とある春の夜のこと。
僕の目の前に、一台の車が停まった。
「…で、はい。はい、はい。…はい?」
男の人が電話をしている。声色が少し変わった。
「え、出張に来なくてもよくなった、ということですか?」
間も無く電話はピッと音を立てて切れた。
「はぁぁぁ〜、何なんだよあのクソ上司!!」
なんだ?この男の人、電話が切れた途端に怒り出した。
俺のこと使えるからってぇ、とか言って、特大ため息までついた。どうしたんだろう。
こっちはあなたの車の光で目が覚めたっていうのに。
「も〜…って、あれ、猫?」
僕は、ぬん、という顔で男の人を見つめた。
この人、僕に気がついてなかったの?
春の夜風がびゅうっと強く吹いて、僕の毛をなびかせた。海のにおいが強く漂った。
「なんだあお前、こんなところに座って何やってんのさ」
男の人は僕の目の前にしゃがんで、隣のポストに手を添えた。
僕だってわからない。どうしてここにいるのか。
でも、足がここから動かないんだ。
「いいよな、お前はさ、何にも悩みなんかなくのんびり過ごせるんだろ。俺なんか仕事に追われてばっかりだよ」
そうなの?君は仕事に追われてばっかりなの?
でも、僕がのんきに生きていると思われちゃ困る。ずっと悩んでること、僕にもある。
「俺、今日出張で初めてこの町に来たんだよね。でも急に明日の打ち合わせがなくなって、結局来る必要なかったんじゃねっていう感じ。途方に暮れてる」
あーあ、そりゃあ大変。本当にこき使われてるのかもね。
男の人は、今夜のうちに帰宅すると言って、スマホを触りだした。道を調べているようだったが、すぐにスマホをしまい、またため息をついた。
「暇だから、少し話そうぜ」
そう言って、男の人は僕の目の前にあぐらをかいた。
いいよ、お話には付き合ってあげる。
そうやって、僕たちは色々な話をした。男の人の仕事の愚痴が大半だったけれど、奥さんの話も出てきた。
たくさんの星が顔を見せる時間帯になり、男の人は数分の沈黙の末、こう言った。
「なあ、あっちに海あんの?」
ああ、あるよ。
僕は行ったことがない。けれど、ずっと置き去りにしている何かがある、あの海。
月光に照らされ、波がゆらりときらめいた。