僕はまだ言葉を知らない

「俺、ちょっと行ってみようかな。お前はどうせここにいるんだろ」
僕はここから動かないよ。
「じゃあな。いい暇つぶしになったわ」
男の人は、最後に、僕に触れた。
少しひんやりしたけれど、じんわりと、あたたかさが染み渡る手だった。
「お前が何食べて生きてんのかわかんないし、俺はもうこの町には来ないと思うけど」
僕はお腹が減らないんだよ、あの日から。
ずっと何かを待っているんだ。僕は食べ物なんかより、その何かが知りたくてたまらないんだ。
僕は心の中でそう思った。しかし、そんな僕の心に気づかず、男の人は優しく笑った。
「元気でな」
ドン、と鈍い音を立てて車のドアを閉めた男の人は、もう僕を見ることはなく去っていった。
僕の中には、男の人の苦労と、車のガソリンのにおいが残っていた。

「にゃあ」
真夜中。僕の目の前で、声がした。
久しぶりね。そう言われた。
僕は寝ていたので、急いで体を起こし、あくびをして向かい合った。
そこには一匹の猫がいた。三毛猫だ。鈴をつけている。どこかで会ったような気がするけれど、思い出せない。
君は誰だっけ。僕、忘れちゃったみたいなんだ。
すると、三毛猫はゆっくり目を閉じて言った。
猫は普通、夜に動くものよ。そんな幸せそうな顔で寝ていたら、いつ何があるかわからないわ。
いかにも猫らしいキレのある言葉。僕は猫と話すことが久しぶりだったので、その態度に驚いてしまった。
りりん、と鈴が鳴り、三毛猫が尻尾を揺らす。
…あなた、本当に私のことが思い出せないの?
三毛猫は、僕をじっと見つめた。
そして、こう言った。
私たち、一緒にここへ来たじゃない。
さっぱり、意味が分からなかった。
「にゃっ!!」
三毛猫が大きな声で僕に怒鳴った。おかしい、と。
僕たちは、かつては共に喜びも苦しみも味わうような関係で、大きくなって別々になったらしい。
深い悲しみで忘れてしまったのね、と、三毛猫はしゅんとなった。
僕が、深い悲しみ?そんなわけない。そんなの、覚えていない。
でも、どうして僕は今ここにいるのか、全然わからない。
急に大きな声を出してごめんね、と、三毛猫が僕にすりすりとした。
あれ。僕と同じにおいがする。もしかして、僕たちは。
僕は何かを思い出しそうだった。しかし、三毛猫はそれを止めた。
あなたは今、幸せ?
そう訊かれる。
うん。幸せだよ。たくさんの人の話を聞くのが楽しいんだ。
僕はそう答える。