最初に彼女を見たとき、思った――この人は、どこにも属していない。

 召喚の間、玉座の上から光が降り注ぎ、僕たちは神の加護を授かった。
 亜蓮(あれん)君は剣を掲げ、理奈(りな)さんは光の粒をこぼすように笑っていた。
 王も、兵士も、歓声を上げた。
 その中で、彼女――藤堂美咲(とうどうみさき)だけが、微動だにしなかった。
 何も手に入らなかったくせに、敗北の顔をしていなかった。
 泣かず、怒らず、ただそこに立っていた。
 まるで、もともとこの場に呼ばれることを知っていたみたいに。
 僕はその時、妙に気になった。
 誰よりも地味で、誰よりも静かな女。
 でも、どこか現実の匂いがした。
 神も、加護も、希望も――全部知った上で、それを拒絶しているような。
 そんな人間、初めて見た。

   ▽

 勇者隊に配属されてからも、彼女は変わらなかった。
 他の召喚者たちは浮かれていた。
 異世界で、魔法を使えるようになって、王に褒められて。
 それを当然のように享受していた。

 でも彼女だけは、常に何かを警戒していた。

 誰かが笑えば、目を細めて観察し、
 誰かが剣を振れば、姿勢の癖を見抜く。
 誰かが泣けば、何も言わずに背中を叩く。
 無関心なようでいて、全部見ていた。
 僕は――その目が好きだった。
 他人を測るようでいて、どこか寂しげで。
 世界を見下ろしているくせに、自分だけは【下】に置いているような目。
 あの目に、僕が映った時。
 なんだか、自分という存在が【現実】になった気がした。

   ▽

 訓練の日。
 亜蓮君が勝手に突っ込んで、模擬戦の結界を壊した。
 僕は、少し離れた位置で見ていた。
 火の粉が舞い、兵士たちの悲鳴が上がる。
 あれは、混乱というより【事故】だった。
 けれど、誰よりも早く動いたのは、美咲さんだった。
 血を流して倒れた兵士に駆け寄り、布を裂き、圧迫止血をしていた。
 その表情は、まるで戦場に戻ったみたいに冷たくて――美しかった。
 手が震えていた。
 でも、それでも止めようとしない。
 口元が少しだけ引きつって、それでも、目だけは真っ直ぐだった。
 あのとき僕は、心臓が動く音をはっきり聞いた。

 ――ああ、この人は、壊れてるんだ。

 そう思った。
 壊れてるのに、必死で保とうとしてる。
 まるで壊れてないふりをすることでしか、生きられないみたいに。
 そういう人間に、僕は惹かれる。
 人が壊れていく瞬間って、綺麗だと思う。
 理奈さんの光の魔法より、ずっと綺麗だった。

   ▽

 その日を境に、美咲さんは勇者隊から外された。
 「士気を下げた」「無能」「足手まとい」――そんな理由で。
 兵士たちはざわつき、理奈はほっとした顔をしていた。
 亜蓮は「せいせいした」と言い、茜は何も言わなかった。
 僕は笑った。
 あの人がいなくなると聞いて、心のどこかで嬉しかった。
 やっと、観察する側から見守る側になれる気がしたから。

 でも、いざ本当に出て行く姿を見た時――少し、息が詰まった。

 荷物をまとめた小さな背中。
 何も言わず、誰にも頼らず、ただ歩いていく姿。
 その歩幅はゆっくりで、でも一度も迷わなかった。

 亜蓮君が冷たく言い放ったときも、彼女は笑った。
 あの笑い方、怒りでも哀しみでもない。
 ただ「そうなることを分かっていた」人の笑い方。

 ――だから、あの瞬間、僕は心の中で叫んだ。

 ――行かないで!

 でも、声にはならなかった。
 代わりに、心の奥で何かがひび割れる音がした。

   ▽

 夜、美咲さんの部屋に行った。
 もう誰もいない部屋。
 机の上に置かれた書状と、折り畳まれた上着。

 彼女の匂いが、まだ残っていた。
 焚き火の煙と、鉄と、古い革の匂い。
 温度のない残り香が、やけに生々しかった。

「……嘘つきだな」

 呟いた。
 『傍にいる』とは言わなかったくせに、そんな気配を残していく。
 僕の頭の中では、まだ彼女の声が響いていた。

 ――「私は死なない。ただ、ここじゃ生きられないだけだ」

 なんでそんな風に言えるんだろう。
 誰に向けて言ってるんだろう。
 まるで、自分の死に場所を探してるみたいな言い方じゃないか。

 胸の奥が、じくじくと痛んだ。

 怖い。
 けど、見たい。
 あの人がどんな風に壊れていくのか、ちゃんと見届けたい。
 そう思ってしまった自分に、心底ゾッとした。
 でも、それでも止まらなかった。