タクシー運転手である俺が毎日通る道がある。そこには、今時珍しい公衆電話ボックスがあり、暗くなるとあたりは人家もなく森の近くのため、そこだけぽうっと灯が灯る不思議な雰囲気を醸し出していた。一言で言えば、不気味だった。今時使用者もなく、ほとんど無視された公衆電話に存在意義を人々は見い出さない。しかし、珍しいことに、赤いスカーフで顔を隠した女を、ある時から目撃するようになった。その女の容姿は若く美しく思えたが、闇夜の中、暗い上に遠いこともあり、はっきりと顔までは見えなかった。スカーフで顔を隠しているけれど、何か必死というか怖い印象を持っていた。
前のめりで猫背の姿勢で公衆電話の受話器に何やら必死に食らいつく女は遠目で見てもどこか滑稽だが、なぜこんな夜にたった一人で公衆電話を使用しているのだろうか。そんな興味と疑問が沸いた。しかし、タクシーを呼んでいる様子もなく、電話ボックスから出る様子もない。つまり客でもない女を乗せる機会もなく、ただ印象深い存在として頭の片隅に刻まれていた。女は赤い色を基調とした色あいの服を好んで着ているようだった。全く同じものではないと思われるが、赤いワンピースや赤いスカートを主に着ており、それ以外のブラウスやTシャツも赤に近い色合いを好んで着ているように思えた。遠くから見ると赤だけがぽうっとまるで蛍の光の如く光って見えた。髪の長い女はストレートヘアで手入れをしているように思えた。ボサボサの幽霊のような存在とは全く違う印象だった。
ある時、女が初めて公衆電話のボックスからため息交じりに出てきた。ちょうどタクシーが通り過ぎる少し前のタイミングだった。少しばかり疲れた顔をしており、痩せこけているようだった。ストレスを抱えた会社員のような風貌だ。おそらく、20代後半くらいの年齢だと思う。おもむろに、女が手を挙げた。つまり、タクシーに乗りたいという意思表示を初めてした日だった。客を一人でも確保したい俺は快くタクシーを停めた。もちろん予約客もいないし、以前不気味な経験をした時のように勝手に予約という表示にもなっていなかった。
「どちらまで?」
「知らず町駅までおねがいします」
「こんな人気のない公衆電話ボックスに何か御用があったのですか?」
客のプライベートを聞くのも何かと思いながらも、少しばかり気になった。はかなげな美しさや華奢で線の細い体型は放っておけないような気がした。触れたら折れてしまうのではないかというくらい細い手足を見ると、栄養を取ってほしいと勝手に思っていた。個人的に痩せた女性が好みなので、赤い女の贅肉のない体は嫌いではなかった。そして、少しこけた頬も悪くないと思っていた。
「ある人と連絡が取れないのです」
困った顔をする。
「スマホ、持ってないのですか」
「非通知で電話をかけたいので、こちらに通っております。公衆電話だと非通知になりますよね」
「着信拒否ができなくなっていると聞いたことがありますね」
「たいていは、非通知って表示されるんだと思いますけど、通知不可能っていうのもあるみたいですよね。その場合は海外からの着信みたいです」
「そうなんですね。海外からだと、通知不可能と表示されるのですか」
女の声はか細い。きっとちゃんと食べていないのだろう。守りたくなると一瞬心が疼く。何考えているのだ。お客様だぞと自分に言い聞かせる。あの時みたいな怖い恋はもうしたくはない。ぎゅっと抱きしめたら骨が折れそうだ。そんな女に惹かれるなんてどうかしているのかもしれない。でも、きっと何か事情があるのだろう。
何かにいざなわれていつもこの公衆電話の前をタクシーで通り過ぎた。だいたいいつも同じ時間、夜の7時頃にここを通った。いつものローテーションだからと言ったら仕方がないが、客次第で同じ時間に同じ場所に来ることはタクシーの仕事では珍しい。ここ最近は、ぽうっと光る公衆電話にたたずむ女を見るだけでも芸術的価値があるような気がしていたのは事実だ。
「非通知と言えば、最近、通知不可能というのは俺のスマホにかかってきますよ。どうせいたずら電話か業者の勧誘だと思って出ないんです。まぁ、運転中にスマホを操作するのは重い罪になる時代ですし、ハンズフリーで会話するのならば罪にはならないみたいなんですがね。仕事中は極力個人のスマホを見ないようにしています。運転しながらじゃ危ないでしょ」
「海外からでしょうかね」
「どうせ怪しい業者に決まっていますよ。気にしないのがモットーです」
「前向きなんですね。私なんて、ずっと連絡が取れない彼にあえて非通知になるように公衆電話を使っているんですよ」
ずっと連絡が取れないから非通知って絶対ストーカーじゃないか。
相手が何かしらの理由で出ることができないのならば、堂々と番号を通知するだろう。だから、こんなに痩せこけているんだろうか。失恋を受け入れられないなんて、可哀そうな人だな。
「いつも、しつこいと嫌われるから、彼への電話は1日1回程度にとどめているんです。でも、今日は1分おきに44回ほどかけてみたんです。でも、やっぱり熱意が伝わらなかったのか、出てくれません」
この人、痛い人なのかもしれないな。いつも赤い服を着て、赤いスカーフを顔に撒いて顔立ちを隠してるし。真っ赤な口紅も重い女という印象だ。赤を好む女は、考え方が過激で自己主張が強い傾向があると色占いか何かで読んだことがあるな。少しばかり相手の男に同情する。きっと、彼女を傷つけずにそのままフェードアウトしたいと思っているのだろう。彼女に嫌っていることを察してほしいのだろう。でも、彼女の想いは一方的だ。たしかに、男視点から言えば、面倒なタイプな女だな。
「駅に着きましたよ」
「ありがとう。あなたと話ができてよかったわ。ずっと知らず町駅で待っていたの。でも、あなたはずっと現れなかった。嫌われたのか、私の何がいけなかったのかずっと疑問に思っていたの。私の何が悪かったの?」
声が最初とは違い、よく以前話した声に似ていた。
一瞬恋に落ちた下の名前も知らないOLの前野さんの声だった。
ミラーで確認すると、スカーフを取った彼女の顔は、車に乗った時とは別人の顔立ちになっており、怒りの形相に満ちていた。
多分、タクシーに毎日乗っていたであろう前野さんが後部座席に座っていた。
鬼とはこのようなものをいうのかもしれない。鬼の素は人間である。これは俺の持論だ。
鬼才、心を鬼にするとか、鬼の使い方は様々だ。鬼の元をたどれば人間に辿り着く。
「すみませんでした。俺にはあなたはもったいないと思って……」
「私はあなたの趣味をちゃんと調べて再会を果たした。あなたは赤色が好き。痩せた女性が好き。弱弱しい女性が好きだ。好みの女性像を作り上げた。毎日あなたに夜の7時に電話したのだけれど、履歴にない?」
おそるおそる着信履歴を見る。誰もかけてくる友人もいないため、個人のスマホの着信履歴など全く確認していなかった。仕事用ならばチェックはしていたが、個人のスマホにかけてくるのは通信販売の業者、リフォーム業者、買い取り業者くらいだ。
毎日運転中は通知音をオフにしていた。運転中に彼女は俺のスマホに毎日かけていたのか。そして、今日は44件1分おきにちゃんと着信があった。
「あなたの名前を聞いてもいいですか? まだ聞いていなかったから。好きになった人の名前くらい知りたいじゃないですか」
俺は着信件数を見て、頭がおかしくなったのかもしれない。妙に冷静に鬼の形相に対処する。これは、生存本能がそうさせたのかもしれない。
「前野零子」
「まえのれいこさんですね」
一息置いて質問する。
「あなたの両親は、もう、この世界にいないのでしょうか?」
「はい」
「前野零子さんはもう、この世にいない人ですか?」
「……はい」
「あなたには門限がある。つまり、あなたの両親はあなたが帰ってこないとずっとあの世で待っていますよ」
「まずい、そうだった。早く行かなきゃ」
「ご乗車ありがとうございました。両親に縛られずにどうかあの世で別な生き方をしてください」
そう言った後、前野零子はすうっと消えていた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
まるで、俺が独り言を言って、幻影を見たかのように。
俺がモテたのは後にも先にもこの世にいない女、一人だった。
前のめりで猫背の姿勢で公衆電話の受話器に何やら必死に食らいつく女は遠目で見てもどこか滑稽だが、なぜこんな夜にたった一人で公衆電話を使用しているのだろうか。そんな興味と疑問が沸いた。しかし、タクシーを呼んでいる様子もなく、電話ボックスから出る様子もない。つまり客でもない女を乗せる機会もなく、ただ印象深い存在として頭の片隅に刻まれていた。女は赤い色を基調とした色あいの服を好んで着ているようだった。全く同じものではないと思われるが、赤いワンピースや赤いスカートを主に着ており、それ以外のブラウスやTシャツも赤に近い色合いを好んで着ているように思えた。遠くから見ると赤だけがぽうっとまるで蛍の光の如く光って見えた。髪の長い女はストレートヘアで手入れをしているように思えた。ボサボサの幽霊のような存在とは全く違う印象だった。
ある時、女が初めて公衆電話のボックスからため息交じりに出てきた。ちょうどタクシーが通り過ぎる少し前のタイミングだった。少しばかり疲れた顔をしており、痩せこけているようだった。ストレスを抱えた会社員のような風貌だ。おそらく、20代後半くらいの年齢だと思う。おもむろに、女が手を挙げた。つまり、タクシーに乗りたいという意思表示を初めてした日だった。客を一人でも確保したい俺は快くタクシーを停めた。もちろん予約客もいないし、以前不気味な経験をした時のように勝手に予約という表示にもなっていなかった。
「どちらまで?」
「知らず町駅までおねがいします」
「こんな人気のない公衆電話ボックスに何か御用があったのですか?」
客のプライベートを聞くのも何かと思いながらも、少しばかり気になった。はかなげな美しさや華奢で線の細い体型は放っておけないような気がした。触れたら折れてしまうのではないかというくらい細い手足を見ると、栄養を取ってほしいと勝手に思っていた。個人的に痩せた女性が好みなので、赤い女の贅肉のない体は嫌いではなかった。そして、少しこけた頬も悪くないと思っていた。
「ある人と連絡が取れないのです」
困った顔をする。
「スマホ、持ってないのですか」
「非通知で電話をかけたいので、こちらに通っております。公衆電話だと非通知になりますよね」
「着信拒否ができなくなっていると聞いたことがありますね」
「たいていは、非通知って表示されるんだと思いますけど、通知不可能っていうのもあるみたいですよね。その場合は海外からの着信みたいです」
「そうなんですね。海外からだと、通知不可能と表示されるのですか」
女の声はか細い。きっとちゃんと食べていないのだろう。守りたくなると一瞬心が疼く。何考えているのだ。お客様だぞと自分に言い聞かせる。あの時みたいな怖い恋はもうしたくはない。ぎゅっと抱きしめたら骨が折れそうだ。そんな女に惹かれるなんてどうかしているのかもしれない。でも、きっと何か事情があるのだろう。
何かにいざなわれていつもこの公衆電話の前をタクシーで通り過ぎた。だいたいいつも同じ時間、夜の7時頃にここを通った。いつものローテーションだからと言ったら仕方がないが、客次第で同じ時間に同じ場所に来ることはタクシーの仕事では珍しい。ここ最近は、ぽうっと光る公衆電話にたたずむ女を見るだけでも芸術的価値があるような気がしていたのは事実だ。
「非通知と言えば、最近、通知不可能というのは俺のスマホにかかってきますよ。どうせいたずら電話か業者の勧誘だと思って出ないんです。まぁ、運転中にスマホを操作するのは重い罪になる時代ですし、ハンズフリーで会話するのならば罪にはならないみたいなんですがね。仕事中は極力個人のスマホを見ないようにしています。運転しながらじゃ危ないでしょ」
「海外からでしょうかね」
「どうせ怪しい業者に決まっていますよ。気にしないのがモットーです」
「前向きなんですね。私なんて、ずっと連絡が取れない彼にあえて非通知になるように公衆電話を使っているんですよ」
ずっと連絡が取れないから非通知って絶対ストーカーじゃないか。
相手が何かしらの理由で出ることができないのならば、堂々と番号を通知するだろう。だから、こんなに痩せこけているんだろうか。失恋を受け入れられないなんて、可哀そうな人だな。
「いつも、しつこいと嫌われるから、彼への電話は1日1回程度にとどめているんです。でも、今日は1分おきに44回ほどかけてみたんです。でも、やっぱり熱意が伝わらなかったのか、出てくれません」
この人、痛い人なのかもしれないな。いつも赤い服を着て、赤いスカーフを顔に撒いて顔立ちを隠してるし。真っ赤な口紅も重い女という印象だ。赤を好む女は、考え方が過激で自己主張が強い傾向があると色占いか何かで読んだことがあるな。少しばかり相手の男に同情する。きっと、彼女を傷つけずにそのままフェードアウトしたいと思っているのだろう。彼女に嫌っていることを察してほしいのだろう。でも、彼女の想いは一方的だ。たしかに、男視点から言えば、面倒なタイプな女だな。
「駅に着きましたよ」
「ありがとう。あなたと話ができてよかったわ。ずっと知らず町駅で待っていたの。でも、あなたはずっと現れなかった。嫌われたのか、私の何がいけなかったのかずっと疑問に思っていたの。私の何が悪かったの?」
声が最初とは違い、よく以前話した声に似ていた。
一瞬恋に落ちた下の名前も知らないOLの前野さんの声だった。
ミラーで確認すると、スカーフを取った彼女の顔は、車に乗った時とは別人の顔立ちになっており、怒りの形相に満ちていた。
多分、タクシーに毎日乗っていたであろう前野さんが後部座席に座っていた。
鬼とはこのようなものをいうのかもしれない。鬼の素は人間である。これは俺の持論だ。
鬼才、心を鬼にするとか、鬼の使い方は様々だ。鬼の元をたどれば人間に辿り着く。
「すみませんでした。俺にはあなたはもったいないと思って……」
「私はあなたの趣味をちゃんと調べて再会を果たした。あなたは赤色が好き。痩せた女性が好き。弱弱しい女性が好きだ。好みの女性像を作り上げた。毎日あなたに夜の7時に電話したのだけれど、履歴にない?」
おそるおそる着信履歴を見る。誰もかけてくる友人もいないため、個人のスマホの着信履歴など全く確認していなかった。仕事用ならばチェックはしていたが、個人のスマホにかけてくるのは通信販売の業者、リフォーム業者、買い取り業者くらいだ。
毎日運転中は通知音をオフにしていた。運転中に彼女は俺のスマホに毎日かけていたのか。そして、今日は44件1分おきにちゃんと着信があった。
「あなたの名前を聞いてもいいですか? まだ聞いていなかったから。好きになった人の名前くらい知りたいじゃないですか」
俺は着信件数を見て、頭がおかしくなったのかもしれない。妙に冷静に鬼の形相に対処する。これは、生存本能がそうさせたのかもしれない。
「前野零子」
「まえのれいこさんですね」
一息置いて質問する。
「あなたの両親は、もう、この世界にいないのでしょうか?」
「はい」
「前野零子さんはもう、この世にいない人ですか?」
「……はい」
「あなたには門限がある。つまり、あなたの両親はあなたが帰ってこないとずっとあの世で待っていますよ」
「まずい、そうだった。早く行かなきゃ」
「ご乗車ありがとうございました。両親に縛られずにどうかあの世で別な生き方をしてください」
そう言った後、前野零子はすうっと消えていた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
まるで、俺が独り言を言って、幻影を見たかのように。
俺がモテたのは後にも先にもこの世にいない女、一人だった。



