彼は少しずつ休みの日に家を留守にするようになった。次第に平日の夜も外で食べてくるようになった。広い部屋にぽつんと一人立ちつくす。彼が「騒がしいのは嫌いだから」と言って、白と黒で揃えられた家具。クローゼットの中には彼の好みの服。本棚の本は「邪魔になるから捨てて」と言われて、同棲する直前に半分以上を古本屋に売った。
この家には私がいない。そして私の中にも私がいない。彼が求める人物像に、私を重ね合わせているだけ。そう気がついた時には、もう何もかもが遅かった。
付き合って2年が経ったある日。その日は仕事で社外にでており思いのほか早く終わった上直帰を許可された。彼は今日日曜出勤の代休で家にいて、今朝、私が外回りで遅くなり夕飯が作れないかもしれないという話をすると不機嫌になってしまった。だから今夜は彼が好きなクリームシチューを作って、仲直りのきっかけを作りたい。スーパーに立ち寄って食材を買い込んでいく。
彼のお母さんはクリームシチューはルーは使わずいちから手作りしていたらしい。私も今日ばかりはそれを見習ってレシピ本と格闘しよう。
重い買い物袋を担ぎながら家の鍵を開けた。ただいま、と声をかけるよりも先に目に飛び込んできた女物のパンプスに思考回路が停止する。
彼のお気に入りのスニーカーの隣に並んだ赤いパンプス。もちろん自分の物のわけがない。だって派手な色は彼が嫌うから赤もオレンジも黄緑色も、この家に来る前に全部捨ててきた。
ゆっくりと廊下を歩いた。どどどと心臓が警鐘を鳴らすように拍動する。上手く息ができず浅い呼吸を繰り返した。廊下のフローリングを足を滑らすように進んでいく。
話し声は二人の寝室から聞こえてきた。
「こんなことして、里奈さんに怒られませんか? ……ッ、あ!」
「怒らないよ。あいつぼけっとしてるから気付きもしないと思うし」
「ひどぉい」と笑った女性の横顔は、先週の日曜日に彼と共に休日出勤していた同じ部署の後輩だった。
ギッギッとベッドが軋んで、話し声は吐息と嬌声に変わっていく。乱れた布団の真ん中に彼の背中が見えて、気付けば持っていた買い物袋を足元にドサドサととしてしまった。
授業中に叩き起された学生みたいに飛び跳ねて振り返った彼は、立ちすくむ里奈の姿に目を剥いた。
「な、お前……今日は帰り遅いんじゃ」
「里奈さん!?」
布団を胸に引き寄せ、慌てて枕元に追いやられたシャツを肩にかけた。やけにその光景を冷静に見ている自分がいる。
「お、お前が悪いんだよ! 個性もなけりゃ可愛げもない、ろくに飯も作れない出来損ないのくせに!」
ちょっと、と青い顔をした彼女が彼の腕を引っ張った。彼女にはまだ理性というものが残っていたらしい。
「出来損ないのお前なんて、浮気されても文句言えないよな!?」
素っ裸で顔を真っ赤にして必死に言い訳を並べる彼の顔を呆然と眺める。本当にこの男は、自分が恋をして好きになった男と同じ人物なんだろうか。
「わ、私帰りますね! すみませんでした里奈さん!」
「は!? お前が帰る必要ないだろ! 里奈が出ていけばいいんだよ! ほらさっさと出ていけよ!」
体は反射的に彼の言葉に従う。だってこれまで彼の言葉が全てで、彼の言葉が正しくて、私がそれに従えば彼は喜んでくれたから。
「ほ、ほら。こういう時でさえあいつは何にも言わないんだよ。人間としてどっかが欠落してんだ。出来損ないなんだよ」
蔑む声が背中に刺さる。少しくらいは何かを言ってやればよかったのにできなかった。本当に自分は、出来損ないなのかもしれない。
彼の言葉にただ従って、彼の好みに合わせる毎日。料理もできない、浮気されても文句ひとつ言えない。好きな色もない、好きな服もない。
私は、なんなのだろう。