「落ち着いてもらうためにお薬を使ったので、まだ眠っているんです。怪我自体はもう問題ないので帰ってもらっても大丈夫なんですが、どうされますか? もう遅いですし、一晩入院されますか?」
織子の担当医がいる病院に運んでもらって、結局三針縫うことになった。相当暴れたようで処置室の外まで織子の叫び声は響いてきた。ご面倒をおかけしました、と担当医に頭を下げる。
「嫁は連れて帰ります」
「そうですか。ではお大事に」
もう一度頭を下げて去っていく背中を見送ってからカーテンが引かれた処置室に入った。布団にくるまってすやすやと眠る織子の頬には涙のあとが着いている。そっとその後を擦ったあと、両手を己の首に回して背におぶった。
食費に光熱費、医療費に貯金。俺は決められた金額を毎月渡すだけで、全ての管理は織子に任せていた。人が生きていく上で何にどれだけの金がかかるのか、この歳になるまで知らなかった。
怪我をしたばかりで病院に泊めてやりたい気持ちはあるけれど、そうなると入院扱いになる。ただでさえ毎月の薬代や診療代が家計を圧迫している。これ以上出費を増やすのは避けたかった。
織子に自分の上着を着せてゆっくりと帰路に着く。背中が温かい。織子はハッとするほど軽く、背中にあたる体はあちこちが骨ばっていた。
自分が文句を言える立場じゃないのはよく分かっている。なぜなら織子が罵ったことも文句を言ったことも、全て昔の自分が彼女に使って平気で言っていた言葉だからだ。
悔やんでばかりだ。どうしてもっと記憶がはっきりしているうちに、優しい言葉をかけてやらなかったのか。織子を支える日々は、これまでの罪滅ぼしだと思っていた。織子には40年近く、こんな苦労を敷いてきた。たった二年の自分が文句を言えた立場じゃない。
だとしても、作った飯に顔を顰められるのは胸が痛い。家事で疲れ果てている時に織子がトイレを詰めると腹が立つ。自分をお手伝いさんとして見る他人行儀な織子の視線は苦しく、少しずつ弱っていく姿を見るのは泣きたくなった。
そしてその日を境に、一本だけ繋がっていた織子の記憶の糸がプツリと切れたような気がする。
彼女が「博彦さん」と呼ぶことはなくなったし、娘の星乃の話もしなくなった。一日中ベッドの上でぼーっと寝ている日もあれば、朝からムクリと起き上がって暴れ回る日もあった。ただでさえなれない家事、織子が荒らした部屋の片付けが追いつかなくなっていく。
風呂の入れようと服に手をかければ「殺される!」と悲鳴をあげて、夜中には「帰りたい!」と泣き叫んだ。まるで別人になった織子。追いつかない家事に介護の疲労、溜まったストレスについ織子を怒鳴りつけてしまう日々もあった。
織子の苦労を知ったあの日から織子を支えるのだと決めたはずなのに、変わっていく妻に戸惑いと苛立ちが隠しきれなかった。
それから数日たった、ある日の晩。17時に夕飯を食べ終えて、ぼんやりとテレビを見ている織子を横目に皿洗いに風呂洗い、溜まった洗濯物片付けをしていると、ふと気付いた時にはリビングにいたはずの織子の姿がない。
自分の部屋に戻ったんだろうか。
織子?と階段下から声をかけるも返事はなく、様子を見るために二階へ上がった。部屋を覗いてみるもベランダのそばの椅子にもベッドにも姿がない。
一体あいつはどこへ行ったんだ?
トイレの電気も付いておらず、念の為確認したけれどやはり姿はない。妙に嫌な予感がしていつもよりも早足で階段をかけおりる。
ふと、廊下の先の玄関扉が目に入った。恐る恐る歩みよると鍵が空いている。今日は朝からどこへも出かけていない。寝る前には毎晩鍵をかけたかどうか確認しており、昨日の晩はちゃんとかけていた。
つまり織子は──。
よく見ると靴箱には直さず出しっぱなしにしている突っ掛け履きがない。サァッと顔から血の気が引いていく。
考えるよりも先に勢いよく家を飛び出した。
織子の担当医がいる病院に運んでもらって、結局三針縫うことになった。相当暴れたようで処置室の外まで織子の叫び声は響いてきた。ご面倒をおかけしました、と担当医に頭を下げる。
「嫁は連れて帰ります」
「そうですか。ではお大事に」
もう一度頭を下げて去っていく背中を見送ってからカーテンが引かれた処置室に入った。布団にくるまってすやすやと眠る織子の頬には涙のあとが着いている。そっとその後を擦ったあと、両手を己の首に回して背におぶった。
食費に光熱費、医療費に貯金。俺は決められた金額を毎月渡すだけで、全ての管理は織子に任せていた。人が生きていく上で何にどれだけの金がかかるのか、この歳になるまで知らなかった。
怪我をしたばかりで病院に泊めてやりたい気持ちはあるけれど、そうなると入院扱いになる。ただでさえ毎月の薬代や診療代が家計を圧迫している。これ以上出費を増やすのは避けたかった。
織子に自分の上着を着せてゆっくりと帰路に着く。背中が温かい。織子はハッとするほど軽く、背中にあたる体はあちこちが骨ばっていた。
自分が文句を言える立場じゃないのはよく分かっている。なぜなら織子が罵ったことも文句を言ったことも、全て昔の自分が彼女に使って平気で言っていた言葉だからだ。
悔やんでばかりだ。どうしてもっと記憶がはっきりしているうちに、優しい言葉をかけてやらなかったのか。織子を支える日々は、これまでの罪滅ぼしだと思っていた。織子には40年近く、こんな苦労を敷いてきた。たった二年の自分が文句を言えた立場じゃない。
だとしても、作った飯に顔を顰められるのは胸が痛い。家事で疲れ果てている時に織子がトイレを詰めると腹が立つ。自分をお手伝いさんとして見る他人行儀な織子の視線は苦しく、少しずつ弱っていく姿を見るのは泣きたくなった。
そしてその日を境に、一本だけ繋がっていた織子の記憶の糸がプツリと切れたような気がする。
彼女が「博彦さん」と呼ぶことはなくなったし、娘の星乃の話もしなくなった。一日中ベッドの上でぼーっと寝ている日もあれば、朝からムクリと起き上がって暴れ回る日もあった。ただでさえなれない家事、織子が荒らした部屋の片付けが追いつかなくなっていく。
風呂の入れようと服に手をかければ「殺される!」と悲鳴をあげて、夜中には「帰りたい!」と泣き叫んだ。まるで別人になった織子。追いつかない家事に介護の疲労、溜まったストレスについ織子を怒鳴りつけてしまう日々もあった。
織子の苦労を知ったあの日から織子を支えるのだと決めたはずなのに、変わっていく妻に戸惑いと苛立ちが隠しきれなかった。
それから数日たった、ある日の晩。17時に夕飯を食べ終えて、ぼんやりとテレビを見ている織子を横目に皿洗いに風呂洗い、溜まった洗濯物片付けをしていると、ふと気付いた時にはリビングにいたはずの織子の姿がない。
自分の部屋に戻ったんだろうか。
織子?と階段下から声をかけるも返事はなく、様子を見るために二階へ上がった。部屋を覗いてみるもベランダのそばの椅子にもベッドにも姿がない。
一体あいつはどこへ行ったんだ?
トイレの電気も付いておらず、念の為確認したけれどやはり姿はない。妙に嫌な予感がしていつもよりも早足で階段をかけおりる。
ふと、廊下の先の玄関扉が目に入った。恐る恐る歩みよると鍵が空いている。今日は朝からどこへも出かけていない。寝る前には毎晩鍵をかけたかどうか確認しており、昨日の晩はちゃんとかけていた。
つまり織子は──。
よく見ると靴箱には直さず出しっぱなしにしている突っ掛け履きがない。サァッと顔から血の気が引いていく。
考えるよりも先に勢いよく家を飛び出した。



