外はもうすっかり日が沈んで暗くなっていた。秋の初めとはいえ夜は冷え込む。鳥肌が立った両腕を擦りながら「織子!」と声を張上げた。
織子はどんな服を着ていた? 昼間に風呂に入れて、それからパジャマだったはずだ。靴下は履いていたか? 今頃寒くてどこかで蹲っているんじゃないか?
認知症の患者が夜中に徘徊するという話はニュースで聞いていたし、担当医から貰ったパンフレットにもそんなことが書いてあった。
いつかは織子もそうなるのだろうかなんてその時は思っていたけれど、まさかこんなにも突然に消えてしまうだなんて。
家の前の坂道を駆け降りる。老いた体はすぐに息が上がって、バクバクと心臓が脈打った。身体中にぶわりと汗が滲んで、必至に息を吸う。
顔を顰めてぐるりと見回す。織子の姿はどこにもない。
どこへ行った? いつ家から出た? 織子の足じゃそう遠くへは行けまい。でももしバスやタクシーを捕まえていたら? 謝って赤信号を渡ろうとしたら?
嫌な想像ばかりが次から次へと思い浮かんで、勢いよくかぶりを振った。
「織子ッ……!」
介護に疲れていたのも慣れない家事に疲れていたのも確かだ。織子に苛立って、なぜ俺がこんなことをと思ったのも数え切れない。どれだけ尽くしても報われない気持ちに嫌気がさしていた。
でもどうだ? 自分は織子に感謝の言葉を伝えたことがあったか? その苦労をいたわったことはあったか? これは思い出せないのではなく、ひとつもしてこなかったのだ。
相手に尽くしても見返りがないことはどれだけ悲しいことか。どれだけ辛いことか。それでも尽くしてくれた織子に、俺は怒鳴りつけて。
「クソッタレ……!」
震える唇を噛み締めて走る。
駅前商店街の方まで来た。会社帰りの若者たちが疲れた顔をして歩いている。暗い色をしたスーツの群衆の中に、花柄のパジャマが見えた。
「織子!」
人混みをかき分けて手を伸ばした。細腕を掴めば、ぼんやりと宙を見つめていた織子がゆっくりと振り返る。
「どちら様かしら?」
心臓が凍り付く。病気だと分かっていても、この瞬間は未だに慣れなかった。
「怪我はないのか!? どうして勝手に家を出たんだ! 俺がどれほど心配したか……ッ」
そこまで怒鳴って、困惑する表情を浮かべた織子に口を噤んだ。額を押えて深く息を吐く。冷え切った両肩に手を置いた。
「……もう、帰ろう」
「それが、うちが分からないのよ」
「俺は知ってる」
「あらそうなの? それにしてもお腹すいたわねぇ」
今日も米の水加減を失敗して、織子は怒って食パンを齧っていた。それも結局「これじゃない!」と怒っていたのだけれど。
パンじゃ腹は膨れないぞと言ったのに聞かなかったのは誰だ。そう言いたいのをぐっとこらえる。
「あら、いい匂い」
織子は鼻をひくつかせたあと頬を緩めた。視線の先を辿ると色あせた紺色のオーニングがかけられた店がある。香ばしい小麦粉の匂い。ガラス窓の向こうに焼けたパンが並んでいた。
「……買って帰るか」
「嬉しい。私パンが大好きなの」
初耳だった。
織子はパンが好きだったのか? その割には食卓にパンが並ぶことは滅多になかったが。
機嫌よく歩き出した織子の手を握り歩き出す。チリンチリン──とドアは軽やかな音を立てた。
織子はどんな服を着ていた? 昼間に風呂に入れて、それからパジャマだったはずだ。靴下は履いていたか? 今頃寒くてどこかで蹲っているんじゃないか?
認知症の患者が夜中に徘徊するという話はニュースで聞いていたし、担当医から貰ったパンフレットにもそんなことが書いてあった。
いつかは織子もそうなるのだろうかなんてその時は思っていたけれど、まさかこんなにも突然に消えてしまうだなんて。
家の前の坂道を駆け降りる。老いた体はすぐに息が上がって、バクバクと心臓が脈打った。身体中にぶわりと汗が滲んで、必至に息を吸う。
顔を顰めてぐるりと見回す。織子の姿はどこにもない。
どこへ行った? いつ家から出た? 織子の足じゃそう遠くへは行けまい。でももしバスやタクシーを捕まえていたら? 謝って赤信号を渡ろうとしたら?
嫌な想像ばかりが次から次へと思い浮かんで、勢いよくかぶりを振った。
「織子ッ……!」
介護に疲れていたのも慣れない家事に疲れていたのも確かだ。織子に苛立って、なぜ俺がこんなことをと思ったのも数え切れない。どれだけ尽くしても報われない気持ちに嫌気がさしていた。
でもどうだ? 自分は織子に感謝の言葉を伝えたことがあったか? その苦労をいたわったことはあったか? これは思い出せないのではなく、ひとつもしてこなかったのだ。
相手に尽くしても見返りがないことはどれだけ悲しいことか。どれだけ辛いことか。それでも尽くしてくれた織子に、俺は怒鳴りつけて。
「クソッタレ……!」
震える唇を噛み締めて走る。
駅前商店街の方まで来た。会社帰りの若者たちが疲れた顔をして歩いている。暗い色をしたスーツの群衆の中に、花柄のパジャマが見えた。
「織子!」
人混みをかき分けて手を伸ばした。細腕を掴めば、ぼんやりと宙を見つめていた織子がゆっくりと振り返る。
「どちら様かしら?」
心臓が凍り付く。病気だと分かっていても、この瞬間は未だに慣れなかった。
「怪我はないのか!? どうして勝手に家を出たんだ! 俺がどれほど心配したか……ッ」
そこまで怒鳴って、困惑する表情を浮かべた織子に口を噤んだ。額を押えて深く息を吐く。冷え切った両肩に手を置いた。
「……もう、帰ろう」
「それが、うちが分からないのよ」
「俺は知ってる」
「あらそうなの? それにしてもお腹すいたわねぇ」
今日も米の水加減を失敗して、織子は怒って食パンを齧っていた。それも結局「これじゃない!」と怒っていたのだけれど。
パンじゃ腹は膨れないぞと言ったのに聞かなかったのは誰だ。そう言いたいのをぐっとこらえる。
「あら、いい匂い」
織子は鼻をひくつかせたあと頬を緩めた。視線の先を辿ると色あせた紺色のオーニングがかけられた店がある。香ばしい小麦粉の匂い。ガラス窓の向こうに焼けたパンが並んでいた。
「……買って帰るか」
「嬉しい。私パンが大好きなの」
初耳だった。
織子はパンが好きだったのか? その割には食卓にパンが並ぶことは滅多になかったが。
機嫌よく歩き出した織子の手を握り歩き出す。チリンチリン──とドアは軽やかな音を立てた。



