――週をまたいだ、月曜日のランチタイム。
昼下がりの陽光がガラス越しに差し込み、湯気と笑い声が混ざり合っていた。
トレーを持ち運ぶ生徒とすれ違い、私と敦生先輩は四人席に腰を下ろす。
私はトレーの上でおにぎりのフィルムを外して、口に運んだ。
普段なら目線一つ届かないが、今日は違う。
人気者と一緒ということもあって、目線やヒソヒソ声が届く。
これが毎日続くかと思うと、心臓が持たない。
「あ……あの。私は一体なにから始めればいい?」
偽彼女という経験はもちろん初めて。
そもそも、経験する人の方が、圧倒的に少ないだろう。
……ここは素直に話を合わせるとするか。
「とりあえず、”おまえから告ってきた”設定でいい?」
彼はペットボトルのお茶を飲み、さらりと答えた。
一瞬言ってる意味が、理解できなかった。
でも、時が経つにつれ、不平等な提案だと察する。
「はぁ?! 無理」
「どうして? おまえは俺が惚れるようなタイプじゃない」
たしかにそうだとしても、好きでもない相手に告ったフリをするなんて。
机の下で拳が揺れた。
「そんなのこっちのセリフ! あんたなんて、興味ない」
「イヤホン壊したの……誰だっけ?」
涼しい顔で伝えられる。
イヤホンの件は、このまま永遠に弱みとして握られてしまうのか――。
「……っ! イヤホンが壊れなきゃ、あんたなんて見向きもしない」
こんなに意地悪な人だとは思わなかった。
弁償した方が、まだ気持ち的に楽だったかもしれない。
強がるように、おにぎりをがぶりとほおばった。
でも、近くで見たら、女の子が一目惚れするのも納得できる。
思わず目を逸らした。
大きな瞳、光を吸うような肌と、軽く動く指先に、なぜか鼓動が早くなる。
……いいや、私には関係ない人だし!
「じゃあ、もっと細かいことを決めない? ルール的なものとか」
食後、カバンからノートとボールペンを出して、テーブルに置いた。
「いいよ。今日から1ヶ月後……、クリスマスイブか」
「はぁ……。あんたとクリスマスイブを過ごすなんて嫌」
本来なら家族とゆっくり過ごすはずが、どうして思い通りにいかないんだろう。
ため息をつくと、彼は頬杖をついてクスッと微笑む。
「そういうこと言われたことないから、なんかいいよね。新鮮で」
私は一瞬で真顔になった。
嫌味に聞こえて仕方ない。
「いいわよね〜。頭の中がお花畑で」
軽くため息をつき、ボールペンでサラサラと『契約ルール』と書き始めた。
「最後は笑って別れよう。……必ずね」
「そんなの当たり前でしょ。大笑いだよ、大笑い」
いまこの瞬間だって崖っぷちに立たされているというのに、笑わないで別れるなんてありえない。
こんな人、期限を過ぎたら、もう二度と会わないし。
【契約ルール】
①お互いを干渉しないこと
②体には手を触れないこと
③恋愛感情を持たないこと
④期間終了になったら一切関わらないこと
⑤その代わり、1ヶ月間、偽彼女の約束は守ります
「出来た! これでどう?」
よく見えるように、紙を彼の前に突き出した。
彼は受け取り、それを軽く眺めたあと、首を振った。
「守れない」
「えっ、どうして?」
「恋人だったら、普通手をつなぐでしょ」
「それはそうだけど、無理」
手……、つなぐつもりだったか。
偽彼女だけでも、いっぱいいっぱいなのに。
「どうして手をつなげないの?」
「理由を言ったら、絶対笑う」
「いいから言ってみて」
私は目線を斜め下におき、頬を赤く染めた。
「男子と手……つないだことないから」
沈黙とともに、二人の間に食べ物の香りが漂った。
言いたくなかった。
でも、言わなきゃ彼の思い通りに。
「その見た目で?」
耳がぴくっと揺れる。
見上げると、彼は私の金髪から下に目線を滑らせた。
どうやら、見た目で人を判断するタイプらしい。
――見た目を派手にしたのは、人に近づいてほしくないから。
「ほ、ほっといてよ!」
拳で机を叩くと、彼は意表を突くように、私の手をすくい上げた。
「たったこれだけだよ?」
指先が触れた瞬間、心臓が跳ねた。
「へっ?!」
「好きじゃないなら、これくらいできるでしょ」
平然とした顔で約束を破る彼に、ぽかんと口が開く。
周囲の「きゃあ」と言った声で、我に返った。
「ちょ、ちょ、ちょっ! なにしてんの。離して!」
手を振り払おうとしたけど、彼は余裕顔のまま手を離さない。
だけど、無理に騒げないから、小声で言った。
「嫌だ」
「どうして?」
「契約でも浮気はできない」
准平、ごめん。これは浮気に入るよね。
私が他の男性に触れられたら嫌だよね。
ガクッと頭が下がると、彼はもう一方の手を重ねた。
「……もしかして、死んだ人をずっと想い続けていくつもり?」
その言葉が胸の奥を突き刺す。
触れてはいけない傷だったのに。
「そ、それは!」
「自分がかわいそうだと思わない? それに、天国の彼も立ち止まっていることを願い続けるかな」
言われなくても、わかってる。
たしかに、心の時計は止まったまま――。
でも、それでもいい。
心の中で准平が生きてるから。
「准平が夢に出てくるの。待ち合わせ場所で、いつも笑って手を振ってる。『また明日ね』って、言ってくれてるみたいで」
胸がぎゅっと苦しくなった。
あの日、事故さえ起きなければ、ぬくもりは准平しか知らなかった。
でも、本音を吐いたのは今日が初めて。
どうして、話してしまったんだろう。
「それは、前に進む努力をしないからだよ」
「そんなことっ」
「否定するなら、努力の成果を聞かせてくれない?」
言い返せなかった。
心の中の時間は、2年前から止まったままだから。
前に進む努力以前に、何度も思い出しては浸るほど。
准平が二度と会いに来てくれないとわかっていても、夢を信じたい。
しんみりと俯いていると、ざわつき声が増えた。
見回すと、円を描くように女子生徒たちが集まっている。
「やっば、あの二人熱くない?」
「嘘でしょ? 新しい彼女があんなに派手な子なんて」
いつしかスマホが向けられ、注目の的に。
まるで、芸能人のお忍びデートを目撃されているかのよう。
額に冷や汗を滲ませ、口元に手を添えた。
「ね、ねぇ。早く解散しない? 敦生先輩だって噂されたら困るでしょ?」
「べつに」
「は? なにそれ! 私たち他人だよ?」
軽く体を仰け反らせると、彼は指先に力を込めた。
「偽でも恋人。契約ルールにサインしただろ?」
涼しい顔で返事をすると、彼は先ほどの契約ルールを目の前にスッと差し出した。
そこには先ほど書いたサインがあり、心の重みとしてのしかかる。
「だって、イヤホン弁償できないし」
「一度決めたことなんだから、腹をくくらないとね」
「そ、そんなぁ」
泣きたい。
でも、泣いたら余計に惨めになる。
それに、彼の言葉にも一理あった。
言い返せなかったのは、心の奥底で理解していたことが、重なってしまったから。
――この日を境に、私の”契約”は、少しずつ形を変え始めた。
最初のうちは、”早く1か月過ぎればいい”なんて思っていた。
でも、2年前から心の中で止まっていたはずの時計が、再び時を刻みだすことになるなんて。



