味深げに見つめている。
俺は静かに薬壺を手に持ち、準備を整える。
昨日までの事件で得た情報と、魔力の反応を元に、屋敷内に潜む毒や陰謀の仕掛けを事前に無力化する。
紙に書き出した計算は間違いなく、反応時間、濃度、魔力の流れすべて完璧だ。
すると、黒ずくめの影が大広間の端から現れる。
「――仕掛け人は、そなたか?」
影は冷たい笑みを浮かべるが、俺の手元の薬が微かに光り、魔力の流れを逆流させる。
矢や毒針が床に落ち、影の人間は一瞬動揺する。
「エリナ、下がって!」
彼女をかばいながら、俺は計算通りに薬を使い、敵の攻撃を完全に無力化する。
影が慌てて逃げ出す。大広間に安堵の空気が流れた。
事件解決後、王子が静かに前に出る。
「……薬師よ、君の技量は確かに見た」
その言葉に、エリナは微かに顔を上げる。
「ユウがいなければ、私は……」
言葉を止め、目を伏せる。その小さな仕草に、俺は胸が熱くなる。
夜、屋敷の書斎。
エリナはそっと俺の隣に座る。
「ユウ、私……あなたにお願いがある」
「何でも」
「……これからも、私のそばで、守ってほしい」
その言葉に、俺は小さく笑った。
「もちろんだ。薬で、命も心も守る」
彼女の頬が赤く染まり、初めて見せる弱さと信頼に、胸がじんとする。
その後、屋敷は平穏を取り戻す。
陰謀の首謀者たちは明るみに出され、貴族社会の波紋も次第に静まる。
王子はエリナに冷たさを保ちながらも、微かな信頼の目を向ける。
そして、俺の薬学知識が、この世界での権力闘争に一つの秩序をもたらしたのだ。
深夜、庭園。
星が瞬き、微風が花の香りを運ぶ。
エリナは静かに俺の手を取る。
「……ありがとう、ユウ」
「これからも、ずっと」
その約束は言葉以上の重みを持ち、屋敷の闇を溶かしていく。
数日後、俺は再び薬草を手に取り、調合を始める。
「この世界には、まだ救える命がある」
エリナは隣で微笑み、時折手伝いながら言った。
「ユウの薬があれば、何でもできそう」
「そうだね、でも一歩ずつだ」
異世界での生活は、依然として予測不能で、困難も多い。
だが、薬と信頼があれば、未来は少しずつ変えられる――そう信じられた。
闇夜の屋敷で、二人の影が寄り添う。
薬師と悪役令嬢――奇妙な組み合わせの冒険は、ここから本当の意味で始まるのだった。
目を開けた瞬間、視界に広がったのは、見慣れない青空だった。どこまでも透き通っているのに、なぜか息が重い。
研究室じゃない。
てか、ここどこ。
俺⋯⋯ユウは、上体を起こしてあたりを見回した。白衣は泥にまみれ、手の中には粉砕した薬草の破片。最後の記憶は、研究中の試薬が予想外の反応を起こして……爆ぜた、そこまでだ。
辺りには巨大な樹木が立ち並び、葉の先から青白い光が滴っている。まるで蛍光菌が宿ったような幻想的な森。
遠くで鳥とも獣ともつかない声が鳴いた。
「……異世界転生って、マジであるんだな」
口にしてみると、意外と現実味を帯びて聞こえた。
だが現実なら、まず生き延びなきゃならない。喉が渇き、体は鉛のように重い。
と、その時、風に乗って金属の音がした。
カン、カン……甲冑の擦れる音。
音の方を向くと、木々の間から一台の馬車が見えた。白い布で覆われた豪華な車体が揺れ、その周囲を銀鎧の騎士たちが固めている。
そして、馬車の扉が開いた。
金色の髪が、風に舞う。
陽光を受けて、宝石のように輝いていた。
「……なにをしているの、あなた」
馬車の中から現れた少女。その瞳は冷たく、声は澄んでいた。
けれどその顔には、かすかな疲労の影が差している。
「えっと……その、道に迷いまして」
「この森に道なんて存在しませんわ」
彼女は眉ひとつ動かさずに言い放った。
背後の騎士が俺に剣を向ける。やばい。
「待って、怪しい者では!」
「怪しくない者が泥だらけで倒れていると思って?」
鋭い。正論だ。
ただ、近くで見れば見るほど、その少女の顔立ちは息をのむほど整っていた。
その美しさに圧倒されつつも、俺は気づいた。
彼女の唇の端が、かすかに青い。
「……失礼ですが、少し顔色が悪いですね」
「は?」
「貧血か、あるいは体温調整の異常かも……すぐに休まれたほうが」
言いながら、俺は無意識にポケットを探った。
そこに、奇跡的に残っていたのは試作品の携帯型調合キット。
ビーカーも秤も簡易だが、即席の薬なら作れる。
少女。後に俺が知ることになるエリナ・フォン・カーディアは、訝しげに俺を見下ろした。
「あなた、何者?」
「薬師です。……多分」
騎士たちがざわめく。だが、彼女は小さく手を上げて彼らを制した。
「いいわ。面白そうだから、ついてきなさい」
その一言で、俺の運命は決まった。
こうして、悪役令嬢と呼ばれる少女と、迷い込んだ薬学オタクの奇妙な物語が始まる。
馬車の中は、想像以上に静かだった。
豪奢な内装。深紅のカーペット。銀糸で刺繍された王家の紋章。
そのすべてが、ここが上の世界の人間の乗り物だと告げていた。
対面の席に座るエリナ・フォン・カーディアは、腕を組んだまま窓の外を見ている。
表情は氷のように硬いが、時折その手が小さく震えていた。
馬車が揺れるたび、微かな吐息がこぼれる。
「……本当に大丈夫ですか?」
問いかけると、彼女は一瞬だけこちらを見た。
「あなたこそ。拾われてすぐに馬車に乗るなんて、ずいぶん図々しいのね」
「いや、あなたがついてこいって言ったじゃないですか」
「忘れました」
乾いた返事。だがその頬はかすかに赤く、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
典型的な熱発の兆候。
俺は腰のバッグから、奇跡的に無事だったメモ帳を取り出した。
この世界でも、人体の基本構造は同じだろう。
ならば、薬理の理屈も応用できるはずだ。
「なにをしているの?」
「薬を、少し」
「馬車の中で?」
「ええ、馬車の中で」
エリナが眉をひそめる。
俺は瓶に入った草を数本取り出し、香りを確かめた。青臭いが、微かに甘い匂いがある。β-シトラールに近い。つまり、鎮静作用が見込める。
次に取り出したのは、薄紫色の花弁。樹液が冷却効果をもつなら、発熱にも効くはずだ。
俺は手のひらでそれらを擦り合わせ、持っていた金属皿の上で加熱する。
馬車の中でこんなことをするのは非常識だが、そんなことを言っていられる状況ではない。
「……香りが、違う」
エリナがわずかに目を細めた。
「落ち着くでしょう。深呼吸してみてください」
彼女は一瞬迷ったが、やがて小さく息を吸った。
淡い香気が満ちる。
瞳がふと柔らいだ⋯⋯その一瞬だけ。
だが次の瞬間、馬車が大きく揺れた。
「っ……!」
エリナが身体を支え損ね、俺の方へ倒れ込んでくる。
咄嗟に腕を伸ばし、受け止めた。体温が高い。やはり熱だ。
「触らないで」
「倒れる人間にそんなこと言われても困ります」
「不敬罪って知ってる?」
「薬理学的に意味がない罪です」
思わずそう口走ってしまった。
エリナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして小さく笑った。
それは、氷がひび割れるような笑みだった。
馬車が城門をくぐる頃には、彼女の意識はもう朦朧としていた。
カーディア侯爵家の屋敷は、街の中央部にそびえる巨大な邸宅だった。
石造りの門を抜けると、噴水があり、花々が整然と咲き誇っている。
だが、その美しさの裏に、どこか冷えた空気が漂っていた。
出迎えた執事が慌ててエリナを抱きかかえる。
「お嬢様……! また発作が――!」
「落ち着いてください、俺が診ます」
「何者だ貴様!」
剣の切っ先が再び俺の喉元に突きつけられる。
「彼は私が連れてきたの……下がりなさい」
かすれた声。意識が朦朧としているはずなのに、彼女の命令には抗えない威圧があった。
騎士たちは渋々下がり、俺はそのまま彼女の寝室へ案内された。
部屋の中は薄暗く、香の匂いが充満している。
天蓋付きのベッドにエリナを寝かせ、俺は窓を開け放った。
「空気を入れ替えます。香の煙が呼吸を悪化させてる」
「それは……王宮の薬師が処方したものだぞ」
「原因を特定せずに香だけ焚くのは、悪化させる行為です」
執事は唖然としていた。だが、俺は迷わなかった。
持ってきた試験管にエリナの汗を一滴採り、匂いと反応を確かめる。
熱性中毒だ。恐らく、慢性的な魔力過剰による代謝障害。
この世界では魔力が生命の一部らしい。だが、過剰な魔力は体内で熱を生み、やがて臓器を焼く。
医学的に見れば、それは未知の炎症性疾患だ。
「治せるのか?」
執事が怯えた声で問う。
「完全には。けど、少なくとも熱は下げられます」
俺は机の上に広げられた乾燥薬草の束を見て、息をのんだ。
なんだこのクオリティ。
見たことのない種類が混じっている。葉脈が青く光るもの、液化した魔力を含む花弁。
「すげぇ……」
「な、なにをしている?」
「最高の素材だ。これなら――?」
俺はそれらを手際よく刻み、蒸留皿の上に並べた。
魔力反応で加熱される器具を見つけ、直感的に理解する。
⋯⋯こっちの世界の錬金器具だな。原理は似てる。
数分後、透明な液体が皿の縁に滴り始めた。
香りは柑橘と草の中間、刺激性は低い。即効性のある解熱・鎮静剤。
「口を開けさせて」
「お嬢様に何を――!」
「飲ませなきゃ死にます」
静かな声で言うと、執事はわずかに怯んだ。
俺はスプーンで薬液をすくい、エリナの唇に流し込んだ。
最初は拒むように喉が動いたが、すぐにすべてを飲み込んだ。
数分後、彼女の呼吸が穏やかになり、額の汗が少しずつ引いていく。
その変化を見て、俺はほっと息を吐いた。
「……助かったのか?」
「熱は下がります。根本治療は、これから考えます」
その言葉に、執事は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたは、どちらの薬師様で……?」
「えっと、ただの通りすがりの薬マニアです」
場が一瞬だけ静まり、次の瞬間、後ろで誰かが小さく笑った。
ベッドの方を振り向くと、エリナが目を開けていた。
「……薬マニア、ね」
「起きたんですか!?」
「うるさい。声が響く」
その口調はまだ弱々しいが、さっきまでの冷たさとは違っていた。
彼女はしばらく俺を見つめ、やがてほんのわずかに口元を緩めた。
「あなた、少し変わっているわね」
「よく言われます」
「……でも、悪くない香りだった」
その言葉を最後に、彼女は再び目を閉じた。
寝息が静かに響く。
部屋の外では、騎士たちのざわめきが広がっていた。
「王宮薬師ですら治せなかった病を……」
「何者だ、あの男は」
だが俺は、そんな視線を気にする余裕もなかった。
ただ、エリナの寝顔を見て思った。
この世界の薬は、まだまだわからないことだらけだ。
けど、彼女を助ける手段があるなら、俺の知識を全部使ってやる。
その決意とともに、夜が更けていった。
翌朝、光が差し込む。
カーテンの隙間から漏れる陽光が、銀の装飾をやわらかく照らしていた。
エリナ・フォン・カーディアは目を覚ました。
昨夜の熱は嘘のように引き、頬にはうっすらと血の色が戻っている。
寝台の傍らには、椅子に寄りかかって眠るユウの姿。
泥だらけの白衣に、無骨な手。呼吸が静かで、少し猫背。
「……変な人」
囁くように呟く。
思い出す。あの香り。草の匂いの奥に、かすかな甘さ。
眠りに落ちる直前、自分の頬を撫でた手の温度――。
彼女はそっとシーツを握り、顔を背けた。
まるで自分の心の動きを見られたくないかのように。
「お嬢様……!」
扉の向こうで、執事が声をあげる。
「ご回復のようで何よりです。王太子殿下がお見えに――」
「……っ」
その名が告げられた瞬間、エリナの肩がわずかに強張った。
そして、まだ眠っているユウを見て、ため息をつく。
「――起こして。変な姿で寝られると、こちらが恥をかくわ」
数分後、王子が部屋に入ってきた。
白と金を基調とした軍装、絵に描いたような美貌。
エリナと並べば、誰もが理想の婚約者と呼ぶだろう。
「久しいな、エリナ」
「殿下。ご心配をおかけしました」
「まさか倒れていたとは聞いたが……それで、あの男は?」
王子の視線がユウに突き刺さる。
俺は姿勢を正し、ぎこちなく頭を下げた。
「えっと、通りすがりの薬師です。命を助けたのは偶然でして」
「通りすがりが侯爵家の屋敷に入り込むとは奇妙だな」
声の奥に、冷たい棘があった。
それは彼が王太子であることを嫌でも思い出させた。
「殿下、彼は――」
「エリナ、君はまた怪しい者を庇うのか?」
その一言に、部屋の空気が一変した。
侍女たちが息をのむ。
エリナは唇をかすかに噛み、視線を床に落とす。
「庇ってなどおりません。ただ――」
「言い訳は聞き飽きた」
王子は一歩近づき、低い声で続けた。
「君がどんな噂で呼ばれているか知っているか? 悪役令嬢だ。人を見下し、毒を盛り、婚約者の座にしがみつく女だと」
沈黙。
その言葉は、ナイフのように鋭く突き刺さった。
俺は思わず前に出た。
「殿下、それは――」
「下がれ。平民が口を挟むな」
怒鳴り声が響いた。
けれど、俺の中で何かが弾けた。
「薬で助けられる命を見捨てるような人が、王になるんですか」
その場の全員が凍りついた。
エリナでさえ、驚きに目を見開いている。
王子の顔に、怒りの色が滲んだ。
「……面白い。だが、言葉には責任を持て」
「もちろん」
俺は一歩も退かなかった。
科学の世界で、どんな権威も結果の前では平等だった。
ここでも、それは変わらない。
エリナが静かに口を開いた。
「殿下。彼の薬で、私は救われました。それだけは事実です」
「……」
王子はしばらく沈黙し、やがて小さく鼻で笑った。
「好きにすればいい。だが、後悔するな」
そのまま背を向け、侍従を従えて部屋を出ていった。
残された空気は、ひどく重かった。
扉が閉まると、エリナはベッドの縁に腰を下ろした。
彼女の顔には、疲労よりも別の影が浮かんでいる。
「……今の、余計なことを」
「放っておけませんよ」
「あなた、立場がわかってないわね。殿下はこの国の次期国王。逆らえば首が飛ぶ」
「薬師は、人の体を治す仕事です。立場とか関係ない」
しばらく沈黙が続いた。
その沈黙の中で、エリナは小さく笑った。
「そんな言葉、久しぶりに聞いた気がする」
窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らす。
その微笑はほんの一瞬、氷が溶けるように柔らかかった。
昼過ぎ。
屋敷の庭を歩きながら、俺は異世界の空気をもう一度吸い込んだ。
花の匂い。湿った土。どこか懐かしい薬草の香り。
この世界の植物を調べれば、もっと多くの命を救えるかもしれない。
足元には、小さな白い花が咲いていた。
指で摘み取り、香りを確かめる。わずかに苦味のある芳香。アピオール系か。鎮痛作用が期待できる。
「また草を嗅いでるの?」
振り向くと、エリナが立っていた。
淡い青のドレスに着替え、先ほどよりずっと穏やかな顔。
「いえ、研究です」
「研究って、そんなに楽しいもの?」
「俺にとっては、生きてる理由みたいなもんです」
エリナは小さく息を吐き、空を見上げた。
「……不思議ね。あなたの話を聞いていると、少しだけ心が軽くなる」
「それはきっと、薬草の香りのせいです」
「違うと思うわ」
彼女がそう言って笑ったとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。
その夜。
俺は自室の机に向かい、手帳を開いた。
この世界の薬理構造は、魔力と密接に関係している。
魔力の流れ=代謝。過剰蓄積による熱=エネルギー暴走。
つまり、魔法を抑える薬を作れれば、病も戦も変えられる。
ペンを握る指が震えた。
未知の世界。未知の理論。けれど、そこには確かに科学が息づいている。
「――薬で助ける。薬で変える」
自分に言い聞かせるように呟いた。
あの令嬢を救ったように、もっと多くを救えるはずだ。
そして、その過程で、彼女が再び笑う瞬間を見たいと思った。
夜風が窓を揺らした。
その音に紛れて、遠くで鐘が鳴る。
始まりの鐘のように、静かで、確かに響いていた。
日が傾き、屋敷の廊下に長い影が落ちた。
エリナ・フォン・カーディアは久しぶりに笑顔を取り戻したかのように見えたが、その微笑みはどこか儚く、掴みどころがなかった。
「――今日は、少し外を歩きましょう」
侍女たちの視線が揃って彼女に向かう。けれど、その目の奥には、恐怖にも似た緊張が潜んでいることを、俺は知っていた。
その頃、俺は自室で薬の調合をしていた。
あの小さな白い花の成分を基に、鎮痛と免疫回復の複合薬を作り上げる。手のひらで温度を感じ、指先で香りを嗅ぐ。異世界の草花は、この世界の魔力に反応するため、成分ひとつで生死を左右する。
「……まさか、また事件が」
不意に、心臓が跳ねた。屋敷の侍従が緊張した声で駆け込んできたのだ。
「お嬢様が、毒を――!」
「毒……?」
俺は即座に白衣を羽織り、手に薬壺を握り締めた。
庭に向かう途中、エリナはゆっくりと歩いていた。
日没の光が赤く彼女の髪を照らし、いつもの高飛車な雰囲気は消え、ほんの少し不安げな影を落としている。
「……あの、ユウ」
「はい」
「私、こう見えて……怖いの」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
笑顔の裏で、心が壊れそうなほど揺れている人間を、俺は初めて見た。
「怖いときは、誰かに頼っていいんだよ」
つい、自然に声が出ていた。
彼女は一瞬驚いた顔をしてから、ゆっくりとうなずく。
「――ありがとう」
だが、その平和は長くは続かなかった。
庭園の噴水付近で、突然、侍女の一人が叫んだ。
「お嬢様――!」
見ると、エリナが膝をつき、苦悶の表情を浮かべて倒れかかっている。
「――毒だ!」
俺はすぐに駆け寄り、手元にある薬を振りかけた。成分が魔力と反応して、空気中に微かな蒸気が立ち上がる。
彼女の瞳がわずかに揺れ、呼吸が乱れる。
「大丈夫……すぐに……効くはず……」
声が震える。俺の手も震えていた。だが、計算は正確だ。成分の比率、吸収速度、魔力の流れ……すべて頭の中で再現される。
数分後、エリナの体が少し落ち着いた。
汗で濡れた髪が顔に張り付く。
「……ユウ、ありがとう……」
その声には、ほんのわずか、普段見せない優しさと信頼が含まれていた。
事件の余波は屋敷中を駆け巡った。
侍従たちは騒ぎ、王子はまたもや現れた。だが、今回は違った。
「……これは単なる偶然か?」
眉をひそめながらも、彼の目は俺を鋭く見つめる。
「王子殿下、偶然ではありません。科学と魔力の反応を組み合わせれば、毒も救えるのです」
王子は黙り込む。言葉を返せないまま、ただ俺を観察している。
そして、エリナが低く、しかし確かな声で言った。
「――ユウなら、助けられる」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。
命を救うこと。それは単なる薬師の職務だけではなく、彼女の心を支える力でもあったのだ。
深夜、屋敷の書斎で、俺は暗く長い影を眺めていた。
悪役令嬢の呼称、その重さ。王族と貴族社会の目。陰謀、嫉妬、策略……。
それでも、薬で救える命はある。
それでも、彼女の笑顔をもう一度見たい。
ペンを取り、手帳に書き込む。
「毒は、防げる。心も、少しずつ守れる」
「薬の力で、彼女を振り向かせる」
深夜の静寂の中、遠くで鐘が鳴る。
その音は、再び始まりを告げているようだった。
翌朝、屋敷の空気は一変していた。
侍従たちは口々に囁き、廊下の壁にかけられた肖像画の王族の視線が、いつもより鋭く感じられる。
エリナ・フォン・カーディアは、薄青のドレスを身にまとい、微笑を絶やさずに歩いていた。しかしその微笑みの奥には、昨夜の毒事件の余波がまだ色濃く残っている。
「……ユウ、今日も手伝ってくれる?」
「もちろん」
庭園の薬草を観察するふりをしながら、俺は内心で計算を巡らせる。
あの毒の成分は特殊で、魔力との反応速度が非常に速い。短時間で分解させなければ、命に関わる。
その時、王子が再び現れた。
白と金の軍装を身にまとい、顔は少し険しい。
「エリナ。君の警護は充分か?」
「殿下、もう大丈夫です」
だが、王子の視線は俺に向けられていた。
「薬師……君の手腕は本物か?」
俺は小さくうなずいた。
「この世界の魔力と化学反応を組み合わせれば、治療も防御も可能です」
王子は目を細め、微かに唇を動かしたが、言葉は続かない。
昼下がり。
屋敷の奥で密談が行われていた。
エリナの名を貴族たちが陰で呟く声。
「悪役令嬢が、王子に媚びている……」
「あの薬師と結託しているらしい」
言葉には嫉妬と恐怖、陰謀の匂いが混じる。
その中で、俺は冷静に分析する。
今回の毒は、意図的にエリナの命を狙ったもの。
だが、成分の配合から、仕掛け人は未熟。魔力の流れを読み誤っている。
この世界の薬学と魔力の知識があれば、彼らの手口を暴くことは可能だ。
夕刻。
庭園の一角で、エリナが俺に話しかける。
「ユウ、私……あなたに助けられて、本当に良かった」
「命を守るのが薬師の仕事です」
「でも……あなた、何も怖くないの?」
その質問に、胸が少し痛む。
「怖くないわけがない。でも、守りたいと思う命があるから」
その時、背後で不意に物音がした。
影が素早く動く。
「――っ」
俺は即座に反応し、手元の薬壺を投げつけた。透明な液体が空中で反応し、煙のように広がる。
襲撃者は一瞬動きを止め、その隙に俺は近づく。
黒ずくめの男――貴族の下僕だろう――が、毒入りの矢を握りしめていた。
「エリナ、後ろ!」
彼女をかばいながら、薬の反応を利用して矢を無力化する。
煙が消え、矢は地面に落ちた。
「……ユウ!」
その目には、驚きと感謝が同時に浮かんでいる。
夜。
屋敷の書斎で、俺は事件の全貌を整理する。
毒の成分、魔力の流れ、犯人の行動パターン。
紙に書き出すことで、次に起こる可能性を事前に計算できる。
その隣で、エリナが静かに座っていた。
「ユウ、私……あなたを信じていい?」
その一言に、心が揺れた。
「もちろん。信頼してくれ」
彼女は小さくうなずき、ほっとしたように肩の力を抜く。
その夜、俺は決意を新たにした。
「この世界で、薬で人を救う。そして、あの人の心も――」
外では遠くで鐘が鳴り、闇に染まった屋敷を包む。
静かな夜の中で、薬と魔力と信頼が交錯する。
屋敷の大広間には、貴族や王族の視線が鋭く光っていた。
エリナはいつもの高飛車な表情を少し引き締め、王子の前に立つ。
「――私は、もう逃げません」
その言葉に、ざわめきが走る。
王子は眉をひそめるが、どこか興味深げに見つめている。
俺は静かに薬壺を手に持ち、準備を整える。
昨日までの事件で得た情報と、魔力の反応を元に、屋敷内に潜む毒や陰謀の仕掛けを事前に無力化する。
紙に書き出した計算は間違いなく、反応時間、濃度、魔力の流れすべて完璧だ。
すると、黒ずくめの影が大広間の端から現れる。
「――仕掛け人は、そなたか?」
影は冷たい笑みを浮かべるが、俺の手元の薬が微かに光り、魔力の流れを逆流させる。
矢や毒針が床に落ち、影の人間は一瞬動揺する。
「エリナ、下がって!」
彼女をかばいながら、俺は計算通りに薬を使い、敵の攻撃を完全に無力化する。
影が慌てて逃げ出す。大広間に安堵の空気が流れた。
事件解決後、王子が静かに前に出る。
「……薬師よ、君の技量は確かに見た」
その言葉に、エリナは微かに顔を上げる。
「ユウがいなければ、私は……」
言葉を止め、目を伏せる。その小さな仕草に、俺は胸が熱くなる。
夜、屋敷の書斎。
エリナはそっと俺の隣に座る。
「ユウ、私……あなたにお願いがある」
「何でも」
「……これからも、私のそばで、守ってほしい」
その言葉に、俺は小さく笑った。
「もちろんだ。薬で、命も心も守る」
彼女の頬が赤く染まり、初めて見せる弱さと信頼に、胸がじんとする。
その後、屋敷は平穏を取り戻す。
陰謀の首謀者たちは明るみに出され、貴族社会の波紋も次第に静まる。
王子はエリナに冷たさを保ちながらも、微かな信頼の目を向ける。
そして、俺の薬学知識が、この世界での権力闘争に一つの秩序をもたらしたのだ。
深夜、庭園。
星が瞬き、微風が花の香りを運ぶ。
エリナは静かに俺の手を取る。
「……ありがとう、ユウ」
「これからも、ずっと」
その約束は言葉以上の重みを持ち、屋敷の闇を溶かしていく。
数日後、俺は再び薬草を手に取り、調合を始める。
「この世界には、まだ救える命がある」
エリナは隣で微笑み、時折手伝いながら言った。
「ユウの薬があれば、何でもできそう」
「そうだね、でも一歩ずつだ」
異世界での生活は、依然として予測不能で、困難も多い。
だが、薬と信頼があれば、未来は少しずつ変えられる――そう信じられた。
闇夜の屋敷で、二人の影が寄り添う。
薬師と悪役令嬢――奇妙な組み合わせの冒険は、ここから本当の意味で始まるのだった。



