「マーマ! あおくんお腹空いた!」
「碧静かにして。電車ではうるさくしない約束でしょ」
偶然空いた優先座席に碧を座らせた。靴を脱いで静かに外の景色を見ていると思えば、もったのはたったの一駅だった。
「もうちょっとでお家だから」
「やーだー! お腹すいて動けないー!」
バタバタと動かした足は隣のサラリーマンの鞄を蹴った。50代くらいの男だった。碧を鋭い目つきで睨んだ後、その目のまま早苗を睨む。咄嗟に用意した謝罪の言葉よりも先に、男の舌打ちが響いた。申し訳ありません、頭を下げる。
「こんな時間までガキ連れて歩くなよ」
独り言のようなそれは間違いなく早苗を攻撃するために用意されたものだった。
カァッと顔中が熱くなって、置いていた碧の靴を拾い上げる。無言で碧を抱き上げるとドア横のスペースに逃げて必死に外の景色を眺めた。
「あおくんお腹すいたの! チョコのぱん食べたいー!」
腕から逃れようと仰け反る碧。暴れる足が当たって靴が転がり落ちる。やぁねホント、向かい側に立っていたおばさん達がチラチラとこちらを見ながら呟いた。
碧を抱きしめる腕に力が入る。背中に感じるいくつもの視線に、必至に気付かないふりをした。

最寄り駅で電車をおりた。外の空気を肺いっぱいに吸い込む。やっと息ができたような気がした。それと同時に、未だに甘えた声で「お腹すいた」を繰り返す碧に怒りが込み上げてくる。
「あおくんぱん食べたい! お腹すいた! チョコのぱん!」
碧が鞄を強く引っ張った。碧の手を強く握る。驚いた碧がビクリと体を震わせて口を閉じた。
「ねぇ、この前もママと約束したよね? 電車の中は碧だけが乗ってるんじゃないの、他のお客さんも乗ってるの。碧がバタバタしたら、隣の人が嫌な思いするんだよって前にお話したよね?」
「でもあおくん、お腹すいたから!」
瞬く間に鼻を真っ赤になり涙声になった。
「碧が暴れたり煩くしたら、怒られるのはママなんだよ? ママが他の人に怒られてもいいの?」
「ママおこられるのやだ……っ」
「だったら、お願いだからママとのお約束守って」
「でもママあおくんに、チョコのぱん買ってくれないからぁッ」
返事なのか嗚咽なのか分からない声で「ううっ」と唸る。いつもの泣き出す直前の合図だ。案の定三秒後には火がついたようにワアッと泣き出しその場にしゃがみこむ。
カッとなりかけた自分を必死に押さえ込み額を抑えて深く息を吐く。これ以上叱ればもっと酷い癇癪になるのは経験からわかっている。
最寄り駅から家までは碧の足で20分だ。泣き疲れて抱っこと言われるとかなりキツイ。
ギュッと強く目を瞑ったあと、五秒息を吐き出す。沸騰直前だった感情が、緩やかに冷めていく。
「わかった。チョコのパンコンビニで買って帰ろう」
鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔をパッと上げた碧はその丸い目を大きく見開いて早苗を見上げる。
鞄の中からハンカチを取り出し、膝をおって碧の顔を吹いてやった。プハッと息を吐いた碧は「やったー!」と機嫌よく両手をあげる。
行くよ、と差し出された手を握った碧は、まだ下手くそなスキップを披露しながら改札を通り抜けた。