士官学校・中庭。午前十一時四十二分。
試験終了のチャイムが鳴り終わり、二百名の候補生たちが一斉に廊下を埋め尽くしていく。
だが、プロートだけは足を止めていた。

中庭のベンチ。冬の陽射しが枯れた芝生を淡く照らし、風の隙間に遠い銃声の残響が漂う。
制服のまま腰を下ろしたプロートは、両手を膝の上で組んだ。
鉛筆の跡が指に残り、掌にはうっすらと汗の跡。
「……終わった」
小さくつぶやく声は、冷たい空気に溶けた。

背後から響く靴音。硬質な革靴の音。
オジェが立っていた。白い髪が風に揺れ、シルクのシャツの襟が立っている。
手には銀のサーモス。
「紅茶、淹れてきた」

プロートは少し驚いたように振り返る。
「……試験中、監視官でしたよね?」
「監視官は交代した。残りは事務処理だ」

オジェは隣には座らず、ベンチの背もたれに片手をかけて腰を預けた。
サーモスの蓋を開けると、白い湯気がゆらりと立ち上る。
「飲んで。冷めるから」

両手でカップを受け取ったプロートは、湯気の向こうに小さな紙片を見つけた。
蓋の裏、赤ペンの走り書き。

『答案、満点。記述式の最後の一文、僕の言葉を盗んだな。——けど、許す。』

プロートの頬が赤くなる。
「……盗んだんじゃなくて、教えてもらったんです」
「同じことだ」
オジェの声は、微かに笑っていた。

風が吹く。枯れ葉が二人の足元を転がっていく。
プロートは紅茶を一口。苦味が舌に残る。
けれど、不思議と心の中がゆるむ。

「オジェさん」
「なんだ」
「僕、撃たない選択——できました」
「……ああ」
オジェは視線を空に上げた。薄雲がゆっくり流れていく。
「しかし、現実はそう甘くない。次の実弾演習では、血糊じゃ済まない」

プロートはカップを握りしめたまま目を伏せる。
「……それでも、僕は——」
「知ってる」

オジェが初めて、プロートの方を見た。
冬の陽射しが白い瞳に反射し、その光が、わずかに柔らかさを帯びる。
「君は、守れる命を選ぶ。それでいい」

沈黙。
遠くから候補生たちの笑い声が響いてくる。
プロートは小さく息を吐いた。
「……腕立て、なしですよね?」
「ああ。代わりに——」

オジェはポケットから小さな包みを取り出す。
淡い音を立てて開かれた紙の中には、銀紙に包まれたチョコレート。
「試験後のご褒美だ。夜景の部屋で、食べな」

プロートの目が丸くなる。
「……オジェさんが、甘いもの?」
「……あ、うん」
オジェは少し目を背けた。だが、その耳は赤い。

プロートはチョコレートを一つ、そっと口に含む。
甘さがコーヒーの苦味と混ざり、胸の奥が温かくなった。
「ありがとうございます」
「……礼は、原稿で返す」
オジェはベンチから立ち上がる。
「次の授業、十三時からだ。市街戦の実弾演習——君は後方で観測役」
「……はい」

一歩、オジェが先に歩き出す。振り返らずに声を投げた。
「プロート」
「はい」
「夜、帰ったら——原稿、見せて」

プロートは静かに頷く。
冬の風が二人の背を押した。
試験は終わった。
だが、彼らの物語は、まだ始まったばかりだった。

ベンチの上には、空になったカップと銀紙の包み。
冬の陽射しを受けて、静かに光っていた。