――翌日。別棟にある視聴覚室から本棟に向かっていると、頭から冷たい水がざばっと降りかかり、息が止まった。
 教科書を抱え、冬風に震えながら見上げると、二階の窓に、女子二人組の姿があった。
 一人がバケツを持っていて、隣のもう一人がくすくすと笑っている。
 風が吹き付けるたびに、身が凍りそうに。

「あ〜、水かかっちゃった? ごめんねぇ。誰もいないと思ったの」

 反省の色が見えない様子に、ため息が漏れる。
 敦生先輩は人気だから、なんとなく嫌がらせをされる予感はしていた。

 好きな彼氏と付き合えるのが羨ましくて妬まれるなら、まだわかる。
 だけど、どうでもいい相手の偽彼女じゃ、こんな仕打ちは割に合わない。
 毛先から滴る雫を眺め、肩を落とした。

 だからこそ、言わない過去より、言う未来を選択した。
 准平を失ったあの瞬間から、気持ちを伝えなかった後悔が、胸の奥にこびりついていたから。

 仕返しなんて、好きじゃない。
 けれど、黙っていたら、きっとこの先も同じことが繰り返される――そう思った。
 やられっぱなしで泣き寝入りなんて、無理だし。

 唇をぎゅっと噛みしめた。

 草むらの手前にある泥水入りのバケツを持って、二階へ上がる。
 心臓が高鳴る。渡り廊下に立ち、二人の姿を目で追った。
 足を止め、震えた手で容器を斜めに傾け、勢いよく泥水を振り撒いた。

 バシャーッ……。
 辺りは静まり返り、水たまりが広がった。

「きゃあ!」
「ひどい、なんてことを!」

 二人は制服から水を滴らせながら、睨みつけてきた。まるで、私だけが悪者のように。
 私は震えた手でバケツを放り投げた。
 カランと転がったあと、仁王立ちする。
 心臓の音が耳の奥で跳ねた。

「……姑息、なんだね」

 瞳に影を宿したまま、ぽつりと呟く。

「えっ」
「酷いのはどっちよ。嫌味なら直接言ってくれない? いつでも相手になってあげるから」

 強気な姿勢を見せたせいか、二人は小言を言いながら渡り廊下を走り去っていった。
 きっと、私が言い返さないとでも思ったんだろう。
 じゃなきゃ、こんなに大胆なことをするはずがない。

 初っ端から、なんでこんな目に……。

 唇をぎゅっと噛みしめたままUターンすると、目の前に人が立ちはだかった。
 見上げると、そこにはジャージ姿の敦生先輩が。

「すげぇじゃん。よく言い返せたね」

 私はサッと目を逸らした。

「思っていることは伝えないと。准平に告白できなかったときのように、後悔したくないし」

 言い返すことも、告白できなかった過去の自分も怖かった。

「そういう熱意……俺には足りないかも」

 寂しそうな声に聞こえたので、見上げた。

「えっ、熱意って?」

 聞き返したが、彼はフイッと目を背ける。

「いや、なんでもない」

 彼が時おり見せる悲しそうな表情に、息苦しくなる。
 なんだろう、この気持ち――。

「敦生先輩のファンって、姑息なんだね。こんなことでしか自分の気持ちを守れないなんて」

 顔についていた水滴を払っていると、彼はジャージの上着を脱いで、私の肩にかけた。
 彼の香りがふわりと漂う。

「おまえは……助けてほしいの?」
「そりゃ、そうに決まってるでしょ。だって、私はなに一つ悪くないんだから」

 ぷいっとそっぽを向いた。
 もう、こんな惨めな思いはしたくない。

「いいよ、守ってあげる」
「えっ」

 彼は突然私の手首を引いて、教室が並んでいる校舎の廊下に出ると、すうっと息を呑み、声を張り上げた。

「俺は里宇とつきあってまーす! 嫌がらせはしないでねー!」

 一瞬、音が消えた。
 数えきれない視線が、一斉に突き刺さる。
 廊下中に響く声に、生徒たちは息を呑み、足を止めた。

「うっそ! あの子、敦生先輩の彼女?」
「うわ、ショック〜!」

 噂が噂を呼び、次第にざわめき声に発展する。
 私は偽彼女と割り切っていたが、この状況が本命へと結びつけていく。
 思わず彼の腕を引いた。

「バカバカ! 意味わかんない……。たった1ヶ月の偽彼女なのに、そこまでする必要がある?」

 青ざめながら問いかけると、彼は対照的ににこりと微笑んだ。
 でも瞳の奥には、わずかに影が宿っているように見えた。

「そう。たった1ヶ月の偽彼女。だったら、お互いこの時間を楽しまない?」

 彼の思惑についていけない。
 楽しめるわけない。自分なりに頑張っているのに、報われないし。
 拳をゆっくり握った。

 あの日交わした『契約』が、准平一色だった心を塗り替えることになるなんて――思ってもみなかった。