軍を辞めたら勇者召喚に巻き込まれ、異世界で魔王の息子を育てることになりました

 夜の余韻が、まだ空気の中に残っていた。
 焚き火の赤い火はとうに消え、灰になった木片だけがわずかなぬくもりを残している。
 夜露に濡れた野草が、私の足元でやわらかく揺れた。
 その上に、すとん、と小さな鞄を置く。

 ――やっと、朝か。

 息を吐いて見上げた空には、二つの月が浮かんでいた。
 一つは銀色で、透き通るように美しい。
 もう一つは赤銅色で、どこか血のように鈍く光っている。
 この世界では、それが「普通」なのだろう。

「……きれいだな。ここにも、朝は来るんだな」

 思わず声に出していた。
 その呟きは誰にも届かず、薄明の空に溶けていく。

 昨夜、城を出てからは一言も喋っていない。
 誰かと別れの言葉を交わす気にもなれなかった。
 ただ歩いて、野営地を見つけて、火を焚いて、少しだけ横になった。
 眠れなかった――火の音が消えたあとの沈黙が、耳の奥に痛いほど響いている。
 夜は長く、冷たく、妙に静かだった。
 城の喧騒や人の声があった頃が、まるで遠い昔のことのように思える。

 それでも――。

(……生きてるだけ、まだマシか)

 そんな言葉が自然に浮かんだ。
 小さく自嘲して、鞄の紐を締め直す。
 背に背負い直し、肩を軽く回す。筋肉が冷え切っていて、関節がぎしりと鳴った。

 さて、歩こう。
 そう思った瞬間――ふわり、と風に何かが舞い降りた。

「ん?」

 乾いた紙の音が耳から聞こえた。
 地面にひらりと落ちたのは、一枚の羊皮紙。
 拾い上げてみると、黄ばんでいて、端が少し焦げている。
 それでも、文字ははっきりと読めた。

 ――『家庭教師募集』。

 思わず眉を上げた。
 この世界にも求人広告なんてあるんだな、と。

 さらに読み進める。

 *年齢・性別不問。責任感ある方、歓迎。
 *給与応相談。住み込み可。
 *興味のある方は封蝋を押印し、返信を。

「……責任感、ね」

 小さく笑ってしまった。
 今さら、そんな言葉を自分に当てはめる人間なんて、どこにもいないと思っていたのに。
 裏返すと、赤い封蝋が目に入る。
 押された紋章は、見たことのない意匠だった。
 二枚の翼が円を描くように重なり合い、黒く、鋭く尖っている。
 羽根というより、刃のようだった。

「……変わった紋章だな」

 そのときの私は、まだ知らなかった。
 この紋章が『魔王国』の王家を示すものだなんて。
 だが、そのときの私にとって、そんなことはどうでもよかった。

 ただ――【仕事】がある。
 その一点だけが、心を動かした。

 地面に目を落とす。
 破れかけたブーツ、擦り切れた袖。
 ここには軍も、階級も、命令もない。
 私はもう、誰の部下でもなければ、誰の味方でもない。

 それでも。

「……仕事は、仕事だ」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。
 もう誰にも命令されない。
 誰かのために戦うとしても、それは私自身の意思で決める。

 今度こそ、自分の足で立つために。

 紙をゆっくりと折り畳み、鞄の中にしまった。
 朝の風が吹く。
 冷たい空気の中に、草の匂いと、どこか懐かしい焦げの匂いが混じっていた。
 東の空が、淡い橙に染まり始める。
 夜の名残を追い払うように、光が少しずつ地面を照らしていく。
 私は顔を上げた。
 目の前には、まだ何もない広い道。
 誰もいない、けれど確かに続いている道。

「……行ってみる価値はあるかもな」

 独り言のように呟き、歩き出す。
 小さな鞄の中で、羊皮紙がかすかに鳴った。

 新しい街へ。
 見知らぬ世界へ。
 そして――やがて私を【家族】と呼ぶことになる、あの奇妙な子供のもとへ。

 運命は、もう静かに動き始めていた。
 たった一枚の紙切れが、その扉を開くきっかけになるなんて――あの時の私は、知る由もなかった。