静かな夜だった。
 窓の外では、城下町の灯が遠く瞬いている。
 昼間の訓練の騒ぎが嘘のように、今はただ静寂だけが部屋を満たしていた。
 私は小さな鞄を机に置き、黙って布を畳んでいた。
 寝巻きも、戦場で拾った癖のある生活用品も全部まとめて袋に押し込む。

 ――扉を叩く音、その静けさを破るように重い声が響いた。

「入るぞ」

 そこに立っていたのは王の側近である、宰相バルザックと言う男だった。
 鎧の金属音が、石の床に鈍く反響する。

「お前は役立たずの存在となった」

 乾いた声、その言葉は刃より鋭く感じた。

「明日から勇者たち……いや、この国を離れよ。これは王命である」
「ああ、了解した」

 書状が机の上に置かれる。
 『士気を下げた』『戦意を阻害した』――まるで判決書のような文字。
 私は一言も反論しなかった。
 ただ、それを見下ろし、素直に受け取る。

「何か申し開きはあるか?」
「ないよ。国の方針なら従うしかないからね」

 怯えも怒りもなかった。
 ただ、静かに受け入れた。
 その姿がかえって気に障ったのか、バルザックは鼻で笑う。

「ふん……年増の女に勇者の補佐が務まると思った我々が愚かだったな」

 吐き捨てるように続けた。

「無駄に冷静ぶって若者の士気を削ぐ。年齢だけ重ねて中身は空っぽ。剣も振れず、魔法も使えず、戦場で役にも立たん――お前は、この国に不要な荷物だ」

 侮蔑と倦怠の混じった声。
 けれど、私はまばたきひとつしなかった。

「……そうか。荷物なら早めに下ろして正解だな」

 皮肉でも挑発でもない。
 ただ、事実を言っただけだ。
 バルザックは眉をひそめ、吐き捨てるように言い残した。

「二度とこの城の敷居を跨ぐな。平民の世話でもして生きるがいい」

 重い扉が閉まり、冷気だけが部屋に残った。
 私はふっと笑った。

「役立たず、か……まぁ、わかってたけどね。戦いになるなら、負ける気はしなかったんだけどな」

 独り言を落とし、背伸びをする。
 窓の外を見ると雲を裂いて月が浮かんでいた。
 戦場の夜とは違う――今度は、自分から離れていける夜だ。

(また、失うのかな……)

 一瞬だけ胸が刺すように痛んだ。
 けれどすぐに息を整える。

(生きてるだけ、まだマシだ)

 鞄の紐を締めた時、外の廊下で足音がした。
 振り向くと、亜蓮が立っていた。

「よかったな、ババア。これで足手まといがいなくなる」

 そこには少年特有の傲慢な笑み。
 けれど、どこかに焦りの影が見えた。

「……ああ。あんたたちの【戦場】がどんな場所か、すぐわかるよ」
「何っ……」
「そして、自分が愚かだったって言うのも、すぐにね」

 一応、忠告のつもりだった。
 亜蓮は舌打ちし、何も言わずに去っていった。
 その背を見送る影の中に、銀髪の青年が立っていた。
 以前、声をかけてくれたあの青年だ。

「……あなたのような大人が、この国には必要だったのに」
「私はただ、年を取っただけですよ……ええっと」
「私はエルディス。この国の第二王子だ」
「お、王子様でしたか。すみません」
「ああ、固くならなくていい。本当にすまない……しかし、私には止める権利がない」

 申し訳なさそうに言う彼に、私は淡く笑った。

「年を取れば、誰だって何を守るか選ぶようになります」

 エルディスは黙り、深く頭を下げて立ち去っていった。
 廊下に灯る火が、心細く揺れる。

 ――その時、駆け足の音。

「美咲さん!!」

 息を切らして望が飛び込んできた。
 目には涙がにじんでいる。

「……もう寝る時間だぞ、望」
「嘘だ!出ていくって聞いた!本当なの!?」

 そのまま抱きつかれた。
 強く、強く、まるで腕の中から逃げられるのを恐れるように。

「傍にいてくれるって言ったじゃない!」

 私は苦笑する。

「うーん……言った覚えはないんだけどな」
「言ったよ! 言ったのに……!もっともっと美咲さんが壊れていくの、見たい!」
「……望、それはだいぶズレてるぞ」

 指がぴくりと動く。
 望は無邪気な声で笑い続けた。

「だって、あの時の顔、すごく綺麗だったもん!泣きそうで、でも笑ってて……もっと見せてよ、美咲さんが壊れてくの! 僕だけにさ!」
「聞かなかったことにしておくな、望」

 私は両耳を軽く押さえる。
 望は笑いながら体を揺らし、まるで遊んでいるようで――どこか壊れていた。

「……まったく、どうしてこうも手のかかる子ばかりなんだろうな」

 頭を撫でると、望はますます強く抱きしめてきた。
 その腕には、子どもの甘えではなく、独占欲が滲んでいた。

「もう遅い。泣くな、望」
「でも……!」
「私は死なないよ。ただ、ここじゃ生きられないだけだ」

 望は涙を拭い、かすれた声で呟いた。

「……絶対に、美咲さんを取り戻すからね。誰が邪魔しても、どこに逃げても――絶対に!」

 その言葉には、幼さと狂気が同居していた。
 私は淡々と、呆れたように返す。

「いや、求めてないから大丈夫だぞ、望」

 それでも彼は笑った。
 けれど、目は笑っていなかった。
 私はその顔を見つめ、最後にひとつだけ呟いた。

「望を置いていくのも怖いが……この歳で無職は、きついなぁ」

 そう言って私は鞄を肩にかけ、静かに部屋を後にした。