ゆっくりと息を吐くと、空気が白く染まっているのを感じた。
雪の粒が、音もなく肩に降り積もっていく。
山道は険しく、足跡もすぐに吹き消された。
私は、黙々と雪山を登っていた。
革の外套だけでは寒さを凌ぎきれず、顔の感覚はもうほとんど残っていない。
それでも、止まる気はなかった。
後ろを振り返ることもないだろう。
この山を越えれば、『あの国』とは決定的に決別できる。
それが、今の私にとって唯一の希望だった。
――地図も、通貨もない。
あるのは、城を追い出されたときにまとめた私物と、薄汚れた鞄ひとつ。
もともと、旅人としての準備などしていなかったし、それでも私は一歩一歩、着実に進んでいた。
(……こんな場所、訓練でも通ったことないな)
岩と氷と崖しかない山道を、滑らないよう慎重に踏みしめながら登る。
まるで自分自身を試されているようだ。
ここを越えられるか――その資格があるのか、と。
その時、雪の向こうから人の気配がした。
道の先、岩陰に数人の影に粗末な鎧、脇差し、顔を覆う布。
この寒さの中、待ち伏せているというだけでそれなりの手練とわかる。
そして、彼らの目に映る獲物は――明らかに、私だろう。
「よう、姉さん。こんなとこで迷子か?」
一人の男が言いながら近づいてくる。
その腰には短剣、背には弓、笑顔の裏には油断のない殺気があった。
私は相手を見つめながら、何も言わずに鞄の紐を少し握り直した。
「道案内くらいはしてやるぜ? 通行料と、そこの荷物を置いてってくれりゃな」
言葉と同時に、周囲の盗賊たちがじりじりと距離を詰めてくる。
数は四人で全員、さびれているかのような剣を抜いている。
足元は悪く、逃げ道はない
だが、私は冷静だった。
(武器の持ち方が甘い。靴も山用じゃない。動きにくい服装……)
頭の中で一瞬のうちに戦闘評価を終えると、私はやれやれと息を吐いた。
「……はいはい、通行料な。どうぞ」
そのまま鞄を投げて、相手の注意を引く。
「おっ、素直で助か――」
言葉が終わる前に、私は地面を滑るように接近し、一人の盗賊の手首を極めそのまま肘へ体重をかけて折った。
「――っがァ!」
悲鳴と同時に、武器が転がる。
もう一人が斬りかかってきたが、私は低く身を沈め、そのまま相手の膝裏を蹴り砕く。
転倒した男に対し間髪入れず、喉元に手刀。
残りの二人は、たじろいで後退した。
明らかに、自分たちが狩られる側であると理解したのだ。
「っ、くそ、魔術師か……⁉」
「そんなモノじゃない……さっ!」
睨み返す私の目には、微塵の怯えもなかった。
私は一歩前へ出る。
「こっちはな訓練じゃ毎週こういうのやってたんだ。もう帰れ……次は折らない」
言い終える前に、盗賊たちは雪の中へ逃げ去っていった。
その背を見送り、私はふうっと息を吐く。
残された鞄を拾い上げ、また歩き出した。
「……この世界の『魔物』より、人間の方が怖いな、多分」
ぽつりと呟いた声は、氷の空に吸い込まれていく。
同時に山を下る頃には、日が傾き始めていた。
あたりの木々には霜が降り、遠くには小さな村らしき灯りが見える。
道を選んで歩いていると、不意に、前方から人の気配が現れた。
それは、一人の男だった。
黒い外套をまとい、長身で痩せ型。
顔の半分をフードに隠しているが、立ち姿にはどこか整った気品がある。
彼は私に向かって、一礼した。
「……こんばんは。お疲れ様です旅のお方」
その声は穏やかで、どこか芝居がかった調子すらあった。
私は距離を取りつつ、手を鞄に添える。
「用があるなら手短にお願いします」
「もちろんです。ええ、あの、これを見ていただければ」
男は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ふわりと差し出した。
それは、後に私の人生を大きく変えることになる、あの紙だった。
『家庭教師募集:年齢・性別不問。責任感ある方、歓迎。』
間違いなくこの紙は自分が見たのと同じ。
私は、ジッと男に視線を向ける。
男はにこりと笑う。
「もし、お仕事を探しているなら――面白い職場がありますよ」
何気ない一言だった。
けれど私の胸の奥で、何かがかすかに動いた。
警戒は残るし、希望はまだ遠い。
けれど、今の私は無職だから、仕事を探していた。
それなら――この一枚の紙から始めても、いいかもしれないと思いながら、案内されるまま足を動かした。
雪の粒が、音もなく肩に降り積もっていく。
山道は険しく、足跡もすぐに吹き消された。
私は、黙々と雪山を登っていた。
革の外套だけでは寒さを凌ぎきれず、顔の感覚はもうほとんど残っていない。
それでも、止まる気はなかった。
後ろを振り返ることもないだろう。
この山を越えれば、『あの国』とは決定的に決別できる。
それが、今の私にとって唯一の希望だった。
――地図も、通貨もない。
あるのは、城を追い出されたときにまとめた私物と、薄汚れた鞄ひとつ。
もともと、旅人としての準備などしていなかったし、それでも私は一歩一歩、着実に進んでいた。
(……こんな場所、訓練でも通ったことないな)
岩と氷と崖しかない山道を、滑らないよう慎重に踏みしめながら登る。
まるで自分自身を試されているようだ。
ここを越えられるか――その資格があるのか、と。
その時、雪の向こうから人の気配がした。
道の先、岩陰に数人の影に粗末な鎧、脇差し、顔を覆う布。
この寒さの中、待ち伏せているというだけでそれなりの手練とわかる。
そして、彼らの目に映る獲物は――明らかに、私だろう。
「よう、姉さん。こんなとこで迷子か?」
一人の男が言いながら近づいてくる。
その腰には短剣、背には弓、笑顔の裏には油断のない殺気があった。
私は相手を見つめながら、何も言わずに鞄の紐を少し握り直した。
「道案内くらいはしてやるぜ? 通行料と、そこの荷物を置いてってくれりゃな」
言葉と同時に、周囲の盗賊たちがじりじりと距離を詰めてくる。
数は四人で全員、さびれているかのような剣を抜いている。
足元は悪く、逃げ道はない
だが、私は冷静だった。
(武器の持ち方が甘い。靴も山用じゃない。動きにくい服装……)
頭の中で一瞬のうちに戦闘評価を終えると、私はやれやれと息を吐いた。
「……はいはい、通行料な。どうぞ」
そのまま鞄を投げて、相手の注意を引く。
「おっ、素直で助か――」
言葉が終わる前に、私は地面を滑るように接近し、一人の盗賊の手首を極めそのまま肘へ体重をかけて折った。
「――っがァ!」
悲鳴と同時に、武器が転がる。
もう一人が斬りかかってきたが、私は低く身を沈め、そのまま相手の膝裏を蹴り砕く。
転倒した男に対し間髪入れず、喉元に手刀。
残りの二人は、たじろいで後退した。
明らかに、自分たちが狩られる側であると理解したのだ。
「っ、くそ、魔術師か……⁉」
「そんなモノじゃない……さっ!」
睨み返す私の目には、微塵の怯えもなかった。
私は一歩前へ出る。
「こっちはな訓練じゃ毎週こういうのやってたんだ。もう帰れ……次は折らない」
言い終える前に、盗賊たちは雪の中へ逃げ去っていった。
その背を見送り、私はふうっと息を吐く。
残された鞄を拾い上げ、また歩き出した。
「……この世界の『魔物』より、人間の方が怖いな、多分」
ぽつりと呟いた声は、氷の空に吸い込まれていく。
同時に山を下る頃には、日が傾き始めていた。
あたりの木々には霜が降り、遠くには小さな村らしき灯りが見える。
道を選んで歩いていると、不意に、前方から人の気配が現れた。
それは、一人の男だった。
黒い外套をまとい、長身で痩せ型。
顔の半分をフードに隠しているが、立ち姿にはどこか整った気品がある。
彼は私に向かって、一礼した。
「……こんばんは。お疲れ様です旅のお方」
その声は穏やかで、どこか芝居がかった調子すらあった。
私は距離を取りつつ、手を鞄に添える。
「用があるなら手短にお願いします」
「もちろんです。ええ、あの、これを見ていただければ」
男は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ふわりと差し出した。
それは、後に私の人生を大きく変えることになる、あの紙だった。
『家庭教師募集:年齢・性別不問。責任感ある方、歓迎。』
間違いなくこの紙は自分が見たのと同じ。
私は、ジッと男に視線を向ける。
男はにこりと笑う。
「もし、お仕事を探しているなら――面白い職場がありますよ」
何気ない一言だった。
けれど私の胸の奥で、何かがかすかに動いた。
警戒は残るし、希望はまだ遠い。
けれど、今の私は無職だから、仕事を探していた。
それなら――この一枚の紙から始めても、いいかもしれないと思いながら、案内されるまま足を動かした。



