クロワッサンにメロンパン、明太フランスにピザパン。どこか懐かしさのあるラインナップが並び思わず目を細める。
思えば最近パン屋へ立ち寄っていなかったことを思い出す。同棲を始めた頃は毎週日曜日の朝は二人で車を走らせてパンを買いに行っていたけれど、めっきりなくなっていた。彼は彼女とパン屋へ行っていたんだろうか。
料理教室で教わったパン作りも、家で作っても上手く焼き上がらず、彼には「何それ?」と鼻で笑われたっけ。もちろん不出来なパンを彼が食べるはずもなく、毎回落ち込んではそのままゴミ箱行きだった。
また彼のことを考えてしまっている自分に気づき、無性に鼻がツンとした。目頭がかぁっと熱くなって、まずいまずいと天井をみあげる。
さっさと食べて店を出て、これからの事を考えなくちゃ。
鼻をすすってパンの並ぶ棚に目を落としたその時。丸いタレ目と目が合った。驚いて三回瞬きをする。パンが並べられたトレーの隙間に、小麦が立って自分を見上げていた。
「小麦?」
じいっと里奈を見上げたあと、小麦はくるりと背を向けた。器用にトレーの間をすり抜けて歩いていく。隣の棚に移ったところでまた振り返って里奈を見る。
「ついてこいってこと?」
首を捻りながら小麦のしっぽを追いかける。小麦は何度か振り返りながら、一番奥の棚にたどり着く。
「どうしたの」
小麦はゆっくりと瞬きをした。そして、つんつん、ぽとり。里奈が握るトレーの上には袋詰めされたクリームパンが着地した。
「え?」
「あーっ、すみません! この子、人のトレーにパンを落とすのが趣味らしくて……」
困惑しているとレジにいた店員が慌てて飛び出してきた。
「しかもクリームパン! 小麦ぃ、落としたら形が悪くなるからやめてって言ってるじゃん!」
がっくし肩を落とす店員をよそに、小麦は顔を舐めるのに忙しそうだ。すみません、すぐ戻しますね、とトレーからクリームパンを取ろうとした店員の手に、小麦の猫パンチが炸裂した。
「今日はなかなか好戦的ね?」
猫パンチした肉球を舐める小麦を恨めしそうに睨む店員がおかしくて、里奈はぷッと吹き出した。
「大丈夫です。これ頂きます」
「え、でも形も崩れかけてますし、せめて別の物に交換を」
「いえ。本当にこれで大丈夫です」
形が歪んでクリームが漏れたクリームパン。出来損ないの私にはピッタリじゃないか。
レジで会計をしていると、小麦がまた戻ってきた。買ったよこれ、とクリームパンを小麦に見せると、小麦は目を細めてにゃあんと答える。
まるで「それでいい」とでも言っているようだった。

外に出るともうすっかり夕日は沈んで、夜が始まっていた。
歩きながら袋をあけた。零れたクリームが袋に付いていて、苦労しながら少し取り出す。指で押すとふわりと沈み、すぐに元の形に戻った。表面はつややかで、ほんのりバニラ色。
「いただきます」
かじったあと、甘い香りがふっと鼻の奥に届いた。目の奥がじんわり温かくなって、胸の奥がわずかにほどける。
中からこぼれたカスタードは、とろりと光を放ちながら唇に触れた。柔らかくてまだほのかにあたたかくて、ほっとすると同時にどうしようもなく切なくなる匂いだった。
指先についたクリームをそっと舐め取ると、卵とバニラのやさしい香りが舌に残る。その甘さは、優しく抱きしめてくれた時の彼に少しだけ似ていて、思い出したように胸の奥が痛くなった。
二口目をかじると同時に初めて涙がこぼれた。少し冷めかけたクリームが舌の上でやわらかく広がる。甘さの奥にほんの少しだけ、焦げた砂糖の苦みが潜んでいた。
「あれ、おいし……」
思わずそう呟いて、笑ってしまった。潰れても、甘さはちゃんとそこにある。かたちを失っても、味は変わらない。ふふふ、と笑う声はやがて嗚咽に変わった。
彼に合わせるのが辛かった。大切な何かがどんどん失われていくような気がした。彼に罵られるのが怖かった。本当に自分がどうしようもない人間に思えてくるからだ。
確かに私は、彼の理想の女性像には届かないかもしれない。料理も下手だし可愛らしい服は似合わない。恋愛経験も少ないし、彼にとっては満足のいく彼女じゃなかっただろ。
でも、崩れたクリームパンはちゃんとクリームパンで、パンもカスタードもすごく美味しくて──だから私が出来損ないだったとしても、私は、私だ。
料理が下手でもいいし、派手な色が好きでもいい。ダメな部分があったっていい。
だって私は、私という一人の人間だから。
冷めた風の中、指先に残ったクリームをそっと舐め取る。その甘さは、ただやさしいだけじゃなかった。胸の奥に、小さく灯をともすような強さがあった。
うまくいかなくても、不格好でも、誰かに形を整えてもらわなくても、自分のままでちゃんと輝ける。
歩き出す足音が、少しだけ軽くなる。
「美容院、今からでも入れるかな」
潰れたクリームパンを食べながら、次に行く場所は決まった。