若い頃から仕事一筋で、結婚しても子供が生まれてもそれが変わることはなかった。家や子育てのことはすべて織子に頼りきりで、娘の星乃の就職先が東京にあると聞いたのは、彼女が実家を出るたったひと月前だった。
それでも構わないと思っていた。自分は外で稼いできて、嫁も娘も満足させられるくらい十分に働いている。なんなら、娘が家を出て家事が減っていいもんだなとすら思っていた。
新卒から務めあげた会社を定年して家で過ごすようになって、織子が朝から晩までパタパタとあちこちを走り回っている姿に、手際が悪い女だなとすら思っていたし、実際に「もっと効率よくできないのか?」と部下を叱るよに言ったこともあった。そういうとき織子はきまって「ごめんなさいね」と困ったように笑うだけだった。織子がそうやって謝るのが、毎回気に入らなくて余計に腹が立った。
そして織子が認知症だと診断されできないことが増えていくようになり、家事の全てを自分が担うことになった。
洗濯機はまず説明書を探すところから始まり、使い方を調べて動き始めるまでに二時間がかかった。部屋の角は一日でも掃除機をかけるのを怠ければすぐに薄い埃の層ができて、食事を作るために台所に立てば低い調理台のせいで腰は痛いしと冷え込む足元が辛い。
家の前の坂はスーパーから帰ってくる時が苦行で、水に濡れた洗濯物を二階のベランダへ運ぶ時の階段はもっと苦行だった。
炊飯器は炊ければいいだろうと安いものを買ったせいで予約炊飯のボタンがなく、だからと言って炊飯ボタンを早めに押せば硬い米になる。米のために早起きするのはなかなか体が堪えた。
織子の身体を洗いながら、右に傾いた肩を撫でる。重い買い物袋を片手で持って娘と手を繋いでくれた証。カサついた手は毎朝早起きをして冷たい水で米をといてくれた証だ。
織子は覚えているだろうか。彼女が寝坊して朝メシが食パンに目玉焼きとウィンナーだった日を。あの日、新聞を読みながら出された飯を一瞥して自分は「何だこの気の抜けた朝メシは」と文句を零した。ごめんなさいねぇ、寝坊しちゃったの。頬に手を当てて申し訳なさそうにそう言った織子に、自分はなんと言ったか。
きっと織子に浴びせた罵声は、彼女の苦労をしなければ思い出さずに死んでいっただろう。
炊飯釜の内側がすり減ったせいで目安の線が見えず、白米は3日に1回のペースで失敗する。べちゃついた米をよそって織子に出せば、彼女は不快そうに顔を顰めた。
「何ですこれ。まるでお粥じゃない」
「失敗したんだ。仕方ないだろ」
「こんな米、食べたくないわ。私パンを食べるわ」
茶碗を叩きつけて立ち上がった織子。どこにあるのかしら、と台所へ歩いていく。なんなんだアイツは、と顔を顰める。病気とはいえ米ひとつで文句を言うなんてどうかしている。
気が済んだら戻ってくるだろ、そう思って水っぽい米を口に運んでいると台所から「ギャッ」と悲鳴が上がった。
慌てて立ち上がって珠暖簾から顔を出す。調理台の前に座り込み、胸の前で右手の指を抱きしめる織子。指の隙間から赤い血がぽたぽたと漏れて、傍には包丁が転がっている。
「織子! 大丈夫か!?」
慌てて駆け寄り傷口を確認する。傷口がかなり深い。病院で診てもらった方がいいだろう。洗ったばかりの白いタオルで手を包み、直ぐに救急に連絡する。救急車は直ぐに来て、なんだなんだと玄関から顔を出すご近所に小さく頭を下げながら乗り込んだ。
痛い痛いと泣きじゃくる織子の肩を擦りながら、自分の過ちに顔を顰める。
『博彦さん、包丁とまな板は使ったら直ぐに洗ってくださいな。もし星乃が触って落としでもしたら、怪我をしちゃうでしょう』
その時織子に向かって、それぐらいお前がやればいいだろ、と言った。どれだけ愚かだったか。いつも織子の小言は聞き流すか、揚げ足をとって黙らせていた。織子の小言は、あの狭い家を守り家族が安全に過ごすための知恵だった。
それでも構わないと思っていた。自分は外で稼いできて、嫁も娘も満足させられるくらい十分に働いている。なんなら、娘が家を出て家事が減っていいもんだなとすら思っていた。
新卒から務めあげた会社を定年して家で過ごすようになって、織子が朝から晩までパタパタとあちこちを走り回っている姿に、手際が悪い女だなとすら思っていたし、実際に「もっと効率よくできないのか?」と部下を叱るよに言ったこともあった。そういうとき織子はきまって「ごめんなさいね」と困ったように笑うだけだった。織子がそうやって謝るのが、毎回気に入らなくて余計に腹が立った。
そして織子が認知症だと診断されできないことが増えていくようになり、家事の全てを自分が担うことになった。
洗濯機はまず説明書を探すところから始まり、使い方を調べて動き始めるまでに二時間がかかった。部屋の角は一日でも掃除機をかけるのを怠ければすぐに薄い埃の層ができて、食事を作るために台所に立てば低い調理台のせいで腰は痛いしと冷え込む足元が辛い。
家の前の坂はスーパーから帰ってくる時が苦行で、水に濡れた洗濯物を二階のベランダへ運ぶ時の階段はもっと苦行だった。
炊飯器は炊ければいいだろうと安いものを買ったせいで予約炊飯のボタンがなく、だからと言って炊飯ボタンを早めに押せば硬い米になる。米のために早起きするのはなかなか体が堪えた。
織子の身体を洗いながら、右に傾いた肩を撫でる。重い買い物袋を片手で持って娘と手を繋いでくれた証。カサついた手は毎朝早起きをして冷たい水で米をといてくれた証だ。
織子は覚えているだろうか。彼女が寝坊して朝メシが食パンに目玉焼きとウィンナーだった日を。あの日、新聞を読みながら出された飯を一瞥して自分は「何だこの気の抜けた朝メシは」と文句を零した。ごめんなさいねぇ、寝坊しちゃったの。頬に手を当てて申し訳なさそうにそう言った織子に、自分はなんと言ったか。
きっと織子に浴びせた罵声は、彼女の苦労をしなければ思い出さずに死んでいっただろう。
炊飯釜の内側がすり減ったせいで目安の線が見えず、白米は3日に1回のペースで失敗する。べちゃついた米をよそって織子に出せば、彼女は不快そうに顔を顰めた。
「何ですこれ。まるでお粥じゃない」
「失敗したんだ。仕方ないだろ」
「こんな米、食べたくないわ。私パンを食べるわ」
茶碗を叩きつけて立ち上がった織子。どこにあるのかしら、と台所へ歩いていく。なんなんだアイツは、と顔を顰める。病気とはいえ米ひとつで文句を言うなんてどうかしている。
気が済んだら戻ってくるだろ、そう思って水っぽい米を口に運んでいると台所から「ギャッ」と悲鳴が上がった。
慌てて立ち上がって珠暖簾から顔を出す。調理台の前に座り込み、胸の前で右手の指を抱きしめる織子。指の隙間から赤い血がぽたぽたと漏れて、傍には包丁が転がっている。
「織子! 大丈夫か!?」
慌てて駆け寄り傷口を確認する。傷口がかなり深い。病院で診てもらった方がいいだろう。洗ったばかりの白いタオルで手を包み、直ぐに救急に連絡する。救急車は直ぐに来て、なんだなんだと玄関から顔を出すご近所に小さく頭を下げながら乗り込んだ。
痛い痛いと泣きじゃくる織子の肩を擦りながら、自分の過ちに顔を顰める。
『博彦さん、包丁とまな板は使ったら直ぐに洗ってくださいな。もし星乃が触って落としでもしたら、怪我をしちゃうでしょう』
その時織子に向かって、それぐらいお前がやればいいだろ、と言った。どれだけ愚かだったか。いつも織子の小言は聞き流すか、揚げ足をとって黙らせていた。織子の小言は、あの狭い家を守り家族が安全に過ごすための知恵だった。



