「お手伝いさーん?」
夕飯の支度をしていると、2階から頼りない声が自分を呼んだ。この場合は自分ではなく、お手伝いさんを呼んでいることになるのだろうけれど。
どうした、と尋ねながら階段を上がるとトイレの扉が空いていて、妻の織子が頬に手を当てて立っている。ズボンは最後まで上げきっておらず尻が見えていた。
「お手伝いさん。ちょっとお願いできるかしら。またおトイレが詰まっちゃったのよ」
やれやれと首を振った織子。みせてみろ、と便座をのぞき込むと介護用オムツがプカプカと浮いていた。
「織子……オムツは便器に流すなって何度も言ってるだろ」
ひとつ深く息を吐く。
「あら? そんなこと言ったかしら。ごめんなさいねぇ」
「もういい。とりあえず新しいの履くぞ」
「面倒かけるわねぇ、お願いしますね。お手伝いさん」
彼女の目に自分が夫ではなくお手伝いさんとして映るようになってた二年すぎた。診断を受けた直後の頃はたまに間違う程度だったが、最近は週に1度「博彦さん」と呼ばれればいいほうだ。
妻の織子は71歳、認知症だ。
三つ年上の自分が最初にガタがきてボケるだろうとは思っていたけれど、まさか織子の方が先だとは思ってもみなかった。
最近は症状の起伏も激しく、急に怒りっぽくなったかとお前ば前と変わらない織子に戻ったり、急に暴れ騒ぎだしてちょっとした警察沙汰になったこともあった。
ズボンを上げてボタンを止めてやれば「ありがとうございます」と他人行儀に微笑まれる。皺だらけで乾いた手を握り窓辺の椅子へ案内する。
「そうだ博彦さん。星乃が動物園に行きたいって言ってるんだけれど、今度はいつお休みが取れる?」
娘の星乃は就職と同時に上京して、今や大学生の息子が二人いる母親だ。また記憶が混乱しているらしい。これ星乃にお願いされたの、と編みかけの黄色いマフラーを愛おしそうに撫でた。
「……星乃はもう社会人で、東京で就職して母親になったろ」
医者からは織子の話はなるべく否定せず受け入れるようにと言われているが、頑固な自分は上手く話を合わせることができなかった。いつか織子が記憶を取り戻すきっかけになるんじゃないか、そう思うとどうしても今の話を伝えたくなる。
織子はまた「そうだったかしら」と頬に手を当てて椅子に座る。ギィギィと前後に揺れながら優しく降り注ぐ陽の光に頬をゆるめる。
「そういえばお手伝いさん、今日は何時までいてくれるの?」
織子の瞳に移る自分がお手伝いさんになった途端、胸がすうっと冷えていく感覚した。ぎゅっと唇を結んで、背を向ける。織子は気にする様子もなく、編み物を再開した。
夕飯の支度をしていると、2階から頼りない声が自分を呼んだ。この場合は自分ではなく、お手伝いさんを呼んでいることになるのだろうけれど。
どうした、と尋ねながら階段を上がるとトイレの扉が空いていて、妻の織子が頬に手を当てて立っている。ズボンは最後まで上げきっておらず尻が見えていた。
「お手伝いさん。ちょっとお願いできるかしら。またおトイレが詰まっちゃったのよ」
やれやれと首を振った織子。みせてみろ、と便座をのぞき込むと介護用オムツがプカプカと浮いていた。
「織子……オムツは便器に流すなって何度も言ってるだろ」
ひとつ深く息を吐く。
「あら? そんなこと言ったかしら。ごめんなさいねぇ」
「もういい。とりあえず新しいの履くぞ」
「面倒かけるわねぇ、お願いしますね。お手伝いさん」
彼女の目に自分が夫ではなくお手伝いさんとして映るようになってた二年すぎた。診断を受けた直後の頃はたまに間違う程度だったが、最近は週に1度「博彦さん」と呼ばれればいいほうだ。
妻の織子は71歳、認知症だ。
三つ年上の自分が最初にガタがきてボケるだろうとは思っていたけれど、まさか織子の方が先だとは思ってもみなかった。
最近は症状の起伏も激しく、急に怒りっぽくなったかとお前ば前と変わらない織子に戻ったり、急に暴れ騒ぎだしてちょっとした警察沙汰になったこともあった。
ズボンを上げてボタンを止めてやれば「ありがとうございます」と他人行儀に微笑まれる。皺だらけで乾いた手を握り窓辺の椅子へ案内する。
「そうだ博彦さん。星乃が動物園に行きたいって言ってるんだけれど、今度はいつお休みが取れる?」
娘の星乃は就職と同時に上京して、今や大学生の息子が二人いる母親だ。また記憶が混乱しているらしい。これ星乃にお願いされたの、と編みかけの黄色いマフラーを愛おしそうに撫でた。
「……星乃はもう社会人で、東京で就職して母親になったろ」
医者からは織子の話はなるべく否定せず受け入れるようにと言われているが、頑固な自分は上手く話を合わせることができなかった。いつか織子が記憶を取り戻すきっかけになるんじゃないか、そう思うとどうしても今の話を伝えたくなる。
織子はまた「そうだったかしら」と頬に手を当てて椅子に座る。ギィギィと前後に揺れながら優しく降り注ぐ陽の光に頬をゆるめる。
「そういえばお手伝いさん、今日は何時までいてくれるの?」
織子の瞳に移る自分がお手伝いさんになった途端、胸がすうっと冷えていく感覚した。ぎゅっと唇を結んで、背を向ける。織子は気にする様子もなく、編み物を再開した。



