士官学校の朝は、午前五時四十五分の起床ラッパで始まる。
寮の廊下は鉄の靴音で震え、窓の外にはまだ夜明け前の闇が残っていた。

プロートはベッドから這い出し、制服のボタンを一つずつ留めながら、鏡に映る自分の顔を睨む。
ダークブルーグレーの髪は寝癖で跳ね、瞳は昨夜の原稿の続きを書きすぎて赤く充血していた。
「今日も戦術演習か……」

隣の部屋からドン、と壁を叩く音。
「プロート、遅刻するぞ」
オジェの声だ。教官用の個室に泊まっているはずなのに、なぜか毎朝ここへ顔を出す。
白い髪を後ろに撫でつけ、ドアの隙間から覗き込む姿があった。
「五分で食堂集合。遅れたら腕立て百回」
「……了解しました」

食堂には無数の長テーブルが並び、士官候補生たちが無言でパンを齧っている。
プロートが席に着くと、オジェが隣へ滑り込んだ。
銀の警官章が朝の光を受け、鋭くきらめく。
「昨日の射撃訓練、命中率が落ちていたな」
低い声が耳に落ちる。
「銃口が震えてた。君、血の匂いが嫌いだからって引き金の手を止めるな」
プロートはスプーンを握りしめた。
「……すみません」
「謝るな。直すことだ」

朝食後、訓練場へ。
今日のメニューは市街戦シミュレーション。
煙幕が立ちこめる中、プロートは小隊長に任命される。
「プロート、指揮を取る」
教官の声がスピーカーから響いた。
喉を鳴らし、隊員たちに指示を飛ばす。
「右翼、建物陰に展開! 左翼は——」

その瞬間、演習用の血糊が飛び散った。
赤い液体が頬を汚し、鉄の匂いが鼻を突く。
視界が一瞬、歪んだ。
「……っ」
膝が震え、銃口が下がる。

白い影が横から滑り込む。
オジェだ。彼はプロートの銃を掴み、自分の肩に担ぐようにして立て直した。
「目を閉じるな」耳元で囁く。
「敵は血を見ない。君が見るんだ」
プロートは息を呑み、引き金を引いた。
ゴム弾が標的を貫き、演習終了のホイッスルが鳴る。

休憩時間。ベンチに座り、震える手を膝で押さえるプロートに、オジェが水筒を差し出した。
「……僕、向いてないです……」
「向いてない奴は、最初からここに来ない」
オジェは隣に腰を下ろし、珍しく制服の上着を脱いでいた。
シルクのシャツが汗で張り付く。
「君は戦場で人を撃つためにいるんじゃない」
「……え?」
「人を守るために、撃たない選択ができる人間になるためだ」

プロートは顔を上げた。
オジェは遠くの訓練場を見つめながら、静かに続けた。
「僕は、撃ちすぎた。だから——君みたいな奴が必要なんだ」

昼休み。静かな図書室。
プロートは戦術書を広げながら、膝の上に原稿用紙を隠す。
「……『夜の街に銀の影が立つ。血の匂いを嗅ぎながら、彼は——』」
ペンは止まらない。
背後から白い手が原稿を覗き込む。
「また書いてるな」
オジェの声。
「……だめ、ですか?」
「だめじゃない」
オジェは肩越しに、赤ペンで一行を書き加えた。
『だが、彼はもう一人じゃない。』

プロートは頬を赤らめる。
「……教官、今は演習の時間ですよ」
「僕は教官じゃない。今は、ただの同居人だ」

夕方。寮の屋上。
制服のまま空を見上げるプロートの隣に、オジェが立つ。
「明日の試験、戦術論だな」
「……はい」
「原稿、貸して」
プロートは原稿用紙を差し出す。オジェは無言で読み、時折赤ペンを走らせた。
「ここ、敵の補給線を切るタイミングが甘い」
「……小説なのに……」
「小説でも現実でも、同じだ」
風が二人の間を吹き抜ける。
プロートは小さく笑った。
「オジェさん、実は優しいですよね」
「……あ、そ」
オジェは顔をそむけたが、その耳はわずかに赤い。

夜。
ベッドに横たわったプロートは天井を見つめる。机の上には、赤ペンで修正された原稿と、一枚のメモ。

『明日の試験、僕が監視官だ。落ちたら腕立て五百回。受かったら、夜景の見える部屋で紅茶を淹れてやる。——オジェ』

プロートはメモを胸に抱き、目を閉じた。
士官学校の日常は血と硝煙の匂いに満ちている。
けれどその片隅で、白い髪の教官と、ダークブルーグレーの候補生が、
静かに、確かに、歩みを進めていた。