霧の朝、黒城の東塔はいつもより重かった。
青龍はマントの裾を翻し、石段を上っていく。足音はない。厚底のブーツが石を噛む音さえ、霧が呑み込んでいた。
塔の最上階、鉄の扉の前で足を止める。鍵は要らなかった。指先で軽く触れるだけで、扉はひとりでに内側へと開く。

「……また来たの」

タムシはベッドに腰を下ろしていた。白い髪が肩にかかり、灰色の瞳は窓の外を見据えたまま。少年の体は女のように細く、膝を抱える姿は人形めいている。
青龍は黙って部屋へ入ると、マントを脱いで壁に掛けた。裏地に走る青龍の鱗模様が、一瞬だけ灯りを受けて閃く。

「薬」

短く告げると、タムシはうなずいた。枕元の小瓶を取り、震える指で蓋を開ける。一錠を唇に含み、水もなしに喉の奥で溶かした。

「苦い?」
「……平気」

嘘だった。唇がかすかに歪む。それを青龍は見逃さない。ベッドの脇に膝をつき、少年の顎を軽く持ち上げ、翡翠の瞳で間近に見据える。

「顔色が悪い」
「霧のせい」
「俺の霧じゃない」

タムシは目を伏せた。白い睫毛が頬に影を落とす。部屋に漂う霧は確かに薄いが、それは青龍のものではなかった。黒城そのものが吐き出す、古い腐敗の気配。

青龍は立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。厚いガラス越しに見えるのは、果てしない灰色の空。東の空はいつもこうだ。希望の色を拒むように。

「今日も、出してくれないの」
「出さない」

青龍は振り返らず告げる。背に静かな力が宿っていた。
「だが、動けるなら庭までだ」

タムシの瞳がわずかに揺れる。庭——この黒城に、そんなものがあると聞いたことはなかった。

「嘘」
「試してみるか」

青龍は再びマントを羽織り、少年の腕を取った。驚くほど細い。冷たい体温が掌に滲む。

廊下は暗く、壁には古びた肖像画が並んでいた。どの絵も、目の部分が抉り取られている。霧が濃くなるにつれ、二人の足音は遠のいていった。

庭は、城の裏手にあった。
思いのほか狭い空間だった。石畳の中央に一本の枯れ木。根元にわずかな草が顔を出している。風もないのに、空気だけがわずかに揺れている。

タムシは枯れ木の前に立った。白い髪が静寂の中でゆらりと動く。
「ここが……」
「庭だ」

青龍は少し離れた場所に立ち、少年を見守る。タムシはゆっくりと膝をつき、指先で草に触れた。枯れかけてはいるが、まだ緑が残っている。

「生きてる……」

その声には、かすかな驚きが滲んでいた。
「霧はここまで届かない」

青龍の言葉は嘘ではない。この庭だけは、古い結界に守られている。誰が張ったのか、知る者はもういない。

タムシは草を一枚摘み取り、掌に乗せた。
「腐らない?」
「腐る」

青龍は横に膝をつき、摘んだ草を指先でつまむ。それはすぐに茶色く変色し、崩れた。
「だが、今は生きている」

タムシは静かに頷き、もう一度、草を摘む。今度は包むようにして。
「持って帰る?」
「……うん」

その声は震えていた。けれど、青龍にはそれが分かった。霧の感知能力は、希望の芽を決して逃さない。
だからこそ腐らせてきた。
——だが、今日は違う。

青龍は立ち上がる。マントの裾が石畳を擦った。
「もう十分だ。戻る」

タムシは草を手に、ゆっくり立ち上がる。まだ頼りない足取り。青龍は自然に腕を差し出し、少年は迷わずそれに掴まった。

帰り道、タムシがぽつりと尋ねた。
「明日も……来る?」

青龍は答えず、代わりに白い髪に触れた。霧がしっとりと纏わりつく。

塔の部屋に戻ると、タムシは草を枕元に置いた。すぐに枯れてしまうだろう。それでも、手を離さないまま、目を閉じる。

霧が再び部屋を満たしていく。けれど少年の周囲だけが、うっすらと晴れていた。

青龍はその寝顔を、長く見下ろしていた。
東の絶望は——その日だけ、希望を腐らせなかった。